2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全13件 (13件中 1-13件目)
1
成長期とは、同時に心が幼く、変わりやすい時期でもある。成長期に大きな事件や事故があるだけで、その後の生活に支障が出る。中学時代、私の一番の成長期は、波乱万丈であった。中学に入り、保育園でしか会ったことない人や、地区が別でまったく会ったことがない人にいきなり出会えた。クラスも2クラス(都会では8クラスとかなんだよね・・・)になり、初めての事が多い時期だった。勉強でも英語や数学が入り、少々小学校から比べると難しくなったが、国語以外は無事についていった。クラスには必ず中心的存在がいる。それはヤンキーかも優等生かもどちらかはわからないが、私のクラスにもいた。一人は小学校からいつもPTAなどの関係で中心になっていたI君。この子には相当やきもちを焼いたものだ。今では馬鹿馬鹿しい。また、別の小学校からきたこちらもPTA会長の息子E君。こいつは馬鹿なのに威張るからどうしようもない。この子には高校まで邪魔をされて困ったのだが、それは置いておこう。もう一人、体も大きく、力も強いし、スタイルもかっこいいが、ヤンキーのK君。暴力でこの子には相当泣かされた。なにもかもが、私に力不足を実感させた中学校であった。また、こんなこともあった。ある日、私はいつものように誰も来ないうちに学校にきていた。自転車通学が危ないというだけで私だけ禁止されていて、仕方なく毎日親に送ってもらっていたからである。ちょっとトイレに席をはずして、戻ったとき、先輩のJさんが私のバックを持っていた。はぁ?と思いすぐ返してもらったが、中の財布がなくなっていたのである。気づいたのはちょっと後であった。先輩を呼びつけ、責めたが、やってない!先生に言いつけるぞの繰り返し。終いには私は先輩を殴りつけて泣かせていた。まだ、1年の入りたてだったか、今では親友でもあるのだが、A君と血だらけになるまで殴り合いをしたこともあった。なぜ喧嘩になったか忘れたが、覚えているのは、お互い血だらけになり、E先生が駆けつけ、廊下に出され、今度やったら先生に2万円払いなさい!とたぶん笑わせるつもりで言ったのだがあの寒い冗談をよく覚えている。あれから今まで、A君とはずっと友達である。また、定期入れにゲームのぷよぷよのシールが貼ってあって、それを大げさに騒いだD君(高校も一緒になったが)には押し倒したらいきなり逆切れされて殴られたっけ。こんなにも荒れていたのに、なぜか先生受けはよかった。見た目はまじめだったし、学校を嫌いだとは思わなかった。ただ、みんなと同じことをするのがいやだった。運動会とか卒業式とか私は大嫌いである。なぜ練習をするのだ?ぶっつけ本番の方が泣けると思うが・・・・。2年の思い出。漢字テストがあった。251問漢字テストを行い、私は21点だった。もちろん追試。でも追試をしても100点以下。どうしようもないほど漢字が覚えられない。こんなとき、私は風邪を引いて熱が38度を超えていた。しかしやらないと追試の続きだったので勉強をして、210点をとったことがあった。もちろん次の日はダウンしたが。やればできるということを自分自身に思い込ませた時期であった。部活は卓球をしていた。まじめでなかなかの実力ももち、来期の部長と言われていた。私もそうだろうと確信していた。でも現実はそうではなかった。PTAの息子のE君が部長になり、私は副部長にもなれなかった。そう、すべては権力によって押さえつけられていた。それから私は部活に力を注ぐことはなかったし、E君と話すこともなかった。3年の思い出。文化祭で何をやろうと考えたとき、友達3人でエアロビをやった。当時、とんねるずが番組でエアロビを行っていた。それを私はビデオに残していたので、それを何回も見直し、必死に練習を行った。もちろん、ウケもそこそこだったような。3年では学校に来ない人が何人かいた。いわゆる登校拒否である。その中の一人が私の現在の親友でもあるのだが。当時の私には、なぜ学校に来ないのかわからなかった。ガキだったのだろう。今思えば、あの時私が少しでも力になれればと後悔している。受験の時期私はK高校を希望していた。理由は共学でなおかつレベルもそこそこだったから。でも県外のY東高校でもよかった。推薦枠はどちらもあった。しかし、県外の高校は推薦で受かる可能性は低かったのでK高校に推薦を出した。小論文と何度も練習した、面接の練習もなんども行った。結果は落ちた。あっけなかった、担任の先生も、親も、当時の塾のW先生も、全員が驚いた。誰もが受かると信じていた。私も落ちるはずないと確信していた。でも落ちた。PTAの息子のE君は受かっていた。学力も内申書の私のほうが上だった。でも落ちた。すべてはPTAという権力に負けたのだ。そう思った。絶望ってこういうことなのかなって、小さな脳で私はいつまでも考えていた。帰りに私はバス停で持っていた合格祈願のお守りを捨てた。結局、普通に受験を行い、K高校に入った。推薦で落ちた高校に行くのは少々嫌だったが、受かりやすいとか言われたので別にいいやと思いそこにした。完璧だと思った。今までできなかった国語もすべての教科が完璧にできたと思う。もちろん合格した。でも、心はさえなかった。学校とは、権力でできていて、私のような普通の子供にはいいことなんてないんだと思ったのだ。そう思うと、何もやる気が出なくなるし、頑張っても無駄なのではと思った。この時期、私は成長期だった。心も、一気に悲観的に成長した。
2005/05/30
コメント(0)
私は昔をほとんど覚えていない。誰もがそういうだろう。誰だって子供のころなんて忘れてします。それは毎日が当たり前のようにやってきて、当たり前のように過ぎて行ったからだろう。トラウマって本当に存在するんだと確信を持てることがよくある。小学校、中学校と記憶がまったく無いのに、嫌な事を思い出そうとするだけで、頭が痛くなる。小学校の時、勉強も嫌い、運動も嫌いだった私は、学校に行く意味を失い始めていた。でも、義務教育に流されていた。ある日、漢字100問テストがあった。勉強しなかった。当たり前だ。漢字嫌いだったし、勉強したってどうせ覚えられないって知っていたから。結果は22点(11問)だった。当たり前の点数、当たり前の結果だった。しかし、先生は私を昼休みに図工室に呼びつけて怒鳴りつけた。なんだこの点数は!と。だって、勉強してないもん。当たり前じゃん。なにそんなに怒ってるの?私は怒れても怖くも無かったし、悲しくも感じなかった。当たり前の点数に自分も納得をしていたから。それでも先生は私を永遠と怒鳴りつけて漢字を勉強するように言った。その夜、私は買い立てのゲームにはまった。小学4年の時、図書室のガラスを割った。パチンコ玉を友だちが投げて私の頭上のガラスを割ったのだ。隣の理科室から出てきた先輩がすぐに先生に言いつけて私だけが怒鳴られ、げんこつされた。私だけがなんで怒られるのか悔しくて泣いた。でも誰も私を慰めてくれる人なんていなかった。私はずっと孤独なんだって思った。あの時から、人の変わりに怒られると無償に腹が立つことが多くなった。部活の時に、ベースランニングといった野球のベースを一周するいわばゲーム?というより練習があった。私は非常に足が遅く、それが苦手だった。部活自体、どんなにやっても結局は先発になれないんだと確信していたので嫌いだった。そのとき、私をデブ!足が遅いんだよ!と笑いけなす人がいた。周りもそれにつられて笑っていた。一周してホームに着いたとき、私はその人を後ろのフェンスまで飛ぶほど思い切り殴り飛ばした。初めて人を殴った瞬間だった。修学旅行のとき、部屋で疲れて寝ていた。すると酔っ払った先生がやってきて私の布団を動かし、ふすまの目の前に置いた。なんでかよくわからなかったが別にトイレに行きやすいしいいか?と思い寝た。朝、時間まで覚えている。6時半。起床時間は7時半だったのでまだ寝ていたかったが、みんな起きていた。枕が飛んできて私を起こした。むくっと起き上がり、まだ寝かせろよ!と言った瞬間だった。他の学校の先生が入ってきていきなりうるさいぞ!と怒鳴り、ふすま(部屋の入り口)に寝ていた私の頭を思い切り殴りつけた。あまりの痛みに私は泣きながら意識を失った。どうして私は怒られたのか?騒いでたのは私ではないのに・・・。バスの中で担任にそれを言っても流された。所詮私は信頼されていなのだ。今では訴えておけばよかったと本当に後悔している。ダイエットを初めてした。小学校5年のときだった。好きな人がいて、告白すると、やせたら付き合ってあげるといった。必死だった。7キロやせた。それで私たちは付き合うことになった。ある日、私に友達から彼女と付き合うことが終わっていることを宣告された。結局は遊ばれたのだ。一ヶ月の頑張りが一週間で終わったのだ。所詮私は、誰からも愛されていないのだと感じ取った日だった。何もかもが、私を深い傷を作った。覚えているのはつらい思い出だけ。小学校からの友達はもう一人もいない。死んだわけじゃない。”友達”としては存在しない。すべては同級生であり、赤の他人だ。誰も信じない、誰とも話したくない、誰とも関わりたくない。みんな嫌いだ、大嫌いだ。だから今の私が存在する。あの人たちに負けないように。あの人たちを見下すために生きている。いつか、今まで私を見下した存在を、すべて後悔させてやるんだと思う。私の傷が癒える日は もぅないのだろう。
2005/05/26
コメント(0)
保育園のことを私はほとんど覚えていない。その中で覚えていることは、毎日がつまらなく、行きたくないと母親にダダをこねてたことや、みんなで踊るのが嫌で舞台の下の物置に隠れていて先生に怒られたこと、先輩とけんかになったこと、そのくらいかな??別に、友達がいないわけではなかった。友達と遊ぶのは嫌いじゃなかった。でも、小さいころから近所に友達という存在がなかった私にはどうしても馴染めないものがあったのかもしれない。一応、近所に先輩や後輩はいたが。。。初めて好きな人ができたのも保育園だったと思う。私はMさんが本当に好きだった。きっかけは先輩と喧嘩をして、つかみ合いになり、確か校舎の目の前の木の下(今でもあるんだろうか??)で地面に叩きつけられたのだった。あれは鮮明に覚えている。次に先輩に会ったのはなぜか中学のときだったが・・・。そのときに私に優しく大丈夫?と聞いてくれた人に私は恋に落ちていた。今思えば、単純で馬鹿馬鹿しいことばかりであるが、純粋というか、子供というのは素直なんだなぁと思った。給食でもシイタケが食べられず、ある日、春巻きがどうしても食えずにもがいていると先生に少しでいいから食えと言われ、逆ギレしてたのを覚えている。粘土をこねて遊んだとき、友達に自分の作ったものを壊されてキレて自分の持っていた粘土をすべて地面に叩きつけて殴りかかったこともあった。よく考えると、キレやすかったんだね。たぶん、A型のサガってやつだよ。まじめすぎて曲がったことが嫌いなのに、これだと決めたら頑固で貫き通す性格。今では子供だったなぁとほのぼのしちゃうね。
2005/05/25
コメント(0)
普通より私は大きく生まれた。確か5000グラムあったと聞いたような。それでも私の親はがんばった。そのためか、やはり普通よりも活発で普通よりも食べ、普通よりもわがままだった。でも親はそんな私を普通の子供として、時には厳しく、時にはやさしく育てた。しかし、悲劇というのはいきなり現れるものなのだ。気がついたのは母親だった。普通電話を取るときは左の耳に押し当て話す。これは右利きの人限定かも知れないが、電話をしながらメモをとるためと聞いている。私もそう教わってきたからそのとおりにしていた。しかし、幾度とかかってくる電話を私がとっても、一向に声が向こうからしてこないのである。幼かった私は無言電話を判断し、電話をいつも切っていた。普通なら、子供は電話の仕方がわからないからだとか思うだろうが、母親は勘づいた。そぅ、私は左耳が聞こえないのだ。生まれてからなのかそのころなのかは定かではない。大学病院に行き、検査を行ったところ、電気信号が左だけ流れていないのである。原因は姉貴のオタフクを食らった為か、それとも中耳炎をほったらかしにしたかは定かではないが、少なくとも治る事はない。大きな手術を行い、神経に鉄心を入れるしかないようだ。親はそうとう焦っただろう。私はまだ幼い。大きくなればもちろん何かしら不便を生じるだろう。もし、このまま右も聞こえなくなったらどうすればいいのか?本当に迷っただろう。私はこのことを何も覚えていない。逆に覚えていなくて正解だと思った。親の挫折を私の挫折にせずに済んだのだから。
2005/05/23
コメント(0)
前書き私はT県の温泉街に生まれた。実際はY市と言って、今では走り屋がよくいく山があるところで生まれたんだが・・・・一応住民登録はS町(現在N市になってしまったが)にしてある。大学に入っても未だに住民登録を変えていない。たぶんめんどくさいだけ。私はこれまでいろいろと経験をしてきた。そりゃ生きていれば誰だって経験してると思うが、人より挫折や絶望が多かったような気がする。小学校、中学校、高校と地元の学校に進学し、県立なので別に騒がれることもなく、普通に生活を送ってきた。昔っから国語が嫌いだった。いや、嫌いというより漢字や古文は覚えられないし、現代文は自分なりに解釈してしまうために結局できない。高校のときにやった模擬テストで200点満点中19点はさすがだと自分で自分をほめたくらいだ。そんな私は、いつしか文庫を買って読むようになった。きっかけは表紙の絵が綺麗だったから。そんな馬鹿げたことで買った文庫に大泣きをした。初めて本を読んで泣いた。何度読んでも泣ける物語だった。(今でも続いているやつでそろそろ飽きてきたが)あの日から私は自分で詩や文章を書くようになった。ふと思ったこと、何気なくて馬鹿げていてもなかなかみんなが表現しなかったことを文章として残してきた。でも、結局認めてくれる人はほとんどいなかった。なぜなら、みんな常識はずれした私の文章は論外と判断しているからである。それでも私は未だに書いている、もはやここまでくると自己満足なのかもしれない。文章を書くことは、私の心情がそのまま出ていた。あるときは酔っ払ってベロンベロンの時に書いた。あるときは失恋して泣きながら書いた。あるときはムカついてイライラしながら書いた。ふとあるとき、いつものように学校に行くときに思った。私の人生を物語として書き記そう。うん、いきなりすぎてとても面白い!(←非常に自己満足)どこまで書けるか不安でもあるが、私のすべてをこれから書こうと思う。
2005/05/19
コメント(0)
朝超元気ない当たり前。低血圧&寝不足そりゃ一日3時間じゃ死ぬっつーのでも電車に乗ると一気に目が覚めるなんか気合が入る新しい日々新しい夢へと飛び立つワタシは少しやる気というものが出てきたような気がする
2005/05/16
コメント(0)
バイト終わったら速攻で南行徳へ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡ ひっさびさに地下鉄に乗った・・・んで南行徳で友だちと飲んで夜は駅前のネット喫茶でマターリリ ̄ε ̄リ朝7時に家に帰りもちろん爆睡・・・・そりゃ当たり前じゃ・・・・2時ころやっと目が覚めてずーーーーーーーと引きこもってました。まぁ、別になんにもしてねぇーーー
2005/05/14
コメント(0)
まぁ、3年だし、今までが少なかったからいいかな?寝不足覚悟で課題に勝負かけてます・・・・さて、最近ブログが流行ってますが、簡単にいうと、みんな流行りに流されすぎ。ってか、日記じゃん。ブログをマスターすると儲けられる?はぁ???単純に日記を書いている人・・・・眼中になしブログマスターの教えを忠実に守っている人・・・ふーん儲けるために本格的に勉強してる人・・・別の考えも持ったほうがいいですよーと、かなり否定的に考えています。だって、単純にいえば日記じゃん。まぁ、みんながんばれば?
2005/05/12
コメント(2)
全ての人が過去を背負いそして新しい未来のために飛び立とうとする全ての人が悲しみを背負いそして幸せを掴みとる全ての人が重い恋の病にかかりそしてすばらしい恋愛を実感する全ての人が未来を信じて今を生き抜こうとする過去は戻らない戻しても悲しみはまたやってくるだから新しい未来のために生きるワタシもその人間の一人である
2005/05/07
コメント(0)
暗いここは未来を創造するところワタシは今ここで未来を創造しているいや、ただの想像である未来は明るく、楽しく、辛いこともあるけれど、毎日が充実すると考えていたでも今のワタシの中の未来は暗く、真っ黒な暗闇に支配されて怖いくらいに何も見えない、聞こえない目をつぶると君は笑顔でワタシを見てくれた目をつぶると君は怒ってワタシを困らせた目をつぶると君は眠くてワタシの隣で眠りについた目をつぶると君は向こうを向いていた・・・と呼んでも君は向こうに消えてしまう何度も君の名前を呼んでも君は立ち止まらずに進んでしまっていたうれしいくらいの笑顔の君は悲しいくらい可愛かったそんな君は今どこに行こうとしているのだろうか??ワタシはただその場で立ちすくみ君の後姿を見ることしかできなかった・・・・・いつか時が過ぎたとき君はワタシをここから救い出してくれるのだろうか?ワタシはそのとき現在という時の世界に存在をのこしているのだろうか?君はワタシの生きがいだったから
2005/05/05
コメント(0)
誰もが生きている動物として生きているだから欲望が生まれ人を傷つける生きるために仕方のないことなのかも知れないが悲しくなるのはホントウニ嫌なことだから毎日が笑顔でいたい笑顔で毎日を過ごしたい悩みなんて吹き飛ばして毎日楽しく生きたいでも生きれない悲しみを味わって初めて人間は強くなれる人間は進化する動物それゆえに悲しい動物
2005/05/05
コメント(0)
時が過ぎるから悲しみがやってくる時が流れるから新たな壁が存在する私の人生はすべて後悔と挫折でできている何をしてもいつか必ず後悔する何をどうやってがんばってもいつかはうまくいかなくてもがき苦しんで挫折する夢なんてなくなった結局うまくいかない自分が見えるからすべてそうだどうやったらうまくいくんだろう私が悪いんだすべては私の生き方に問題があるのにその問題を解けないからすべてがうまくいかないまま終わろうとしてしまう・・・・まだ終わりたくないのに崖に追い込まれて自ら身を投げ出してしまう時が止まればむしろ戻ればあの時あの幸せが戻ってくるのにそうすればイマという辛い毎日を変えられるのに・・・・・・・・・なんで?毎日がそうやって始まり毎日がそうやって終わる毎日が疑問で毎日問いかけてでも結局答えが出なくて終わる・・・・・・・ワタシニタリナイモノハナンデスカ?
2005/05/02
コメント(0)
私たちは生きている絶望を味わいながら幸せを掴み取る悲しみを乗り越えて喜びを手に入れる屈辱を浴びせられながら人の上に立つことができる裏切りを知りながら人を裏切る寂しさを感じながら新たな優しさを得る泣きながら次の涙を用意する悔しさを覚えながら生きがいを感じる人は生きている寂しい人間だからできること
2005/05/02
コメント(0)
全13件 (13件中 1-13件目)
1