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2023年10月26日
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カテゴリ: 横川典視
木曜担当のよこてんです。

 今回は“岩手競馬史上初の女性騎手による重賞制覇”の話題。

 10月22日に行われた『OROターフスプリント』。芝コースの状態悪化のために当初予定されていた芝1000mからダート1000mに変更される事が事前に発表され、これも当初予定の遠征馬はじめ出走予定馬関係者に対してダートでも可か?と意思確認したうえで枠順が決まり・・・と異例な事が多かったORO“ターフ”スプリントでしたが、“芝を経験させてみたかったけど、実績的にはダートも悪くないので”という遠征馬もいたりして、結果としては遠征馬4頭・地元馬8頭の12頭の戦いとなりました。

 そしてレースの結果としては、2番人気に推された川崎・マッドシェリーが逃げ切りV。同馬だけでなく鞍上の神尾香澄騎手、同馬を管理する山田質調教師のいずれもが初重賞制覇という嬉しい勝利に。


★ダートで行われたOROターフスプリント。川崎マッドシェリーがV

 好発からハナを奪って、しかし道中は内外から虎視眈々狙ってくる馬がずっとついてきていて、そんなついてきている馬の方が手応え良く見えるようなシーンもあって、決して楽な逃げではなかったと思うのですが、最後はライバル達をしっかり振り切ってゴール。

 マッドシェリーの上がり3ハロンは34秒9、勝ちタイム58秒1は盛岡ダート1000mのレコード。鞍上は女性騎手でしたが重賞のため減量は一切無し。それでこの結果ですから見事な勝利と言って良いはず。





 レース後、 「とても思い入れがあって思い出も多い馬。その馬で重賞を勝てて本当に嬉しい」 と語っていた神尾香澄騎手。


★出迎えた関係者の姿を見て思わず・・・の神尾香澄騎手でしたが、


★口取りを撮る頃には笑顔が戻っていました

 というのも、山田質厩舎は自身の所属の厩舎、マッドシェリーはいわゆる“自厩舎”の馬で自分のデビュー前から調教に乗ったりしてきて、自身の初勝利もこの馬で挙げたもの。3回目のコンビがその初勝利、そして18回目のコンビでの戦いが今回の重賞制覇。それは嬉しいですよねえ。


★騎手が馬にまたがって・・・の口取り、岩手では撮る人がほとんどいなくなったのでちょっと新鮮



 “女性騎手の特別勝ち”は岩手競馬でも複数ありますし、“重賞騎乗”という事も、なんならJpnⅠでの騎乗も何度かあります。ですが重賞制覇は今までなかった。

 そんな事をレース後にSNSに書いたところ「高橋優子騎手が重賞を勝っているのではないか」という指摘をいただきました。良い機会ですのでその辺の歴史を振り返っておきましょう。

 5年あまりの現役期間の間に203勝を挙げた天才騎手。と同時に、わずか25歳で夭折した幻の騎手。しかし高橋優子騎手の天才性は203勝という数字だけではなく、早くから男性騎手に伍して大レースを制してきた点に表れていました。

 1969(昭和44)年5月に実戦デビューした高橋優子騎手は翌1970(昭和45)年8月の『日高賞典』をニュースターエイト号で、同年11月15日には『農林大臣賞典特別』をツルハゴロモ号で優勝しています。
 前者も1着賞金35万円の当時としては高額賞金のレースでしたが後者は同50万円。当時の盛岡・水沢に1戦ずつ設定されていた『農林大臣賞典特別』がそれぞれの競馬場での最高賞金レース。そして1970年と言えば小西重征騎手・平澤芳三騎手の全盛期に加えて、先日亡くなられた村上昌幸騎手(※いずれものちに調教師)がデビュー年にいきなりリーディング3位とこちらもまた“天才”の片鱗を見せていた強豪揃いの年で、そんな中でデビューから実質2シーズン目の女性騎手が最高賞金額の大レースを制したわけですから、それはもう高橋優子騎手の凄さがうかがえる・・・というものですよね。

 さて、1970(昭和45)年の『日高賞典』。これが旧日高賞(1999年まで行われていたアラブ4歳馬の重賞)の直接の祖先とされていて、レース回数のカウントも1969年に行われた最初の『日高賞典』から加算されていました。そのため旧日高賞の歴史では「第2回日高賞」の優勝騎手として高橋優子騎手の名が記載されておりました。



★『岩手競馬競馬手帳1996』より。かつて毎年制作されていた競馬手帳での記載

 関連する話を書き連ねていたら妙に長くなってしまったので結論を先に書くと、この時の『日高賞典』はまだ重賞ではありません。

 岩手県競馬組合が創立20周年記念誌として1983(昭和58)年に発行した『いわての競馬史』によれば「重賞」・「特別」の競走が設定されたのは1973年、そして1975年になって“特別競走で始まった「日高賞」、「不来方賞」も重賞競走に組み入れられた”(「いわての競馬史」P249~P250)との記載があります。同誌に掲載されている各年の主要レース勝ち馬欄でも、1974(昭和49)年時点では日高賞典・不来方賞典には“(重賞)”の注釈がありませんし、1着賞金額からも“普通の特別”だった事がうかがえます(時系列がちょっと行ったり来たりしてしまいますが、それには別の理由があります。後述)。



★『いわての競馬史』P190より。昭和49年時点では日高賞典特別に『(重賞)』の記載が無い


 という事で “高橋優子騎手が勝った時の『日高賞典』は、その当時の重賞級の大レースではありましたが、重賞競走にはなっていなかった。重賞競走とされたのは1975年から” となるわけです。

 以下、関連する話をいくつか。



●日高賞典はのちに『留守杯日高賞』になった際に回数がリセットされ、駒形賞典はのちに特別競走になったことで現在は回数表示がされていませんが、不来方賞・岩鷲賞の今年55回の表示はこの時からカウントされているわけですね。

●1970年頃の岩手競馬は競走馬数の不足を理由としてサラ系・アラ系混合でレースが行われており、血種別に分離されたのは1971(昭和46)年から。なので高橋優子騎手が勝った際の『日高賞典』もサラ・アラ混合の設定だったはずです。

●固有名をつけたレースだけでなくさらにグレードの高い設定を・・・と、1973(昭和48)年、この年に重賞競走が設定されました。既に登場していた岩鷲賞、駒形賞に加えて『みちのく大賞典特別』、また盛岡・水沢両競馬場での高額賞金レース『農林大臣賞典特別』が重賞となりました。

●やはり1970年頃は競馬場の入場者数・発売額共に右肩上がりで増加していた時期。
 1967(昭和42)年には開催日数78日・入場者数約9万5千人・発売額約10億円だったものが、6年後の1973(昭和48)には開催日数90日・入場者数44万7千人・発売額は112億円あまりになっています。


●1975(昭和50)になるとほぼ全てのレースが固有名を持つようになり、今にも続く桐花賞やシアンモア記念、金杯などはこの年に生まれています。
 『農林大臣賞典特別』は、1973年・1974年に実施された際に盛岡のものがサラ系、水沢のものがアラ系の競走として設定されていたことから、それぞれが1975年から第1回として設定された桐花賞・紫桐杯の前身になったと見て良さそうです。

●不来方賞と旧日高賞には謎があって、1972(昭和47)年・1973(昭和48)年に実施された記録が残っていません。そのためレース回数は1969年からカウントされているものの、この2年分は記録は空欄、回数だけ進んだ事になっています。当時の専門紙が残っていれば、たどっていけば判明するのかも・・・。

 高橋優子騎手と日高賞典の話の方が多くなってしまいました。結論としては「岩手競馬史上初の女性騎手による重賞制覇」の栄誉は神尾香澄騎手にある事、高橋優子騎手も今でいえば重賞級の当時の大レースを制していますがその時はまだ「重賞」ではなかった事。改めて確認しておこう、というお話でした。





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最終更新日  2023年12月15日 16時51分40秒


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