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楽天ブログに出しゃばる時間がない…。『秋』のせいだ。絵なんて年中描けるのにもかかわらず やたら『秋』に絵画展を開催しようとする。この風習は一体何なんだ!?まぁでもこんな機会がないと私も絵を描く時間をとらないことも確かだ。ここはひとつ 『秋』に便乗しようかとも思ったりする。この絵は明らかに制作途中である。もうやめてしまおうか…と考えたり、やっぱり最後まで描かなきゃならん!と思ったりなんだかんだしている間にここまできた。病院ネタは書きたい気もあるが 自分の中でまだおさまっていない憤りみたいなものがあってここに書くことができないでいる。とりあえず 描きかけの絵をUP。右側の赤玉葱がまだ途中…。これを完成させないことには秋の展示会に出品できないことになる。とりあえず明日からまたアトリエにこもってやるしかない。あと5日。仕事がある日を除いたら正味2日。非常にヤバイ状況をつくったのは他の誰でもない自分なのだ。この際 『習作』ってことで展示してもいいか…。
Oct 20, 2008
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以前 記事をここで公開していた頃は、なんだかものすごい仕事に関しての強い責任感みたいなものを感じていたことは確かだ。それが自分の性格だということは 実はごく最近気づいた。(今頃!?)アメブロで記事を書いていても すぐにその系統のネタになる。なぜならそれが自分の生活の大部分を占めているからだろうな。アメブロではほとんど医療系のネタは書かないことにしている。…というか 書けない!!(笑)だってみんな聞いちゃいないからだ。ペタ(足跡)だとかコメ返しに必死になって1日の数時間を使うのだ。そんな他人の仕事の内容なんて知ったこっちゃない。そんなふうに言われている気分にさえなる。 ↑ 被害妄想と言われそうだがここで話しておこうと思うことは アメブロでの自分のネタについてである。…そう、1年前のある日突然に『漫画』が読みたくなったのだ。とにかく続きモノで、そして今はきっちり完結しているもの。そして世の中で何かしら物議をかもしだしているもの…。1日中 中古本屋を行ったり来たりして見つけたモノが 『 DEATH NOTE 』読んでいる方はご存じだと思うけれど この本は1~12巻まである。本編は12巻まで。13巻はHOW TO READ 14巻はアニメ解説本そして小説に至っては 『ロサンゼルスBB連続殺人事件』と『L Change The World』がある。そして皆が知っている映画の『DEATH NOTE』と『DEATH NOTE The Last Name』『L Change The World』→これをLcWと略すのがなぜか当然のようになっている。そしてわかる方には説明は不要だが、原作の漫画と映画は内容が少し異なりラストも違う。ここで私がこの『DEATH NOTE』を面白いと思った理由は主人公である月(ライト)をまるでスポットライトが当たらないと感じるほどに異様なL(エル)の存在感である。この二人の人を食ったような頭脳戦、相手の腹を探るために発する言葉全てが私のヒマな頭にスコーンと入ってきたのだ。主役を食うほどのこの男はなんだ!?特異な風貌と的確であり無謀とも感じ取れる発言には度肝を抜かれる。そこで 元来カウンセリングに興味があった私は臨床心理の勉強を始めた。そう、人の考えの裏の裏を読もうとする『DEATH NOTE』のセリフを元に『DEATH NOTEにおける行動心理』という研究文書を書き始めたのだ。こいつを書き始めてからの私はまるでヲタクである。セリフの一つ一つからその場面構成、描写の角度まで書き表しそこから書く側は何を伝えようとし、読む側は何をくみ取るのか。注目すべきLの『やはりそう思いましたか』というセリフ一つに隠された心理とLが始めから期待していた結果はこのセリフの通りなのか、他人がどういう行動や言動をおこすように仕組めばそこまで導けるとLは考えたか…そんなことを私はほぼ半年間続けていたのだ。その研究が仕上がったときには 私は立派なデスノヲタクに完成していた(笑)ここでやめておけばいいものを 何でも追及する自分のことだ…ここまで身内のようにLを調べ上げて嫌いなわけがない。映画の『DEATH NOTE』にも手をつけたのが運のつき…(付きか?尽きか?)なんとただのLファンになってしまったわけだ。ここからの怒涛のようなLの追及はかなりのものだと自負する。アメブロでばかヅラ下げて 鼻の下をのばして『L~』と言っている私をここでさらすわけにはいかない。ついでに言うと さらにゲームヲタクにもなった。キラゲーム・Lを継ぐもの・螺旋の罠…すべて『DEATH NOTE』関連のゲームに手をつけ、すべてのエンディングを見た私はただのバカとしか言いようがない。ただ、ここでこの『DEATH NOTE』の話はあまりしないでおこうと思う。それをするならアメブロでデスノマニアの集まる場所のほうが居心地がいいからだ。 L…私をカウンセラーにまで押し上げた男である。 私は彼を認めざるを得ない。カウンセリングの少しばかりの知識を得た新米カウンセラーは単なるヲタクであると皆さん知っておいて欲しい。あぁ… 少しスッキリした。今後このテーマで記事を書くことはない。…が私の出世の恩人としてLはもしかしたら登場するかもしれないな(笑)
Oct 3, 2008
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うっわぁー!!\(◎o◎)/!めちゃくちゃ久しぶりにここに来たら、コメント欄とかトラバがすごいことになってた。『あいつ、どこに行っちゃったんだ!?』って言う皆様。私はまだここにいるわけだ。実は他のブログ(アメブロ)で遊んでた…まぁそれは事実として認めようか。ずっと以前から仲良くしてくれてた方々のブログがまだご健在か今から訪問予定。しばらく来てなかったから ログインIDは忘れるしパスワードも忘れて思い出せる番号やいろんな場所で使っているパスワードを入力してみたりしてようやくここに辿りついた。あれからいろんなことがあったり、もう病院ネタは書きたくねぇー!!って思ったり仕事が急に忙しくなって 少し出世してブログなんてやってらんねぇよ!ってヤケクソになったり…。そんなこんなで とりあえずアメブロのほうのバカブログも並行してちょいここでもまた書いてみようかなんて考えたりして帰ってまいりました。 ただいま参上。
Oct 2, 2008
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日記とは名ばかりの3ヶ月ぶりの更新である。臨床指導者研修が終わって1年、そしてチームリーダーから外れて半年。そろそろのんびり仕事がしたい…と思っていた矢先にここ近年にありえないほど病棟内がざわつき始めた。慣れたスタッフの病棟移動、頼りにしていた医師の退職、新任医師たちの非協力体制。これらのことで病棟の機能は空転しはじめ、以前からいたスタッフは次々に退職した。その穴埋めに新しいスタッフが配属され、慣れない看護体制に全員が疲れてしまった。その疲れたスタッフの一人がわたしである。患者の訴えを聴く余裕がなくなり仕事の重積を抱えてどうにも動きが取れなくなっていた。重症患者を抱えた夜勤の前になると神経質になり時計ばかりを気にして『あと○時間で仕事にいかなければ…』そう考えると心臓が落ち着かなくなり手が無意識に震えだす。なんとか出勤しても思うように仕事がはかどっていないまま申し送りを受けるとイライラしてスタッフを怒鳴り散らす。休日も病院に出向き、スタッフの指導や自分のやり残した仕事をまとめる。そんなことを続けて2週間ほどたったとき、『もうわたしはダメだ』と感じた。しかし仕事は休めない。わたし一人が休むとスタッフに迷惑がかかる。それならムリヤリ仕事に行けばいい。 とりあえず動けたらいい。何度か眠剤を処方してもらったことのある神経科の医師をたずねてみた。『バーンアウトかられっきとした鬱病になってるね。診断書書いてあげるから休む?』医師の休憩時間に診察をムリヤリ頼んだのだから仕方ないにしろ、彼は面倒くさそうにコーヒーを飲みながらパソコンの画面を見て言った。『家族と話す気もおきませんが休んだら治りますか』そう言ったわたしを見て『自分が辛いのに全く他人の患者の話は聴けないでしょ』そのとおりだ。確かに休んだら患者とは話さなくてすむ。イラつく医師たちともケンカしなくてすむ。しかしいつかは出勤しなければならない。そのときわたしは患者たちと、そして医師たちと、スタッフとうまくやっていけるのか。単なる一時の退避場所に逃げ込むにすぎないんじゃないのか。そしてきっと同じことが繰り返されるのだ。 病棟がなくなり患者がいなくならない限り。『考えてみます。』そう言って一度は帰りかけた道を引き返し再び同じ医師のもとに戻った。『おかえり。さぁどうする?』同じようにパソコンを見ていた医師がわたしの顔を見てあらためて聞いた。『さぁやるぞ!って気になるクスリをください。鬱のクスリは要りません。』わたしがそう言うと医師はあらかじめ開いていた処方画面の決定ボタンを押し、『2週間分クスリを処方しました。…しかしあなたは強情な人だ。いつかは壊れますよ。』打ち出された処方箋を差し出して言った。『ちょっとした覚醒剤みたいなものです。』飲んでいる薬は大脳刺激剤である。最高3錠まで一回に飲んでも良いと処方箋に書かれている。服用すると少し動くだけで汗が吹き出て動悸がする。おまけに手が細かく振戦する。興奮するためか口が渇き、唾液の分泌が減少し食物が喉を通過しない。しかし、やたらしゃべれるし 頭の回転が良くなる。活動的にもなる。ただ、手が震えるため文字が書きにくくパソコンの入力もしにくいのが難点でもある。これはおそらく服用過多なんだろう。わたしのような症状には服用量が多すぎるのだ。そうして少しづつ調節しながら1錠だったり2錠だったりを場合によって服用を続けている。いまだに仕事に行く時には動悸が激しくなり、途中で引き返したくなる。家を出たはいいが『このままどこかへ行ってしまいたい』と思うこともある。仕事中に『もうどうでもいいよ』と感じることもある。でも仕事をしているのはどうしてだろう。カルテを放り投げながらも医師とケンカをしている原因はなんだろう。結局、スキなんだろう。この仕事が。わたしを病ませるのも病院で、病んだ心を癒せるのも病院であることはおそらく間違いない。
Jul 10, 2007
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看護職なんてものは自宅にいるときにはただの人なわけで、実際に家で血圧を測ったり家族のケアをしたりなんてほとんどない。これはもしかしたらわたしだけかもしれないので『家でもバッチリナースよ』って人がいたならこれを言い切ってしまうのは申し訳ないことかもしれない。まぁ、わたし個人での意見だが、わたしは家にいるときは全くと言っていいほど看護職とは無関係な人となる。そしてこれもまたダメ人間を強調するようだが、家事もほとんどしない。(できないとも言える)つまり 仕事から帰ったら準備された食事を摂ってに入って携帯をいじりながら真夜中までDVDなどを見ながらぐうたらと過ごし、翌朝、仕事モードに入るまでは『朝ズバ』を見て一生懸命マスカラを塗っているのだ。こういうわたしを家族は『役立たず』と言い、子供たちは『アテにならない親』と言う。しかし、これがまた不思議なことに仕事中は人が変わったように温和でそれでいて厳しく(自分で言うな)患者には『Monkeyさんじゃないとダメ』と言われるのが自分では謎である。おそらく自宅と仕事場では声のトーンが違うんじゃないか…と思い、つい先日 自宅でも仕事と同じように家族に接してみたが、家族にはやや奇異の視線を浴びたのですぐやめた。じゃあ 職場で家族に接するようにしてみたらどうか…と考え、患者にも声のトーンを落として話してみたら これまた『Monkeyさん、今日は機嫌が悪いの?』と言われた。以前、こんなことがあった。親戚が入院して白衣で病室を訪ねたとき、マスクをしていたせいもあるが、『具合はどう?』と訊ねたわたしに親戚の叔父は『ハイ、おかげさまで痛みも楽になりました』と作り笑いで答えたのだ。それから約2分間ほど普通に話し、『何か持ってくるものがあったら叔母さんに頼むけど…』と言った時点で『あれあんたMonkeyじゃない』と気付いたという嘘のようなホントの話がある。…ここでいささかわたしも思案したものだ。わたしは二重人格なのかそういえば同じ職場のスタッフにデパートで会ったときも気付かれなかった…。シカトされたのかと思っていたが、そうではないらしい。プライベートのときと、仕事モードのときの顔つきが違うのだ。いかに普段が仏頂面で 仕事のときは作り笑顔かがここで分かった。セールスマンが一日中あのテンションでしゃべり続けたら疲れるだろう。彼らは自宅に帰るとおそらく部屋で何も話さず、勝手にしゃべり続けるTVに時間の経過をまかせているような気がする。家で家族が風邪をひいて寝込んでいても『クスリ飲んどいたら?』というだけでアイス枕を準備したり、着替えをするたび汗を拭き取ったりしない。ただ静観。医療の素人というよりはただの冷たい人である。子供の付き添いで病院に行って医者にいろんな説明を聞いても『はぁ~そうなんですか…』と初めて知った振りをする。これには理由があって、医療関係者というタグはどこの病院に行っても一歩退かれるからである。入院患者でも 元看護師・元医者と聞くとその部屋にはあまり行きたくないものだ。一挙一動がチェックされている気がするからである。その点からいって自分も他の病院に行く時は医療関係者であることを隠すのがお互いに気分がいいというものだ。ここまで長々書いたが根本にあるものは自分が看護師さんっぽいふうに見られるのがイヤだという理由なんだろう。20年も看護師という職業につきながらそれふうに見えないようになったのはちょっとした二重人格的な努力の賜物だと自画自賛するしかない。まぁ要するに 人は『そのとき必要な人』になれればいい…ということか。・・・家では常に不必要なわたしはどうすればいいのかなぁ・・・
Apr 19, 2007
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この広告を見たり、CMを見たりするとなぜか泣きそうになる。最後の最後まで『あんたに何ができるの!!』そうののしられて打ち解けられないまま逝ってしまったあの女性や『孫が今日、東京からきてくれるんだよ…』そう言って待ち続けたまま何日も孫にあげるためのぬいぐるみを抱いて亡くなったおじいさん。『映画俳優になりたい』と短冊に書いたまま叶わなかった18歳のTOMOYA。子供が誕生日にくれたミッキーマウスのパズルを完成できないまま毛布にくるまれて帰った若いパパ。まだまだいろんな人たちが思い出されてくる。今現在 病院で闘っている患者たちも TVでこのCMが流れるとふとおしゃべりをやめ 現実に引き戻される。半月前に行った骨髄移植学会では 骨髄バンクのコーディネーターの方たちの発表もあった。本田美奈子さんや アンディ・フグさんのCMが流れる会場ではせつなさを感じて胸が痛くなった。きっとわたしはこの血液内科に所属されなければこの血液の病気に対して無知であった、いや、無関心であったはずだ。おそらく半年後にはわたしはこの血液内科を離れることになると思うが置き土産にドナー登録をしようと思う。待っている人たちのわずかな希望に わたしがなれればいいと思う。今は誰一人救うことができなくてももしかしたらわたしの有り余る骨髄液が誰かの未来を作れるかもしれない。『白血病に負けない、負けさせない』渡せなかった小さなぬいぐるみ、途切れた映画監督への道、完成しなかったパズル。全てを途中で終わらせないためにも誰かの気持ちが必要なのだ。
Mar 12, 2007
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今夜は自宅からでも、ネットカフェからでもなく 福岡から携帯で日記の書き込みをしている。 ずいぶん長い間取り組んできた研究発表の当日だったからだ。 国際会議場の中を歩きながら、 『この中にいるのは骨髄移植関係者ばかりかぁ』と思うと何だか自分の存在は小さいような気がしたり、他の人たちが異様に優れて見えて仕方ない。 研究発表は無事に終わり、たくさんの評価を頂いた。 骨髄移植で全国的に有名なDrから 『この研究はこれから看護師さんたちの課題になるものだと思うよ。医者も注目せざるを得ないだろうね』と言って頂いたり 多くの看護師仲間からもマニュアルの送付を申し込んでもらえた。 この評価の多さは内容への関心の大きさを表していると感じて 成功をひしひしと実感してしまった〓 中洲の屋台で焼き鳥と梅焼酎を味わいながら 博多のあたたかい夜を感じた。 あさって病院に戻ったら、臍帯血移植を目前に控えた患者が待っているだろう。 移植にかかわる医者もチームの主要な看護師も今はまだ博多にいる。 明日も移植学会に参加し、帰路につくときには、もう臍帯血移植のことで頭がいっぱいになっていることだろう。 ここで知識を満タンにして少しだけ大きくなったわたしを患者に見せてあげられるだろうか…。 あ~ぁ… いい気分の夜だからもう少し飲もう。 しかし美味しいな…。 お酒飲めないんだけど、この気分はクセになりそうでヤバい〓
Feb 17, 2007
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つい先日もありがたいドナーさんの骨髄採取があった。とても良い方で、提供する患者さんの様子をすごく気にしていられて『わたしが少しでも役に立てれば』と言ってくださったのだ。このドナーさんの骨髄は北海道からDr.が直接引き取りにきてくれたのだが、この日は千歳空港が大雪で予定していた便が欠航になる…という騒ぎがあり病棟もこの日に採取するべきかどうか一騒動していた。幸い、午後の便は予定を大幅に遅れたが飛ぶことができ、ドナーさんの善意の骨髄は無事患者さんのもとに届けられた。さて最近やたらTVのCMで『骨髄バンクに登録を』と本田美奈子さんがアカペラで歌うアメージンググレースが流れていることにお気づきだろうか。クリーン病室で ある患者さんと二人のときにこのCMが流れるとふと会話が止まってしまうことがある。この患者さんは1月半ばにバンクからの移植がほぼ決定しており、1ヶ月前の12月半ばまで準備態勢に入っていた。ドナーさんは20歳と聞いていた。この若い骨髄をもらえることをわたしたちもDrもとても楽しみにしていたのだ。普通、患者にはドナーのことについてはほとんど話されることはない。どこの誰かも絶対にわからないようになっている。しかし、移植まであと1ヶ月というところでドナーさんの最終同意で骨髄は提供されないことになってしまった。この時点で患者にはきちんと『最終同意が得られませんでした』と伝えるしかなかった。そうしないと患者が納得しないからだ。ここでお勉強。ドナーになるってどんなこと?ドナーさんはどのような道のりでドナー登録から採取までたどり着くのか。CMで流れる呼びかけがないとドナー登録はおそらく増えることはないだろう。しかし だからこそ安易な登録をしてしまいがちでもある。移植される患者には全身麻酔は必要ないが、採取されるドナーさんには全身麻酔がかけられる。仕事や家事も3日は休んでもらわないといけない。採取するまでにも何度か病院に足を運んで健康診断が必要だし、血液中の良い細胞を増やすための注射も受けなくてはならない。この時点でこの注射の副作用や 全身麻酔の副作用を説明される。これで見ず知らずの人に身を投げ打って骨髄を提供してくれる人は本当に勇気と善意に満ちたひとなんだなぁ…と切に感じるのである。ここでこの善意のドナーさんがいてくれるにもかかわらず病院側の手が足りなくて骨髄採取ができない…というバカにした報告もある。医者が足りないのだ。せっかくドナー登録が増えても医者が不足しているため採取という全身麻酔を使った手間と時間のかかる処置まで手が回らないのだという。このために患者が一人、バンクからの移植の時期を逸してしまったのだ。しかし、世の中はまだ捨てたもんじゃない。こういう場合には臍帯血移植という手段がある。これは出産後には捨てる部分なので ドナーに負担がかからず保存ができるため時期を選ばず移植が可能である。まぁ、先天性異常などの遺伝子や感染症などがあとからでてくる…というリスクもあるらしいが、この臍帯血移植は多少患者とタイプが合わなくても(6個のうち4個合えばOK)できてしまうのだ。最近は臍帯血バンクの登録も増えつつあり、今まではほとんど小児が対象だったものが成人の症例のほうが上回ってしまったほど移植例も増えた。…が!!ここにも問題が…なにぶん臍帯からの採取量である。そんなに多いわけがない。対象となる成人の体重が重いと細胞数は規定に満たなくなり臍帯血移植からは対象外となってしまうのだ。どこかの病院では2種の臍帯血を使って移植する…という手段もあるらしいのだが、まだまだ正統派としては認められていないのが現状だ。このあいだTVでやってたドキュメント番組『母子病棟』。やっぱりわたしは直視することができずにチャンネルをかえてしまった。自分の子供や家族が病気ならこんなふうに日記には書けないほど苦しいんだろう。わたしは外から見ている人間だから冷静に書ける。患者の身になって…とよく言うが、あくまでも自分でないからできるのだ。そういう外から見ているはずのわたしの右の頚部リンパ節に小さな塊ができている。2週間ほど様子をみて大きくなったら検査をしてみようと思う。今すぐに診てもらわないのは『大丈夫だろ』と思う気持ち半分、怖さ半分から。2週間後、『闘病日記』が始まらないといいけど。
Feb 5, 2007
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ここ数日、悪性リンパ腫のターミナル患者の不穏状態に悩まされている…。患者は朦朧としているため目が覚めると家族を探して起き上がり、体力的に長く座っていることができず、そのままバタンと倒れてしまうのだ。そこがベッドの上ならばいいが、壁だったり、ベッド柵だったりすると血小板が減少している患者のことだから、頭でも打とうものならば脳挫傷の危険もある。少し前はまだ立ち上がったりしていたため、いつのまにか点滴台もなぎ倒して部屋から脱出しようとしていた。そこで、ここ一番で利用する徘徊患者のためのマットを足元に敷いた。これはベッドから降りようとして床に足を置いたときにセンサーが作動する仕組みになっており、ナースコールと直結している。徘徊センサーが作動するとナースコールが鳴るのだ。しかし、症状が進むと今度は立ち上がらなくてもベッド上で無造作に倒れるだけで非常に危険である。このためにわたしたちはタイマーを首から下げて10分おきに患者を見に行かなければならなかった。これでは他の仕事が全く進まず、他の患者の部屋にいてもタイマーに追い回されることになってしまった。そこで購入したのが、『おきたくん』である。ここにリンクした商品は『みまもりくん』という徘徊センサーだが、似たような商品で『おきたくん』がある。患者の寝ている背中の部分に横に敷いて、患者が起き上がるとセンサーが作動する仕組みである。ところが、感度が良すぎるのか寝返りをするだけでセンサーが鳴り、慌てて部屋に行くとグッスリ寝ている…という状況である。しかし、10分おきのタイマーでせっかく盛り上がったほかの患者との話を断ち切られることはない。このリンパ腫の患者は本来、ものすごく寂しがりやで常に誰かが側にいてくれないとダメな患者である。こんなふうに病状が悪化する前も 常に妻が側にいて見守っていたのだ。最近はこの患者の娘がお産のために帰省しており、心配した妻が娘に付き添っているため病院には短時間しかいられなくなってしまった。起き上がり妻を呼びながらまた倒れる…。彼はそれを繰り返しながら徐々に呼吸状態も悪化してきている。妻は彼に付き添うべきか、娘に付き添うべきか悩みながら病院と自宅を往復しているのだ。『おきたくん』が設置されてからは 壁で頭を打ったりベッド柵で顔を打ったりという事故は防止できるようになったが、そのぶんわたしたちが訪室する機会が減ってしまった。時々、そ~っと部屋を覗くと『おかあさんなのと まともに開かない目をこちらに向けながら起き上がろうとする。おそらく彼には自分の娘がお産で帰ってきていることすら理解できていないだろう。彼がこの状態になってから3週間、娘のお産の予定日が過ぎてまもなく2週間になる。彼の妻は 『お父さんと入れ替わりになっちゃうのかな…』とわたしたちに話したりもする。この彼については以前も『天国から追い返された男』で話題に出したことがあった。そう、天国でみのもんたに出会った彼である。現在はそんな話もできず、空中を掴むような仕草をしたり、うわごとのように妻を呼ぶだけになってしまった。本当は『おきたくん』など使わずに側にいてあげられたらBESTなのだろう。わたしたちにはそんな不穏な姿しか見せない彼だが、数時間だけ病院にやってくる妻には独り言のようにつぶやいたという。『俺、逝く日 決めたから』妻が『何?どこへ?』と聞き返すと安心したように眠ったとのことだった。『そう言うのよ。驚いちゃった』と笑顔で言う妻はわたしたちよりも冷静に逝く命と生まれ来る命を見つめているような気がする。
Jan 29, 2007
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こんなに忙しい毎日の中、ふと気付くと今日は自分の誕生日だったりする。 それでも夜8時前までは患者の部屋で過ごしている。 あらためて元気で何の苦しみもなく、 忙しいことに文句を言える今に感謝してしまう。 他人の分まで生きることはできないけれど、 自分の分を楽しく生きようと思う。 今日は携帯からの投稿なので このあたりで完結。
Jan 26, 2007
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クリスマスも正月も過ぎているのにいまだに移植学会の研究資料を作っているわたしはすっかり世間から取り残されてしまったような気分だ…。新年初の日記だというのにやはり書くことは患者のことしかないのか…とあくまでも『病院漬け』の自分にあきれている。昨年もわたしは様々な患者の様子について書き綴ってきた。毎回読んで下さっている方は『あ~~あの人のことね』と思い出していただけるだろう。そんな『あの人たちの今』はどうなっているのか。気になる方は読んでいただいて、わかんね~よって方はパスしてください。まずは何度かに分けて書いた『命をかけるということ』ここに登場した難しい移植にトライした彼は昨年10月、めでたく退院することができた。今は1週間に一度採血のために外来受診し、再発にヒヤヒヤしながら毎日を過ごしている。彼の目標だった社会復帰にはまだ遠いが、かなわない夢ではなくなった。受診のたびに病棟に顔を見せてくれて血液データを分析して聞かせてくれる。それは見事に予測されるリスクを分析する彼の勤勉さには頭が下がる思いである。あの移植をしたあと、窓の外の春を遠くに見ながら『来年の花見はできるかな…』と言った彼の表情とはまるで違う明るい笑顔を今は見せてくれている。そして次に『ホントの自分とナースの自分』で登場した仕事命の44歳の彼。彼は予後告知を聞いたあとから 自分の置かれている状況がわからないほどに精神を病んでしまった。もう二度と歩けない、もう二度と元のような生活は送れない。そう気がついたときにはその事実を自分の中で抹消したかったのだろう。真夜中にナースコールを押し続けては『立たせてくれ』と言う彼の声をわたしは今も時々思い出す。昨年10月初旬に彼は充電の切れた携帯電話を胸に抱いたまま亡くなった。朦朧とする中で、彼が肌身離さず持っていたものは会社に連絡するためと株を売り買いするために大切にしていた携帯電話だった。病院をあとにするとき、大きな身体を毛布に包んで胸の前で組んだ手には携帯電話を握らせた。わたしたちに出来ることはそれしかなかった。そして『余命100日』で登場した企業家の彼は、セカンドオピニオンを選択し臍帯血移植で有名な某病院に転院した。12月初旬 彼はその病院で臍帯血移植を受け、今は退院していると聞いた。彼の家の近所の人の話によると 彼の奥さんが町内会費を集金に来たが普段と変わりない様子だったそうだ。道路から見える彼の大きな会社はいつものように稼動しており、彼の愛人の車もしっかり停まっている。余命100日と宣告されてもうすぐ4ヶ月。人生はイチかバチかの勝負で生きる…そう言っていた彼はどうやら勝負には勝ったらしい。臍の緒に隠された神秘には驚くばかりである。昨年末には29歳で移植も成功していた男性が突然亡くなった。その日の朝、いつものように話して 深夜明けだったわたしは『また明日ね』と言って帰った。同日昼頃に彼は急に激しい呼吸困難を訴え、看護師が医師に連絡を取っている数分間、そのあっという間に逝ってしまったのだ。病理解剖をしたがこれという所見は見つからなかった。彼のいた部屋にはいつも使っていた彼のお気に入りの香水の香りが残っている。もう20日が過ぎようとしているのに 彼はまだその部屋で難しい顔をして文庫本を読んでいる気がしてならない。長く入院しているとその人の気配がその病室のイメージになる。その気配が消えるときは次の患者が長くそこで滞在するときである。そうしてイメージは塗り替えられ、新しい思い出が増えるのだ。今日は まだ彼の香りがする部屋に『おはよう、少しここで研究の文章作らせてね』と声をかけノートパソコンを3台持ち込んだ。電気スタンドは彼がいつも本を読む位置にあるままだ。気難しい彼が唯一はにかんだ顔を見せるのは本の話をしたときだけだったことを思い出した。生きていくには運とタイミングが必要である。なんだかそういう気になる。運とタイミング…。どちらも一瞬の判断で決まるものだ。今年その一瞬を逃さず手に入れる人は誰なんだろう。きっと宝くじの1等を当てるよりも難しいことなんだろうな…。
Jan 10, 2007
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この間、天国に行ってきた患者の話を聞いた。この患者は 一日のほとんどを意識が朦朧としたまま過ごしている。しかし なぜか2日に一度くらい日中意識を取り戻すことがある。その日も久々に彼の声を聞くことができた。『あれ、目が覚めてるじゃない』と声をかけると、意外にしっかりした口調で『ただいま』と言う。『今日は3回天国に行ってきたよ』『・・・そう、キレイだった?』と訊きながらわたしは 意識が朦朧としてるから夢でも見てたのかな…と思っていた。ところが、彼はこう続けた。『天国に立ってたら、後ろから“じいじ(おじいちゃん)戻って”って聞こえたんだよ。後ろを見たらサンタみたいな服を着た子供と頭がトゲトゲの子供がいるんだ。孫たちに似てて顔を見に近づいたら目が覚めてここ(ベッド)に寝てたんだ…』『ふ~ん、サンタと頭がトゲトゲの子供?』わたしが不思議そうに訊ねると彼の妻が目を丸くして言った。『それ、ほんと!?』妻もその話は初めて聞いたらしかった。なぜそんなに驚いたのか…それには理由があったのだ。彼は孫たちと遠く離れて住んでおり、彼が今回病状が悪くなってからは連絡をとっていない。しかし、妻は知っていた。彼の孫たちが今年の保育園のクリスマス会で、下の子は『あわてんぼうのサンタクロース』を合唱するためにサンタの衣装を作って練習していること、上の子は『ドラゴンボール』の帽子を作ってお遊戯の練習をしていたことを…。確かにサンタの衣装とトゲトゲの頭だ…。わたしはその瞬間の鳥肌が立つような気持ちを忘れることができない。そして彼は天井を見つめたまま話を続けた。『あたたかくてね…、ずっとそこにいたかったんだ。どこも痛くないし身体が楽なんだ…。足元にはたくさんの人が寝てるんだ。誰も話してないのにその人たちがどこの誰で何で死んだかわかるんだよ。』『それであなたは立ってた?』恐る恐るいろんな質問をしてみた。『他にも立ってる人がたくさんいたよ。みんな遠くを見てた。』『知ってる人はいた?』『芸能人がいた。』『へぇ誰がいた?』『みのもんた』ここで少しわたしはホッとした。なぜならみのもんたはあんなに元気にTVに出演しているからだ。…やっぱり夢か…『みのもんたはどうしてそこにいたの?』『あいつ、バカだよ。あんなに稼いでるけど肺ガンなんだよ』『ええぇ~~~~』ここだけの話、これがホントならビックリだ。しかし彼が話したのはこれだけではない。『さっきトイレに行こうとして歩いていったら死んだ人の匂いがしたんだよ。』これはこの時点では『この人は歩けないんだからそりゃないよ』と思っていたが翌朝、出勤したらトイレの向かい側の部屋の患者が前日の夜、つまり彼からその話を聞いた日の夜に亡くなっていた。う~~~ん、これは!? ちょっとビビらないでもない。ただ、ひとつ笑えるのは彼が付け加えた一言だ。『Gメン75の頃の丹波哲郎がいた』『丹波哲郎!?』大霊界かよ。しかもGメン75知ってる人も少ないよなぁ。タイムリーに見てたわたしは分かりすぎて少し笑ってしまった。お花畑・小川・悩みも苦しみも痛みもない世界。会話がなくてもすべて分かり合える世界。死ぬのもそう怖くないな…なんて思ったりした。今日も彼は昏々と眠り続けている。今度はどんな話をきかせてくれるだろうか。それともこんどこそ小川の向こう側へ行ってしまうのだろうか…。そんなことを考えながらみのもんたの行く末を気にしている自分がいる…。(笑)
Dec 16, 2006
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久々の日記更新である。そもそも日記というものは毎日つけてこそのものだが、私の場合は『書けない』。いや、もっと本音を言えば、『どう書いていいのかわからない』のである。40歳を目前にして めっきりやる気がなくなったことも『どう書いていいのかわからない』理由のひとつだ。最近、友人とお茶を飲みながらミスドで3時間も話し込んだ。その内容たるや 自己の老いについてがメインである。まず、深夜明けがやたらつらくて何もできない。若い医者やスタッフ、それに学生の態度がでかいことにムカツク。合コンの話にまったく混ざれない。(と言うかもう呼ばれない)まぁ、これについては今さら呼んでもらったところで居場所がないだろうけど…。そしてこれもごく最近ヤバイと感じたことのひとつなのだが、カワイイと思って買った小さな携帯のキーが打ちにくいのである。これはあえて書くのだが、べつにわたしの指がゴツイわけではない。自慢じゃないがわたしの手は小さくて指は多少荒れてはいるがまだ細いほうである。いったいあの携帯をスイスイ使えるひとはどんな指なんだと思ってしまう。この携帯を買った理由は小さくてカワイイという理由のほかにパカッと開く必要がない、かさばらないという理由もある。何においても『面倒くさくない』というのがまず条件に入るのがダメだ。それにもうひとつ、靴下に気を使わなくなりつつある。これはきっと心当たりがあるひとは多いだろう。表見はきれいにしてても、今の季節ブーツなんて履いた日には靴下まで気を使わなくなって、当然、中はただの白い靴下を履いていたりする。しかし、そういうときに限ってお座敷に食事に行ったりしてドツボにはまるのだ。昔は細心の注意を払って隅々まで手を抜かなかったものだが、『これくらいバレないだろう』という小さな手抜きから老化が露出するのだ。80歳まで生きる気がないからすでに折り返し地点を通過して何年たっているんだろう。そのうち真っ赤な上下の服に白い靴下・ホームセンターに売ってるようなおばちゃんサンダルで平気で街を歩く日がくるような気がしてならない。または何色に何色を合わせたらいいのかわからなくて全身黒ずくめになっているかもしれない。今日は深夜勤務で2人の患者が亡くなり、そのうちの一人はわたしが単独で死後処置をした。よりにもよって体のやたらデカイ男性だったから、背中を拭くのも一苦労である。強い黄疸が出てはいたが、きれいな死に顔だった。身体を横に向けるのに患者の背中に詰め物をして支え、ようやく拭き終えて上を向けたとたんカッと目を見開いているではないか『ひゃぇ~~~』と思わずもらした自分の声があまりにも無様で自分自身が驚いた。ビビリ声まで『キャッ』じゃなくなった自分に朝からかなり落ち込んだりしている。こんなことは自分の心構えひとつで変わるものなのだろうけど、この情けなさもまた面白いと感じている自分もどこかにいる。何もない廊下でつまずいたり、ちょっとした出っ張りにひっかかったりする。そんなときは行き場のない怒りを床や出っ張りにやつあたりしたりするのだが、こういうことから『あぁ…こういうのが危険なんだ』と老人の目でものを見れたりする。人生の深みを感じる…というか、深みにはまったというか、今はこれを受け止めて楽しむほかないように思う。とりあえずまだ小さい文字は近くでも見える。このカワイイ携帯だって慣れれば平然と使えるようになるんだろう。…こんなふうにネットカフェで深夜明けにこもって日記をつけるわたしは以前とは変わっていない。たったひとつここでも変わった事といえば、コーヒーを何杯も飲んだらトイレが近くなることくらいだろうか…。やっぱりヤバイか。
Nov 26, 2006
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わたしの仕事上、抗がん剤を扱うことは避けられない。患者さんたちにとっては 苦しいながらも抗がん剤は癌に打ち勝つためのひとつの手段である。しかし、クスリというものは利点があれば欠点もあるというのが常識である。抗がん剤の場合、欠点はどこにあるのか。使用する患者さんにとっては命の綱でもあり、副作用は当然つきものではあるが使用できることは利点である。ところが、抗がん剤には周囲に及ぼす危険があることはそう公にはなっていない。抗がん剤を使っている患者さんと偶然同じ部屋に入院した癌ではない患者さんの尿中から発がん性物質が検出されることは珍しくはない。そして、抗がん剤を扱うナースやDr.の体内からも発がん性物質が検出されている。研究によると、化学療法を頻繁に行うナースのほとんどが抗がん剤に汚染されているということが立証されているのだ。シクロフォスファミド(以下CP)は血液内科や消化器内科、小児科などでも多く使われる抗がん剤のひとつなのだが、これは空気中に揮発することによって吸入したり、皮膚につくことによって皮膚から吸収される恐ろしい抗がん剤である。このクスリを点滴で受けている人の側だけが危険なのではなく、調剤された点滴を持ち歩く通路、この患者さんの排泄物のある場所、廊下、室内、点滴台、そしてそれらを扱うナースの手が触れる電話機、ナースステーションの冷蔵庫の扉…いたるところにCPがばら撒かれているといっても過言ではない。こういうところで長期にわたって妊娠中のナースが仕事をしていたらどうなるか…。もちろん、知らず知らずに抗がん剤の曝露を受け続けていることになり、胎児にも影響があると報告されている。患者の面会人はそのクスリに曝露されたまま自宅に持ち帰り、家中に抗がん剤を撒き散らすことになりかねない。ここでキチンと書いておかなければならないことは、このクスリに限らず抗がん剤は少なからずどのクスリでもこのような影響があること、そして24時間~48時間で尿中に排泄されることである。だから、まったく身体に残ったままにはならないということだ。ただ、成人の場合はそれでもいい。小児の場合はどうだろうか。小さい子供を連れて面会にやってきた場合、子供は床に寝転んだり、あちらこちらを触ったりすることが多い。これを見過ごしてはならない。必ず病院に面会に行ったあと、受診に行ったあとは手洗い、うがいをさせること。まずはこの作業だけで少しは難を逃れられる手段となる。わたしたちの病棟の研究グループはこの『抗がん剤の曝露』の研究を今すすめている。前述したCPは曝露の段階では1級であり、アスベストと同格である。つまりアスベストを振りまいた状況下で仕事をしているのと同じことなのだ。使用している段階では何も起こらなくても、長年積み重ねることによって影響が出る。これはまだ検証の段階ではないのだが、当病棟で全く抗がん剤を扱わない看護助手が原因不明の喘息発作を起こしている。看護助手は約7年うちの病棟に勤務しており、薬品を薬剤部から運搬し、病棟で揮発した抗がん剤を吸入し続けていることになる。今回の研究ではこの看護助手の尿検査をすることで代謝されずに残るCPの値を検出してみることが今後のわたしたちの身体を守る第一歩になるような気がする。もちろん、実際にクスリを扱っているわたしたちも同様に尿検査をうけることになる。この結果は全国学会に発表することになるのだが、結果次第では看護学会はちょっとした騒ぎになるかもしれない。癌じゃない人も知らずに受けるがん治療。百害あって一利なしとはこのことだ。つまり、癌になりたい人は 毎日抗がん剤を受けている人の側でクスリの入ったボトルを触り続け、床を這いまわればいいということだ。どこかで癌の種を拾えることは間違いない。癌になりたくない人は、抗がん剤の治療を受けた人の面会に行く際にはマスクをしよう。病院の手すりには触れない。床には手をつかない。トイレの排水レバーにはじかに手を触れない。病室の入り口によくあるアルコールジェルを手に刷り込んだ位じゃ何も変わらない。あれは細菌の働きを弱くするだけで 抗がん剤は拭い去ることはできない。病院を出たら流水下で手洗いをしよう。これは癌の患者さんに対する偏見でもなんでもない。薬剤に対する偏見でもない。このたいへんな薬剤を身体に取り込んで治療に耐えている患者さんへの敬意と自己防衛の気持ちを行動で示すことが何よりも大切なのである。
Oct 27, 2006
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この仕事をしていると、本当の自分の気持ちというものがわからなくなる。看護師はすべて『いい人』でもないし、『天使』でもない。ここ最近はそんなことを考えることが多くなった。多発性骨髄腫。これは骨のがんとも言える恐ろしい病気である。整形外科的な治療を要するようになるのは骨折などをおこした後で、まずは抗がん剤を使って骨髄機能を良くする治療をする血液内科の病気だ。もちろん、うちの病棟にも何人か患者さんを抱えているのだが、今現在わが病棟には、この病気でほぼ寝たきりになっている患者は一人しかいない。この一人が最近の問題患者である。彼はまだ44歳という若さで、しかも独身貴族でもある。今までバリバリ仕事をこなし、自分の時間をうまく使って焼肉を食べるためだけに韓国に日帰りで行ったり、とんこつラーメンを食べるためだけに九州まで行ってその足で帰ってきたりした。活動的であり、その勢いで仕事をしていたものだからかなりやり手でもあった。彼は2年ほど前から骨髄腫の治療を始めたのだが、状態は決しておもわしくなかった。今回の入院に至ってはほとんど食事を摂れず、骨髄機能の低下もあり貧血がひどくなっていた。彼がふらついたり、足の力が弱くなったのは貧血のせいで寝て過ごすことが多くなって下肢の筋力が落ちたためだと誰しもが考えていた。ところがある朝突然、彼は立てなくなった。ナースが支えても腰すら上がらない。その日の夕方、彼の病室を訪問したとき、ふと尿のにおいがした。傍らに設置した尿器には排尿しておらず、まさかと思いつつ布団の中に手を入れてみると彼は失禁していた。すでに足の感覚はなく、腰から下の麻痺が起こっていたのだ。すぐにMRIを撮ってみた。結果は脊椎への転移による骨折だった。脊椎損傷。これは彼の社会生活において致命的だ。もう自分の足で立ち上がることはできない。しかし、彼は足の感覚がないことについてわたしたちに理由を尋ねることをしようとしなかった。『MRIの結果、聞いてみる?』そうわたしたちがさりげなく真実を伝える時間を作ろうとしても彼は『いや、結果が悪かったら先生のほうから話してくるだろう?』そう言って知ろうとしなかった。おそらく彼自身も怖かったのだ。自分の想像していることが本当になることが…。それと同じようにわたしたちも怖かった。本当のことを知ってしまうことで 彼が壊れてしまうんじゃないかと思ったからだ。両親も早くに亡くし、兄弟もいない。たった一人で今までがむしゃらに仕事をしてきて、多くの部下を持つ彼から仕事というものを取り上げ、自由を奪ったならば、このあとどうするんだろう。このことはチームカンファレンスでも充分話し合い、主治医にも相談した。主治医は言った。『そうだね、彼の足はもう動くことはない。化学療法(抗がん剤)も効かなかった。おそらくもう残された時間はそう多くはないと思う。そんな彼に“あなたの足はもう動かなくなりました、死ぬまで寝たきりになります”というべきなのかな。』『・・・・・・』このとき答えられなかったのは『もし宣告されるのが自分だったら…』と考えていたからだ。悪い知らせは誰しも聞きたくはない。しかし、知って残された時間をどうにかして自分のために使いたいとも思う。そんなふうに誤魔化し誤魔化し数日が過ぎたある夜、彼が言った。『先生は…看護師さんたちにどう言ってる?』あぁ…ついに来た…。『MRIの結果、聞きますか?』前回と同じ質問を彼に投げかけたとき彼は少しだけわたしの顔を見てすぐに顔をそむけたが確かに『うん』と頷いた。翌日の朝早く主治医は彼にMRIの画像を見せながら病状を説明した。ただ言わなかったことは予後が残り少ないということだけだ。病状を聞いたばかりの彼は『そうですか…』と返事はしたもののまだ現実を直視していなかったのかもしれない。そして日が経つにつれ 彼の態度は豹変した。『看護師さん。ここから出て行かないで。俺、自殺するかもしれないから。』とか『ず~~っとこのままなんだろ!!!ずっと死ぬまで!!』そんなふうな言葉が彼の口から聞かれるようになった。しかしわたしたちにできることは受けとめることしかできない。『そうだね、つらいね。』そんな返事をしたところで所詮、五体満足で健康な人間の言うことなど気休めでしかない。何度も何度もナースコールを押して わたしたちは用事もないのに呼び出される。なんとか出て行こうとすると『放っておいたらそれでいいのか!!』と大声をだす。他の患者も呼んでいるから…と言うと『俺はどうでもいいのか!!』と言う。怒ってはいけない、患者なんだから。これは宣告された患者の正常な反応なんだ…。そう言い聞かせ、『あと5分待ってください。また来ます』と部屋を出るが心の中は 『もう逃げたい』と思う。主治医は『精神科を受診させて少し眠らせよう』と言う。わたしたちもそのほうが楽ではある。しかし、彼の残された時間を考えると、眠ったまま時間が過ぎるよりももっと大切に時間を使ってほしいのだ。その気持ちと、『いいかげんにして欲しい。もうずっと寝てたらわたしたちの仕事もすすむのに』そう思う気持ちもある。彼の足が動かなくなったのはわたしたちのせいじゃないのに どうしてこんなにわたしたちが辛い思いをしなければならないのか…。でも彼のクオリティオブライフを大切にするべく出来るだけのことをわたしたちがするべきじゃないのか…。心の中の葛藤は続く。『彼のため』とはいったいどういうことなのか。わたしが看護師という仕事じゃなければ こんな人の言うことを効かなくてすむ。『勝手にすれば!?わたしはあなたの家族でもないし、あなたの側にいる義務もない』そう言えればどんなに楽だろう。しかし白衣を着て彼の側に立つわたしは 彼の要求をかなえてあげられる数少ない人間の一人なのだ。わたしは今から彼のいる病院に準夜勤務に向かう。イラッとする気持ちを抑えるのに必死になるだろう。でも仕事が終わればわたしは彼から逃げられる。しかし、彼はその病状から逃げることは出来ない。彼自身も受けとめるしかないのだ。彼と代わってあげることはできないのだ。わたしは家に帰ったら精一杯悪態つけばいい。病院にいるほんの9時間、彼を受けとめていればすむ。白衣を着ているときだけ天使に化ければいい。サービスなんだ。ビジネスなんだ。言い聞かせながら仕事をしよう。天使に化けるまであと1時間。天使に化けきれず爆発しないことをキモに命じるのだ。喝!!!! よし!行こう!!
Oct 10, 2006
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わたしが研修から帰ってきて数日目のことである。突然、師長がわたしをナースステーションの隅に呼んで小声で言った。『あなた、誰かから恨みをかってることない??』なんで?と訊ねると外来トイレの個室のドアの内側(ちょうど座ったときの目の前の位置)に赤字で中傷する言葉がわたしの名指しで書いてあったそうだ。ふ~~~~~ん。人は万人に好かれるわけがないが、あまりに身近にわたしのことを気に入らない人がいると思うと少なからず考え深くなるものだ。誰が書いたとか、どんなことが書いてあったかなどはたいして気にならない。院内関係者なんだろうけど、そんなら直接言えよ…と思ったりする。赤ペンを持ってるあたりが用意周到だな…と思ったり、そのトイレじゃ入る人が限られちゃうだろ~とか その書いた人の考え方をやたら分析してしまう。師長が言うには わたしが誰かに手を出しているとか 遊んでるっぽい内容だったらしいが、きっと書いた人はその誰かがスキなんだろう。研修から戻ったばかりで 誰に手を出す隙もなかったから全く心当たりはないが他人にヤキモチを焼かれるくらいなら わたしも捨てたモンじゃないな…とやたら考え方がポジティブである。事実かどうかわたし本人に聞けばそんな無駄な腹を立てることもないのに…。まったくもって気の毒な人だ。あれから書いてないから 『そんなわきゃ~ないわな!!』って気付いたのかな。ちょっとつまんないな(笑)
Sep 26, 2006
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自分の命があと100日・・・と言われたらどうするだろう…。そんなことを考えてみた。入院中の患者に担当医師が予後告知とも言える病状説明をした。患者である彼は、以前も確かおかしな夫婦関係で日記にとりあげたことのあるその人だ。妻と愛人と患者の三角関係だがなぜか共存できている不思議な人間関係の中で暮らしている。それは今も変わらない。この彼に主治医はこう話した。『抗がん剤の治療を今まで続けてきましたが、この間のCTで見たところ、腫瘍は小さくなるどころかさらに大きくなっています。これは抗がん剤が効かないということです。』『…と言うと?』彼は身体を前へ乗り出して訊ねた。『移植を目標にやってきましたが、血液中の悪い細胞がやっつけられないので移植をしてもその悪い細胞に良い幹細胞栄養を与えるようなものです。さらに増殖することが考えられます。つまりあなたの病状は移植の適応ではないということです。』彼には今まで包み隠さず病状の変化を告げてきた。おそらく病状が悪化しつつあることも自分の身体の変化で気付いていたのだろう。『移植をしなかったらどうなるんでしょうか』医師は躊躇せずに続けた。『保存的療法、または対症療法として、症状がでてきたら抗がん剤を入れる、または痛み止めを使って抑える…ということしかありません。』彼は少し考えてから『抗がん剤だけでこのままいけば余命はあとどのくらいですか』と訊ねた。『今までの経過を考え20日周期で抗がん剤を入れていったとして、骨髄の状態は今までどおり衰えていくとしたら5回治療ができたらいいほうでしょう。しかし、人間の身体は思うようにいかないときもあるし、奇跡がおこることもある。一概にどれくらいとは言えません』『100日…ということですね。』彼は大きく溜息をついた。彼は企業家である。一代で自分の会社を大きくし、一か八かでやってきた人だ。『先生、万が一 移植が成功したらまだ生きられるということですね』万が一!? あり得ない。移植をするためには命を落とす寸前までの極量の抗がん剤を使用するのだ。今の彼の体力と骨髄機能では抗がん剤に勝てるわけがない。わたしは思わず途中で口を挟みそうになったがググッとこらえて話を聞いていた。その場には例の三角関係の3人と医師とわたしがいた。なんと重苦しい空気だったことか…。愛人は言った。『先生、この人の言うようにお願いします。』ところが妻は『この人(夫)はいつもそうです。何でも自分のことしか考えない! 家族は一日でも長く生きていて欲しいのに…。移植をしたらもっと早くダメかも知れないんでしょう!?』当の本人は『先生、移植をする方向で治療をすすめて下さい』このあとわたしと医師はしばらく黙ったままだった。なんでいつもこうなんだ…。早くこの関係をなんとかしろよ…。心の中では二人ともがそう言っていたのだ。しばらくしてようやく口を開いた医師が言ったことは『あなたの残された時間を大切に使えると思うほうを選択してください。僕はあなたの命を左右することはできない』あぁ…ようするに 家庭事情をなんとかしてから治療法を決めろってことか…。この会話に参加しながらわたしは考えた。わたしならどうしただろう。一か八かの博打に出るか、現状を守りながら細く短く残された人生を生きるか。…きっとその時にならないとこの答えはでないんだろう。わたしが今迷うとしたら チキンライスにするかオムライスにするかくらいのものしかないからだ。それでもお腹がすいていたらオムライスだろうし、安けりゃチキンライスを選ぶくらいの考えしかない。あと100日。そう言いながらすでにそれから15日は経過しただろう。結果、彼は移植のための準備を着々とすすめているのだが、家庭事情は変わっていない。ただ、変わったとしたならば、彼が自分の会社の整理を始めたことだ。おそらく彼の移植はうまくいかない。担当医師がまだ彼に言っていないことが一つある。移植をしてその後生存できたとしても3ヶ月に満たないだろう…ということだ。つまり、成功しても190日。運命は残酷である。
Sep 24, 2006
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約2ヶ月にも及ぶ研修が無事終わった。お盆を境に電車通学から マイカー通学に変えてからは、電車を待つあの無駄な時間やら 電車の時間に合わせて行動しなければならない制限がなくなって自分の時間がわりととれた気がして 少し気持ちに余裕ができてきた。さて、この研修で得たものは何かと考えると…やはり多くの『友人たち』じゃないかなぁ…と思う。長い研修となるとさすがにまるっきり単独行動というわけにはいかず、いろんなグループが自然と出来上がってきて、そのうちのどこかに所属してしまうものだ。たいてい、グループのどれかは問題児が固まっていて、講義中に落ち着きがなかったり、目立つリーダー的存在の人がいる。今回の研修はその目立つグループがわたしの所属していた『精神科ナースグループ』であったことはおそらく間違っていない。この彼女たちがなかなかに面白い個性の持ち主で、かなり気質も荒かったりするのだが、自分の意見をしっかり持っているところがちょっと凹んでたわたしの気持ちにHITしたわけだ。血液内科というやや暗雲立ち込めた病棟からきたわたしは、彼女たちの能天気な話題に引き込きずり込まれていったのだ。果ては『精神科病院に勤務したい』と考えるようになったほどだ。つい昨日まで真剣に今の病院を退職して精神科病院に行こうと考えていたが、今日、病院に研修終了の挨拶にいったついでに気になる患者さんの部屋を覗きに行って患者さんたちが『ようやく終わったか~、待ってたぞ!!』と声をかけてくれたとき、『あぁ…まだ必要としてくれてる人がいるのか…』なんて少し嬉しく思いつつ、軽く落胆した気になった。結局、わたしはここで指導者として働かなければならない使命感から退職は一旦横においておくことにした。この患者さんたちが治療に満足してもらえて、気持ちのいいケアを受けてもらうためには変えなければならないことが山積している。それらの基礎をある程度作っておかなければ まだわたしはここを動けないのだ。わたしが研修に行っている2ヶ月の間に、付き合いの長い友人のような患者さんを二人もなくした。わたしは彼らの苦しみを感じることもなく、最期を見届けることもなかったが、彼らは『あの子、ちゃんと研修受けてるのかな。サボってないかな』とわたしのことを気にかけてくれていた。その間、知らなかったとはいえ わたしは笑い転げたり寝こけていたりして過ごしていたのだ。考えると胸が痛くなり、もっと見に行けばよかった…と反省ばかりしている。ある部分でわたしは、その場から離れたかったのかも知れない。逃げられる時間だけ逃げたかったのだと思う。研修に行っていても 時々患者さんのことを思い出しては考え込んでいるわたしを見て(意図的ではなかったかもしれないが)常に仲間に入れてくれて、楽しい場に連れ出してくれたのが『精神科グループ』の彼女たちだった。彼女たちといるとくだらないことでも腹の底から笑えた。そんな時間を一緒に過ごせたことは幸せだと思えるし、その時間はわたしにとって一生の宝でもある。研修最後の日、彼女たちと一緒に打ち上げ会をした。たくさんの料理をみんなで分けながら、みんないつもと同じように笑って話した。またこれからも定期的に同窓会をしようと言いながらもしかしたらこれを最後に会えない人もいるかもしれない…という気持ちは隠せなかった。おそらくみんな同じ気持ちでいたのだろう。帰り際、グループの中でいちばん若くてギャル系のわりには礼儀正しい彼女が言った。『みんないつもどおり別れましょう。』彼女は若いがなかなか周囲を良く見ている。会の終盤が近づくにつれ沈みはじめたみんなの様子を気にしていたのだ。『そうだね、また会うしね。じゃ~また!!』そういって一本の道から1台、また1台とウィンカーを出して散らばっていくメンバーの車を最後まで見ながら、リーダーの車の後をわたしは走っていた。最後、リーダーがハザードを出してわたしの車から離れた。明日から一人なんだ…とそのときしみじみ感じた。3日間休みをもらって徐々に仕事に復帰する気分を高めつつある今日、PCの前に置いてあるみんなで撮った写真を眺めて引き出しにしまった。大人になってからはなかなか友人はできるものじゃない。そして同じ環境じゃないとそう会えるものでもない。それでもわたしはいい友人を作れたと思う。研修で何を学んだ…というのは説明しにくいが、『いい時間をみんなと共有できた』というのがわたしの感想だろうか。長い間 論文しか書いてないため堅い文章しか書けなくなっているがそのうちまた元に戻るだろう。堅い文章が書けるうちに病院用のレポートも書かなきゃな…。
Aug 28, 2006
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今日、21歳の未来ある命が消えた。以前も確かこの患者について日記を書いたことがある。『退院っていいな』だったかな。今から2ヶ月ほど前、彼女は高熱と吐き気で再入院してきた。骨髄検査の結果は『再発』。彼女が恐れていた結果だった。彼女に残された治療法は骨髄移植しかなかったが、もう時間はあまり残されていなかった。骨髄バンクに登録してあったため照会してみると14人のドナーがHITしたがバンクから患者に骨髄を移植するまでに短くても2ヶ月以上を必要とする。ドナーに問題があった場合はさらに長い時間を有するのだ。そこで彼女の治療法に名乗りをあげたのは 臍帯血移植だった。臍帯血移植なら1ヶ月待てば準備ができる。着々とその準備は進められ、今月21日に移植予定となっていた。しかし、彼女の病気は待ってくれなかった。彼女の骨髄にある白血病細胞は止め処もなく増殖し、脳を包む髄液にまで浸潤していった。激しい頭痛と高熱、吐き気と闘い、昨日は視力さえも失った。それでも彼女は移植の日を待ち続け、希望を失わなかった。だけど、神様も病気から彼女を救うことができなかった。今日、午後には呼吸状態が悪化し、その細い喉には気管内チューブが差し込まれたが血小板の激減している今の状態では少しの傷も大出血を招く。脳幹部への腫瘍の浸潤による呼吸障害も抑えきれず、午後6時半 彼女の明るい未来は途切れた。わたしは研修から戻って病院に駆けつけたが間に合わなかった。目の前の彼女は血まみれだったが、わたしの頭の中には大学の卒業写真を嬉しそうに見せてくれた彼女の表情ばかりが浮かんできた。化学療法とは何なのだろう。彼女の時間をあんなにたくさん費やしても結局 未来を作ることさえできなかった。今は 考えても考えてもこの仕事の良さが思いつかない。ただ、彼女の冥福を祈るのみである。合掌
Aug 2, 2006
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今から3週間ほど前になるだろうか。骨髄提供のための採取OPE目的である患者が入院してきた。骨髄採取のドナーは『善意の塊』を持った人である。少なくともわが病棟のスタッフはそう思っていた。ところがドナーである彼は 今までの患者とまるで違っていた。待合室では『ドナーなのにすぐに診察室に入れてくれない』と外来で一悶着起こし入院後は ドナーには禁煙を言い渡されているにもかかわらずあろうことか病室でタバコをすっていたりした。採取のオリエンテーションのためナースが訪室すると『もう、うるさい!!以前にも聞いたよ』と声を荒げ、まったくナースの言うことに耳を貸そうとしない。基本的にドナーの入院費は移植を受ける患者が負担することになっている。その説明もしてあったのだが、彼は平気で『背中に湿疹ができてるんだよ。この入院のついでに薬を出しておいてくれ』だの『ずっと前から腰が痛いんだ。湿布を処方してくれないか』だのとまるで骨髄採取とは関係ない処方を医師に依頼していた。彼が入院してきた日の夜、わたしは夜勤で初めて彼に会った。『対応注意』それが彼についての日勤ナースからの申し送りだった。彼の部屋に訪室してすぐに彼はわたしに言った。『クスリはまだか』医師が軟膏と湿布を処方したのは夕方遅くだったためまだ病棟には届いていなかったのも悪いが『今から薬剤部に取りにいってきますのでしばらくお待ちください』そう答えてからナースコールや他患者の時間的処置のあと薬剤部にクスリを受け取りに行き20分後再度彼の部屋に行った時にはもう室内灯は消され真っ暗になっていた。まだ19時半である。しかし彼はクスリを催促してきたくらいだから必要なのだろうと考え、わたしは彼に声をかけた。『お薬をお持ちしました。遅くなって申し訳ありませんでした』すると突然 彼は起き上がり『眠っていたのに今頃持ってくるなんて非常識だろ!!謝れ!!土下座しろ!!』えっ土下座ってわたしがクスリが遅れたのは 昼間に頼まれていた処方を夕方まで忘れていた医師のせいである。しかし ここでわたしが謝らないと『じゃあ、骨髄提供はやめだ!』と言われるかもしれない。こんな腹の立つドナーでも この人から採取される骨髄液に一人の命がかかっているのだ。今 やめると言われたらわたしが我慢できなかったために一人のかけがえのない命をなくしてしまうことになるのだ。わたしは全身が怒りで震えるのを感じたが 一度深呼吸をしてからゆっくり床に膝をついて『申し訳ありませんでした』と言った。声が震えているのが自分でもわかったほどだった。最大限の怒りを抑えベッドサイドにクスリを置いていこうとしたわたしに次に彼が言ったことは『今から寝ると言っただろう。クスリは明日の朝もってこい』だった。じゃあ今わたしがした行為は何だったんだだいたい、移植患者の負担でここの入院費を払ってるんじゃないか。それなのにどうでもいいような薬をこのついでに出してもらおうなんてドナーになる人がする行為じゃない。それでも怒ってはならない。わたしが一人の人間の命を摘み取ることは許されない。見知らぬどこかの病院の移植患者に手渡される骨髄液はその患者も家族もわたしたちにとっては憎たらしいドナーの骨髄液その一滴までもに命を託しているんだ。見知らぬ患者のために わたしは土下座をしたその一瞬、プライドを捨てた。しかし、この瞬間、事実上のドナーはわたしのような気がした。プライドを捨てて謝ったことで 『やめた』とは言わせなかった。確かにその怒りは抑えようがなかったが 頭を床につけながら『どうかこいつの骨髄がだれかさんに生着しますように』と心の中で祈ることで自分を抑えきれたような気がした。一人の人間の命は尊い。それを救うことができるなら わたしのプライドなどちっぽけなものだ。2日後、無事骨髄採取を終えた彼は退院していった。後から考えてみると やはり彼のドナーとしての志には感謝しなければならないと思う。どんな人格であろうと 人の命を救おうとした気持ちはわたしたちと同じなのだ。彼の骨髄液は今頃どこかの患者の身体の中で活躍しているのだろうか。そうであってくれることを祈るばかりである。
Jul 9, 2006
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昨日から指導者研修のため 自宅から通勤2時間の研修所まで通っている。往復で4時間を費やすこの通勤(通学)時間…。なんて一日の間の無駄な時間なんだろう。今日で2日目だが すでにウンザリしているのは駅から徒歩で30分かかる坂道だらけの道のりだ。早朝と言えど早足で歩くともう汗だくになる。かといってのんびり歩いていては授業に間に合わない。乗り込む駅が急行電車も停まらないところであることも理由の一つで各駅停車の電車で高校生に混じってラッシュにもまれるのである。これはかなりのストレスだ。研修所に着くやいなや即効で授業が始まるのだがまたこの授業のつまらないことと言ったらこの上ない。まったく知らない人たちの中で どうでもいい題目についてディスカッションするのだ。昨日は『モナリザ』について10分間話し合った。自分の知っている限りの情報と 絵画にまつわる憶測を延々と話し合うのだがこれが何の役に立つかというと、1、見知らぬ他人と話す2、いかなる思考にも耳を貸す3、自分の意見を臆することなく発言する4、自然とグループ内のリーダー格を見抜く…ということらしい。モナリザが終わったら 今度はまったく違うグループに参加し、同じようにどうでもいい題目について話し合うのだ。これを約2時間続ける。今まで仕事で見知らぬ患者たちと話すことは苦痛に思わなかった。それはなぜか。どんな患者であろうと わずかばかりの患者の情報を得ていたからだ。それに比べて 道ですれ違った人といきなり会話するようなこのシステムには人見知りしない私でもかなりのストレスを感じることになった。2日目の今日は丸一日講義。椅子の硬さが苦痛である。テーブルに資料を置いていても目の前に映し出されるパワーポイントのスライドを見てもとにかく身体が痛いことと眠さに打ち勝つことしか頭にない。昼間にこんなに眠くなることなど 仕事中にはまずないことだ。今まで夜眠るために眠剤を飲んでいたが、昨日からは『眠気一発トメルミン』を昼間に何度も飲むということを繰り返している。学生の頃は平気で授業中に寝たものだが大人になってからの研修にそんなわけにもいかず 身体の痛みと眠気と電車通勤の三重苦に苦しみながら耐えるのみである。この調子で2ヶ月…。その生活に慣れたらそれもいいだろう。しかし今度は また普段どおりの夜勤が目白押しの勤務に戻らなければならない。なかなかの『修行』である。明日も5時半起きで早朝のラッシュと坂道ダッシュが待っている。身体がもつだろうか…。この二日間で学んだことは『電車の乗り換え』くらいのものだ。でもせっかく与えてもらった病院からの脱出の機会だ。ピアスもマニキュアも髪型も叱られない世界。これを楽しまない手はない。私服の学校みたいなものだ。精一杯楽しませていただこう。
Jul 4, 2006
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わが病棟に新卒が来て早2ヶ月が経とうとしている。今年の新卒は男の子一人と女の子一人うちの病棟には初の男子看護師である。この時期、もっとも恐ろしいのはこの新卒たちに職員検診の採血をしてもらうことである。新卒たちも何がイヤって 先輩たちの採血ほど嫌なものはないだろう。わたしたちが同業者や医者相手に採血その他の医療行為をするのが苦手なのと同じで医療を生業とするもの同士は見るところが違うのである。案の定、新卒たちはこの日をドキドキして迎えているのだが、ここは性根を据えて挑むしかない。わたしが採血をしてもらったのは男の子のほうの新卒さんだ。この子はやたら声が小さいのが難点であり、優しいのが良点でもある。『それでは採血させていただきます…』う~~~ん、声が小さい!!!!聞こえねぇーーよ!!!『少しチクッとします』あぁよしよし、それくらいの声でOK!!うわっっ!!チクッどころじゃないよ。イタタ…。『あれ…すみません…ちょっとダメだったみたいです…』えぇこんなに血管出てるのに!?『…そんで、どうするの!?いつまでも刺してちゃダメでしょ!!』『あ…ハイ…もう…抜きます…』『もう一回してもいいよ』これは我ながら優しく言ったつもりだが ちょっとそれまでの言動が彼をビビらせてしまったのか『いえ、他の人に代わってもらいます…』ことさらに小さくなった声で彼は辞退してしまった。 これが彼がした採血のあと ↓ この日から4日たつが内出血もないし、失敗はしたがまぁまぁの仕上がりである。さてこの話にはまだ続きがある。このあとわたしが指名したのは看護師2年目になる『血が怖いナース』である。彼女については以前からわたしの日記を読んでくださっている方はご存知だろう。彼女のことを日記に書いたのは2回ほどあるが面倒なのであえてリンクせずにおくことにする。ここであえてわたしがもう一人の新卒ではなく2年目の彼女を指名したのは訳がある。彼女に採血をしてもらったのはちょうど1年前のこの時期である。そのときの彼女の採血技術はひどいものだった。いまだに患者さんから『あの子だけは採血に来させないで』と言われるほどである。しかも技術が乏しいのは採血だけではない。皮下注射をしても血小板の低い患者の腕をモミモミして内出血を起こすし皮内注射をしても表皮1枚の下に針を上手に入れることが出来ずグッサリ刺してしまう。採血にしてもそうだが、ケアはすべてセンスの問題だ。センスがなければ繊細な針運びはできないし、ケアもできない。彼女にはその医療のセンスが欠けていると言ってもいい。わたしは1年ぶりに彼女に採血をしてもらって彼女の『採血センス』がどんなものなのか確認したかったのだ。『あなた、やってみて。○○くんはダメだったけどあなたなら出来るでしょ。』『はい、させてもらいます!!』おっ!?やけに自信タップリじゃないこりゃ~1年間育てた甲斐があったってもんだな。そしていよいよ針が入る…けど あれなんだかサクサクしてるじゃん!!!!『ちょっと…波縫いしてるじゃん…』『でも採れました!!!!!』でも…って!!!!採れたけど痛かったよ!!!! そして4日後の採血あとはコレ ↓ 内出血してるだろぉ~~!!これ!!相変わらず技術は上達していないが 度胸だけはついたようである。まぁ、わたしの腕に針を刺すというプレッシャーにも勝ち、採血は成功したがこれじゃまだまだだ。でも去年は確か手がブルっていたはず。今年はそれはなかったことがある意味進歩したのかもしれない。しかし、出来ないのにヘンな自信を持つことは禁物である。彼女にはこれからそれをどうやって教えていくのかがわたしの今後の課題になる。わたしたちがこの子達に針を刺されるのは半年に一度のことだが、患者さんはそうはいかない。点滴は毎日の日課だし、一日に2回その恐怖を感じている患者もいるわけだ。失敗は成功の元と言うが 彼女の『成功』はまだまだ先が長そうである。とりあえず新卒に負けるな。2年目ナースよ…
May 26, 2006
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以前、同じ『命をかける』ということという題名で日記を書いた。詳細はそれを読んでいただきたい。これはその後の経過報告。気にしてくれている方もいらっしゃることだし、わたしも書かなきゃと思ってた。4月11日。彼の骨髄移植が無事終わった。とりあえず骨髄液注入時の副作用はなく、本人も意外にケロッとしていたものだった。骨髄移植をするにあたって それ以前にかなりキツイ抗がん剤を使用するのだが、まずここで骨髄を空っぽにした患者は薬の副作用と闘わなければならない。激しい下痢と嘔吐、ヘタをしたら腎不全になって命を落とすこともある。彼が超えなければならない第一関門は トイレから立ち上がるヒマもない下痢と嘔吐の嵐だった。夜も眠れないほどの症状が続き、うたた寝をしようものならうっかり失禁してしまうのだ。それが数日あったあとは 口の中半分を覆い尽くすような口内炎ができ、それが潰瘍化した。唇は腫れ、湧き出てくる唾液を飲み込むことも出来ず膿盆にダラダラと流すしかなかった。この痛みは尋常ではないことはお分かりだろう。わたしたちは小さな口内炎が出来ただけで『食べ物がしみる』だの『しゃべりにくい』だのとブツブツ言うが彼のはそんなものじゃない。これは移植したからではなく、全て骨髄生着以前の抗がん剤の副作用に過ぎない。幸い、この『痛み』に対しては対処できるすべはある。『モルヒネ』である。こいつを持続的に投与することで痛みはほぼコントロールできる。もう一つのモルヒネの利点は腸蠕動の抑制だ。モルヒネの投与によって あれほど激しかった下痢はピタッと治まった。しかし、口内炎は治ったわけではない。刺激をしない間の痛みは抑えられるが、必要な薬を飲んだりするときの痛みはなかなかコントロールできないものだ。この痛みを抑えるために使うモルヒネを増量すると吐き気が強くなる。どうしようもないイタチゴッコが続いた。そうして14日間が過ぎた頃、ようやく空っぽにした白血球が増え始めた。生着である。正直、わたしたちスタッフも主治医もここまで持ちこたえるとは思わなかった。わが病院で初の2座不一致移植の成功を収めたのだ。NIMA-BMTという移植の成功率は以前の日記にも書いたように非常に成功率が低い。研究段階である危険な移植ではあったが これを知った上で移植に踏み切った彼の勇気が成功を導いたとしか思えない。ところで、移植の『成功』とはどういうものかご存知だろうか。成功とは 全く元通り元気になることではない。『生着』した時点で『成功』なのだ。たとえこの後、GVHDという移植の副作用のようなもので皮膚がただれて原子爆弾を浴びたようになっても、肝不全で命を落としても、免疫抑制剤の副作用で頭がおかしくなっても『成功』ということになる。彼の移植の目的は社会復帰である。そうするためにはもちろん生きていなければならないし、今までどおりの生活ができて、仕事もできなければならない。今の段階で 彼はまだ点滴につながれ、出血性膀胱炎を起こし一日に数十回のドロドロの血尿を出し、まともに歩くほどの体力もない。水と薬以外のものを口にすることもできないのだ。移植してほぼ1ヶ月。頻回の血尿のせいでほとんど眠れず、ただベッドの上に座っているだけの毎日である。『家に帰りたい』弱音を吐かない彼が数日前 ポツリと言った。シャンデリアのように幾重にも吊るされた点滴を見ながら『こいつを外してくれ』と言う。『頑張ろうね』という言葉をわたしたちは彼に言わないようにしている。彼は充分がんばっているからだ。これ以上の努力を彼に課すのは酷だ。あとはわたしたちが彼に襲い掛かる予測できない様々な苦痛を出来る限りとりのぞく努力をするしかない。これから先には移植後の副作用が待っている。彼の闘いはまだまだ先が長い。7月、わたしはしばらく病院を離れ指導者研修に入る。彼の退院の目途がつくのが先か、わたしがここを離れるのが先か。『命をかけた闘い』の結末を見届けなければこの病院を離れられそうもない。
May 9, 2006
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丸一ヶ月休んだ日記をちょっと書いてみようかな…と思ったのはある夫婦と女性の三角関係を目の当たりにしたからである。その男性患者には事実上2人の奥さんがいる。もちろん書類上は正妻一人であるが、実際には2人の奥さんが交互に付き添いに来ている。3週間ほど前に入院してきたときに情報収集のため立ち会ったのだが患者が検査に出ている間に正妻に呼び止められたことから謎の夫婦関係に足を突っ込むことになる。『夜、付き添いを付けたいんですけどいいかしら?』そう話しかけてきた妻はモデル並みのキレイな人だ。『もちろんかまいませんけど、今の患者さんの状態から考えると付き添いは必要ないように思いますが…』わたしが答えると『いいえ!おそらく彼から付き添いの許可を申し出てくると思うんです。』へぇ~~、そんなに側にいて欲しいのか…。なんて仲がいいんだろう…。そう考えたのもつかの間。患者が検査から帰ってきたときには 側にもう一人女性がついているではないか。 妹かな…。しかし患者について情報収集したときには『妹』なんていなかった。実はこの女性こそ事実上彼が妻としている女性だったのだ。その後、患者である彼から付き添いの申し出があった。もちろん付き添うのはその彼女である。また不思議なことに正妻も彼女の存在を黙認しており、なぜか部屋で3人で談笑しているのである。彼はその後、抗がん剤の治療を受けるのだが、ここでまた正妻は謎の行動にでたのだ。『精子保存をしたいんです』そう申し出てきたのは正妻だった。えぇ2人も子供がいるのに精子保存ところが彼の精子は正妻ではなく 彼女のために保存されるという。それでいいのか正妻よ!!!!女のわたしとしてはこの関係が不思議でならない。しかも彼女も堂々と妻としてふるまっているではないか!!しばらくして少し親しくなった正妻にそれとなくこの関係について聞いてみた。『離婚…って考えたことないですか?』正妻はクスクス笑って答えた。『毎日考えてますよ。でもここで退いたら負けでしょう?』いや…負けとか勝ちとかそれ以前の問題だってば…。患者である彼は彼女と子供を作って籍を入れたいと言う。そしてその計画に参加している正妻もいる。 いったいなぜ!?あっさりしているようでものすごくドロドロしているこの夫婦。ヘタな三面記事やワイドショーより興味深い。彼が退院するまでに結果を見せてくれることを願うばかりだ。
May 8, 2006
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前々回書いた『命をかける』ということの日記の続きを書かなければならない。今日は決戦日である。ドナーである弟は昨日、骨髄採取の前処置のため入院した。今日の午後1時半に手術室に入り、全身麻酔をかけて骨髄採取をする。この日のために弟さんは日に60本も吸うタバコとお酒を止めたのだ。兄である患者に最良の骨髄を提供するためと 自分の安全のためである。ドナー登録を簡単にしてしまう人もいるが 自分の持っているものを最良の形で提供するためには本当にいろんな我慢や努力をしていただかなくてはならないのだ。飲食・趣味嗜好をまったくの他人のために変えられるかと考えたら なかなかそうはいかない。自分の親や兄弟・愛する人のためだからこそ出来るのかもしれない。骨髄は滅菌輸血バッグに採取されてからすぐに病室にいる患者に輸血される。(遠方にドナーがいる場合は凍結保存された骨髄が当院到着後に溶解して使用)同じ手術室で隣に寝て身体から身体へ輸血されるのでもなければ手術のように骨髄を切り開いて植えつけるのでもない。『移植』というと外科的なものを想像するがまったくそうではない。骨髄液は人によって濃度が違うため、濃厚な液の場合は輸血バッグから50ccづつ注射器で吸い取り 点滴のルートから注入される場合もある。これも採取できる量によって異なるが 約1リットルほどの骨髄液が必要とされる。午後1時半から2時間を要して骨髄採取するのだからおそらく午後3時半くらいに彼の身体に新しい骨髄が注入されることになる。ここまでくるのには 実はかなりの変更があった。予定していた前処置の 全身放射線照射ができなかったのだ。全身放射線照射はわかりやすく言えば患者の骨髄の中を空っぽにするためのものだ。ところが 彼は以前に肺の放射線治療を受けていたため、肝心の骨髄を多く作り出す胸椎にひどく損傷を受けていたのだ。これ以上骨髄に放射線を当てることは骨をボロボロにしてしまい半身不随になってしまう危険を伴い、放射線科からストップがかかってしまった。ならばそれに代わる前処置をしなければならない。主治医は内服の抗がん剤を4日間投与した。この抗がん剤はかなりの吐き気を伴うが、彼は吐き気をなんとか抑えながら内服を完了した。その後、さらに強い抗がん剤を点滴で2日間投与し、一日中吐き気・下痢と戦いながら今日に至っている。しかし、本来ならば この全処置で白血球の値が100~200(健常者は5,000~8,000)に落ちるはずなのだが、彼の白血病細胞は頑固で 昨日の時点でまだ1,400もあったのだ。つまり、白血病細胞を完全にコントロールできないままの移植となる。しかも移植される骨髄は2座ミスマッチである。これはかなり痛手となるだろう。でも病院は待てても病気は待ってくれない。ほとんど一か八かの移植に今日踏み切ることになるのだ。彼の体調はまぁまぁ…というところか。実はわたしと彼はこの入院をきっかけにメールで通信している。わたしは毎日彼の病室に行けるわけではない。勤務の都合や研修などで行けない日が多いからだ。しかし、彼がわたしを受け持ちナースとしてかなり信頼してくれていることもあり、他のスタッフや親・兄弟には気を張っているのだが わたしには弱音を吐くことが多い。メールなら彼の不安や辛さを聞いてあげることができる。クリーン室の外の世界を見せてあげることが出来るのだ。おとといは満開の桜の花を撮影し、メールで送ったら『来年は花見に行くぞ!!』という返信をもらった。昨日は少し落ち込み気味の彼に 彼の大好きなパチンコ屋のネオンを動画で送信。『めっちゃ元気でたよ~!!』と返事をもらった。今日は夕方からの仕事なので、移植後に直接顔を出すことにした。全身の血を作り出す骨髄を入れ替えることは 命を再生することでもある。異型移植ならば血液型まで変わってしまうほどの処置だ。怖くないはずがない。主治医が言うように『成功するか否かは神のみぞ知る』のかもしれない。わたしは神など信じないタチだが、彼のために今日は神様を信じよう。明日もあさっても半年後も来年も 彼が元気で生きていられるように。
Apr 11, 2006
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楽天ブログを始めてから373日もたったそうだ。いろんな人のブログを見て 考えさせられたり同調したり…。自分も日記を書きながら 『あ、ホントはこんなふうに思ってたんだ!』とあらためて気がついたりもした。おそらくブログを書き始めてからだと思うが明らかに患者さんに対する見かたが変わってきた。ここで自分の気持ちを吐露することによって 患者さんへの思いが強くなったり、自分の使命がハッキリしてきたからだと思う。以前のわたしは仕事は生活のためのものという考えだったが今は自分の家族を守るような気持ちで患者さんに接することができる。そして自分の仕事好き加減にあきれている。だが その反面 『ここでナニやってるんだろう』 という気持ちも時々浮かび上がってくる。自分の生活の内容や気持ちなんて 他人にはどうでもいいことなのになぁ…と思ったりもするのだ。あ~、ちょっと疲れてきてるのかな。疲れるほどたいしたことやってないのにな。373日は長かったなぁ…。今まで作ったHPの中でも最長記録かな。まだ 今までわたしが登場させたブログの中の人たちのいろいろな結果が書けてなかったり、また、結果が出てない人もいるからここで放置できないけれど 結果を出したら少し休もう。
Apr 4, 2006
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子供の頃からよく使っていた『命をかけるよ!!』とか『一生のお願い』という言葉。なんでもないときになんでもないように使っていた。でも 本当にたった一つの賭けに命をかけることがわたしならできるだろうか。この4月11日、一人の男性が骨髄移植をする。彼は4年半前、悪性リンパ腫で治療を始めた。抗がん剤の投与で寛解(永続的、一時的を問わず臨床的に症状や検査成績が好転または消失する状態)に入るが2年後、骨髄に再発。今度は抗がん剤+自家移植(PBSCT←このページ、難しいですが医療関係者じゃなくても解る書きかたです。)を行い再び寛解に入った。その後、順調に骨髄は生着したが、今回再々発。しかも白血病化したさらに悪性のものとなって現れた。彼はPBSCT以前からず~っとドナーを待っていたが今回の再発では抗がん剤では抑えきれないものとなり、再移植を余儀なくされたのだ。しかし、残念ながらバンクからのドナーは見つからなかった。…というか6座あるうちの1座不一致のドナーは見つかったのだが最終確認でドナーから断られたのだ。骨髄バンクは善意の塊である。バンク登録者はいろんな条件をクリアーした人だけがなれるのだ。しかし その善意の塊の人にも都合というものがある。どうしても休めない仕事があったり、家族の反対があったりしてなかなか骨髄提供に至らない例も珍しくはない。断ってきた提供者にも何らかの都合があったのだろう…。全くの他人に自分の身体を痛めて骨髄を提供することは よっぽどの度胸がいるものだ。そのことを考えたら安易にCMを見てバンク登録などしてはならない。最終確認で断られたことはもちろん患者である彼に言えるはずもなく『遺伝子レベルまで検索したら適合しなかった』と話すしかなかった。残された治療の手段は2座不一致という危険な骨髄移植しかなかった。2座不一致の移植はあまりにもリスクが高く、成功例は少ない。…が、彼の救いとなるのはその骨髄提供者が弟であるということだ。弟には母親由来の遺伝子がつながっており、例え2座不一致であろうと血縁関係という強い絆がある。NIMA-BMTという移植法になるのだが、これはあくまでも確立された治療法ではない。 あまりの症例数の少なさでまだ研究段階である。『研究段階』という治療を受ける勇気を出すことは わたしが生きてきた中では一度もないことだ。おそらくわたしなら『完全に確立された治療をしてくれ!!』と駄々をこねるだろう。しかしそれが選べないとしたなら…たった一つの選択肢に命をかけるしかない。彼の仕事は医療関係者である。しかも長い入退院の間に 同じ病気の人や、骨髄移植をした人たちがどのようにして最期の道を辿ったかあまりにもたくさん見てきている。『断るっていう選択肢もあるんだよ。今なら退けるんだよ』今日まで何度となくわたしたちは彼に言った。ところが彼はいつもこう言うのだ。『退かないよ。生きるためだから』たしかに移植をしなければ彼は白血病細胞に身体の隅々まで占拠されてしまい最期を迎えることになるだろう。しかしまだ最期までの時間はある。今はまだ元気なのだ。歩き、笑い、食べ、友達ともメールしたり会ったりできる。恋人と旅行もできるだろう。だが、骨髄移植がうまくいかなかったら 彼は悪くすれば数日後にはいなくなってしまうかもしれない。逆にうまくいけばもっと長く生きられるかもしれないし、もしかしたら三度目の再発をするかもしれない。症例研究によると生着例は15%…。急性のGVHDで亡くなる例も多い。彼はそのこともよく理解した上で移植を決断している。彼の友人たちは彼がこの病気になってから続々とバンク登録をした。彼を助けるためだった。だが、運命はそう良い方向には向かわず、誰一人として彼とタイプの合う人が見つからず友人たちは別のどこかの患者さんのドナーに選ばれた。何人かはうちの病院で骨髄採取を行い、その善意の骨髄液は遠くの病院に凍結保存して運ばれていった。彼はその友人たちが採取入院するたびにお見舞いにやってきては『ありがとう』と声をかけた。自分のためにバンク登録してくれたからだ。明日から彼の骨髄移植の前処置が始まる。彼も、骨髄提供者の弟も、もう引き返すことはできないのだ。彼に『頑張れ』とはもう言わない。精一杯のことを今までしてきたのだ。この後は わたしたち医療者が出来る限りのことをするしかない。主治医はわたしたちに最終カンファレンスでこう言った。『ただ、祈ってくれ!!』人ノ命ハ人ガ左右デキルモノデハナイ。どこかの本で読んだ言葉を思い出した。冗談じゃない。人が左右しなかったら医療は諦めるしかないんだ。命をかける人がいる限り やるしかないでしょ。4月11日決行日まであと8日。
Apr 3, 2006
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わたしの受け持ち患者さんの一人が退院した。彼女は急性骨髄性白血病。入院当時はおそらく退院できないだろうと言われていたほど急性転化していた。入院したころの彼女は大学4年生。入院の2週間ほど前から 強い倦怠感と微熱に悩まされていた。ある日、虫刺されのような小さな傷が日に日に悪化し、皮膚科にかかった。なかなか良くならない傷を診ていた医師が創部の生検をしたところ悪性の細胞を発見したのだ。入院時、傷は潰瘍化しており 血液のデータ上、白血球のあふれるばかりの増加と血小板の著しい減少が見られた。これから抗がん剤の治療を始めるにあたって 医師は彼女の両親に許可をとり『告知』という手段を選んだ。大学生の彼女にとって白血病を告知されることはかなりの衝撃だっただろう。折りしもその当時は、TVドラマでは『世界の中心で愛を叫ぶ』が放映終了した頃。ドラマの主人公は彼女と同じ急性骨髄性白血病。しかも主人公は抗がん剤の治療を受け、髪が抜け、クリーン病室に入り、愛する彼と病室を抜け出して道端で倒れ、そして結果 亡くなったのだ。病気の説明をするために医師が手渡した治療スケジュールを見て『これ、実感がないけどわたしのことなんですね…』と言ったことを覚えている。彼女はものすごい量の抗がん剤の治療を体験し、バッサリ抜け落ちる髪の掃除を自ら行いながら吐き気と闘った。約半年間をかけた治療の中でも彼女は希望を捨てなかった。血球が上がってクリーン室から出たらこうしたい、ああしたい…。そんな若い子が持つ望みを彼女はずっと持ち続けた。抗がん剤の副作用で変形した爪を見せながら『この爪が見えないように付け爪を作るんです』とラインストーンとマニキュアで自作の付け爪を作った。頭髪も眉毛もまつ毛も全て抜け落ちた自分の顔をスケッチブックに描き、『ここに眉毛の形や髪の毛をイメージしてるんです。どんなカツラがいいかな♪』とウィッグのカタログを見せて相談してくれたこともあった。そんな彼女からある日、『卒業式に出られますか?』と相談を受けた。治療は次で最終回を迎える時期。しかし、どう考えても最終治療後クリーン室から出られる頃と卒業式の日はギリギリの線だ。熱を出したり感染を起こしたりしたら1日ずれても卒業式には出られない。スタッフ全員が彼女の卒業式出席を目標にくどいほどの感染防止計画を立て、彼女にも卒業式の準備を進めるよう話した。式用の袴やカツラをカタログを見ながら準備し、化粧品も揃えた。準備を進めながらも もしも出席できなかったら…という不安もよぎったが何もしないことは彼女の希望を無くすことと言い聞かせて何度も彼女と話し合った。そしてかろうじて間に合ったクリーン室からの出室。翌日 外泊先の自宅から彼女は卒業式に出席できたのだ。完全寛解。この時期を迎えるまでは長かったが、前向きな彼女の姿勢はわたしたちの励みでもあり、希望にもなった。その数日後、彼女はめでたく退院することになったのだが、寛解は『完治』とは違う。あくまでも症状の進行を今現在抑えられたということにしか過ぎない。今後は『再発』という爆弾を抱えながら過ごすことになる。しかし、それでも彼女ならばこの先の人生を十分楽しんで生きていけるだろう。彼女は退院する日にわたしたちにこう言った。『人と人のつながりってすごく大事なんだってわかりました。病気になってわかった大切なことがいっぱいありました。これからは1秒でも大切に生きていきたいです。ありがとうございました』わたしたちこそ彼女から多くのことを学んだ。患者さんを友人のように家族のように大切に思う気持ちや、目標を持って一緒に闘うことの重要性。そして笑顔で退院する人の美しさ。わたしたちにも治療以外で何かが出来るということを見せてもらった。こちらこそ彼女にお礼を言いたい。希望を忘れない視線が印象的なあなたに『ありがとう』
Mar 23, 2006
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これが完成画像です。この間の暗い感じの絵とはずいぶんとかわってますね。そして梅がチラホラと…。春ですねぇ~~~♪
Mar 20, 2006
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以前、rimin(リミン)さんからお借りした画像を絵にしてみた。これがなかなか困難を極めている。そこで気がついた。わたしは遠景を描くのが苦手である!!!いまはまだこの木は花が咲いていないけれど後の描き足しでチラホラ梅の花が咲く予定。仕上がったらまた公開…できるだろうか…。でもrimin(リミン)さんに頼み込んでもらった画像だからがんばんなきゃ!!画像、ちょっと暗いなぁ。ま、携帯画像だし…。
Mar 18, 2006
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以前、息子の同級生の父親が自殺をした記事を書いた。今日は彼の長男Mくんも参加しての小学校卒業式だった。Mくんはほとんどの子供がいつもの私服でやってきている中、ひときわ目立つ中学の学生服で卒業式に臨んだ。まっすぐに背中を伸ばし前を見つめ、常に太腿の上でこぶしを握っていたその姿は、小学生とは思えない凛々しい姿だった。そして卒業生代表の挨拶では 大きく朗々とした声を響かせ、未来の自分たちの抱負について語った。卒業証書を受け取る時、一言づつ校長先生にコメントを言うことになっている。たいていの子供たちは『中学になったら勉強もクラブも頑張ります』とややありきたりの言葉だったが 彼は違った。『僕を支えてくれた人たちや父のためにも これからも前を見て進んで行きます』これは…なかなか親を亡くしたばかりの小学6年の子供には言えない言葉だ。卒業文集には将来の夢が書かれている。『政治家になりたい』彼ならその夢はかなえられそうな気がした。これほどまでに12歳の彼を強くしたものは何なんだろう。母親と離れ、父の悲惨な死を目撃した状況が彼をそうさせたのならばかえって辛く哀しい。わが息子の卒業式だったが、彼のその良く通る声を聞くたびにわたしの目からは涙がとめどなく溢れた。今後、彼が父親の望むとおり、立派な大人に成長することを望んでやまない。・・・卒業おめでとう。がんばれ。
Mar 17, 2006
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5日前に移植した患者の状態が悪化した。バンクドナーからもらった骨髄液だが、思っていたよりも細胞数が少なかったからだ。もともと患者は移植できるほどいい状態ではなかったのだが、抗がん剤では手に負えず、最終手段の骨髄移植に踏み切ったのだ。生着率は20パーセント弱。 これはかなりキビシイ移植になるとスタッフは覚悟はしていた。しかし、患者とその家族にとっては『生きる』ために受ける手段だ。患者は最悪の状態で他の病院から移植のためだけにうちの病院にやってきた。その2日後には熊本から善意の骨髄をいただき さっそくその夜に移植となった。ところが今まで他院で受けていた大量の抗がん剤と骨髄移植の副作用で患者は身体のあちらこちらから出血を始めた。血小板の著しい減少による出血傾向もあり、それを予防するためのリンパ球も患者の身体にはほとんどない。眼球・尿・口の中や腸管からは出血を止めるための血小板をどんなに輸血しても間に合わないほどの血が流れた。それでも生きることを望みに耐える患者。そしてそれを見ながら不安を隠しきれず、『なぜこんなことになったんですか!?』と再々訴える家族。患者本人には『大丈夫。今が一番辛いところです。乗り切っていきましょう』そう声をかけながらも 家族にはかなりシビアな病状説明が行われた。涙ながらに患者の映し出されたモニターカメラを見守る家族に対し、医師はこう言った。『どっちみちこの状態になることは予測できていました』平常な表情で話す医師に家族は目を丸くした。『それならなぜ移植というキツイ選択をしたのですか? しなくても同じならこんなつらい目にはあわせたくなかった』そう言って医師に食いつく家族を尻目に『僕はあと5分ほどしか時間がとれません。とりあえず危険な状態であることは話しておかなければ…と思ってお話させてもらいました』泣き崩れる妻と娘にその直後、医師が言ったことはわたしは忘れない。『熊本まで骨髄をもらいに行った旅費をわたしが立て替えています。○○万円をいただけますか?』なんと、その状況で医師は旅費の請求をしたのである。これにはわたしたち病状説明に立ち会ったスタッフも開いた口がふさがらなかった。確かに旅費は医療代には入らない。しかしその時点で持ち出す話だろうか。ショックで動けない妻をその場に残し、娘は涙を流しながらキャッシュコーナーで現金をおろしに行った。師長がその後、フォローしたが おそらく医師に対する嫌悪感は消えることはないだろう。なぜメンタル面でのフォローが医師はできないのか!?全ての医師がそうではないことはわかっている。充分家族と話し合いながら患者の状況を説明する医師もいる。だが、たった一人そういう医師がいることで信頼関係は崩壊する。患者はそれでも良くなることを信じて治療を受け続ける。その医師に頼るしかないからだ。スタッフは全身全霊をかけて患者を守る。あんな医師には負けない。
Mar 16, 2006
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何とか出来上がり…かな。だいぶ手を抜いたかもしんないな。『祇園の石畳の夜景』を描いたつもり。左側が以前は真っ白だったけど石垣風の塀が描きあがった。額に入れるともっと見栄えがいいけど後で手直しが必要だと思うからこのへんで一旦完成としよう(妥協)
Mar 10, 2006
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数日前、知人が自殺をした。亡くなった彼はわたしの息子のクラスメイトの親だった。彼は数年前に離婚していて 小学生の子供3人を育てていた。もちろん、彼一人では仕事をしながら子供を見ることはできず、彼の両親の助けを得ながらの子育てだった。彼は なかなかに弁の達つ男性で、PTAの会議にはなくてはならない存在でもあったし、見かけも剛健で明るく、傍目にはとても自分で命を絶つようには見えない人だった。彼は学校の行事にもすすんで顔を出し、子供と一緒の競技会には『あいつのオヤジがいるから勝てないよ』と言われるほど何かにつけて活躍する人だ。ただ、見かけがスキンヘッドでイカツイ雰囲気なだけに近寄りがたい雰囲気ではあったが、話してみると意外に普通の『親』でもあった。真夜中にその情報を耳にしたときには 息子に話すべきかどうか非常に迷い、学校から翌日に通夜と葬式の連絡網が回ってくるまで 何も話すことができないでいた。卒業を2週間後に控えた彼らに同級生の親で、しかも良く知った人気者の知人が亡くなったことを伝えることは難しかったが、月曜日になって学校で初めて知るという不自然な状態よりはマシだろうと考え、息子の部屋に行き、そっと彼が亡くなったことだけを話した。息子は『えっっ!?仕事中の事故かなにかだったの!? 卒業式にオヤジが何着て行くかって悩んでるって言ってたのに…。あいつ可哀相だな…。両親ともいなくなっちゃうんだ…』と 少し考え込んでいるようだった。この自殺には いろいろな事件性のある事柄が含まれている。亡くなった彼はある女性と付き合っていたがその彼女も2週間くらい前から行方不明なのだ。彼にも警察からいろいろな取調べがあったらしいが、本人が亡くなった今ではその詳細はわたしたちにはわからない。あれほど強く見えた彼に 自殺するほどの理由があったとしたならばよほどのことなのだと思うが それ以上は警察が調べることだ。ただ、残された彼の子供たちのことを考えると胸が痛む思いである。亡くなる10日ほど前に 最後のPTAの会合があった。授業参観の日だったが、彼はその授業参観にはいつものように顔を見せていた。別段変わった様子もなかったように思ったが、今考えてみると授業参観の後の会合には彼の姿はなかった。いつもならば必ず意見を言い、学校に対してモノ申すような人なのにその日は彼のあの攻撃的なほどの声が聞かれなかったことでなかなか意見が固まらないために会合は夜まで及び、また後日集まることになったのだ。わたしはその『後日』には夜勤で出席できず意見書だけ学校に送付したため彼が会合に参加したかどうかはわからない。彼の通夜には多くの参列者があった。彼の子供の同級生の親たち、学校の先生方、仕事関係の人たち、彼の同級生たち…。しかし、彼の死因について話す人はいなかった…というかその場に子供たちもいるのに その話を持ち出すものはいないのが普通だ。憶測でしかない彼の自殺の原因について いろいろ噂話は飛び交っているがそれらが全て『ガセ』であって欲しいと思う。人には見えない悩みや苦しみがあって、それを表に出せる人と出せない人がいる。彼はあんなに明るかったが、もしかしたら意外に気が小さく些細な事で悩む人だったかもしれない。そう思う反面、少しウワサについて引っかかることもあり、かなり自分としても複雑な心境でもある。行方不明になっている彼女が彼の訃報を聞きつけ、通夜や葬式に顔をだしてくれることを望んだが、それもなかった。『もしかしたら…いや、まさか…』そんなふうに考えながら 我が息子の表情も気になりつつ彼の話題は出さないようにしていた。そして月曜日。彼が亡くなってから息子が初めてクラスメイトと顔をあわせる日がきた。彼の子供はもちろん学校には忌引きのために登校していない。夜遅く仕事から帰宅したわたしに息子が第一声に口にしたのは『オヤジさん、山の中で首吊りしてたんだって…』…世間は残酷だ。小学6年の子供にもいろんな情報は山のように与えられていた。わたしはそれを聞いて『そんなのは憶測なんだよ。ほんとにそうだったらニュースになっちゃうんだよ』と言うしかなかった。いつもなら楽しみにしているTVドラマも見ずに、部屋でうるさいほど鳴らしている音楽も聴かず、早々にお風呂に入り『もう今日は疲れたから寝るよ』と息子は部屋に入ってしまった。卒業式。本当ならば笑顔で卒業証書を受け取る日に彼の子供たちは出席するだろうか。今年 卒業式を迎える彼の長男は生徒会長でもある。卒業生代表で挨拶をする予定だ。彼は残された人たちの苦悩を考えたのだろうか…。しかし、それよりも自分がいなくなることが得策であるとそれを選んだのか。今年の卒業式は あの目立つオヤジがいないことと、その子供たちのこと、同級生たちの気持ちを考えると、心から笑顔になれない複雑な気持ちで迎えそうである。
Mar 7, 2006
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ぼ~~っとしてるときや無意識のときにふと出てしまう生活習慣。病棟で電話をとるときには『はい、○○病棟の○○(苗字)です!』と必ず言わなければならない。これが一日にいったいどれだけの回数あるか…。まるで受付事務のようである。これを引きずったまま自宅に帰り、玄関を入った瞬間にかかってきた電話をとったりすると『はい、○○病棟の○○です!!』とつい言ってしまう。名前を名乗ってるのにもかかわらず向こうさんは間違ったと思って切ってしまうことがよくある。これとは反対に病棟でもぼ~~~~~っとしているとふいにかかってきた電話に『はい、○○です…』と苗字だけを名乗って出てしまったりする。たいていこういうときに限って看護部長からの電話だったりするもので『○○病棟じゃないんですか!?』とイヤミな言い方をされる。プライベートと仕事。頭の中でしっかり切り替えができていない証拠だ。白衣にはいつもボールペンとマジック、メモ帳、カード型電卓が入っている。あ、それに輪ゴムも必需品。毎日のように 必要なものがすぐに取り出せるドラえもんポケットがついているために 仕事以外の場所ではかなり困ることがある。『じゃ~、ここにサインか印鑑をお願いします。』と宅配のお兄さんに言われて自分のポケットに手を入れようとする動作をしてハッとするときがある。そうなんだよ~~。白衣じゃないんだから…。慌てて取り繕って宅配のお兄さんにペンを借りたりするのだ。お菓子の袋を開けて残っちゃったとき、ポケットのテープや輪ゴムを探してしまう。これもいつもそこにあると思っているからやってしまう習慣の一つだ。ただ、哀しいのは 長い入院生活でその部屋はこの患者さんの部屋と頭が覚えこんでしまっているとき。いつもその部屋からナースコールがあるとゴム手袋をして排尿介助の準備をして部屋に向かっていた。自分が休みの間に患者さんが亡くなっていてその実感がないと同じ部屋から違う人がナースコールしてきても、習慣でゴム手袋を手に取ってしまう。そして 『あぁ…もういないんだ…』と少しづつ認識していくのだ。もうひとつ、なぜかわたしは看護記録の体温表をつけていると『絵を描かなくちゃ!!!』という強迫感に追われる。おそらく数年前の展覧会の締め切り前、仕事が詰まっていて仕事は終わらない、絵は描けない、時間がない、記録を書かなきゃならない…という四面楚歌状態になっていたときのトラウマがあるのだろう。特に血圧を示すグリーンのラインを引くとその強迫観念が顕著となる。これはそのときに描いていた絵がグリーンを基調にした絵だったせいもある。その症状はいまだに続き、血圧のラインを引くと『描かなきゃ…』 と思うのだ。絵を描いている時期によくあるのだが、いろんな物を見てすぐに絵の具での混色を考えてしまう。曲面の光や質感・色などをどの絵の具を使っていかに混色するかを勝手に頭で作り上げてしまう。そういうときのわたしは、側にいる人の話によると そのモノを凝視しているのだそうだ。わたしだったら話している途中にそんなことをされたらちょっと退きに入ってしまうかもしれない。これも習慣のひとつなのかもしれない。人にはいろんな習慣があって、自分では普通だと思ってることでも他人には奇怪であることが多い。わたしの知り合いには 必ずミカンを揉んでから剥くという人がいる。理由は『甘くなるから』。わたしもやってみたが別段変わらない気がする。その人とはまた別に、鯖の塩焼きには一家全員がケチャップをつけるという人もいた。 それはその家庭では当たり前であり、そうするものだと生まれて以来疑ったことがなかったそうだ。もしかしたらうちでも気がつかないだけでそんな奇異な行動が当たり前になっているのかもしれない。わたしの文章や表現で『コレはヘンじゃないか!?』と気がついたらチェックくださいね!!!
Feb 28, 2006
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…ってホントに描きかけじゃん!!!あ~~、まだ絵の左側が真っ白だ。これからこれから。きっと描ける。うん、そうだ。言い聞かせないと描けない。そんなもんだ。
Feb 27, 2006
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なかなかこの日記を更新するに到達しないわけは副業のほうに気がいっているせいである。とりあえず いまのところこんな絵を描いている。こいつはまだまだ制作途中…。(途中なら見せるな!って感じ!?)携帯画像なので荒いのは許していただきたい。てなわけで 今月中にこれを完成させて 来月はさらにまだ2枚の絵を描かなければならないのである。完成したらギャラリーに入れておこうっと。
Feb 23, 2006
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今年のうちの血液内科チームの目標は継続した精神的看護を行うに決定した。この目標の取っ掛かりとして、まずは患者さんとの心の交流がなければならない。そのためにわたしたちスタッフは今までより時間をかけて患者さんと話すことにしている。次の仕事の予定が迫る中、長々と患者さんの止め処もない話を聞くことはかなりの忍耐を要するものだ。これがまったくヒマな日ならば ベッドサイドの椅子に座って話すもいいだろう。ところが今は化学療法が目白押しで 何人もの点滴の管理を細かにしなければならない時期にある。タイマーをいくつも首から下げてピピピ♪と鳴るたびにその部屋に駆けつけなければ時間通りに化学療法を終えることはできない。そんな中で話の長い患者さんの部屋からどのようにして退散するかがその日の仕事の効率につながる。わたしたちが忙しい時期であることは長い入院生活で患者さんたちも重々承知なのだが 彼らもすぐに去ってしまうナースに如何に自分の訴えを伝えられるかに勝負をかけているのが見て取れる。検温で入室する際には まずタイマーを持つことが不可欠である。タイマーが鳴ったら こちらも『あ、ちょっとすみません。点滴の時間がきちゃったので…』と部屋を出るきっかけが作れる。次に 別のスタッフにナースコールで呼んでもらうという作戦も有効である。『あ~、呼ばれちゃった。ごめんなさいね。』そう行って退室。これもかなり効く手である。すでに退室体勢で足はドアの方を向いていたり、ドアの外に出て閉まりかけているにもかかわらずまだしゃべり続ける患者もいる。そういう患者さんに限って話の内容はいつも同じで たいていは溜息から始まるのだ。『あ~あ、なんでこんな病気になったんだろうねぇ…』毎度同じフレーズで始まり、中盤は今までの闘病暦に移行する。ラストは『早く楽にしてほしいよ』だ。それが1クール。こんなときに『なに言ってるんですか!がんばりましょうよ!』なんて励ましてはならない。患者さんは充分がんばってるのだ。しかしそこで油断してはならない。瞬時に同じ内容で2クール目が始まる。『あ~~~っ!しまった!!出るチャンスを逃した』後悔先に立たず。 また同じ話を聞く羽目になる。とにかく患者さんたちは自分の話を聞いて欲しいのである。よくそんなに早口で話せるものだ…と思いながら 頭の中はどのきっかけで部屋を出るかで一杯になり 患者さんの話にも上の空になってしまうのだ。もうひとつ困るのが 何か言いたげなのに長い間を作る患者さん。『食事は摂れましたか?』と聞いただけなのに やたら長い沈黙がある。思わず待ってる間に違う患者の所に検温に行こうかと思うほどだ。どれくらい食べられたかを答えてくれればいい。そんな患者さんに限って 『ご飯を2くちくらい、それに煮物の里芋を2くちと人参を1くち、御浸しを…どれくらいかしら…』ああぁーーーーー!!!力いっぱい餅つきしたくなるほどイライラする!!そう心で思いながらも顔は笑顔で『そう、がんばって食べてもらいましたね♪』ようやく長話から切り抜けられて退室するときに『Monkeyさん、いつも時間を割いてくださってありがとう。』これだ…この言葉にやられてしまう。『いいんですよ~。またお話聞かせてくださいね』なんて言いながらゆっくりドアを閉めて退室したあとは半泣き猛ダッシュ!!!!!仕事、終わらね~~よ~~~!!!いい加減気付いてくれよ…。愛しい患者様方。
Feb 17, 2006
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いやぁ~~参った。ず~~~っとインターネットを使えなかったことに気付かないなんて…。(笑)5日くらい前にDVDを見てたらふとADSLのモデムの電源が入ってないことがわかって大慌て!!NTTに留守電を入れても返事がこないし、配線を調べてみても外れてないしで 『こりゃ~使えないな』とわかってからはなんだか気が抜けたようになってしまった。それまで気にもしてなかったのに使えないとなると不安になるものだ。携帯電話を自宅に忘れて仕事に行くことも最近多くなっているのだがたいして使わないのに持ってないと不安になるのは不思議な感じがする。パソコンの機能自体は使えていたので 仕事の書類作りには問題ないし、携帯電話を忘れても どうせ病院では携帯電話は一応使用できないことになっているから 公衆電話で用は足りる。考えてみたら PCや携帯電話は自分にはそう必要なものでもないのかな…なんて考えたりもする。仕事上の連絡が入るものでもなし、自分にとってはそれらは娯楽のための手段として使うものでしかないということだ。ただ、PCや携帯でしか連絡をとらない知り合いからの情報が入らないのは困りものだが、それも毎日ではないため、たまに持ってたらいいか…と思ったりもする。どちらが必要か…というとやはり携帯電話かもしれない。わたしの姉はパソコンを持っていないため 姉との連絡は専ら携帯電話になる。姉はうちの家族とは絶縁状態にあり、連絡をとっているのはわたしだけである。今は彼女は九州に住んでいて、わたしが出張で九州に行く時意外は会うことはない。 それも数年に一度くらいの割合だから 彼女とはこの10年間の間に2度会っただけである。しかし携帯電話でのメールのやり取りや会話は1ヶ月に一度くらいはある。そんな1ヶ月に一度の会話が昨日あったわけだが最近とみに感じるのは姉妹というのは歳を重ねるごとに似てくるんだなぁ…ということだ。自分の話し方や声の感じがものすごく姉に似ていて 自分でも驚くことがある。わたしは姉のぶっきらぼうな話しかたが嫌いだったのだが、最近では自分も同じ話し方になっているのに気付いて『やばい…』と感じることがよくあり、母にも指摘されるほどだ。そんなことを感じられるのも わたしにとっては携帯電話があってこそのことだ。PCのメールなどは電子メールなのだから 誰から来ても同じだと思いがちなのだが、やはりその人それぞれの文章の表現の仕方があってものすごく個性が出ているような気がする。直筆の手紙を見ると 字体などから『変わってないな~』と感じたりするものだけど 電子メールでも充分その感覚を味わえる。わたしはその個性をここで出せているかと考えると ここでは作文的な表現しかできてなくて 本来の自分とはかけ離れているような気がしてならない。わたしはよく人に『くどい』と言われることがある。(確認に確認を重ねるためかもしれないが…その割には独りよがりでもある)そのあたりの表現はここでアリアリと出ているような気がしないでもない。PCの故障から電子メールについて考え直したこともあり姉の嫌いな言い回しに似てきたことも一つの教訓として遅まきながら今年の目標には『自分の個性を主張する』これを加えよう。うん、そうしよう。今回も病院ネタはお休み。
Feb 7, 2006
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昨日、おとといとやたらニュースで見た『ラッシュ』。15年くらい前に流行ったなぁ…。まだ出回ってたことに驚いてたりする。そもそもモノを捨てられないわたしは その昔に雑貨屋で買ったラッシュをまだ持ってる。TVで見てからあらためてビンの蓋を開けてみると…。ありゃりゃ~~。一個はすでに空っぽだ~。でも一個はまだ満タン。(この画像の赤いほうが中身アリ)シルバーのビンのほうは使い果たしたわけじゃなくただ単にガラクタ入れの中で逆さまにして入っていたので揮発したんだと思う。赤いほうは蓋がきっちり閉まっていて 開けるのも難儀したくらい。しかも立てて置いてあったからまだ健在。若かりし15年前はこんなものを買ったんだなぁ~なんて想い出にひたったりする。しかし こんなに残ってることから考えると そう気分の良くなる代物でもなかったんだろう。睡眠剤とラッシュ。なんだか珍しくもない光景だったような気がする。ついでにいまだに持ってるこのタバコも怪しげ。ホンモノの葉っぱで巻いてあるクソまずいもの。吸うと枯葉のニオイしかしない。これもその時代に買ったもの。 2個は未開封だからそういいモノじゃないことがわかる。隣のパイプはインドのお土産に買ったもの。(ちなみに未使用)なんだかなぁ…。最近はもっとスゴイものが出回ってるから こんなモノはなんでもない。参考までに ラッシュはニオイを嗅ぐと頭の血管が縮むような感覚がする。決して気持ちよくはならないし 酩酊状態にもならない。記憶も飛ばないし、気が大きくなったりもしない。醒めるまではほんの数秒。 繰り返し使っても同じだ。ただ、こういう状態に一瞬のうちになるものは身体にはよくない中身なんだろう。ニオイを嗅ぐことでそうなったり、中身が使ってないのに減ったりするってことはかなり強い揮発性があると思われる。ところがニュースではこれを 『一本摂取した』とのことだった。検索してみるとどうやらそのモノの正体はこれらしい。2 検出した成分について(吸引系) 亜硝酸イソブチル・亜硝酸イソアミル [亜硝酸アミル類似化合物] [物性等] 常温揮発性の液体で、特異な臭いを有する。低温でも引火しやすい。 [用途] 亜硝酸イソブチルは、化学工業用原料として使用される。 亜硝酸イソアミルは、狭心症治療薬として医薬品に使用される。劇薬である。 [薬理作用] 冠血管拡張効果による血圧降下作用がある。 [危ぐされる健康被害] 脳貧血、めまい、血圧低下、心悸亢(こう)進、頻脈、虚脱、紫色(チアノーゼ)の唇や皮膚、失神、頭痛、嘔吐、メトヘモグロビン血症、尿失禁、便失禁が起こることがある。大量に吸入すると、呼吸障害を起こし死に至る。アルコールとの併用により、血圧低下作用が増強される。 勃起不全治療薬「バイアグラ」との併用により、急激な血圧降下を起こす危険性が、米国「バイアグラ」製造元から警告されている。皮膚に接触すると、ただれ等の皮膚症状が起こることがある。 ええぇぇぇ~~~~!!! これを飲むのぉ~~!?そりゃ~ムリだろ~~!? かなりニオイきついし、まずそうだよ~!!っていうか 本来は飲むものだったのか!?これを飲んだらそりゃ頭もやられそうだよ。 人も殺しかねないな。今は摘発されちゃって販売ルートはネットくらいしかないみたいだけどこんなものは必要ないだろうね。…と言いながらも 捨てない。だって若いヤンチャだった頃の思い出の品だもん♪
Jan 31, 2006
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今日は母がわたしを生んでくれた日。そう、誕生日なのである。20代まではなかなか楽しい誕生日を過ごせたものだが、最近はそうもいかない。誕生日と言えどズップリと仕事に浸かっている近年は 誕生日がきていくつになったのかもすぐにはわからないくらいだ。ところが 今年は少し違った意味で考え深くなる出来事があったのだ。今日、3回の骨髄移植を経て4度目の移植を待つ患者が亡くなった。彼女には4人の息子がいた。骨髄移植に必要な情報(HLA)が合うのはその中で長男・3男・4男(3男と4男は双子)の3人で 双子はまだ高校生だ。2回目までは生着不全で3度目の移植はうまく生着はしたが、彼女の白血病細胞は強固らしく、再発を起こした。3度目の移植からわずか半年だった。再発後の彼女の病態は思わしくなく、4度目(4男からの骨髄使用予定)の移植に踏み切るきっかけを待っていたが なかなか時期は訪れなかった。なぜなら以前に移植した時期から日が浅いため彼女はまだ免疫抑制剤を服用していたからだ。免疫抑制剤は自己免疫を抑える薬で、新たに移植したほうの細胞・免疫を活躍させるために飲む。本来はそうして新しい骨髄が元気に生着するのだが、彼女の血液は指の先まで白血病細胞で侵されてしまったため、それを飲むことで更に白血病細胞が活性化し悪化するのだ。しかし、免疫抑制剤を切ることで最もコワイのがGVHDを起こすことである。GVHDは重症化時には生命の危険にさらされることもあるのだが、彼女の場合は免疫抑制剤を切ることによる手段をとり、GVHDをわざと誘発し自分本来の力を引き出すしか手がなかった。結果的にはそれが彼女の命を縮めることになったのかもしれない。彼女の腕には4人の息子たちから贈られたパワーストーンのブレスレットが常にあった。勇気・愛情・健康・夢。すべてを叶えるための石だった。前回、退院する前に彼女は言った。『病気になったらわかったけど、家族のためにと思って自分のやりたいことをいっぱい我慢してきた。でもこれからは少しづつ自分のやりたいことをやっていきたい。だけどこうして周りを大事にしてきたからみんなはこんな私でもすごく愛してくれている。 こんなことって後になって解るものだね』そう言った彼女は結局 自分のやりたかったことが出来ずに逝ってしまった。わたしの誕生日が 勇気いっぱいで大好きだった患者さんの命日になった。急性骨髄性白血病。近年では社会復帰できる人も大勢いる。 不治の病ではなくなったのだ。しかし全員が完治するわけではない。まだまだ彼女のように志半ばで亡くなる方も多い。いつ何が起きるかわからない人生。思うように自由に生きて人生をなりふりかまわず謳歌することは難しい。でも 自分を抑えながら生きてきたら最後に後悔するだろう。わたしが今 こんな病気になったら何が残せるだろうか。いろんなことを考えさせられる誕生日になったがわたしは彼女に感謝している。1年歳を重ねられること。こうして普通に健康に生きていられること。こんなに感慨深い誕生日を迎えられたこと。それをあらためて教えてくれた彼女に、……合掌……。
Jan 26, 2006
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人は寝てるときに自分を見ることはできない。よく『こんな寝言いってたよ~』と言われてドキッとすることがある。本当にそれだけだっただろうか…。他にヤバイこと言ってなかっただろうか…。それを聞き返すとかえってヤバイことになりそうで聞けないものだ。たいていの人は多くの人に囲まれて目を覚ますことは少ないだろう。この『囲み覚醒』を体験できる手段の一つは全身麻酔の時だと思う。この間、骨髄提供をしてくださるドナーさんが入院してきた。さすが他人に自分の骨髄をくださる方、温厚な性格で奥さんにも子供にもとても優しい人だった。『ご主人、とても穏やかな方ですね』奥さんにそう言うと、奥さんも『みなさんそう言ってくださいます。でも優しすぎて人が良いのも困りますけどね』と これまた人のよさそうな笑顔で答えた。いい夫婦だなぁ…。こんなふうな夫婦になりたいものだ…。そうしみじみと思ったりもした。さていよいよ骨髄採取の日。採取はOPE室で全身麻酔で行われる。採取後は麻酔が完全に醒めるまでICUで管理されるためわたしたちスタッフは覚醒の時間を見計らってICUに様子を見に行った。ちょうど気管内挿管が抜かれるときで、ドナーさんは半覚醒状態だった。何をおいても奥さんから『頑張ったね』と声をかけてあげて欲しい。そう思ったわたしたちは奥さんをICUに面会に入れることにした。奥さんはまだ小さな子供を抱いて父の素晴らしい姿を見せるためにそ~っとドナーさんに近寄った。そして肩に手を置いて声をかけようとした瞬間。『何するんじゃ!!アホンダラ!!!』おまけに彼は奥さんの手を振り払ったのである。奥さんは飛びのき目をまん丸にしているし、わたしたちも絶句してしまった。子供は見たこともない父親の姿と大声に泣き出すし、奥さんはオロオロするばかり。とりあえず奥さんと子供をICUから出し、しっかり覚醒させてからもう一度面会していただくことにした。ところがこの彼、なかなか麻酔から完全覚醒しない。呼びかけては暴言を浴びせられる上、身体に触れようとすると大暴れ。廊下で涙する奥さんに何か声をかけてフォローしなければ…と近づくわたしたちよりも先に 麻酔科の医師が奥さんに言った言葉は、『全身麻酔から醒めるときには本来の気質が出るときがあるんです。心配いりませんよ~♪』…まるでフォローになってない…。仕方なく一晩ICUで管理してもらうことになり、奥さんには『心配ないですよ。明日には部屋に戻っていただけますから。』と とりあえずお引取りいただいた。翌日、ドナーさんは採取前の穏やかな彼に戻って帰ってきた。『手術後のこと、覚えてますか?』と念のため聞いてみたが全く記憶がないとのこと。奥さんは『あんな主人を見たのは初めてです…』と落ち込み気味。『ときどきあるんですよね~。何か夢でも見てたんですかねぇ♪』そうは言ってみたが 麻酔科の医師の説明が頭に張り付いて仕方ない様子だった。全身麻酔から覚醒するときには悪夢をみることが多いという。彼もそうであったことを願う。麻酔から醒める時、本来の性格がでることはよくあることだ。特に、普段抑圧されているものが表に出ることが多い。もしかしたら彼もキレるとあんなふうに暴言を吐いたり、暴力をふるったりするタイプなのだろうか…。ドナーさんはその翌日、『少し痛みはありますけど、こんなものは病気で苦しんでいる人に比べたら何でもありません』と 入院時と同じ穏やかな笑顔を見せながら退院していった。今後も『いい人』のままでいてくれることを心底願うばかりである。こんなふうに家庭内で新しい衝撃を巻き起こした採取であったが、何よりもこの本性を見せた(!?)彼の善意の骨髄が 誰かの身体の中で生着することを祈る。何かの機会に全身麻酔を受けることがあるならば自分がそのときどんなことを言ったか ぜひ確認していただきたいと思う。本来の自分の姿が垣間見えるかもしれない。
Jan 20, 2006
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ここしばらく何事にも意欲のなかったわたしが ちょっと笑ってしまった映画がある。『 いらっしゃいませ、患者様』これはなかなかふざけた映画だが、出演者は有名な人ばかり。主演に渡部篤郎、患者役で病院プロデューサー(コーディネーター!?)にハウンド・ドッグの大友康平が起用されている。内容はこれまたバカげているが、借金で首の回らなくなった病院を立て直すために 過剰なキャバクラ同様のサービスを行うのである。サービス内容は■ナースは写真入りパンフレットで指名制■気に入らないナースはチェンジできる。■口移しバリウム(味は3種類)■膝枕点滴■寂しくないように同伴CTスキャンこれらの全てに追加料金(サービス料)がかかるのだ。ナースたちは指名料を稼ぐため 自分に磨きをかけていくことでどんどん派手になっていく。ありえな~~~い!!!と思いながらも あまりの面白さとバカバカしさに最後までしっかり観てしまった…。たいていの病院モノは医療用語をわかりやすく変えたものが多いがこの映画の感心したところは キチンとホンモノの病院で使われている医療用語が駆使されているところ。救急の場面でも かなりしっかりと『そうそう!!』と思えるほどさすが渡部篤郎!うまく演じている。医師はこの他に二人。一人はディズニーランドでバイト経験のある医師で 診察室もアドベンチャー風になっている。患者の診察もサファリルックで、診察室もジャングルのよう。いや~、こんな病院では実際は診察してほしくはないがちょっと勤めてみたい気持ちになる。こんな映画でも ちゃんと患者の生死観を捉えているのがミソである。つまんない休日、ちょっと暇つぶしに負担にならない映画が見たいと思ってる方にはお勧めだ。『患者様』『医療はサービス』そういう今の時代を軽妙に、しかも過剰に描かれているこの映画、お暇なあなた、どうですか?明日の夜あたり観てみてください。コレを観て『あ~、明日の日勤がんばろ~っと!!』と思うわたしはかなりのバカですな…。
Jan 9, 2006
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わたしがこの仕事をはじめて17年。今まで『これで命を助けた!!』という実感はあまりない。Drの言うままに医療行為を行うことや急変の早期発見で命を救ったということは日々ありふれたことでさほど感動を覚えなくなった。それは『自分でなくても技術があれば誰でもできる』からだ。2年前、わたしはある患者の受け持ち看護師になった。悪性リンパ腫のめずらしいタイプで 医師も症例研究の題材にした患者だった。当初の彼の印象は あまり話さず、愛想がなく、必要な情報だけわたしに伝えたらすぐに部屋から追い出そうとしているやりにくい患者だった。検温のついでにコミュニケーションを…と雑談を切り出しても『そうですね』『わたしはいつもと変わりありませんので他の患者さんの話を聞いてあげてください』そう言うだけでほとんど会話らしいものをできずにいた。そのうちにわたしは彼のことが苦手と感じるようになってしまった。人間には相性というものがあって、たとえ看護師であっても誰にでも合わせられるというものではない。ところが、ある朝、廊下にわたしの苦手な大蜘蛛がいた。う~ん、こいつがいる限りわたしはここを通ることができない…。しかしこの早朝に他のスタッフも忙しく、蜘蛛の退治ごときで助けを呼ぶことも出来ない。考えに考えた挙句、あろうことかわたしはナースステーションに戻りその愛想のない彼の部屋のインターフォンを鳴らして言った。『あの~、蜘蛛は苦手ですか?』『……なんのことでしょうか』と彼。『大きな蜘蛛があなたの部屋の前に陣取ってますが…』『…キンチョールありますか…』『いいえ、ないので申し訳ありませんがわたしはそこには行けません。お熱だけナースコールでお知らせください』その後、廊下を覗くと彼が自分の部屋の前で新聞紙を丸めて蜘蛛退治をしてくれていた。彼は戦利品を新聞紙に乗っけてナースステーションまでやってくると『36.7度でした』とわたしに報告した。その瞬間、わたしは彼との境が少しだけ薄くなったような気がした。彼は告知されたばかりで軽い鬱状態だったのだがその日を境にわたしや他のスタッフとも少しづつ話すようになった。わたしは時間があると 彼の部屋で雑談したり、インターネットで彼の病気について一緒に調べたりした。抗がん剤の治療のある日は今まで以上に彼の部屋で気を紛らわすために会話をしたりもした。そんな彼も長い入院生活を終えてようやく退院の日を迎えることが出来た。友人のように親しくなった彼が退院していくのは嬉しくもあり、寂しくもあった。彼も同様に感じていたのか わたしたちはメールアドレスの交換をして彼の妻と子供たちともいまだにメールのやりとりをしている。毎年、彼は妻と海外旅行に行くのが習慣で、去年のクリスマスもグアムで過ごしたそうで、『お土産を渡したい』とメールが届いた。彼は退院以後、いろんなところに旅行に行ってはお土産を買って来てくれる。これを遠慮なくわたしはいただくのだが、なぜそんなにわたしごときに良くしてくれるのかがわからなかった。年末、病棟にお土産を持って彼はやってきた。いつものように廊下で立ち話をしていると 主治医がやってきて言った。『どうしてMonkeyさんとそんなに仲がいいのかな。奥さんがヤキモチ焼くよ』それを聞いて彼は言った。『Monkeyさんは僕の自殺をとめてくれたんです』『えぇぇーーー!?』((((((°°;)そんなこと一度も言ったことないぞ!!!!あとから聞くと 彼は蜘蛛退治の日、外出の予定だったそうだ。う~ん、確かにそうだった。(ような気がする)彼は本当は外出したままどこかで自殺しようと思っていたらしい。それが わたしの間抜けなナースコールの内容で時間を逸し、おまけにその後のわたしの長い訪室で外出予定のバスに乗り遅れてしまったのだ。『地獄行きのバスに乗り遅れた』彼はそう言って主治医の前で笑っていた。お土産のボージョボー人形には手紙が添えてあった。『Monkeyさんの願いをかなえてくれますよ』わたしは2年間も彼の気持ちを知らなかったが彼はそんなふうにわたしにいつも感謝の思いを持っていてくれたのだ。家族以外でわたしをこんなふうに必要としてくれる人もいるのだ。医療じゃなくても人を救うことができる。他人が考えるよりも 些細なことでくじけたり、立ち直ったりするのだ。こんなわたしでも人の役にたったんだなぁ…なんてしみじみ考えたりしてしまう。ボージョボー人形は いろんな願いをかなえてくれるらしい。後ろで手を結んだら『お金が貯まる』ペアになっている人形の手足をつないだら『仲良くなれる』。そのほか人形に願い事を話すといいらしい。(説明書によると)欲張りなわたしは 人形の手を後ろで結び、二つの人形の足をつないだ。『家族がず~っとお金に不自由なく仲良くいられますように』もうひとつのお願い事。『彼が病気に勝てますように』
Jan 8, 2006
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どうやら2006年に突入したようで巷は正月も終わりのようである。こちらはというと 年末年始変わりなく患者があふれかえっている。この時期に外泊できる患者は 普段からそう手がかからない、いわゆる『いい子』の患者。寝たきりの患者や重症患者は普段と変わりなくここにいるのである。年末に退院した空き部屋には新規の重症患者が入院し、いつもよりも更に忙しく病棟が回転することになる。おまけに休日入院の新規の患者は主治医が決まっていないから、たいした検査や処置をすることもなく進展も後退もない。ただただ満室の部屋をどうにかこうにかやり繰りするしかないのだ。そんな正月が終わって今日から正常に外来が始まるのだがこの年始ってやつがまたやっかいである。今度はその新規の入院患者たちが 一気にいろんな検査を始める。今朝の採血は46人。朝から1時間でこの採血を終わらせなければ検温にも回れず、患者の朝食にも間に合わない。特に冬の朝、暖かい布団から腕をすんなり出してくれる患者は数少なく、麻痺のある患者ですら寒さで硬縮してしまい 腕は曲がったまま。更に冷たい感触のアルコールで拭くといっそう腕を引っ込めてしまう。血管も冷えていては出てこない。そんなこんなで 今朝の採血は2時間を要した。会話のできる患者からは朝食を待たせたことで相当の苦情をいただき、その苦情を聞いている間に 真夜中には眠っていたはずのゾンビたちが動き出すのだ。このゾンビたちとは、休日の間に入院してきた不穏患者である。自宅や今までいた施設と景色が変わるため、高齢の患者は6割強 不穏行動を起こす。夜は睡眠導入剤や安定剤で眠らせるのだが、朝からそんなものを使うわけにはいかない。そうなると当然、点滴が入っていることを認識できずに歩き出したり、自分に麻痺があることをわからずに立ち上がって転倒したりするのだ。わたしが患者に叱られている間に 向かい側の部屋から出てきた患者は確か持続点滴につながれていたはずだった。真夜中に見たときには身体の向きすら自分で変えられないほどクタクタに眠っていたのだが、あろうことか腕からダラダラ血を流しながら廊下を歩いている。『○○さん、点滴どうしたの!?』そう言って追いかけようとすると別の部屋からナースコール。『すみません、来てください!!隣のおばあさんが…』廊下に出てきた患者を車椅子に乗せて保護したまま その患者を連れてナースコールのあった部屋に駆け込むと入った途端に何かにつまずく。『ナンだ!?』自分の足元を見るとベッドからどのようにして降りたのか片麻痺のある患者が床を這い回っている。また始まった…。ゾンビの徘徊だ。これは年末年始に限らず、大型連休の後はよくあることだ。認知症の施設入所者はなぜか連休になると自宅に帰される。ところが自宅では連休こそ自分たちの手を煩わせたくないものだ。だから微熱が出ただの、食事を摂らないなどと理由をつけ今度は病院に入れようとするのだ。施設側は病院に紹介状を書くため、病院は受け入れざるを得ないのである。普段 施設にはお世話になっている手前、断るわけにもいかず結局引き取ることになってしまい、この始末である。こんなときその患者の家族はどうか…というとこれが『着拒』という手段をとり、電話にさえ出ない。『病院にお任せします』という割には 点滴が腫れたり、転倒したりの事故があると必ずといっていいほど文句を言われる。小さな家の中で手に負えない人を 広い場所で管理できるわけがない。急な麻痺の入院患者でさえ、年始はお客が来るからという理由で家族も来ない。これはいったい何だ!?病院は収容所じゃない。年始早々 愚痴るわけではないが、何かおかしい。ゾンビたちを預けておいてオムツではなく、旅行の土産を持ってくる家族にあきれながら、今年もわたしたちは病院で戦うのである。そんな患者も幾日かたつと笑顔で病院を後にする。『ありがとうね…』とシワシワの手を振りながら帰っていく様子は今までの苦労を忘れさせてくれるほどカワイイものだ。『じゃぁ、元気でね』そう声をかけると『ハイ、またね。』・・・いや、もうこなくていい!!!!…ということで、今年も同じ状況で働くわたしども医療従事者を温かく見守ってくださいませ。今年もよろしくおねがいいたしまする。
Jan 4, 2006
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以前、わたしの日記でリンク先の【まっち】さんとBBSでとりあげたことがあったが、うちの近所に出没する片耳のない紀州犬『芳一』。『芳一』は 耳がないことにちなんでわたしが勝手につけたニックネームだ。ところがこの犬、実は『雌』だったのだ。なぜこの犬を紀州犬とすぐ気付いたかというと以前、我が家にも雌の紀州犬を飼っていたことがあるからだ。犬の名前は『ハル』。この地域は紀州犬を飼う人はほとんどいない。それをわざわざ和歌山のあたりまで行って買った犬だった。この紀州犬『ハル』、実はものすごく主人には忠実であるがそれ以外の人には全くなつかず、主人(わたしの父)以外には側に近づくだけでも唸り声をあげる。犬小屋に触ることすら父以外の家族はできなかった。餌も父だけがあげることができる。ところが ある日、この唯一なついていた父にも『ハル』は牙をむいた。父の親指の付け根にはひどい縫い痕が残った。主人でさえ手におえなくなったこの紀州犬をどうしたらいいのか…。悩んだ末にずいぶん離れた山の奥地に猪の猟をするために紀州犬をたくさん飼っているお宅があることを保健所の方に聞きそこにあずけることにした。猪猟には気性の荒い紀州犬が向いているという。猟師さんはこころよく受け入れてくれたが『猪と戦うのだから負ければ死ぬということだよ』と言われた。猟師さんが我が家に『ハル』を引き取りに来た日、父は自宅にいなかった。おそらく自分にだけなついていた『ハル』との別れに立ち会いたくなかったのだろう。わたしたちが触ることもできなかった『ハル』を猟師さんは上手に猪の生肉で手なずけ、トラックに乗せて行った。そしてあれから5年ほどになる。生きていれば7歳の老犬だ。うちの近所に住みつく紀州犬もかなりの老犬。そしててっきり雄だと思っていた『芳一』は雌だった。今まで性別がわからなかったのは、犬に近づくと向こうがあっという間に逃げてしまったからだ。今朝、寒い我が家の庭の隅に丸まって眠っていた『芳一』を見つけ父が近寄ってみたが まったく逃げようとしない。『お前、ハルか…?』そう言って手を伸ばすと 身を返して逃げてしまったそうだ。この近くで紀州犬を飼っている人はいないと聞いている。どこかから逃げてきたのだろうが、まさかトラックに乗せられていった山奥から『ハル』が帰ってくるはずもない。しかし、『芳一』はどこにも行かない。この近所を棲家にして 空き地の材木置き場に身を潜めている。もしかしたら本当に『ハル』なんだろうか。猪に傷を負わされて弱気になったハルかもしれない。繋がれるのが嫌いで 人が嫌いだった『ハル』。きっとその原因はわたしたちにもあるのだろうけれどそれをわかってあげられなかったために 手放してしまった。『芳一』と呼んでも来ないのは雌だったから?(笑)今日からは雌犬だから『ハル』と呼ぼう。残念ながら我が家では『ハル』を飼ってやることはできない。うちには柴犬が1匹、のんきに《おうち犬》としてのさばっているからだ。もしも『ハル』だとしても彼女はうちに帰ることはないだろう。この近所の人たちは彼女が何もしないことを知っている。庭先に少しづつ食べ物を置いてあげている家もあるらしい。時にはその家の軒先で眠り、朝になるとまたいなくなる。それでも毎日そこに食べ物をもらいに来ることはないらしい。街なかで野良犬を放置しているのはいけないことだろうが彼女はこの街の中で のんびり生きているのだ。もうしばらくこのまま見守ってあげて欲しい。
Dec 29, 2005
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今日は久々に(って言っても2週間ぶりくらいだが)90歳のおばあさんの死後処置をした。わたしのリンク先の『秘密の洗体レディーさん』の日記を参考にしながらプロ仕事には全く及ばないが 出来る範囲で持っている材料を駆使しながらなかなかにキレイなメイクアップが出来たように思う。以前の元気だった頃のおばあさんの写真を見ながらこけてガリガリになった頬に不自然じゃないほどのボリュームを持たせ、メイクも皮膚の下にうっすらわいてくるような血色をプラス。スタッフのみんなに『眠ってるみたいだね』と褒められてやや有頂天のMonkeyです。こんなふうにいろんなタメになる技術を知ることが出来るのはここで『洗体レディーさん』に出会えたおかげ。感謝してます。ありがとうございます!!!ここまで書いて気がついたけど『洗体レディーさん』の日記にコメントを書くべきでしたね。バカなんで見逃してください!!!
Dec 25, 2005
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年々大きくなる子供たちのクリスマスプレゼントは何にしようか悩み深い。上の子は6年生。そろそろ携帯が欲しいというが あんなやつに携帯を持たせたらえらいことになる。普段から電話魔のヤツのせいでうちの電話料金はデカイ。そんな理由で 今年のプレゼントはまだ携帯じゃなく友人から安くで売ってもらったPSPのほとんど使ってない中古品。しかもソフト2本付きで1万円弱。う~~~~ん、安い!!!!我が家でチャチなラッピングをしてクリスマス仕様にしておいた。サンタなんていないと思っているヤツだから中古品でも買ってやる親心、そろそろわかってくれるだろうか。下のチビはまだ1年生。サンタさんをかたくなに信じている。おもちゃ屋には完売の張り紙のある『携帯たまごっち』をオークションで格安にGETした。これは携帯と連動しているため通信料がバカほどかかるということで今回は秘密のパスワード付きのたまごっちを手に入れた。これでわたしの携帯には被害は及ばない…と思う。実は今 彼女が持っているたまごっちは10年以上前の初期バージョン。これも物持ちのいいわたしが押入れの奥深くから未開封発見し、子供にあげたものだが、友達のと比べると機能が違うということで寂しそうだったため今回は新品のたまごっちを買ってあげた。こいつらもいつかは一緒にクリスマスを過ごすことがなくなるんだろう。子供たちが彼や彼女とクリスマスを過ごすようになってきっと家族水入らずのクリスマスを迎える日はそう多くなくなると思う。それまでは真夜中に枕元にプレゼントを積み上げる楽しみを味わわせてもらおう。昔、わたしが幼かった頃、朝目覚めたらキレイな包みに包装されたプレゼントがいくつもあったあの喜びを心から喜んでくれるうちは クリスマスを一緒に過ごそうと思う。『尊敬する人はお母さん』そう言ってくれる息子(小学6年)は いつまで一緒にクリスマスをすごしてくれるかな。『お母さん』よりも『彼女』を選ぶまでサンタを続けたい。今日、目が覚めたらどんな顔するだろう。毎年 ちょっと楽しみな25日の朝である。
Dec 24, 2005
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最近の若い医師の自信マンマンの態度に『なんだ!?コイツ!!』と思うことがある。この自信はどこからくるんだ!?大学でどんなに成績が良くても 実際の医療の現場でも優秀とは限らない。もうすぐ退院と言い渡された80歳の患者。しかしこの患者、ほとんど食事は摂れてない上に点滴の指示もない。『こんな状態じゃ自宅にも施設にも行けませんよ』担当医師にそう言うと『データは上々ですから』との返事。患者はデータだけでは診られない。データに精神的な苦痛が表れるわけがない。話を聞くこと、表情を見ることも診察のひとつでもあるのだ。うちの病院は若い医師は救急を請け負うことが多いがより多くの患者を早く診察し、さばけることがステータスのようにもなっている。それが今の若い医師たちの意味のない自信につながっているように思う。医師が患者を診察する時間は平均2分とも言われている。それに比べて わたしたち看護師はどれほどの時間この患者たちに接しているのか。検温・清拭・日常のケア・夜勤での巡回、時には不穏行動のある患者にはほとんど勤務の時間内ずっと連れて歩く時もある。その報告をしても『あぁそうなの』と言うだけでろくに診察もしない。採血の指示や画像の診断だけで患者を診る。ひどい医師になると 患者の名前を言っても『それ、誰?』などとすっとぼけた返事をする。循環器(心臓)内科の医師などは 患者の名前はわからないが、心臓カテーテルの画像を見て『あぁ、このAMI(急性心筋梗塞)の人ね』と気付くのだ。消化器内科の医師もしかり。患者の名前も顔もわからないが、内視鏡でのポリープの画像を見て『この人 僕がポリペク(ポリープ切除)した人だぁ!』。患者がどれほどこの医師たちを信頼してついてきているのかわかっているのだろうか。ここで面白いHPを見つけたので見て頂きたい。題して『恐怖の医者用語辞典』これはこれから医者に診てもらおうという人や今現在、病院で診てもらっている人になかなかの朗報でもある。実際、この状況がわかるだけにちょっと笑えるし、頷ける。無許可で借りてしまったので、あとでこのHPのお医者様に事後報告しておこう。叱られるかな(笑)でも、このHPのお医者様は正直な方で、好感が持てる。ぜひこのお医者様の他のページも見て欲しい。ちょっと病院への見かたが変わるかも!?
Dec 18, 2005
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ここでこの時間に日記を書いていること自体、今現在シラフであることをご理解いただきたい。……が、下戸だったはずのわたしは やはり昔 大酒のみだった体質を忘れていないらしく、自分なりにはかなり大量のお酒を飲めたのだ。これには自分でも驚いた。今日はどれくらい飲んだだろう。カウントできる範囲では生中ビール3杯、日本酒をコップ2杯、酎ハイを1杯…。あとは注ぎにきてくれた量が不明なのでそれを全部飲んだ。食事は二の次で あとは恒例のビンゴゲームと余興の出し物なのだが、何でこのビンゴゲームの景品が『手錠』なのかが不明。メイドカフェスタイルの新卒さんたちは可愛かった。若いっていいなぁ~と羨ましく思ったものだ。その後はコスプレ大会となり、DrたちはHGの衣装、ナースはあらかじめ準備されていた中から自分の好みの衣装を着ることになった。わたしはその中でもキャラ的に抜擢されたインリンスタイルをつけることになったが、M字は出来なかったのがまだ理性が働いていたということか…。この衣装にビンゴで当たったばかりの手錠をつけエナメルブーツというのがどうも策略にはまったような気がしてならない。この衣装のおかげで寒さのあまりしこたま飲んだ酒も切れ今のテンションにダウンしたことが なによりの救いでもある。Drたちはゴリエの衣装でダンスを強要されていたが、あまりにも疲れたのか、その後もその衣装のままで真顔で席に着き、移植についての真剣な話を始めたが その状況がなぜか哀れで仕方なかった。前日に書いたキス魔のクセは小出しにして 帰りにお礼としてちょっとだけにすることにした。ここで自制できるのは大人になった証拠(!?)だろう。泥酔したDrは豊満な胸のナースの胸に千円札を挟むという御褒美をくれたそうだが、わたしのところには挟みに来なかったことがわずかにむかついたりする。(欲しかったわけじゃないことはここで明記しておきたい)約3時間の宴会が終わり、2次会に行く話もあったがわたしは遠慮しておいた。このあと飲み続けたら大変なことになる。ここでわたしはおとなしく退散することにした。日頃の不平・不満をぶちまけながら ややストレス解消ができたことが今回の宴会の結果として満足でもある。病院の宴会というものは『下ネタ満載』でわたしが患者ならば 悪いがこの医師たちには診てほしくはないと切実に感じたものだ。明日になったら またいつもの業務に戻る。年に一度、こんな医師や看護師の裏の姿が見られるのもいいものだ。そして来年こそ 傍観者に徹することを決心した夜だった。…ところであの衣装はどうするんだろう。それが気になってならない。たまにはこんなふうにはっちゃけるのもいいかもしれない。しかし疲れた。そして腹が減った…。
Dec 15, 2005
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