孤立、孤老、孤食のみならず孤育て (こそだて) なる言葉も生まれる昨近、親子の断絶を物語る信じられないニュースが続く。
本来持っているはずだと思っている親子の絆や情愛と言うものは、教えられないと分からないものなのか。
本能は、確固たるものとして備わっているのではなく、受け継ぐべく方法で伝授されて初めて発揮できるものなのか。
孤独は辛いものですが、本当に孤独を感じるのは相対するものがあってこそ生まれる感情なのかも知れない。
ずっと一人暮らしをしている人にとって、一人でいる事はそんなに苦痛ではない。人は本来孤独なものだから。一人でいても誰かに見守られてさえいれば、生きていける。ただ、存在を否定される事が一番辛い。
愛する対象を持って、初めてそこに生まれる感情が”淋しさ”だと寺山修司は書いた。
木という字を一つ書きました
一本じゃかわいそうだから
と思ってもう一本ならべると
林という字になりました
淋しいという字をじっと見ていると
二本の木が
なぜ涙ぐんでいるのか
よくわかる
ほんとに愛しはじめたときにだけ
淋しさが訪れるのです
寺山修司「愛さないの、愛せないの」
愛を知らなければ、本当の孤独の意味も分からないのかもしれない。愛された事が無ければ、愛する事だって出来ない。
愛という概念すらない、不毛の砂漠が広がっている。
居なくなっても誰も知らないという状況は、家族からも世間からも見捨てられて、存在そのものを否定されているのに等しい。
自分の事で精いっぱいなのではなく、自分の事にしか関心が無い。
それは、そういう育ち方をしたからに違いなく、核家族と個人主義、経済優先社会がもたらした弊害の一つでしょう。
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