・朝井リョウの『時をかけるゆとり』は、30代から40代のビジネスパーソンにとって、単なる抱腹絶倒のエッセイ集ではない。むしろ、 若さゆえの無駄と遠回りが、のちの思考の厚みをどう形づくるのか を軽やかに照らし出す、成熟した読者ほど味わい深い一冊だ。直木賞作家としての鋭い観察眼はそのままに、本書では上京の日々、アルバイト、夏休み、就職活動、社会人になりたての時間まで、「ゆとり世代」の体感温度が23編のエッセイに結晶している。もともとは『学生時代にやらなくてもいい20のこと』として刊行された作品に、社会人篇を加筆して改題されたもので、若い日の無謀さが後年の自己認識へ変わっていく過程がよく見える。
・あらすじというべき物語の一本線はないが、読む体験としては確かな成長譚がある。カットモデルをしたり、意味もなく長距離を移動したり、思いつきで自転車旅に出たり、就活の空気に飲み込まれたり――どれも一見すれば“やらなくてもよかったこと”ばかりだ。だが朝井リョウの筆にかかると、その無意味さこそが青春の本質になる。笑いの密度は高いのに、読み進めるほど、若さとは合理性の外側にある行動の集積なのだと気づかされる。ビジネス書のような教訓は語られないのに、 非効率な経験が人格の解像度を上げる という真理が、ユーモアの裏側から静かに立ち上がる。
・30代から40代の読者にとって本書がひときわ響くのは、この年代がちょうど、若い頃の“無駄”を回収し始める時期だからだろう。仕事では効率、成果、再現性が求められ、無意味な寄り道は排除されやすい。しかし本書を読むと、いまの自分を支える発想の柔らかさや、人を見る目の奥行きは、案外そうした無駄の蓄積から生まれていることに気づく。新規事業でもマネジメントでも、最短距離の正解だけを追う人は、意外な局面で脆い。朝井が描く“ゆとり”の時間は、遠回りに見えて、長期的には思考の資産になっている。
・文学的に見るなら、本書の魅力は笑いの瞬発力以上に、 自分という存在を少し引いた視点で眺める自己相対化のうまさ にある。若き日の失敗や奇行を美化せず、しかし卑下もしない。少し離れた時間軸から見つめることで、恥ずかしさそのものが愛おしい記憶へ変わっていく。この時間感覚こそタイトルの妙であり、「時をかける」とは過去を修正することではなく、過去の無意味さに意味を与え直す営みなのだと感じさせる。
・読後に残るのは、爆笑の余韻だけではない。 いま自分が抱えている非効率や回り道も、未来から見れば必要な “ ゆとり ” かもしれない という感覚だ。 30 代から 40 代は、人生を最適化しすぎてしまう危うさも抱える年代でもある。『時をかけるゆとり』は、その硬くなった思考をほぐし、無駄のなかにしか育たない人間らしさを思い出させてくれる。成果に追われる日々のなかでこそ、こうした “ 圧倒的に無意味な読書体験 ” は、静かに効いてくる。
時をかけるゆとり (文春文庫) [ 朝井 リョウ ]
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