誕生（正念場編）
これもまた、ひとつの試練だった。
２階にあるＬＤＲへは、こんな状況ながら
自分の足で歩いていかなければならない。
産院にはエレベーターはなかった。
もはや休みなど無いに等しい陣痛の波。
文字どおり這うようにしてのぼる。
ＬＤＲは２階の廊下のつきあたりにある。
ガラス張りの新生児室の前に、何人かの
産婦が、ぎこちない歩き方でうろうろしていた。
先にＬＤＲにいたと思しき女性が、
車椅子に乗せられてこちらへ向かってきた。
あー いいなー・・・
このひとたち、もうすでにこんな痛いのは
終わったんだ・・・。
もはや他人事だろうよ・・・
「いっっっっ痛い！！！ト、トイレ！！」
「それが赤ちゃんなの！」
えっ そうなの？
まぁいいやなんでも、早く終わりたい～・・・！
ようやくＬＤＲに到着、もはやこの姿勢も
苦痛なのだが仕方なく横向きで寝る。
部屋の中は、ぼんやりと暗めの照明だった。
壁にはテレビが掛けられていて、
なぜか落語をやっていた。
ああ・・・
世間は平和だなぁ。落語だって。
こっちはそれどころじゃないよ・・・
でも結局、世の中ってそうなんだろうな。
どっかでものすごい重大なことが起きている
その同じ瞬間に、それと対極のような
トンチンカンなことが起こっていて、だけど
お互い知らないまま成り立ってるんだよね・・・。
きっと多くの誰かにとっては、この瞬間
このどうでもいい（かは知らないが）落語を
ながめる、何の変哲もない夜なんだろう。
私にとっては、今が人生の一大事だよ。
そんな状況じゃないのに、痛みの中で
そういうことを思っていた。
あー いつ終わるんだろう・・・
まぁ、人生で終わらなかった苦しいことって
今のところないからね。
富士登山も、フルマラソンも、最後には終わったさ。
「あとちょっとで全開だからねー」
そのうち、スタッフの動きがあわただしくなった。
私の身体もあおむけにされ、脚にカバーをつけられる。
このへんはもう、されるがまま状態。何でもして状態。
痛みの波にあわせて、うーんといきむ。
「先生呼んで」
助産婦のその声が、私には勝利のゴングのように響いた。
医師がくる。
それが何を意味するか、事前にいやというほど
出産関連の本やサイトを読みあさっていたおかげで
とっくに知っていた。
もう終わるんだ。
「あたま見えてるよー」
何度も何度も、頭の中でシミュレーションした
瞬間だった。それが今、現実になっている。
おなかの住人が、いまリアルにそこにいた。
そのうち、痛みの種類がかわった。
もはやおなかの痛みではなく、何か巨大な異物が
脚の間に挟まって、皮膚が焼けそうなかんじだった。
「ここの痛さに負けないで。
赤ちゃんもいま、一生懸命出ようとしてる。
ママごめんね、痛くてごめんね、ってがんばってるよ。」
本当に痛かったけれど、きっとここで
やめたら、すべてが途中でとまってしまって
また仕切り直しになってしまいそうな気がした。
とにかく早く終わりたかった私は、覚悟を決めた。
ぴりぴりと皮膚が裂けるのがわかった。
ああ・・・やっぱり破れたか・・・。
でも切開も痛そうだったからいいや・・・
っていうか、もうどっちでもいいや・・・
その瞬間、何かがぐるんと動いて
ずるずるとひっぱり出された。
あ、なんだ？いきなり痛みがなくなったぞ！
「ふぇっふぇっ ふあー！ふあー！」
身体がすべて出るか出ないかの時点で
産声が聞こえた。
ああ、よかった、生きてる。
「おめでとうございまーす！！
３月２０日、えーと午前・・・」
時計に目をやった。
３時ジャスト。
私は母となった。
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