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キャリー・A・ネイション キャリー・アメムーア・ネイション(Carry(Carrie) Amelia Moore Nation、1846年11月25日- 1911年6月9日)はハチェテイション(hatchetation)で有名なアメリカの禁酒活動家。 キャリーはドクター・チャールズ・グロイドという医師と恋に落ち、1867年に21歳で結婚した。しかしグロイドが大酒のみでアルコール中毒だということを知らなかった。彼が飲んだくれて生活費を稼いでくれなかったので、1869年、キャリーは妊娠していたが出産の直前に実家に帰った。しかしグロイドはそれからわずか6ヶ月後に死亡してしまった。生まれた娘にも精神的な障害があった。キャリーはその原因も父親の飲酒によるものと信じて疑わなかった。 1881年にカンザス州は、アルコール飲料が州憲法により非合法とされる最初の州になった。しかしバー(サロン)の経営者たちは無視して違法営業を続けていた。カンザス州メディスン・ロッジ(Medicine Lodge)で、キャリーはキリスト教禁酒婦人連盟(Women's Christian Temperance Union:WCTU)の地方支局を設立し、アルコールとタバコ、露出の多いドレスに対する積極的な運動とともに慈善活動や日曜学校の先生をしていた。彼女は禁酒婦人連盟の活発なメンバーだったが最初は、教会でアルコールがいかに悪魔の飲み物であるか、魂を壊すか、家庭に悲劇をもたらすかを説教したり、バーの前で大声で賛美歌を歌ったり、祈ったり、バーテンダーをののしったりした。それによりメディスン・ロッジのバーは閉店した。 しかし、1900年6月、キャリーはついに過激な実力行使に出た。31歳で再婚した19歳年上のデイヴィッド・A・ネイションが酔っ払いに殴られて重傷を負ったのがきっかけだという。今回は賛美歌と祈りではなかった。彼女は大きな石とレンガをいくつも拾い集めて新聞で包んだものを用意した。それをかかえて最初の犠牲となるカイオワ(Kiowa)にあるバーへと入っていった。「飲んだくれの行く末からから皆さんを救うためにやってまいりました」と大胆に宣言し、石とレンガをバーの酒樽、酒ビン目掛けて砲丸投げのように投げ続けた。次に鉄がくくりつけられた木の棒を振り回して残りの在庫を破壊した。そして酒場の粉砕は神のお告げだと言い放った。同様にもう2軒この街のバーを破壊した。ボトルやビリヤードボールも飛び道具になった。キャリーはもう53歳だったが、身長は6フィート(180cm)近く、体重は175ポンド(80kg)近くもあった。当時としては非常に大柄な女性だった。 続いて12月、キャリーはウィチタ(Wichita)に列車で行き、最初の日は目ぼしいバーを探していた。有名なホテル・ケアリー(Hotel Carey)の高級サロンにたどり着いたとき彼女は冷静さを失った。きわどいクレオパトラの入浴の絵画が目に飛び込んだのだ。キャリーはバーテンダーに「すぐにあの絵を下ろし、この殺人工場を閉めなさい」と要求した。そして、ボトルを奪うと床にたたきつけた。人々の懐疑の視線の中、一度はサロンを後にしたが、翌朝、キャリーは用意万端整えて戻ってきた。木製のグラブに鉄の棒をくくりつけた武器と石の砲弾は黒マントの下に隠されていた。まず何も言わずクレオパトラを破壊。そして「世界平和と男への温情に神のご加護を!」と叫びながら、あらゆるものをぶっ壊した。破壊の限りが尽くされ、高級サロンは滅茶苦茶になった。そしてついに現行犯逮捕された。しかしこれによって新聞記者たちが彼女の取材に拘置所に押し寄せ、次の日には時の人となった。彼女は牢に入れられても少しもひるまず、外まで聞こえるように大声で賛美歌を歌い、アルコール弾劾の演説をぶちあげた。市民の釈放嘆願の声は次第に大きくなり、ホテル側が告訴を取り下げたのでキャリーは釈放された。 キャリーはカンザス州でその後も次々と、づかづかとバーに押し入ってきては店をぶっ壊しまくり、逮捕回数の伸びと共に有名になっていった。名声も高まったが酒場の経営者にとってはとんでもないテロリストで疫病神となった。 彼女は新聞記者に自らをその容姿から「キリストの足元を走り回り、彼が嫌いなものに吠えつくブルドッグ(a bulldog running along at the feet of Jesus, barking at what He doesn't like)」と呼び、バーの破壊を神聖な宗教儀式だと主張した。まだ女性に投票権はなかったがキャリーは票よりも石を投じた方が世の中が変わると息巻いた。新聞は彼女の勇ましい写真を掲載し聖戦士のイメージをつくり上げた。彼女は集会を開いては盛り上がったところで一斉にバーを襲撃するということを繰り返した。時には医療用アルコールを販売する薬局も襲撃の対象となった。 あるころから、バーの破壊にまさかり(hatchet)を使い始める。夫のデイヴィッドの冗談から思いついたという。彼女とその支持者はバーに乱入し、「粉砕!女たちよ!粉砕!(Smash, ladies, smash!)」と叫び、大きなまさかりを振り回し、酒樽に思い切り振り下ろしビールやウイスキーをぶちまける。ガラスや鏡にポーカーテーブルまでもみじん切りにする。レジを投げ、冷蔵庫を倒し、居合わせた客をしかりつけ、ドアやカウンターまで破壊しながら、歌と祈りを捧げる。カンザス州は当時すでに禁酒法を実施していたためバー経営は実質は違法行為であったため彼女たちは大きな抵抗をされずに襲撃できた。何度もなぐられたり、引きづり出されたりしたが、かろうじてピストルで撃たれるようなことはなかった。しかしそれでも、1900年から10年間で、彼女と仲間は破壊行為により30回ほどは投獄されている。与えた損害からすれば回数も少なく出獄も早かった。州の禁酒法と宗教的背景、メディアのバックアップや人気に便乗しようとする政治家のおかげだと思われる。キャリーは、バーの破壊行為を「hatchet-ations(まさかりドッカン)」という造語で呼んだ。彼女の過激な活動はもちろん賛否両論あったがその反響は大きかった。キャリーは片手にまさかりを持ち、もう一方の手に聖書を持って精力的に全国各地を講演で回りどこでも非常に盛況だった。講演の報酬や、キャラクター商品の柄に名前を彫り込んだ土産用まさかりもとぶように売れ、襲撃にともなう高額な罰金などわけなく支払うことができた。1901年の4月、キャリーは禁酒運動に対する広範な反対で知られていたミズーリ州カンサスシティに到着し、12番街で何軒ものバーに突入しては全てを叩き壊した。彼女はすぐさま逮捕され高額の罰金を科されたが涼しい顔だった。エジソン撮影所が「カンザス・サルーン・スマッシャー(The Kansas Saloon Smasher)」というタイトルで彼女のことを映画化した。 彼女の反アルコール活動は全米で非常に有名になったが1901年11月、2度目の結婚生活も破綻した。キャリーは見も心も禁酒運動一筋に没頭した。彼女は「The Hatchet(まさかり)」という名の新聞と、「The Smasher's Mail(粉砕者通信)」という隔週機関紙を全米向けに刊行した。全米のバー・ファイターからの報告だけでなく、アルコールの弊害、婦人投票権、子育てや幸福な家庭の楽しさについて書かれていた。 彼女の写真やまさかりを通信販売で売った。ミニチュア版のまさかりやまさかりのピン・バッチは特によく売れたという。 「キャリー・ネイション禁酒法グループ」を組織した。1903年、名前も、この国を動かすという意図を込めてCarrieからCarry とつづりを変えた。スローガンは二つの意味を持つ「Carry A Nation for Prohibition:禁酒法のキャリー・A・ネイション=禁酒の国に変える」。この頃には、なんと、ぶち壊しにあったバーは「キャリー・ネイション、ここで暴れる」などとサインを出しバーの宣伝に使った。その他のバーまでわざわざ通信販売でキャリーのまさかりを購入して「All Nations Welcome But Carrie」(「キャリー以外は誰でも歓迎」Nationがキャリーの姓と掛けてある)のサインと一緒に店に飾った。「キャリー・ネイション・ウィスキー」も販売された。キャリーは舞台「ハチェテイション(hatchetations)」にも出演した。ステージで酒瓶やグラス、テーブル、椅子などをまさかりを振り回してぶち壊しまくりケアリー・ホテルのサロン襲撃を再現したりした。セントルイスのあるバーが「キャリー・ネイション・カクテル」を提供して彼女をあざけった。キャリーは突然このバーを訪問したが破壊しなかったという。(現在でもキャリー・ネイション・カクテルはシャーリーテンプルのようにノンアルコールであることが多い。パイン&オレンジジュース+ジンジャエールなど)実際にカンザス州トペカ(Topeka)のバーを粉砕するのに使用したまさかりは、本物が現在もカンサス州立博物館に展示されている。刃が加工された特注品だという。 1906年にはリトルロック(Little Rock (Pulaski County))で26ものバーを叩き潰した。演説のたびに市民は彼女を賞賛したが、卵をぶつけられたりもした。ついに刑務所に入れられたが、市長が釈放した。1910年にはアーカンソー州ユーリカスプリングス(Eureka Springs)に現在もあるHatchet Hall(まさかり堂)を建てて住んだ。宗教学校も設立した。大学でもないのに彼女の姓から「National College:国立大学」と呼ばれた。 1911年1月、ユーリカスプリングでの講演中、キャリーは突然、精神崩壊した。6月9日に隔離病棟で死亡した。65歳だった。その後ミズーリ州ベルトン市墓地で母の隣に埋葬された。キリスト教禁酒婦人連盟は後に「禁酒法のために献身的に彼女はできることをやった。"Faithful to the Cause of Prohibition, She Hath Done What She Could."」と石碑に刻んだ。 女性が家庭と社会の道徳的な旗手として立ち上がった時代のことである。キリスト教禁酒婦人連盟(WCTU)は今でもちゃんと残っている。
2011年03月09日
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