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あーたんの死を知ってから、ずっとこうやって、日記にあーたんを綴っている。俺自身の感情を吐き出して、悲しみを表に出した方が俺が楽だろうと多くの人は考えているだろうし、そう言われたしね。
書けば書くほど悲しみは増大するんだ。
自分の中に収めてしまったほうが全然楽。てか、普通そうする。
でも、俺は自分を引き裂いてでも、自分の知っているあーたんを綴ろうと思った。
最近ずっとコメントにレスしてなかったのだけど、あーたんに関する事は全部返事してやろうと思った。
あーたんを知らない人の記憶のどこかにも何らかのあーたんを刻んでやるんだ。
もちろん彼女の遺言にしたがっているというのもあるのだけど、この世にあーたんの事を伝えてあげられる人が俺しかいないのは事実なんだよね。
あーたんが身寄りがなかったというのもあるのだけど、リアルでは数人の人にしか覚えてもらえないだろう。普通は時間とともに記憶は薄れるのかもしれない。
俺ももう少しだけは生きると思うけど、残された時間がたくさんあるわけではない。
死はいつか万人に与えられる。いつ死ぬかは自分では決められない。自殺を図ったって失敗の方が多いんだしね。自分の子に自分より先に死んでほしくないと思う気持ちは自然だけど、先に死なれてしまった親なんて大勢いる。しょうがないよ。残酷だけど、命の時間は天が決める事だもん。
事故や衝動的な自殺なんかを無視して、寿命まで生きたとしても、アーティストとして感覚が生きている時間は、それほど長くないと思う。
別に悔いはない。みんないっしょだ。時間はものすごいスピードで過ぎ去って、死んでいく。
そして、死んだら次第に忘れられていく。
その存在を覚えている人すら死んだら、もうなかった事になってしまう
俺に限らないと思う。一番恐ろしいのは死ぬ事ではない。
自分の存在が誰からも"特別"ではなくなる事だ。
肉体が生きていても幽霊のような存在になってしまう事こそが怖いのだと思う。
人間の存在の本質は一元的ではなく二元論だと俺は考えているのだろう。
俺は確かにこれからずっと物理的には独りで生きていく。
だけど、家族がまわりにいる人の中にも、ひとりぼっちの人はいっぱいいると思う。
いくらまわりに家族や同級生が大勢いたとしても
自分の存在を特別に思ってくれない人ならば、それはやはり自分の存在価値が見出せないだろう。とても孤独だと思う。
俺のように家に帰っても一人ぼっち、妻もなく子供もいないという物理的な孤独に比べれば、観念的な孤独な人の方が寂しいだろうなと思う。
寂しい人に限って、どんどん天邪鬼になっていく。世界が狭いからどんどん閉じていってしまう。
俺もそうだったかな。(今は若い頃より、もう少し社交的だとは思うけども)だから俺はアーティストになった。自分の存在価値を自分自身ではなく自分の分身に求めたのだと思う。
魂の存在価値が見出せなければ、肉体の存在価値なんて見出せるわけがない。
ずっと昔、僕の娘として生まれてくるはずだった女の子に
僕は玲瓏(本来はれいろうと読む)という名前を用意していた。
残念ながら、僕はその娘の顔を見る事はできなかった。
玲瓏は僕が一番好きな言葉だ。意味は「きらきら輝くありさま」
尊敬する山頭火と同じように、僕は魂を宝石の様なものだと考えているのだろう。