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ちょっと前までは、日本のミュージカルといえば「劇団四季」しかネームバリューがなかったけれど、最近は、「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」「モーツァルト」「エリザベート」など、帝国劇場でやるミュージカルが熱い。この帝劇、お隣りのシアタークリエ、そして東京宝塚劇場、と日比谷のこのあたりって、東宝系の劇場でかためられています。学校と劇団が直結している宝塚は別として、東宝系の他のプロダクションは、基本オーディションです。劇団としての囲い込みがない分、ある程度実力が認められれば自分の好きな舞台を選ぶことはできますが、逆にいえば「どうやったら力をつけられるか」が問題。以前もちょっと書きましたが、今の演劇を底支えしているのは、俳優座とか文学座とか、そういうところで基礎を仕込まれて羽ばたいていったベテランさんたち。映画やテレビの世界でもそう。かつて映画会社は、どこでも「ニューフェイス」などといって、自前の俳優を採用しては、「明日のスター」を育てていました。テレビはそういうものがないので、斜陽になった映画界から映画に育てられた人たちを引き抜いては使い、そのおかげで、ある程度の質を保つことができていました。今、テレビドラマの質が急激に落ちている背景には、「テッパン」を優先して既に人気のあるマンガなどを原作に作り、シナリオライターにオリジナルの本を書く場を与えないこととともに、俳優の質の低下が関係していると私は思っています。主演助演級には実力者を据えたとしても、脇に素人同然の人たちが多すぎる。「どこかで養成された人」がいないわけではないけれど、そういう実力者を使わなくてもドラマはできる、少なくとも、ま、これくらいでいいだろう、と思っている現場に私は問題があると思います。ジリ貧のテレビ界に追い討ちをかけるようなこの大不況で、制作サイドはものすごいコストカットを強いられていて、いよいよ「質の維持」は困難になっているようです。自前の養成システムを持っていないということは、それほど危ういこと。「栄光の持続」「長い繁栄」のために、「教育」「育成」が絶対に必要な投資であるのは国にしても、演劇にしても、同じことなのです。その意味で、今注目したいのが「東宝ミュージカルアカデミー」。東宝が設立した、ミュージカル俳優専門の養成学校です。3年前に作られ、現在は4期目。「将来の日本のミュージカルを支える若き才能を育成すること」を目的とし、「レ・ミゼラブル」のコゼット、エポニーヌ、マリウス、アンジョルラスや、「ミス・サイゴン」のキム、クリス、トゥイ、「エリザベート」のルドルフ、「モーツァルト!」のヴォルフガングなど若い世代の活躍が期待される役柄への抜擢も含め、ミュージカル界の底上げを図ろうとする画期的な試みです。東宝ミュージカルアカデミー(TMA)は、たった1年のカリキュラムだし、月謝も高い(*1)。宝塚のように、「ここを卒業すると必ず劇団に入れる」という保証もない。卒業しても自分でオーディションを受けまくるしか手立てはなく、翌年アドバンスコースに進めるのは成績優秀者だけ。けれど、アドバンスコースに残れれば月謝は免除されるし、卒業生の中には、すでに東宝ミュージカルやその他の舞台で、アンサンブルや役付きで活躍している人が出ている(*2)。山田和也、山口ひで也、前田清実といった、現在帝劇やクリエのプロダクションに関わっている人たちが指導者なわけだから、「今、どんな役者が求められているか」を肌で感じることができる、というわけ。豊洲にある練習場には、帝劇と同じような舞台装置をしつらえたスタジオもあり、今かかっているプロの俳優たちも稽古に来る。そういう雰囲気の中でプロ意識が高められ、目標が身近にあることで意欲も増すだろう。何より、同じ目標を持った若者がそれも全国から選び抜かれた30人あまりが、力を合わせつつ切磋琢磨する1年が、彼らをきっと大きくする。このTMA、年に1回の卒業公演は既にものすごい人気でなかなか観られないのだが、最近「試演会」を積極的に催すようになった。「俳優は、お客様に見てもらうことで成長する」という面を重視した結果のようだ。ニール・サイモンやチェーホフ、シェイクスピアなどの1シーンを集めた第一回試演会には行けなかったのだけれど、見学した人の話では、入学からわずか3ヶ月でこれだけのものが出来るのはなかなかのもの、とのこと。私が観たのは、7/20海の日イベントで、いろいろなミュージカルの1シーンをつなげる形のもの(4期生)のほか、卒業生による演劇(「父と暮らせば」より)、オリジナルミュージカルやダンスなどを披露。何の装置もない平場のスタジオの一角を舞台とし、あとはお客さんを入れる中、音源はピアノとラジカセ、みたいな手作り感で、文化祭的ノリだった。まずは、はちきれんばかりの若さが眩しい。特に四期生は、前へ前へという意気込みが目に見えるようだ。個々の実力、という意味では、もちろんまだまだ。特に、セリフのクリアさ、表現力は人によってかなり個人差がある。あえて一人ひとりをフューチャーする作りにしてあるので、たった3ヶ月でも、うまくて目立つ人あり、拙くて目立つ人あり。けれど、アンサンブルの見事さには舌を巻く。歌の力強さ、ハーモニーの美しさ、舞台を動き回るその自然さは、すでにある程度の水準に達していると思う。卒業生の演目の中では、「オリジナル」という点に注目したい。もちろん、著作権の問題などがからむから、という理由もあろうが、大きなプロダクションのコマとして使えればそれでいい、という養成ではなく、演劇というものをまるごと学ぶチャンスを与えられている。演劇とは、そこに人がいればできる奥の深い芸術だ。帝劇は大掛かりな舞台装置があって、マイクがあって、衣装もすごくて、そういうもののパーツとしてではなく、「そこにあなたがいればいい」という力のある役者をこの学校は育成しようとしていると思った。「東宝ミュージカル」アカデミーではあるけれど、卒業生の活躍の場は、きっと広がるに違いない。舞台の基礎のすべてを学びながら、自分にあった表現の場を模索できるいい修練の場になるだろう。一度観ただけでは、名前と顔はなかなか一致しないが、これから何度も観る中で、未来の大スターの最初の1歩の目撃者となりたい。*1 本科でも資質によっては、全額免除から3割免除まで学費の減免あり。*2 7/20は姿を見せていないが、卒業生のうち、 藤田光之、岡村さやか、竹内晶美は、素晴らしい。 特に、 小柄ながら感情がほとばしる圧倒的な歌唱力の岡村は、すでにスターのオーラあり。 竹内の美しい歌声は、これぞ正攻法。どんな舞台にあってもこういう人はほしい。 卒業生の活躍の場については、こちらに一覧表あり。 この前見た「ミス・サイゴン」のジジ役・池谷祐子も1期生なのね~!
2009.07.23
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2001年に放映された、野島伸司脚本のテレビドラマ「ストロベリ-・オンザ・ショ-トケ-キ」 窪塚洋介のカリスマ性が空気を支配する、はりつめたドラマです。 音楽教師(石田ゆり子)に恋をした窪塚は、わざと留年を繰り返し、学校に残る。昼休み、彼女が来ると確信して音楽室でピアノを弾く窪塚。 その姿を、向かいのビルの屋上から、雨が降るのもいとわずじっとみつめる深田恭子。 その深キョンに、そっと傘をさしているタッキー。 タッキーの愛を応援しながら、ほんとはずっと慕っている内山理名。誰もが自分の望む愛を得られず、その人の愛の成就をじっと支える。 そして石田ゆり子は? 「彼の才能の邪魔をしたくない。私は凡人。背伸びしてはりあっているけど、ほんとはついていくのが精一杯」 その昔、会うと約束せずに夏休みの教室でじっと待った日々。 背伸びして、借りた本を読みまくった。半分もわからなかった。でも、絶対さとられまいと、生意気な意見をこしらえた。 そんな思い出をカタチにしたいと思ったこともあったけど、 このドラマを見たら、これ以上のものは作れないと感じた。 アイドルやタレント集めただけのドラマじゃないか?などと食わず嫌いせずに、機会があったら、ぜひ見てみてください。 美しくて、哲学的な、若い愛の物語です。 いいドラマは、何度見てもステキです。サントラには、昨日ちょっと出てきた「ABBA」の名曲が効果的に使われています。*2006年7月14日のMixi日記をもとに書きました。
2007.02.08
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蜷川幸雄演出、藤原竜也主演、平幹二朗、鳳蘭、満島ひかり、満島真之介出演。それだけで話題になる舞台で、超プラチナチケットとなりました。スケジュール決められず出遅れたらもうチケット手に入らず、毎日「おけぴ」とにらめっこでようやく取れた「ハムレット」。行ってまいりました。私がこの「ハムレット」それも蜷川演出の「ハムレット」なかでも藤原竜也主演の「ハムレット」に執心なのは、こちらから、かつての蜷川ハムレットのレビューを読んでいただければわかると思います。待ちに待った、藤原竜也による12年ぶりの「ハムレット」再来。それも、蜷川のもとで。以下、率直な意見です。舞台装置など、ネタバレありますので、観劇がまだの方はご注意ください。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12年という年月は、ちょうど干支のひと回りにあたる。15歳でデビューし、21歳で「ハムレット役者」の仲間入りをした藤原はその「ひとまわり」でどれだけのものをつかんだのだろうか。蜷川作品に限らず、多くの舞台を務め、「デスノート」「カイジ」「るろうに剣心」など、映像の世界でも活躍した。しかし自身「地に足がついていない」ような頼りなさを覚えていた藤原がさいたまネクストシアターの「ハムレット」に刺激され、もう一度蜷川のもとで「ハムレット」をやりたい、と直訴した、と聞く。「自分自身が何者なのか発見する」ために。さいたまでの公演も最終版の2/14。まだ藤原は「自分」をみつけられず、もがき苦しんでいるように感じた。そこに、12年前のハムレットはいなかった。12年後のハムレットもいなかった。ハムレットという役を演じようとする「藤原竜也」という役者が、素のままで激しく動いていた、というべきか。感情の起伏が激しく、狂ったふりをしながら本当に狂ってしまいそうで、でも狂気の中を突っ走りながら、頭の芯は驚くほど研ぎ澄まされているそんなハムレットは、ちょっと気を許すと人格がバラバラになって場面と場面の間を生きていくことができなくなる。ひとつひとつの場面ではさすがと思わせるものはあったものの、(特に、王妃の寝室の場面、旅の途中でのフォーティンブラスとの交差、 オフィーリアへの「尼寺へ行け」など)科白が一本調子なのと、他の俳優の演技に対するリアクションが乏しいのが目についた。それが「リアル」なハムレット像の標榜なのかもしれないが、ここは舞台である。映像の世界のリアルとは異なる演技体系を求めてしかるべき。舞台の上で生きつつも、舞台の外の観客の息遣いを意識することが彼にはできていないように思えた。タイトルロールの色が乏しい中、平幹二朗が圧倒的な説得力でクローディアスの苦悩を演じる。兄嫁と王冠を手に入れる「野望」のため、実の兄を謀略で殺した罪におののきながら、「手に入れたものを手放さないで、神に懺悔できるだろうか」と揺れ動く心のありようを振り幅の広い演技で示した「祈り」の場は白眉。また、自ら仕込んだ毒入りの盃を、愛する王妃ガートルードがあおってしまった後の、クローディアスの表情たるや、舞台の前面では藤原ハムレットと満島レアティーズが剣をふるい、スピーディーで緊張感のある殺陣を披露しているにもかかわらず、まるでカラヴァッヂオの描くゴリアテの首か、ホロフェルネスの首のごとく、目を見開いてガートルードを見つめ続ける平クローディアスに、こちらの瞳も釘づけである。平は先王ハムレットの亡霊役も務めており、私にとってはもはやこの舞台が「ハムレット」ではなく「クローディアス」という題名ではなかったかとさえ思われるくらいだった。この舞台で、私を演劇的カタルシスにいざなってくれたのは、上記の平クローディアスのほかには、鳳蘭演じる王妃ガートルードだ。最初の一声の、なんと若々しいこと。ハムレットがクローディアスに嫉妬するほど、「きれいなお姉さん」ならぬ「美しすぎるお母さん」であったことが鳳蘭の「声」によって決定づけられた。美しいから、クローディアスも欲しくなった。そして血迷った。クローディアスに奪われて、息子のハムレットも爆発した。そういう「近親相かん」的解釈を全面に出した今回の芝居の核心をつかみ、つくりあげ、すべてを回したのは、鳳蘭の手腕である。満島ひかりのオフィーリアは、役に対する理解不足により未消化。あまりに現代的な解釈過ぎて、各場面でのオフィーリア像がバラバラになってしまった。しかし、オフィーリアという役は本当に難しい。蜷川もシェイクスピアも初心者なので、しかたがないだろう。声の通りのよさや歌のうまさは抜群なので、何かのきっかけがあれば、きっとよくなると思う。オフィーリアの兄レアティーズ役の満島真之介も然り。まっすぐな役を、まっすぐに演じて好感は持てるが、そんなまっすぐな青年が、なぜクローディアスの「奸計」に一気に加担してしまうのかに説得力がない。そこでの「黒い」部分が見えないと、最後に迷ったり改心したりする部分への橋渡しができない。蜷川の演出そのものはどうだったろうか。もっともすばらしかったのは、前述の「クローディアスの祈り」の場面。井戸水による禊という日本的なものと、その後の懺悔の背中に差し込む光というキリスト教的なものとの融合は、神々しいまでに美しかった。(この「井戸での禊」は平の提案だとのこと)次に度肝を抜かれたのが「ゴンザーゴ殺し」の劇中劇。歌舞伎の定式幕や付け打ちという図式は珍しくもないが、その幕が切って落とされたときに出現した雛人形の段飾りは美しく、そして一瞬で「ゴンザーゴ殺し」のコンセプトを示す力があった。このときの、劇中王・竹田和哲、劇中王妃・砂原健佑が健闘。様式美の中に、人物の心情をしっかりと表現した。それに先立って行われる「ヘカペ」の嘆きを歌舞伎調で演じプリアモスを立役(男役)即座にヘカペを女方という大門伍朗の実力が際立った。しかし、全体を通じて背景に使われる「19世紀終わりの日本の、貧しい人々が済む長屋」という大道具のコンセプトが、いったいどのくらいの意味をなしていたのかは不明。これがあってもなくても、舞台全体の様相はあまり変わらなかったのではないかと私は思う。「19世紀末の」「日本の」「貧しい」人々は、物語に何もインボルヴしてこないのだから。また、フォーティンブラスの描き方についても言及しておきたい。うつむいて、生気なく、小声で話すフォーティンブラス。それは「あり」だと思った。「小声」は、フォーティンブラス役の内田健司からの提案だという。さいたまネクストシアター所属の内田のアプローチを、蜷川は採用した。そのことは、「若者」とは何かを常に考える蜷川らしい決断で、時代をリアルに描きたい彼らしい選択である。だから「あり」ではあるが、それでもあの小声はあまりに小声すぎる。少なくとも、ラストはその「小声」の中に、「小声」でもデンマークを支配するフォーティンブラスとしての確固とした生き方が見えなければならない。弱いなら弱い、つまらないならつまらない、やりたくないならやりたくない。そこが見えなければ、演劇ではない。内田には、まだそこがわかっていないので、「リアル」に流れた分、かえってラストが「段取り」っぽくなってしまった。声だけ「リアル」でも、科白は「大時代」なのだから。内田は「小声」という枷があったから特別だが、彼を除いても、全般的に誰もが科白を早口でまくしたて、不明瞭。あるいは観客の耳に意味の杭を打てずに左から右へと流れていった。だから、平と鳳の科白だけが際立ったともいえる。早口でまくしたてても3時間半かかるのだから、ゆっくりしゃべるのは不可能かもしれない。けれど、シェイクスピアは科白劇だ。科白劇で科白が聞こえなかったら、いったい「ハムレット」を原作通りにやる意義はどこにあるのだろうか。その意味で、さいたまネクストシアターの「ハムレット」に私は感服したのである。若い俳優の卵たちが、「科白劇」に真っ向から挑み、シェイクスピアの「科白」の意味をまっすぐに観客に届けたから。それをふまえての今回の「ハムレット」がこの出来であることが心から残念でならない。さいたま芸術劇場では2/15(日)が最終日。これから大阪、台湾、ロンドンと公演は続く。蜷川ハムレットの総決算という意味もあるらしい今回の興行。どんどん進化して評判をとってほしいし、藤原竜也には厳しい道だが、ぜひ生まれ変わってもらいたい。そしてもう一度、さいたまに凱旋し、「まいりました」と言わせてほしい。
2015.02.14
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【送料無料】エルナニここのところ、読書三昧。今日はそのうち、外国文学関連のものを。以前「鶴屋南北とユゴーには共通点がある」と思いつき、、「エルナニ」読んだのがきっかけで、「クロムウェル序文」にも手を伸ばすこととなりました。私はフランス文学を専攻していたのですが、ここでおそわったもので「仏文学史」と「演劇史」がめちゃくちゃ面白かった。ここで、たくさんの古典の「さわり」を知ったことは、今の私にものすごくプラスになっていると思っています。その中で「ヴィクトル・ユゴー」といえば「エルナニ事件」と「クロムウェル序文」がとっても有名な事象として出てくるので、「名前」は知っていたのですが、私は大学卒業して30年、この「エルナニ」も「クロムウェル序文」もどちらも作品をきちんと読んだことがありませんでした。今回読んでみて、「エルナニ」は、戯曲全体としては古色蒼然というか、今の時代にこれをこのままやってもまったく受けないだろうと思いつつ、場面場面ではけっこうぐっとくるところがあって、そういうのは、ユゴーの筆力というか、詩的な文体とエネルギーの賜物だと思った。この作品は、戯曲として完成度が高いとか低いではなく、それまでの演劇のお約束をどんどん破っていったことへの評価なんだと思う。今見ればまったく当たり前のことを彼はこれでやった。今まで女は馬に乗ってはいけないと言われたのに初めて乗った、とか、くるぶしを見せるのもいけないといわれていたのに膝を出したとか、その類のものだと思う。じゃあ、ユゴーはどうしてそんな「掟破り」をやったのか。それが書いてあるのが「クロムウェル序文」。【送料無料】ヴィクトル・ユゴ-文学館(第10巻)これは名文!戯曲「クロムウェル」は全幕で6時間半くらいかかるという代物で、まったく上演に向いてなかったらしいが、この序文は長く生き残った。残っただけのことはある。名調子にして理路整然、この序文を読んでから演劇史を習ったら、全部わかる、みたいな感じです。面白いのは「先人はちゃんと約束事を守って名作を作っているじゃないか」という声に対し、「鬼才たちは、 あんな約束事から自由だったら、もっと傑作を書いていた」と断言しているところ。以前も書いたけど、「三一致の法則」というのがあって、それは時の一致、場所の一致、筋の一致なんだけど、とにかく24時間以内、同じ場所っていうのはムリってはっきり書いてある。「ラシーヌもコルネイユも、場所が一つじゃなかったら、 その事件を報告する場面じゃなくて、臨場感あふれる事件現場を芝居にしてた!」「僕たちもそういうのが見たかったよ!」って。ものすごく共感することが書いてあります。でもそうした法則がおかしいっていうんじゃなくて、ギリシャ時代にはそれがよかったけど、そのまま金科玉条のように18世紀にもってきたってダメ。今の時代に合った形に変化していく「自由」を認めろってことなの。抒情詩のギリシャ演劇、叙事詩のホメロスを経て、今はドラマを描かなければならない、という一種の唯物史観的な演劇進化論を若き日のユゴーは情熱的に訴え続けます。古典をリスペクトしながらも、「そのままなぞる=コピーする」だけでは芸術にはならない、と。「言葉は変化するもの。変化しないものは死んでるのと同じ。 だから、今のフランス演劇は死んでいる」すごくわかりやすい。演劇が好きな人、シェイクスピアが好きな人、フランス文学が好きな人は必読です。
2011.08.21
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最近、ドイツ文学づいているワタシ。行きがかり上、やっぱりダンテの「神曲」を読まなくっちゃダメかな~、…と思っていたら、夫の机の上に並んだ文庫の中に「ファウスト」発見!こりゃ、読まねば!と手に取ると、なんと、手塚治虫のマンガだった。大体が、「ファウスト」は「ファウスト」、「神曲」ではない。でも、とにかくダンテへの入門だ!とばかりに読み始めた。(…と思ったが、実は、「ファウスト」の作者はゲーテなのでした。 以下、思い込みで突っ走る私の読書体験)ファウスト1950年に21歳の手塚治虫が描いた「ファウスト」は、いわばゲーテの「ファウスト」のダイジェスト版。たいそう堅物の老学者で誰からも尊敬されているファウストが、悪魔メフィストフェレスと契約を交わし、心から満足のいく人生をもう一度歩むべく、若返らせてもらいさまざまな経験をする話だ。メフィストフェレスは、ファウストが「あー満足した!」と思った瞬間、彼を地獄に連れて行ける、という約束をした。私は原作をまだ読んだことがないけれど、手塚治虫の「ファウスト」は、悪魔が出てきたり、天使が王女に生まれ変わったり、と、後年の「リボンの騎士」を思わせる展開。どうやら、ファウストと手塚の心の交流は長く長く続くことになるらしい。私が手にした本は朝日文庫の「ファウスト」で、その中には、続けて「百物語」が収められていた。この「百物語」、手塚治虫47歳の時(1971年)に描かれた、いわば「ファウスト」の翻案もの。舞台は日本、時代は下克上の戦国時代。主人公はファウスト・ハインリヒならぬ一塁半里(一塁=ファースト→ファウスト、半里=ハインリッヒ)。彼が理不尽なお家騒動に連座し、斬首される寸前に「死にたくない!」と思うところから、この物語は始まる。どうみても非力でダサくてモテそうにない一塁を、女の妖怪・スダマがイケメンの男に変え、名前も不破臼人(ふわ・うすと=ファウスト)と名乗らせる。そして、一塁の望みである「一国一城の主になりたい」「イイ女をモノにしたい」「満足な人生を送りたい」の3つをかなえたら、魂を抜き取って自分のものにできる、という約束をするのだ。25年の歳月を経て、手塚はゲーテの大作の核心を会得して換骨奪胎、緻密な背景、魅力的なキャラクターを造り上げて素晴らしい物語を創造した。日本人だからだろうか、ゲーテのあらすじを知ってなお、「こっちのほうが上じゃないか?」と思ってしまう展開である。一つには日本人って、「天使」と「悪魔」っていう二律背反の法則が苦手でしょ。「天使」の中にも「悪魔」が棲み、「悪魔」もやがて「愛」を知る・・・みたいな。「悪魔」の変容だけではない。「人間」も成長する。不破(一塁)とスダマとの関係が、長い間連れそうことで微妙に変化していくところ、ダサい一塁が、魔法でイケメンになっても中身は前とおんなじ弱腰だったのを、少しずつ少しずつ、自分の力で人生を切り開くべく努力していくところなど、「魔法」や「妖怪」が出てくるけれど、そうしたSFチックな痛快さだけに終らないからこそ、ぐっと引き込まれていくのだと思う。騙されたとおもって、一度お手にとってくだされ。手塚治虫は、未来が舞台の「ネオ・ファウスト」という作品も手掛けている。こちらは未読。これも、読まねば!
2008.06.18
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この前、CNNのドキュメンタリー番組「Revealed」で、熊川哲也が特集されたことをお伝えしました。Webサイトでは、放送されなかった部分も含めてインタビューの全容が、「Q&A」という形で載っています。とっても内容が濃いので、ご紹介したいと思います。(英語の得意な方は、サイトを見てくださいね)熊川哲也、アンソニー・ダウエル、モニカ・メイスンの3人について、それぞれインタビューが行われていますが、インタビュアーがもっとも力を入れて質問しているのは「熊川哲也の英国ロイヤルバレエ団退団事件」についてです。(以下、アンソニーの言葉はweb上の英語を私流に訳しました。地の文は私の言葉です)あえて「事件」と書くのは、これは日本人が考えるよりずっと、大変なことだったから。当時イギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」は、第一報を一面トップで報じたくらいです。当時の芸術監督アンソニーはいいます。「地獄に突き落とされたかっていう気分だったね。だって、シーズンの途中だったし、その上彼は数人のダンサーを一緒に連れて行ってしまったから。あの時の傷は、まだ完全には癒えていないよ」とアンソニー。よっぽどショックだったんでしょう。でも、彼はオトナ。こう続けます。「もちろん、私とテディの間では、すべて許してるけどね。彼が自国でカンパニーを立ち上げることがどんなに重大なステップアップだったかは理解している。しかし私に言わせれば、メジャーなカンパニーと契約中で、もう踊るスケジュールが決まっている時にやる決断じゃない」そうでしょう、そうでしょう。彼のファンである私だって、その年10月から「Mr.Worldly Wise」に出演すると決まっているのを蹴って直前に退団するって、どういうこと?…と思ったくらいですから。「Mr.Worldly Wise」は、トワイラ・サープが熊川のために振付けた、というくらい、彼なしでは成り立たない演目なのです。「ここが自分に合わないと思ったら、出るのは自由だ。それは私もわかる。 でも、やり方っていうものがあるでしょう」たしかに「まだ傷は癒えてない」感じ。でも、そんなアンソニー、どうして今、Kバレエの名誉総裁をやったりして熊川と仲がいいんでしょう??「最初彼が立ち上げたKバレエと今とでは、実際かなり形が変わっています。 現在のKバレエ団は、正直賞賛に値するし、私は彼が成し遂げたものが誇らしい。 彼は今、(ダンサーだけでなく芸術監督として)逆の側からもバレエ団を見ています。 そして、かつて私が芸術監督として経験した「問題」も、経験しているでしょうから、 (自分がやらかしたことの重大さにも)気がついているでしょう。アンソニーは、名誉総裁を引き受けた経緯を、こんなふうに説明しています。「彼が私に名誉総裁になってくれと頼んできた時、 私はKバレエにとって、マーガレット王女のような立場なんだ、と思いました。 ロイヤルバレエはずっと王女を名誉総裁に戴いていましたし、 テディはそういうものがほしかった。 私はとてもうれしかった。「出奔騒動」のあんな怒りの後で、こんな光栄なことが起こるなんて。 アドバイザーとして関わってくれ、という頼みだったけど、 今じゃ舞台に上がることもあって、これがまたとっても楽しいんだ」インタビュアーは、熊川のケガについて、次のような質問しています。「ケガしたダンサーが戻ってきたとき、パフォーマンスに影響がありますか?」「これは彼にとってはじめての大きなケガです。 彼のバレエキャリアにおいて、ものすごく遅くに訪れた。 大きなケガの後、どんなふうにカムバックするか。そこに、たくさんの「調整」があります。 どうやって戻るか。たくさんのことが頭をよぎるでしょう。 きっと彼はうまくやりますよ。私は、「禍転じて福となす」と考える方なんでね。 これはバレエ団にとっていかに観客が大切かを知るチャンスなんだ。 いつか熊川も主役を踊れなくなる。 Kバレエはとてもいいプロダクションをもっているのだから、 (ダンサーとしての)熊川がいなくても、このカンパニーのクォリティが観客を魅了し、 それがずっと続くことを願っています」 他にも、アンソニーが彼を見初めた時の話などが載っています。詳しくは、Webまで。明日は、自身も高名なダンサーであり、アンソニーが芸術監督時代、その片腕として熊川を指導したモニカ・メイスンのインタビューの概要をお届けします。アンソニーよりずっと身近で熊川を見てきたモニカの意見には「なるほど~」と思うこと多々あり。また、アンソニーとともに組織の苦悩にもつきあっていたので、「電撃退団」の裏側がもっとあらわに「Revealed」です!
2007.12.19
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