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2025.11.14
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カテゴリ: 旅行専科
ↈ世界遺産 ●フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路


ↈ世界遺産




●フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路  
国:フランス  登録:1998年





ランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路はフランスの世界遺産で、4都市を基点とし、それが2つになってピレネー山脈を越えてスペインで合流し、サンティアゴ・デ・コンポステーラへと続く巡礼路です。

ローマ・カトリック教会は、大巡礼を行えば天国に行けると、この巡礼を推奨しました。民衆も贖罪を願いました。彼らは立ち寄る聖堂で、聖人に遺骨や遺品などの聖遺物に触れることで、自分の罪が消えることを願ったのでした。

12世紀に書かれた『サンティアゴ巡礼案内書』には、ルートのほか、法外な船賃の渡し船、追剥、巡礼者を食い物にする両替屋への注意点や、宿や店の案内まで書かれています。

サンティアゴ・デ・コンポステーラはエルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の1つでもあります。スペイン側も「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として世界遺産に登録されています。事項





モンサンミッシェルとその湾



「西洋の驚異」や「海上のピラミッド」と呼ばれるモンサンミシェルは16世紀に完成したフランスで最も有名な巡礼地です。「モンサンミッシェルとその湾」という名称で世界遺産に登録されています。

モンサンミシェルは「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」という世界遺産の一部としても登録されています。



対岸の町アヴランシェの岸から約5km、砂丘にそびえる円錐型の花崗岩の「山」にモンサンミシェルはあります。かつては干満の差が激しく、満潮時には周囲900mの山は海に囲まれ、人が近づくことを拒みました。中世の巡礼は困難な旅だったのです。

伝説によれば、アヴランシェの司教であったオベールの夢に、大天使ミカエル(仏語でサンミシェル)が現れたのは708年。ミカエルは「かの岩山に聖堂を建てよ」と命じました。それでもオベールは信じず、行動に移しませんでした。3度目に現れた時、ミカエルは彼の額に触れ、さらに強く命じました。その感触でやっと天使の存在を信じた司教は、小聖堂を建てました。

すると、陸続きだったモンサンミシェルが一夜にして海に沈み、孤島になったと言われています。その時から、ここは聖地とされました。大造営が始まったのはそれより250年以上たった966年、ノルマンディー公リチャード1世の命で、ベネディクト会の修道院が置かれたのがきっかけでした。以後、修道院と聖堂は建築と崩壊を繰り返し、上へと伸びていったのでした。

ところが14世紀、英仏が100年戦争に突入すると、修道院は閉鎖され、城塞として利用されることになります。しかし、幸いにも、干満の差と潮流の激しさが敵の侵入を阻止し、戦火に見舞われることはありませんでした。満潮時に舟が近づいても、干潮になれば、広大な砂州の中に敵は取り残されるのです。

こうして一度も陥落されることなく戦時を乗り越えました。16世紀には修道院として復活しましたが、18世紀のフランス革命後は、監獄に転用され、1863年ナポレオン3世の勅命で閉鎖されるまで、『海のバスティーユ』と恐れられました。修道士が戻ったのは、約200年後の1966年のことでした。


ヴェズレーの教会と丘



「ヴェズレーの教会と丘」は、フランスのブルゴーニュ地方の街ヴェズレーの中心的な丘と、その上にそびえるバシリカ式教会堂サント=マドレーヌ大聖堂からなる世界遺産で、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られています。



ヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂



この教会は878年にローマ教皇ヨハネス8世によりマグダラのマリアに捧げられ、マグダラのマリアの聖遺物が様々な奇跡を起こしたという伝説の残る教会。中世では聖地巡礼に向かう多くの巡礼者が訪れて祈りをささげ、スペインのキリスト教聖地「サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路」の始点となった、歴史的価値の高い場所でもあるのです。




ブールジュ大聖堂



ブールジュ大聖堂は正式名称を「サン=テチエンヌ大聖堂」といい、12世紀末から13世紀にかけて建設された司教座聖堂です。

ブールジュは、古代ローマ時代にはアワクリウムという都市で、ここにはガリア発のキリスト教団ができたことでも有名です。

12世紀末にロマネスク様式であった聖堂をゴシック式の大聖堂に改修したことが、建設の始まりでした。身廊やファサードを整えましたが、14世紀初頭には南の塔が傾いてしまい、補強工事を余儀なくされます。やがて北の塔が完成しますが、1506年に早くも崩壊してしまいます。そのため、以後はルネサンス様式を取り入れて再建することになりました。

1562年のユグノー戦争時には、ブールジュがプロテスタント勢力の手に落ちてしまったため、カトリックのこの大聖堂は大きな被害を受けました。

19世紀にはゴシック様式の尖塔が設置され、現在の姿に至ります。

このように様々な時代に様々な修復工事を重ねたため、建築様式が入り混じった姿となりました。




ピレネー山脈のモン・ペルデュ



ピレネー山脈のモン・ペルデュはフランス南部のスペインの国境に近いピレネー山脈の山頂を中心に広がる、スペイン側のオルデサ・イ・モンテ・ペルディド国立公園や、フランス側のガヴァルニー圏谷をはじめとするピレネー国立公園の一部から構成される世界遺産です。

フランスとスペインの国境にまたがるピレネー山脈の中で中心にそびえるモン・ペルデュは石灰質の山であり、「孤高の山」の名の通り、山脈中3番目に高い標高3,352メートルを誇る最高峰。

「モン・ペルデュ」はフランス語名称で、スペイン語では「モンテ・ペルディード」と言います。ともに「失われたあるいは迷子の山」の意味です。

氷河の浸食によって生まれた圏谷の景観の迫力は圧倒の一言に尽き、見る人に大きな感動を与えます。モン・ペルデュ付近はヨーロッパの山岳地帯で伝統的に行われてきた農牧民の生活様式を色濃く残す土地。

村落や農家、畑、牧草地、山間の道、点在する干し草や穀類を入れる納屋などの牧歌的な光景は、かつての古き良き時代の生活を今に教えてくれています。

フランス側では、他の世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の一部としても登録されている部分を含んでいます。




アミアン大聖堂



アミアン大聖堂はゴシック様式の大聖堂で、フランスでいちばん高い大聖堂です。身廊の高さは42.3mで、奥行きは145mあります。

1220年に司教エブラール・ド・フイイが建設に着手し、設計にはロベール・ド・リュザルシュやコルモン父子が関わりました。

後世の修復時の調査で、ここが68年というきわめて短期間で完成されたということが判明しています。そのため、完成年は1288年ということになります。

この建設スピードの理由は、採石場で切り出した石をその場で加工し、そのまま建築現場に運び込むという方式を採用したためでした。




アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群


アルルのローマ遺跡




「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」は、「ガリアのローマ」と呼ばれるフランス南部のプロヴァンス地方の都市アルルに残されている、ローマ帝国属州時代建造されたローマ劇場や城壁などの遺跡群と、中世において巡礼者でにぎわったロマネスク期の教会からなる世界遺産です。


アルルのロマネスク様式建造物

古代ローマ時代にアルルはプロヴァンス屈指の大都市として繁栄し、約2万6000人の観客を収容できるローマ劇場や、戦車競走や剣闘士の試合を開催して観客をわかせた円形劇場、ローマ城壁などの史跡からは、当時の繁栄の姿がうかがわれます。

ルーブル美術館に展示されているビーナス像や共和国広場にたつローマ時代のオベリスクなど多くの美術品もこの地で発見されており、学術的価値の高い都市であると言えます。


アルルのロマネスク様式建造物


サン=トロフィム教会











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最終更新日  2025.11.14 05:00:06
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