出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年09月22日
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浪士組に 勅諚 朝旨 が下る背景には234名の浪士たちの武力の存在がある。
浪士組採用の際に、50人の予定を無理やり234人の組織にした理由はここにもある。

 それでは、 学習院 に建白書を提出し、直接朝廷から命令をもらう、“ 天皇直属の攘夷実行隊 ”にするという発想はどこから来たのか・・・考えたい。

 一見、一介の浪人たちが建白書を朝廷に提出し勅諚をもらうなどということは無謀にも思える。
(「佐倉義民伝」にもあるように、江戸時代、将軍への直訴は死罪であった。)


薩摩藩が幕府内への介入(文久の改革)をしていた頃、長州藩は朝廷内への介入を行っていた。
文久2(63)年12月、朝廷内では、京都に集まった諸大名や志士ら政治勢力からの建白が急増したことに対応するため、衆議機関として「 国事御用掛 」が設置された。 (関白以下左右大臣らが御用掛を兼任)

 八郎(浪士組)が京都に着いた2月には「 国事参政 」、「 国事寄人 」が設置され、公武合体派にかわり 尊皇攘夷派 の公家(長州藩と結託)が台頭する。京都の政局は公武合体派に変わり 尊攘派 が牛耳るようになった。

 陳情、建白書に対応する機関として、朝廷の教育機関であった「 学習院 」が役割を担い、これまでの受付の対象も「諸藩(薩摩・長州・土佐)への開放(文2/10/17)」から「 草莽への開放 」に拡大された。


 ちなみに、これより後の3月のことになるが、朝廷には 真木和泉 (久留米藩、九州遊説で意気投合)や 平野国臣 (福岡藩、九州遊説で意気投合)が出仕していた(時期は不明)。こうした尊攘派の同士たちから八郎にも多くの情報が入ったとしても不思議はない。
八郎のタイミングは絶妙でこの時代の 学習院 (草莽の志士からの建白書を受入て処理する)のシステムを利用したと言える。

(先駆け)ていた。

 "八郎グラフィティ”には、勅諚を得た直後の話として、“さっそく長州藩士・伊藤俊輔(博文)や土佐藩士・吉村寅太郎らが八郎に会いに来た”と書かれている。
それまでの八郎は薩摩藩士との関わりは出てくるが長州藩士との関わりがあまり出てこない。長州の情報は、この京都で得ることが多かったのかもしれない。

そして、将軍の上洛のタイミングで、幕臣の山岡を使い、山岡の名で幕府御目付・池田修理 宛てに「攘夷の号令をすみやかに天下に布告すべし」と勧告するなど、同時期に攘夷を大規模にしようとする工面が見られる。

 浪士組結成から京都滞在までの経緯をまとめると、次のようになる。
(「>」は 世の中の出来事)
>1863/12/ 8(文2/10/17): 「国事御用掛」の設置、「薩摩・長州・土佐」諸藩への開放

>1863/ 3/22(文3/ 2/ 4): イギリス軍艦3隻 (ユーライアス、ラットラー、レースホース)の横浜港来航
・1863/ 3/22,3(文2/2/4-5): 浪士組の採用試験

・1863/ 3/26 (文3/ 2/ 8): 浪士組、江戸を出発

>1863/ 3/31 (文3/ 2/13): 将軍家茂が、老中と約3000人の供を従えて江戸を出発

>1863/ 4/ 6 (文3/ 2/19): 将軍家茂が、二条城に入る
>1863/ 4/ 7 (文3/ 2/20): 「国事参政」、「国事寄人」が設置と、「 学習院 」の「 草莽への開放

・1863/ 4/10 (文3/ 2/23): 浪士組、京都壬生村に到着、八郎の「 新徳寺演説 」と上書連名
・ 同日                           : 八郎、父への手紙「4月初めにまたまた、関東に帰り申すべく候」の内容含む
・1863/ 4/11 (文3/2/24) :「 学習院 」への建白書(浪士一同連判)の提出(1回目)

・1863/ 4/16 (文3/2/29) : 浪士組、(八郎作成の攘夷の)勅諚と、朝旨(関白からの達文)を賜る。
・1863/ 4/17 (文3/2/30) : 上書「関東での攘夷の先鋒を勤め度(た)き旨(むね)」の提出(2回目)

>1863/ 4/19 (文3/3/ 2): 松平春嶽(公武合体派)が政事総裁職の辞任(慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすることへの反対の理由で)
・1863/ 4/20 (文3/3/ 3) : 関白・鷹司輔熙(すけひろ)から 東下の命 (浪士組を江戸に戻す/勅諚)が浪士役人に下りる
>1863/ 4/21 (文3/3/ 4) : 将軍・家茂将軍家茂と一橋慶喜が 攘夷実行の不可能を説くために229年ぶりに上洛
・1863/ 4/22 (文3/3/ 5): 八郎「将軍に攘夷の勅を奉じ雄断に出でしむる事等10策」の建白提出(3回目、「書を国事掛けに上がり、江戸に戻って、攘夷の準備を乞う」という内容含む)
・1863/ 4/22 (文3/3/ 5) : 高橋精一郎(泥舟)を浪人取締役にする(取締役2人体制)
・1863/ 4/26 (文3/3/ 9) : 八郎、山岡の名で、幕府御目付・池田修理 宛てに「攘夷の号令をすみやかに天下に布告すべし」と勧告

・1863/ 4/29 (文3/3/12) : 新徳寺において浪士組全員へ 東下の披露会 (八郎から一同に向かって、関白の命によって「 攘夷の先鋒となる旨(むね) 」を言い渡す)
近藤勇・土方歳三・芹沢鴨の一党の脱退(十三名)
・1863/ 4/30 (文3/3/13) : 浪士組、京都(新徳寺)を出発し京都を離れる(一同は木曽路を通って江戸に向かう)


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最終更新日  2022年03月01日 21時36分31秒
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