出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年10月15日
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 2つ目の誤算は、近藤勇らのグループが将軍家警護を理由に浪士組から離脱したことだ。後に新撰組となる13名で浪士組としては24名が京都に離脱残留した。人数的には浪士組全体の1割に満たない少人数なのだが、後々幕末の志士たちを苦しめる大きな存在になる。

 このグループが浪士組に参加しようとしたきっかけは、近藤の道場にいた、「攘夷論者の永倉が主唱して「攘夷党」に加わろうということに一決した」ことだった。そして、近藤、土方、永倉など7、8名は直接、松平主税介を訪ねて浪士組募集話の真相を聞きに行ったという。そこで「尊王攘夷の本旨のことから、公儀で募る浪士の一隊は 来春上洛すべき将軍家茂の警護として京都へすすめられるべきもの」であることを説き聞かせられ参加した(以上、「 」は徳田氏)。
 このグループは、京都に来る道中でもゴタゴタが表面化していた。大川周明は、「(近藤一党は)固(もと)より八郎等と、志を異にしている。ただ八郎は聊(いささ)かも玉石混淆(こんこう)を厭(いや)(で)はなかった」と説明する。

 このエピソードからも浪士組の結成が攘夷が主目的としてあったことがわかる。松平主税介は松平春嶽により浪士組の浪士取扱に任命されたいわゆる浪士組の総責任者だ。江戸にあふれるやっかいな浪士たちを集めて将軍の警護として京都に連れて行く目的だったとの説もある。八郎の浪士組結成のコンセプトはあくまで尊王攘夷で、名目上は「急務三策」の中の「攘夷と天下の英材を教育す」に当てはまるだろう。組織的には虎尾の会の仲間が多く入り虎尾の会の拡大版になっていた。八郎には近藤たちを説得できる自信もあったが、その時間が足りなくてもの別れになったのかもしれない。
 もともと浪士組は幕府が作った幕府下の組織なので主税介の意見も無視できないと事情もあっただろう(主税介は浪士取扱、八郎は取締役)。すべてを八郎が人選したり決定できたとは考えにくい。(おそらく、近藤グループは、別の浪士募集の機会などで幕府側に組することができただろう。ただ、この時の浪士組へ参加していなければ京都に来ることはなかったのかもしれない。)

 近藤グループが、浪士組を離脱したのは東下の披露会 (「攘夷の先鋒となる旨(むね)」の発表)を行った日、つまり浪士組が京都を経つ前日だった。(八郎の新徳寺の演説では池田を除き、全員が上書への署名を行っている。)
 「彼らは、自分どもは幕府の召に応じて集まったものであるから、将軍家の命令がなければ一歩も退かぬというのである。蓋し(思うに)・・・これにより立身出世をする心組であった・・・」と、大川周明の説明はやや厳しめだ。離脱した13名はのちに新撰組となり勢力を拡大し、八郎を含め尊王攘夷派志士の命を狙うことになる。
 また、京都ではどうしてだったのだろうヒステリックな集団の一面ももってしまった。後の結果からみると浪士組は大きく新徴組と新撰組(約9割と1割)に別れたことになる。そして、その後の新選組の活躍はテレビや本など見るとおりである。

 ところで、近藤勇や土方歳三、沖田総司は、関東の多摩地区の出身として有名だ。近藤一党は、同郷として仲間意識も高く一緒に浪士組に参加した。
 多摩地区は、現多摩川の流域(扇状地の一角)で関東平野の西側(埼玉県、東京都、神奈川県にまたがる)を占める広大な地域だ。一説には、多摩川の扇状地は、東は川越(埼玉県)から、西は川崎(神奈川県)に及ぶ。関東平野の西側の半域を占め、現在でも多摩川にまつわる地名が多く残る。今はその大部分が都心近郊としての工業団地と東京都心へのベッドタウンのようだ。

 ちなみに土方の出身地 日野市について 東京都教育委員会WEBページには、「甲州道中日野宿は江戸日本橋から約10里(39.3km)の距離にあります。宿場の周囲には稲作地帯が広がり、経済的に豊かでした。この一帯は幕府領や旗本領であるため親幕的な気風があり、八王子千人同心の影響もあって剣術が盛んでした。」・・・とある。幕府の善政、幕府の求心力が残っていた地域だったのかもしれない。
 幕末の志士など幕末で活躍した人達は、意外に裕福な家に生まれた人達が多い。この時代も生活にゆとりがなければ政治活動はむずかしいかったのだろう。近藤グループも裕福な家の出の人が多かった。もう少し別の情報が入っていれば、違う道に進んでいたのかもしれない。いつの時代も適格な情報をつかむということはとても重要だと思う。
 新撰組は会津藩同様、幕府を守ろうと尽力するが極端な幕府への忠誠がわざわいし、逆に幕府に裏切られるような結末を迎える・・・(庄内藩にも耳が痛い話でもある)。浪士組への参加の動機の1つが立身出世だったことは決して悪いことではない。努力の先がよい道にさえへつながれば・・・時代の犠牲者の一面もあると思う。幕末は主流と反主流が目まぐるしく変わり、「勝てば官軍のことわざ」どおり、身の振り方がむずかしい時代だった。

 (敬称略) 

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最終更新日  2020年05月10日 13時32分45秒
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