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ウィルソン・ピケット (vm=a) Wilson Pickett

1941年3月18日アラバマ州(米国)の州都モンゴメリー近くのプラットヴィル生、2006年1月19日ワシントンDC近郊のバージニア州(米国)レストン没。アメリカのリズム&ブルース、ソウル、ロック・ン・ロール歌手。

      ATL・NP-03002Wilson Pickett (1968 ATL・NP-03002)

バプテスト教会の聖歌隊で歌っていましたが、当時人気のあったリトル・リチャードの影響を強く受け、ストリート・パフォーマンスで流行りの歌を歌っていました。彼は11人兄弟の4番目で幼いころ母からの虐待を受け、最終的に1955年デトロイトの父と暮らすこととなりました。

55年、ピケットはゴスペル音楽グループ、ヴァイオリネアーズ(Violinaires)に参加し、ほかのグループと一緒に国内ツアーを行っていました。この有名なグループで4年間で歌っていましたが、59年にもっと稼ぎになる流行歌を歌うファルコンズに参加しました。

 この年シュープリムスの前身、フローレンス・バラード&プライメッツ (Florence Ballard and The Primettes)をバックに"恋の仲なおり(Let Me Be Your Boy)"を吹込みます。この曲は63年にリリースされた"いつでも貴方と(My Heart Belongs To You)"のB面に収録された曲です。ゴスペル・グループのファルコンズは次第にポピュラー的なソウル・ミュージックをレパートリーに取り入れていきます。そうしてウィルソン・ピケットはソロ・ヴォーカルとして前面に押し出されていきました。

彼はファルコンズで曲作りにかかわり、またリード・ヴォーカルにもなった"アイ・ファンド・ア・ラヴ(I Found a Love)"で成功を収めました。この成功でソロ歌手への自信を深め、この曲は後にセルフ・カヴァーし、リヴァイバル・ヒットをしています。その後ソロ歌手としてダブル・エルからレコードを出しています。

アトランティックでの実績は、まず自主製作シングル盤"I'm Gonna Cry"を作りました。プロデューサーのバート・バーンズ(Bert Berns)の目にとまり、タミー・リンとのデュテット曲"Come Home Baby"を出しますが、不発に終わります。65年テネシー州メンフィスにあるスタックス・レコード・スタジオで録音した3枚目のシングル盤"イン・ザ・ミッドナイト・アワー(In the Midnight Hour)"が最初のビッグ・ヒット、ミリオン・セラーになりゴールド・ディスクを得ました。順調なヒットを出していきます。

66年に入り最初のシングル"634-5789(634-5789)"/"男の道(THAT'S A MAN'S WAY)"は日本ビクターからJET-1674として発売されました。その年のシングル3枚目JET-1713 "ダンス天国(Land of 1,000 Dances)"/"ユーア・ソー・ファイン(You're so Fine)"が全米ホット100で6位、R&Bチャート1位、全英チャート1位になるほか、世界的大ヒットとなりました。

JET-1713JET-1713  DAT-1005DAT-1005

 これで世界的R&B歌手として名を知られ、68年サンレモ音楽祭に出場し、ファウスト・レアーリ(Fausto Leali)のパートナーとして"デボラ(Deborah)"が見事4位入賞し、イタリアの年間ヒットランキング37位となる大ヒットとなりました。この年本国アメリカでは"ルッキン・グッド(She's Looking Go)"がホット100の15位、R&Bで7位のヒットが一番で、その他ではビートルズの"ヘイ・ジュード(Hey Jude)"が注目されました。

 翌69年サンレモ音楽祭に連続出場し、ルチオ・バティスティ(ルーチョ・バッティスティ)の自作でサンレモ音楽祭初出場の"冒険(Un'avventura)"をパートナーで歌い9位入賞になります。ばティスティの方は年間ランキング70位に入りましたが、ピケットは100位以内に入りませんでした。アメリカでもホット100のランク・インは50位が最高で、彼の人気も陰りを見せ始めました。

 70年は人気を挽回し、前半では"シュガー・シュガー(Sugar, Sugar)"が25位(R&B4位)、後半で"Engine No.9"が14位(R&B3位)で71年も同様の人気を保っていましたが、72年半ばに古巣アトランティックからRCAに移籍します。しかし人気の回復はならず、74年にはホット100に入るヒットが出なくなりました。75年RCAからも離れ、レーベルを渡り歩くことになります。

 87年頃になるとまとなレコーディングできず、猟銃の不法所持、ガールフレンドへの暴行事件、93年酔っ払い運転で死亡事故を起こしたりして晩年は服役せざるを得ない事態にも遭っています。服役後99年にはグラミー賞を受賞しています。2006年心臓発作で亡くなりました。

ウィルソン・ピケットのイタリア関係 国内盤

DAT-1049 (1968年7月ATLANTIC - 日

本グラモフォン) デボラ (DEBORAH) /ダウン・バイ・シー (DOWN BY THE SEA8)

          DAT-1049DAT-1049

アーサー・キット (vf=a)  Eartha Kitt

本名アーサ・メイ・キース (Eatha Mae Keith)1927年1月17日米国サウス・カロライナ州ノース生、2008年12月25日米国ニューヨーク州ニューヨーク没、アメリカの歌手、女優、ダンサーおよびキャバレーのスター。

Eartha Kitt

サウス カロライナ州の小さな町ノースの綿花農場で、アメリカン・ネイティヴのチェロキー族とアフロ・アメリカンの混血の母とドイツ系移民の父の間に生まれたとされていますが、明確なことは不明です。彼女はアンナ・メイ・リレイ(Anna Mae Riley)という義母に育てられました。家庭関係は複雑だったようです。

1943年16歳で歌い始めキャサリン・ダナム の振付師によって乱され、たニューヨークのキャサリン・ダナム黒人舞踊団に入団、46年にソリストとしてパリでデビューをしました。52年にはシーコ(SEECO)からレコードを出し、同年RCAと契約し彼女が出演しているレビューの曲"Monotonous"をだしている。個性的な歌い方で翌53年シャンソンの"セ・シ・ボン(C'est si Bon)"をヒットさせています。

日本では"ショー・ジョー・ジ(SHO-JO-JI)"、"ウシュカ・ダラ(USKA DARA)" ローカル・ヒットが有名です。全盛期は50年代で映画、ショウに出演し、大変な人気をえました。晩年の代表作はTVシリーズ「バットマン」のキャット・ユーマン役でした。

サンレモ音楽祭は68年サラ・ヴォーンの代役として出場しました。

アーサー・キットのイタリア関係 国内盤はありません






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Last updated  2014.05.24 22:30:13
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