元気力UP!

元気力UP!

2015年05月31日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と主人が寒月君に向って迷亭君の失恋を評すると、寒月君は「しかしその娘が丸薬缶でなくってめでたく東京へでも連れて御帰りになったら、先生はなお元気かも知れませんよ、とにかくせっかくの娘が禿 であったのは千秋 の恨事 ですねえ。
それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」「僕もそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。
蛇飯てえ奴はのぼせるからね」「しかしあなたは、どこも何ともなくて結構でございましたね」「僕は禿にはならずにすんだが、その代りにこの通りその時から近眼 になりました」と金縁の眼鏡をとってハンケチで叮嚀 に拭 いている。

「あの鬘はどこで買ったのか、拾ったのかどう考えても未 だに分らないからそこが神秘さ」と迷亭君はまた眼鏡を元のごとく鼻の上へかける。
「まるで噺 し家 の話を聞くようでござんすね」とは細君の批評であった。

迷亭の駄弁もこれで一段落を告げたから、もうやめるかと思いのほか、先生は猿轡 でも嵌 められないうちはとうてい黙っている事が出来ぬ性 と見えて、また次のような事をしゃべり出した。

「僕の失恋も苦 い経験だが、あの時あの薬缶 りになるんだから、よく考えないと険呑 だよ。
結婚なんかは、いざと云う間際になって、飛んだところに傷口が隠れているのを見出 す事がある者だから。
寒月君などもそんなに憧憬 したり独 りでむずかしがらないで、篤 と気を落ちつけて珠 を磨 るがいいよ」といやに異見めいた事を述べると、寒月君は「ええなるべく珠ばかり磨っていたいんですが、向うでそうさせないんだから弱り切ります」とわざと辟易 したような顔付をする。
「そうさ、君などは先方が騒ぎ立てるんだが、中には滑稽なのがあるよ。
あの図書館へ小便をしに来た老梅 君などになるとすこぶる奇だからね」「どんな事をしたんだい」と主人が調子づいて承 わる。
「なあに、こう云う訳さ。
先生その昔静岡の東西館へ泊った事があるのさ。
――たった一と晩だぜ――それでその晩すぐにそこの下女に結婚を申し込んだのさ。
僕も随分|呑気 だが、まだあれほどには進化しない。
もっともその時分には、あの宿屋に御夏 さんと云う有名な別嬪 がいて老梅君の座敷へ出たのがちょうどその御夏さんなのだから無理はないがね」「無理がないどころか君の何とか峠とまるで同じじゃないか」「少し似ているね、実を云うと僕と老梅とはそんなに差異はないからな。
とにかく、その御夏さんに結婚を申し込んで、まだ返事を聞かないうちに水瓜 が食いたくなったんだがね」「何だって?」と主人が不思議な顔をする。
主人ばかりではない、細君も寒月も申し合せたように首をひねってちょっと考えて見る。
迷亭は構わずどんどん話を進行させる。
「御夏さんを呼んで静岡に水瓜はあるまいかと聞くと、御夏さんが、なんぼ静岡だって水瓜くらいはありますよと、御盆に水瓜を山盛りにして持ってくる。
そこで老梅君食ったそうだ。
山盛りの水瓜をことごとく平らげて、御夏さんの返事を待っていると、返事の来ないうちに腹が痛み出してね、うーんうーんと唸 ったが少しも利目 がないからまた御夏さんを呼んで今度は静岡に医者はあるまいかと聞いたら、御夏さんがまた、なんぼ静岡だって医者くらいはありますよと云って、天地玄黄 とかいう千字文 を盗んだような名前のドクトルを連れて来た。
翌朝 になって、腹の痛みも御蔭でとれてありがたいと、出立する十五分前に御夏さんを呼んで、昨日 申し込んだ結婚事件の諾否を尋ねると、御夏さんは笑いながら静岡には水瓜もあります、御医者もありますが一夜作りの御嫁はありませんよと出て行ったきり顔を見せなかったそうだ。
それから老梅君も僕同様失恋になって、図書館へは小便をするほか来なくなったんだって、考えると女は罪な者だよ」と云うと主人がいつになく引き受けて「本当にそうだ。
せんだってミュッセの脚本を読んだらそのうちの人物が羅馬 の詩人を引用してこんな事を云っていた。
――羽より軽い者は塵 である。
塵より軽いものは風である。
風より軽い者は女である。
女より軽いものは無 である。
――よく穿 ってるだろう。
女なんか仕方がない」と妙なところで力味 んで見せる。
これを承 った細君は承知しない。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2015年05月31日 09時20分37秒
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