元気力UP!

元気力UP!

2015年02月05日
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カテゴリ: 吾輩は猫である




意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ」
「なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い」と鈴木君はなぜだか面白がっている。
迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。
これが利口な人の特色かも知れない。

「何が面白いものか」と主人は今でも怒 っている様子である。

「それは御気の毒様、それだからその埋合 せをするために孔雀 の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。
まあそう怒 らずに待っているさ。
しかし著書と云えば君、今日は一大珍報を齎 らして来たんだよ」
「君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん」
「ところが今日の珍報は真の珍報さ。
正札付一厘も引けなしの珍報さ。
君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。
寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。
君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士 の夢でも見ているかも知れない」
鈴木君は寒月の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬと顋 と眼で主人に合図する。
主人には一向 意味が通じない。
さっき鈴木君に逢って説法を受けた時は金田の娘の事ばかりが気の毒になったが、今迷亭から鼻々と云われるとまた先日喧嘩をした事を思い出す。
思い出すと滑稽でもあり、また少々は悪 らしくもなる。
しかし寒月が博士論文を草しかけたのは何よりの御見 やげで、こればかりは迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報である。
啻 に珍報のみならず、嬉しい快よい珍報である。
金田の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。
とにかく寒月の博士になるのは結構である。
自分のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木 のまま燻 っていても遺憾 はないが、これは旨 く仕上がったと思う彫刻には一日も早く箔 を塗ってやりたい。

「本当に論文を書きかけたのか」と鈴木君の合図はそっち除 けにして、熱心に聞く。

「よく人の云う事を疑ぐる男だ。
――もっとも問題は団栗 だか首縊 りの力学だか確 と分らんがね。
とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない」
さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に云うのを聞くたんびに鈴木君は不安の様子をする。
迷亭は少しも気が付かないから平気なものである。

「その後鼻についてまた研究をしたが、この頃トリストラム・シャンデーの中に鼻論 があるのを発見した。
金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。
鼻名 を千載 に垂れる資格は充分ありながら、あのままで朽 ち果つるとは不憫千万 だ。
今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう」と相変らず口から出任 せに喋舌 り立てる。

「しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と主人が今鈴木君から聞いた通りを述べると、鈴木君はこれは迷惑だと云う顔付をしてしきりに主人に目くばせをするが、主人は不導体のごとく一向 電気に感染しない。

「ちょっと乙 だな、あんな者の子でも恋をするところが、しかし大した恋じゃなかろう、大方|鼻恋 くらいなところだぜ」
「鼻恋でも寒月が貰えばいいが」
「貰えばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。
今日はいやに軟化しているぜ」
「軟化はせん、僕は決して軟化はせんしかし……」
「しかしどうかしたんだろう。
ねえ鈴木、君も実業家の末席 を汚 す一人だから参考のために言って聞かせるがね。
あの金田某なる者さ。
あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人と崇 め奉るのは、少々|提灯 と釣鐘と云う次第で、我々|朋友 たる者が冷々 黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい実業家の君でもこれには異存はあるまい」
「相変らず元気がいいね。
結構だ。
君は十年前と容子 が少しも変っていないからえらい」と鈴木君は柳に受けて、胡麻化 そうとする。

「えらいと褒 めるなら、もう少し博学なところを御目にかけるがね。
昔 しの希臘人 は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。
しかるに不思議な事には学者の智識に対してのみは何等の褒美 も与えたと云う記録がなかったので、今日 まで実は大 に怪しんでいたところさ」
「なるほど少し妙だね」と鈴木君はどこまでも調子を合せる。

「しかるについ両三日前に至って、美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団 は一度に氷解。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。







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Last updated  2025年04月15日 18時03分39秒
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