元気力UP!

元気力UP!

2015年01月26日
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カテゴリ: 吾輩は猫である




礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなる事だ。
主人は平気で細君の尻のところへ頬杖を突き、細君は平気で主人の顔の先へ荘厳なる尻を据えたまでの事で無礼も糸瓜もないのである。
御両人は結婚後一ヵ年も立たぬ間に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。
――さてかくのごとく主人に尻を向けた細君はどう云う了見か、今日の天気に乗じて、尺に余る緑の黒髪を、麩海苔と生卵でゴシゴシ洗濯せられた者と見えて癖のない奴を、見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま小供の袖なしを熱心に縫っている。
実はその洗髪を乾かすために唐縮緬の布団と針箱を椽側へ出して、恭しく主人に尻を向けたのである。
あるいは主人の方で尻のある見当へ顔を持って来たのかも知れない。
そこで先刻御話しをした煙草の煙りが、豊かに靡く黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ陽炎の燃えるところを主人は余念もなく眺めている。
しかしながら煙は固より一所に停まるものではない、その性質として上へ上へと立ち登るのだから主人の眼もこの煙りの髪毛と縺れ合う奇観を落ちなく見ようとすれば、是非共眼を動かさなければならない。
主人はまず腰の辺から観察を始めて徐々と背中を伝って、肩から頸筋に掛ったが、それを通り過ぎてようよう脳天に達した時、覚えずあっと驚いた。
――主人が偕老同穴を契った夫人の脳天の真中には真丸な大きな禿がある。
しかもその禿が暖かい日光を反射して、今や時を得顔に輝いている。
思わざる辺にこの不思議な大発見をなした時の主人の眼は眩ゆい中に充分の驚きを示して、烈しい光線で瞳孔の開くのも構わず一心不乱に見つめている。
主人がこの禿を見た時、第一彼の脳裏に浮んだのはかの家伝来の仏壇に幾世となく飾り付けられたる御灯明皿である。
彼の一家は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。
主人は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられたる金箔厚き厨子があって、その厨子の中にはいつでも真鍮の灯明皿がぶら下って、その灯明皿には昼でもぼんやりした灯がついていた事を記憶している。
周囲が暗い中にこの灯明皿が比較的明瞭に輝やいていたので小供心にこの灯を何遍となく見た時の印象が細君の禿に喚び起されて突然飛び出したものであろう。
灯明皿は一分立たぬ間に消えた。
この度は観音様の鳩の事を思い出す。
観音様の鳩と細君の禿とは何等の関係もないようであるが、主人の頭では二つの間に密接な聯想がある。
同じく小供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。
豆は一皿が文久二つで、赤い土器へ這入っていた。
その土器が、色と云い大さと云いこの禿によく似ている。

「なるほど似ているな」と主人が、さも感心したらしく云うと「何がです」と細君は見向きもしない。

「何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。
知ってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。
別段露見を恐れた様子もない。
超然たる模範妻君である。

「嫁にくるときからあるのか、結婚後新たに出来たのか」と主人が聞く。
もし嫁にくる前から禿げているなら欺されたのであると口へは出さないが心の中で思う。

「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって宜いじゃありませんか」と大に悟ったものである。

「どうだって宜いって、自分の頭じゃないか」と主人は少々怒気を帯びている。

「自分の頭だから、どうだって宜いんだわ」と云ったが、さすが少しは気になると見えて、右の手を頭に乗せて、くるくる禿を撫でて見る。
「おや大分大きくなった事、こんなじゃ無いと思っていた」と言ったところをもって見ると、年に合わして禿があまり大き過ぎると云う事をようやく自覚したらしい。

「女は髷に結うと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ」と少しく弁護しだす。

「そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、から薬缶ばかり出来なければならん。
そりゃ病気に違いない。
伝染するかも知れん、今のうち早く甘木さんに見て貰え」と主人はしきりに自分の頭を撫で廻して見る。

「そんなに人の事をおっしゃるが、あなただって鼻の孔へ白髪が生えてるじゃありませんか。
禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ」と細君少々ぷりぷりする。



本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。

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