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当たり前だけれど、一人一人の人間は違っている。昨日の私と、今日の私は同じだろうか?いや、違っているはずだ。会社や社会といった一定の枠組みや価値観というものは確かにあって、そこに対する適応ということは生きていく上でとても重要だ。会社を変えるよりも自分を変えることの方がずっと現実的なことである。ある一定の枠、価値観、風土のようなものが環境にあって、それに対して適応できないということは、とても深刻な問題だ。受け入れて適応するか、環境を変えようとするか、どこかへ去るか、取りうる方法はこの3つであって、ただ立ちすくむことは生きることにはつながらない。同じ自分は存在するだろうか?ただじっと立ち止まっている限り同じ自分かも知れないが、そうしているかぎり進歩とか変化というものはあり得ない。「相手を変えるには先ず自分から」という昔からよく言われる言葉がある。自分を変えることは、世界を変えることだ。受けとり方が変われば世界は変わる。そうすれば他の人たちも変わってくる。時には、ある一定の枠組みからはみ出して他の枠組みへ移ってみるということもありえる。そこが自分にとって居心地がいいのなら、無理をして自分を変えるよりもその方がいいかも知れない。その場合に考えておくべきことは、自分と今自分がいる枠組みを正確に知っているかどうかということだろう。環境に作用して環境を作り替えるという作業は、かなり大変なことになる。他の人たちがとりあえず適応している環境を部分的であれ破壊することになるからだ。世界は自分を中心に廻っているわけではない。いずれにしても変わっていかないことには、生き生きと生きるということにはなっていかないように思う。変化のために、眠りや、自発的な引きこもりが必要なこともあるだろうけれど。同じ、「お話し」というものは存在するだろうか?多分本当は存在しないのだ。むかし子供の頃に聴いたり読んだりした、「わらしべ長者」や「シンデレラ」は、今読み返してみれば、その頃とはかなり違うものになっているはずだ。わたしが、自分のことや仕事について、誰かにありのままに語ったとすれば、その後まったく同じ話は、二度とされることはないだろう。テーマが同じでも、出来事に対する評価やニュアンスはかなり変化しているだろうし、ある出来事に対する評価が180度変わってしまうことも考えられる。もしかしたらそのテーマは、二度と話さないかも知れない。一人だけで考えてみるとどうなるだろうか?わたしは、以前に、同じことを数年間繰り返し繰り返し考えて、悔しがったり、怒りを感じたり、落ち込んだりすることがあった。一人で考えることでは、数年かかっても、お話の内容を変化させることが出来ないようである。また、反対に自分が成功したときのこと、誇りに思うことなどの場合も一人でじっと考えていてはそこにとどまっているだけだ。誰かに語ってみる、それもお話の内容を正確に読みとれる人であって、内容を受け止めてくれる人、否定したり、おだてたり、同情したり、何かの形にはめ込もうとしたりせずにあるがままにお話を聴いてくれる人。出来る限り話しやすく、お話を理解して引き出してくれるような人がいれば、変化への第1歩は始まるように思える。他の人が存在しなければ、自分を確認することはとても困難になる。誰かに、心から話しをすれば、まったく同じ話しがされることはあり得ない。もし、同じような話が繰り返されるのであれば、それは、他の人も自分も話を聴いていないからだろう。「お話しの内容が変わるということは、その人の内面が変化したということである。」良い方向へ変わることもあれば、聴き手や、自分の受け止め方によって悪い方へ変わることもあり得る。仕事やキャリアに関する前向きと思えることであっても、悩みや不安などの後ろ向きと思えることであっても、結局のところは一緒だ。お話をすることで自分の感情や価値観や捉え方や考えを明確にしたり気付いたりすることが、過去に対する評価を変化させるし、未来に対する夢や希望のようなものを生み出す。過去は変えられないというようなことはないし、また未来も変えることが出来ないということはない。このようにして、自分が変化を起こせば、また環境も変化する。変化していくことは、生きていくことのように思える。良いこともあれば悪いこともあるけれど、ただ立ち止まって一人で同じ事を考えたり思ったりしていることは、前向きであっても後ろ向きであっても、殆ど生きながらにして死んでいるようなものだろう。誰もが、一人では生きていけないし、一人では進歩などあり得ないように思える。自分の枠組みから一歩も出ないのでは、変化はあり得ない、自分の枠組みを知ったりそれを広げるためには、何らかの形で他の人が必要になる。特に心理や思考については、人間や言葉に替わる他のものはないだろう。あまり上手く書けなかったけれど、今、このように書くことで、自分の存在や変化を何とか確認しようとしている。要するに、一人で事務所にじっとしていると、自分が生きているという感じがだんだんしなくなってしまうのだ。何だかとても久しぶりに、誰かに会いたいなどと思う。ちょっと、生きている感じがする。ESP 事務局 masau
2005年03月18日
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どうも弱っているときに出て来がちな問いの一つに、「何のために生きているのだろう?」という問いがある。大体において、昔からそうであったように思われる。「うーん、よわったなあ。ああ、まったくもう。何のために生きているのだろう?」というのが、青少年だった頃の自分のパターンだったように思う。今は考えないか?いや、考えてしまうときがある。なにやら、課題の大きさや、きちんと問題を捉えることが出来ないときには、何となく、そんな風にして人生とか生命の意味を知りたいなどと思ってしまう。「何のために生きているのだろう?」どなたか答えられる方?「家族のため、自分のため、答えは風の中♪」坂本九の歌、ですよね。「<単なる生>の哲学 生の思想のゆくえ」宇野邦一著 平凡社刊と言う本を読んでみた。この本に出てくる生の思想を、「不機嫌なジーン」のおまけ風に並べると。・ニーチェ・フーコー・バタイユ・ベルグソン・ドウルーズ・レヴィナス・ベンヤミン・グールド・スピノザ(哲学者・思想家)・ヒットラー(政治家)・ダーウイン(科学者)・土方巽(ダンサー)・アルトー(戯曲家)・ベケット(詩人) 等々ということになる。はあー、疲れました。面白い本ですが結構大変です。ちょっとは読む人のレベルも考慮して欲しい・・・で、結論は何なの?ということですが、さっと書いてしまうのはイヤだな。結構苦労して読んだからな。なになに、教えてほしい?「人間が何のために生きているのか?」いやいやこれはそう簡単に教えられませんな。え、どうしても教えてほしい・・・・・じゃちょっとだけ。答えは、「未だにわかっていません。」はは、ガッカリしましたか?上記のような、人類史上最強ドリームチームで考えても、「何のために生きているのか?」という問いかけには、答えが出ないのです。多分、ホリエモンに聞いても、小泉総理に聞いても、イチローに聞いても、天皇陛下に聞いても、最終的な答えは出てこないようなのです。例えば、ホリエモンの答え「お金のため」。何でお金のために生きるの?「快楽のため」。何で快楽のために生きるの?「・・・・・・」はあ~、よかったですね。答えを知っている人がいなくて。すごく立派なえらい人でお金持ちで格好良くてモテモテでノーベル賞を取ってオリンピックの金メダリストでも、本当に、何のために生きているかを知っている人はいないのですよ!ほらほら、何か元気が出てきませんか?「何のために生きているのか?」という問いには、間違いが含まれているのかも知れない?生命というものは、無垢なものだとニーチェは言っている。問いかけるなんて野暮だぜ!自分自身が生命だもの。まったく、自己実現などという言葉は恐ろしいものですね!どうやら、生命というものは「還元不可能」なものであるらしい。還元不可能と言うことは、言語で規定したり、DNAのような科学や生物学で説明したり、神様を持ち出したり、数式で表したり、分割したり、医学上定義したり、法律上定義したり、行動科学で表したり、精神分析してみたり・・・そういう風に、何かに還元することが出来ないものなのだ。これらはいくら偉そうにしてみても、単に切り口に過ぎない。(きりー。ざんねーん!)いや、今やいろんな角度から切り刻まれて、生きることは「ずたずた」なのかも知れない。どうもそんな気がする。どうやら、知らぬ間に斬られまくっているに違いない。ところで、生命はとうといか?さあ、ワカラナイ。還元不可能だから。では、どうやって生きていこう。「深く考えずに、何か、自分なりの意味を見つけてみる。」普通はこれでいいかも知れない。あるいは、「自分なりに問いを立ててみる。」解いたり問うたりで生きていけそうだ。「自分の生命をそっと聴いてみる。」可能性はありそうですね・・・「風の歌を聴け」ってね。「単なる生を生きる。」平凡に生きるのは難しそうだけれど、これもいいよね。明石さんまの名言、「生きてるだけで、まるもうけ。」この言葉を鍛え上げることは結構難しい。多分、かなりの回数の反復が必要なのである。ESP 事務局 masau
2005年03月17日
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「ニート」について書くということはとても難しい。だいたい、ほんの最近になって出てきた言葉だし、その意味の把握も十分ではない。[Not in Education Employment or Toraning]の頭文字をとったのが、NEET=ニートだそうだ。直訳すれば「教育・雇用・訓練中でない人」という意味。要するに何かに属する人たちを除いていくと、何やらよくワカラナイ人たちがいるぞ。どうやらそれは、若い10代後半から30代くらいまでの人達らしい。しかもこのニートさんたちは、少子化にも関わらずかなりの勢いで増えているらしい。このままいくと、職業能力も育たず、産業競争力や社会保障や治安にも悪い影響がありそうだぞ。というのが、大方の考え方みたいだ。どちらかというと、このままだと社会の厄介者が増えるぞという感覚で大方のメディアは「ニート」のことを報道しているように思える。僕は、どちらかというと「ニート」と呼ばれる人達にある種の親近感を憶えるところがある。なぜだろう?大きなお世話かも知れないけれど、ESパートナーの活動についてもニートや引きこもりと呼ばれる人達に関わっていきたいという思いが最初から強かった。なぜだろう?多分、自分の中に彼ら彼女らに近いような感覚があるからではないかと思う。そして、「ニート」や「ヒッキー」であることのある種のしんどさや、漠然とした不安感や、無気力さのようなものをやはり自分も持っているのだろう。「景気がよくなる」のはすごくいいことだと思うだろうか?バブル時代を通り過ぎてきた僕は、あまりいいこととは思わない。きっと、背が高くて・収入が多くて・学歴が高いのが一番だみたいなバブル期の感覚みたいなものが復活してくるのもイヤだし。株価が高騰して、バブルになって、またどこかにしわ寄せが行ったり。新しい市場や資源を求めてよその国に出ていこうとしたり。大量消費でモノのありがたみがなくなって地球環境が更に悪化したりとか・・・・・今、景気がどんどんよくなるなどと聞いたら、何だか恐ろしいことが起こるような気分になる。いったい何を元にして、どうやって景気がよくなるのか?わからない。景気がよくなって、雇用が増えれば、ニートはいなくなるだろうかと考えればそれはないように思う。多分僕と同じなら、今の世の中では、何となくやる気にならないだけなのだ。だからまあ、景気がよかろうが悪かろうが、背が低かろうが稼ぎが悪かろうが、じっと耐えているのか、わりと気楽に楽しんでいるのか、深刻に考えたりしているのか知らないけれど。ニートと勝手に名付けられている人々を応援したいというか一緒に気持ちを分かち合いたいような想いがあるのだ。「マイノリティーは創造する」という。ニートは、「かなりの規模にのぼる、少数派」と言われているようだ。この、「マイノリティーは創造する」という言葉を何となく信じている。現在に十分に適応した多数派よりも、かなりの規模にのぼる少数派の方が、将来的に何か重要な創造的な仕事をするような気がするのだ。ダーウィンの適者生存の原則というものがあるが、現在の環境に十分に適応した者は、次の環境変化においてはもっとも不適応な存在となる。これは現実だ。僕は、ニートという存在に、次なる環境変化に適応するための、痛みや苦しみや不適応を感じてしまう。だから今は社会的に不適応でも、次なる創造のためにじっと耐えているのではないか?さて、この感覚はどれくらい妥当なのか?知りたいのだ。妻に、「ニート関係の仕事をするかも。」と話したら、「あなたが、ニートみたいなもんじゃない。」と言われてしまった。世界中のニートの皆さん、こうなったら、何か創造してやろうじゃありませんか!ESP 事務局 masa
2005年03月10日
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ESパートナーの最初のイベント、JOBデザインスクエアが修了。ほっとする間もなく、とあーる公共団体さんから、ニート問題にかかわってみませんか?というお話をいただいた。願ってもないお話で、勿論やる気になっているのだけど、何故か心の方は疲れを引きずったままです。JDS修了の打ち上げや反省会もしていないまま、次のことを考えることになったのが負担になっているのだと気がつく。急いで、NPOメンバーに「お疲れ様、ゆっくり休みましょう。」とメールを打った。メールを打ってしまうと何だか気持ちが楽になる。気分転換に散歩にでてみる。まだ風が冷たいけれど、気持ちのいい天気だ。今朝は山間部では雪が降っていたらしく山並みが少し白くなっている。春日川には今日も水鳥がたくさんいる、カモメやトンビの姿も見える。カモはいつもカップルで行動している。微笑ましくてなかなかいいものです。午後から、ニートに関する本を読むことにして、事務所にお弁当を食べに帰る。嫁さんのかなちゃんが作ってくれたお弁当だが、実はここの所彼女とすれ違いやケンカが多い、多分僕の方の余裕がなかったせいだと思う。(反省)ちょうど卒業シーズンだけど、区切りというのはとても大切なものだなあと思う。どこかで区切りをつけないと、こころの方は何時までも重荷を引きずったままになってしまう。新しいことをはじめる前にはこれまでのことに一旦区切りをつけた方が随分楽になる。自分で気がつかないうちに、何かを引きずったままになっていることは良くあることだ。こころが重いなあと思ったら、区切りをつけられないまま何か引きずっているものがないか考えてみた方がいいと思う。もし長い長い小説の序章が、果てしなくつづいて区切りがなかったらどんな感じがするだろうか。多分、だんだん疲れてきて途中で読むのを止めたくなるに違いない。序章は短めに、章ごとには少しテーマを変えていけば、読み進むのは随分楽になる。読書のビギナーは、最初は短めの本から入った方が入りやすい。もし、プルーストの「失われた時を求めて」のような小説が、1冊にまとめてあって、章に別れてなかったら、読んでみようという気も失せてしまうだろう。お話の区切りというものも大切だ。この辺は、仕事や人生について考える場合も同じじゃないだろうか?よし、自分の中でのESパートナー序章はここまで。NPO法人認証も受けたことだし、次は第1章です。じゃあ、「ニート」という本をこれから読みます。ESパートナー第1章の始まり始まり。次回は多分ニートについて書きます。お楽しみに。ESP事務局 masa (キャリアカウンセラー・社労士)
2005年03月05日
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またまた、長期休業してしまいました。この間何をしていたかというと、3回のJOBデザインスクエアというイベントを行っていたのです。仕事を探している方、学生さん、企業につとめている方など、2月26日、28日、3月3日の間に、グループワークで延べ20人ほどの方々とお話しさせていただきました。お話の内容は仕事に関することの他に、家族や、ペットなども出てきます。これはとても言葉にできない体験です、お話をしてくださったり聴いてくださる、参加者の皆さんがそれぞれに、自分の人生を持ち、仕事を持ったり、色々な考え方や思いを持っているのですから。それを全部受け止めようと言うのはとても無理なのですが、出来る限り受け止めて、一緒に考える時間を共に持つことが出来ました。3日間で思ったこと。自分は何かして上げることは出来ないけれど、お話を聴いて共感したり、明確にしたりそんなお手伝いは少しは出来たかも知れません。こうしてじっくりとお話をしてみると、人間の存在というのはすごくはっきりとしたものです。1週間の間に20人もの人たちと少し深めのところでお話をすると、この存在の重さのようなものはずっしりと僕の心の中に入ってきます。(そんなわけでブログを書く気力もなかったのです。何だろう、いくら考えても適当な言葉が見つかりません。)この重みは、自分の心の重みなのか、誰かの心の重みなのか・・・計測不能。2日目以降の参加者の皆さん、僕は十分に聴くことが出来なかったと思います。心が一杯で、ゆとりのない聴き方になっていたかも知れません。そんなこんなで、JOBデザインスクエアを終えました。参加下さった皆様ありがとうございました。出来ることならもう少し長くお話をしていたかったですね。気分転換も必要です、最近の気分転換はもっぱら散歩です。ESパートナー事務所のすぐ西側は、春日川という京都の鴨川くらいの大きさの川が流れています。川に沿ってくだっていくと、東には高松市民の心の山、屋島がよく見えます。川には州が出来ていて、鴨や、鷺、だんだん下っていくと、カモメなどもいます。屋島大橋に近いところまで行くとそこは水鳥や海鳥たちのちょっとしたサンクチュアリになっています。堤防に沿って海鳥たちが羽を休める様子は、猪熊源一郎の絵を思い出させたりもします。(「飛ぶ日」という題の絵がお気に入り。)こんな風に空の下をゆっくり散歩してみると、色々と発見があったりして、心の中もすっきりとしてきます。じっと椅子に座って、頭で考えるのはどうも良くないようです。春らしくなってきました、お話もいいけど、散歩もいいですよ。
2005年03月04日
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キャリアカウンセリングという言葉は、日本ではとても矛盾した言葉の組み合わせになっている。一方では、キャリア官僚とかキャリアウーマンなどに使われるキャリアという言葉と、治療とか療法のような意味合いも持ったカウンセリングという言葉が組み合わさっているものだ。カウンセラーの語源については、職業指導運動から使われはじめた言葉だということを以前書いたけれど、そういったことを知っている人は多分とても少ないと思う。ちなみにキャリアの語源は、荷馬車などの通ったあとの轍(わだち)のことです。しかしながら、キャリアカウンセリングというものはまだ日本では、とても矛盾した概念なのですよ。多くの人はキャリアという言葉に前向きな意味合いを受けとり、カウンセリングという言葉に、少し後ろ向きな意味合いを受けとるのではないでしょうか?そんなわけで、キャリアカウンセリングという言葉は、それ自体二つの方向に引き裂かれようとしている感じを持っている。どうも、現代に生きるわたしたちは、何事も二つに分けて単純に納得しようと心がけているように思えてしまう。「明るい性格・暗い性格」「前向きな人・後ろ向きな人」「正と悪」「勝ち組と負け組」「金持ち父さんと貧乏父さん」「0と1」「勝訴と敗訴」「健康と病気」「経営者と労働者」などなど。こういったものを二分法と呼ぶ。多分、わかりにくく境目のないものに言葉を当てはめて、単純に納得しないと落ち着かないのだろうと思う。エッシャーという画家の絵をご存じだろうか?絵の下の方には、黒い魚の図案が並べられているのだが、上の方へ見ていくと白い鳥が飛んでいる図案になったりする。境目は何処だろうと、目を凝らしてみても明確な境目を区別することは出来ない。不思議な絵だ。どうやら人間の認知能力というものは魚と鳥を同時に認知することは上手く出来ないようである。うーん、まあいいか・・・。キャリアという言葉、元々は荷馬車の通った跡ということで、わたしたちが通った後には、キャリアの奇跡が描かれる。垂直的に大きな仕事や地位や名誉やお金を求めていくのもキャリアなら、水平に色々な人たちとつながっていくとか、仕事のフィールドを広げていくいうキャリアもある。キャリアとは必ずしもキャリア・アップのことではない。主婦にはキャリアはないだろうか?僕は、そんなことはないと思っている。きっと主婦の方々にも素晴らしいライフ・キャリアがあるはずだ。キャリアの意味というのは、ライフ・キャリア、キャリア・ライフのことである。人生抜きの仕事なんて考えられないし、仕事抜きの人生も考えられない。人生の軌跡、海であれば航跡、そんな風に考えてみて、こころのなかで、地図や海図を広げてみると、何となくキャリアという言葉が素敵なものだなあと思えてくるから不思議だ。それぞれの人がそんな地図を広げてみて、想いを受け止め理解してくれる人と今までの軌跡やこれからの行く先について考えて実行していくということが、僕のキャリアカウンセリングのイメージなのです。捉え方一つで、何やらいかめしいキャリアカウンセリングという言葉が、アニメのワンピースみたいなイメージに変わりましたか?さあ航海に乗り出そう!(なんてね)ESP事務局masa
2005年02月22日
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長期休業してしまいました・・・(反省)キャリアカウンセリングについて書いてみることにします。さて、というところですが午後8時。今から妻を迎えに行かなくてはなりません・・・明日の朝は必ず書くぞ。いや「役に立つ」ということにしようかな?とにかく書くぞ。では、失礼!
2005年02月21日
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1日お休み。さて、気を取り直して夢と現実について。少し前の某経済新聞に、「帰宅部OL増殖中」との記事が載せられていた。最近のOLは、仕事が終わればまっすぐ帰宅、休日は疲れて部屋の中でゴロゴロという、「帰宅部OL」が増えているという。休日に部屋でゴロゴロ、帰宅後は「めし」「風呂」「寝る」というのは、おとーさんの専売特許だと思っていたけれど。そうかあー、うちの嫁さんだけじゃないんだね。最近のOLは疲れている。というわけだけど、バブルの頃のおやじギャルのような、ふぁいとー・いっぱーつ的な元気の良さは、今じゃ社会全体を見渡しても見あたらなくなったような気がする。派遣や契約労働で低賃金かつ先行きの見えない労働条件。更にアウトソーシングなどで、労働者としての権利さえない現実。リストラ組と勝ち残り組両方が不安に苛まれる現実。効率や生産性を追求していくと、恐ろしいことに人間が一番辛い状態に追い込まれてしまう。今や一部経済学においては人間は、「人的資源」と呼ばれるようになってしまった。まるで、牛や鶏のような経済動物のごとき扱いである。牛や鶏でさえ、病気になることでNO!と叫んでいるようにも思えるのに。数年前に、スイス製の高級手巻き腕時計を買ってしまった。お値段はウン十万円、これでも機械式の腕時計では安い方。たまたまお金が入ってきたので。何となく、えいやっ!という感じで買ってしまったのだ。確かに悪くない。チキチキと良い音色で動くし、文字盤なども手が込んでいる。それよりも何よりも、ウン十万円の高級腕時計の他にお金の使い道を考えつかなかったというのが買ってしまった理由だと思う。でも買ってしまった後で何となく、ああ、日本も行き着くところまで来てしまったのかも知れないと思ったのです。貧乏人の自分が、ウン十万円の高級腕時計にしか欲望を感じなかったわけです。しかも買ってしまえば、腕時計は現実に自分の所有物になることで、欲望は満たされてしまい、それほど魅力を感じるわけでもないのです。かくなる上は、自分の腕時計は、誰かのよりも高級だとかレアだとか、そんな風に他人と比較して優越感を持ったり、劣等感を持ったり、そんなことを考える自分ってイヤだなあ・・・結局、腕時計なんて気にしないのが一番。(消費済み)などというような状況、ないだろうか?夢を実現してしまえば現実になる、現実というものは憂鬱だ。どうも私たちは、夢を消費し尽くそうとしているようにも思える。もっともっとと要求を高くしていっても、行き着く先は砂漠かも知れない。今までとは少しばかり方向の違う夢、消費されてしまわないような夢、そんなものはないだろうか?などと考える。とっても難しそうだ。取りあえずは、ささやかな夢や幸せを大切にしてみる。今日は帰ったら、ビールとサラミ・ソーセージがある。想像してみるとこれはかなりいい感じだ。自分を消費されないようにしようと思えば、いろいろと工夫が必要かも知れない。多分、帰宅部OLの皆さんも、帰宅しながらささやかな夢や幸せのことを考えているに違いないと思う。再生産がすぐに出来る、ささやかな夢を大切にするというのは人生を生き抜く上で今後更に大切になると思った。ESP事務局masa (キャリアカウンセラー・社労士)
2005年02月10日
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夢と現実について、1時間かけて、書き終わったところ、なんと全部消えてしまいました。はあー、夢幻のごとし。我ながら、いい感じで書けていたのに。あ、明日のテーマは決まり。どんな文章に変わるか楽しみです。JOBデザインスクエア開催!!こちらをクリックESP masa
2005年02月08日
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土曜日は、エンカウンターグループの勉強会に出席。エンカウンターグループを直訳すると出会いのグループということになって、むむむ。ということになるのですが。10人前後の人たちが集まって、円く輪になって、色々なお話を長時間かけて行うのがエンカウンターグループというものです。土曜日は、午後1時から5時までのショートエンカウンターでありました。4時間かけてずーっとお話しするわけで、長いようにも思えますが、本来は、3日間くらいかけて行うのが普通です。色々なお話がされますが、みんな心から話し心から聴くと言うことが大切にされます。10人程度のお話の輪の中は、何でも話せる安全地帯になっています。話の内容は、勿論外部では一言も話しません。でも感じだけ言えば、深い話もあれば、みんなで笑うこともあり4時間が長くは感じません。初めて会う人ばかりでも、グループの中では自由に発言したり感想を言ったりすることが出来ます。今度、ESパートナーでは、ジョブデザインスクエアというイベントを行うことになっています。2月28日月曜日は、高松しごとプラザで13:30~16:303月 3日水曜日は、丸亀ハローワークで13:30~16:30という日時で、仕事について考えて話し合うイベントです。香川労働局・香川県などにも共催頂いております。JOBデザインスクエア開催!!こちらをクリック今回のイベントでは、仕事に対する自分のイメージというものを大切にして取り上げていきます。○お問い合わせはTEL087-844-8801 ESパートナー事務局へ各日定員30名、参加者募集中です。いきなり宣伝になってしまいましたが、このジョブデザインスクエアでも、グループエンカウンターを行います。時間の関係でミニミニ・エンカウンターになりますが、ガイドイメージというテーマを設けるので、お話はしやすいと思います。色々な人と、仕事についての色々な話をして、すっきり元気になってみませんか?このグループエンカウンターというもの、一部心理学系の人たちのあいだでは、20世紀最大の発明!とも言われているのですよ。ESP事務局 masa(キャリアカウンセラー・社労士)
2005年02月07日
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昨日は昼過ぎから、ESPスタッフのハヅキさんにカウンセリングしてもらいました。カウンセラーもカウンセリングしてもらうの?なんて思う人もいるかも知れませんが、とても大切なことなのです。専門用語では、スーパーバイズを受けるなんて言います。(正確には、ちょっと違うけどまあいいか・・・)どんな感じかというと、最初はやはり少し緊張しますね。けれども、しばらくお話を聴いてもらううちに、思いがけない自分の気持ちに気付いたり、大学生の頃のことを思い出して話したり、そんな風にしているうちに、みぞおちのあたりで何か締め付けていたような感じがとれていったり、背中から肩のあたりの力が抜けていくように感じます。1セッション50分、20分過ぎからはほとんど時間のことは忘れています。あっというまに、50分が過ぎてしまいます。終わった後はどんな感じかというと、肩をしきりに揺すって、「はあー、なんか楽になったなあ・・・」この感じは今日もつづいています。(何だかマッサージを受けたような感想ですね 笑)昨日の夜は、久しぶりに、わりとはっきりとした夢を見ました。古い車、舗装していない道、数年前に亡くなった祖父母。夢判断のことはよくわかりませんが、久しぶりでまとまった夢でした。masaは、夢について色々と判断されるのはあまり好きではありません。判断についての話を聞いていると何となくイライラしてきます。(何故だろう。人の夢を勝手に型にはめて分析するな!などと思ってしまう。)夢をああだこうだと「分析」するのに反対!夢はもっと革命的なものなんだよ!と言った。フェリックス・ガタリに賛成!!お話を聴くというテーマからは、少しはずれてしまいましたが、お話を誰かに聴いてもらうということは、やっぱり何らかの効果があるのです。しかもこれは、精神や心の問題だけでなく・からだにも効くのです。デカルトという哲学者がいます、「我思う、故に我あり」という言葉で有名な中世後期の大哲学者です。ヨーロッパの近代は、デカルトから始まった。といってもいいかもしれません。科学や近代の確立に、デカルトの哲学はものすごく大きな影響を与えたと言われています。ところが、このルネ・デカルトという大哲学者は、精神と肉体は、まるで別々のもので、精神の方が肉体に言うことをきかせるのだから精神の方がえらいのだ。という考えを広めたのでした。どうも、カウンセリングとその効果について考えてみると、精神と肉体は別々のものではないという経験則による実感があります。本当かねえ・・・?デカルト大先生!(むかし、高校の教科書に載っていたデカルトの顔が何だかうそつきっぽく見えた記憶があるのです。)またまた、難しそうな方に脱線してしまいました。お話を聴いてもらうことで、身体にも効果が現れる。肉体の状態は精神に影響するし、精神の状態は肉体に影響する。じつは、精神も肉体も、同じものの別の側面からの見方かもしれないなどと思ったりするのです。逆に言えば、体を適度に動かすスポーツなどがこころの健康にも効き目をもたらすと言うことですね。(masaは草野球が好きです。下手だけど。)今日の実感は、お話を聴いてもらうと心だけでなく体にも効果が現れると言うことでした。(ハヅキさん、ありがとうございました。)最後に、ジャック・ラカンという精神分析家の言葉を一言。「人間の深層心理は言葉で出来ている。」むむむ・・・お話とこころとからだのつながりは深い。ESP 事務局 masa (キャリアカウンセラー・社労士)
2005年02月04日
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昨日はメンバーのたまさんとブログに地図を載せる作業をしました。お互いにネット系の知識はあまりない方で、HTMLなんてわかりません。JPGにするにはどうしたらいいんだろうとか、大きさはどうすればいいんだろうとか。ああだこうだと話しながらも1時間かけてやっと出来ました!こういう協働ってとてもいいですよね。組織で働いていて一番嬉しいのは、何人か一緒に、何かを創り上げること、たとえ単純作業でもmasaは何となく嬉しくなってきます。子供に頃に言ったキャンプや草野球のチームみたいに協働できないだろうか?仕事はもっと「面白いもこと」「注目すべきこと」「重要なこと」(by ドウルーズ+ガタリ)にならないだろうか?などと思います。さて、前振りが長くなりました。お話を聴くためには、環境が大切だと言うことを前回に書きましたが、この環境とは何でしょうか?ロジャーズ派のカウンセリング理論では、「共感的受容」ということが言われます。共感的にお話しする人を受け入れると言うことですね。ですから、基本的にお話を遮ったり、詮索するように質問をしたりということはあまりしません。どちらかというと、お話しする人のお話の後からついていくというスタイルになります。そうして、相づちしたり、言葉を繰り返したり、まとめたりしながらお話の環境を整えてゆくのです。どちらかというと能動的な聴き方といってもいいかも知れません。そして、カウンセラーは、心からお話を聴かなくてはいけません。自分の感情と出来る限り一致しながら共感的であることが大切なのです。(これを自己一致といいます。)そうしてお話を聴いていると不思議なことに、いつの間にか、お話は心の深いところから語られるようになってゆくのです。何だかmasaは、いつも、「北風と太陽」のお話を思い出します。お話をする環境は、もっと言えば、人と人との関係性の中で生まれてゆくのです。しかしながらカウンセラーは、完全に同情してしまってはいけません。これでは、ミイラ取りがミイラになってしまいます。ニーチェの言葉に「同情してはいけない」というものがあります。「友のために何かしてあげたいと心から思うなら、ふかふかのベッドではなく、堅い野戦病院用のベッドになりなさい。」とニーチェ先生は言っています。そうして、自分の心の動きもきちんと捉えておける冷静な目も持っておかなくてはならないのです。同情するのではなく、共感的(的が重要です)であれ!ということですね。カール・ロジャーズというカウンセリングの大改革者は、元々は、大学で農学を学んだ人だったそうです。なるほど!環境を整えれば、植物だろうと人間だろうと伸びてゆくはずです。葉をつけて、花を咲かせ、実を実らせる。そんな前向きな、お話を聴く者でありたいと思います。明日もつづく(かもしれません)ESP事務局 masa(キャリアカウンセラー・社労士)
2005年02月03日
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昨日は少しむずかしい話になってしまったかも知れません。(ゴメンナサイ、masaは難しい人だね、とたまにいわれます。)じゃあ、「お話を聴く」というのはどういうことでしょう?また、少しずつ考えながら書いてみます。誰かのお話を”きく”ときのきき方には、何種類かのきき方があります。聞く・訊く・聴くで違うのだということを、わたしも習ったのですが、聞くは普通に聞いている状態、訊くは訊(たず)ねるということでのきく、聴くは耳を傾ける(傾聴)心から聴く、心を聴く(心が漢字に入ってますね!)という状態とよく言われます。カウンセリングマインドの”きく”の、中心になるのは”聴く”ということになります。耳を傾けて、心から聴く、心の声を聴くということです。”聴く”ということ、これが意外にむずかしいのです。日常生活でも、「この人の話は聞きたくない」と内心思っているとほんのさっき聞いたことでも何を聞いたのか憶えていないと言うことはよくあることですよね。集中してお話を傾聴する、相手がお話ししやすい環境を整えるということがとても大切になってきます。お話を聴くことがどうしてそんなに大切なのでしょうか?誰にも、お話を聴いてもらって、「何だか心が落ち着いた」とか「何だかすっきりした」という経験があると思います。お話の出来る環境ができあがれば、ひとは、心からお話を始めることが出来るのです。そうして、心からお話しすることが出来れば、それは自分の心の中にある感情や考え方などに気がつくことになるのです。気がつくことが出来れば、何か解決方法が見つかるかも知れませんし、動き出すことが出来るかも知れません。心の中を明確にしたり、整理したり、そんな力がお話の力の中には込められているのです。臨床心理家の河合隼雄さんが、「お話の力」ということをおっしゃっていて、以前からずーっと気になっていたのですが、カウンセリングということを始めてから、ようやく何となく少しだけわかったような感じがするのです。今日はここまでまた明日 (つづく) ESパートナー masa (キャリアカウンセラー 社労士)
2005年02月02日
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わたしたちESパートナーの基本は、カウンセリングマインドをもって、キャリアや仕事のことを考えようというものですが、カウンセリングマインドとは何でしょうか?一般的に思い浮かぶのは、「話を聴くこと(傾聴)」「共感的な理解」などの言葉でしょうか?それとも、もしかしたら、カウンセリングというと、心の中を分析されて、診断されるようなイメージを持っているかも知れません。後の方のイメージを持っている人もかなりいて、カウンセリングを受けているといえば、「病気なんだ!」という感じ方をしてしまう人も未だに多いようです。カウンセリングに関係する、色々な考え方の中には、フロイトから始まった精神分析などのように、科学であろう・医学であろうとしたために、一時期、人間的な関わりなどを出来るだけ排除しようとしたようなことがあったり、医師でない者は、精神分析をさせないなどの閉鎖的な動きがあったりなどどいう時代があったようです。そうして、精神分析のイメージがカウンセリングに重なってしまった部分は、日本においては大きいように思えます。精神分析から発達した流れは、「サイコ・セラピー」といいます。(勿論フロイトは、深層心理や転移などを発見したとてもえらい人です。)ところが実際には、「カウンセリング」という言葉は、20世紀の初め頃、職業指導運動の中から生まれてきたものなのです。最初にこの言葉を使ったのは、パーソンズという人物でボストンの職業指導局の相談員のことをカウンセラーと呼んだのが始まりなのです。つまり最初のカウンセラーは、現在のキャリアカウンセラーだったわけですね。何やら病院のにおいのする、サイコ・セラピーと、カウンセラーの語源がかなり異なることを分かっていただけたでしょうか。その後、精神分析などの、科学であろう・医学であろうとする方向とは別に、これもまたアメリカの話ですが、ロージャーズなどの人間存在や関係性を中心にした心理療法が生まれてきました。こちらのほうは、分析や診断を重視するのではなく、「人間存在や関係」を重視する立場として、ヒューマニスティック心理学と呼ばれるようになりました。現在のカウンセリングのイメージは、どちらかというと、ヒューマニスティック心理学のイメージで捉える方が増えてきたのではないでしょうか。最近では、住宅メーカーのCMで、「我が家のバスルームが、カウンセリングルームになる。」とか、化粧品のメーカーも「カウンセリング・ファースト」などという宣言をしたりして、随分カウンセリングのイメージも変わってきたなあと思います。ちなみに、欲求5段階説などで有名なマズローが、ヒューマニスティック心理学の創始者といわれています。その他にも、パブロフの犬で有名な条件付けや、経験と行動の科学に基づく心理学を行動心理学といいます。一般的に精神分析を第1、行動心理学を第2、ヒューマニスティック心理学を第3の心理学とよんだりもします。では、ESパートナーのカウンセリングマインドとは何でしょうか?やはり、「傾聴」「共感的理解」ということが、基本中の基本になります。カウンセリング理論にも色々ありますが、「お話を聴く」姿勢と「人間的なあたたかさのある関係」これだけはどうしても外せないことなのです。その、カウンセリングマインドの上に、経済的なことや法律的なことやキャリアに関するアドバイスも付け加えながらも、そこに囚われ過ぎずに、あなたを継続的に支援していくということが、ESパートナーがやっていこうとしていることなのです。
2005年02月01日
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土曜日曜とお休みしてしまいました。土曜には、ESパートナーの打合会があり、高松市春日町の事務所で9名が忙しい中参加しました。心理的なサポートやキャリアの支援を中心にするESPの事業。支援のあり方などについて大変勉強になった打ち合わせとなりました。さて、1年半ほど前からのつづきのお話。その後、EAP(従業員支援制度)機関的なNPOをやりたいねえと言っていたものの、なかなかそう簡単にはいかないものです。その後、ある者はコーチングの、ある者は、カウンセリングの勉強や実践を、と言う具合に少しずつ実力を付けながらもNPO立ち上げの時をそれぞれに心のどこかに持ち続けていたのです。更に時が経って、産業カウンセラーの講習で出会った仲間たちが、ESPの構想に賛同してくれることになったり。(これはとても大きな力になりました。)また、中小診断士や弁護士の臨床心理士の方などからも、「協力しましょう!」との賛同を得ることになったのでした。そういう訳で、昨年、平成16年12月中旬に設立総会を開催、そして、香川県へのNPO法人認証申請ということになったのです。簡単に紹介すると、ESパートナーの設立までの動きはこんな風になっています。まだ動き始めたばかりのESパートナーですが、新聞の社会面記事に取り上げられたり、それなりに注目をされたりもしています。現在のメンバーは16名、さあ、進んでいきましょう。
2005年01月31日
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初めまして。ESパートナー事務局のmasaです。 えーと。ESパートナーってどんなNPOなのか?設立までの経緯などからお話ししたいと思います。 まず最初のきっかけは、香川県高松市の某団体で、「キャリア・コンサルタント講座」と言う講座を受講したところ。なかいさん、とくさん、わたしの3人がたまたま一緒になったことがきっかけでした。 3人とも社会保険労務士で、法律や制度のことはそれなりに詳しいと同時に心理に関してもいろいろと興味を持っていたのでした。 そして、働く人の支援をするには法律や制度だけでなく心理の面が大切だと3人で色々と話し合ったのでした。 アメリカでは、EAP(従業員支援制度)機関というものがあって、働く人の心理的な支援を中心に、経済や家庭や法律などの問題についても支援をしているらしい。主要な企業の80%以上でEAPが採用されていて、従業員が元気になることで、企業も業績が向上しているということなども知ったのでした。 そんな訳で、「じゃあ、わたしたちで四国初のEAP機関を創ろう!出来れば、営利を追求しないNPO法人で!それでもって、働く人たちや社会に少しでも貢献しよう!!」などと言うことを話し合ったのが、1年半ほど前の夏のことだったのです。きょうはここまで。(つづく)
2005年01月28日
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