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July 25, 2011
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人が物事をコントロールできるなど、思うこと自体が傲慢な気がしてならない。望まずも病気になる。生きたいだけ生きられるわけではなく、死にたい時に死ねるわけでもない。考えてみれば、もっとも身近なものすらどうにも出来ない我々が、何かを本当にコントロールできるなど、どうして思うことができようか?そもそも私たちは、制御不能な世界の中で生きている。それこそが、有難いということの意味なのだと思う。ことが起こる時に、天災か、人災か?きっとその意味は、どこかで同じこと。私たちに、把握できることなどたいしてないことを知っておくことこそが、私たちに求められた、必要なことなのでしょう。
June 22, 2011
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どうしたって考えるとき、思考は不幸になりたがる。だからそれを振り切るのなら、想像を、現実に引っ張り込めばいい。理想が現実に決して負けないように、必死で想像すれば、想像の同等か、それ以下にしか現実はなれない。所詮現実など、我々の想像の足もとにも及ばない。そう思いながら考えると、想像の大切さも現実の不完全さも身に染みて来る。
June 20, 2011
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悪いってわけではない。ただ。原因は、私にある。善悪の判断ではなく、悲しみを生み出した原因。良い悪いではなく、純粋な原因。それは、間違いなく私。どうしたらいいか?きっと、ずっと、わからないこと。
June 19, 2011
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自分に何が出来るのか?自分は何がしたいのか?そして、それよりもっと、自分には何が出来ないのか?前者を知るより、後者を知るのは難しい。前者を目指すより、後者を諦めるのは、もっと難しい。居て良い場所は、どこにある?
June 19, 2011
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もともと我慢していないように見えるけれど、その通り我慢していないけれど、ただ、相当に、気は使っているぞ、私。そして、その気を使うことが、少々面倒になっているぞ。そんなに言いたいことを言ってきたわけではなく、そこそこ言わなくちゃいけないことをしゃべってきたが、そろそろ言いたいことを言いまくるぞ。と、思ってみたりもする。もう、庶民には、合わせない。この覚悟は、自分へのものでしょうね、きっと。出来なかったのも、自分への弱さでしょうね。ちょっとだけ、エンジン、吹かしてみようかしら??
June 15, 2011
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本気で、特にここ十数年は、言葉に注意を払ってきた。どんなに気をつけて転がしても、言葉はサイコロのようなもの。どんな目が出て、相手がどんなマスに進むかは降った時、その人には分からない。だから人には、言葉の不足を補うために、ACヨロシクの、抱きしめるという会話。が与えられているのだと思う。言葉というサイコロの表せないものを、人に伝えるために。もう一度言うが、私が言葉に最大限の注意を払うように尽力して久しい。その根拠、それは、自分には得られないものがあるからに他ならない。そして、自分には与えられないものがあるからに他ならない。私が言葉に注意をするわけは、私がそこにすがらなくては、人を愛することすらままならないからに他ならない。そんな現実がある。私に対して、愛する術を思うとき、与えられた選択肢には、唯一言葉だけがある。それが私の歩んだ道だったから。言葉に怯え、言葉に傷つき、言葉を疑い、言葉に迷う。それでも言葉にすがることが、進むことのできる道だった。本心じゃない。事実として。人に届かせる武器が言葉しかなかった。そういうこと。だから、その言葉が太刀打ちできない事象に突き当たるとき、途方もない虚無感と喪失感に襲われる。何もかも無能だと、突き付けられたような気さえする。出来ることなど、生きた現実の中では何もないと、宣告されたような気がしてしまう。言葉が万能だなどと思う気はない。でも、言葉にも可能性があるのだとは、思っていたい。動物には心が通じる。心の通じぬ人に、言葉が通じないとき、人は何で想いを届ければいいのか?人は無能だ。そんな気持ちが湧きあがって仕方ない。そんな存在に、与えられたものはなんであろうか?
June 11, 2011
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通勤時間、スーツに身を包み、疲れ切った顔の同年代を見ると、本当にこの人たちが日本を支えているんだなぁ。と実感する。そして、その人たちの左指に大概光るものがあると、これが人生のマニュアルなのだなぁ…と深く頷く。「遠くに来てしまったな」そんなことを思う。彼らは思うかも知れない。私を見て、お前は自由でいいな。と。でも、私は思う。言えば君たちが疑問なく歩んだ道。私はその、何もない平地で、転んだのだと。立ち上がるには大きな犠牲を払わなくてはならないほどに、転んだのだ。本当に自由であるとは、何だろうか?疑問なく、忠実に、歩めること。そのことこそ、本当の自由ではなかろうか?私とて、君たちがそうであるように、自分にとって転ばない道を歩んだ結果、今ここにいるだけのこと。決して籠から飛び立ちたかったわけでもなく、檻から逃げ出したわけでもない。ただ、普通に歩いて来たら、誰も来ない場所にいただけのこと。それが、社会には愛されない場所であっただけのこと。最近、良く考えるようになった。もっと飛び出さないといけないと。振り切らないといけないと。一緒でいようと思う限りつらい。一緒でいたいと思う限りつらい。ならば、そう思わないこと。根底から価値観を変えること。それしかないのではないか?そう考えるようになった。ほとんど冷静に、少しだけ卑下して、所詮。生きるなど、そんなものだと考えてみる。これでも一生懸命、生きていい場所を探し続けている。
June 6, 2011
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劇団四季は数えるほど。宝塚は未体験。要はミュージカルに対する経験値は未熟。そんな私が巡り合った最高傑作。市村正親が見たかった。大竹しのぶがもっと見たかった。そして2人の掛け合いが見たかった。そしたら、そしたら、この舞台。高いだけある!どうしようもないほどスゴイ。月に一回、素敵な舞台を観はじめて久しいけれど、これほどの感動は、藤原竜也の身毒丸以来かもしれない。大竹しのぶって、こんなに歌が上手いの?ソニンって、アイドルじゃなかったの?武田真治って、他の舞台でこんなによくなかった。そして市村正親って、本物の舞台俳優でしたね。知ってましたが。才能と才能が共演すると、相乗効果が相まって、粒の一つ一つが輝きを増す。どうしてこんなに素晴らしいのか?終始そんな気持ちが消えない舞台。1200人の会場全部を圧倒する力がある舞台。こんなに素敵なら、何度でも観たい。何度でも魅せられたい。自分の行く先に何を見たとしても、このツキイチは、止めずにいよう。そう思えた33歳の春でした。
May 30, 2011
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悪意があったわけじゃない。ただ、私の設定したハードルが高すぎただけなのかもしれない。職場での出来事。とある人が筆ペンで名前を書いていた。そのレベル、明らかに素人。そしてその人の発言。『前の職場では、贈答品に掛けるのし紙の名前を書く担当だったの。』私の中で整った。それは大変でしょうに。このレベルでのし紙の名を書くなどと…。そして言った。「あら? 私たち素人には、柔らかい筆はキツイですよねぇ。」一瞬の沈黙。明らかに開いた亀裂。『え? 私、硬筆検定1級。。。』その後、私がバランスを駆使したフォローをしたことは言うまでもない。だって、決して上手ではなかった。気の利いた字くらいなら私でも書ける。でも謙遜する。それは、本物は本物であり、私がそれではないことだけは知っているから。祭事の芳名帳に自分の名前を記すときに恥ずかしくはない。でも、のしはキツイ。それくらいの羞恥心は持っているの、私。いやはや、人の設定した天井の高低。もう少し配慮するべきでした。私にとっては中二階でも、人にとっては二階、三階になることがある。さて、人は吹き抜けの天井を、何階の天井と呼ぶでしょう?もしかしたらもう少し自分に自信を持っても良いのかもしれないし、もしかしたら私が自信を持つレベルは最高点なのかもしれないと、心をすり減らした一日を振り返る今日。
May 28, 2011
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本当に懲りない。懲りないから、前に進まない。一歩進んでは反省して一歩戻りの繰り返し。チータのように三歩進んで二歩下がるなら良いけれど、一歩進んで一歩下がっているようでは、結局前に進まない。悪くない感度は、きっと余計な電波も拾っている。冷静になれば、得られないことも失うことも怖くないものにまで、目の前に突き付けられただけで怯えてしまう。この性格、いかがなものか?いつでも振り切りたいと願い、そのために努力もしているつもりだけれど、結局、一歩進んで一歩下がるの繰り返し。この状況、どうしたら良いのだろう?失って惜しいほどに得たものなどないのに。どこかで失うことへの恐怖が先行する。どこかで戦うことへの恐怖が先行する。どこかで自己防衛で、どこかで足かせであることに間違いはない。腹の据わるスイッチが、入ったままにバカになればいいのに。
May 27, 2011
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人の言葉を聞くとき、その言葉の行く先を考えることがある。含蓄のありそうな言葉を人がこぼすとき、その言葉の出処を考えることがある。そしてこれらを考えたとき、その行き先も出処も、実は同じところにあることに気づく。円を描く想いは必ず、自らの想いを経由し、言葉が本人に帰属する。そして、だからこそ、その言葉に厚みと重み、そして信頼が生まれる。確かな出発点を持たないものが目的地を持つことはなく、言葉は、人に届けるために存在するという事実。それ以外に、言葉は言葉の存在意義を持たない事実。人から発せられたその言葉の、すべてが個人に属するか?信頼に足るかどうかを判別するためには、そんなことを考えてみるのも良いこと。言葉の意味を知らぬ人に、教わる言葉などないことを知るのは良いこと。
May 23, 2011
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実際、私をココロスキャンしたら、そこいらの怠慢女子より格段に乙女なのは間違いない。我ながらこの年にしてこの思考回路。私が私じゃなかったら、真っ先に抱きしめてあげたいのは私。そう思うことなんて、一夜や二夜じゃない。ただ、そんな私。潔いことを男らしいと言うのなら、相当に男らしい。即断即決、後悔あれども再考なし。そこいらの平凡男子よりも格段に、女子の求める男子要素には強い。諦めが早いとか、振り返らないとかそういうことじゃない。それらも全部含めて、受け入れる。私の決断、決着は、そういう面に優れている。だからなのか? なのになのか?誤解が生んだ理解がしばしば私を猛烈にストレスで囲い込む。いわゆるグズグズして、決断力もなく、何かあれば人の責任で、顔が見えなければ強気、対面になれば弱気。そういう輩が、私を同類と時に勘違いして、私に近づいてくる。そして、私はストレスがたまる。甘いものの散らかった場所で蟻を踏むなと言われたが如くに。そもそも私の人生、庶民とは調和しない。だから、私が人に共感したりされたり、または自分が集団歯車の一つだと認識したことは一度もない。もちろん、相手も私がその一つだとは思っていない。ずっと自分だけで考えて、自分だけで判断してきた。リスクは承知、でも続いている道は、一本しかなかった。そうして考え、そうして生きてきたから、例え震災の起こったこのような機会でも、誰が悪いとか、何が悪いとか、グズグズ言い続けていることが好きじゃない。税金を納めている程度で、何かが私を救ってくれるなどとは思った試しがない。守られるのが当然だとか、救われるのが権利だとか、そう思えるだけの世の中に対する絶対性とか当然性とかが、私にはない。きっと、そんなに強く世の中と繋がっていない。だから責任の帰る場所は自分になる。何が起きようと、何がひっくり返ろうと、私に発生するすべてのことの責任は私に帰結する。この想いが、私を苦しめることもありながら、私を保たせてきた。何もかも、最後に帰る場所は自分。そのことを知るたびに、どうしようもないイライラにさいなまれることになる。私の考えが、彼らの怠惰に膨張した思考回路を突き破ってしまわないようにいることに対して。
May 17, 2011
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どれだけの人がつかんでいるかと言えば、その数はさほど多くはないと思う。では、どれだけの人がつかんでいないことを認識しているかと言えば、同じようにきっと、その数も少ないと思う。だから、つかんでいないことを認識したが最後。穴のあいた日々が、そこから始まることになる。人はその穴を埋めるために、一人は金銭を求め、一人は人を求め、一人は神を求めるのでしょう。私は、どこにいる?もしもそれを満たす何かを見つけたのなら、それほどの幸せは、ないのでしょう。ないことを知り、あることを知ることは、何も知らないよりも遥かに大きなこと。ただ、ないことだけを知るのなら、何も知らない方がいいのかもしれない。私とは?行きつく場所のない想いは、どこかで、何かに、抱擁されない限り、己を締めつける真綿の縄。理解だけでは越えられないものがある。それを救うのが、何かによる抱擁なのでしょう。
May 12, 2011
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テレビで東電が謝罪をし、それをメディアがまた、どうしようもなく露骨に取り上げる。掻き立てる、怒声、罵声。憐みの、嘆き、涙。そしてメディアを意識してか、感情の変化かは分からないけれど、膝をつき、謝罪する東電最高幹部陣。違和感しか、私の中には生まれない。この違和感が私だけのものであろうとも、私にはこの感情を無視することは、できそうもない。3月11日。未曾有の大震災が日本を襲った。東北地方の太平洋側沿岸は、想定を超えた津波に飲まれ、崩壊した。波は堤防を易々と越え、そのもっと先の、そのまた先の、避難すべき高所までを飲みこんだ。言葉通りに、誰もの予想を超えた、人智を超えた震災が起こった。その被災地に、東電があり、原子力発電所も多大なダメージを負った。放射能が漏れ、半径20キロ圏内には避難勧告が出された。目に見えないものに、姿かたちを保つすべてと引き離された人びとが生まれた。放射能の波にのまれた被災者が生まれた。悲劇だと思う。見聞きするわずかな情報からも、その心中の痛みが伝わってくる。でも、それでも、私には、今の東電バッシングに対する想いには違和感が拭えない。言えば、どうしろと言うのだ。誰も想像し得なかった震災に見舞われ、誰も想像し得なかったからこそ、誰も想像していなかった事態が発生し、誰も想像し得なかったからこそ、悪戦苦闘する今がある。乱暴に言えば、当然のことではないだろうか?それなのになぜ、東電だけが矢面に立たされなければならないのか?私には理解が出来ない。放射能に被災した地域の人が、乱暴に東電幹部を罵る姿を見て、土下座を強要する姿を見て、キツイ表現だと承知で思う。人の底が見えると。美しくないと。誰もが原子力発電の恩恵にあずかってきた。福島の人も、東京の人も、関東全域の皆が同じように。そして人びとは認識していた。現地の人はもちろんのこと。福島には沿岸に原発があると。それを知った上で、私たちは日常を送ってきたのだ。勘違いされないように言っておく。だから、福島の人は承知の上だろう。と言うのではない。だからこそ、東電を責めることが正当なのではなく、誰が補いの手を担うのかを考えるべきだと言うのだ。東電を責めるくらいならば、電気代などと言わずに税金を上げればいい。「頑張ろう日本」「一つになろう日本」と気易く言っているわけではなかろう。ならば消費税を10%にでも20%にでも上げて、福島の人の生活を支えればいい。被災者の生活を支えればいい。誰も予想しなかったのだ。誰も苦言を呈さなかったのだ。誰もが、陽気に生きていたのだ。その責任のすべてを東電に負わせようなどとは、どのみち虫の良すぎる話ではないだろうか?波にのまれた者は想いをぶつける先を持たず、放射能にのまれた者は拠り所のように時事的弱者を攻撃する。これが果たして正しい構図だろうか?果たしてこれが、人が震災から学んだことだろうか?想いを刃にすることなく、想いを杖にして、支え、示し、歩く。それこそが多くの犠牲者が残された人に託したものではないか?そんなことを思えて仕方がない。人は、人に与えられたものを、受け止められるように出来ているはずなのだ。本当の想いはどこにある?今一度、この震災が私たちに課したものを考えてみるべきではないだろうか?
May 4, 2011
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四方八方を困難に包囲されたとき、ここからの脱出には上へ向かうしかないと、幾度となく力量を越えたジャンプをした。その度に、奥歯をギュッと噛んで、何もない手の平を思い切り握って。奥歯を噛むから甘えの言葉一つも吐けず、手の平を握るから欲しいものの一つも掴めず、そうして、どうにか困難を越えずともやり過ごし、今に至る。そして思う。いつか、この繰り返しは、私を更なる高みに連れて行く。でもその時に、私に何があるだろう?悟りとか達観とか、そんな気持ちは、見苦しい程に生々しくて痛々しくて、愚かしく惨めで、情けなく無様な心情を、一緒に連れていってくれるのだろうか?人を人たらしめんとする剥き出しの心を、置いて行けとは言わないだろうか?必須の条件が私にあるのなら、それは心を手放さないことだ。それを手離してまで欲しいものはない。温かいものを求めるのは、痛むものや悲しむものがあるからに他ならない。もしも痛みや悲しみを手離して得る温もりなら、きっと全部を含めて、私は何もいらないと手を離したい。そうであることだけが、私が私であることを赦しているせめてもの理由でもある。
April 21, 2011
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「断捨離」に感銘を受けて、去年の夏から聖域のない片づけをしている。それは引越しという一大イベントを経た後、今も地味に続いていて、その姿は当初の捨てるということから、残したものに命を吹き込むことへと変移している。(ちなみに、ここに至るまで相当の廃棄をしたことは間違いない。)家にある食材の棚卸をして、中途半端に溜まった調味料や乾物を消化。前のものを読んでいないのに次々に買う書籍は、ある物から読み進める習慣を定着。日々の掃除にはため込んだ洗剤を利用し、朽ちた衣類を活用する。消耗品不足で闇に埋もれていた機器を、再度メンテナンスして使用。『ある物を使い、ある物を生かし、ある物で過ごす。』いつしか身に付いたこの習慣は、生活を好転させている気がする。買い物に行く回数は減り、その分、無駄な廃棄物が減る。必要なものを吟味する能力が身に付き、何もないと思っていた自分の周囲が、いかに命のない有効なもので満ちていたかを実感する。ゴミを出す際にも心を配るようになり、未使用廃棄物が格段に減る。本当に自分に大事なものは何かを考えながら生活するようになる。そして、それはきっと心にも影響する。自分に何が必要かを考えて、自分を生かす生き方をする。この年になって気づくのも恥ずかしいことだけれど、ちゃんとした生き方をしようと、また1つ心に留める今日この頃なのです。私を生かす私の生き方。まだまだ見つかりはしないけれど。。。
April 20, 2011
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違和感は、ふとした時にその正体を現す。人は簡単に、○○者なんて言い方をするけれど、この言葉の現すものの大きさと矛盾は、気づかない間に、見過ごすことができないほどに膨らんでいる。「者(もの)」この言葉が、人をどの程度現すのか?どれだけの人がそれを意識して、この言葉を用いているのか?それも、ネガティブな意味を含む場合を主として。その最たるものが障害者という言葉。特に目立つ部分をクローズアップして、まるでそれが人格のように包括した結果の言葉。そして私のような人だと気づく言葉。同性愛者。正直、障害者と比べると若干、身から出た錆な部分がないわけでもないと思われる言葉。でも、決してこれが人格を包括しているとは言えない言葉。もしも人格を包括したいのなら、もっと、もっと、必要な言葉があるはず。例えば、性格障害者。例えば、自己偏愛者。例えば、私中心異常者。例えば、社会正義錯誤者。体や心の調子がどうだとか、自分の性別が何で、好きな相手の性別が何かとか、そんなことよりももっと大きな一般との乖離を抱えた人は、世の中にあまりに多い。なのに、いつも注視されるのは、見えやすい問題だけ。だから思えて仕方ない。『調子に乗るなよ! 庶民ども。一番のイカレ野郎は、お前だよ!!』「普通」に正義も悪魔もない。問題は、違うことじゃなく、問題は、好き嫌いじゃなく、ただ問題は、『お前が、人を幸せに出来るのか?』ということに尽きる。人とは、人を幸せにするべき存在であれということに間違いはない。方法や過程は何であれ。自分に出来るやり方で。人を幸せに出来れば、その事実がすべてを肯定する。だから庶民ども、考えるがいい。『貴様の存在が、誰を幸せにしたのか。』を。どれだけの矛盾や軋轢を生んでも構わない。少ない数でも、欠かせない幸せを生めば、きっとそれには意味がある。価値がなくても、意味があればいい、意義があればいい。その小さな意味は、きっとどんどん広がって行く。
April 17, 2011
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自分に余裕がなくなったとき、人はその真価を問われやすくなる。落胆したとき。失望したとき。絶望したとき。己を想うのか? それとも人を想うのか?誰もが大変な中にいる。それを切り捨てるなんて思うわけじゃない。でも、人は考えるべきだ。与えられることが正当なのではなく、要求することが正当なのでもないと。利益は自分の徳で、不利益は他者の責と考えていないか、今一度顧みるときがきていないか。どこかで誰もが、自分の手の中に委ねられているものの本当の姿を見つめ直すときがきていないか。降りかかる事実に対し、自分の責任ではないことは多い。でも、だからと言って、それが他者の責任かと言えば、そうでもない。自分たちに出来ることなど、自分の分ではない荷物を、少しずつ背負うしかない。みんなで少しずつ、自分の責によらない荷物を、それでも背負うしかない。人が人として生きるということは、きっとそういうことなのだ。人は今、その一つ一つの小さな背中に何を負うのかを、きっと試されている。自分自身からの問いとして。
April 14, 2011
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世の中には、自分ではどうしようもないことがある。頑張りも、努力も、訓練も、何も手の届かないことがある。手を伸ばすことの叶わないこと。言い換えれば、それ自体が、赦されていないことがある。地震などの震災もそうでしょう。自然の動きに、人はある程度対処することは出来ても、その大いなる力の前には、ほぼ無力。きっと一部において経済もそうでしょう。他人の心理がことを動かすということを考えれば、個人で大いなるものを動かすことはかなわず、風評被害など、どうしようもないことの一つかもしれません。考えるのです。その無力を根底にして、人とは何なのかを。多くのどうしようもないことを前にして、それでも何が人の根底を支えるのかを。きっと、出来ることを考えれば、その数は測り知れない。でも、それが出来たとしても、埋められない出来ないことが、人の真中にあることもあるのでしょう。出来ないことを数えても仕方ない。それは事実。でも、どこかで、せめて数えてやらなければ、それがないことになってしまうのは、あまりにも悲しい。と思ってしまう。人の無力から、この手の中に道標を取り戻すのは、さほど簡単ではないようだ。
April 7, 2011
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我が家に1月前にやってきた猫の楽ちゃんは、幼い頃に病気をして左目を失い、片目の生活をしている。だから、私がキッチンで調理をしている時など、私を見ている姿が完全に「家政婦は見た!」のようになっている。右目しか見えないから、自分の顔が半分壁に隠れていることを感じないのかしら?そんないつだって家政婦な楽ちゃんは、とても愛しい。私のあげる食事を楽しみに待ち、私のセッティングしたキャットタワーで縦横無人に遊び、私の部屋を散らかし放題に散らかし、私の部屋から卓上インテリアの概念を奪い、私に決して指を触れさせることなく、事あるごとに、私を威嚇する。シャー。爪を切れる日はいつになるのやら。今から退去時の敷金を積み立てることを考えて、子どもを育てるよりも安いと考え直し、威嚇する楽ちゃんに微笑むのです。いつだって優位には立てない…。負けるもんか!いつか口説き落としてやる!この間に戯れを威嚇され、少々の負傷。道は険しい…
March 30, 2011
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注:少々、過激な内容を含みます。いつから人は、老いることに恐怖を感じ始めたのでしょう?もしかしたらそれは昔からあった感情なのかもしれません。死に近づいていくことを目の前に突き付けられる事実として、人からは忌み嫌われていたものなのかもしれません。それでもこの頃を見つめていると、何とも日々がやるせない気持ちになるのは、何故なのでしょう?答えは分かっているのです。美しくない老人が多すぎるのです。美しい老人が、かすんでしまう程に。未曾有の大震災がありました。避難所では、ないものを分け合っています。しかし東京で、米、水、紙。ありとあらゆるものが不足しました。いわゆる奪い合いがありました。その原因が、すべて老人というわけでは、もちろんありません。それでも日中、テレビのインタビューに映る抱えきれない程の水や米を抱えた老人を見ると、どうしようもなくやるせない気持ちになります。「備えあれば、憂いなし」テレビ越しでありながら、誇らしげに笑む老人の姿は、人びとがアンチエイジングに躍起になる気持ちを助長させるには充分なものでした。人が老化を嫌うのは、人間の行き先が、そこにあると思うからなのです。宮崎アニメを見たことがありますか?風の谷のナウシカ。大ババ様やユパ様、ミトなどの老人が美しいでしょう。人から尊敬されているでしょう。それは、彼らの生き方が美しく敬意に値するからです。もののけ姫。ヒイさまが、乙事主が、知と愛に満ちた存在として描かれているでしょう。そもそも老人は、そういう存在だったのです。決して年をとっているからだけという理由ではなく、知識と慈愛と見識に満たされた存在であったのです。でも、どうでしょう?乳飲み子にミネラルウォーターを!と言う隣で、老人が水を買い漁るのです。浅ましいながら、どうしようもなく誇らしげに。美しき老人は、どこへ行ったのでしょう。先頭に立って、無秩序の世界に秩序を与える役割の人は、どこへ消えたのでしょう?これだから老人が社会の荷物になるのです。本来であれば果たせる役割を放棄したのは、当の本人たちなのです。尊敬されることをやめ、愛されることをやめたのは、どこかで本人たちなのです。譲ること、支え合うこと、認め合うこと、尊敬すること。若人の乗る船の舵を取り、行く先を知るすべのない力ある若者に、道を教える役割。そんな迷える者に教えるはずの当人が、迷える者になっているから、どうしようもないのです。冷静に考えて、先行く者が、未来を担う者に自分に対する以上の愛情を持てないことこそ、日本が危機的であることの証拠なのです。人間が、年をとっていくことを楽しみに思えるようになるためには、社会が満たされることではなく、現職の老人が美しくなることが必要であることに、どうか当の老人の皆様に気づいてほしいと思う今日この頃です。きっと、事態が深刻であればあるほど、老人が力を試されていることに、当の老人たちが気づいてくれる日を、心待ちにしているのです。
March 28, 2011
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効率だけを考えるのは好きじゃない。でも、効率を考えずにハートだけをひけらかすのは、もっと好きじゃない。だから、ギュッと握られた、体温のこもった100円玉を募金する子どもはとても愛しいけれど、24時間テレビに1円玉のぎっしり詰まった瓶を持ちこむ芸能人は好きじゃない。きっと、気持ちと行動は、ある程度は比例する。小さな行動が、意味のないものだとは思わない。でもそれは、何かをする気になる小さな行動を言うのであって、何かをした気になる小さな行動を言うのではない。出来ることをしようと言う。それはきっと、余計な分を手離すということではなく、必要な分を残すということなのだと思う。「頑張れ」と言う。私は今、この言葉を口には出来ない。既に頑張っているからじゃない。頑張れという言葉が、どうしても観客席からの声に聞こえて、時に当の本人をもっと孤独にさせる気がしてしまうから。嵐の櫻井くんの言っていた、「踏ん張れ」の方がしっくりとくる。少なくともそこに、中途半端な共感は、私には感じられない。人は、成長する時に頑張ればいい。ゼロに戻りたい時には、踏ん張るのがいい。そうしてどうにかこうにかやり過ごして、いつの日かまた、否応なく頑張らなくちゃならない時に、頑張ればいい。私に出来ることは何だろう?考えるだけじゃなく、少しでも行動に移していこう。頑張らなくちゃいけないのは、きっと私だ。
March 28, 2011
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それが何だとしても、ものが2つあれば、その間には距離が発生する。そしてその距離が、2つのものの関係を左右する。近ければ良いわけでもなく、遠ければ良いわけでもなく。人と物。自分と人。自分と自分。いろんなものの間には、最適な距離がある。人がお金との距離を測り間違えると、人はお金に呑まれて、人としての魅力を失うことになる。人とお金の距離は、コントロールして使えるだけの距離がいい。それ以上でも以下でも、人がお金に使われてしまう。人と人も同じこと。親との確執があったとしても、きっと最適な距離がある。近づきすぎず、憎まないでいられる程度の距離。例え、好きにはなれなくても、嫌いにならない距離がある。もちろん逆に、大好きだから適度の距離ということだってある。介護に疲れて、亡くした時にホッとするようなら、亡くした時に涙を流せる距離に測り直した方がいい。家族でも友達でも同じこと。そして自分でも。最適な距離は、相手を好きでいられる距離。それが互いのベストなポジション。近づきすぎて嫌いになったり、離れ過ぎて忘れていたり。想い出して後悔をすれば、結局、悲しい関係になってしまう。それなら上手に距離を測って、好きでいられる距離がいい。人にも、ものにも、自分にも。最適な距離が必ずある。その距離を見つけることが、本当に大事にするってこと。だから、いつでも、最適な距離を探し続けている。
March 23, 2011
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震災があって、たくさんの命が召され、今も行方の知れない多くの人がいる。東京にも不便という程度の影響があり、震災の影響から急激な円高が起こり、私の資産にも少なからずの打撃がもたらされた。火事場泥棒のような詐欺に注意! という警察からの忠告や、己や家族を守るあまりなのか、棚から商品が消えたスーパー。善意も悪意も非難も賞賛も、あらゆる情報が、右から左に、上から下に、受け止めきれないスピードで駆け巡る。人の心はどこまで敏感であるべきなのか?そんな不毛な問いかけが、自分の中に巡って仕方ない。こぼすことの出来ない心情も、致し方なく湧き起こってくる。一人になりたいと思うとき、きっと逆の感情がもっと根底にある。そんなことは分かっている。でもどうしようもなく殻に閉じこもりたくなることがある。何も受け止められない。そう警告が鳴ることがある。歩む道はどこにある?その行き先が、今も見つからずにいる。
March 17, 2011
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前原外相が辞任したことは、非常に不愉快極まりない。事の経緯がどうあれ、市井に生きる個人のした行為が国家の外相を辞任に追いやることなど、そうそうあるべきではない。しかもそれが、一個人の善意によるものならば尚更。本当に気に食わないことは多い。どうして世の中に、絶対多数の幸福などという価値観がまかり通るのか?絶対多数の幸福は、大いなる犠牲者を生みだし、その事実にも気づかぬ愚民を量産する。足もとに目を向けない者を生み出すだけのこと。組織が個人より優先され、人は愚民の安定のために賢者を死の淵に追う。考えてみよ。個人がなくてどうして組織が成る?森は森なのではなく、木の集まり。森などという概念は、副産物に過ぎない。愚かな政治家は多いけれど、この前原辞任の意味は大きい。根底にどんな思惑があるにせよ、この行為は人の想いに逆らうことだ。守るべきもののわからぬ者に、行き先はない。私が組織を好まぬ理由は、個人が集まるという複数のものに、組織という一つのものは決して勝らないからだ。人は常に、己が個人なのか? 組織の一部なのかを意識しなくてはいけない。
March 6, 2011
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自己肯定を考えるのなら、きっとどこかで、私の場合、その認識は、低い。中途半端に自己主張をしながらも、心のどこかで人から肯定されることを待っていて、本当の意味で一人立ちすることもままならず、結局は、中途半端に小さくて脆い城を築いている。張りぼての城。それらすべては、最終的に自分への肯定意識が低いことに帰結する。弱さが、善いとは言えない方へ転んでいる。今まで、決して誰かに否定されて生きてきたわけではない。それこそ人間に恵まれている人生だと思う。でも、ただ、ただ純粋に、自分だけに肯定されずに生きてきた。否定したわけじゃない。肯定されなかっただけ。これもきっと、間違いではない。私は純粋に私ではなかった。そういうことなのだ。人に時間が流れることで自分に流れた時間を把握し、握った手の中に何があるかを数えて、頑張った程には何もないことに気づき、落胆と絶望が更に己を肯定から遠ざける。どうして? なぜ?きっとそんな繰り返しなのでしょう。本当のフラットを求めている。本当のニュートラルを求めている。言いかえた時、それは自由。行きたい場所は自由。生きたい場所も自由。その時、きっと、自分を好きになれる。そう思う。まだ、その場所が、遠い。だから、頑張れる。今だに自分を掌握できないからこそ。
February 28, 2011
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もしも物事のすべてが起点を一つにして、そこから正しく枝分かれ、別れた道が決して交わることなく進むのなら、抱えることすら困難な想いなど、人には与えられなかったかもしれない。実際に道は、右に行っても左に行った道と再び交差し、左に行っても右に行った道といつか一つになったりする。救いとして絶望として、いつしか道は、起点も分からず、そもそも独立したものかも不確かになる。混乱する。そして生まれくる、本来ならば相反する物事の共存。自分に卑しくも思う。天に誓って、親を正視して、正義を失う生き方はしていないと。だから罰せられるいわれはないと。神が神なら、あの世で堕ちることなどないと。それでも堕ちるのなら、神さえ引きずってやろうと。ただ、それでも思う。私に、罪は深い。例え正義を胸に抱えても、それでも生まれる罪がある。むしろ、抱えるからこそ、生まれる罪もある。どうしようもない罪がある。万人が同じかなど知らない。ただ、私に関して言えば、私が私である限りに生み出す罪が、確かにある。罰せられない罪がある。さぁ、それでも人は、どの道を行くか、常に選択を迫られている。一本道ではないことが、人を助けることになればいいのだけれど。罪の正体が、いつか幸せだと分かればいいのだけれど。
February 16, 2011
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どういうわけか、こんな私が女子から絶大なる人気。どうやら女子たちは私にいろいろ、人には言えない話をしたくなるらしい。世間の女子たちは、未来に不安を抱えているらしいのである。私に言わせれば、女子だというだけで輝ける未来がそこに見えるのに、当の女子は、決してそうでもないらしい。どうしてでしょうね? ないものねだり?もちろん、女子たちが私になりたいとは露ほども思っていないでしょうけれど。そんな女子の相談のほとんどは、恋に関するもの。愛に関するもの。この人と先? これから先?いろんな不安を抱えて駆け込んでくる。そんな時に私が必ずと言ってもいいほど言うこと。それは、『幸せの60%までは自分で獲得する人間になりなさい。それを100%にすることが出来る相手が見つかったら、それはラッキーだと思えばいい』恋に不安な女子たちは、どこかで忘れてしまう。恋の始まりは、自分のキラキラにかかっていることを。恋がうまくいかないと、いつしか不安が先行して、気づけば自分のキラキラ不足が、恋がないからだと、本当は自分で生み出すものを、人が生み出してくれるものだと勘違いをしてしまう。恋が上手くいけば、すべてがうまくいくのだと勘違いをして。どこかでそこに期待しすぎて、本当の向かうべき問題を、見つからない恋する人に、手に入らない恋という現象に、預けてしまう。だから、物事は、ゆっくりと悪循環が始まっていく。ぬかるんだ足もとから抜け出したいのに、手だけをバタバタ、何かを掴もうと、空を何度も握り締める。確かに存在はする。どうにも巡り合わせが良くて、上手く物事が回る女子。でも、きっと、私に目を付けて、私に相談をした時点で、きっとあなたはそんなタイプではない。それは残念なことに、選考落ちしたようなもの。所詮私は、浪人生の予備校のような存在なのだから、スマートに現役合格とはいかない。そもそも、ストレート組に予備校のような私は必要ないのだから。回り道は大変だけど、回り道がある事実を知ることは、自分の気づいていない選択肢が世の中には存在していることを知ること。直線距離以外にも道はあるし、それでもゴールには辿りつけるし、そもそも回り道自体にも良いことがある。そんなことを知る機会にもなる。頑張れ女子!君たちがどんなに私に敬意を持ったとしても、それでも君たちは私には絶対に手に入らないものを持っているのだから。自信をもって、努力せよ!キラキラを撒き散らせ!いつだって未来は、自分の手の中で決めて良いように出来ている!
February 11, 2011
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どうしたってマイナスな感情の代表と言えば、一番に「悲しみ」が思い浮かぶ。でも、どうしてか自分が最も苦しい時には、この感情が浮かんでこない。なぜか?そんなことを考えてみた。悲しみとは何か?考えてみると意外な想いが浮かんでくる。悲しみには、どこかに力強さがあり、どこかに決意があり、どこかに前向きさがある。悲しみの最代表はおそらく死別。ここから生まれる悲しみの感情を想うとき、どこかに必ず、『それでも自分は生きる』という大いなる決意が含まれている。決意による別離が人を悲しくさせる。そんな背景が見え隠れする。つまり、人は自らの道を曲げずに、望まぬ事実を受け容れるとき、悲しみという感情を与えられるのだと想う。悲しみは、受け容れられる。その原因は、どうやらここに見つかりそうな気がする。では、決意なく、どうしようもない感情を押しつけられたとき、人はどうなる?きっと、悲しくはない。それこそが喪失で、この喪失は、二人称ではなく一人称。自分を喪失すること。そういうことになる。事実を悲しみとして受け容れるほど、自分を保てない。それこそが、悲しくならない感情。悲しみの涙を流せないとき、人は、その洪水で自分の心を手の届かない場所まで流してしまうのでしょう。だから悲しい人は、あきらめない方がいい。悲しんでいる事実こそが、あなたを生かす原動力になっているから。だから、悲しめない人は、自分が平気なのではない事実を、心ではなく頭で理解するべきだと思う。ここからは理屈の勝負になる。心に従わない時。それは、感情が感情として成立しない時。自然に悲しくなるまでは、心なんて置き去りにしても良い。悲しまず悩まず、考えるのがいい。悲しさが気づかず人に優しいのは、悲しさの感情がどこかで、自分への優しさだからなのでしょう。
February 8, 2011
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世の中は、甘くない。もっと正しく言えば、世の中は、ときおり悪戯をする。さて、どういうことか?人は各個人の選択する方法は違えど、生きる上での必須条件として、どんなに疑問を抱えようとも、どこかで生きることに無条件の信頼をしている。時にそれは哲学であり、時にそれは宗教であり。時にそれは、無知であり。それをとても乱暴な言い方で表現すれば、『正義は勝つ!』この一言に尽きる。だから人は正しいことを求めるのだろうし、他者に裁かれない罪悪感を抱えるのでしょう。そこで考える世の中の悪戯。それはきっと、誰もが幸せを願っていたとしても、それでも人には悲しみが生まれることがある。ということでしょう。数学のようにはいかない。プラスとプラスなら、プラスになるのがルール。でも、人生においては、プラスとプラスが交わって、重なりあって、ぶつかりあって、どうしようも消化の難しい悲しみが生まれることがある。少しでも感の良い人なら思うでしょう。それは一時的なマイナスであって、生涯的にはプラスに転じるのだと。でも、それは違う。人は、人は、己を肯定しなければならないがために、マイナスを自らの力で、例え強引にでも、プラスに変える。自分を失わないために、自分を愛するために。未来を肯定するために、過去を、糧に変える。難しいのは、それらも含めてすべて、最初からわかってしまっていること。抱える悲しみがあり、でもそれが同時に幸せであり、言えば、望むことが幸せであり、望んだことが、悲しみであり。希望が喜びであり、絶望が悲しみであるという法則に見放されて、希望が悲しみであり、絶望が喜びであること。そんな赤札のようなトリックを受け容れる世の中の悪戯を、それでも人は信頼しているということ。それでも、それが間違いなんじゃない。ただ、悲しいや嬉しいでは測れない、切ないというプラスでもマイナスでもない感情を、人がただ愛しいものとして赦せたのなら、誰よりもきっと切ない人は、『救われる』という言葉を心にするのだろうと考えるのです。
February 5, 2011
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経験を低い優先順位において久しい。だから、未だに経験値で正否を判断する人間に出会うと、いつもの5割増し位でボコボコにするようにしている。犬でも猫でも一度痛い思いをすれば二度は繰り返さない。経験で得るものというのは、基本的にそういうものなのだ。だからと言って私がアンチ経験主義というわけでは毛頭ない。言えばそこいら庶民よりも、日常的にチャレンジ精神旺盛な生き物であることは間違いない。同世代が未知と捨てたものを拾い、異世代が保身のために見なかったものに光を当てる。未経験の新しい事象が私をウキウキさせるし、既に体験していることだけにすがって生きているつもりは微塵もない。では、私にとっての経験が何かと言えば、簡単に「素材」の一言に尽きる。それは巨木になるための枝葉であり、狩りをするためのクモの巣であり、広げれば広げるほどに、判断の精度を増す素材になるというもの。一つの経験が積み重なれば、更に大きな想像力を生み出すことが出来る。そのための素材、糧、要素、きっかけ。そんなものなのだ。経験を胸に抱えて共感を求める愚かしさを考えよ。同一の経験をしなければこの想いは不明だと言う。ならば君ではない誰が、君と同じ想いを抱えることが出来るだろう?それこそ同一の共感を求める姿勢こそが、そもそも甘い。一言で言えば、人が人である限り。同一の共感は確実に存在しない。経験は果実ではなく、種子であり、苗なのだ。その先、その素材をどう育てるかは、最終的に人格、生き方による。優良な種も、育て方では根が腐るし枝葉は枯れる。だから胸に戒めるといい。『貴様ごときの体験が、人間の基礎設定になれると思うなよ!』経験は素材。生かせば魅力、殺せば足かせ。経験でものを語るなかれ。経験から想像と包容力を育てるがいい。
February 1, 2011
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確固たる自分を見つけるというのは、誰もが知っているように、非常に困難なこと。これだ! と見つけたとしても、次の瞬間には、それをあざ笑うかのようなもうひとつが顔を出す。どんなに迷っても、どんなに彷徨っても、気づけば堂々巡り。籠の中のハムスターの如くは、きっと皆同じなのでしょう。人の心はつづら折り。悩んだ程には、考えた程には、前には決して進まない。本当か嘘かと言えば、間違いなく本当で、でも、本物か偽物かと言えば、本物と言うには躊躇がある。きっと一番自分に近いのは、そんな感情。本当が本物であり、嘘が偽物である。一見、スマートに見えるけれど、それじゃ人としての底が浅い。さて、あなたならどう生きる?大事なのは、全部の根っこ。全部受け入れても自分でいられる。自分でいれば、それでいい。
January 31, 2011
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宗教だとか、聖書だとか、馴染みのない人には胡散臭い以外の何物でもないであろうものに、そこそこの興味を持って久しい。だからゴスペルを習っている前提も踏まえて、波多さんという素敵な牧師に出会えたことも踏まえて、月に1回開催されるバイブルスタディという極めてこじんまりとして会に参加している。講師である波多さんは言う。「私はクリスチャンなので、聖書を信じている前提で話すことを先に言っておきます」非常に明快であり、そして宣教的である。自らの立ち位置を明確にし、そのことで相手との障壁を下げる。手段よりも目的を優先しないと出来ない、本当の信仰者であることが伺える。話しは非常に興味深く、旧約と新約の聖書に登場する神は同一人物か?その振る舞いに疑問を感じることがあるが、どう消化すべきか?こんな主題があらゆる言葉を介してやり取りされる。正直、波多さんの言葉には反則が多い。でもその反則は、言葉が意図しない伝わり方をすることを認識している人の、深い洞察に根拠がある。そのことを思えば、致し方ないと実感できる反則でもある。本当の本音で言えば、彼に聞きたいことは多い。それはクリスチャンとしての意見であり、私が敬意を持つ一人の人間である波多さんとしての意見。この世に人が存在しなければ、きっと宗教はない。ならば人を介さないそのものとしての宗教を知ることに何の意味があろう?宗教は人なくしてはあり得ないものなのだから、人なくしての理解には、正直興味がない。すべての疑問は、その疑問が抱える中に必ず人を含んでいる。一つ考えてみる。すべてはクリスチャンの考え方に根拠を置く。世界は神のデザインとしてある。そのため、万物には同一点から生まれたという説得力がある。ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回っている」と説いたのも、彼がクリスチャンであり、神のデザインを賛美していたからによる。地球から見れば、天体は地球を中心に回る。しかし事実は、太陽系である限り、太陽の周りを地球が回っているのである。視点を地球から離して大いなる神の視点に立つとき、新たな真実が見えたのでしょう。これが事実ではある。一つの。ただ、思う。もっと大きな視点に立つときには、きっと太陽も回っているのかもしれない。月から見れば地球が止まり、月が回る。地球から見れば太陽が止まり、地球が回る。でも銀河系から見れば、何かが止まり、太陽が回っているのかもしれない。そして地球が太陽の回りを回る規律と、その他の周回する規律が一致すれば、何かがどこかで相殺され、それでも地球は止まっているのかもしれない。つまり宇宙を考えるとき、最終的におそらく人は、分からないに至る。すべての理解に前提がなければならない以上、その前提が確立されていない限りにおいては、精度の良い推測にすぎない。そしてこれはあらゆる事柄にも則す。『当たり前』という概念があり、人が物事を判断する時に、これはもっとも根底を支えるものになる。ただ本当の意味で「当たり前」を言葉にするのなら、『我々が勝手に、当たり前として定義したものを当たり前とする』そのことを根拠として考える。ということになる。では、当たり前と本当。この余白に入り込むものは何だ?それこそが、人が持つ未知への畏れであり敬意であるのだと思う。信仰とは、非常に面白い概念でもある。決して夢を採用しているわけではなく、信仰者にとっては事実であることを、信仰として胸に抱えるのである。他信仰や無信仰の人とも共通して採用している事実を抱えることとは、大きな乖離がある概念なのだ。それでも、それでも、クリスチャンに限らずあらゆる信仰を考えるのなら、それを「未知への信頼」と受け止めることが出来ないだろうか?いや、もっと正確に言えば「不可知への信頼」になるでしょう。人に認識できること、理解できることを越えたものがあるということ。不可知な事象の存在の認識とそこへの信頼を持つこと。それこそが、疑問を抱えながらも、それを越えた信頼、つまり信仰になるのでしょう。「信じる」という言葉の持つ本来の意味。不可知をも信ず。大事な人を信じられないと心に抱えた人は、学ぶべきことでしょう。宗教自体、いや、そこから見える人間。これは非常に興味深い。当分は、終わりそうもない。
January 29, 2011
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どうしてこういう人がいるのだろうかと、首をかしげることは多い。相手が強く出られないことを知った上で、強権を振るう人。ただの立場の違いなのに、自分が正義のように振る舞う人。そして自分が正義の代表のように他者までをも巻き込む人。素敵な人になりたいと思う。素敵な人は、自分よりも強い人に強い。自分よりも弱い人に温かい。決して自分の意見を多数の意見として底上げすることなく、自分の意見の責任を一手に引き受ける。そして、致し方なく巡ってきた負の感情を次の人に渡すことなく、自分の中からも負の感情を生み出さない。負の感情の終点を担う人。そんな人を、とても素敵な人だと思う。悲しみの種まきは、しない人でありたい。自分の中にも、人の中にも。
January 27, 2011
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『前に進むために』。そんなことがあるとき、どうするべきか?その答えは、思ったより枝葉が広い。もしもそれが、努力によって乗り越えられるものならば、それもいい。一生懸命に努力して、目の前の壁を乗り越える。自分が変わることで、変わらない相手を越えて行く。とても素敵なことでしょう。でも、きっと取り組み方はそれだけじゃない。もしもそれが、自分にとって価値のないものに出来るなら、それもいい。自分をマイナスに導くもの。それ自体を、マイナスに導くほどの価値を見出さないものに変える。自分が変わることで、向き合うもの自体の価値を変える。向き合うべき問題から、除外する。とても素敵な解決方法の一つでしょう。でも、きっと、取り組み方は、それだけじゃない。どうしても乗り越えることが出来ず、どうしても手放すことが出来ないもの。なら、そうして、そのまま、生きるのもいい。抱えるものの全てが、いつか手離すもののわけじゃない。そういうことも全部含めて、痛いことを痛いままに抱きしめる。そんな選択肢もいい。劣等感は劣等感のままに。向き合う問題を問題のままに。そのままで生きていく。肯定はしなくても、隣人として付き合っていく。それもいい。それも、素敵な選択肢。答えの出ない問題も、問題には問題自体が生み出す素敵さがある。願いは叶わない。でも、どこかに向けて頑張ることは、赦されている。それを何に向けたにせよ、頑張るのだから、それだけで、充分に素敵であることに、間違いはない。地球が丸いのは、どんな道でも壁に突き当たらないためだと、思ってみるのもいい。
January 23, 2011
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言葉のしまい方が美しい人。そんな人になりたいと思う。決して断定的なわけではなく、強調的なわけでもない。ただ、しっかりと隅々まで行き届かせている意識。そんなものを感じる時に、人の言葉の美しさから、その人そのものへの魅力を感じる。語尾までを話す人は、美しい人。その内容をより支えるのは、文中の言葉よりも、語尾を忘れずに話せること。言葉の語尾を大事に出来る人でありたいと思う。そこへの意識を忘れないでいようと思う。
January 20, 2011
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子どものころを思えば、世の中の何もかもが疑問に満ちていて、見るもの触れるもの、そのすべてに、何で? どうして? の疑問符がついた。『子どもほど、その納得に理由を要する』きっとこの解釈は正しい。なのに子どもの生み出す疑問符の回答に用意されている大人の答えは、どうしても。屁理屈言うんじゃない。昔から決まっている。そんな、考えることを放棄したもの。子どもは、致し方なく、それを受け入れる。子どもは、致し方なく、その道を倣う。そして、それをまた、繰り返していく。きっと、人が大人になるということは、少なくとも現世においては、考えなくなるということと近い。あるものに従う。その一種の安心感がなければきっと、生きられない。そういうことなのでしょう。何もかもを疑えというのではなく、疑うというマイナス地点からではなく、純粋なるゼロ地点からの疑問。これを失うべきではないと思う。疑問を欠いた人の失うものの大きさは、自分と人を真実から遠ざけてしまう。最も根本的な優劣、偏見、差別。これらを力強く支えるのは、ある意志ではなく、ない意志なのだから。純粋なる疑問は、その名を意志に変える。すべては疑問から、始まっている。
January 15, 2011
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「動機」この言葉をつかまえてから、少し視界が開けてきた気がする。先にも記したけれど、意味や意義では測れないものがあり、そこに動機という言葉はとてもフィットする。最も大きな違いは、意味や意義は、先にあるもの。いわゆる結果に属するもので、目的地であり、けん引する力であり、要は、ゼロ地点ではない言葉。足もとではなく、視線の先にあるもの。そこにきて動機は、非常にゼロ地点に近い。その先が何であれ、ココ。そのココからの一歩にふさわしい言葉。全労力がココにあり、全労力の責任もある。目的地ではなく出発点に焦点を当てていること。何でもない。そこにあるのは、我が意志の一点のみ。それこそが、信頼に足る。私の求めている原動力は、決して導くための目的地ではなく、動き出すための出発の意志なのだ。至るべきとして行くのではなく、行くべきとして行く。それこそが、何なのか?私は求めている。さて、動機とは何か?生きるに、動機とは、何か?
January 7, 2011
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生きることを意識し始めて、それなりの時間が経つ。そして、こんなことを考え始めた結果、そしてその考えから本格的に離れられなくなってから、興味を失って仕方ないものも多い。最近の目立った変化は、新聞の購読が苦痛になったこと。ずっと長い間、webなどから受動的に情報を取り入れることよりも、新聞のように、能動的に記事を取捨選択し、欲しい情報を獲得すること。そして、単純に独特の紙の質感。それが好きで手放さなかった新聞が、気づいたら何の興味の対象にもならないようになっていた。そして10年の購読を経て、新聞をやめた。政治がどうであろうとも、経済がどうであろうとも、それらは、人生よりも余程つまらない茶番。悲しいニュースにも、心がマヒする以外に受け取るものは、少ない。悲しいかな悪趣味な話がどう料理されて誌面を埋めたとしても、その結果が私に及ぼす影響は、私が私を担当していることに比べたら、悲しいくらいに些細。消費税が100%になったとしても、私が私を担当していることに比べたら、ほんの小さな出来事にすぎない。ならば、それら事象に興味を失った者が考える生きるとは何か?それは、紛れもない生きるということ。決して生活ではなく、生きること自体への探求。これに尽きる。意味、意義、価値。そんなことを考えた。希望、魅力、本能。そんなことまで考えた。そして今、今の私の中で最もしっくりくる言葉は、動機。「生きる」への「動機」。これが脳内を巡っている。これを考え始めると、とても新しい視界が開けるようになる。意味や価値などといった第三者的な視点ではなく、本能といった未踏の場所でもない。半ば客観で半ば主観である、動機。手放せば愚かで、抱え込めば重荷になる、動機。生きるということと、この動機ということを一緒に考えたとき、人は答えを導き出せるものなのか?目下、そんなことを考えている。自分を売らずに人を貶めることに必死で、政治と金を一緒に語ってしまうような世の中に、欲求が交錯した中年たちの過ぎた日のドロドロに、何の興味が持てようか?この人たちにこそ聞いてみたい。生きている動機は何ですか?きっと何を答えられたとしても、私が問うている質問の答えとは、言えないでしょうけれど。。。
January 5, 2011
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『人間の覚悟』五木寛之による本を読んだ。数ページで私の求めている本でないことは察したけれど、良い機会なので最後まで読んでみた。『生活の覚悟』きっと、タイトルはこの方が正しい。大河の一滴を読んだときにも感じたのだけれど、どうしても大作家の言葉が私の心には届いて来ない。きっと多くの人にこの人の言葉が届いているだろうことは理解しても、私に対しては表層をなぞるくらいで、池田晶子が鷲掴みにしてくるような感覚を得ることが出来ない。きっと、チャンネルが違うのだ。五木寛之と私とは、思考のチャンネルが違う。そう思う。作者は正しいことをたくさん書いてくれている。そう考え方を変えたら好転するだろうし、霧も晴れる。何かしらの重荷を下ろすことが出来るかもしれない。でも、しばらく考えて引き出した結論は、「この人は、根本的に自分を疑っていない」ということ。自分に当たり前をみていること。生きることへの足もとが着地している。ちゃんと歩行している。彼のそんな部分が、私の心に響かない理由のように思われる。そして、大衆に理解され指示される理由のようにも思われる。存在に意味なんてない。そんなことは私でも承知している。好き好んで生まれたわけじゃなし、そこに意味づけまでされるなんて冗談じゃない。ただ、それでも、どうにかこうにか、生まれてしまった以上、生きている。人生などその程度のもの。その中でどうにかこうにかやりくりしながら死ぬまで生きる。言えば、それが幸か不幸か人間の覚悟である。けれども彼の言葉には、そこに対する不安定感が、ない。知らずのうちにある、多くの当たり前が、考える対象を生活に制限している。受け入れやすいだろうと思う。彼の導きは。ただ、正しくない。少なくとも私はそう思う。人が、知らずに生まれ、人と生き、ひとりで死んでいくこと。これは決して寂しさではない。ただ、孤独な作業ではある。人生とは、どう転んでも、寂しさは拭えても、孤独は拭えないもの。そういうもの。孤独と寂しさは根本的に違う。その認識が、崖っぷちで心の蝕みから自らを救う。孤独が、寂しさに飲まれてはいけない。生き方への覚悟と、生きることへの覚悟。彼に見たのは前者で、私が求めたのは後者。こうなると、人間とは何を指すのか?そんなことを考えてしまう。
December 29, 2010
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前に書いたものを、標題の通りに時間差で訳すると、こういうことになる。『バカのくせに!』ソクラテスは、本当に真実を突いた。「無知の知」。バカであることに気づかず吠える者ほど、救いようがない。ただ、それでも、バカにバカと言われても腹は立つ。さて、私の人間が未熟な証なのでしょうか?
December 27, 2010
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いつから人間は、こんなことになったのか。世界が富に豊かになる間に起こした怠慢が、結果として現れている。人の優劣がお金の多少で決まり、肩書きの高低が、言動に連動する。この流れを目の前に見る時、人はこうも思考しない生き物なのかと、落胆する。いつからお金を払う者が優者になったのか?お金を受け取るものが、媚びへつらわなくてはならなくなったのか?すべては対等に感謝の関係であり、両者は常に敬意の対象であるのが本来。権利も義務も同様に要求するものではなく、果たすもの。毒は、想像以上に蔓延している。そこに心。所詮、自己完結などしようもない人生の中、何を傲慢になれようか?何を勝ち誇れようか?どうして悪意をこぼすことがあり、それを当然と認めようか?己の都合を正義と語る盲目を、どうして誇れようか?所詮、自分に何が出来る?一人で生きて、明日の糧さえ生み出せまいに。何も思わず生きる命は、何も感じず生きる命は、何を原動力にしているのでしょう?
December 27, 2010
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吉田修一の作品。前に原作と、そして今日、映画を観た。映画を観たのは、決して原作に対する感動からではなく、純粋にキャストに興味を持ったから。原作の感想を先に記しておけば、終わりが最悪だった。それは作品としてではなく、私の心の中に残るものとして。今までに読んだ本の中でも、最低な終わりを迎えた小説の一つになった。その感情を忠実に引き起こしたのだから、この映画も見事なものだと言って支障はないと思う。これも見事に、後味が悪い。『全面的な許容は、大いなる愛か? それとも徹底した無関心か?』そんな気持ちが後味として課題に残る。最大の難点は、いずれを選んだとしても、笑顔に繋がるという点。それこそが究極の課題として持ち上がる。笑顔の一つを、いわゆる虚無のものとして切り捨てるのは容易い。しかし、それでも笑顔は笑顔でもある。それは、一つの幸せへの努力でもある。その幸せへの努力をどう向けるかに、きっと正義も悪魔もない。後味が悪いのは、望む未来と恐れる未来が同居していて、どこかで出口を塞がれてしまっている気がしたからなのかもしれない。
December 22, 2010
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人の考えを知りたくて、いろいろなことを質問する。なぜそう考えたのか?なぜそう結論することを善しとしたのか?出した答えよりも、そこに至るすべてのものを知りたくなる。諸条件、考察材料、そしてそれが条件になり材料となった理由。それらを知りたいから聞くけれど、満足できる内容が帰ってくることは、ほぼ、ない。おそらく当然のことを聞かれたと思っている相手は、無理に考えさせられることや質問自体に、煩わしさを感じて仕方がなくなる。相手がそう感じていることは分かる。そしてその反対側で、私が相当に苦しんでいることも分かる。世界にフィットしていないことを痛感する。話せば話すほどに、距離が開いて、仕方がない。
December 21, 2010
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いつからか、言葉の可能性に、良くも悪くも、囚われている。良くも悪くも、言葉の可能性に、明らかに翻弄されている気がしてならない。『言葉には、意味がある』こんなことを知らない人はいない。日本人に限らず、話す人は皆、同じことを思っている。意味があるからこそ、言葉は言葉としての存在を認められているのだ。ただ、言葉が発せられたとき、そのすべてに意味を越えた「想い」があると考えるのは、いささか人生の負担になる。『言葉には、意味がある。更に言葉は、想いを乗せる』言葉が諸刃なのは、そこに、純然たる意味を持ちながらも、そこに、純粋な想いを抱え込める事実に由来する。一言で言えば、察し出すと限りがないのだ。言葉の可能性には、人間の可能性に劣らぬ広さと高さがある。人は言葉の意味よりも、言葉に乗せられた想いを尊重する。その時にこそ、言葉が多方面的に言葉の領分を越え、人間を巻き込みだす。意味が、想いに屈する瞬間でもある。最終的に、言葉の可能性を探るのならば、こんなに素晴らしいことはない。それは、人間存在にも共通すること。生まれた意味以上の何かが、きっと存在には含まれている。言い換えれば、言葉と人は、同じなのかもしれない。言葉は人なり。人は言葉なり。
December 19, 2010
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考え出すと、止まらない。時間の概念や理解、未来や過去など横軸の話。そんなことを考えながら、仕事中に書いたメモ。「未来を想うからこそ、絶句する。どうせ見られず知れぬ未来なら、その時にこそ考えたらどうか?」ガンを宣告された患者が投身自殺をしたとして、きっと私は心底笑う。「放っておいてもいずれ死ぬのに、どうしてわざわざ…」でも自分のメモを見たとき、その矛盾点に気づく。未来? いや、将来に絶句したとき、私は絶望する。でも、それは将来に絶望したわけであって、今にそうしたわけではない。ならば、将来への絶句など、ガン患者の自殺と等価ではないか?考えれば、絶望など新鮮さが命。今に絶望しない限り、致命傷になりはしない。新鮮さのない絶望など、それこそ価値がない。思い込みであり、完全なる不確定要素にしかならない。人生は、考える程によく出来ている。もしかしたら、本気で考える程に、寿命まで永らえる仕組みになっているのかもしれない。
December 19, 2010
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きっと、何をどんなに勉強しても、私が一つの宗教を信仰することは、ないでしょう。それは宗教の質の問題からではなくて、私という人生の質の問題によることとして。理由はきっと、信仰が信仰であることによる部分が大きい。曲解されたリアリストというわけではない。宗教こそ、人生のリアルであることは間違いないのだから。ただ、私の闇の所在地が、私にも触れられない場所にあるからなのだと考えている。それでも、今回の出会いは大きい。前からこの人に目を付けてはいたけれど、始めて宗教の話の中に、私が人生の至上命題に掲げ、そして現実転用に困難を極めている『人はなぜ生まれ、そしてどう生き、どこへ向かうのか?』といった哲学を盛り込んできた牧師がその人。自己から離れた視点で、宗教を見た人。彼はクリスチャンなのだけれど、その考え方のバランスの良さは、見事。信仰だけでなく、思考のレベル自体が高く、それこそが有能であることが明らか。これは、言葉を交わすに魅力的だと興奮せずにはいられない人物なのです。波多さん。考えが、使った分だけ磨かれるのは間違いない。この人は、興味深い。
December 18, 2010
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自分でも気づいている。どんなに思考を遥かまで飛ばしても、ここに帰ってくる。ここから離れることは不可能で、解放されることはあり得ない。私は、私から、離れられない。それが答え。だから、いつだって役が必要になる。次は何を演じるのか?何で隠すのか?何で茶化して誤魔化して、ここでの時をやり過ごすのか?喜劇がなぜだか切ないのは、向こう側がチラチラ見えるからだ。
December 12, 2010
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諦めという言葉は、求める方を見ていない。その代案に「覚悟」という言葉を用いる。目の前にそびえる障壁に、覚悟という言葉で向き合い、どうにか最重要課題「生きる」を達成してゆく。生きる。この課題は、容易なようで非常に困難に満ちている。人によっては、この課題はあまりに当然で、考えるに及ばない安定感を持っている。ただ、一度でもこの課題の本性を見てしまうと、それは二度と日々から離れることなく、手の平を返したかのように、その存在感をひけらかすようになる。付き合い方に、試行錯誤を要求されるのは、それから後のことだ。そして時間が経過し、覚悟は使い古される。時間が貫く中で、疲れ果て、有効性を失い始める。ではこれから先、最も有効なパートナーとしていた覚悟と別れて、どの道をどのように歩むか?次の試行錯誤は何だ?そう考えるとき、嫌い遠ざけてきた「諦め」が、とても身近に手を差し伸べてくることに気がつく。覚悟によって隠され、誤魔化されてきた痛みを伴った姿で、そばにいるのである。驚くのは、その手を取ることに以前ほどの躊躇いがないこと。諦めが、甘さではなく、優しさでもある側面を見つけたこと。甘やかすのではなく、楽になるのではなく、痛みに対しても、優しい事実に気づいたこと。その先と、今ここ。覚悟と諦めは相反するものではなく、見方の異なる同士か?この視点さえ変えれば、互いに息を吹き返すかもしれない。
December 11, 2010
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