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おそらく当ブログでも何度も取り上げています。書いている本人忘れましたけれども改めまして6月7日より国立文楽劇場で始まります「文楽鑑賞教室」基本的に学生対象ですから、一般用の座席数が限られております。初日は午前の部がすでに早々に完売いたしておりました。午後の部も残り少なくなっております。猫山は、午前、午後共に楽しませていただきたいかと。興味深いですよ、私的に大変。さてこの鑑賞教室の演目のひとつが日高川入相花王 渡し場の段非常にポピュラーですし、ビジュアル的にも、学生さんたちの目を引く事請け合いです。「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」あの有名な渡し守の段のみの上演が多く、舞踊的要素が強いように思われがちな「日高川入相花王」ですが竹田小出雲(こいずも)・近松半二らによる合作作品で、1759年2月、大坂・竹本座初演。朱雀(すざく)帝の弟桜木親王と藤原忠文(ただぶみ)の皇位継承争いに藤原純友(すみとも)の反逆を加えた五段からなる時代物です。安珍(あんちん)実は、桜木親王は、真那古庄司(まなごのしようじ)の館(やかた)に立ち寄るが、庄司の娘清姫に恋慕される。道成寺を目指す安珍を清姫は追うも、日高川の渡守(わたしもり)が渡すことを拒んだために、安珍を恨み思う気持ちの強さから蛇体にその身を変えてまでして、川を渡って追いかけてゆくというストーリーです。追いかけてきて、船頭さんにいじわるされたために清姫嫉妬のあまり蛇体となって川を渡るというのが、「渡し場の段」です。渡し場における清姫の変化(へんげ)、これがすさまじいわけです。清姫のかしらは、ガブという特殊なしかけのかしらが用いられます。動きの糸を引くと、突如として口が割れ、目は見開かれ、額から角が二本あらはれる・・・そのまんまなのですが、顔がガブッと割れるので、「がぶ」と、呼ばれているそうです。口が割れて口中の赤いのは、縮緬布が貼ってあります。胴串にある、糸のついた引き栓を離すと、元通りの娘かしらに。日高川というのは、和歌山県にございます。その名も日高川町では、文楽座も過去に公演を行ったり、安珍、清姫の伝説にちなんだイベントがしばしば開催されています。さてその清姫前半は当ブログ登場回数最多を更新中の人形遣い吉田文昇さん後半は吉田清五郎さんおふたりとももともとは、同門の、清十郎(先代)さんのお弟子さんであったとのこと。ちなみに清十郎さん、文昇さんそして清五郎さんのお三方が、豊松清十郎(先代)のお弟子さんだったとのことです。ちょっと意外な気もいたします。文昇さんはシャッタースピードに体の動きを合わせる勘というものにかけては、おそらくは、文楽座人形遣いのなかにおいても、間違いなく上位に位置すると思われ、なおかつかなりギリギリの演出にもおおむね難色を示すことなく柔軟に合わせてくださいますので本当にありがたい存在です。清五郎さんは、何年前でしたか失念してしまいましたが、福井県鯖江市におけるイベントで、お七をお遣いになられた際、冷たい梯子を髪を振り乱しながら上っていくお七の壮絶な様気迫の演技に呑まれました。本公演ではあまり目立った役柄に恵まれないのですが、あのお七は、ちょっと忘れがたい。その清五郎さんが、どんな清姫を演じるのか、とても楽しみなのです。これまで見た清姫もざっくりとご紹介しておきます。まず吉田勘弥さんの清姫2008年東京都JTが主催のクラシック音楽と浄瑠璃のコラボイベントで、会場が狭いためセットも満足でないというコンディション的には最悪の状況下でしたがさすがの勘弥さん、そつなくスタイリッシュに、こなしておられました。桐竹紋寿師匠2009年東京公演の清姫はケレン味ある人形を遣うことにかけては定評のある紋寿師匠とあって、名演でした。ただ、人形早代わりの際にさざ波部隊との息が若干あっていなかったという感が見受けられそれが残念でした。吉田簑二郎さんの清姫2010年地方巡業だったかと・・たぶんブログに感想を書いたと思うのですが・・・清姫が川を泳ぎ渡る際のスイッチバックのスピードは一番速かったと記憶しております。豊松清十郎さん2011年大阪国立文楽劇場女の一途な情念をもっとも映していたのは清十郎さんの清姫と、私は思いました。川を渡りきった清姫がゆっくりと客席に向き直る瞬間に見せるなんともいえない憂い、哀しみが胸に迫りました。桐竹勘十郎さん2012年神戸ジーべベックホールにおける暗黒舞踏と浄瑠璃のコラボイベントで。見せ方がうまいという印象、人形が、大きく見えました。ことに激しさをあらわすときのキレは最高だと思います。2012年 神戸ジーベックホール人形なしのシュールな清姫豊松清十郎さんの、清姫2011年ブログ」記事http://plaza.rakuten.co.jp/hanachidori/diary/201107290000/(国立文楽劇場小ホール)こちらも前のカメラで撮影したもので・・・カメラというより問題は写す私のテクニックがですね・・被写体に申し訳なく思います。桐竹紋寿師匠の、清姫(国立劇場楽屋(東京都))変身前のかわいらしいこと・・仮に次清姫をアップすることがございましたらものすごいものを撮る準備は、あるにはありますがいまのところまだ予定が未定につき・・さて、どうなりますことやら・・
2013/06/04
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「菅原伝授手習鑑」~桜散る春引退を決意し桜丸切腹を語る住大夫に思いはせ~人形浄瑠璃黄金期三大傑作のひとつと言われております。あとのふたつは「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」いずれも竹田出雲、並木千柳、三好松洛、竹田小出雲による合作になります。表面立作者は出雲で、松洛が二段目切を、千柳が三段目切を、小出雲が四段目切をそれぞれ担当し出雲が監修にあたったといわれます。また各段をそれぞれに個性豊かな大夫に割り当て語らせたとあります。平安時代に活躍した菅原道真は学者でありましたが、時の天皇に重用され右大臣に出世するもこれを妬まれ失脚し、大宰府へ左遷を命じられます。このとき詠んだ有名な歌「東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」我が国では、八世紀初頭お隣の中国の法律をそっくり真似た中央集権国家が完成しましたが、この仕組(人頭税)が上手くいかず戸籍は税金逃れから女性しか登録のないありさまで、国は赤字財政に苦しんでいました。この改善を委ねられたのが道真でした。時の天皇の絶大な信頼を得た道真は、政治改革に乗り出します。遣唐使を停止、人頭税を土地税とするため荘園の整理をすることにしました。異例の早さで右大臣に昇進した道真の呼称「菅丞相」は、中国で大臣を「丞相」と称したことにちなんでいます。しかし道真は天皇に重用されスピード出世をしたことが仇となり、左大臣藤原時平の陰謀によって大宰府へ左遷を命じられてしまいます。配流先で子どもを死なせてしまったときの歌「恩寵の御衣今ここにあり棒持して日毎余香を拝す」道真の死後都では、貴族たちが災厄が起きるたびに、道真の怨霊のせいだと恐れおののき、天満天神としてまつるようになりました。4月文楽公演を機に悲劇の学者道真公が救国の政治家であったということもご理解いただき、いまこそ祈るなら靖国より天神様にお詣りされることをお勧めします。さて浄瑠璃に本作品が書かれた背景は、当時竹本座が不入り続きで危機的状況にあり、作者が天神に祈誓をかけて合作をしたとされ、いわば起死回生を文字通り願って書き上げた作品であったわけですが、祈りが天に通じて初演から見事大当たりをとり翌年には江戸での興行も大成功を収めます。題名は、「菅原伝授」は初段の切「筆法伝授」に、「手習鑑」は四段目切「寺子屋」に由来します。近松、海音没後合作全盛となりまた人形操りが歌舞伎の人気を圧倒していた最高潮の時代ということもあり作品に工夫と趣向が凝らされました。各段それぞれに違った趣向の壮大な人間讃歌となっており、ことに二段目三段目四段目切は3つの「悲」、「悲哀」「悲憤」「悲嘆」さまざまな形での親子の別離が描かれており涙を誘います。そしてこれらの三様の聴かせどころで大夫が芸を競い合い更に盛り上がる仕組みとなっているのです。今回4月公演急遽竹本住大夫引退興行となってしまいました。その住大夫師匠が語られます桜丸切腹の段について。初演時は、茶筅酒、喧嘩、訴訟から桜丸切腹まですべてひとりの大夫さんが受け持たれたという記録があります。二時間余をおひとりで語ったということで驚くべきことです。しかしながらなぜ三段目をおひとりの大夫で受け持たれたかの理由は、漠然とですがわかる気がいたします。三段目に登場する桜丸が物語にきわめて特殊な立ち位置で存在していたことに起因したと思われるからです。住大夫引退を前に桜丸を語ることは、とても切ないことではあります。茶筅酒で桜丸の父白大夫は、我が子の切腹を知っているにも関わらず祝いの席をしつらえねばならず、表向き明るく振舞うのがとても痛々しいのです。そして姿を見せないにも関わらず桜丸の存在が舞台に感じられるのです。存在しない桜丸をそこにいるかのように聴衆に感じさせるというのはまさに大夫の表現力ひとつにかかっているわけで、そういう意味で佐太村から桜丸切腹まで、切場語りの実力を備えた人が一気に語りつくす必要があったと、思われます。あらずじ大序「大内の段」右大臣菅丞相は書道の奥義を極め徳も高かった。使僧天蘭敬が帝の姿を描きたいと申し入れるも、帝は病中にあり左大臣時平が名代を務めると言ったが、丞相がこれを謀反と疑われるとして諌めたことを受け、帝は弟の斎世親王を名代とした。帝は丞相の奥義を書道の才に優れた者に伝授せよと命じた。初段「加茂堤の段」皇弟斎世親王と丞相の養女刈屋姫は恋仲だった。仲を取り持ったのは、佐太村で丞相より寵愛の梅松桜を預かる四郎九郎の三つ子のひとり桜丸だった。時平方の清貴に見つけられ追い詰められたふたりは落ちのび桜丸があとを追う。 「筆法伝授の段」丞相は筆法伝授を前に潔斎に入っており御台所は親王と刈屋姫の失踪を夫に告げられないでいた。不義により勘当された武部源蔵とその妻戸浪が丞相の御前に呼ばれ、菅家の筆法を伝授されるが、勘当は許されなかった。丞相は参内を急ごうとするが、冠が落ち不吉の予兆を感じる。{築地の段」朝廷は親王と刈屋姫の出奔を詮議、丞相には流罪が宣告され屋敷は閉門となる。三つ子のひとり梅王は時平一派の迫害を案じ丞相の若君菅秀才を源蔵夫婦に託す。二段目「杖折檻の段」丞相は筑紫へと配流の途上、汐待ちの間伯母の覚寿の元に身を寄せていた。覚寿の娘立田は密かに連れ帰った刈屋姫を一目対面させたいと考えたが、厳格な覚寿が許そうとしなかった。覚寿が刈屋姫に杖を振り上げたとき、丞相の姿はなく木造の丞相が声を上げる。東天紅の段」立田の夫太郎とその父土師兵衛は、丞相を早立ちさせ暗殺することを企んでいた。立田は夫の企みを知ったために惨殺され、池に沈められる。「川の中の死骸を探すのには船に鶏を乗せると死骸の上で鳴く」との言い伝え通り、挟箱の蓋に乗せられ池に浮かんだ鶏が死骸の上で時を告げる。「丞相名残の段」二段物の王座と呼ばれる前半のクライマックス。「鳴けばこそ別れを急げ鶏の音の聞こえぬ里のあかつきもがな」丞相は偽の迎えに連れ去られるが連れ去ったのは木造だった。覚寿は立田殺害の娘婿に刃を立てる。親子の別れの場となった館は木造をまつる道明寺となる。三段目「車曳の段」桜丸と梅王丸は、都大路を吉田神社参詣に向かおうとする時平の乗った車を襲うが、時平の舎人で兄弟の松王丸に阻止され失敗する。「佐太村茶筅酒の段」七十の祝賀の席が息子桜丸切腹の日と重なってしまった三つ子の父四郎九郎は、悲痛な思いを隠し古稀を機に名を白太夫と改名し祝いの席をしつらえる。白太夫が庭の梅松桜の木に据える陰膳がこの後の展開を暗示する。「喧嘩の段」白大夫の館に松王丸が遅参して来る。そこに梅王丸が現れ、互いにあてこすりしあううちしまいにつかみ合いの喧嘩となり、両人が倒れ掛かったひょうしに庭の桜の木が折れ、倒れてしまう。「桜丸切腹の段」桜丸は、時平の襲撃に失敗したとき、既に生きる望みを失ったと思われる。桜丸を燃え尽きた虚無の塊とするならば、悔しさも哀しみも何もかも彼岸の彼方へ押し流してしまった彼の姿と住大夫が私には重なり、とても切ない。四段目「天拝山の段」配流の地で時平の反逆を知った菅丞相が怒りあらわに火を噴いて飛び去るという・・・(4月この段をお務めになる大夫さんが仰ったとおり)ここ、どういった仕掛けなのか人形の舞台、楽しみです・・・ 「寺入りの段」菅秀才をかくまう源蔵夫婦が開いている寺子屋に入門を希望する子どもが母親に伴われやって来る。母親は息子小太郎を戸浪に預け後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながら去っていく。「寺子屋の段」菅秀才を匿っていたことが露見し時平の家来春藤玄蕃に首を差し出せと迫られた源蔵は寺子屋の子どもの中から小太郎の首を身代わりとして差し出すことを決意する。首検分に来た松王に追い詰められた源蔵は奥で小太郎の首を打ち差し出す。松王が菅秀才の首に相違なしと判断し首を持ち帰ろうとする玄番に病気療養のためとして暇を申し出る。玄蕃は了承しふたりが立ち去った後小太郎の母親が寺子屋に戻ってくる。源蔵は母親を殺害しようとするが母親の口から思わぬ真実が告白される。小太郎は松王丸の子どもであった。身代わりにするために小太郎を連れてきたというのだ。やがて松王が御台を伴い戻ってくる。松王は我が子の死に様を聞き堪え切れずに涙を流す。ラストのいろは送りは名曲なおかつ名シーン。五段目「大内天変の段」宮中には雷鳴が轟いていた。斎世親王は刈屋姫、菅秀才を伴い菅家の再興を願い出る。菅秀才と刈屋姫は桜丸夫婦の怨霊によって正気を失った時平を討つ。菅家は再興し菅丞相を天満大自在天神と敬い皇居の守護神とするとの宣旨が下される。参考資料 国立劇場上演資料集543 (国立劇場調査記録課) 平成14年5月文楽公演「通し狂言菅原伝授手習鑑」公演プログラム
2014/03/20
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