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テーマ: 實戦刀譚(65)
カテゴリ: 實戦刀譚

“戦時眼”で見た正宗


 正宗製造の径路


 ( 前半

 さて右の『名物牒』の検討であるが、
これこそは正宗を粉飾作為した物的証拠物件ともいうべきものであって、
正宗及びその一類は五十六刀、焼失されたものは別に録されている。
いずれも御物または華族富豪の秘蔵するところである。
この名物牒の本帳は、絶対に他見を許さず、
一門の生命にかえて極秘に保ってきたものだというが、
明治初年に一類の間にもめ事が起こって、そのどさくさに、
太閤下賜の銅印その他の秘録と共に四散した。
そうした事から秘事一切が明るみに出てしまったのである。
 以下本稿に必要なもののみについて説明を加えてみよう。
『本庄正宗』 磨上無銘、二尺一寸五分半、徳川将軍代々伝承。
御物。由緒は別項に記載してあるから省略する。(国宝)
『小松正宗』 無銘、九寸七分半、前田侯爵家伝来。
前田利常が正宗だといって手に入れ、本阿彌光甫に見せたところが、
大方そうでしょうくらいの生返事で、
さて鑑定にやってみると、延壽國資だという。
二度目の鑑定で行光となり、三度目に正宗になったと書いてある。
『朱判正宗』 朱銘、一尺二分、紀州徳川侯爵家伝来。
元和二年に、本阿彌光徳が鑑定して朱銘を入れたもの。
『前田正宗』 無銘、九寸五分、徳川侯爵家伝来。
徳川秀忠将軍の女が小松中納言利常の簾中〔れんちゅう〕として入奥の節、
御供の大久保相模守に対して、利常の兄利長から与えたもので、
由来不明の刀だが、
正保年間にやっぱり本阿彌光徳が鑑定折紙をつけたものである。
『夫馬正宗』 在銘、八寸九分半、
御物中の番外物で、すでに記述してあるから省略する。
『伏見正宗』 無銘、八寸五分、前田侯爵家伝来。
同じく元禄三年の鑑定刀である。
『日向堅田正宗』 無銘、八寸二分半、紀州徳川家伝来。
石田三成所持、水野日向守が分捕ったのであるが、その後鑑定の序に、
光徳が勝手に護摩箸の彫り物を施したものである。(重要美術品)
『道意正宗』 無銘、八寸七分、御物。
もと蓮華の彫り物があったのを、本阿彌光澄がそれをすき取った上、
元禄十年に鑑定したものである。
『宗瑞正宗』 無銘、八寸六分、御物。
「光甫申候は大坂に有之時は行光にて
 御鞘に をたい 行光と光徳筆跡にて書き付あり。」と記されている。
『小池正宗』 無銘、一尺二分半、御物。
本多美濃守が上京の折、京都小池通りという所の旅館で手に入れたもので、
延寶七年に家綱将軍に献上した。
寛政六年の十一月に、本阿彌の鑑定で白鞘へ納め、正宗と書いたものを、
将軍から仙洞御所へ奉献、そのまま御物になったものである。
『早川正宗』 無銘(象眼銘)、二尺三寸七分半、御物。
早川傳右衛門という者が持っていて、江戸へ売りにきた。
鞘もなくて反古紙に包んできたものを、道具役人から光甫(本阿彌)にたのみ、
「是は正宗にて御座候御家へ召上られ候」様に申したところが、
そのようにとの御意で、即ち正宗と決定したというのであって、
これも寛政六年十一月に、将軍から禁裏御所へ奉献したもので
斯様なものと知って正宗として奉献するなどとは、
不敬も甚だしいといわねばならない。
『不動正宗』 在銘、八寸六分半(八寸二分半)尾州徳川家伝来。
これは、本阿彌光二の好みで、
野間玄琢に命じて後から彫物をさせたものである。
『毛利正宗』 無銘(象眼銘)、一尺六寸三分、土岐子爵家伝来。
『児玉正宗』 無銘、八寸三分半、尾州徳川家伝来。
慶安の頃本阿彌の鑑定折紙(重要美術品)
『庖丁スカシ正宗』 無銘、七寸一分半、延岡内藤子爵家伝来。
名古屋の小道具屋で、元十疋(二銭五里)で買ったものだと正直に記してある。
 (国宝)
『庖丁正宗』 無銘、八寸、尾州徳川家伝来。
名古屋城の天守閣から出たもので、承應年間の鑑定。
『簾屋正宗』 (簾の字を蘆と書いた本もある)朱銘、八寸分半 (原文ママ)
島津侯爵家伝来。元禄十年鑑定。
『籠手切正宗』 磨上、二尺二寸六分、御物。
はじめ貞宗、次に行光、明治に正宗と鑑定。
『後藤正宗』 象眼銘、二尺二寸八分、前田侯爵家伝来。
「後藤庄右衛門所持、もと光伯(本阿彌)もとめつかはす。
 表裏樋、光徳極め也」とある。
『中務桑名正宗』 象眼銘、二尺二寸半。御物。
本多中務桑名在城の時「光徳取次にて御求め、中心表に本多中務所持、
 裏に正宗本阿彌と象眼に入る。光徳也。」と記してある。(重要美術品)
『池田正宗』 一尺二分、松浦加賀守(前田)家伝来。
「京都町人蓮池常知と申者所持、光二取次にて
 細川兵部大輔藤孝入道玄旨幽齋金二枚に御求中務殿へ傳
 池田左衛門輝政卿黄金百枚に御求め秀忠公へ上る。」とある。
『池田正宗』 (別口)象眼銘、二尺二寸二分、尾州徳川家伝来。
應安三年の鑑定折紙付きである。
『福島正宗』 象眼銘、二尺二寸九分、浅野侯爵家伝来。
「由緒不知、もと光淳(本阿彌)所持にて七百貫也。」とある。
『武蔵正宗』 磨上、二尺四寸四分半、御物。
「本阿彌光瑳名物記(別巻)に紀伊中納言殿御道具の内に有
 之は亞相公未だ黄門の御時也(中略)宮本武蔵所持故と申傳候。」とある。
然るに、光察は、これは家康公から進ぜられたものだといい、
また光澄は、紀伊大納言の御家中から出て、江戸で召し上げられたから、
それで武蔵というのだと三つの異説を書いている。(重要美術品)
右の外、岡本正宗、和歌山鷺森正宗、金森正宗、九鬼正宗(国宝)、
倶利加羅正宗、備後正宗、堀尾正宗、一庵正宗、庖丁正宗(国宝)、
會津正宗、若狭正宗、榊原式部正宗、太郎作正宗(国宝)、
島津正宗、観世正宗、敦賀正宗、石田切込正宗、大垣正宗、
の都合四十二振りで、外に焼失物が十八振りあるけれどもそれは略する。
(幕府腰物奉行本は、政策的記述の本といわれている。)
 つぎに、特に参考となると思われるから、
名物牒の中の他の刀二、三についても記してみる。
『朱判貞宗』 (正宗弟子)
「元光刹所持、其後土井大炊頭殿へ行くと光甫申さる。」(重要美術品)
『龜甲貞宗』 「光甫求め南部殿へ賣る。」(国宝)
『北野江』 (義弘。正宗弟子)
「攝泉之堺にて光瑳光益両人にて求め光徳千五百貫に究る。」
『五月雨江』 「元光瑳取出し大方宇津の目利也。
 初め刃肉丸く身分難し、光瑳肉すき研 (原文、石に刑) 直し光室此作に極る。」
 (国宝)
『御掘出し貞宗』 「正宗之御目利を光徳に被仰付貞宗に究上る。」
 以上のごとく、本阿彌の人々は、
思いのまま正宗及びその一類を製造したもので、
ことに勝手に自分の好みで彫り物を入れたり取ったりし、
かつまた無銘の相州物を掘り出してきては、正宗、義弘、貞宗などの極めをなし、
朱銘金象眼を入れては高価に売り渡したのである。
その内でも、最初宇津と見たものを、肉をすきとり研ぎ直して郷義弘に極めた事を、
公然と記しておくのなどは、随分と人を喰った話である。
しかしてこれが“国宝”に指定されているのだ。
これだけの悪徳行為生産の一形式として、
正宗否定論が台頭してきたと見ても、当然な事ではあるまいか。
 いずれは、正宗に化けている幾多の名刀も、
再検討の下にもとの姿に戻される時が来る事であろう。






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Last updated  2012年12月24日 21時00分10秒


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