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  ★ アントワーヌ (vm=f) Antoine

本名ピエール・アントワーヌ・ムラッチオリ(Pierre Antoine Muraccioli)1944年6月4日(45年1月23日生、45年6月4日生と色々な説があります)マダガスカルのタマタヴ(現在はトアマシナ(Toamasina))生、はフランス人歌手。

Antoine (1967)

 父はコルシカ島のヴィヴァリオの出身で、1946年カナダのニュー・ファウンランドの近くにあるフランス領サンピエール島·ミクロン島に3年間ほど移住をしていた。54年マル聖ユに1年滞在後カメルーンに再び移住し4年間過ごしました。フランス本国に戻りましたが西部地方で転居を繰り返していました。

 60年代初頭、アメリカ人の友達からフォークソングを教えてもらい、アメリカ東部に行き64年の夏を過ごしました。パリ中央工業大学校の学生(66年卒業)の時の愛の心痛が、彼を歌へと向かわせました。彼は長く悩んだ末、結婚を選びました。65年ヴォーグと契約をしレコード歌手になります。最初のレコードはEPでEPL 8401(1965年 VOGUE - VOGUE)La guerre/ Ne t'en fais pas/ Autoroute européenne n°4/ Un jour, c'est longtemps pour nous deux だったようです。

フランス大統領選挙開票特番の合間に歌番組を入れていくのがフランスでの手法のようで、同じヴォーグの先輩フランソワーズ・アルディと同様にアントワーヌも1965年12月の大統領選挙の夜に初めてテレビに出演して歌を歌いました。デビュー盤の中の"Autoroute européenne n°4"がヒットしました。

その後66年の"アントワーヌのモットー(La chanson Les Élucubrations d'Antoine)"はヨーロッパで大ヒットします。長髪で連句のような歌は、それまでのジョニー・アリディのような歌手を「時代遅れの檻」に閉じ込める勢いでした。彼のこの曲は日本のデビュー曲にもなりました。しかし歌詞の内容は論議の的となり、屈託のない若者の討議の内容に変更されてしまいました。

US- 212・V (1966年10月 VOGUE - テイチク) 人生のハイ・ウェイ (UNE AUTRR AUTOROUTE)/アントワーヌのモットー (LES ELUCUBRATIONS D'ANTOINE)

            US- 212・VUS- 212・V

 このヒットでアントワーヌはボブ・ディランやドノヴァンの代役として、67年サンレモ音楽祭に出場し、ジャン・ピエレッテのパートナーとして"ピエートレ"を歌い入賞しました。彼名場合は歌だけ、でなく、その舞台パフォーマンスがイタリア人に受け、イタリア人から好評を受けました。

その翌年68年はジャンニ・ペッテナーティ(Gianni Pettenati)と"茫然自失(La tramontana)"、69年リカルド・デル・トゥルコ (Riccardo Del Turco)と"愛の妙薬(Cosa hai messo nel caffè)"、70年アンナ・イデンティチ(Anna Identici)と"雨のロマンス(Taxi)"、71年も同じアンナ・イデンティチと"飛行船(Il dirigibile)"、ダブル・キャスト制でなくなっていた79年にも出場し、"ノッチョリーノ(Nocciolino)"で11位入賞をしています。

 サンレモ音楽祭は6度出場し、初出場から5連続出場、4連続入賞をする好成績を残しています(71年"飛行船"のみ参加曲)。また68年カンタジーロのジローネAで"ボンジョルノ・チャオ(BUONGIORNO CIAO)"を入賞させています。

年間ヒットランキングでは67年"ピエートレ"が13位のメガ・ヒット、"Cannella (Cannelle)"が59位、68年"茫然自失"が5位、"Titina Titina"92位、69年"愛の妙薬"73位、70年"雨のロマンス"40位という成績を残しています。彼がイタリアにどれだけ受け入れられていたかわかっていただけると思います。

74年10月鋼鉄製のスクーナーを造船し、彼は旅人となります。リオを出帆し西アフリカ、モーリタニアのヌアディブまで、カリブ海をめぐりながら80年まで航海を続けました。その後81年から89年の間、大西洋や太平洋をクルージングしていました。89年からはコート・ダ・ジュールのサン・ラファエルに拠点を移し、クルージング三昧をしていたようです。その経験をを生かし、映画や著作をしていました。

アントワーヌ の国内盤(イタリア関係)

YX-6018 (1973年3月 VOGUE - 東宝芸音) 30cm LPラ・タ・タ/アントワーヌ (FRA-TA-TA/ANTOINE)

7.タクシー (雨のロマンス [仏]TAXI [F])
13.タクシー (雨のロマンス [仏]TAXI [F])

YX-6018YX-6018 GP- 683GP- 683

GP- 683 (1979年5月SEVEN SEAS - キング) 30cm LP第29回サン・レモ音楽祭 (FESTIVAL DI SAN REMO 1979)
5. ノッチョリーノ (NOCCIOLINO)

マリオ・ゼリノッティ (vm)  Mario Zelinotti

1942年12月19日ローマ郊外のマリノ生、2013年2月1日ローマ郊外のマロッカ・ディ・パーパ没、歌手。

                     Mario Zelinotti (1967)

1963年彼はテディー・レーノが主催する「アリッチャの名もなき者の音楽祭(FESTIVAL DEGLI SCONOSCIUTi DI ARICCIA)」出場たことで歌手としてのキャリアを始めました。RCAイタリアーナと契約しましたが、レコードは発売されませんでした。彼が活躍したのは60年代のドゥリウムに所属している時でした。

64年ドゥリウムからアメリカのデル・シャノン(Del Shannon)がヒットさせた"街角のプレイ・ガール(Little Town Flirt)"のイタリア語カヴァー曲"Chiederò"でデビューし、これがヒットしました。

            CN・ A-9106CN・A-9106

この成功で翌年65年の第2回夏のディスク・フェスティヴァルに"Lei dice"で出場でき、これが2枚目のシングル盤でした。そしてトゥリオ・ピアチェンチーニ監督の(Tullio Piacentin)歌謡映画「Viale della canzone,」の出演も決まりました。翌66年カンタジーロのジローネBに"不幸の中でQuando un ragazzo si trova nei guai)"が2位になりました。同年ローマで開催されたばらのフェスティヴァルにはルイゼール(Louiselle)とパートナーを組み"Cammelli e scorpioni"を歌っています。

67年ドゥリウムの大先輩リトル・トニー(Little Tony)のパートナーとして"狂ったハート"を歌いましたが、所詮リトル・トニーのために作られた曲で、彼の歌はヒットしませんでした。その年のカンタジーロにはスター部門のジローネAに "心の痛手(Un colpo al cuore)"と第5回夏のディスク・フェスティヴァルには""で出場しました。

 69年サンレモ音楽祭にまたリトル・トニーの相手として"バダ・バンビーナ(Bada bambina)"で12位入賞しました。70年の夏のディスク・フェスティヴァルに"Dove andranno le nuvole"し、翌71年マイナーのウェストに移籍、74年にカトカに再移籍し、消息が途絶えます。

マリオ・ゼリノッティの国内盤はありません






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Last updated  2014.03.10 23:51:00
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