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数ある京都の神社の中でも、最も人気が高く、その代表ともいえる神社が平安神宮でしょう。今や多くの観光客が訪れる、京都観光の中心地となっていて、また、平安神宮のある岡崎公園周辺は、美術館や文化会館などが立ち並ぶ、京都における、文化施設の中心地ともなっています。平安神宮とは、平安京の創設者である桓武天皇と京都最後の天皇となった孝明天皇を祭神として祀っている神社。しかし、その歴史はというと、明治28年(1895年)の創建ということで、京都の中でも、かなり歴史の浅い神社なのであります。でも、この平安神宮とは、いったい、どういう経緯により創建された神社なのでしょう。実は、この平安神宮の社殿というのは、明治期に行われた「内国勧業博覧会」という催しのメインパビリオンとして造られた建物がその前身であり、この博覧会を京都に招致するに至った「平安遷都1100年祭」というイベントを通して、京都の復興を目指す京都市民の熱い思いが、この平安神宮の創建へとつながっていったものなのでありました。そこで、今回のお話は、平安神宮について。その創建と密接に関連した博覧会のお話と、平安神宮に残る文化遺産についてまとめてみたいと思います。***明治時代の京都・・・。これについては、これまでにも書いたことがありますが、東京遷都によって打撃を受け、京都の町は急速に衰退を見せていました。そうした中、京都は、やっきになって近代化などの復興策を打ち出していきます。その代表的なものが、琵琶湖疏水の開削事業であり、それに伴う発電所の建設であったのですが、こうした政策により、徐々に京都は、復興への足がかりをつかんでいきます。そして、そうした中で、次なる復興策として、企画されたのが「平安遷都1100年祭」という、記念イベントなのでありました。この「平安遷都1100年祭」を実施するという建議がなされたのは、明治25年のこと。・桓武天皇が平安京で初めて朝賀の儀を行った延暦14年(794年)を記念日とし、 明治28年(1895年)に記念祭を行うこと。・その記念行事として「内国勧業博覧会」を京都に招致し、この年に合わせて行うこと。ここで、このような記念祭実施に向けての基本方針が決められていきます。ちなみに、この「内国勧業博覧会」というのは、開催されるのが、これが4回目。元々、これは、当時、積極的に殖産興業を推進していた明治政府が、産業の奨励と国民への啓蒙を進めるために、力を注いでいたもので、5~8年おきくらいの間隔で、定期的に実施されていたものでありました。しかし、これまでの勧業博覧会の会場は、いずれも東京の上野。これを何とか京都で実施し、京都活性化の起爆剤にしていきたいと、強力に招致活動を続けたのでありました。その結果、4回目の「内国勧業博覧会」は、京都で開催するということが決定され、その会場として、洛東・岡崎の地が選ばれることになります。そして、この時に企画されたのが、平安京の頃の大内裏(朝堂院)を復元して、それをこの博覧会のメインパビリオンとしようとするものなのでありました。残されていた資料を基にして、大極殿・応天門・青龍楼・白虎楼などの建物が、次々と建てられていきます。そして、さらには、このパビリオンの建設と並行して、博覧会の終了後には、この建物を神社として残し、雅やかな京都を後世まで伝えていこう、という意見が市民の間から盛り上がってくることになります。一方で、そうした神社発足のための準備も進められていき、そうした経緯の中から、今に残る平安神宮が生まれてくるわけです。また、博覧会を開催するにあたっては、会場への交通の整備ということも重要でした。これには、市街電車を開業させることとして、そのための工事も急ピッチで進められていきます。開会の2カ月前に、まず、一部の区間が開業。開会日の当日には、博覧会場までの路線が完成しました。これが、日本で初めての電力を動源とした”電車”の走行ということになり、この博覧会においても、これが大きな注目を集めることになります。さらに、もう一つ、この博覧会で注目を集めたイベントがありました。それが、平安時代から明治維新までの歴史・風俗を、時代を下りながら行列を行うというもの。この時代行列が、第一回目の「時代祭」であり、これが、今日まで毎年続けられていく京都の祭典へと発展していくこととなります。明治28年(1895年)4月1日。いよいよ、第4回の「内国勧業博覧会」が開幕しました。この時、会場には、工業館、農林館、器械館、水産館、美術館、動物館などが軒を連ね、連日、多くの来場者が訪れて大変な賑わいをみせたのだそうです。出品された総点数は16万3000点。来場者は、結局、4か月間の会期終了時点で113万人をこえるという大成功となりました。そして、これを契機にして京都の町は、より一層の活況を取り戻していくことになったのでした。さて、それでは、現在の平安神宮について、少し見ていきましょう。朱塗りの大鳥居をくぐって、まっすぐ歩いていくと、そこが平安神宮の正面になります。この門が、博覧会の時に建てられた「応天門」。この門をくぐると、そこに、平安神宮の社殿が広がっています。正面に「大極殿」があり、その左右には「青龍楼」「白虎楼」が建ちます。これらは、博覧会の時、かつての宮殿を5/8の大きさに縮小して作られたものだといい、往時の平安京のたたずまいを再現しようと、建築されたものなのでありました。これが「大極殿」。今は、平安神宮の拝殿となっています。これは「青龍楼」。これも、元の平安京の頃にあった建物を再現したということで、これと同形の建物「白虎楼」と左右対称にして建てられています。平安神宮の周囲には「神苑」と呼ばれる庭園もあります。西庭・中庭・東庭・南庭と、4つの区域に分かれた広大な庭園で、そのうち、西庭と中庭は、博覧会の時、すでに造られていたものなのでありました。この庭を築いたのが、明治を代表する名造園家といわれている七代目・小川治兵衛という人。彼は、博覧会終了後においても、この「神苑」の改良・拡張を20年の歳月をかけて行ったといわれていて、それだけに、とても素晴らしい見事な庭園になっていると思います。この「神苑」は、植物園のような楽しみ方も出来、深山を歩いているかのような部分もあり、東山の借景が美しい回遊式庭園でもあり、と、いくつもの変化に富んでいて、とても楽しめる庭であります。この「神苑」もそうなのですが、平安神宮を訪ねた時には、どこか、明治の頃の京都人の心意気のようなものが、伝わってくるように感じられます。「平安遷都1100年祭」というイベントは、遷都後、衰退していた京都を復興させるために行われた様々な施策の集大成のようなものでありました。その記念行事の一つであった「時代祭」は、その後、平安神宮の祭礼となり、それが、今でも市民が総出で奉仕する、京都市民が主体のイベントとして、現代にまで続けられています。京都を何とか復興したいという、明治の頃の熱い思いと、長い年月、日本の都であったという、京都人の持つプライドのようなものも。平安神宮というのは、まさに、そうした明治の頃の京都の熱気が、綿々と受け継がれてきている神社なのだと思います。
2012年01月15日
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戦国時代の武将たちの中で一番の悪人は誰でしょう。悪人といっても、どういう基準で悪人と判定するかによって結果が違いますそこは独断と偏見で勝手に選んでみました。又、時代的には秀吉が天下統一をするまでの期間としています。殺生関白と呼ばれたとんでもない天下人、豊臣秀次などは除外しました。 主家を滅ぼしたという意味での悪人の代表は明智光秀でしょう。突然本能寺に信長を襲った事は戦国時代で最も衝撃を与えた大事件。でも光秀は悪人という人柄でなく、教養のあるインテリであり常識人であったと思います。それだけに、先取的な信長には相当なストレスを感じていたことと同情します。むしろ織田信長の方が比叡山焼き討ちや長島一向一揆弾圧等、戦いに関係のない多くの一般人を殺戮したとう点では一番の悪人といえるかもしれません。しかし、彼は戦国のスーパースターであり悪人というイメージではありません。 蝮とよばれた斎藤道三は、一介の油売りから美濃の国主に登りつめましたが、そのためには利用できるものは利用し自分にとって価値がなくなると始末するといった冷酷さがあります。釜茹での刑を行うに、その妻や親兄弟に釜を焚かせたといった話も残っています。 しかしその上をいく悪人はやはり松永久秀でしょう。信長が家康に対して久秀のことを「この老人は、人がひとつとしてなし得ないことを3つ行っている。主家の三好に叛いた事、将軍を殺害したこと、大仏殿を消失させたこと、普通のものは一つとしてようせぬことであるが、それを3つともやってのけた人でござるよ」と話したそうです。それまでに大仏を消失させた人物は平安末期の平重衡だけですし、現役の将軍を殺害したのは足利義教を殺害した赤松満祐と足利義輝を殺害した久秀だけです。実績?の上で松永久秀が三拍子揃っています。
2006年03月04日
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最近、仕事で、月一回程度千葉市に行っているのですが、その時に目にするのが「花の都・ちば」というキャッチフレーズ。JR千葉駅の駅前には、Jリーグ・ジェフユナイテッドの応援キャラクターとともに「花の都・ちば」と書かれたモニュメントがあり、目をひきます。そういえば、数年前に、千葉マリンスタジアムにロッテ戦の試合を見に行った時にも、幕張に同様のモニュメントがあったことを思い出しました。町をあげてのキャンペーンなのかなと思い家に帰って調べてみると、千葉市が推進している、都市イメージのプロジェクトのようです。この都市イメージ確立のための取り組みについて、千葉市長のお話が、「ちばニュース」のホームページに掲載されていましたので、抜粋します。----------------------------------------------------------------------千葉市は、全国的に名前を知られる都市イメージが乏しいことを残念に思っていました。そこで、千葉市の特長は何かを考えてみたところ、温暖で、四季に応じた穏やかな変化がある気候であると思ったのです。この特長を活かした都市イメージを考えた結果、四季折々にいろいろな花を楽しめるまちづくりをする、すなわち「花の都・ちば」の実現を目指すことにしたのです 基本的なコンセプトは、「四季折々に花のあふれる協働のまちづくり」を掲げ、市内のあらゆるところで、市民、民間団体、企業、花の生産者などと連携を図りながら、様々な取り組みを展開します。私は、単に花を飾るということだけではなく、″緑を大切に,ごみのないきれいな街″そして″人の心もきれいな美しい街″を目指していきたいと思います。このように街を思いやる意識が高まり、市民の皆さんが、ご自分の家や、地域を花で飾り、ああ綺麗な町だなあ、ずっと住んでいたいと思えるようになったとき、目標が達成されるのではないかと思っています。----------------------------------------------------------------------なるほど。素晴らしい取り組みだと思います。私の住む大阪などでは、そうした市民レベルで共同して取り組んでいこうというような意識が希薄であるように感じます。そういえば、千葉で見かける電車の広告にも、市民への呼びかけのようなものが見られたりと、千葉というところは、何か、そうした市民意識の高さを感じたります。住みやすく魅力のあるまちにしたいという”まちづくり”についての意識も高いのかもしれません。この「花の都・ちば」は、行政主体の”まちづくり”への取り組みではありますが、住民が主体となった”まちづくり”の動きも、全国の色々な町で進められています。自然発生的な地域社会の結びつきが、希薄になっている現代社会。それだけに、こうした取り組みに対して、市民が意識を高めていくことが、これからは、より大きな意義を持ってくるのではないかと感じています。
2009年04月18日
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平安初期のお公卿さんに、小野篁(おののたかむら)という人がいます。政治家であり、学者、歌人としても知られた人です。わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟百人一首にも、参議篁という名で彼の歌が登場してきます。遣隋使として有名な小野妹子の子孫であり、また、彼の子孫には三蹟の一人である書の名手、小野道風がいます。篁という人は、学問や歌に関しても一流で、なかなかの才人であったことは間違いないのですが、しかし、その反面、反骨精神が旺盛で上司に反発して、遣唐使として渡航することを拒否し、さらには、朝廷までをも批判して、流罪に処せられたことさえありました。そうした奇矯な行動、変人といった側面も小野篁という人にはあります。中でも、その典型的なものが、この世と冥界とを行き来していたとされる伝説。小野篁は、昼は朝廷に勤め、夜になると冥界に行って閻魔大王に仕えていたと言い伝えられている人なのです。そうした小野篁の事跡が残されている寺の一つが、京都・東山にある六道珍皇寺というお寺です。この門前には、「小野篁卿旧跡」、「六道の辻」といった石碑が立てられています。「六道の辻」というのは、六道珍皇寺の門前付近の通りのことを言い、この道が、京の葬送の地である鳥辺野へと続いていたためにここが生と死の境界であり、死後の世界、地獄への入り口であると考えられていたのです。境内に入ると、正面に本堂、右手に閻魔堂と鐘楼、左手に地蔵堂があります。このうち、閻魔堂には、等身大の小野篁像と篁が作ったと伝えられている閻魔大王像が祀られています。普段は、このお堂の扉は閉ざされているのですが、隙間から、その姿を垣間見ることは出来ます。覗いてみると、どちらも凄い形相で、ちょっと怖いです。また、境内には、篁が冥界へ趣く際に、通路として使用していたという「冥土通いの井戸」というものも残されているそうです。但し、こちらは、一般には非公開です。篁には、他にも、閻魔大王に口添えして、親しい人を死から救ったという話や知り合いを地獄に案内したという話などが伝えられています。これらは、もちろん伝説なのですが、篁には、そう思わせるような言動や、雰囲気があったのでしょうし、当時の人々は、また、それを本気で信じていたのだと思います。六道珍皇寺というお寺は、普段は訪れる人も少なく、ひっそりとした静かなお寺です。ただ、8月7日から10日にかけて、お盆の時期に限っては、「六道まいり」という精霊迎えの行事が、ここで行われるため、大勢の人で、大層にぎわうのだそうです。この時には、閻魔堂の横にある鐘楼の鐘を参拝者が順番に打ち鳴らします。これは「迎え鐘」と呼ばれているもので、精霊をこの世に迎えるための鐘であると言われています。現在でも、お盆には祖先の霊を迎える行事が行われますが、もともと、こうした行事を始めた人が、この小野篁であったのだともいわれています。かつては日本各地で行われていたであろう精霊迎え行事の原初の姿。六道珍皇寺には、今でもそれが残されています。とても、珍しく、貴重な行事であると思いますね。お盆の時期に、ここを訪れてみれば、いにしえ人の心象風景が体感できるのかも知れない。六道珍皇寺は、そういう独特の雰囲気を持ったお寺であります。
2011年01月23日
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明治維新の立て役者薩摩藩には、お家騒動を発端とする派閥争いがあり、それが幕末における薩摩藩の動きを大きく特徴付けています。お由羅騒動と呼ばれるお家騒動です。幕末の薩摩藩を理解するため、今回はお由羅騒動についてまとめてみます。時代は少し遡ります。 斉彬・久光の曽祖父にあたる25代重豪は、新しいもの好きで、舶来品を集め藩内で開化政策を取りました。重豪は斉彬を可愛がり、斉彬も重豪から多く影響を受けたといいます。一方、重豪の孫にあたる27代斉興はそれと対照的な保守家で、新しい産業・海外の文明等に嫌悪感を示す人でした。斉興は重豪に似て新しいもの好きの嫡子斉彬を、明らかに嫌っていたようです。さらに側室のお由羅は我が子久光を溺愛し、陰謀をめぐらせました。ここに「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動が繰り広げられていく事になります。お由羅は久光を藩主にしようと企て、斉彬の子を毒殺や呪詛など色々な手を使い、次々に命を奪っていったといいます。藩内では斉彬の側に立ちお由羅の罪状を糾弾しようとする正義派と、斉興の側に立つ保守派に分かれ派閥争いが続きました。正義派はその都度証拠を挙げ、事の真実を暴こうとしましたが、保守派に敗れ正義派の人達は死罪に処せられていきました。保守派優勢のまま藩状が推移していきます。斉興は斉彬が40才を過ぎても家督を譲ろうとせず、実権を握り続けました。嘉永4年(1851年)斉彬と親しい時の老中阿部正弘らが事態収拾に乗り出し、斉興に隠居を進めたことでようやく斉彬が薩摩藩主に就任します。斉彬43才の時です。この段階で斉彬の子の内、菊三郎以下4人の男子と2人の女子がすでに死亡していました。このうちの大半はお由羅の陰謀が関係していたものと思われます。さらに、斉彬が藩主についても、お由羅はなおあきらめませんでした。やがて、斉彬最後の子虎寿丸も死亡します。これに対し、西郷ら正義派はこれに激しく憤慨しお由羅の殺害を計画しました。しかし、この事で藩内の紛争が広がることを恐れた斉彬はこれを抑えました。保守派に対しての処分も一切行わず、西郷を慰留したのです。安政5年(1858年)井伊直弼の独断政治・安政の大獄が始まると斉彬はこれに反発し、兵を率いて上京し幕政改革の勅許を受ける事を計画。その準備を進めます。しかし、出兵準備の操練中斉彬は水を飲んだことで倒れ、高熱と腹痛に襲われます。実際はコレラであったと言われていますが、西郷はじめ正義派の面々はこれもお由羅の陰謀であると思い込みました。斉彬は死の前に久光を枕元に呼び、久光の子又次郎を次の藩主とする事自らの子哲丸を又次郎の養子とする事久光に又次郎を補佐し、藩政を執る事を久光に頼み、さらに自らの志を継いで欲しいと訴えます。久光は平伏し、号泣してこれを請けたといいます。久光の子又次郎は、忠義と名乗り29代藩主に就任しました。久光は決して凡庸な人物ではありませんでしたが、斉彬とは違い徹底した保守派であり、強い権勢欲を持った人でありました。久光自身はお由羅の陰謀には関わりをもっておらず、その陰謀についてもほとんど知らなかったと思われます。思想的に異なるとはいえ、異母兄斉彬のことを尊敬していた部分があったと思われます。しかし正義派の面々、特に斉彬から厚い恩寵を受けていた西郷は、お由羅及びその一派に対して強い憎しみを持ち続け、久光も又、保守派の家臣から歪曲した西郷観を聞かされて、西郷は大悪人であると思い込んでいました。西郷と久光のねじれた憎悪関係は、幕末維新の薩摩に影響を与えました。そうした中、故斉彬の遺志を果たそうとする久光は兵を率いて上京する日が来るのを待ち望んでいたのです。
2006年08月14日
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幕末という時代は、日本史上初めて、写真という形で当時の情景や歴史的人物の生の姿が残された時代でもあります。写し出された幕末の写真を見ていると、その時代が、より躍動感を持って、より身近に感じられます。初めて写真に触れたときの日本人は、驚きと衝撃を受け、また、その一方では、非常な興味を持って写真技術を吸収していきました。しかし、写真という新技術が日本に定着していくまでには、いくつかの過程があり、また、複数の人が、様々な地域で、それぞれが独自に写真技術の取得に取り組んで、発展させてきたものでありました。彼らの懸命な探究心、研究心によって写真が日本に定着し、普及していったということが出来ます。そこで、今回のお話は幕末写真史について。写真機の発明・伝来から、初めて写真に触れた時の日本人の様子について、まとめてみたいと思います。*まずは、写真機の発明から、ということで、世界的に見てみると、感光材を使った写真機を最初に作ったのは、フランス人のニエプスという人。およそ1800年頃であるといわれ、アスファルトの感光性を利用したものであったといいます。しかし、この時の写真は、撮影(露光)に8時間を要し、また、映りも鮮明ではなく、その後も改良が進められていきます。そして、その後、主流となっていったのが、こちらもフランス人のダゲールという人が開発した写真技術。銀メッキをした銅板を感光材として用いたもので、露光時間は、当初のもので20分程度、その後、改良が加えられて、1~2分で撮影できるようになり、いよいよ、写真が実用的なものになっていきます。この写真機は、開発者ダゲールの名前から「ダゲレオタイプ」と呼ばれ、これが、やがて、日本にも伝えられて、日本では「銀板写真」と呼ばれることになります。ところで、写真機の日本への伝来です。日本に写真機が伝わったのは、1848年(嘉永元年)であったといわれ、これを輸入したのが、長崎の貿易商・上野俊之丞という人でした。この人、坂本龍馬の写真を撮ったことでも知られている上野彦馬のお父さんですね。そして、この俊之丞が輸入した写真機(ダゲレオタイプ)は、やがて、薩摩藩の手へとわたっていくことになります。さて、この頃の薩摩藩は、英明の誉れが高い名君・島津斉彬のもとで、積極的に西欧の近代科学の研究に取り組んでいました。斉彬はかねてから、この銀板写真についても興味を持っていたようで、斉彬は、福岡の黒田や水戸徳川など、親しい大名にもこの最先端技術である写真について話をし、やがて、いくつかの藩において、銀板写真の実験・研究が進められていきます。しかし、この銀板写真の撮影は、現実には、なかなかうまくいかなかったようです写真機はあっても、現像するための薬剤についても、よくわからず、写真として残すに至るまでには、なお、数年の歳月を要すことになります。そうした中、日本中を震かんさせる事件が起こりました。1853年(嘉永6年)のペリー艦隊・黒船の来航です。日本と西欧文明との直接の出会いとなったこの事件は、日本における写真の歴史という面でも、画期的な第一歩となっていきます。ペリー艦隊は、横浜・下田・箱館などに寄港・上陸しましたが、この時、艦隊の従軍写真家であるE・ブラウン・ジュニアという人が町に出て、生活の様子を写し、何人かの日本人を撮影したのです。写真撮影をしているブラウンを見掛けた庶民たちは、これに驚愕・興奮を示し、もしや魔術ではないかと噂しあったといいます。しかし、その一方、写真に対して冷静に興味を示した人たちもいました。石川某という、武州の名主は、撮影の様子や写真機の形をスケッチし、その様子を克明に書き残しています。写真についての知識をある程度持っていた、蘭学者の佐久間象山は、撮影中のブラウンと写真問答をしたということを、日記に記しています。いずれにせよ、初めて写真撮影を目の当たりにした日本人は、激しい驚きと興味を示したのでありました。ブラウンがこの時に写した写真は、「ペリー提督日本遠征記」の挿絵として使用するために撮影されたものだったのですが、同時に、これが、日本人が写された最初の写真となったのであります。 ペリー応接の通訳を務めた名村五八郎 安政元年(1854) E・ブラウン・ジュニア撮影の銀板写真日本人が写された、おそらく、一番最初の写真であろうと思われます。 松前藩家老・松前勘解由とその従者安政元年(1854) E・ブラウン・ジュニア撮影の銀板写真箱館での撮影。さて、その一方、薩摩など先進諸藩での写真研究は、なおも試行錯誤の実験を繰り返していました。薩摩では、科学者である市来四郎が中心となり、幾度も挫折を味わいながらも、研究が進められていました。しかし、それでも、ようやく成果が出始めます。撮影が成功したとする記事が、いくつか記録として残されるようになりました。そして、この頃に撮影された写真として、唯一伝わっているのが、この一枚です。 島津斉彬像安政4年(1857) 市来四郎らが撮影した銀板写真日本人が撮影に成功した、現存最古の写真です。しかし、それにしても、この銀板写真というのは、撮影が難しく、また、退色しやすいため保存に適さないということもあって、結局、一般には普及しませんでした。そうした中、やがて、新たな写真技術が日本に伝わります。それは、イギリスで開発されたコロジオンプロセスという写真機で、日本では「ガラス湿板」と呼ばれました。そして、この「ガラス湿板」が、「銀板写真」にとって代わることになり、やがて、幕末期の写真全盛時代を迎えていくこととなるのですが、この続きは、また、次回です。
2011年02月13日
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「ハンサムウーマン」というのは、新島八重につけられたニックネームのようなもの。正しいと信じたことには一歩も引かない頑固さを持ち、相手が男であろうが対等に振る舞うといった、八重の男勝りな性格は、男尊女卑が当たり前という世相の中では、相当、型破りのものでありました。それ故に「烈婦」「悪妻」とも評されていた新島八重。しかし、そうした彼女を微笑ましく思い、伴侶として迎え入れたのが新島襄でありました。「彼女は決して美人ではない。しかし、生き方がハンサムなのだ。」というのは、新島襄の言葉。アメリカで長年暮らし、レディーファーストが当たり前という西洋文化を身につけていた襄にとっては、八重こそが、理想の女性であったのだろうと思われます。今回は、この日本人離れしたカップル、新島襄と妻の八重のお話についてまとめてみたいと思います。***新島襄が生まれたのは、江戸末期の天保14年(1843年)。上州安中藩(現在の群馬県安中市)の藩士の子として生まれました。襄というのは、のちの名で、本名は七五三太(しめた)といいます。17才の時、幕府が開設した軍艦操練所に入所し、そこで洋学を学びますが、その中で、聖書の存在を知り、それに魅せられたということが、彼の生涯を決定づけることになりました。キリスト教の学べる国、アメリカに行きたい。そう思い立った襄は、当時、開港地となっていた箱館へと向かい、そこから船で、アメリカに向け、密出国します。元治元年(1864年)のことでありました。上海を経由して、ボストンへ・・・。この船の中で、彼は船員たちから「ジョー」と呼ばれ、このことから、いつしか、ジョーの名を使い始めたといいます。ボストンにつくと大学に入学。やがてキリスト教の洗礼を受けました。ボストン滞在、7年目のこと、アメリカを、明治政府の岩倉使節団が訪れます。この時に知り合ったのが、明治政府の高官であった木戸孝允で、木戸が襄の語学力を大いに評価したということから、襄は、通訳として使節団に参加することとなりました。フランス・スイス・ドイツ・ロシアとヨーロッパ各地をめぐり、見聞を広めた襄は、行程の最後に報告書をまとめ、明治政府に提出しています。その後、再び、アメリカに戻った襄。神学校に入学し、本格的にキリスト教学を学びますが、しかし、この頃には、日本に戻ってキリスト教の精神に基づいた学校を作りたいと考えるようになっていました。明治7年(1874年)神学校を卒業した襄は、10年間暮らしたアメリカを離れ、日本に帰国します。そして、ここから、英学校(のちの同志社大学)の設立に向けて、積極的な活動を始めることになります。まず、英学校をどこに作るかということについて、新島家は、以前から公家の高松宮家と親交があったということから、その屋敷跡を用地として借りることが出来る目途がたち、英学校の設立する場所を、京都と定めます。次いで、資金の融資、官庁からの認可の手続きなど、種々の設立準備に追われる日々。それでも、明治8年(1875年)には、なんとか、同志社英学校を開校させることが出来ました。当初は、教員2名、生徒8名でのスタートであったといいます。一方、そうした中、襄は、京都府知事の槇村正直や顧問であった山本覚馬と懇意な仲になっていきます。そして、訪れた八重との出会い。八重を新島襄に紹介したのは、槇村知事だったということのようですが、その時のエピソードです。襄が、槇村知事のところへ英学校設立についての援助を求めに行った時のこと。どんな女性と結婚したいかという話題になりました。すると襄は、「夫が東を向けと言ったら、3年も東を向いているような女性は嫌です。」と答えます。それなら、ちょうど、うってつけの女性がいると、槇村知事が紹介したのが山本八重。この頃の八重は、女紅場(京都で作られた女学校)の指導教官を務めていて、槇村のところにも、女紅場の補助金を増やして欲しいと、度々直訴に訪れていました。槇村にすれば、自己主張の強い八重に手を焼いていたところでもあり、彼女こそ、襄の望みにぴったりの娘だと思ったのでしょう。その後、襄は覚馬の家を訪ね、八重と再会します。この時の八重は、井戸の戸板の上に腰を掛け、裁縫をしていたのですが、襄は、その大胆な振る舞いに心引かれます。板が折れてしまえば、大ケガをするだろうに・・・。その危うげな姿に魅せられたということなのかも知れません。この翌年、襄と八重は結婚することになります。一方、この頃の、同志社英学校は、キリスト教主義であるということから、京都の仏教界からの激しい反発を受けていました。仏教界は、京都府にも圧力をかけ、これが元で、同志社設立に尽力していた山本覚馬は、槇村知事と対立することになります。これにより、覚馬と八重は、京都府の職を解かれることになるのですが、それでも、覚馬は、同志社への支援を続けました。覚馬は、烏丸今出川に持っていた土地を、同志社に提供。これが、現在の同志社大学本校となり、この時に、生徒の数も35人に増えたのだといいます。覚馬の積極的な支援もあり、その後、同志社は発展を続けていくことになります。今でも、当時のままに近い姿で保存されている「旧新島邸」。ここが、襄と八重が夫婦生活を送った場所でありました。夫のことを、いつも「ジョー」と呼び捨てにし、また、夫をかしずかせていたともいう新島八重。当時は、同乗することすら、はばかられていたという人力車に乗る時も夫より先に乗りこんでいたといい、その姿を見た世間から悪妻と評され、周囲との確執も多かったのだといいます。しかし、襄はそんな八重のことを、優しく諌めながら見守っていたのだそうです。ただ、そんな2人ではあっても、その夫婦仲は至って良かったとのこと。それというのも、八重のそうした振る舞い自体、襄自身が、望んでいたものであったからなのだと思います。新島襄が亡くなったのは、明治23年(1890年)のこと。同志社の系列校を設立していく活動をしているさなかの急逝でありました。享年46才。新島襄亡き後の八重は、社会活動に生涯を捧げました。日本赤十字社に入会し、特に、病院看護の分野において、実績を残していきます。日清・日露の戦争の時には、篤志看護婦として従軍。この時には、看護婦全体の取締責任者として、怪我人の看護にあたり、また、後進の指導や看護婦の地位向上にも努めていたのだといいます。これらの功績が認められ、八重は、国から勲章をもらっていますが、これが、皇族以外の女性として、初めての叙勲となったのでありました。新島八重、昭和7年(1932年)没。享年86才。時代をさきがけていったかのような、この2人は、めげずに貫き通すことの大切さを、今に教えてくれているように思えます。
2013年03月17日
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広島東洋カープのホームグラウンド・広島市民球場は、老朽化のため、今シーズン限りで公式戦の幕を閉じます。私は、小学生の時にプロ野球に興味を持ち始めた頃からのカープファンで、1975年にカープが初優勝した時には、広島に駆けつけたいと思ったほどでした。今年は、広島市民球場のラストシーズン。今回は是非とも、と思い、9月23日の広島ー巨人戦を見に行ってきました。広島市民球場での試合も、残すところ、あと数試合ということで、いつにも増して、多くのファンが列を作っていました。ファイナルシーズン記念グッズの売り場の前も、黒山の人だかりで、商品を手に取るのもやっとというくらいの盛況ぶりでした。試合開始前には、広島市民球場のマスコット”スライリー”もファンとふれあい、サービスしてくれています。ゲームが始まると、ホーム球場独特の歓声・盛り上がりに包まれ、思わず感激がこみ上げてきます。本日の来場者には、赤い紙面に「THANKS STADIUM」と書かれたリーフレットが配られていて、5回裏終了時に、「球場を赤く染めましょう」というアナウンスとともに、観客が一斉に赤いリーフレットをかざして、球場に感謝を示しました。野球に興味のない方、カープファンでない方申し訳ございません。でも、思い入れがあると、どうしても熱くなってしまいます。広島カープは、原爆により焼け野原となった広島の町をなんとか再興しようという、広島市民の強い思いから発足した球団でした。創設当時の球団は、極度の資金難にあえいでいて、広島市民が、酒樽に募金を募って資金集めまでして、球団存続のため尽力しました。1957年には、念願の、ナイター設備がついた球場が完成。これが、現在の広島市民球場です。この球場は、広島市民にとっての希望の星だったんですね。試合の方は、延長12回に及ぶ熱戦の末、両者譲らず、4対4の引き分け。白熱した試合と球場の熱気の中、最後の広島市民球場の姿を胸に刻み込んで、広島をあとにしました。今年のカープは、クライマックスシリーズ出場の可能性も残されており、また、市民球場のファイナルシーズンでもあるので、是非とも頑張って欲しいものです。
2008年09月28日
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私、どちらかというと気に入ったものには、のめりこんでしまう、たちのようで、読書についても、広く浅くというより、偏ってしまう傾向があります。その一つが、アガサ・クリスティのミステリー。推理物、ミステリーも好きなのですが、しかし、それも、クリスティ作品に偏っています。アガサ・クリスティといえば、ポアロとマープル。2人の名探偵が有名ですね。エルキュール・ポアロは、卵型の頭に、大きなヒゲが特徴のベルギー生まれの探偵。自称”灰色の脳細胞”を駆使して、数々の難事件を解決していき、世界的にもシャーロック・ホームズに次いで有名な探偵であるといわれています。ミス・マープルは、ロンドン近郊の村で、ひっそりと暮らす独身の老婦人。しかし、持ち前の鋭い観察眼で推理を繰り広げ、いくつもの事件の謎を解き明かしました。また、この2人が登場しない作品にも、見逃せない名作が、多くあります。そういうわけで、今回は、私が読んだ作品の中から、全くの独断と好みで、クリスティ作品のベスト10を選んでみました。第10位 『オリエント急行殺人事件』かつて、映画が大ヒットしたこともあり、一番有名なクリスティ作品かもしれません。ポアロが乗り合わせたオリエント急行の車内で、殺人事件が発生。閉ざされた列車内に犯人がいるのか?そして最後は・・・ あきれかえるほどの結末を迎えます。第9位『予告殺人』「殺人をお知らせ申し上げます。10月29日午後6時30分より、リトル・パドックスにて、お知り合いの方のお越しをお待ちします。」という文章が新聞広告に掲載され、その村の住人たちが、半ば興味本位で集まります。そこで、響き渡る銃声・・・ミス・マープルものの代表作といわれている名作ミステリーです。第8位『ゼロ時間へ』ポアロもマープルも登場しませんが、クリスティも自選ベスト10に挙げているという本格ミステリー。最後の予想外の結末(といっても事件ではなく、恋のゆくえですが)私自身は、どうもすっきりきませんでした。でも、ごく最近に読んで印象に残っていたこともあり、ベスト10に入れてみました。第7位『ナイルに死す』ナイル川周遊の観光船で、莫大な遺産を相続した新婚旅行中の新妻が殺害され、ポアロが、この事件の謎解きに挑みます。映画化された、ナイル川の雄大な映像も印象的でした。第6位『メソポタミア殺人事件』クリスティの夫は考古学者だったため、クリスティ自身も、彼の遺跡調査をよく手伝っていたとか。死んだはずの夫から届いた謎の脅迫状。メソポタミアの遺跡発掘現場で起こる殺人事件に対し、ポアロが解決に乗り出します。第5位『無実はさいなむ』キャルガリという地理学者が、ある日、一人の青年をたまたま車に乗せました。その後、彼は南極に調査に出かけ、それから帰国してくると、その青年が、殺人の容疑者になっていることを知ります。殺人の時刻には、彼は私の車に乗っていた。キャルガリは、彼の無実を証明するため、一人、事件の究明に乗り出します。探偵は登場してきませんが、とても魅力のある作品です。第4位『アクロイド殺し』裕福な未亡人が、睡眠薬の飲みすぎで死亡。その翌日、彼女の再婚相手と思われていたアクロイドという初老の紳士が殺害されます。クリスティの代表作と評されている名作ですが、その著述方法に賛否両論の物議をかもしだしました。私も、このやりかたは、ちょっと掟破りなのではと・・・他の作家も、二度と同じ手は使えない?第3位『パディントン発4時50分』マープルの親友が、汽車の窓から、並行して走る汽車の車内で男が女を絞殺している現場を目撃。警察に調査を依頼しますが、しかし、殺人の痕跡も遺体も発見されません・・・物語が展開されていく中で、犯人探しもさることながら、遺体はどこに行ったのか、殺された女性は一体誰なのか、という部分が興味深い作品です。第2位『三匹の盲目のねずみ』開業したばかりの山の民宿に、雪の中、多くの宿泊客が到着。しかし、猛烈な吹雪のため、民宿はやがて、雪の中に孤立してしまいます。そこで、起こった殺人事件。大雪の中、部長刑事がスキーにのって駆けつけます。私が、犯人の意外さに最も驚いた作品。クリスティには、「ねずみとり」という舞台公演ロングランのギネス記録を持つ舞台劇がありますが、この作品は、その原作でもあります。第1位『そして誰もいなくなった』 オーエンと名乗る人物からの招待で、10人の男女が、インディアン島という無人島に集まってきます。しかし、オーエンは現れず、やがて、部屋に残されたインディアンの歌の通りに一人、また一人と、順番に殺されていきます。残されたものたちは、互いが殺人犯なのではと疑心暗鬼にとらわれていき、やがて、最後の一人になってしまう・・・。格調高いミステリーで、まさに、不滅の傑作だと思います。結末を知っていて読み返しても、なお、引き込まれていくほどに緊迫感があります。と、いうことで、未読の人には、ネタばれになるので、概略の紹介が、奥歯にものがはさまったような書き方になりましたが、クリスティの推理ものは、私にとって、気分転換にちょうど良い読み物となっています。興味のある方は、また、読んでみられてはいかがですか。
2009年02月01日
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奈良時代から平安初期にかけては、藤原氏がその権勢を確立していった時代でもありますが、その中でも、藤原氏自体が四家に分かれ、それぞれが、盛衰を繰り返していきました。藤原不比等が亡くなった時に、四人の息子 武智麻呂(むちまろ) 房前(ふささき) 宇合(うまかい) 麻呂(まろ)と二人の娘 宮子(みやこ) 安宿媛(あすかべひめ)がいました。娘たちは、それぞれ天皇家に嫁いでおり、四人の息子たちは、不比等の後を引き継いで政権を担いました。この頃の藤原四家の関係について、まとめたものが、次の略系図です。(藤原四兄弟と長屋王)不比等の死後、四兄弟は、時の天皇・聖武の妃であった安宿媛を皇后にして、自家の勢力を強めようと考えていました。ところが、皇族以外で皇后になった人はこれまでにないとして反対があり、その中心となっていたのが長屋王でありました。ここで、四兄弟は、政敵であり、当時上位の政権者でもあった長屋王の抹殺を企てます。長屋王の変です。長屋王は、謀反の企てがあるとして自殺させられ、そればかりか、その妃・子供までが、自殺に追い込まれました。長屋王亡き後は、安宿媛が正式に聖武天皇の皇后(光明皇后)となり、その後は、藤原四兄弟が政権を牛耳るようになりました。ところが、藤原四兄弟の政権は長くは続きませんでした。因果応報というべきでしょうか、この時期、天然痘が大流行。藤原四兄弟の全員が、相次いで病死したのです。こうした天然痘の流行やまた、聖武・光明の間に子供が生まれないこと等、これらは、長屋王の祟りであると考えられました。そうした中で、これらの鎮静を願って建立されたのが、東大寺の大仏であったのです。(藤原四家の成立)藤原四兄弟が相次いで病死。しかし、藤原氏の隆盛は、それでもとどまることはありませんでした。四兄弟の子供たちが、それぞれに勢力を伸ばしやがて、藤原氏は四家に分かれていくことになります。武智麻呂の系統が、南家房前の系統が、北家宇合の系統が、式家麻呂の系統が、京家と呼ばれました。この後、この四家が、順番に盛衰を繰り返していくことになります。(南家の全盛期・恵美押勝)この四家の中で最初に、勢力を強めたのが南家でした。中でも、仲麻呂は聖武の娘孝謙女帝と、光明皇后からの信任を受けて政権と軍事の両方を掌握していきました。仲麻呂は、彼の推す淳仁天皇を即位させ孝謙女帝からは、恵美押勝(そなたを見ると笑ましく思わすの意)の名まで与えられました。結局、彼は人臣では、初めての太政大臣にまで登りつめていきます。しかし、そうした中で、仲麻呂にライバルが登場しました。孝謙上皇の病を癒したことから、上皇の信任を得ることとなった僧の道鏡です。仲麻呂は、孝謙のもとで出世を続ける道鏡に対して兵を集め反乱の準備を進めました。しかし、孝謙は軍学者として名高い吉備真備を呼び、仲麻呂追討を命じます。仲麻呂は破れ、捕らえられたのち、斬首されました。(恵美押勝の乱)この事件の詳細は、以前に書いた関連記事 恵美押勝と道鏡 を参照下さい。仲麻呂の没落により、南家は急激にその勢力を失っていくことになりました。(式家の台頭・藤原百川)次に、繁栄したのが式家。その繁栄のきっかけを作ったのが百川(ももかわ)でした。百川は、孝謙(称徳)天皇が跡継ぎを定めないまま崩御した際、吉備真備らの反対をくつがえして、光仁天皇を擁立しました。これは、しばらく天武系の天皇が続いていたところに、天智系の天皇を復活させるという意味合いを持つ、クーデターでもあったのです。百川は、辣腕家として知られた人で、次の、桓武天皇を擁立させるように運んだのも、百川でありました。百川は娘の乙牟漏(おとむろ)を桓武の皇后にするなど、天皇家とつながりを強めていきます。以後の桓武朝においても、天皇の式家に対する信頼は厚く、平安遷都の際の中心勢力ともなりました。しばらくの間、式家の全盛期が続いていきます、(京家と北家)京家は、結局、最後まで振るうことがありませんでした。式家は、やがて衰退していきますが、藤原四家の中で、最終的に勝ち残っていったのが、北家でありました。最も遅れて繁栄期を迎えた北家でありますが、やがて、摂関政治を確立し、道長や頼通などの”わが世の春”を現出していきます。以上、ここまで、奈良時代を中心とした藤原四家成立の概略でしたが、次は、平安時代、いくつかの事件を点描していきたいと思っています。
2009年02月15日
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これまでの武家支配による体制を一変し、天皇を中心とする新政権を樹立すると宣言した、クーデター政権。慶応3年(1867年)12月9日、クーデター政権は、「王政復古の大号令」の発令に引き続き、この日の夕方、御所内の小御所というところに関係者を集め、今後の新体制をどうするかについての会議を開きました。世に「小御所会議」と呼ばれているものです。この会議の出席メンバーは、クーデター計画に賛同した、公卿と諸侯、そして、その重臣たち。天皇臨席のもとで行われる御前会議の形が取られました。まず、議定である公卿・中山忠能が開会を宣言。会議の冒頭、公卿側から「徳川慶喜は政権を返上したというが、果たして忠誠の心から出たものかどうか疑わしい、忠誠を実績で示すべきである。」との提議がなされました。慶喜は、大政奉還で政権を返上したとはいっても、その官位は内大臣の位にあり、また、将軍の地位を退いたとしても、その所有する領地は、400万石を越える大大名であります。この"忠誠を実績で"という提議は、慶喜に対して、官位と領土を返還せよとする「辞官納地」を求めるという意味で、この是非をめぐる議論が、この会議の主要議題となっていきます。これに対し、猛然と反論し、クーデター政権を批判したのが土佐の山内容堂でありました。「このたびの挙は、すこぶる陰険である。大政奉還の大英断をなさった慶喜公が、この席に招かれていないこと自体、そもそも、おかしいではないか。」「このような暴挙を企てた数名の公卿は、何の定見があって幼沖の天皇を擁し、権力を盗もうとするのか」王政復古宣言というのは、一部の者による陰謀であると指摘したのです。しかし、対する岩倉具視も、これに譲らず反撃を行います。「幼沖(幼少)の天皇を擁しとは、なんたる妄言ぞ」「聖上は不世出の英材をもって大政維新の洪業をお建てなされた。今日の挙はすべて宸断に出ている。」天皇を幼いとの発言は非礼ではないか。という、岩倉の批判には、さすがの容堂も詫びる他ありません。しかし、そこへ、容堂への助け船を出したのが、越前公の松平春嶽。彼も、この会議への慶喜の出席を重ねて求めます。岩倉と大久保一蔵(薩摩)は、慶喜が辞官納地に応ずることが前提であり、そうでなければ、免官削地を行いその罪を天下にさらすべきであると主張。それに対し、土佐の後藤象二郎が、山内容堂の意見を支持して。公明正大なやり方で進めていくことが肝心であり、この会議のやり方は陰険であるとし、新政権に慶喜をも加えるべき、との論を繰り広げました。その後、大久保・後藤の間で激論が交わされます。しかし、やがて、尾張公の徳川慶勝も容堂の意見を支持。岩倉・大久保の慶喜排斥の主張は、薩摩候の島津茂久が賛同したのみという状況で、薩摩は孤立し、会議の趨勢は慶喜許容論へと傾いていくことになります。この流れを、何とか変えたいと思った岩倉は、会議の一時休憩を働きかけ、会議は一旦休憩に。そして、この休憩時間の間に、様々な動きがあって、会議の様相が、一変していくことになります。ここまでは、不利な状況であった岩倉・大久保らの慶喜排斥論。しかし、その状況を変えるきっかけとなったのが、西郷の一言でした。西郷隆盛は、この時、会議には出席しておらず、御所の警備を取り仕切る役割に回っていました。しかし、休憩の間に、こうした会議の状況を聞き、意見を求められると、「短刀一本でかたづきもす」 と答えました。つまり、刺し違える覚悟で臨めということを伝えたのです。この西郷の話が岩倉に伝えられ、岩倉は、安芸候の浅野茂勲に対して、かくなる上は、非常手段を取る覚悟をしていると話します。これに驚いた浅野は、土佐藩に譲歩をさせる必要があると考え、安芸藩家老の辻将曹に命じ、土佐を説得させます。一方、この時、後藤象二郎は、休憩所において、大久保を翻意させるべく、下交渉を進めていました。そこへ、安芸の辻将曹がやってきます。辻は、岩倉の決死の覚悟を後藤に伝え、状況によっては、容堂公の身が危ういということを話しました。大久保に対しての説得交渉も進まない状況であり、ついに、後藤は、山内容堂に妥協するよう説得に向かいます。「このまま、慶喜の擁護を続けていると、慶喜公に策謀があって、土佐は、それを隠そうとしているように取られかねません。」結局、容堂は、後藤の説得を受け入れました。やがて、会議は再開。再開後は、山内容堂も松平春嶽も、反対意見を述べることなく、終始、岩倉・大久保のペースで会議が進行していくことになります。そして、結局、徳川慶喜の「辞官納地」が決定。慶喜に対しては、松平春嶽と徳川慶勝が、この決定を伝えることとし、慶喜が、自発的に、これを申し入れるという形式をとるようにするということが、決められました。結局、この会議が終了したのは、午前3時頃。昨夜も徹夜の会議があって、そこから始まっている、この12月9日の政変劇というのは、実に長い長い一日であったのです。ところで、この「小御所会議」について、徳川慶喜の「辞官納地」が決定されたことから、これをもって、討幕派が勝利した、という、とらえ方をされることがありますが、しかし、実際には、事態はそう簡単に進展しませんでした。「辞官納地」という決定も、次第に骨抜きにされていくことになります。さらに、そればかりか、このクーデターにより出来上がった新政権というのは、いざ、フタを開けてみると、諸侯などからの支持を、ほとんど得ることが出来ずに孤立し、立ち上げ早々から、自壊状態にあるということが、わかってくるのです。こののち、この新政権は、窮地に追い込まれていくことになります。
2010年08月29日
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