ビストロフの橋

ビストロフの橋

第一章「ドライロット」

時計



    三つの赤



 時計のアラームが鳴っていた。
 男は、横になっていた寝台の上で自分の左腕を驚愕の表情で見つめた。
 男は魔法の研究をする学者だった。常に新しい発見・開発を目指して実験を繰り返している。ごく最近開発したものは、来年には実用化することが決まっていた。
 『我が道』目をつぶって走っても、障害物が勝手に避けて道を開けてくれる。来年からは魔法族のためのバスに利用されることになっている。
 数千年の伝統を持つ魔法とマグルと呼ばれる人間が考え出した技術の融合、それが世界に大きな発展を促すと信じて疑っていなかった。ここ数日も、研究所に泊まり込んで実験を繰り返していたのだ。
 左腕に腕時計がはめられたままになっている。ただ、その文字盤には英数字もアラビア数字も刻まれてはいなかった。代わりに【誕生日】、【記念日】、【食事中】、【寝てます】、などという文字が刻まれている。
 針は二本、長いのと短いのがあって両方とも文字が、名前が刻まれている。
 それぞれの針が今はある場所を指していた。そこには【錯乱】と【死】の文字があった。長いほうが【錯乱】、短いほうが【死】だ。
 男は寝台から跳ね起き、マントを羽織ると杖を取り出し、次の瞬間姿をくらましていた。
 くらましたのと同時刻、男の姿は男の自宅に現れた。急ぎ足で家の中を歩き回る。
 時計が壊れていることを祈りながら、しかし普段なら『姿現わし』をした瞬間に駆けつけてくるはずの妻がまったく現れない。それにまだ深夜と呼ぶには早すぎる時刻だと言うのに明かりが一つも点いていなかった。家全体が海の底にあるかのような、冷たく重々しい空気に包まれている。
 家中を駆け回り、自分の書斎に行き着いたとき、初めて男は探していたものを発見し、見つけてしまったことを後悔した。
 妻がいた。泣いている。いつもならきちっと結い上げている髪が振り乱れ、冷たい汗に濡れた顔に張り付いている。
 目は虚ろで呆然とソファに腰掛けていた。
 部屋に掛けられている絵という絵が引き裂かれ、無惨な姿をさらしている。唯一無事なのは、手の届くところにない吸血鬼の小さな絵だけだった。昔、友人の一人に貰ったものだ。昔は棺桶しか見えていなかったが、今では時々棺桶から抜け出た吸血鬼が歩き回ったり、ニヤッ、と笑ったりしている。
 今も、妻の錯乱が面白くて仕方ないようでニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
 それでも、もう一人に比べれば、まだましなほうだった。ソファの陰に、もう一人の探し人が横たわっていた。
 つい先日、一年前に入学したホグワーツ魔法魔術学校から帰ってきたばかりの娘だった。
 一目見ただけで生きてるとは思えない姿だった。皮膚は土気色、半開きの目は裏返り白目だけが見えている。腕と足は、それぞれ不自然に別の方向を向いていた。
 震える足で歩み寄り、抱き上げる。冷たかった、抱き上げている間にもどんどん体温が失われていくのがわかる。恐る恐る胸に耳を押し当ててみる。
 微かに鼓動が聞こえている。まだ間に合う。早く治療を。
 必死に体を調べてみるが外傷はなかった。きっと呪いに違いない。男は考えつく限りの解呪法を娘に使った。
 それなのに、その全ては無駄に終わった。どんなに魔法を掛けても、娘は回復しない。しないどころかどんどん衰弱していくのだ。
 とうとう、男は治療を諦めるしかなくなった。このままでは娘は死んでしまう。それをなによりも恐れた男はもう一度杖を振った。
 石化の魔法だった。体が完全に死んでしまうのを防ぐために、生命活動の全てを停止させたのだ。

 あの日から十日。
 男の体は衰弱の極にあり、精神は死人も同様と成り果てていた。
 解呪に関しては最高の技術を持つ『最高法術院』にまで娘を持ち込み、呪いの解呪に当たってもらったと言うのに何の呪いがかかっているかさえ明らかにならず、娘の体力と生命力を無駄に消費しただけだったのだ。
 さらに妻の錯乱も治る気配がなかった。いったい何が起こったのか、それを聞くことさえできたなら、男の精神も救われただろう。犯人を探し、追いつめるという目的を得られるから。
 それなのに、妻にいくら話しかけても、まともな答えは返ってこなかった。
 「絵が・・・絵が・・・」それだけを囁き続けている。
 もちろん、あの吸血鬼にも話を聞こうとはしたのだ。元もと期待はしていなかったが、予想通り、ニヤニヤ笑うだけで返事もしなかった。
 他の絵はもう修復不能なまでにズタズタになっていた。話を聞くどころではない。
 男は墓場のような静かさに包まれた自宅に引きこもり、ただ闇を見つめ続けていた。

 一年後。
 男の姿は自宅から消えていた。
 妻は男の、もちろん妻にとってもだが、幼馴染みのところに身を寄せていた。妻が、ではなく。男のほうが妻といることに耐えられなかったのだ。
 かつては恋敵であった男。だからこそ、愛する妻を委ねることができた。彼に任せておけば、妻を不幸になどするはずないと思った。
 娘もまた、別の友人の家にあずけてあった。石となったまま、躯と大差ない姿に誰もが憐憫の思いに捕われたが父親なら尚のことそうだったろう。
 友人も、あまり気乗りしない様子だったが、男が助ける方法を見つけるまでは丁重に預かることを約束してくれた。
 二人とも、男が自ら死を選ぶのでは、と気に掛けながら本人に問い質すわけにもいかずにいた。
 家は売りに出され、男の消息を知るものはいなくなった。
 男の『逃げ』を誰も責めはしなかった。理由もわからず、妻と娘を失った男の悲哀を理解することは誰にもできないことであったが、木石ではない人が察するには十分なものがあったから。

 三年後。
 姿を消し、誰もが死んだのだと思っていた男が、再び魔法世界に姿を見せた。
 だが、その姿はもう、三年前までの学者とはまるで違うタイプに変貌したことを示すに十分なものとなっていた。
 黒かった髪は色素を失い赤くなり、呪いを見破る魔法を掛けた瞳は紅々と燃え、爪は襲いかかる闇の魔術師の血で朱に染まっていた。
 最愛の者を失った男は、自らの死に場所を求めて危険な場所に好んで乗り込んでいた。
 特に、呪いを持って人の自由や意志、命まで操ろうとする魔物には、被害者や犠牲者の家族が魔物に同情してしまうまでに苛烈に対処した。
 やがて、人々は男を三つの赤『ドロイロット』と呼ぶようになっていったのだった。

 五年後。
 男は、己のなすべきことを見つけだした。
 もうすでに絶えて久しい、魔法族の旧家が住んでいた館。かつて、呪いの粋を極めたとされ、人々から恐れを持って見られた彼らは、その技術の全てを秘伝書に書き示し、館の中心、歴代当主の書斎に隠したと言う。
 あまりにも強力に過ぎる呪いに、自らをも危険にさらしてしまった彼らは血を跡絶えさせ、秘伝書は書斎に隠されたままとなった。
 何人もの『解呪師』や、好奇心旺盛な魔法族、欲に駆られた盗賊、魔法省の役人たち、大勢の人間が館に入ろうとし、その全ては失敗した。
 館には、考えうる限りの呪いが仕掛けられていて、玄関ホールすらも通り抜けることができなかったのだ。
 男は、この館こそが自分の探し求めていたものだと、そう考えた。
 娘をあんな姿にしたものが呪いであるならば、かの秘伝書にその呪いについても書かれているかも知れない。治す方法も。
 あるいは、自分自身もまた。呪いに捕まり、命を落とすこともあるだろう。それでもいい、男は半ば自虐的に心の中で呟いた。
 そうなれば、自分より先に娘が死ぬなどという不条理きわまりないない出来事を見なくて済むのだから。
 以後、男は危険な呪いと向き合って暮らすこととなった。常に死が、死よりも恐ろしい呪いが、男を捕えようとてぐすね引いて待っている。それでも。

 十年後。
 男は傷だらけの姿をある宿に現わした。
 人々は誰もが男と酒を飲み食事をしたがった。男がすばらしかったからでも、偉かったからでもない。
 その男だけが、安全だったからだ。魔法社会から孤立し、誰とも親交を亡くした男には孤独という影はありえても、裏切りという闇はありそうになかったから。
 宿の食堂では、口以外を仮面で覆った人々が二、三人づつ集まり、ボソボソと囁きを交わしていた。
 十年前から何かと話題になっていた『あの人』とその取り巻きである『死喰い人』の行状に付いて、噂をしあっていたのだ。
 十年前にはそれほど驚異とは感じていなかった。が、今ではどうすることもできないほどに強大な組織を作り、魔法世界全域を席巻するまでになっていた。
 誰も信用できない、なのに一人ではいられない人たちが顔を隠してやって来ては、おおっぴらに言うことのできない恐怖や不安、不満を吐き出していくのだ。
 「また一人、殺されたよ」男の脇に座った魔女が、沈痛な声を搾り出した。
 「ケント州のあの町に、『闇の印』が上がった。その下で、ティブルス・ボーンが見つかったとさ」魔女の相手をしている魔法使いがポツリと言った。
 ボーンの名を聞いて、初めて男は顔を上げた。ホグワーツ在学中はともに学んだ仲だった。
 「・・・だったら、親父さんが黙っていないだろう。あの人は息子を溺愛してた。きっと復讐に・・・」もう何年も口をきいていなかったような、抑揚のない言葉を乾いた唇から押し出した男の目に、首を左右に振る魔女と魔法使いの姿が映った。
 「・・・いけないんだよ。復讐になんてね」魔女の声はさらに沈んだ。
 「彼が、最後のボーンだった。・・・ボーン家は全員墓の下さ」魔法使いが言った。
 男は、十年ぶりに感情を取り戻した。枯れたはずの涙が両眼に溢れ出た。ボーン家の人たちにはとても世話になったというのに、何のお返しもしていなかった。
 「ボーン家だけじゃない。マッキノン家、ブルウェット家・・・力も人望もあった人たちが次々に殺されている。・・・さすがにアルバス・ダンブルドアには手出しできないでいるようだがな」
 魔女と魔法使いが席を立った後も、男はしばらく動けずにいた。久々に味わった感情が、男の心をかき乱していた。
 やがて、男はゆっくりと立ち上がり、再び館へと向かった。娘をすら救えない男に、他人のことを思い煩う資格なんてなかった。

 十五年後。
 『あの人』がわずか一歳の子供の前に破れ去り、姿を消してから四年が経っていた。
 人々はようやく明るさを取り戻し、平和な時が流れていた。『あの人』がいたことを思い出させるのは、みなが集まり、乾杯をするとき必ず最初に出る言葉だけとなっていた。
 「生き残った男の子、ハリー・ポッターに乾杯」ポッター夫妻をよく知る人たちは、誰にも好かれた二人の死を悼み、ハリーの幸せを祈ったし、知らない者たちにしても、幼くして大人でさえも耐えられない運命とも言うべき重荷を背負ってしまった、背負わせてしまったハリーに少なからず負い目を感じていた。自分たちがもっと強ければ、彼は両親を失わずに済んだのだ。
 そして、彼らは決して幸せそうではない、ハリーの目撃談を話しあうのだった。
 男はそんな人々の輪から離れたところに座り、いまだに生死を彷徨う娘と現実から逃れた妻を思った。彼女たちのほうがよほど不幸せだろうに。
 彼女たちは、自分が幸せでないと考えることすらできないのだから。

 二十年後。
 男は、まだあの館の書斎を目指していた。
 一年に一メートルにもならない進み方だったが、確実に近づいてはいた。そして今日、ついに男は玄関ホールから食堂、食堂からリビングを抜け、書斎へと通じる扉を目にした。
 白く積もった埃の向こうに黒塗りの重厚な扉、その先に目指すものがあるはずだった。
 だが、結局。男は扉を開けることができなかった。十数年の間、目指し続けていたものを目にしたとき、男の中に焦りがあったことは否定できない。
 あと一歩。あと一歩で書斎にたどり着ける、そう思ったその時、右腕に痛みを感じた。針で刺したようなものだったが外傷はなかった。
 呪いが、呪いがついに男の腕を捕えたのだ。
 男は急いで解呪を行なった。だが、無駄なことは男が一番良くわかっていた。この屋敷に張られた呪いの罠。罠を解くことはできたが呪いを止める術は結局わからずじまいだったのだ。最後の、この呪いだけが例外になるとは思えなかった。
 男は、書斎へ入るのを諦めた、生きることも諦めた。ただ一つ、どうしても諦めるわけにはいかないことがあった。
 娘の呪いを解くこと、それだけは諦めるわけにいかなかった。男は腕を切り落とした。それで呪いが止まるわけはなかったが、時間稼ぎぐらいにはなる。
 愛用のトランクを持って、男は館を後にし、ロンドンを目指した。誰かに、トランクごと夢を託すために。

 それが、昨夜のことだった。


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