元気力UP!

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2015年12月09日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
鳴く事を始めから予期して懸って、ただ打つと云う命令のうちに、こっちの随意たるべき鳴く事さえ含まってるように考えるのは失敬千万だ。
他人の人格を重んぜんと云うものだ。
猫を馬鹿にしている。
主人の蛇蝎 のごとく嫌う金田君ならやりそうな事だが、赤裸々をもって誇る主人としてはすこぶる卑劣である。
しかし実のところ主人はこれほどけちな男ではないのである。
だから主人のこの命令は狡猾 の極 に出
つまり智慧 の足りないところから湧 いた孑孑 のようなものと思惟 する。
飯を食えば腹が張るに極 まっている。
切れば血が出るに極っている。
殺せば死ぬに極まっている。
それだから打 てば鳴くに極っていると速断をやったんだろう。

その格で行くと川へ落ちれば必ず死ぬ事になる。
天麩羅 を食えば必ず下痢 する事になる。
月給をもらえば必ず出勤する事になる。

必ずそうなっては少し困る人が出来てくる。
打てば必ずなかなければならんとなると吾輩は迷惑である。
目白の時の鐘と同一に見傚 されては猫と生れた甲斐 がない。
まず腹の中でこれだけ主人を凹 ましておいて、しかる後にゃーと注文通り鳴いてやった。

すると主人は細君に向って「今鳴いた、にゃあと云う声は感投詞か、副詞か何だか知ってるか」と聞いた。

細君はあまり突然な問なので、何にも云わない。
実を云うと吾輩もこれは洗湯の逆上がまださめないためだろうと思ったくらいだ。
元来この主人は近所合壁 有名な変人で現にある人はたしかに神経病だとまで断言したくらいである。
ところが主人の自信はえらいもので、おれが神経病じゃない、世の中の奴が神経病だと頑張 っている。
近辺のものが主人を犬々と呼ぶと、主人は公平を維持するため必要だとか号して彼等を豚々 と呼ぶ。
実際主人はどこまでも公平を維持するつもりらしい。
困ったものだ。
こう云う男だからこんな奇問を細君に対 って呈出するのも、主人に取っては朝食前 の小事件かも知れないが、聞く方から云わせるとちょっと神経病に近い人の云いそうな事だ。
だから細君は煙 に捲 かれた気味で何とも云わない。
吾輩は無論何とも答えようがない。
すると主人はたちまち大きな声で
「おい」と呼びかけた。

細君は吃驚 して「はい」と答えた。

「そのはいは感投詞か副詞か、どっちだ」
「どっちですか、そんな馬鹿気た事はどうでもいいじゃありませんか」
「いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ」
「あらまあ、猫の鳴き声がですか、いやな事ねえ。
だって、猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか」
「それだからさ。
それがむずかしい問題なんだよ。
比較研究と云うんだ」
「そう」と細君は利口だから、こんな馬鹿な問題には関係しない。
「それで、どっちだか分ったんですか」
「重要な問題だからそう急には分らんさ」と例の肴 をむしゃむしゃ食う。
ついでにその隣にある豚と芋 のにころばしを食う。
「これは豚だな」「ええ豚でござんす」「ふん」と大軽蔑 の調子をもって飲み込んだ。
「酒をもう一杯飲もう」と杯 を出す。

「今夜はなかなかあがるのね。
もう大分 赤くなっていらっしゃいますよ」
「飲むとも――御前世界で一番長い字を知ってるか」
「ええ、前 の関白太政大臣でしょう」
「それは名前だ。
長い字を知ってるか」
「字って横文字ですか」
「うん」
「知らないわ、――御酒はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ」
「いや、まだ飲む。
一番長い字を教えてやろうか」
「ええ。
そうしたら御飯ですよ」
「Archaiomelesidonophrunicherata と云う字だ」
「出鱈目 でしょう」
「出鱈目なものか、希臘語 だ」
「何という字なの、日本語にすれば」
「意味はしらん。
ただ綴 りだけ知ってるんだ。
長く書くと六寸三分くらいにかける」
他人なら酒の上で云うべき事を、正気で云っているところがすこぶる奇観である。
もっとも今夜に限って酒を無暗 にのむ。
平生なら猪口 に二杯ときめているのを、もう四杯飲んだ。
二杯でも随分赤くなるところを倍飲んだのだから顔が焼火箸 のようにほてって、さも苦しそうだ。
それでもまだやめない。
「もう一杯」と出す。
細君はあまりの事に
「もう御よしになったら、いいでしょう。
苦しいばかりですわ」と苦々 しい顔をする。

「なに苦しくってもこれから少し稽古するんだ。
大町桂月 が飲めと云った」
「桂月って何です」さすがの桂月も細君に逢っては一文 の価値もない。

「桂月は現今一流の批評家だ。
それが飲めと云うのだからいいに極 っているさ」


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2015年12月09日 15時14分23秒
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