元気力UP!

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2015年06月05日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
それからいよいよ談判が始まって散々 価切 った末おやじが、買っても好いが品はたしかだろうなと聞くと、ええ前の奴は始終見ているから間違はありませんがね後 ろに担 いでる方は、何しろ眼がないんですから、ことによるとひびが入ってるかも知れません。
こいつの方なら受け合えない代りに価段 を引いておきますと云った。
僕はこの問答を未 だに記憶しているんだがその時小供心に女と云うものはなるほど油断のならないものだと思ったよ。
こんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし、眼を放して後 ろへ担 いだ方は険呑 だなどと云う事も聞かないようだ。
だから、僕の考ではやはり泰西 文明の御蔭で女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろう寒月君」
寒月君は返事をする前にまず鷹揚 な咳払 を一つして見せたが、それからわざと落ちついた低い声で、こんな観察を述べられた。
「この頃の女は学校の行き帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちょいと買って頂戴な、あらおいや? などと自分で自分を売りにあるいていますから、そんな八百屋 のお余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依托販売
人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。
老人なんぞはいらぬ取越苦労をして何とかかとか云いますが、実際を云うとこれが文明の趨勢 ですから、私などは大 に喜ばしい現象だと、ひそかに慶賀の意を表しているのです。
買う方だって頭を敲 は一人もいないんですからその辺は安心なものでさあ。
またこの複雑な世の中に、そんな手数 をする日にゃあ、際限がありませんからね。
五十になったって六十になったって亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません」寒月君は二十世紀の青年だけあって、大 に当世流の考を開陳 しておいて、敷島 の煙をふうーと迷亭先生の顔の方へ吹き付けた。
迷亭は敷島の煙くらいで辟易 する男ではない。
「仰せの通り方今 の女生徒、令嬢などは自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来ていて、何でも男子に負けないところが敬服の至りだ。
僕の近所の女学校の生徒などと来たらえらいものだぜ。
筒袖 を穿 いて鉄棒 へぶら下がるから感心だ。
僕は二階の窓から彼等の体操を目撃するたんびに古代|希臘 の婦人を追懐するよ」「また希臘か」と主人が冷笑するように云い放つと「どうも美な感じのするものは大抵希臘から源を発しているから仕方がない。
美学者と希臘とはとうてい離れられないやね。
――ことにあの色の黒い女学生が一心不乱に体操をしているところを拝見すると、僕はいつでも Agnodice の逸話を思い出すのさ」と物知り顔にしゃべり立てる。
「またむずかしい名前が出て来ましたね」と寒月君は依然としてにやにやする。
「Agnodice はえらい女だよ、僕は実に感心したね。
当時|亜典 の法律で女が産婆を営業する事を禁じてあった。
不便な事さ。
Agnodice だってその不便を感ずるだろうじゃないか」「何だい、その――何とか云うのは」「女さ、女の名前だよ。
この女がつらつら考えるには、どうも女が産婆になれないのは情けない、不便極まる。
どうかして産婆になりたいもんだ、産婆になる工夫はあるまいかと三日三晩手を拱 いて考え込んだね。
ちょうど三日目の暁方 に、隣の家で赤ん坊がおぎゃあと泣いた声を聞いて、うんそうだと豁然大悟 して、それから早速長い髪を切って男の着物をきて Hierophilus の講義をききに行った。
首尾よく講義をきき終 せて、もう大丈夫と云うところでもって、いよいよ産婆を開業した。
ところが、奥さん流行 りましたね。
あちらでもおぎゃあと生れるこちらでもおぎゃあと生れる。
それがみんな Agnodice の世話なんだから大変|儲 かった。
ところが人間万事|塞翁 の馬、七転 び八起 き、弱り目に祟 り目で、ついこの秘密が露見に及んでついに御上 の御法度 を破ったと云うところで、重き御|仕置 に仰せつけられそうになりました」「まるで講釈見たようです事」「なかなか旨 いでしょう。
ところが亜典 の女連が一同連署して嘆願に及んだから、時の御奉行もそう木で鼻を括 ったような挨拶も出来ず、ついに当人は無罪放免、これからはたとい女たりとも産婆営業勝手たるべき事と云う御布令 さえ出てめでたく落着を告げました」「よくいろいろな事を知っていらっしゃるのね、感心ねえ」「ええ大概の事は知っていますよ。
知らないのは自分の馬鹿な事くらいなものです。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2015年06月05日 08時46分42秒
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