ぼたんの花

ぼたんの花

2005/11/20
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20年くらい前に読んだ本をもう一度、読んでみた。

俳優の木村功さんが、癌で亡くなられ、奥様の梢さんが書かれた本。
俳優座を退団して、自ら”劇団青俳”を結成したが倒産してしまう。
そして多額の負債を抱えてしまう。仲間内の使い込みが原因。


「功が死んだら私も死のうと思っていた。」木村功さんと交際した直後から結婚してからも、ずっとそう思い続けてきた、と言うのだから梢さんの功さんに対する愛情の深さがわかる。


劇団が倒産した時も、「功が、病気で死んでしまうことを考えれば、ちっとも不幸なことではない。」
と言ったとか。。。三人の子供がいても、梢さんにとっては木村功さんがいなければ、この世には未練などはないようだ。それほどまで、”惚れて”しまい、それが30年以上も同じ気持ちを持ち続けられるということは、木村功さんの外見だけではなく、人間的な魅力にあるのだろう。


夫婦で外出する時は、必ず、木村功さんの選んだ洋服を見て、梢さんは、咄嗟に自分の着るものを選ぶ、という具合に俳優である夫に自分を添わせている。
この本を読んでいると、随所に梢さんが、どれほど功さんに惚れているかがわかる。愛している、とかいう西洋風の愛ではなく、日本古来の女性の愛の形、表現するなら、愛している、ではなく”惚れてしまった”という言葉のほうが適切な表現。





今回、何故、もう一度、読んでみようか、と本棚から古い本を出したかというと、原爆関連の本を何冊か読んだ中に、木村功さんのご両親も広島でヒバクされた、と書かれていたからだ。

”功、大好き”を当時読んだ時は、あまりのご夫婦の仲良さ、そしてそのパートナーを癌で亡くすことの辛さ、というものだけが頭に残り、はたして原爆のことなど、この本に書いてあっただろうか、もう一度、読んでみようと本を読むと、確かに原爆のことも2ページほど書いてある。

学徒出陣で、九州の航空基地、特攻隊基地に配属され、その時に終戦をむかえる。ご両親は、この時、広島でヒバク、お父様は数日後に亡くなり、お母様は、原爆症に苦しみながら、数年後に亡くなる。

この本には、あまり詳しく触れていないが、確かに書いてあった。

私が、この夏に読んだ、”ヒロシマはどう記録されたか”という本で、NHK、中国新聞、その他の報道機関の記者やアナウンサーの記録が載っている。
その中に書いてある、戦後、35年経ってのNHKの番組”爆心地のジャーナリストたち”という番組のリポーターとして木村功さんが選ばれた時の話。

広島、長崎でヒバクをされた方、その家族の方の殆どが、あの日の出来事は語らない、語りたくないという人が多く、木村功さんもその1人で、演劇などの公演も広島は、意識的に避けてきたという。

「広島のことは語るつもりはないし、広島に二度と足を踏み入れたくない。自分の劇団の巡業も広島公演だけは避けている。」と言い、NHK広島の番組出演の要請を断わり続けたという。


35年経った広島で、木村さんはリポートをする。

「当時、私は北九州の海軍特攻隊基地で、下士官として、通信隊の仕事をしていました。通信隊ですから、広島が特殊爆弾で全滅したという情報は、早い段階でキャッチしていました。しかし、状況から判断して、郊外に家があったわが家は、多分大丈夫だろうと甘く見ていました。

それだけに、終戦直後広島の帰り着いて見た、広島市内のあまりの惨状と両親の被爆はショックでした。それ以来、自分にはもう故郷はないんだと思い込もうとしてきました。(中略)



おそらく、今回紹介した何人かのジャーナリストの人々も、同じ思いだったに違いありません。たまたま運良く被爆を免れ、劫火の中を、誰も助けることもできずにさまよい歩き、地獄絵を目撃した、そんな人々が、そのとき目撃し、記録した事を今語り、書き続けているのを知り、私は本当に感動しました。


私達は、この方々の痛みと怒りをこめたこれらの写真を、いまこそ直視しなければと思うのです。戦争の足音が聞こえてくる状況の中で、全世界、全人類のために、原水爆に対して、まっとうな審判が下されなければならないのではないかと思うのです。」


その後の秘話で、木村功さんは、敗戦翌日、海軍特攻隊は、玉音放送を聞いても敗戦を認めず、下士官である木村さんと他、数人に呉鎮へ兵器受領に行け、という命令が下る。

汽車で呉を目指すが、広島市内に入ると汽車は動けず、その汽車の窓からの景色は、自宅のそば、胸騒ぎがして汽車から飛び降り、そのまま脱走同然に家に帰る。その途中で、自分の前を歩いている人の背中、家の後片付けをしている人の背中に、灰がたまっているのが印象に残っているそうだ。この灰が問題なんですよね。

この話は、今まで誰にも話さなかったとか。





この当時、「海軍原爆調査団」で、調査団に志願したのは、広島出身の人が殆どだったという。機上から広島の惨状を見て、飛行場に着陸し、その足で、家族の安否を確かめに団を抜け出し、調査団は、広島についた途端に解散となってしまう。木村功さんだけではないのだ。



今回、広島、長崎に関連する本を何冊も読んだけれど、広島、長崎、出身の海軍の軍医殿、現代のエセウヨクとは違って、海軍で鍛えられた筋金入りの右翼である海軍の軍医殿たちは、ヒバク者たちの病状の日本の医師による研究、発表、診断書、論文を取り上げ、GHQに許可を得ていない日本の医師の診察を一切、禁止したGHQ、そしてモルモットのように扱った今の放射線影響研究所の
前身であるABCCの、治療は一切せずに原爆の影響だけの統計を取り続けた進駐軍に、果敢にも立ち向かい、地道にヒバクシャたちの治療や相談を受け、占領軍に阿る事もなく、ヒバクシャの治療、診断、自らも、ヒバクしながら戦った軍医殿がいる。


その中の1人が、先日、イラクでヒバクしたマシューさんの診療もされた、”内部被曝の脅威”を書かれた、我らが英雄、肥田舜太郎先生です。



「」内は、「ヒロシマはどう記録されたか」NHK出版(2003年)より引用




*学徒出陣で、九州の空軍基地へ特攻隊として配属され、

     を
     ↓

学徒出陣で、九州の航空基地、特攻隊基地に配属され、

     に訂正しました 11/21PM8:00





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Last updated  2005/11/21 02:04:23 AM
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