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少しはこの辺の事情を察して主人も少々怒るのを差し控 えてやったら、八っちゃんの寿命が少しは延びるだろうに、いくら金田君から頼まれたって、こんな愚 な事をするのは、天道公平君よりもはげしくおいでになっている方だと鑑定してもよかろう。
怒るたんびに泣かせられるだけなら、まだ余裕もあるけれども、金田君が近所のゴロツキを傭 って今戸焼 をきめ込むたびに、八っちゃんは泣かねばならんのである。
主人が怒るか怒らぬか、まだ判然しないうちから、必ず怒るべきものと予想して、早手廻しに八っちゃんは泣いているのである。
こうなると主人が八っちゃんだか、八っちゃんが主人だか判然しなくなる。
主人にあてつけるに手数 は掛らない、ちょっと八っちゃんに剣突 を食わせれば何の苦もなく、主人の横 っ面 を張った訳になる。
昔 し西洋で犯罪者を所刑にする時に、本人が国境外に逃亡して、捕 えられん時は、偶像をつくって人間の代りに火 あぶりにしたと云うが、彼等のうちにも西洋の故事に通暁 する軍師があると見えて、うまい計略を授けたものである。
落雲館と云い、八っちゃんの御袋と云い、腕のきかぬ主人にとっては定めし苦手 であろう。
そのほか苦手はいろいろある。
あるいは町内中ことごとく苦手かも知れんが、ただいまは関係がないから、だんだん成し崩しに紹介致す事にする。
八っちゃんの泣き声を聞いた主人は、朝っぱらからよほど癇癪 が起ったと見えて、たちまちがばと布団 の上に起き直った。
こうなると精神修養も八木独仙も何もあったものじゃない。
起き直りながら両方の手でゴシゴシゴシと表皮のむけるほど、頭中引き掻 き廻す。
一ヵ月も溜っているフケは遠慮なく、頸筋 やら、寝巻の襟 へ飛んでくる。
非常な壮観である。
髯 はどうだと見るとこれはまた驚ろくべく、ぴん然とおっ立っている。
持主が怒 っているのに髯だけ落ちついていてはすまないとでも心得たものか、一本一本に癇癪 を起して、勝手次第の方角へ猛烈なる勢をもって突進している。
これとてもなかなかの見物 である。
昨日 は鏡の手前もある事だから、おとなしく独乙 皇帝陛下の真似をして整列したのであるが、一晩寝れば訓練も何もあった者ではない、直ちに本来の面目に帰って思い思いの出 で立 に戻るのである。
あたかも主人の一夜作りの精神修養が、あくる日になると拭 うがごとく奇麗に消え去って、生れついての野猪的 本領が直ちに全面を暴露し来 るのと一般である。
こんな乱暴な髯をもっている、こんな乱暴な男が、よくまあ今まで免職にもならずに教師が勤まったものだと思うと、始めて日本の広い事がわかる。
広ければこそ金田君や金田君の犬が人間として通用しているのでもあろう。
彼等が人間として通用する間は主人も免職になる理由がないと確信しているらしい。
いざとなれば巣鴨へ端書 を飛ばして天道公平君に聞き合せて見れば、すぐ分る事だ。
この時主人は、昨日 紹介した混沌 たる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。
これは高さ一間を横に仕切って上下共|各 二枚の袋戸をはめたものである。
下の方の戸棚は、布団 の裾 とすれすれの距離にあるから、起き直った主人が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。
見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙な腸 があからさまに見える。
腸にはいろいろなのがある。
あるものは活版摺 で、あるものは肉筆である。
あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。
主人はこの腸を見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。
今までは車屋のかみさんでも捕 えて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろうくらいにまで怒 っていた主人が、突然この反古紙 を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう云う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。
小供が泣くときに最中 の一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。
主人が昔 し去る所の御寺に下宿していた時、襖 一 と重 を隔てて尼が五六人いた。
尼などと云うものは元来意地のわるい女のうちでもっとも意地のわるいものであるが、この尼が主人の性質を見抜いたものと見えて自炊の鍋 をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのはこの時からだと云うが、尼は嫌 にせよ全くそれに違ない。
主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。
よく云えば執着がなくて、心機 がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく云えば奥行のない、薄 っ片 の、鼻 っ張 だけ強いだだっ子である。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
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