1
【藤枝静男/欣求浄土】◆彼岸での一家団欒こそ至福の時白樺派の文学に傾倒した藤枝静男は、志賀直哉の虜となる。だから作品はどれも白樺派の流れを汲み、己を冷静で客観的な視点から捉え、私的な事柄を赤裸々に、だが格調高く表現することに成功している。プロフィールによれば、藤枝静男は現在の静岡県藤枝市出身なので、おそらくペンネームもそのあたりから拝借したのかもしれない。作品は静岡県中部、西部地方が多く舞台となっており、作中の登場人物のセリフが方言丸出しで、かえって好感が持てる。気取っていなくて、それでいて硬質な文体という優れものだ。私が思わず涙したのは、『欣求浄土』という連作の中の一つ、〔一家団欒〕である。これは究極のファンタジー小説と言っても過言ではない。それなのにリアリティに溢れ、読み手が物語にすっと入り込んでしまうのだから不思議だ。これは主人公・寺沢章がこの世の生を終えて、親・兄弟の眠る墓地へ出向くところから始まる。そこに妻の存在はない。妻は明らかに外部の者であり、章(藤枝静男)にとって彼岸の向こうでは、いわば、他人なのだ。話はこうだ。寺沢章は、美しい茶畑に囲まれた菩提寺を訪れた。そして両親と兄弟らが眠る墓石の下にもぐって行った。「章が来たによ」と父が出迎えてくれると、続いて姉が「あれまぁ」と懐かしい声を響かせる。姉は18歳で亡くなっているので、その年齢のままの姿なのだ。章は亡くなったとき59歳なので、姉よりもずっと老けていて、頭も禿げている。しかも死亡時に臓器提供しているため、父が心配して「章、交通事故にでもあったかえ」と訊いた。「そうじゃあない。内臓をみんな向こうへ寄附してきたで、眼玉もくり抜いて来ただよ」 「お前も相変わらず思い切ったことをするのう」章は、父を前にすると、急に胸が迫ってきて涙がこみあげて来た。「父ちゃん、僕は父ちゃんに悪いことばかりして、悪かったやぁ」「ええに、ええに。お前はええ子だっけによ」そう言って父は、章を一切責めることなく、慰めるのであった。ここでの章という人物は、正しく藤枝静男自身のことであり、あの世での肉親との再会は切実な願望に違いない。本職が眼科医であった藤枝は、医療に携わる傍ら、私小説を書き続けた人である。そこには、過酷なまでに自分を見据えた、拷問のような眼差しを注いでいる。全編に自虐的な、甘やかしのないメスで切り刻んでいく鋭さが感じられるのだから、さすがは医師である。常に両親に対する侘びの気持ちが溢れていて、過去を赦せない自分を持て余しているようにも思える。だが〔一家団欒〕では、全てが報われ、癒され、救われている。家族そろってお祭りに出かける場面は、何とも言えない郷愁を誘う。この作品を読むと、生を全うした後、必ずや訪れる死の影も、まんざら悪くはないと思わせる不思議な優しさを感じるのだ。藤枝静男は、知る人ぞ知る作家ではあるけれど、一読するとやみつきになってしまう独特の世界観に覆われている。『欣求浄土』の他に『悲しいだけ』という作品もあるが、これも併せてお勧めしたい傑作だ。『欣求浄土』藤枝静男・著コチラ
2013.06.15
閲覧総数 353
2
室生犀星は腰に一本刀を落し差しにして、文学の世界の広い原っぱに一人、風に向って立っていた。【ほめられた:室生犀星 ほめた:森 茉莉】~~~~~~~~『ほめ言葉大事典』著者の清水義範氏は言う。ほめられれば、人は成長し、子供はよい子になり、奥さんは優しくなる。わかっているのだが、でも人をほめるのは難しいのだ。人をほめるというのは、プラスのエネルギーがいることである。ほめるよりけなすほうが絶対に楽だ。ほめるには実際の行動がともなう。しかも我慢や無理を強いられるというわけだ。でも、人が成長し、子供がよい子になり、奥さんが優しくなるならおおいにほめようではあるまいか(^o^)~~~~~~~~清水義範氏の感想はこうだ。『すごい言い方である。めちゃくちゃ格好いいではないか。森鷗外の娘の茉莉が、室生犀星を孤独な侠客のようにほめた。』「侠客」は傑作だ。その解説がある。「一本刀はやくざ者の特徴なのだ。」そう、室生犀星は武士ではないのだ!つまり森茉莉は犀星を、鍬(くわ)や鋤(すき)を手にする農民にたとえることなく、二本差しの武士にたとえることもなく、まして妙相なる聖にたとえることもしなかった。そして、いわば落としどころとして、斜にかまえるやくざ者にたとえたわけだ。だとすると、これってほめ言葉?文藝の香りと格調が漂うひと言ではあるのだが・・どうも森茉莉さんのオホホ顔が目に浮かぶなぁ。ときに清水氏の作家論はこうだ。『悲しみの中の力強さのようなものがあった。』コチラ、清水義範氏のニヒルな笑いが浮かびます。どうやら「ほめ言葉」は、額面どおりでなくそこに垣間見える上質なる皮肉も見なければならない、そういうことなのだ。
2013.06.11
閲覧総数 134
3
【刑事コロンボ 〜ホリスター将軍のコレクション〜】「彼の人柄がよくわかりますよ。ここに展示された本には、彼を狙った銃弾がめり込んでいます。危うく助かりましたが、将軍は眉ひとつ動かさなかったのです。(その一例からも)彼がどう言う人間か想像がつくでしょ? 度胸があり過ぎるんですよ。とても普通じゃありえない。私なら気絶するところです。普通の人間ならうろたえるのに、彼はどんな状況でも冷静そのものだ」私は、元夫が自律神経失調症とうつ病を患っていたこともあり、周囲の人たちが元夫のことを腫れ物でも扱うようにするのを、何度となく目撃した。もっとタチの悪いのは、妻である私自身が心の病に理解がなく、ただ指をくわえて手をこまねいていたことだ。結局、私は離婚してしまったのだが、元夫はその後、障害者手帳を取得し、福祉のお世話になったとのこと。たまに私のところへ電話をかけて来ては、「みんな俺の話なんかまともに聞かないんだよ。何でか分かるか? 精神科に通ってるからさ」とグチをこぼした。そんな元夫も亡くなって12年が経つ。今回私が見た〜ホリスター将軍のコレクション〜において、事件を目撃した女性は精神に疾患を持つ者という設定である。一番信頼に値する身近な母親でさえ、娘の心の病に辟易している有り様なのだ。この状況をたとえドラマの上でも目の当たりにすると、何とも言えない苦いものがこみ上げて来るのだ。ストーリーは次のとおり。退役軍人のホリスター将軍は、第二次世界大戦や朝鮮戦争で活躍した英雄であった。そんな彼は、事業が成功し独身貴族を謳歌していた。ある時、ホリスター邸に調達課のダットン大佐が訪ねて来る。慌てた様子のダットン大佐が言うには、海軍に会計監査が入るとのこと。実はホリスター将軍とダットン大佐は癒着し、莫大な資金を海軍から横領していたことから、ダットン大佐は狼狽を隠せないでいた。一方、ホリスター将軍はそんな一大事を聞いても、眉ひとつ動かすことなく冷静だった。ダットン大佐はこれからすぐにスイスへ飛ぶと言う。ホリスター将軍は一考する。この様子なら彼の逃亡は失敗し、いずれ自分の名前も明かされてしまうだろうと。そこでホリスター将軍は迷わずダットン大佐を射殺してしまうのだった。ホリスター邸は海辺にあり、その様子をヨット上から目撃する人物がいた。彼女はヘレンと言う女性で、離婚の痛手から心を病み、ずっと投薬とセラピーを続けているような状態だった。ヘレンはさっそく警察に通報するものの、駆け付けた警官もさることながら、傍にいた母親でさえ娘の言うことを単なる妄想としか思わなかった。今回の作品のポイントとなるのは、加害者であるホリスター将軍が国の英雄であり、誰もが尊敬するカリスマ的存在であったこと。一方、事件の目撃者であるヘレンは心の病を患っていて、定職に就いておらず、セラピーに通っているような状態なので、彼女の証言をまともに信じる人がいない。それにつけ込んだ犯人のホリスター将軍は、巧みな話術でヘレンを虜にし、結婚をチラつかせ、彼女を囲い込もうとする。やがてヘレンは恋に落ち、自分が目撃したものは、強い陽射しによる錯覚だったと証言を覆してしまうのだ。このドラマから考えさせられるのは、いかに人というものが他者を色メガネで見ているかということだ。同じ人間であることに変わりないのに、その人の持つ肩書きにコロっと騙されてしまうのだから、何とも情けない生きものではある。でもだからと言って、その人の持つ背景や人柄を無視して事実だけを知るべきなのかと問われれば、それは何とも言えない。せめて、物事には表裏があるのだと肝に銘じておきたいものだ。犯人役は『ローマの休日』にも出演したエディ・アルバートで、〜ホリスター将軍のコレクション〜においても好演している。1971年放送【監督】ジャック・スマイト【キャスト】ピーター・フォーク、エディ・アルバート
2023.04.15
閲覧総数 111
4
【大岡昇平/花影】◆三十代独身、子なし、囲われ者として生きる女の生涯今までいろんな純文学に触れて来たが、『花影』はまた独特なオーラを放つ作品である。 現代では、三十代後半の女性と言ったらまだまだ瑞々しく、年齢のことを気にするような世代とは言えないが、戦後のまだ貧しかった社会を生きる女の三十代後半というのは、何となく心寂しいものがあった。とくに、家庭を持たない独身女性の境遇は、現代とは比べものにならないほどの暗いイメージがつきまとった。(無論、明るくたくましく暮らしている方々もいたと思うが)この小説は、そんな三十代後半の女性が、愛人であることを解消した後から自殺するまでのプロセスを追うものだ。とはいえ、そんな俗っぽいことが話の中心になっているにもかかわらず、色恋にまつわるエロスからは程遠く、主人公の女の、月日とともに衰えゆく容姿や、酒で孤独を紛らす心寂しさに作品全体が覆われている。おそらく、著者である大岡昇平のカラーがこの作風に大きく影響しているのであろう。代表作である『レイテ戦記』に見られるような歴史小説としての筆致が見られ、しがない女の歴史の点みたいな晩年を淡々と綴っている。しかもこの主人公の女は実在しており、著者・大岡昇平の愛人がモデルとなっている。(文庫本巻末の解説に記述あり)あらすじを紹介しておこう。葉子は、大学の教師・松崎に囲われの身となり3年が経つ。ところが最近、松崎がどうやら自分とは別れたがっているような素振りに勘付く。小児麻痺かもしれない娘のことをつらつらと話したりして、同情を引こうとする様子が見受けられるからだ。結局、別れ話をはっきりと言い出せないでいる松崎に代わり、自分の方から別れを告げ、生活費が入らなくなることから古巣の銀座のバーに再び戻ることにした。だが、もともと松崎とは嫌いで別れたわけではないので、いつも葉子の胸にしこりのようにわだかまっていた。とはいえ、ホステスとしての宿命なのか、酒と色と金に彩られた夜の世界を渡っていくには、自分に寄せられる男の欲望を利用せずにはいられなかった。次から次へと男に抱かれ、虚しい色恋を繰り返す他なかったのだ。今でこそシングル・ライフを楽しむアラフォー世代がもてはやされるところだが、『花影』を読むと、何やら複雑な心境でいっぱいになる。40歳を目前にした女性が結婚もしておらず、もちろん子どももいない。手に職がなく、頼るものは男の懐のみ、という境遇に陥った時、一体どんな心境なのだろう? 想像を絶する。人生の目的が結婚ではないと頭では理解できても、それに代わるやりがいのある仕事とか、研究とか、何か生きがいが見つからないと、空恐ろしい末路が脳裏を過ぎるのも致し方ない。独身女性の方も、既婚女性の方も、『花影』を読んで、己の女性としての生き様に今一度目を向けてみてはいかがであろうか?私自身、主人公・葉子の孤独に、涙せずにはいられなかった。『花影』大岡昇平・著☆次回(読書案内No.71)はAliの『十五』を予定しています。コチラ
2013.05.22
閲覧総数 351
5
「しかし何で犯人の八重樫は立て篭もったんでしょう? 総監以下幹部12名を人質に篭城したくせに、一切交渉にも応じず、何も要求してこなかった」「確かに妙ですね」「八重樫の篭城の目的が分からない限り、事件は解決とは言えません」『相棒』シリーズは、テレビドラマとしてもう長い間お茶の間の皆に支持されて来た作品だ。劇場版として公開されたものについても、観客動員数は見事な数字を打ち出し、興行的にも大成功を収めている。主役の水谷豊は、なんと言っても昔からのコアなファンに厚い支持を受けているし、及川光博も同様だ。この二人がタッグを組んで、数字が取れないわけがないのもまた事実である。作中のキャラクター設定もおもしろい。水谷扮する杉下右京は、東大卒の頭脳明晰な刑事でありながら、どこか風変わりで、紅茶をたしなむ優雅さを備えている。権力に屈しないし、組織の中では同調しないから煙たがられる存在だが、そういう孤高な生き方に視聴者はたまらなく惹かれてしまうわけだ。相棒となる神戸尊も、クールでセレブな雰囲気で周囲を圧倒する存在感を発揮する。バランスの取れたパートナーなのだ。舞台は警視庁本部。特命係の神戸尊は、エレベーターに乗ろうとしていた。すると拳銃を手にした男が、女性職員を捕まえているのに気付き、咄嗟に助ける。その後、男は会議室に直行し、警視総監を始めとする12名の警視庁幹部を人質に取る。 だが犯人の動機は分からず、身代金等の要求もないことで手をこまねいていた。会議室が機動隊とSITによって包囲される一方で、犯人の特定が出来ずにいたが、杉下右京の奇策によって会議室内をデジカメで撮影することに成功。鑑識の米沢が調べたところ、犯人は元警視庁公安の八重樫哲也だと判明した。今回の劇場版2での見どころは、小野田官房室長(岸部一徳)の動向だろう。ポーカーフェイスなだけに、言動だけではどうにも計り知れない野望が見え隠れするのもおもしろい。ヒロイン朝比奈圭子に扮する小西真奈美も、お嬢様キャラから脱却して、精神力の強い女性を見事に演じている。脚本もまずまずで、ドラマチックさにやや欠けるものの、全体的にまとまっていて、安心して楽しめるサスペンスドラマに仕上げられていると思った。2010年公開【監督】和泉聖治【出演】水谷豊、及川光博また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.01.22
閲覧総数 232
6
「お願い、(イングランドに)罪を認め、忠誠を誓ってちょうだい。慈悲を与えられるわ」「スコットランドへの慈悲は?」「なぶり殺しに遭わず幽閉ですむかも。助かる望みが生まれます・・・死なないで!」 「(イングランドに)忠誠を誓うことは、今あるおれが死ぬことだ」本作「ブレイブハート」は、アカデミー賞作品賞ほか5部門を受賞した歴史大作である。 脚本はもちろん、映像も音楽も役者陣も、どれを取っても甲乙つけ難い素晴らしい作品なのだ。この作品がどれだけ史実に基づいたストーリー展開であるかということは、あまり問題ではなく、メガホンを取ったメル・ギブソンの徹底したキリスト教思想が根底に流れているのが興味深い。メル・ギブソンは、業界でも知らない人はいないほどの敬虔なカトリック教徒である。 そのせいか、主人公ウィリアム・ウォレスが処刑されるシーンは、正にイエス・キリストの受難のシーンにも似て、その残酷極まりない拷問は目を覆いたくなる。だが、このシーンには重要な意味があるのだ。ウィリアム・ウォレスがスコットランドを愛するが故に、その身を捧げ、甘んじて処刑を受け入れるという発想は、イエス・キリストが罪深き人々の身代わりとなり、あがないのために十字架に磔となる、いわば生け贄思想を彷彿とさせるのだ。その証拠に、ウィリアム・ウォレスの死によって、彼の遺志を継いだ者が決起して、スコットランドの自由と平和を勝ち取ったという件になっているからだ。(あくまで「ブレイブハート」の中でのストーリーにおいて)そこで気付かされる本作のテーマは、非常に過激ではあるが、自由や平和を手に入れるためには多くの血が流されて当然であり、またそれだけの崇高な信念と犠牲がなければ真実の解放はありえない、というものである。よって、イエス・キリストの死は正当のものであり、本作のウィリアム・ウォレスの死も重大な意味を持つものなのだ、と訴えている。13世紀末のスコットランドが舞台。イングランドとの戦争で父と兄を失ったウィリアム・ウォレスは、幼くして叔父の下に預けられる。成人してから懐かしい故郷に帰り、美しく成長したミューロンと再会し、恋に落ちる。 ある時、イングランド兵にからまれたミューロンをウィリアムが助けたものの、再びミューロンが捕まり、殺害される。復讐を誓うウィリアムは、スコットランドの自由と平和を掲げ、抵抗軍を立ち上げるのだった。世界史の好きな方は既に知っておられると思うが、もともとアイルランドとスコットランドはカトリック、イングランドはプロテスタントで、同じキリスト教圏でも派閥が違う。このことによって、同じ島国でも何度となく互いの信念を通して宗教戦争が繰り返されて来た。「ブレイブハート」は、メル・ギブソンがキリストの名のもとに“死を恐れることなかれ、信仰は永遠のものなり”と、映画を通して大絶叫しているようにも感じられる。それほどに揺るぎない神への忠誠と、祖国への愛と、そして孤高な精神を見せ付けられた気がするのだ。歴史好きの方、必見の一作である。1995年公開【監督】メル・ギブソン【出演】メル・ギブソン、ソフィー・マルソーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.07.26
閲覧総数 608
7
今年もどうにかこうにか無事に暮れていこうとしています。こちらのブログをご覧いただいている皆さまも、おそらく平和な一年を終えて、ホッとひと息ついているのではと想像しております。もちろん、細かいことを言ってしまえば、グチの一つも言いたくなるような、あんなことやこんなこともあったと思います。でも、三度の食事と住む家と、清潔な衣類があるのだから、まぁ良しとしようではありませんか!令和5年は私にとって、どんな一年だったかを思い返してみますと、〝チャレンジの年〟だったような気がします。まずこちらのブログの更新を月に一度以上がんばろうと思って目標にしたところ!継続するというのは、意外にも難しいことで、私にとっては何事も苦行でしかありません。それなのに年始に設定した目標について、有言実行できた自分が「やればできるじゃん!」てなもので、嬉しい限りです(笑)そんなわけで、今年私が思い切ってやってみたことベスト3を発表したいと思います‼︎もうじき米寿を迎える叔母の同級生が生け花の先生をやっています。私はもともとお花が好きなので、50才を過ぎて初めてその先生に教えてもらうことになったのです。いわゆる〝五十の手習い〟というやつです(笑)先生もお年を召しているため、お稽古は月に2〜3回と、不定期ですが、いろんな花器に自分の好きなように草花を活けるのはとても楽しいものです。誰かに見せるためだけの生け花ではなく、空間を彩るため、自分を表現するための生け花は、私の生涯の生きがいになりそうです。先生は、さる流派の師範ですが、性格的なものなのか、年齢的なものなのか、形式にこだわる必要はないからと、伸び伸びお花を扱わせてくれます。なのでいつも私は教室に通うのが楽しくて仕方ありません。早いもので、今住んでいる我が家も25年という月日が経ってしまいました。引っ越して来た頃は、白くてピカピカのトイレだったのに、今や便座にヒビが入り、壁もシミだらけ、幼い頃の息子がガリガリやって壁紙をめくってしまい、トイレに入るたびに気になって気になって仕方がありませんでした。そこで今年は思い切ってトイレのリフォームをやりました!当初は息子と折半の予定でしたが、母の日のプレゼントも誕生日プレゼントもあげていないという罪悪感からか、全額捻出してもらえることに‼︎いやもう、母の日のカーネーションも、誕生日のケーキもいりませんよ。トイレのリフォーム代を支払ってくれるだけで、充分過ぎるほどです、はい。そして、そして!!21才のときにエリック・クラプトンとジョージ・ハリスンのジョイントコンサートに出かけたのを最後に、ミュージシャンのコンサートには行っていませんでした。というのも、自分を取り巻く環境が急変したことや、趣味を楽しむ余裕がまったくなかったからです。あれから30年以上が過ぎて、まさか息子から「ゴダイゴが来るよ」という情報を知らされることになるとは!私が車でゴダイゴの歌をよく聴いているせいか、気を利かせた息子が教えてくれたのです。小学生の頃、毎週欠かさず見ていた『西遊記』のテーマソングである、〝モンキーマジック〟や〝ガンダーラ〟はもちろん、〝ビューティフルネーム〟〝銀河鉄道999〟は、大・大・大好きなラインナップです。他のミュージシャンならどうかわかりませんが、すでに古希を迎えたゴダイゴのコンサートにはどうしても行きたくてチケットを取ったしだいです。タケカワユキヒデもミッキー吉野も(他のメンバーも)枯れてますますカッコいいおじさんになりました! ブラボー‼︎※筆頭管理人から補足吟遊さんはコンサートに先立ち、ゴダイゴの歌を復習ったとか(^_^;) 誠に吟遊さんらしいのですが、それにしてもサスガ吟遊さんの子だけあり、ご子息も若いのに奇特なことですなぁ(*'ω'*)なお吟遊さんご本人は、『若い頃はギター片手にブイブイやったものよ!』と鼻息荒く自慢しますが、その実はご実家も伊豆の山中のことですし・・動物くんたちとハモってたりしてね(*^_^*)さて、こんな感じで私の令和5年は幕を閉じようとしていますが、こちらの筆頭管理人にとってはどうだったのでしょうか?~~~~~~~~~~~ということで筆頭管理人です(^o^)/でもねぇ。吟遊さんに言われましても、小生すでに前期高齢者の列に片足を踏み入れた齢ですから、貴女の様に新しいことを企てる気は毛頭なく、どちらかといえば世をすねたように生きているもので、特段お知らせする事も無いのですが・・・あえて言えば、私の令和五年は「再」でしょうか。師走に発表された漢字は、どうもピンときませんで、それこそ「へんな感じ」と駄洒落に適したように思えましたが、私はコロナが収束したこともあり、「ふたたび」の再です。その最たるものが、かつての様に映画をシアターで見る事を再開しました\(^o^)/それでベストはこの二作でした(^_-)-☆こういう作品はシアターで見るに限ります! 何よりシニア割引の特典がありますからね(^_-)vそれと、二つ三つ再開したことがありますが、極めて私事でお話しするほどのことでもありません。ところで!来年も何ら気にすることなく、アレコレたくさん食べて、おおいに創作の糧としてくださいね♪~~~~~~~~~~~ーーと言う具合で、筆頭管理人にとっても、何かしらの一年だったようですね(笑)そうそう、今年のXmasケーキは結局、買いませんでした。今や値上がりの嵐で、おいそれとホールのXmasケーキも買えない時代となりましたものね。でもうちの息子、職場の忘年会のビンゴ大会で、ケーキを当ててくれたのです‼︎このケーキ、べつにXmas仕様ではないのですが、クール便で届いたのが24日(日)だったので、ちょうど良い按配でした! ありがたや、ありがたや、、、てなものです。本年も吟遊映人ブログをご覧いただきまして、誠にありがとうございました。来年も様々なカテゴリを皆さまと共有できましたら幸いです。どうか来年も、この吟遊映人ブログをよろしくお願い申し上げます。令和5年 大晦日
2023.12.31
閲覧総数 82
8
「晋どん・・・もう、ここいらでよか。」「・・・心得申した。」(西郷は、大久保との青雲の志に燃えた若き日を走馬灯のように回想する。)「ご免なったもんし!」(別府晋介の介錯により、西郷は絶命。)鹿児島という一つの根から生まれた西郷と大久保は、ともに傑出した個性を持っていたため、どうしても対立しなければならない運命を背負っていたかのように思える。時代が大きく変わろうとしていた江戸末期、人間は「時代の中に全ての可能性を引き出そうと動いて」いた。歴史や伝統の中にどっぷりと浸かっていた島国民族が、井の中の蛙であった己の姿に気付き、自己破壊してゆくのだ。言わば、歴史と伝統を破壊する時代に突入したのだ。しかし、幕府の終結はすでに熟しきった結果であり、新しい時代の風は洋上から吹き込んでいた。総集編第二部後編は、「明日への飛翔」と題される。「翔ぶが如く」もこれが最終章となる。明治6年末、鹿児島県下は無職で血気盛んな壮年、若者であふれていた。そこで、これを指導し、統御しなければ方向性を誤ると考え、西郷は「私学校」を設立。 名目上は漢文の素読と軍事教練であったが、その実、不平士族の暴発を防ぐことにあった。しかし、これが西南戦争の直接的原因を生み出す結果となる。明治10年になると、この私学校の生徒が火薬庫を襲撃するという事件が起きる。火薬庫を襲うことは重罪で、死刑に値した。狩猟先でその一報を受けた西郷にとっては、寝耳に水のことであった。一方、政府はこの一件を鹿児島県士族の反乱と見て、警戒命令を出す。また、明治政府による西郷暗殺計画などの陰謀が明るみになるなど、様々な要因が重なり、西南戦争の火蓋が切られたのである。熊本の田原坂での激戦において、薩軍は勇猛の士が次々と倒れていった。それほどの犠牲を払って死守していた田原坂であったが、圧倒的兵力の差で政府軍が大勝。薩軍は撤退を余儀なくされる。鹿児島に入った薩軍はまず城山を占拠。しかし政府軍は城山包囲態勢を完成させ、薩軍は窮地に追い込まれる。こうして政府軍の総攻撃により、前線に立って指揮をしていた西郷も股と腹に被弾。ここに西郷隆盛は絶命するのだ。一方、西南戦争で政府軍を指揮し、薩軍を敵に回した大久保は、同じ政府関係者からも批難を浴び、厳しい状況に立たされてしまう。そしてついに明治11年、大久保利通は不平士族らの手により暗殺される。作家司馬遼太郎の作品に共通してスポットが当てられる登場人物。それは、古い歴史や伝統に深い関心や尊敬を持ちながらも、一方では伝統を破壊し、天下に野望を抱くというものだ。一体、それらが何を意味するのか?誰にも止められない、逆らうことのできない時代の流れ。歴史の進行を意味するのではなかろうか。古い時代と新しい時代との間にできた深い溝。その溝を埋めるべくして、西郷や大久保たちが全力を尽くして運命に挑戦してくれたのだ。そうして近代日本を造り上げた彼らの精神を、魂を、決して無駄にしてはならないのだ。合掌。「時代だ。時代というものよ。時代のみがわしの主人だ。時代がわしに命じている。その命ずるところに従ってわしは動く。時代とは何か。天と言いかえてもよい。」(『国盗り物語』より司馬遼太郎・著)1990年TV放送【原作】司馬遼太郎【脚本】小山内美江子【出演】西田敏行、鹿賀丈史また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.12
閲覧総数 339
9
【刑事コロンボ 刑事コロンボ 〜構想の死角〜】「(何度も)しつこくて申し訳ありません。(あなたのおっしゃりたいことは)わかっています。根ほり葉ほり伺ってしまい・・・本当にすみません。(でもこれは)私の性分でしてね」人にはそれぞれ役割というものがある。例えば漫才師などは、ボケとツッコミという役割があって、どちらか一方でも欠けたら漫才は成立しない。たいていはコンビのどちらかがネタを考える役割を担っている。だからネタを考え、台詞が書ける側というのは、ある意味、漫才コンビを存続していく上での要でもある。そんな、マルチな才能を持つ芸人なら、漫才師という枠に留まることなく、放送作家や脚本家などに転身することが可能であろう。しかし他方で、漫才師のボケ役、あるいはツッコミ役としてそこそこの芸を持っているとして、ネタを考えない側、台本を書かない側はどうなんだろう?〝つぶしがきかない〟と言われるが、仕事を選ばなければ何とかなるようだ。コンビを解消したあとなど、飲食店を開業したり、介護ヘルパーになったり、ハウスクリーナー業を営んだりと、いろいろだ。それでも一度は華やかな芸能界の空気を吸った人にとっては、一般人のレベルにまで落ち着くのは、なかなか勇気のいることなのではと想像してしまう。そんな折、私は『刑事コロンボ』〜構想の死角〜を見た。これは、コンビを組む推理作家の一人が、独立したいと言い出したことから事件が起きる。ストーリーは次のとおり。ベストセラー作家として大成功をおさめたケンとジムは、表向きは二人で推理小説のネタを考え、完成させていると思われていた。だが実際にトリックなどを考え、文章として書き上げているのはジムだった。一方、ケンはその明るく社交的な性格から、マスコミの取材や、出版社との交渉など、営業面を担当していて、小説は1行も書いていなかったのだ。ある日、ジムはコンビを解消したいと言い出した。ケンはそれに対し、素直に頷くわけにはいかない。ジムの書く小説のおかげで、これまでの贅沢三昧な生活ができたわけで、コンビが解消されてしまえば、ケンの役割は一切なくなる。つまり、身の破滅を意味するのだ。ケンは、別荘やら車などの購入に金づかいが荒かった。借金もあった。ここは一つ、ジムに多額の保険金をかけて、死んでもらうしかない。受取人はもちろん自分である。ケンは、一世一代のトリックを仕掛け、ジムを殺害するのだった。この作品を見て思ったのは、やっぱり人は身の程をわきまえることが大切だ、というもの。もし自分が誰かの才能や技術に依存して成り立つところにあるとしたら、一刻も早く、己の立ち位置を見直さなくてはならない。あるいは、自分の役割を相手の才能の一部として組み込んでしまう仕組みを作ることだ。そうすることで、いざ相手が独立を目論んだとき、一人ではどうすることもできない状況となる。つまりは二人がお互いに足枷となり、故障のない限り、半永久的に歯車となって動き続けてゆくのだ。だが、たいていの人間は欲の塊であり、業の深い生きものであるから、利益は全て我が物にしたい。身の丈以上の利潤追求したところで、人は人でなくなる。例えばドラマ中に殺害されてしまうジムは、作家として成功したし、結婚もして前途洋々。だが、このままの状態が続けばギャラは相変わらず折半だし、もう我慢の限界に近いところまで来ていた。小説は全て自分が書き上げていて、ケンは一行だって書いていないのに!今後独立しても、書ける自分は何も問題ない。だが、書けない彼はどうなる? そんなことはどうでもいい。生きるためなら何でもするだろう。仕事は選ばなければ何でもあるーーと、思ったに違いない。その傲慢さ、いや、本人はそんなつもりは毛頭なかったであろう。だが結果として、コンビ解消を望んだジムは殺害されてしまった。じゃあ殺されないためには一体どうしたら良いのか?これは極端な例えかもしれない。しかし教訓として心に刻みつけておく必要があると思う。身の丈を超える欲を出したときこそ、人は己の危機を感知するべきだ。この作品は、人の深淵を覗くドラマとなっている。メガホンを取ったのは、スティーヴン・スピルバーグである。まだ若くて無名だったスピルバーグの、渾身の作品なのだ。一見の価値あり。オススメだ。1971年放送【監督】スティーヴン・スピルバーグ【キャスト】ピーター・フォーク、ジャック・キャシディ
2023.03.04
閲覧総数 58
10
【見延典子/もう頬づえはつかない】◆貧困女子大生の恋愛事情70年代は、いろんな意味で新しい風の吹いた年代であった。小説はそれが顕著に表れているのだが、たとえば村上春樹が登場したり、三田誠広や中沢けいなんかも産声をあげた。中でも見延典子は女子大生のゆるい日常を俗っぽく描いていて、本人の体験手記なのではと読者をハラハラさせるリアリティーさが受けた。当時ベストセラーとなった『もう頬づえはつかない』は、著者である見延典子によると、「これは大学に提出した卒業論文」であるとのこと。そのわりに文体は堅くないし、臨場感はあるし読み易いので、ごくごくフツーの小説として楽しめる。 見延典子は札幌市出身で早大第一文学部卒である。最近では『頼山陽』で新田次郎文学賞を受賞しているが、いつから歴史や伝記文学へと転向したのであろうか?代表作の『もう頬づえはつかない』は50万部を超える大ベストセラーとなり、1979年に桃井かおり主演で映画化もされた。(ウィキベディア参照)今回、当ブログの管理者の一人が『もう頬づえはつかない』の単行本を持っていたため、私は遅ればせながら一読させてもらう機会を得た。あらすじはこうだ。 貧乏女子大生のまりこは印刷工場でアルバイトをしていた。そこで知り合った同じく貧乏学生の橋本と、ずるずるとした関係を持つようになったまりこだが、実はまりこには同棲している恒雄がいた。だが恒雄は風来坊で、すでに1年近くも音沙汰がなかった。恒雄はまりこと同じ大学の法学部生だったがすでに退学。愛嬌のある橋本とは対極にあり、無愛想で無口でそれでいてまりこには抗えない魅力を感じさせる男であった。まりこは自分のアパートに住み着いてしまった橋本をキープしつつも、心はいつも恒雄の帰りを待っていた。そんなある日の深夜、ふらりと恒雄がまりこのところへ戻って来た。だが部屋には橋本が寝ているため、まりこは恒雄を中には入れず、場末のスナックへと誘った。後日、橋本が帰省のため鹿児島へと帰ってしまうと、まりこは待ってましたとばかりに恒雄のもとに出かけた。新宿のホテルで恒雄に抱かれ、快楽を貪った。感動的とも思えた再会と抱擁はつかの間だった。まりこは妊娠したのだ。だが、実際のところ、相手が恒雄なのかそれとも橋本なのか分からない。まりこは愛する恒雄の子を宿したのだと思い込み、恒雄のアパートに何度も足を運ぶのだった。 言うまでもなく結末は陰惨で、後味は悪い。こういう小説が当時のベストセラーだというのだから、おそらく時代性もあると思われる。私の好きな書評家である斉藤美奈子が、『妊娠小説』という抱腹絶倒の著書の中で、この手の小説をバッサリと斬っている。「未知なる妊娠に対する率直なおどろきである」と。これは主人公のまりこが女子大生という立場にありながら妊娠してしまうという設定と、著者である見延典子が23歳でこの体験談とも受け留められる作品を発表したという意外性も付加される。青春の苦悩とか何とかを表現した小説には違いないのであろうが、ひょんなことから妊娠→中絶というプロセスは、いつの時代にもごく当たり前のように存在した。娯楽の少ない時代には、肉の悦びもスポーツやゲームの一つだったかもしれない。だが今後はどうなるか?昔はこういう小説が世間をあっと驚かせるものだったのだと若い人に教えてやりたい気がする。この小説を読んで衝撃を受けるかどうか分からないけれど、ちょっと試しに読んでみてはいかがだろう?女子高生、女子大生の方々、ぜひどうぞ。 『もう頬づえはつかない』見延典子・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.11.22
閲覧総数 1217
11
「あなたは何だかギラギラし過ぎてますね。」「ギラギラ?」「そう、抜き身みたいに。」「抜き身?」「あなたは鞘のない刀みたいな人。よく斬れます。でも本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ。」やっぱり黒澤映画は文句なしにすばらしい。観ていて全く飽きないし、時代劇にもかかわらず古臭さが感じられないから不思議だ。 バッサバッサと人を斬り殺していくシーンは、ややもすれば殺伐として味気ないものになってしまいがちなのに、途中、妙に育ちの良い城代家老の奥方やその娘などの穏やかな物言いが、作品をやわらかく上品なものに仕上げている。入江たか子の格調高い雰囲気は、後光さえ射している。「あら、いけませんよ。そんな乱暴なことは。」(←まるで虫をいじめる子どもを諭すみたいに)そんなふうにたしなめられたら、どんな剣術士でもひるんでしまうに違いない。椿三十郎も例外でなく、一騎当千の豪の者でありながら、城代家老の奥方には全く逆らえないから不思議だ。深夜、朽ちた神社の社殿において、若き侍たちが人目を避けるようにして密談を交わしている。そこへ、奥の部屋から大あくびをしながらのっそりと現れる浪人、椿三十郎。若者たちは、自分たちの謀議を盗み聞きされたと、思わず息を呑む。だが三十郎はそんな緊張感などどこ吹く風とばかりに、若者たちにボヤくようにしてアドバイスをする。「菊井のほうこそ危ない」と。若き侍たちは、次席家老の汚職を城代家老に相談したところ、全く相手にされず、対して大目付の菊井に話してみると、「共に立とう」との返答を受けていた。しかし三十郎は言う。物事は客観的に捉えていると、その本筋が見えてくるものだと。若者たちは、三十郎をうさんくさく思いながらも、彼の手助けを受け、命がけで悪党に立ち向かってゆく。今さら三船敏郎を絶賛するのもおこがましいが、何と言うかこの存在感は天性のものなのであろうか。主役然として媚がなく、へつらいもない。堂々としていて、スター性に満ち溢れている。また、この限られたスクリーンの中で、役者を多いに生かして撮影に臨んだ黒澤監督の見事な演出。そして無駄のないセリフ。「世界の黒澤」たるを見せつけられた、すばらしい日本映画なのだ。1962年公開【監督】黒澤明【出演】三船敏郎、仲代達矢また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.24
閲覧総数 540
12
「君はもう自由だ。我々の所へ戻って来い。」「(戻ったところで)何がある。友達はここで死に・・・おれの心も死んだ。」「間違った戦争だったが国を憎むな。」「憎む? (おれは)命を捧げます。」「では何が望みだ。」「彼らが・・・望んだことです。彼らはこの土地へ来て戦いに身を投じながら一つのことを願った。国への想いが報われることです。・・・おれも同じだ。」これほどまで主人公のセリフが少ないシリーズも珍しい。だがスタローンは自己分析の長けている知的な俳優なので、「ロッキー」シリーズにしろ「ランボー」シリーズにしろその作品が何をメインとしているのかをよく認識している。「ランボー」にストーリーなんかいらない。いかに強くたくましい勇者であるかをスクリーンに映し出す、それがこの作品のメインなのだから。そしてスタローンは“ランボー”という強い男のイメージを、そっくりそのまま我がものにすることに成功した。どんなに過酷な状況でも屈することなく、やがて己の足で立ち上がってリベンジする精神力。この打たれ強さ、忍耐力は、日本人の眠れる魂を揺さぶるのかもしれない。その証拠に80年代の日本では、「ランボー」が大ヒット。名実ともに“ランボー”イコール“スタローン”という図式ができ上がったのだ。服役中のランボーのもとに、ベトナム戦争時代の元上官であるトラウトマン大佐が訪れる。ランボーにしかできない極秘任務の依頼のためだった。それは、ベトナムの捕虜収容所付近に潜入し、いまだ囚われの身となっている戦争捕虜の姿を証拠写真として撮影して帰ることだった。任務を承諾したランボーは、タイの米軍基地から軍用ヘリでベトナムへ潜入。決死の覚悟で収容所に到着すると、その凄まじい劣悪な環境にがく然とする。檻の中でアメリカ兵たちはやせ細り、マラリアにかかって熱にうなされ、あるいは化膿した傷口をねずみがかじっているという驚愕の惨状だったのだ。任務はあくまで“証拠写真の撮影のみ”で、決して捕虜の救出ではなかったが、ランボーは命令を無視して囚われの身となっている全てのアメリカ兵を助け出すことを決意する。印象に残るのは、ランボーが泥に同化して目だけがギョロリと動き、次の瞬間敵を容易く倒して、たった一人でゲリラ戦を続けていくシーン。ランボー一人に対し、敵は何百、何千人体制で交戦するのだから、いかにランボーが屈強であるかお分かりであろう。そんな人間兵器“ランボー”は、肩の力を入れずに勧善懲悪のアクション映画として多いに楽しみたい作品なのだ。1985年公開【監督】ジョージ・P・コスマトス【出演】シルヴェスター・スタローンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.03
閲覧総数 620
13
「俺にはあの本に書いてあることが他人のこととは思えねぇ! きっと俺たちも過去に行くことになるんだよ!」「過去に行けたとしてどうやって帰って来るの?」「知らん!」「はぁっ?」「しんのすけのいない世界に未練なんてあるか?」マンガの本領を発揮するのは、マンガを超える瞬間に遭遇した時かもしれない。単なる子ども向けアニメで終わらないマンガ、それこそが万人を感動させる術を持ち、末永く支持される所以なのだ。これまで「クレヨンしんちゃん」は、どちらかと言えば子ども向けの王道を行くアニメであった。しんちゃんの奇抜でユニークな言動や行為が、幼い子どもたちの共感を呼び、思わず笑いの渦を作り上げた。しかし本作、劇場版「クレヨンしんちゃん~嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦~」は、これまでの作品とは一線を画し、大人にも何らかのメッセージを与えるシリアスドラマに仕上げられているのだ。おそらく、黒澤作品の好きな方ならば、すぐにラストシーンの悲劇を観たところで「乱」を思い出したのではなかろうか。夢か現実か、しんのすけは池の畔に立っていた。とぼとぼと歩いているうちに、戦国時代の合戦シーンに遭遇。偶然にもしんのすけは、いじりまたべえと言う侍の命を救う。またべえは、しんのすけを不思議な子どもだと思いつつも、春日城に案内する。一方、しんのすけの両親ひろしとみさえは、しんのすけがいなくなってしまったことで、躍起になって捜していた。しかし、忽然と消えてしまったので、何の手掛かりもなく行き詰る。そんな中ひろしは、しんのすけの残した手紙の内容が気になり、図書館で文献をひも解く。しんのすけの手紙には、『おら、てんしょうにねんにいる』と書かれていたのだ。原作者である臼井儀人先生は、静岡市出身の春日部市育ちである。誠に残念ではあるが、本年九月に荒船山登山中、不慮の事故によりお亡くなりになった。 まだまだ続編を期待していただけに、ファンの間でもショックは大きい。この場をお借りして、臼井先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌2002年公開【監督】原恵一【声の出演】野原しんのすけ・・・矢島晶子、みさえ・・・ならはしみき、ひろし・・・藤原啓治、ひまわり・・・こおろぎさとみまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.12.22
閲覧総数 3086
14
『自分自身に』他人を励ますことはできても自分を励ますことは難しいだから、というべきかしかし、というべきか自分がまだひらく花だと思える間はそう思うがいいすこしの気恥ずかしさに耐えすこしの無理をしてでも淡い賑やかさのなかに自分を遊ばせておくのがいい 吉野 弘詩集「贈る言葉」より詩人の吉野弘氏が逝去された。享年87歳。『祝婚歌』がつとに有名である。ある程度の年齢の方は、吉野氏の名は知らなくとも、結婚披露宴で『祝婚歌』を一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。自分が「まだひらく花」などと口幅ったくて言えやしないが、ときに沸々と湧きおこる情動を持て余すことはある。そんな時は吉野氏の詩にふれ、我が身を行間で「遊ばせて」やろう。吉野氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げる。
2014.01.21
閲覧総数 2127
15
【ジョーカー】「狂ってるのは・・・僕なのか、それとも世間なのか・・・?」「(世の中は)不満が高まってる。人々は動揺して必死に仕事を求めてる・・・生きにくい時代だわ」ちまたは今、新型コロナウィルスのことで、これまでになく騒がしいけれど、ムリもない。今のところ特効薬がないため、罹患してしまったら一体どうなってしまうのか想像がつかないからだ。ならばどうしたら良いのか。そう、予防するしかない。その予防策についても、デマや不確実な情報が多い。そんな中、今自分は何をしたら良いのか、何をすべきかをよくよく考えて行動しなくてはならない。さしあたり私にできるのは、むやみに人混みに行かないことぐらいだ。イオンの食料品売り場で必要最低限の買い物を済ませたら、すぐに帰って来た。いつもの週末とは比較にならないぐらい人はまばらだった。駐車場もガラガラだった。これが一体どういう状況であるのか、ごくごく平凡な一市民でしかない私にもよく理解できる。若い息子も、今回ばかりはフラフラ外出することもなく、在宅。amazonのプライム会員である息子は、時間を持て余したのか『ジョーカー』を見始めた。私はこれ幸いとばかりにこたつで足を伸ばし、一緒にテレビに向かった。他人様に迷惑をかけることもなく、また、かけられることもなく、社会の片隅で生きるしがない親子二人が、束の間の娯楽を分かち合えるひと時となった。『ジョーカー』のストーリーはこうだ。舞台は1981年、アメリカ・ゴッサムシティ。貧困層と富裕層との格差が深刻化し、並行して犯罪も横行し、街は汚く荒んでいた。アーサー・フレックは道化師として日雇いの仕事をしていたが、あるとき、その仕事中にスラム街の少年たちから集団暴行を受け、商売道具をめちゃくちゃにされ、あげくの果てにアーサーは悪くないのに雇い主から「弁償しろ」と叱責される。アーサーはメンタルに問題を抱えていた。とくに楽しいわけでもないのに、発作が起こると突然笑い出してしまうと言う病気だった。そのせいもあり、仕事仲間から気持ち悪がられていて、周囲には馴染めないでいた。ロッカールームで、金銭目当ての同僚から「護身用に」と半ば強引に譲られ、アーサーは返すこともできなかった。ボロアパートに帰ると、精神疾患でまともに会話のできない母親がテレビを見ながら待っていた。二人の生活は社会の最下層に位置し、かろうじて住む場所があるだけマシ、という状況だった。母親は以前、大富豪のトーマス・ウェイン宅で働いていたことを唯一の誇りと考えるあまり、何通もの手紙をウェイン氏宛に書き、救済を求めるのだった。アーサーは、そんな母親をなじるわけでもなく、優しく面倒をみていた。そんな中、不幸は重なるもので、ピエロの格好をして小児病棟を慰問している際、つい忍ばせておいた銃が足もとに落ち、子どもたちの目にさらされてしまった。このことでアーサーは完全に仕事を解雇されてしまう。ピエロの格好から着替える意欲もなく、絶望的な気持ちで地下鉄に乗っていると、若い女性がビジネスマンの酔っ払い3人からからまれていた。見るともなく見ていたアーサーは、そんなときに限って発作が起き、笑いが止まらなくなってしまう。酔っ払いの3人は、大笑いするアーサーに矛先を変え、今度はアーサーにからみ始める。アーサーの中で何かが弾けた。忍ばせておいた銃を取り出し、2人を射殺。逃げるもう1人もこれでもかと言うほど執拗に追いかけ、撃ち殺してしまう。そのときのアーサーに罪悪感など微塵もなかった。恐怖や不安から解放され、えも言われぬエクスタシーが身体中を満たしていったのである。この作品のテーマはズバリ、「最貧困に怖いものなし」であろう。ここからはネタバレになってしまうが、アーサーは単なる貧困母子家庭の延長線上にあるだけでなく、親子そろってメンタルに問題を抱えている。信じていた母親も実は養母であり、アーサーは幼いころネグレクトを受けていた。本当に愛されているのかどうかも疑問である。唯一の頼みの綱であった福祉の援助も、財政難からカットされ、カウンセリングは打ち切りとなり、向精神薬の処方さえしてもらえなくなる。こうなってしまうと人間とは不思議なもので、何も恐れるものなどなくなるのかもしれない。自殺する勇気のある人ならまだ救いようがあるかもしれないが、その狂気が内側ではなく外側に向いたとき、人はどうなってしまうのか。それがこの作品の深いところに流れる混沌としたテーマのような気がする。主人公アーサーを演じたのはホアキン・フェニックスである。代表作に『グラディエーター』『サイン』『ホテルルワンダ』『her 』『アンダーカヴァー』などかある。(彼の兄は言わずと知れた『スタンド・バイ・ミー』のリヴァー・フェニックスである)これまでずっと「リヴァ・フェニの弟さん」と言われ続けて来たであろうホアキン・フェニックスだが、この『ジョーカー』で彼は俳優として本物であることを見せつけてくれた。(いや、これまでももちろん個性的な演技で、魅了されなかった作品など一つもないが)作中の狂気は尋常ではなかった。役作りのために痩せて、あばらの浮いた上半身にさえ絶望の2文字が見えてくるようだった。また、誰に見せるともなく踊るステップに、ただただ自己陶酔と狂信的な闇を見た気がした。私は心の底から不安と恐怖と、そして絶望を感じたのである。こういう作品はヘタな戦争映画を見るより100倍もこたえる。格差社会と言われて久しい現代にあって、あながちあり得ないことではないからだ。今さらだが、この主人公アーサー・フレックこそ、後の『バットマン』に登場する悪のカリスマ〝ジョーカー〟となる。とは言え、『バットマン』を見たこともない私が、この『ジョーカー』を単体で見ても、充分に底知れぬ孤独と狂気の沙汰を感じ得ることができた。この春一番のオススメ作品であるのは、間違いない。※ヴェネツィア国際映画祭にて最優秀作品賞(金獅子賞)受賞2019年公開【監督】トッド・フィリップス【出演】ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロご参考まで《吟遊映人》の過去記事です(^o^)/●グラディエーターはコチラ●ホテルルワンダはコチラ●アンダーカヴァーはコチラ●herはコチラ
2020.03.07
閲覧総数 121
16
「僕を助けてくれ。人間に戻りたいんだ」「どうやって?」「ここに僕が入る。君はあっちだ。そこで解体されて・・・向こうで融合されて出る。君と僕と子どもと・・・皆一緒だ」ホラーというジャンルにもいろんなパターンがあって、例えば『13日の金曜日』シリーズや『エルム街の悪夢』など、殺人シーンを山場にした作品が多数あるが、『ザ・フライ』はそういうホラーとは一線を画す。もっと人間的な悲哀で覆われた、SFホラーと言って良いだろう。端的に言うと、研究に情熱を燃やす科学者が、自分が実験台となり、ふとした過失で蝿男になってしまうという物語だ。この作品を鑑賞して、ついつい思い出されてしまったのが、『オペラ座の怪人』や『シラノ・ド・ベルジュラック』などの戯曲だ。容姿の醜い男が、一人の女性に恋焦がれ、どうしようもない運命の定めに翻弄されていくプロセス。これこそが物語の要である。『ザ・フライ』の作中でも、主人公が醜い蝿男になりつつあるにもかかわらず、恋人のヴェロニカは嘆き哀しみながらも彼を抱きしめるのだ。このシーンは、どんなロマンチックなラブ・ストーリーよりも崇高で美しい。数あるホラー映画の中に、このような悲哀を盛り込んだシナリオは少ない。テレポーテーションと遺伝子組換えの研究をしている科学者のセス・ブランドルは、学会の会場で女性記者のヴェロニカ・クエイフと知り合う。ブランドルは、ヴェロニカを研究室に招き、研究中のテレポッドを見せる。テレポッドは物質転送装置で、科学雑誌の記者であるヴェロニカにとっては、ぜひともスクープにしたい画期的な発明だった。一方、ヴェロニカは、編集長であり元恋人のボランズに愛想を尽かし始めていた。というのも、ブランドルの真面目な研究態度に惹かれ、いつしか男女の関係になっていったからだ。『ザ・フライ』の悲哀が最もピークを迎えるのは、やはりラストだろう。主人公が蝿男となりながらも、最後の人間らしさを振り絞って、ヴェロニカに銃口を自分に向けるようなしぐさを見せるシーンがある。蝿男として生きながらえたとして、一般社会ではとうてい受け入れてもらえない。人間としての生態というよりは、もはや蝿としての機能が強く、醜くなるばかりの自分に絶望していく様子。グロテスクで恐怖を感じさせる点では疑いようもなくホラー映画なのに、なぜか格調高いものを感じてしまう。80年代を代表する傑作ホラーと言っても過言ではないだろう。1986年(米)、1987年(日)公開【監督】デヴィッド・クローネンバーグ【出演】ジェフ・ゴールドブラム、ジーナ・デイヴィスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.01.11
閲覧総数 636
17
「みんな私を見てるわ」「(君が)美人だから」「(いいえ)高級なお店なのに安物の服を着てるからよ」「いいかい、人は来た道ばかり気にするが、どこへ向かうかが大切だ」「あなたはどこへ?」「望むままに」ギャング映画は吐いて捨てるほどにあるが、犯罪者をヒーローにまで高められる作品というのは、それほど多くはないだろう。レクター博士のように、一部の熱狂的なファン層から支持されることはあっても、性別にかかわらずそのキャラの雰囲気、立ち居振る舞い、容姿など全てにおいて「カッコイイ」と評価を受けるのは難しい。本作「パブリック・エネミーズ」は、アメリカ大恐慌時代に実際にあったことを実写化した作品で、言わばノンフィクションとのこと。その主人公ジョン・デリンジャーなる銀行強盗を演じたのはジョニー・デップだが、いやはや、あまりのセクシーさに度肝を抜いた。この代わりの利かない独自の存在感は、ハリウッド・スターと言えどもなかなかお目にかかれるものではない。元々この役者さんが頭角を現したのは、忘れもしない90年代前半に公開された、「シザーハンズ」で人造人間を演じたのがきっかけである。ファンタジー色の強いアートハウス系作品を得意とする役者さんかと思いきや、「ギルバート・グレイプ」の出演だ。無論、シリアス・ヒューマンドラマである。ところが2000年代に入ってからは、突如「パイレーツ・オブ・カリビアン」である。 この変幻自在ぶりは、ちょっと一筋縄ではいかない、他の追随を許さない“スター”であることの証拠なのだ。1933年、アメリカ大恐慌時代が舞台。銀行強盗のジョン・デリンジャーは、銀行から金を奪っても、弱者からは一銭も盗らないという男の美学を掲げた犯罪者であった。ある日、シカゴのバーで酒を飲んでいると、神秘的な美女に一目惚れをする。彼女の名前はビリー。ビリーもまたジョンの強引で危険な愛に惹かれてゆく。一方、FBIは敏腕捜査官を配置し、ジョンを捕まえるべくその捜査網を縮めていくのだった。この作品は、脚本が実に巧妙でドラマチックに仕上げられていると思った。セリフの一つ一つに無駄がなく、役者の体現的な動きと心の微妙な変化を見事に言い表したものである。また、役者陣も素晴らしい。壮絶な撃ち合いの後でも、画面が汚れることなく映像が優雅で刺激的に流れてゆく。全体を通して、見事な演出と脚本と、そして音楽であった。2009年公開【監督】マイケル・マン【出演】ジョニー・デップ、マリオン・コティヤール、クリスチャン・ベールまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.06.21
閲覧総数 357
18
【ウルフ・オブ・ウォールストリート】「株屋の第一のルールだが教えといてやろう。たとえ投資家のバフェットでも、株が上がるか下がるかグルグル回るか分からない。もちろん我々にもだ。つまり、“バッタもん”だ。分かるか?」「“バッタ”、、、まがい物」「そう、まがい物だ。幻だ。存在しないんだ。物質じゃない、元素表にも載らない。まったくの幻だ」原作はジョーダン・ベルフォートの回想録で、『ウォール街狂乱日記ー「狼」と呼ばれた私のヤバすぎる人生』である。メガホンを取ったのはマーティン・スコセッシ監督。この監督にバイオレンスを表現させたら、もう目を背けたくなるような徹底したリアリティーにこだわる演出だ。今回は、ウォール街が舞台なので、どんなものかと恐る恐る蓋を開けてみたら、、、やっぱり徹底したバイオレンス!それは本物の暴力ではなく、薬物とか、男女のだらしない交遊とか、金銭に対する執着など、ものすごい暴力的に描かれている。 レオナルド・ディカプリオ扮するジョーダン・ベルフォートというのが、ある意味天才的な話術を駆使したトレーダーなのだ。もちろん、映画で描かれているのはお金に対するやたらな執着心だが、同時にある種の宗教性すら垣間見えて来る。顧客に大金を投資させて、株屋がその手数料を頂く----。この図式に本来は何の問題もないはずだ。だが、冷静に作品を鑑賞していれば、視聴者は、この金儲け至上主義のからくりに段々嫌気がさしてくる。 お金をタンスの肥やしにしておくのはバカだ、運用してこそ価値があるのだから、どんどん投資して儲けよう。こうして顧客を煽って投資させる。お金を儲けることが至福の悦びであり、幸福であるかのような錯覚を抱かせる。投資=(イコール)布施みたいなものだ。つまり、金こそが崇拝の対象なのだ! ストーリーはこうだ。ウォール街の投資会社に勤務することになったジョーダン・ベルフォートは、わずかな期間で頭角を現す。投資にはリスクもつきものだったが、少しぐらいの損など痛手にはならない富裕層を相手に、次から次へと上手い投資の話を持ちかけた。その後、ジョーダンは独立し、証券会社を設立した。巧みな話術で社員らを鼓舞し、金儲けがいかに素晴らしいことかを洗脳していった。顧客に投資させることは、会社が成長し、社員一人一人が裕福に暮らせることを意味し、お互いのメリットであることを刷り込んでいった。どんどん金持ちに投資させ、絞り取れるだけ絞り取ってやろうと煽った。それは決して悪いことなどではない、人生を有意義にし、退屈で平凡な日々とおさらばするためなのだと、悪びれることもなく口にした。ジョーダンは、日々を“ハイ”に暮らすため半ば薬物依存状態となった。美人でセクシーな女性たちを周囲にはべらせ、これでもかというほど肉欲に溺れる日々だった。 ディカプリオの演技は本物だ。そのぶん、見ている側は感情移入してしまい、ディカプリオが憎らしくなって来る。この金の亡者に何とかして煮え湯を飲ませてやりたい、、、そんな気になる。 金儲けそのものにケチをつけたくはない。なぜなら、生活のためにお金を稼ぐのは必要不可欠のことだからだ。じゃあ何が気に入らないのか?きっと、お金は金持ちだけが儲かるしくみになっていて、それを動物的嗅覚で嗅ぎ分ける賢い連中の懐だけがザクザク音を立てていることに、嫉妬しているのかもしれない。とはいえ、すべての金儲けに言えることは、話術のセンスがあるかなしかだ。これをマスターすれば、たいていの営業は成功し、客からの信用も得られるはずだ。さらに、金儲けを罪悪とみなしてはダメだ。これは救済である。幸せになるための「布施」なのだと、信じ込むことである。それに尽きる。以上。 2013年(米)、2014年(日)公開【監督】マーティン・スコセッシ【出演】レオナルド・ディカプリオ、ジョナ・ヒル、マシュー・マコノヒー
2015.05.02
閲覧総数 384
19
【柳美里/潮合い(『家族シネマ』より)】◆いつか、いじめは根絶できるのか?世間ではいじめを扱った作品がはいて捨てるほどある。そのほとんどが、いわゆる青春小説というカテゴリにあり、ティーンを対象にしたドラマチックな内容となっている。これでもかこれでもかといじめ倒し、いじめる側の執拗なまでの陰湿な行為をあぶり出す一方で、読者の正義感を引き出そうという作品のねらいに、かえってしらじらしささえ感じてしまうこともある。いじめというものは、それほど簡単に根絶できるものではないからだ。社会が平和であっても戦時下であっても、いじめの質の違いこそあれ、まずこの世からなくなるものではない。 柳美里の初期の作品である「潮合い」は、転校生を徹底的にいじめ倒す内容となっている。芥川賞受賞作である『家族シネマ』の文庫を買うと、同刊に収められている。いじめには、いじめる側、いじめられる側、その双方に問題があるとか言われているが、私にとってそんなことはあまり問題ではない。当事者の抱えている家庭の事情など、どれほど辛く苦しい背景が隠されているか、ということもさして気にならない。現実は、そこにいじめが存在しているというその一点に他ならない。 「潮合い」のあらすじはこうだ。小学6年生の2学期、麻由美のクラスに一人の転校生がやって来た。その少女は安田里奈と言い、男子たちが妙にそわそわするだけのルックスをしていた。とにかく目立つのだ。目立つと言っても、表情はほとんど変わらず、一切だれともしゃべらず、ただその存在だけが目立っていた。麻由美はイラっとした。だいいち、2学期に転校して来ること自体、ヘンだと思った。あと半年もすれば卒業だからだ。きっとわがままで、前の学校では問題児だったに違いないと思った。麻由美はまず、里奈の髪につけているリボンにイラだった。ムリヤリ剥ぎ取ってやった。住んでいるところを聞くと、「わからない」と答えたため、麻由美は再びイラっとした。バカ呼ばわりし、ホームレスだと言ってやった。麻由美は数人の女子たちと里奈の服装について冷やかし、パンツを脱げと、みんなで一斉にはやしたてた。さらにはプールで泳げと命令した。びしょ濡れの里奈に気付いた担任の田中は、その場の状況をつかもうともせず、「転んで落ちたのか?」と、見当はずれのことを言った。熱血教師気取りよろしく、「先生はいじめがあったなんて信じない。先生はいじめが大っ嫌いだ」などと生徒たちに涙ながらにいじめを否定するのだった。 私はこの短篇を読んだとき、これは本物だと思った。まるでキレイゴトから唾を吐くように、リアリティのある、憂鬱でけだるい思春期を表現しているからだ。いじめをなくそうとか、いじめのない社会を、などと説教くさい意味合いはまるでない。 いじめはあります、それが何か? という突き放したようなクールな視線を感じるのだ。いじめの問題はおそらくきっと、今後も世間を騒がせるに違いない。だからと言って改善策を取らないというのも無責任な話だが、まずは子どもたちに強い心を持って欲しいというところだろう。さて、みなさんはいじめ問題をどう考えるだろうか? 『家族シネマ』より「潮合い」柳美里・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.02.21
閲覧総数 560
20
【村上龍/69 sixty nine】1969年と言ったらまだ私は生まれていない。なので60年代の混沌とした世相みたいなものは、映画や小説、テレビドラマからざっくりと想像するに過ぎない。果たしてそれが古き良き時代として評価できるものなのかも分からない。もしかしたら、そんなものは時代の通過点でしかなく、大して意味のないものかもしれない。村上龍の小説は好きで、わりとよく読んでいる。今回再読した『69 sixty nine』は、村上龍ご本人が1969年、17歳だったころのことをモデルにした青春小説である。最初に読んだとき、「おもしろいなぁ」と思って一気呵成に読了した。それがもう10年以上も前のことだ。ところが今再読してみると、「おもしろいなぁ」という感想とはだいぶ変わった。おそらく私自身、年を経て、とんがっていたものが段々擦り減って、丸くなったのかもしれない。 この作品は1987年に出版されているので、村上龍がまだ三十代なわけで、小説家として様々な手法を試してみたいとギラギラしているころなのではなかろうか。その証拠に文章中、強調したいフレーズ(フォント)をやたら大きくするというチャレンジをしている。ユニークだがその斬新さも、行き過ぎると残念に思えてしまうものである。とは言え、昭和の名残りを象徴するかのようなレトロ感は、ひしひしと感じられる。 あらすじは次のとおり。1969年、長崎県佐世保市の進学普通高校に通う矢崎剣介(ケン)は、3年に進級した。お調子者で行動力があり、級友たちから愛されるケンは、何かを仕掛けたくてウズウズしている。思いついたのはフェスティバルだった。それは、映画も演劇も音楽も全部を融合した催し物だった。ケンは親友である岩瀬とアダマに「フェスティバルをやろう」と持ち掛けた。当時、映画作りが流行っていたこともあり、イージーでしかも最先端の表現方法だと思い、皆は二つ返事でケンの誘いに乗った。主演女優には英語劇部の松井和子が適任だとケンが主張すると、岩瀬とアダマは「それはムリだ」と難色を示す。なにしろ松井和子と言えば「レディ・ジェーン」というニックネームを持つ、他校にも名のとどろく美少女だったからだ。しかしケンはあきらめない。「バリケード封鎖をやろう」と突然ケンが提案する。何か体制に対する主義主張があったからではない、とにかく松井和子から注目をされたい一心でのことである。言わば“ノリ”のようなものだ。こうして3人は「佐世保北高全学共闘」のアジトへと出向くのだった。バリケード封鎖はまんまと成功し、ケンとその仲間たちは青春のピークを迎えようとしていた。そんな中、結局警察に犯行を突き止められ、ケンたちは停学処分をくらってしまう。ところがそれを聞きつけたレディ・ジェーンこと松井和子は、ケンたちに接近し、親しくなっていく。なんだかんだとハプニングやトラブルが次々と起こっていく中で、ようやく停学が明けると、いよいよ今度はフェスティバルの開催に向けて始動するのだった。 村上龍が私小説とも言えるこの『69』を発表したとき、一体どんな思いがあったのかは想像するばかりである。私はバラ色の青春なんてありえないし、そんなものは幻想だと思っているので、明るく楽しく騒々しい青春小説を嫌悪する。もっとどす黒くてベタベタとしていて、目を覆いたくなるような赤裸々な描写が秘められた私小説なら大歓迎なのだが、50歳を目前にした今の私が読んだところで毒にも薬にもならない。青春を謳歌したことは大変結構なことではあるが、作品全体からプンプンと匂う自我自賛的なムードがどうもいけない。主人公がバリ封を計画し、高校を停学したにとどまらず退学となってしまい、その後の転落人生を語る・・・となればだいぶ変わっていたと思う。血の滲むような苦労を重ね、ようやく芥川賞を受賞し、今の地位を築いた・・・的な人生模様なら、拍手喝さいだったかもしれない。『69』は残念ながら私にとって、可もなく不可もなくと言った凡庸な作品でしかなくなった。それもこれも、加齢とともに変化した人生観によるものであろう。あしからず。『69 sixty nine』 村上龍・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2018.05.27
閲覧総数 626
21
【汚名】「なぜもっと早く愛してると言ってくれなかったの?」「自分の気持ちが分からなかったんだ。馬鹿な俺は君を失ってやっと気づいたんだ」「私を愛しているのね・・・」「出会った時からずっとだ」 やっぱりイングリッド・バーグマンとケイリー・グラントのコンビネーションは絶妙だ。 私生活でもこの二人は仲の良い友人関係だったようで、お互いを信頼し合った演技は視聴者を安心させてくれる。また、ヒッチコック自身の晩年のインタビューにおいても、『汚名』にキャスティングしたケイリー・グラントは完璧だったと語っている。とにかくヒッチコックのケイリー・グラントへの信頼ぶりはスゴイ。ヒッチコック映画にどれも共通しているのは、雰囲気だけで視聴者を不安がらせないということかもしれない。とかくスリラー映画はおどろおどろしい場面で埋め尽くされていることが多い。「ほら怖いだろ?」「こーんなに不気味だぞ」「ホレホレ」と、まくし立てる効果は、ホラー作品には有効かもしれないが、ヒッチコックはそれを許さない。「表面上のシチュエーションとその背景に隠された真相のあいだに大きなコントラストを設けること」で、ストーリーの強弱を表現するのだ。このような演出は、もはや芸術の域にまで達しているとしか言いようのない完成度なのだ。『汚名』のストーリーはこうだ。アリシアの父親はドイツ人で、ナチスの一味だった。売国奴の娘としてレッテルを貼られたアリシアは未来に希望を失くし、つまらないパーティーなど開いては酒に溺れた。そこで知り合ったのは、デブリンというFBI捜査官だった。デブリンはアリシアを利用するために近付いたのだが、彼女の美しさ、ひたむきさに惹かれてゆく。アリシアは、デブリンの「父親の汚名を返上するためにも、アメリカ人スパイとして国家のために働くように」という要求を呑み、ブラジルへ渡ることにした。そして、アリシアの父親の相棒であったセバスチャンに近付き、ナチスの動きを探索するのだった。『汚名』における最もスリリングな場面は、何と言ってもパーティーの最中、アリシアとデブリンが酒蔵に行ってぶどう酒の瓶の中身が何であるかを調べるシーンだ。大勢の人々で盛り上がるパーティー会場で、減ってゆくワインのシーンと、酒蔵で秘かに調査する二人のシーンが交互に映し出されるのだが、パーティー会場で使用人がワインを補充しなければと、酒蔵を目指そうとする。このままだと二人が見つかってしまう、というドキドキ感がたまらない。また、ヒッチコック作品にはついて回る設定として、母親とその一人息子の異常なほどの親子愛。これも見ものである。セバスチャンがアリシアの真相に気づき、母親に「母さん助けてよ」と、その枕元で苦悩を告白するシーンも不気味だ。『汚名』は、ラブ・ロマンスとしても一級で、主役二人のロマンチックなセリフにうっとりさせられる。あまりの素晴らしさに、あれもこれもと説明したくなってしまうが、とにかく万人の方々におすすめしたい。モノクロ映画であることなんてちっとも気にならず、徹頭徹尾、楽しめること間違いなしだ。1946年(米)、1949年(日)公開【監督】アルフレッド・ヒッチコック【出演】ケイリー・グラント、イングリッド・バーグマンヒッチコックの『サイコ』 コチラヒッチコックの『白い恐怖』 コチラヒッチコックの『レベッカ』 コチラヒッチコックの『裏窓』 コチラヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ』 コチラヒッチコックの『北北西に進路を取れ』コチラヒッチコックの『バルカン超特急』 コチラ
2013.06.30
閲覧総数 195
22
「たまに思う。(あの時)みんな車に乗ってて・・・これが全部夢だったらと。」「夢か。」「本当は俺たちはまだ11歳の少年で・・・穴蔵の中で、逃げたらどうなるかと思ってる。」「そうかもな。(だが、そんなこと)知るか。」久しぶりに文学的作品を鑑賞した。この感触は・・・そう、村上龍の「イン・ザ・ミソスープ」を彷彿とさせるものだった。 どうしようもない孤独とか、絶望感など、人はふとした瞬間に遭遇する。だがほとんどの人はそういう冷たく無機質な感情と向き合うことなく、何気なくどこかに置き忘れて一生を終える。否、実は気付いているくせに気付かないフリをして、陽気で明るい世界を構築し、ムリヤリにでも「孤独や絶望感などとは無縁だ」とばかりに自己演出をこらしているに過ぎない。世の中すべてが不条理だとは言わない。だが無慈悲で理屈に合わず、正義など本当のところは存在しないのだと、人は少しずつ気付き始めている。「ミスティック・リバー」を後味が悪いと非難する人は、残念だが何か別の作品を観ていただき、お口直しを願う。この作品は非常に格調高い文学なのだ。この世の不条理を赤裸々に表現している。客観性に富み、物事のあり方、人間描写、セリフの流れに類稀なる芸術を感じた。ボストンで少年時代を共に過ごす11歳のジミー、ショーン、そしてデイヴ。道ばたで3人はホッケー遊びに興じていたが、それにも飽きてしまい、いたずら半分でセメント塗りたての道路に、自分の名前を書き込む。そこへ、警官を装う怪しい男が現れ、3人のいたずらを厳しく咎める。男は少年3人のそれぞれの所在地を聞き出し、なぜかデイヴだけを車に乗せると、どこかへ連れ去ってしまう。その後、デイヴは性的暴力を受け、四日間の監禁後脱出し、どうにか助かる。だがこの事件をきっかけに、3人は疎遠になっていく。それから25年後、ジミーの娘が何者かに殺害され遺体となって発見されることで、3人は再会するのだった。作中、ジミーが苦悶を浮かべながら罪のないデイヴを殺害したことを妻に告白するシーンがある。この時の妻のセリフ、「あなたは王様なの。愛する者のためなら何でもするわ。」これをどう受け止めるべきか。殺害に正統な理由さえあれば、何でも許されるということなのか。その罪の重さを知ってか知らずか、いずれにしても夫婦で背負って生きていくということなのか。敬虔なクリスチャンであるはずなのに・・・。作品全体からそこはかとなく漂う喪失感を、視聴者は否が応でも感じないではいられない。2003年(米)、2004年(日)公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.29
閲覧総数 256
23
「今夜僕の演奏会があるんだ。」「本当か?」「うん、でも行かれない。」「なぜ?」「わけがあって・・・。」「もし僕が君なら演奏会に行くよ。何が何でもね。」「うん。(でも)もし悪いことが起きたら?」「音楽は捨てるな。何が起きても。どんなにつらい時だって音楽さえあれば感情を吐き出せる。僕の経験だ。でも大丈夫。悪いことは起きない。自分を信じろ。」この子役どっかで見たなぁと、自分の記憶のあいまいさに半ば嫌気がさした。どこか薄幸そうで、貧相な顔立ち、でも笑うとこの上なくキュートなこの子役は・・・?そうだ、「チャーリーとチョコレート工場」にも出演していた子役だ!やっと胸のつかえがとれてスッとした。(汗)フレディ・ハイモアは、妙にこういう役柄が似合ってしまう。貧乏でめぐまれない環境にもかかわらず、健気で前向きで心は豊か・・・みたいな役どころである。「奇跡のシンフォニー」において、フレディ・ハイモア以外にこの主役は考えられないほどに適役だった。作品冒頭では、一面の小麦畑の中に身をうずめ、風の声に耳を傾ける主人公エヴァンの表情に注目していただきたい。物欲のない、無邪気な微笑みに吸い込まれそうだ。ニューヨーク郊外の養護施設で暮らす11歳のエヴァンは、並外れた音感にめぐまれていた。エヴァンはどんなに辛く悲しい時も、音楽とともにあり、両親がいつかきっと迎えに来ると信じて疑わなかった。そんなある日、彼は外界のあらゆる音に導かれるようにして養護施設を抜け出し、マンハッタンにたどりつく。そこで出会ったのは同年齢の黒人アーサー。彼はギター一本でストリートミュージシャンとして稼いでいるのだった。全体を通して感じられる流れるような詩的なセリフ。音楽に乗って天空を舞う浮遊感。このセンシティヴな心の動き、感情の起伏を、身体全体で受け留めていただきたい。男女の恋愛感情も、親子の絆も、それを結びつけるのは常に自分を信じ、願うこと。感性とは、物事に対して知的な批判を浴びせることではない。頭で考えた美辞麗句ではなく、心でときめいたほとばしる泉のことだ。「奇跡のシンフォニー」は、心の琴線に触れる豊饒なラブドラマなのだ。2007年(米)、2008年(日)公開【監督】カーステン・シェリダン【出演】フレディ・ハイモア、ケリー・ラッセルまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.05
閲覧総数 115
24
「あなたはロボットなの? 人間はあんなに優しくないわ」「人造人間にハートがあるとは知らなかったぜ」「ロボット? ロボットの二世なのか?」「ロボットが自らを改良して造った新モデルだな?」シリーズ4作目にして驚いたのは、あの死んだはずのリプリーが生きているではないか?!よくよく見ていくと、リプリーはリプリーでもクローンによって再生された新リプリーであることが分かる。さらに、監督はフランス人監督で、そのためかどうかは分からないが日本には友好的(?)で、ウェイランド・ユタニはこの作品において存在しない。前作では、エイリアンを軍事利用のため生物兵器として開発していた凶悪な日系企業という設定だった。そのイメージは強烈で、主人公リプリーVSウェイランド・ユタニ(日系企業)的な図式で描かれていた。4作目では、軍と科学者たちが徹底的な悪役として描かれている。これは、日本人としてスッとした。『エイリアン4』で注目したいのは、遺伝子工学によって誕生した次世代エイリアンが産み落とされて間もなく、母であるエイリアンを殺してしまうシーンだ。この新生エイリアンはリプリーの遺伝子を受け継いでいるため、自分を人間だと思い込んでいるのだ。また、リプリーこそが母であると、甘える様子さえ見せるのだからたまらない。このストーリー展開は、遺伝子くみかえ等の本来あってはならない遺伝子操作を、暗に批判する意図もあるかもしれない。エイリアンの幼生とともに自らの命を絶ったリプリーだが、その200年後、遺伝子工学の発展により、リプリーのクローンが再生された。冥王星の周囲に停泊する宇宙医療船オリガ内で、リプリーのクローン8号が誕生したのだ。その宇宙船オリガでは、軍と科学者たちが、エイリアンを生物兵器として利用するため躍起になって研究が進められていた。そんな中、宇宙貨物船ベティ号が、何やら怪しげな積荷をオリガに運び込む。その積荷は、冷凍睡眠中に誘拐して来た、どこかの宇宙船のクルーで、しかもエイリアンの宿主として利用するために買われたものだったのだ。今現在のところ、この『エイリアン4』で完結しているわけだが、ラストを見るとまだまだ続編ができそうな勢いを感じるし、意味深だ。一方、遺伝子操作によって人間の女性と同じ子宮を得たエイリアンは、出産後に悲劇的な死を迎える。このことにより、従来の凶悪な宇宙生物としてのエイリアンは終焉を迎えたような気もする。とはいえ、前作よりさらにグロテスクでホラー色満載の『エイリアン4』は、猛暑を乗り切るための切り札になること間違いなしだ。1997年(米)、1998年(日)公開【監督】ジャン=ピエール・ジュネ【出演】シガニー・ウィーバー★シリーズ1作目「エイリアン」はコチラから。★シリーズ2作目「エイリアン2」はコチラから。★シリーズ3作目「エイリアン3」はコチラから。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.08.05
閲覧総数 2261
25
【向田邦子/阿修羅のごとく】◆いくつもの顔を持ち合わせているのが女なのだ向田作品の特徴は、なんと言っても“ザ・オンナ”という点にあるだろう。女性の性質なんて、古今東西それほど大きく変化はない。向田の描く女性が昭和のオンナだからと言って、平成を生きる女性に当てはまらないわけがないのだから。『阿修羅のごとく』は、そのタイトルどおり、女性には阿修羅像のようにいくつもの側面を持ち合わせていることを、軽快なタッチで表現している。作中では、四人の姉妹が登場するのだが、たとえ姉妹でもそれぞれに性格が異なり、くっついたり離れたりしながら上手くバランスを取っている。おもしろいのは皆が皆、異性のことで悩み苦しみ抜いていることだ。誰一人として世相を嘆いたり、物価上昇に物申したり、あるいは人生の意味や意義を問うたりしていない。長女は不倫、次女は夫の浮気に悩み、三女は好きな男の前では素直になれず、四女はボクサーと結婚するものの夫が失明の危機にさらされる、という人間模様だ。さらにこの四姉妹の父親にも、年の離れた愛人がいる。母親は知ってか知らずか、黙って耐えている。この愛憎劇は、複雑なようで実は世間にはありがちな題材を物語にしていると言える。その分、作品が平坦にならないのは、それぞれが抱えている悩みを我が事として、あるいは女の業として全てを受け入れている点にスポットが当てられているからではなかろうか。無論、積もる愚痴や厭味を見っともなく言い争うシーンは、あちこちに出て来る。血を分けた姉妹と言えども、一たび衝突すれば、小憎たらしい存在ともなりうるわけだ。『阿修羅のごとく』で意外な展開だと思ったのは、四姉妹の母親が脳卒中であっけなく急逝してしまうところだ。さらに残された父親は、晴れて愛人と障りなく交際することになるかに思えたのだが、若い愛人は別の男との結婚に踏み切ってしまう。父親は、妻を亡くした後、娘たちのことで気を揉み、さらには自分のことでも張り合いを失くし、どこか虚ろな結末となっているのだ。私が向田作品をこよなく愛する所以は、そこらへんにある。つまり、全ては“因果応報”なのだと。誰かを傷つければ、必ず自分も傷つけられる。巡り巡って必ず自分のところにかえって来るというわけだ。また、人生とは儚い。そう易々とは、順風満帆にはいかない。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。それが人生、これが人生。この小説には、正統派のホームドラマが描かれている。ここに登場する男女の絶妙な機微に触れて、グッと来るのは、やっぱり三十代後半以上の女性限定になるかもしれない。(本当は若い人にもおすすめしたいのだが・・・)『阿修羅のごとく』向田邦子・著☆次回(読書案内No.29)は樋口一葉の『にごりえ』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話■No.19谷崎潤一郎/痴人の愛 この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士。■No.20車谷長吉/赤目四十八瀧心中未遂 生への執着は、性への執着でもあるのか■No.21松尾スズキ/クワイエットルームにようこそ 平成に新しい文学が登場■No.22川上弘美/神様 現代における女性版カフカ?!■No.23丸谷才一/鈍感な青年 男女の営みは滑稽なもの■No.24宮本輝/流転の海 第一部 戦後の混乱期を生きる日本人の底力を見よ!■No.25岩井志麻子/ぼっけぇ、きょうてぇ 女郎が寝物語に話す、身の上話■No.26柳美里/水辺のゆりかご 包み隠さず書くのは勇気なのか、それとも・・・?■No.27宮尾登美子/櫂 妻は黙って亭主に傅くのみ。殴られても蹴られても耐えるべし◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る! ◆番外篇.2菊池寛、選挙に出る! 読書階級の人は菊池寛氏を選べ ◆番外篇.3菊池寛、選挙に出る! 唯ぼんやりとした不安、ハナはこちらなり。
2012.12.26
閲覧総数 187
26
【辻仁成/ピアニシモ】◆25歳ぐらいまでに読んでおきたい青春小説ロック・ミュージシャンの辻仁成が、すばる文学賞を受賞したと知ったのは学生時代のこと。最初はほんの興味本位で読み始めた。半分は冷やかしだ。こういうものは片手間に出来ることじゃないのだと、批判めいた気持ちも持っていたかもしれない。ミュージシャンと作家を両立してやっていくつもりなのかと動向を見守っていたのだが、最近の辻仁成を見ると、どうやら作家一本に的を絞ったようだ。『ピアニシモ』は、2013年の現在再読してみると、1990年に初めて読んだ時とは全く違う感想を持つ、私にとっては珍しい作品だ。当時はまだケータイもパソコンも今ほど普及していないから、秘密の交信の場として花形だったのは、伝言ダイヤルというシステムだ。これはもうほとんどが売春などに関するメッセージばかりで、小さな社会問題となっていた。『ピアニシモ』では、十代の主人公トオルが、伝言ダイヤルで知り合ったサキとの電話のやりとりにすっかりハマってしまうというものだ。匿名性の強い分、単なる電話だけのやりとりだと割り切ってしまえば、あるいはゲーム感覚でそのバーチャルな世界を堪能することが出来たであろう。だが主人公のトオルは、そうではなかった。裕福な家庭に生まれ育ち、小遣いには事欠かないが、氷のように冷え切った親子関係に心の休まることはなく、学校でも凍るような視線を向けられ、友だちが誰一人としていない教室に針のむしろ状態だった。そんな中、トオルの孤独を癒すのはヒカルだけ。だがヒカルという存在は、トオルが自分の中で作り上げた、いわば幻でしかなく、実在しないものなのだ。以前読んだ時は、なんという孤独な小説なのだろう、行き場のない若者をさらに荒廃の闇へと追い討ちをかけるものなのだろうかと、ずいぶん暗い気持ちになった。青春とは、決してバラ色でないことぐらい知っていたはずだが、それでもこれほどまで狂信的な孤独を強要させる小説というものは、耐え難かった。ところがどういうことか、今読むと、全く違う感想だ。これはあくまで少年期における、度の過ぎた反抗期を描いたものなのでは?と思うわけだ。皆少なからず若い時には苛められたり、親子喧嘩したり、友人に騙されたり、それこそありとあらゆる苦い体験をするのだ。そういうものを文学という名を借りた青春小説にまとめると、このような作品に生まれ変わるのだろう。少年から大人に成長する時、誰もが自己否定と自己消失と自己憐憫に戸惑う。どんな形であっても、人は大人になってゆく。気づかなかったことも、気づき始め、やがては孤独にも慣れてゆく。人は一人で生まれ、一人で去ってゆくのだから。『ピアニシモ』は、大人になってから読んでも、さして衝撃は受けない。できれば25歳ぐらいまでのうちに読んでおく方が、“青春とは何ぞや”をリアルに実感できる作品と成り得るものだ。『ピアニシモ』辻仁成・著☆次回(読書案内No.33)は田口ランディの『コンセント』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話■No.19谷崎潤一郎/痴人の愛 この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士。■No.20車谷長吉/赤目四十八瀧心中未遂 生への執着は、性への執着でもあるのか■No.21松尾スズキ/クワイエットルームにようこそ 平成に新しい文学が登場■No.22川上弘美/神様 現代における女性版カフカ?!■No.23丸谷才一/鈍感な青年 男女の営みは滑稽なもの■No.24宮本輝/流転の海 第一部 戦後の混乱期を生きる日本人の底力を見よ!■No.25岩井志麻子/ぼっけぇ、きょうてぇ 女郎が寝物語に話す、身の上話■No.26柳美里/水辺のゆりかご 包み隠さず書くのは勇気なのか、それとも・・・?■No.27宮尾登美子/櫂 妻は黙って亭主に傅くのみ。殴られても蹴られても耐えるべし■No.28向田邦子/阿修羅のごとく いくつもの顔を持ち合わせているのが女なのだ■No.29樋口一葉/にごりえ 明治の娼妓のコイバナ、そして人情沙汰■No.30南木佳士/阿弥陀堂だより 信州の自然美に触れて生き返る■No.31東川篤哉/謎解きはディナーのあとで エンターテインメント性重視、ポップでライトなミステリー小説◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る! ◆番外篇.2菊池寛、選挙に出る! 読書階級の人は菊池寛氏を選べ ◆番外篇.3芥川龍之介と菊池寛 唯ぼんやりとした不安、ハナはこちらなり。
2013.01.09
閲覧総数 2896
27
【浅田次郎/月のしずく】◆エンターテインメント性バツグン! ドラマチックなラブ・ストーリー浅田次郎の作品はどれもしっとりしていて、大地が潤うように瑞々しい。エンターテインメント性に優れ、読者の期待を裏切るような浅はかな結末にしないのも非常に嬉しい。おそらく、終始一貫、計算し尽されており、大衆に受け入れられるテクニックを持っているに違いない。『月のしずく』は、表題作の他に6編の短編小説が収められていて、どれもドラマチックで読み易い。それは言い換えるなら、非現実的で巧みな作り話の世界でもある。正に、小説が小説としての役割を全うした、プロの仕事だ。表題作『月のしずく』のストーリーはこうだ。43歳の佐藤辰夫は、中学を出てからずっとコンビナートの荷役として働いている。稼ぎはだいたい酒代に消える。妻子はいないから自由気ままな一人暮らしだ。とはいえ、寂しさから独り言が増え、想いはいつも「かみさんが欲しい」。辰夫はいつも純愛を信じている。だから、突然現れた美女が、辰夫と一つ屋根の下に寝泊りしようとも、淫らなことはせず、秘かに恋心を寄せるのみ。だが女は身ごもっていて、堕ろしたいがために辰夫を体良く利用しようとする。そんな女の目ろみを知ってか知らずか、辰夫は子どもを産んでくれと言う。辰夫は、その女とささやかな家庭を築きたかったのだ。女性は本能的に、男というものがいかに容姿やスタイルを気にする動物であるかを知っているがゆえに、着飾ったり化粧したり、少しでも見栄えを良くする。でもそういう行為は、なかなかどうして、女性にとっては手間なのだ。(無論、外見にこだわることを生きがいにしている方もいるが)だから、この小説に登場する辰夫のような人物は、女性にしてみれば、正に理想だ。「ブスでもデブでも何でもいいよ。やらしてくんなくたっていいさ。どんなのだって、かみさんになってくれりゃ、大事にするんだがなぁ」という一言を待っている女性は、多いはず。現代は女性も殺伐としたビジネス社会に進出する時代だ。そんな中、男性には純粋な愛情を注いで欲しいと願う女性が圧倒的なのでは? 誰もが安らぎを欲して止まないこのご時世、浅田次郎の作り上げたキャラクターは、王子様というよりキリストだ。わがままで自分勝手な女をも愛し、またその女の腹に宿る子(たとえそれがよその男の種で)さえ慈しむ。なんという慈悲深さ。この小説は、年齢性別問わず、癒しを求める全ての方々におすすめしたい。ひと時の平安が与えられること間違いなしだ。余談だが、作家には“次郎”と名のつく売れっ子が多いのでは? 赤川次郎、大仏次郎、新田次郎・・・浅田次郎。みんな凄い。そうそう、浅田次郎の画像を見ても思ったのだが、こういう人相の方、知り合いにいそうなタイプでは? 私は少なくとも3人は知っている。皆、親切で優しい方々ばかりだ。こういうタイプに悪い人はいない(笑)『月のしずく』浅田次郎・著浅田次郎原作の映画、『鉄道員(ぽっぽや)』はコチラ『壬生義士伝』はコチラまで♪☆次回(読書案内No.36)は有吉佐和子の『香華』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話■No.19谷崎潤一郎/痴人の愛 この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士。■No.20車谷長吉/赤目四十八瀧心中未遂 生への執着は、性への執着でもあるのか■No.21松尾スズキ/クワイエットルームにようこそ 平成に新しい文学が登場■No.22川上弘美/神様 現代における女性版カフカ?!■No.23丸谷才一/鈍感な青年 男女の営みは滑稽なもの■No.24宮本輝/流転の海 第一部 戦後の混乱期を生きる日本人の底力を見よ!■No.25岩井志麻子/ぼっけぇ、きょうてぇ 女郎が寝物語に話す、身の上話■No.26柳美里/水辺のゆりかご 包み隠さず書くのは勇気なのか、それとも・・・?■No.27宮尾登美子/櫂 妻は黙って亭主に傅くのみ。殴られても蹴られても耐えるべし■No.28向田邦子/阿修羅のごとく いくつもの顔を持ち合わせているのが女なのだ■No.29樋口一葉/にごりえ 明治の娼妓のコイバナ、そして人情沙汰■No.30南木佳士/阿弥陀堂だより 信州の自然美に触れて生き返る■No.31東川篤哉/謎解きはディナーのあとで エンターテインメント性重視、ポップでライトなミステリー小説■No.32辻仁成/ピアニシモ 25歳ぐらいまでに読んでおきたい青春小説■No.33田口ランディ/コンセント 引きこもりをテーマにした社会派小説をねらうも、結果オカルト小説■No.34沢木耕太郎/無名 最愛の父を看取るまでを淡々と語る◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る! ◆番外篇.2菊池寛、選挙に出る! 読書階級の人は菊池寛氏を選べ ◆番外篇.3芥川龍之介と菊池寛 唯ぼんやりとした不安、ハナはこちらなり。
2013.01.19
閲覧総数 284
28
【東野圭吾/秘密】◆我が子の肉体で人生を二度謳歌する女この本を貸してくれた友人は大絶賛だった。涙なしには読めなかったとも。それは大げさでも何でもなく、事実そうだったに違いない。友人は言った。「豊かな感情を持たない人には、分からないと思うよ」と。私が一読してまず感じたのは、ああファンタジー小説だな、というものだ。あまりにざっくり言い過ぎてしまい恐縮だが、肉体と精神が完全に別人格であるという設定は、ヒューマンドラマとしてはちょっと読みづらい。ならばラブ・ストーリーとして捉えれば良いではないかと読み直してみれば、親子愛にしてはあまりに淡白過ぎるし、夫婦愛ではラストのオチで失敗している。だがファンタジー小説としてなら、どこをどう突いたところで申し分なく、まるでドラマのように美しく流れていく。鮮やかな映像を、見て来たように思い描くことが出きるのも、東野圭吾の一流作家としての手腕だとさえ思う。ここからこの小説のあらましをご紹介してしまうので、この先は『秘密』を読もうとしている方々はご遠慮下さい。文字通り、秘密が秘密ではなくなってしまうので・・・。40歳を目前にした平介は、妻・直子と11歳の娘・藻奈美の3人家族。小学校の春休みを利用して、直子と藻奈美は長野のスキー場に出かけた。ところが志賀高原を目指していたスキーバスが、長野市内の国道で転落事故を起こしてしまうのだった。テレビの報道で事故を知った平介は、急遽、長野の病院まで車を飛ばす。主治医の所見によれば、直子の方は外傷が酷く、ガラスの破片が心臓にまで達していると。また、藻奈美の方は植物人間のような状態であると言う。結局、直子の方は助からなかった。娘を助けようと、覆いかぶさるようにして藻奈美を守り抜いた、命の代償であった。ところがどうしたことか、息を引き取った直子の隣で、植物人間と化していた藻奈美の意識が戻ったのである。しかも、あろうことか、藻奈美のものであるはずの人格が、完全に直子に取って代わっているではないか。肉体は間違いなく11歳の藻奈美のものであるのに。驚きを隠せない平介は、すぐには現実を受け入れられないでいた。物語は、妻・直子の人格(精神)に取って代わった藻奈美の行方を追う。直子は単なる主婦でしかなかった自分を省みて、娘の肉体を我が物にした今、猛勉強を始める。(いつ本来の藻奈美の意識が回復しても良いように、という前提のもとにだが)そして体力作りのためにテニス部にも所属し、淡い恋も経験する。嫉妬に狂った平介の、ストーカー的行為にうんざりしながらも、人生をやり直すことに意義を見出す直子。人は皆、少なからず過去に後悔を抱きながら生きている。その時、その行為を、ゲームのようにリセットできないことが分かっているから、未練に駆られ、後悔に苦しむのだ。『秘密』において、それは見事に覆され、人生のリセットが為されている。直子というキャラクターが、小説の中とはいえ、多くの女性の願望を叶えてくれるのだ。こうしたら良かった、ああしたら良かったと反省し、悩み抜いて来たことを一つ一つ成就する。努力の末、医大に合格し、その後、相性の良いパートナーを見つける。ラストは、完全に平介を孤独のどん底に突き落とすものだ。藻奈美が直子の人格そのままであることが分かっても、どうすることも出来ない。直子はすでに新しい人生をスタートさせようとしているからだ。肉体が藻奈美のものである限り、一生、藻奈美として生きていかねばならない。だが直子にとってそれは苦痛ではない。若くエネルギッシュな実の娘の肉体を譲り受けた今、人生を二度謳歌するというものなのだ。一方、平介は、藻奈美の真実を墓場まで持って行くしかない。直子との関係はすでに破綻しており、その肉体のない直子の死という事実は、もはや亡霊でしかない。こうして作者は、平介に最大の苦悩を宣告したわけだ。この結末は、おそらく賛否両論あるに違いない。そうは言っても、何やら目覚めた女性たちのシュプレヒコールがこだまするようだ。「直子に同感! 自立できる女になりたい! 気持ちだけでなく、経済的にも。一流の女になりたい!」そんなわけで、私個人的には、世の女性に向けたファンタジー小説として捉えたら、最高にして最良の名著と成り得る小説だと思うのだ。さて、あなたはこの作品をどう捉えるだろうか?『秘密』東野圭吾・著☆次回(読書案内No.58)は赤川次郎の『ヴァージン・ロード』を予定しています。コチラ
2013.04.06
閲覧総数 371
29
【岸田秀/ものぐさ精神分析】◆初心者にやさしい、心理学入門に最適のテキストいつごろだったか、たぶん20年ぐらい前になるだろうか? 血液型心理学占いなるものが、爆発的に流行った時がある。雑誌の特集などで扱われていたりすると、私も人並みにいそいそと買い込んで、「おお、当たってる!」などと喜んで読んでいた。あのころはまだウブだった。ところが年月というものは残酷である。今ではそんなものが単なるまやかしでしかないことが分かってしまった。第一、心理学(自然科学や社会科学でないもの)という非科学的な学問と、占いというオカルトをコラボさせたものなんて、どう考えたって信憑性がないのに、若いころは“無垢”というベールが知覚を遮っていたに違いない。さて、『ものぐさ精神分析』は、早大文学部(心理学)の院卒である岸田秀が、専門家としての立場から考察したものであり、それはもう興味深い精神分析の世界を説いてくれたものである。最初に学術誌などで発表されたのは70年代で、その後書籍化され、ベストセラーとなり、それ以後も版を重ねている。今は亡き伊丹十三もかなり影響を受けたらしく、巻末には長文の解説を寄せている。私はこの本を何度となく読んで、「人間は本質的に神経症」であることを知り得た。べつにだからどうというわけではないが、自分も含めて誰一人まっとうな人間などいないのだと思ったら、人間のやることなすこと、全て五十歩百歩なのだとあきらめもつく。興味深く読んだのは、〈日本近代を精神分析する〉である。日本国民(集団)を一つの単体(個人)として捉え、精神分裂病であると診断を下す考察だ。その原因はやはり、1853年のペリー来航事件であるというのだ。これは作家の村上龍も意見を同じくしているが、日本は「有史以来、一度として外国の侵略や支配を受けたことのない、言わば甘やかされた子どもであった」ところ、突如としてペリー率いる東インド艦隊によって開国を強制された。司馬遼太郎はこれを、「日本はアメリカに強かんされた」と表現するが、要するに、無理やり「また(港)を開かされた」状況なのだ。岸田秀が比喩として「苦労知らずのぼっちゃんが、いやな他人たちとつき合わなければ生きてゆけない状況に突然投げこまれた」と述べているが、これは長きに渡って鎖国していた日本が、開国を無理強いされた状況を実に上手く例えている。ところがそれは「日本にとって耐えがたい屈辱であった」。つまり、このペリー・ショックが日本を精神ぶんれつ病にしたというのだ。「開国は日本の軍事的無力の自覚、アメリカをはじめとする強大な諸外国への適応の必要性にもとづいていた」が、これまでの日本の文化、伝統の中断でもあった。急激な欧米化が実行され、「卑屈な鹿鳴館外交が展開」されたのだ。こうして日本は不安定な内的自己を支える砦がどうしても必要となる。(伝統的日本を失った内的自己は、自己同一性の喪失の危機にさらされてしまったからだ)そこで、その恐怖からの逃避に好都合だったのが、天皇制である。要するに、天皇=アイデンティティー=大日本帝国となるわけだ。ほとんど宗教らしい宗教を持たない民族にとっての、万世一系の神となる必要性が生じたのだ。この時代、不平等条約の改定を目指して合理化された、和魂洋才(外面と内面を使い分けること)というスローガンが、何より日本の精神分裂を物語っている、という考察である。この歴史を踏まえた精神分析は、なるほどと頷けるものがある。ざっとでも近代からの歴史認識をある程度持ち合わせていないと、後の同化政策など中国や朝鮮との現在に至るまでの関係を理解するのは難しい。他にも『ものぐさ精神分析』では、〈吉田松陰と日本近代〉〈国家論〉〈せいよく論〉〈恋愛論〉〈自己嫌悪の効用~太宰治「人間失格」について~〉などなど興味深い考察が満載である。何より、人間は皆神経症なのだとほとんど明言されていて、それは何も異常なことではないと、やんわり諭されてしまう。素直な私は、よって「正常な自我なぞというものはない」のだから、自分さがしの必要なしーーーという結論に至った。(これはあくまでも個人的な見解だが)とにかく、この一冊が初心者向けの親切な案内書となっていることは間違いない。『ものぐさ精神分析』は、心理学入門に最適なテキストである。『ものぐさ精神分析』岸田秀・著☆次回(読書案内No.105)は林真理子の「白蓮れんれん」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.12.21
閲覧総数 510
30
「(このヤマから)外れるわ。」「なぜ?」「犯人像も分かったし、私はもう用済みよ。」「マーティンの心理は誰が分析する?」「彼が容疑者よ。」「逮捕がまだだ。・・・本当の訳(理由)は何なんだ?」「別に何も。」うん、やっぱりサスペンス好きだな。偏りがあってはいけないと思い、様々なジャンルから週末に観るDVDをチョイスしてはいるけど、改めて“サスペンス好き”の自分に気付いてしまった。今回観た「テイキング・ライブス」においても、猟奇的な殺人事件が題材になっているのだが、コワさを煽るカメラワーク、視聴者の裏をかくシナリオ、うるさくならない程度のBGMは正にバランスが取れており、安心して鑑賞することができた。FBI特別捜査官のイリアナの日常は実に良かった。仕事に対するプロ意識とは、こうあるべきなのだ。彼女は常に犯人の意識下に入り、思考をめぐらし、分析する。それは一分一秒さえ無駄にしない努力の連続でもある。自宅で夕食を摂る時でさえ、自分の向かい側のイスに現場の壮絶な写真を貼り付け、じっと凝視しながらサラダを食べ、ワインを飲むのだ。さらには腐敗した死体の掘り起こされた現場に自分自身が横たわり、死者の意識をめぐらす。これほどのプロ意識がなければホシをあげることなどできないのだ。1983年カナダで、マーティン・アッシャーという少年が交通事故で死亡するというニュースが流れる。ところ変わって現在、モントリオールのとある工事現場で腐敗の進んだ死体が発見され、連続猟奇殺人を疑った警察はFBIに捜査協力を要請。女性特別捜査官のイリアナが派遣されるのだった。そんな中、次なる殺人事件が発生。唯一の目撃者であるコスタの証言に、信憑性があるか否かを確かめるために、イリアナが尋問する。犯人の顔を見てしまったコスタは、この次は自分が狙われるのではと不安に駆られ、怯えるのだった。女性蔑視とか職業の優劣意識による嫉妬心など、どこの社会にもあることなのだと思った。こんな場面が出て来る。それは、FBIの女性捜査官イリアナと地元警察の二人の男性刑事がカフェで朝食の最中。二人の男性刑事は同席のイリアナに分からないようフランス語(モントリオールはフランス語圏)でセクハラまがいの冗談を言い合う。これは、よそ者でしかも女性という立場のイリアナに対する不快感の表れである。こういう社会風刺はさすがにアメリカだけのことはある。思うに、役者の熱演とか圧倒的な存在感より、映像や編集テクニックにより緊張感や恐怖感を煽る・・・・これこそがサスペンス映画の醍醐味であろう。2004年公開【監督】D・J・カルーソー、ブルース・バーマン【出演】アンジェリーナ・ジョリー、イーサン・ホークまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.09
閲覧総数 643
31
【宮本輝/錦繍】元夫婦が年を経てお互いの生き様を認め合うプロセス私は幼いころより手紙を書くのが大好きだった。学生時代には、雑誌の文通コーナーで知り合った相手と長らく文通もしていた。今思えば内容なんてつまらないものだ。ひいきにしているミュージシャンの話とか、映画の批評とか、くだらない芸能情報などをつらつらと飽きもせず書いていたに過ぎない。あのころはパソコンもスマホもない時代なので、友だちと連絡を取る手段といえば、自宅の固定電話の他に、交換日記をしたり、手紙のやりとりをすることであり、それは決して珍しいことではなかった。大人になってからも、私は文通を続けていた。四十代も半ばになった今となっては、さすがにそれも叶わなくなってしまったが、、、 宮本輝の『錦繍』は、元夫婦だった男女が、年を経て偶然出くわし、手紙のやりとりが始まるという書簡体の体裁を取る小説である。リアルの世界ではここまで細かくはつづらないであろうと思われる内容も、手紙という形で表現されている。読んでいるうちに「これはもしや復縁する展開か?」と推理するのだが、見事にはずれた。ラストはハッピーエンドではない。宮本輝がこの小説で一体何を表現したかったのか?私は私なりに考えてみたが、いつものようにしたり顔では言えないのが残念。 話の流れは次のとおり。亜紀は、脳性麻痺の8歳の息子をつれて、蔵王に旅行に出かけたところ、元夫である靖明とばったり出くわす。それは十数年ぶりの再会で、あまりにも偶然で意外すぎて、お互いろくに会話することもなく別れる。亜紀はすでに再婚し、一児をもうけながらも、靖明のことが忘れられず、人づてに住所を聞き、長い手紙を出すことにした。二人の離婚の原因は、靖明の浮気と心中騒ぎであった。靖明は、中学2年のときから想いを寄せていた女とねんごろな関係になったところ、女はだんだん靖明に本気になっていった。一方、靖明の方は女を愛する気持ちに変わりはないが、家庭を壊す気はなく、不倫関係を続けていく気でいた。そんなある日、二人はいつもの逢引き宿で逢瀬を楽しんだあと、女が寝ている靖明に斬りつけ、女自身も自らを突き刺し、自殺するのだった。このとき女は死に、靖明は一命を取り留めた。結局、そのことが原因で亜紀と靖明は別れることになった。亜紀は、靖明への未練からなかなか立ち直れないでいたが、父の勧めもあり、大学の助教授をしている男と再婚することとなった。そしてその男との間にできたのが脳性麻痺の息子・清高であった。一方、靖明にも長らく同棲している女がいた。地味だが愛嬌があり、ろくに働かない靖明によく尽す女であった。靖明は亜紀から届く長い手紙を読んで、自分の心境を語ることにした。その返事もまた長いものとなるのだった。 作中、靖明が中学2年生のとき両親を亡くしたことで、舞鶴に住む親戚に引き取られる場面が出て来る。この舞鶴という地は、京都の北端にあり、日本海に面した町なのだが、驚くほど的を射た表現である。 「初めて東舞鶴の駅に降り立った際の、心が縮んでいくような烈しい寂寥感です。東舞鶴は、私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした」 私はこの舞鶴にほんの数カ月もの間、住んでいたことがある。あのときの私の気持ちを代弁するかのような表現で、たまらなくなって泣きそうになった。三島由紀夫の『金閣寺』にも東舞鶴の場面が出て来るが、太平洋側に住む者にとって、ちょっと形容しがたい物哀しさを感じるのである。 『錦繍』を読むと、どんな辛い目にあおうとも、生きていることが重要なのだと気づかせてくれる。ある意味、死ぬことも生きることも大差ないのだとも言える。ただ、人間はつまらないことで道を踏み外すけれども、なんとかなるものだと思わせるくだりもあり、勇気づけられる。過去を振り返ってばかりでは前に進めない。今を大事にし、未来への一歩を踏み出すことの大切さを教えてくれる。・・・これは当たり障りのない大雑把な感想だが、本当はもっと違うところに意味があるのかもしれない。読者を選ぶ小説である。 『錦繍』宮本輝・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.17
閲覧総数 483
32
第十二回宮城県在住の高村英(たかむら えい)には、幼いころより、他人には見えないのに自分だけに見える存在があった。それは幽霊というより、もっとリアルなものとして見えたので、生きているのか死んでいるのか見分けさえつかなかった。例え霊が見えたとしても、とくにそれが悪さするわけでもないので、自分の部屋につれ帰って共同生活をしていたこともあった。ところが高校時代、英の父が亡くなったことで状況が一変した。父の死をきっかけに霊たちが大暴走を始めたのだ。それまで英の周囲には悪い霊というものは存在しなかったのだが、霊の中にも怖い霊がいるのだということを知った。高校時代、成績は常に上位をキープしていたが、金銭的な理由から大学進学をあきらめ、看護師の学校へ進んだ。東日本大震災に見舞われたのは、英が社会人となって3年後のことである。震災の翌年の5月に入ると、自分の体に鬱症状が出て来た。死にたくないのに強い自殺願望に囚われるのだ。それまでどうにかコントロール出来ていた霊も、もはやコントロール出来なくなってしまった。英の頭の中では、何人もの他者の声が響いていた。そうなると自分は精神病なのではとさえ思うようになり、本心から怖くなった。わらにもすがる思いで、パソコンで除霊をしてくれるところを検索したところ、宮城県栗原市にある通大寺がトップに出て来た。英は2012年6月から翌年の3月まで通大寺に通い、金田住職による除霊を受けた。憑依現象は英にとって過酷なもので、いつも自分は精神病なのではと不安でたまらなかった。ところがある霊との出会いにより、やはり自分は病気などではないと、改めて思うに至った。それまで英の肉体は、酷い暴言を吐くヤクザや10歳の女の子から犬、猫に至るまで憑依されたが、17歳の男の子が現れたとき、英にはその少年の強い心残りを感じた。17歳の男の子は震災で亡くなったわけではなく、部活の朝練に行く途中、交通事故に遭い、亡くなった。金田住職がその高校生に話を聞くと、「おにぎりが食べたい!」と、嗚咽を漏らして叫んだ。その高校生の母親は、毎朝、昼の弁当とは別に、部活でお腹を空かせる息子のためにおにぎりも握って持たせていた。17歳の男の子は、そのおにぎりを食べることなく事故に遭ったので、母親への申し訳なさと、おにぎりを食べたいという強い心残りで英の肉体を頼って来たのだ。傍で状況を見守っていた住職夫人は、急いで大きいおにぎりを作って供えてあげた。高校生は涙をポロポロと流し、お礼を言った。最後は金田住職の読経とともに、英の体から離れていった。そもそも通大寺の金田住職は除霊を専門にしているわけではない。たまたま高村英という若き女性が苦しむ姿に、このまま放ってはおけないと、見よう見まねで始めた儀式だった。通大寺の宗派は曹洞宗だが、他の宗派でも少なからず除霊は行なわれている。(浄土真宗を除く)著者は取材しながら考えた。合理的でしかも科学的であることが正しいとされる現代とはいえ、近代科学など人類の歴史の中ではたかだか400年ほどに過ぎないではないか、と。だとすれば霊的な現象を非科学的と断定するのではなく、そのような考え方も尊重されるべきであると。(このあと、高村英サイドの話、金田住職サイドの話と、交互に進められていく。同じ除霊という儀式にあっても憑依されている側の感覚と、成仏に導く住職サイドとでは、相違点も出てくるため)英は除霊に対して少なからず罪悪感を抱いていた。というのも、死者が英の体を乗っ取ったあと、その肉体を取り戻すためには、入ってしまった死者に再び死んでもらうことでしか方法がないのだ。これを住職サイドの言葉であらわすと、「成仏する」ということなのだ。津波で死んだことがわからない霊は、死者の霊とリンクする英に、亡くなる寸前の場所からスタートさせる。なので英は、溺れ死ぬところを死者に代わって体験するところから始まる。口の中、耳の中、穴という穴に泥水が入り込み、息ができない。水の中で必死に手足をバタつかせ、溺死するのだ。津波で家族を喪ったことに耐えられなかった男性、不妊治療の末、やっと授かった妊婦、妻を残して亡くなった80代のおじいさん、地縛霊になろうとしている大学生。皆が皆、震災による被害者だった。金田住職はそれらの霊と向き合うと、「光をさがしなさい」と言う。そして天地の理(ことわり)なので死を受け入れるようにと諭すのである。英が通大寺で除霊を受けた10ヶ月間に30人以上の死者が憑依して来たが、そのトリを担ったのは12歳の男の子だった。その男の子は父子家庭で、地味だが、とても行儀が良く、好感が持てた。例外でなく震災で亡くなったのだが、男の子は泣きじゃくりながら訴えたのは、父より先に逝ったことで親不孝ではなかったかというものだ。住職は絶対にそんなことはないと否定すると、男の子は安心し、「寺の子になりたい」と言った。住職はそれを了承した。男の子は光の世界にいくことなく、毎朝住職の傍で手を合わせることになった。先に逝った息子の位牌に手を合わす父のために、ただひたすら祈りを捧げるのだった。この12歳の男の子との体験が、英を救ったのである。その後、高村英は憑依した霊をすべて成仏させたあと、家庭の事情で宮城を離れることになった。以来、彼女を苦しめる異変は一度も起こっていない。 (了)なお、次回十三回目の要約はを掲載予定です(^_-)みなさま、こうご期待♪《過去の要約》◆第一回目の要約はこちらのです。◆第二回目の要約はこちらのです。◆第三回目の要約はこちらの~(上)~です。◆第四回目の要約はこちらの~(下)~です。◆第五回目の要約は、こちらのです。◆第六回目の要約は、こちらのです。◆第七回目の要約は、こちらのです。◆第八回目の要約は、こちらのです。◆第九回目の要約は、こちらのです。◆第十回目の要約は、こちらのです。◆第十一回目の要約は、こちらのです。
2022.01.16
閲覧総数 303
33
「この子・・・死体の解剖が必要よ。原因を調べなくては」「言っただろ? この子は溺死だ」「疑わしいわ。開いて中を見ないと・・・」「そんな必要ない」「疑う理由があるの」「それなら教えてくれ」「・・・細菌の感染があるかも・・・」シリーズ3作目ともなると、すでにエイリアンという凶悪な宇宙生物に対しても、ある程度の免疫(?)が出来たような気がする。なので、ストーリー展開も「うん、やっぱりこうなったか」といった、予測可能な構成になっていた。とはいえ、この作品では重要な役割を担うクレメンス医師が、まさかまさかの結果に。 惑星そのものが刑務所の役割を果たす囚人だらけの流刑地にあって、リプリーと同じインテリのクレメンスは、きっと最後まで重要なポジションにいるに違いないと思い込んでいたのだが・・・残念。さらに気になったのは、エイリアンの軍事利用をもくろむ企業として“ウェイランド湯谷”という日系企業であることが前面に押し出されていることだ。もちろん、この企業名は前作にも出て来たが、今回の3作目ほど強調されてはいなかった。この演出はいかがなものかと思う。宇宙船や基地の施工主が日系企業と言うなら大いに納得するところだが、軍事利用のため生物兵器の開発を推し進めるのが日系企業だなんて。もうこの辺りからして3作目の評価は個人的にも低い。リプリー、ニュート、ヒックスを乗せた非常救命艇は、惑星フィオリーナ161に不時着した。その惑星は、染色体異常の凶悪犯罪者の収容される刑務所になっていた。睡眠カプセルの中で眠っているうちに、何らかのトラブルに巻き込まれ、ニュートもヒックスも死亡し、生き残ったのはリプリー一人だけだった。医師のクレメンスに手当てを受けたリプリーは、快復間もなくクレメンスにニュートの死体解剖を懇願する。リプリーは「コレラの危険性がある」とウソをつくのだが、実は、エイリアンの寄生を疑うのだった。この『エイリアン3』を手掛けたのは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのあるデヴィッド・フィンチャー監督だ。代表作に『セブン』『ソーシャル・ネットワーク』などがある。そんなフィンチャー監督も、『エイリアン3』を手掛けた時はまだ駆け出しで、多くの映画評論家たちから酷評され、興行的にも伸び悩んだようだ。ところがその後の活躍により名声を手に入れたフィンチャー監督の評価は上がり、『エイリアン3』の評価も好転した。(2005年に『エイリアン3』の未公開シーンを追加した完全版が公開されたことによる。※ウィキペディア参照)『エイリアン3』の完全版は未見だが、いずれにしてもこのシリーズは1作目と2作目が良すぎたため、3作目はキビしい世間の評価にさらされることになったのは仕方がない。可もなく不可もなくと言った作品だ。1992年公開 【監督】デヴィッド・フィンチャー 【出演】シガニー・ウィーバー ★シリーズ1作目「エイリアン」はコチラから。★シリーズ2作目「エイリアン2」はコチラから。★シリーズ4作目「エイリアン4」はコチラから。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.07.29
閲覧総数 1144
34
菊池寛の命日を、東奥日報「天地人」で知ったことは先日の記事に記しましたが(コチラをご覧あれ♪)、今日は続編で坂口安吾のお話です(^^)vまずはこれをご一読ください。『作家坂口安吾の仕事部屋はすごかった。褒めているのではない。戦後まもなく、写真家が撮った部屋の写真を見ると、雑誌や原稿用紙が机に向かう安吾の周りを埋め尽くしている。だから、探し物をして見つけたときは、こう叫んだのではないかと推測する。「あった、あった」。 さて、探すといえば、先ごろの県立高校入試制度見直しに関する会議でのこと。中学校側から高校側へ提出する受験生の調査書について、委員の一人が次のようなことを言った。「調査書とは中学校の先生にとって、いわば一つの芸術作品」。学級活動や生徒会活動、部活動などについて書く欄には、中学校側のたくさんの思いが詰まっている。子どもたちを合格させたいという思いである。 この委員によれば、「中学校の先生が調査書を書くとき、すぐにいいところについて書ける子」という子がいる。でも、そういう子ばかりでもない。それぞれの子どものいいところを探して、先生方は一生懸命、調査書を書くのだという。 世には目立つ花あり、目立たぬ花もあり。人も同じことか。安吾の部屋ではないけれど、埋もれたり、隠れたいいところを見つけ出すのは簡単なことではない。子どもとじっくり向き合って「あった、あった」と、いいところを見つけて伸ばす。それが先生の仕事。 春は「あった、あった」の季節である。あす11日は県立高校入試前期試験の合格発表の日。「番号があった」。子どもの努力、中学校の先生方の苦労が歓声に変わることを願う。』おそらくこの写真でしょう(^^)まさに「堕落論」を地で行くような一枚ではありませんか!堕ち切るまで堕ちよ安吾の叫びが聞こえるようです。このごろは暴走老人という巷のレッテルに、すっかり慣れ親しんでしまった感のある石原慎太郎氏ですが、氏の「実在への指標」という安吾論は明快です。「坂口安吾の文学の魅力は、あの得もいえぬ痛烈さであり、その痛烈さとは、文明や文化の粉飾への毅然とした拒否に他ならない。」伝統や貫禄ではなく、実質だこの強烈な個性(安吾臭)が、一部の人にはたまらない魅力なのだろうと思います(ということは安吾匂か・笑)。ちなみにこの写真は銀座のルパンでの一枚で、安吾はこれが気に入り「この一枚をもって私の写真の決定版にする」といったそうです。さて東奥日報。「堕落論」の安吾を引いて合格発表にもっていくあたりはサスガですねぇ~!見事なコラムに謹んで敬意を表します。きっと太宰のご当地ですから、何かDNAのようなものを受け継いでいるのかもしれませんね。おかげさまで、久々に安吾を紐解く機会をいただきました、東奥日報に感謝(^人^)
2013.03.11
閲覧総数 1799
35
【司馬遼太郎 菜の花忌】昨日、二月十二日は司馬遼太郎さんの命日「菜の花忌」であった。その日、司馬さんの記念館(大阪)は黄色に染まるという。司馬さんが、今だにどれだけの読者をもち、そして愛し続けられているかを、菜の花の黄色が如実に示すのだ。司馬さんの作品は、小説もさることながら随筆も多くある。珠玉のそれらを通して、我々は容易に司馬さんの作家論(それは畢竟、人間司馬遼太郎を知るということ)を得ることができるのだ。たとえばこうだ。何故、司馬さんは歴史小説を書くのか。それは『この国のかたち』に綴られた一文をもって知る事ができる。「私は、日本史は世界でも第一級の歴史だと思っている。」創作の根源にあるのはその思いと司馬さんの情熱である。そして何故、司馬さんはかくも多くの著書を残すことが出来たのか。「知的で無私で情熱的な持続力をもった面白がりが、たくさん居れば居るほど、その社会は上等-といえば語弊があるが-楽しくなる。」~街道をゆく・耽羅紀行~何より、司馬さんは歴史を書くことが楽しかったのだろう。楽しいから出来た。そして情熱を持って書き続けた、そういうことだと思う。代表作『竜馬がゆく』は、その楽しさと情熱が昇華してが生まれたわけだ。幕末は、司馬さんのいう「面白がり」に枚挙の暇はない。雲霞の如く出てくる人物の中で、筆頭が竜馬であり西郷だ。司馬さんのペンは紙面の中で、彼らを所狭しと動き回らせる。我々は嬉々として、その一言半句に心を躍らせるのである。ここに司馬さんの人生観を知り、『竜馬がゆく』を理解する一文がある。産経新聞からの孫引き(次代への名言~司馬さん遼なり~ 2012.5.1)である。「司馬さんが《自分に課していた哲学》があった。《人間はいさぎよく生きて見苦しくなく死ねばいい》ことだった。」司馬さんの竜馬と西郷に対する愛情を容易にはかることができるのだ。「竜馬にいわせれば、自分の命にかかずらわっている男にろくな男はいないというのである。」「どうせ死ぬ。死生のことを考えず事業のみを考え、たまたまその途中で死がやってくれば事業推進の姿勢のままで死ぬというのが竜馬の持論であった。」~竜馬がゆく 近江路~司馬さんと竜馬はつながる。つまり司馬さんは竜馬が大好きなのだ。それは何故と問われれば、きっと「生き方に共感が出来る」とご返答いただけたことであろう。『竜馬がゆく 近江路』では、刺客の情報を得て中岡慎太郎は、竜馬に対し暫時身を移すよう進言する。しかし竜馬は拒絶するのだ。「竜馬の一分がゆるさない。」司馬さんは、竜馬の心境をそう綴る。これは司馬さんの、竜馬に対する最大級の賛辞であると私は読んだ。「生死は、天命にある。それだけのことだ。」『竜馬がゆく』を、湧きあがる熱情の中で読みすすめた読者なら、きっと感涙にむせんだ一文であろう。私はシビレた!そして作品の眼目をここに見てとった。もちろん、司馬遼太郎という作家も。『竜馬がゆく』では、最後に、刺客に襲われ落命寸前の竜馬は、中岡をみて笑うのである。それは「澄んだ、太虚のようにあかるい微笑」であったという。私は、司馬さんという御仁にシビレそして惚れたのである。記念館の菜の花に想いを馳せ、今宵は司馬作品をつまみ食いしながら、司馬さんを偲びたいと思う。
2014.02.13
閲覧総数 731
36
【マッチポイント】「運はとても大事だ」「運よりも努力の方が大切よ」「もちろん努力も大事だが、運を軽く見ちゃいけないよ。科学者によれば、この世の出来事はすべて偶然によって決定するのさ。証明済みだ」もともとコメディアンだったウディ・アレン監督だが、なりゆきからか(?)役者となり、映画監督となり、今では名匠とまで呼ばれるほどに成功を果たした人物である。代表作に『おいしい生活』や『ギター弾きの恋』などがある。どの作品にも共通しているのは、せつなさの中にちょっとした笑いがあることである。(さすがはコメディアンだ。)ところが『マッチポイント』においては、そのコメディ・タッチを完全に封印している。このDVDを借りる前にいろんな方々のレビューを拝見してみたが、“新境地”と表現する感想が多かった。この作品を見て、ようやくその意味がわかった。たしかにこれまでの作品の流れからして、軽い皮肉を交えたコメディ感覚は薄れ、ものすごくブラックな、ある意味深刻さのただよう内容となっているのも見逃せない。思い出したのは名作『太陽がいっぱい』の、全体からかもし出されるヒリヒリとした痛みのような感覚である。 ストーリーはこうだ。舞台は英国、ロンドン。元プロテニス・プレイヤーのクリスは、特別会員制テニスクラブのコーチとして就職した。アイルランド出身でしがないテニスコーチでしかないクリスにとって、エリートの集まりであるテニスクラブは上流階級との出会いのチャンスでもあった。あるとき、富豪の御曹司トムのコーチを依頼されたところ、思いのほか二人は意気投合した。トムは、苦学してプロテニスプレイヤーとなったクリスに尊敬の念を抱き、自宅へ招待するなどしてますます仲良くなっていく。トムには、一途で純情な妹クロエがいたが、トムからクリスを紹介されたとたん、たちまち一目ぼれしてしまう。クリスも大金持ちのトムの妹ということでクロエを気に入り、二人は交際するようになる。一方、トムもアメリカ人女性ノラと婚約していた。ノラはハッとするほどの官能美を備え、男性を虜にするような魅惑的な女性だった。女優を目指してオーディションなどを受け続けているのだが、なかなか芽が出るようすはなかった。クリスとクロエ、トムとノラは、四人で食事や映画、週末の休暇などを共にするようになる。ところがあろうことか、クリスは美貌の持主ノラに夢中になってしまう。クロエには感じられないセクシーなノラを自分のものにしたくてたまらなくなる。そしてある日、クリスは大胆にもノラと激しい情交に及ぶのだった。 『マッチポイント』はアメリカ人監督によるイギリス映画となっているが、見事な出来栄えである。上品で優雅な、しかも育ちの良いトムとクロエの兄妹に対し、しがないアイルランド人青年クリスと女優志望でアル中ぎみのアメリカ人ノラ。この富と貧の差がスゴイ。 ノラ役に扮したスカーレット・ヨハンソン、これは適役。大胆でエロスにあふれた演出はお見事。けだるそうにタバコを吸うシーンは官能的だ。ウィキペディアで調べたらユダヤ人とのこと。敬虔なクリスチャンかと思いきや、なんと無神論者なのだとか。やはり人は民族性とか見かけだけでは計り知れないものなのである。 『マッチポイント』のテーマはズバリ、「人生とは運である」と私はとらえた。もちろん他にも「浮気は良くない」とか「愛欲は身を亡ぼす」とか、とらえ方は様々だが、ラストを見たら「人生とはすべて運によって支配されているんだなぁ」と、実感してしまう説得力がある。このラストが気に入らない方々もたくさんいると思う。私も半分は納得がいかない。だが、すべてがすべて法に守られフェアな世の中かと問われれば、そうではないのも確かである。かなりブラックな結末ではあるが、サスペンス好きのみなさんのジャッジを期待したい。お勧めの逸作である。 2005年(英)(米)、2006年(日)公開 【監督】ウディ・アレン【出演】ジョナサン・リース=マイヤーズ、スカーレット・ヨハンソン
2016.10.02
閲覧総数 283