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今年の初春、ホメオパシーのカウンセリングを受けて、レメディを服用始めてしばらくたった頃、確か、5粒目の服用を終えた翌朝だったと思うが、印象に残る不思議な夢を見た…… 詳しいストーリーの前後は忘れたけれど、夢の中で、僕は、あるお寺の境内に入って行く……すると、そのお寺を守っている人が現れて、「ここは dogen 禅師のお寺ですが、師は、ユタの方に30年師事された方です」と言う。dogenは、曹洞宗の開祖である道元と同じ発音ではあるが、道元とユタとの関連などありえない話なので、単に、道の元を意味する名前ということなのかもしれない。 そこでぼくが「ユタというのは沖縄のシャーマンの女性の方のことですか?」と尋ねると、お寺の方は、「そうです」と言いながら、その女性を象った石像のところに案内してくれた……。 そのとき、その女性の法名も聞いたのだけれど、忘れてしままった。けれども、純粋な覚醒、無底の働きを目指す禅の流れと、呪術的でもあるシャーマニズムが交流している世界がどこかに存在しているということを、その夢は暗示しているようだった。 これは寝る前にホメオパシーの本を読んでいて、ホメオパシーというのは、ある意味では「自然界に充満している自然霊の力を借りて癒しをもたらす方法」かもしれない、などと感じたりしていたこととが反映しているのかもしれないけれど…… 11月には沖縄の久高島で初めてのヤショダの家族の座が行なわれることになっているけれど、久高島や沖縄のシャーマニズムの圏内に意識をフォーカスしていると、ふと、日本の精神科医の大御所であり、禅者でもあり、シャーマニズムにも高い感受性を発揮されている加藤清さんのことが想い出されて来た…… そこで、先日、上野圭一さんが、加藤清さんにインタビューしている『この世とあの世の風通し』を紀伊国屋でオーダーしておいたのが、今日届き、今、ぱらぱらとめくりながら読んでいるところ…… 超一流というか、破格の精神科医である加藤さんは、今も、優れた霊能者とゆるやかなネットワークや協力関係を結びながらクライアントを診てらっしゃるようだけれど、そのやりとりの様がなんとも見事である……もちろん、沖縄で長年フィールドワークをされながら、もともとの素養である“この世とあの世の風通し”をよくするワザを、今なお磨きつづけられている様子である。 加藤さんは昭和の20年代、金閣寺を放火して炎上させた修行僧の精神鑑定をされたことがあるのだけれど、そのとき面接した修行僧はこう語ったらしい……「禅では師に会えば師を殺し、父に会えば父を殺し、母に会えば母を殺す。しかし、私はそういうことはできなかったから、せめて金閣寺を焼いた」のだと。 で、加藤さん曰く…… 対人関係でトラブルがあったんです。本当に宗教的な方向に行かず、金閣寺を焼くぐらいのことによってしか、自分のピュリフィケーションができなかった。すべてのことはやった、と本人は言っていました。僕はそれに感動して、そのためなら金閣寺の一つぐらい焼いてもいいと思いました(笑)。 加藤さんは河合隼雄さんと並び、現代日本における魂の医者の双璧ではないかと思うのだけれど、シャーマニズムや沖縄の霊的磁場への踏み込み方に関しては加藤さんが数歩先んじてらっしゃるような感じがする。 なにしろ北斗七星と7つのチャクラを統合させながら歩く瞑想とか、樹木とひとつとなり、樹木を抱きかかえつつ、同時に樹木のてっぺんから自分のからだを見下ろす体験などを、なんの雑作もなく行なってしまう感性の持ち主なのだから。 そうそう、そして20世紀日本の破格の禅者であった抱石庵、久松真一師の禅風と存在感を偲ばせる思い出の一幕も読みごたえがあった。
September 21, 2006
猫のごろごろは、いってみれば猫流のトーニングと言えないこともない……ところが、最近、猫の骨折の治り具合の速さの研究から、猫が「ごろごろ」喉を鳴らすことで、骨折からの治りを促進させているらしいことがわかってきたという…… これは2001年にアメリカのファウナコミュニケーション研究所が発表した研究成果だという……また1999年には、ニューヨーク州立大学生物医学工学部クリントン・ルービン博士の、20Hz~50Hzの振動を与えることで、動物の骨の密度が高くなり、強い骨格が作られるという研究報告などもあるようだ…… 犬たちのように群れて行動するのではなく、いつも単独行動で仲間のいないネコ科の動物の多くは、ケガなどをしたときその回復スピードを早めるために、ゴロゴロ・トーニングによる振動を用いて、自らの骨を直し、強くする術を身につけるよう進化した可能性が考えられる、というのだ。 となると、ネコがふだん落ち着いてゴロゴロと喉を鳴らしているのは、骨を初めとするボディコンディションをベストに維持しておくためのデイリー・ワークであり、また、病気や怪我の時に100Hzあたりに周波数を高めてゴロゴロ声を鳴らすのは、緊急ストレスに対する明らかなヒーリングトーン・トーニングとも言えなくはない。 http://ntv.naver.co.jp/go.php?url=http%3A%2F%2Fwww.ntv.co.jp%2FFERC%2Fresearch%2F20021201%2Fr084.html
December 26, 2005
夏の風物詩のひとつにお化け屋敷がありますが……最近は、お化け屋敷よりも、ホラー映画や、怪談、あるいはバンジージャンプやスーパージェットコースターなど遊戯施設の巧妙な仕掛けの方が効果的に恐怖心を煽り立てることができる装置になってきているようです……。 ところでこの恐怖ですが……この心的現象を、しばらくのあいだ、脳の構造やメカニズムの方から光を当ててゆきたいと思います。 まず脳と恐怖の関係を探る研究は、1937年、ハインリッヒ・クリューバーとポール・ビューシーによってなされたアカゲザルの側頭葉の切除という実験によって端緒が切られます。 2人によって側頭葉を切除されたアカゲザルは、たちまち恐怖と怒りを喪失し、さらに徐々に適切な食べ物と、適切でない食べ物ととの区別がつかなくなっていったり、また、性的衝動にも異変が生じたりしはじめます。 後に、こうした側頭葉の切除によって生じた著しい行動変化は、“クリューバー・ビューシー症候群”として知られるようになりました……。 “クリューバー・ビューシー症候群” http://x51.org/x/04/07/0800.php また別の科学者は、恐怖反応を起こすのに決定的な重要な役割を果たす脳の部位は、大脳辺縁系のなかでも深部に属する大脳基底核(新しい脳である大脳が、古い脳である脳幹の上部構造(間脳)と触れ合う部位で、脳幹情報と大脳新皮質情報をブリッジする役割を果たしている)の中にある、扁桃体であることを解明します……。 http://stutstudent.cool.ne.jp/emotion/amygemotion.htm 扁桃体というのは、読んで字のごとし、扁桃すなわちアーモンドのかたちをした脳の部位であり、少し前に日記で紹介した海馬の近くにある器官です……海馬については下記をクリック…… http://mixi.jp/view_diary.pl?id=22740436&owner_id=64170 扁桃体は、側頭部の深いところに位置しているのですが、これは人間の情動中枢とも呼べる働きをしており、ひとの好き嫌い、愛憎、恐怖などにまつわる基本的なデータ処理をおこなっている場所です。 くだんの科学者たちは、扁桃体を切除する実験を行ないますが、そうすると、やはり恐怖が掻き消えてしまうことを発見したのでした…… “感情がないサルは、生きたヘビをかじる” http://www5b.biglobe.ne.jp/~info-pat/sub2.htm また、その扁桃体に隣接する海馬そのものも、恐怖と深い関係にあって、海馬は恐怖の対象を認識して、それを扁桃体に送り込むようです。それゆえに、海馬を切除すると、恐怖を引き起していた特定の対象物が選択的に消滅するとのこと…… いわゆるボケ、記憶障害、ナビゲータ機能混乱による徘徊など認知症と呼ばれる症状が、海馬領域に集中的に存在している神経伝達物質アセチルコリンの減少によって始まることが知られつつあります。 このアセチルコリンは自立神経系の副交感神経から分泌されるホルモンですので、深い瞑想体験によってむしろ活性化されこそすれ、瞑想で脳がボケるということは本来はないはずだと言えます…… ともかく脳の側頭部に位置する側頭葉、扁桃体、海馬……この一連の脳の部位は、情動と恐怖と呼ばれる心的現象に、深く深く関与している部位であることは明らかなのですが、では、この恐怖が一方的になくなってしまえば、それでよいかというと、そうではないことは、扁桃体を切除されたサルが生きたヘビを手づかみしてかぶりつくことからも明らかです…… こうした大胆なそぶりをするサルを勇敢だと褒める風潮ができてしまえば、サル社会の崩壊も間近だということになりますね。 つまり、仏教などで言うところの恐怖を超越した「無畏」と呼ばれる境地と、側頭葉や海馬、扁桃体などにダメージを受けたがために、恐れ知らずになった境地とでは、外見は似ているかもしれないけれども、天地隔たるほどに質が違っているということなのです……。 単に、命知らずということであれば、極道の世界なんて、まさに、その筆頭ですからね。 最後に、もうひとつ扁桃体にまつわるサイトを紹介しておきましょう…… 〈愛憎、好き嫌いの中枢である扁桃体〉 http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/brain4.html 扁桃体は、好き嫌いを判断する中枢です、出会ったものが自分に有利か不利かそれを判断する中枢といってもいいのです。 サルはスイカが大好物です。それはサルの扁桃体に好きなスイカにだけ反応する細胞があるからだと考えられています。サルの扁桃体に電極を入れいくつかの細胞を調べたところスイカを食べたときにだけ急激に電流を発生する細胞が発見されたのです。このような細胞の働きが好きという感情を生み出しているのです。
August 18, 2005
先日、倉敷イオンの映画館まで足を運んで、前評判の高かった『皇帝ペンギン』を見てきました。 今年新春、フランスで公開されるやいなや、たちまち『WATARIDORI』や『ディープブルー』以上の反響を呼んだとされるこの映画は、南極に棲んでいる皇帝ペンギンの生態を丹念に辿ったドキュメンタリー映像です。 皇帝ペンギンのオスが、ブリザードが吹きまくる厳冬期の南極で、ひたすら空腹に耐えながら卵を暖め、メスの帰りを待つシーンは、前にもテレビで見たことがあり、ペンギンのオスというのは健気な存在だなぁ~という漠然とした印象を持ってはいたのですが、今回の映像を見ることで、その卵を抱きかかえるシーンを、皇帝ペンギンのライフサイクル全体の文脈の上に正しく置くことで、にわかに全体像が浮かび上がってきたのでした……。 4歳以上の皇帝ペンギンたちは冬が近づいてくると、オスもメスも、みな申し合わせたように海から弾丸のように氷の上に飛びあがり、ひたすら歩いて、繁殖地を目指します……それも海から上がった仲間たちが一匹も残らずそろっているかどうかを確認した上で、青空と白だけの氷の世界を、1列になってひたすら歩き続けてゆくのです…… その姿は、まさに聖地に向かう巡礼者の旅のような趣があるのですが、そのオアマックと呼ばれる内陸の繁殖地は、彼ら自身の生誕地でもあり、つまりは、懐かしい故郷でもあるのです。太陽や星の位置に導かれ、100キロ以上の距離を、20日以上もかけて、決して平坦とは言えない氷の道をひたすら歩み続けるペンギンたち…… そしてその約束の地についたとたん、求愛の儀式が始まり、その年のベストカップルを求めて、ペンギンたちの愛のダンスと求愛の歌声が響き渡るのですが、その求愛のダンスのなんと優雅なことか……一匹と一匹がしっかりと出会い、よそ見をしないカップリングに入ってゆくのですが、それは、そのカップリングに互いの命がかかっているからでもあるのです…… 求愛のダンスの後に、カップリングが成立したペンギンたちはむつまじく短い愛の時間を過ごします……そして愛の結晶である卵が産み落とされると、メスはその卵をオスに委ね、産卵の疲れを癒す餌を求めて100キロの彼方にある海へと向かって旅立ってゆくのです。 それからオスのペンギンたちは、メスが再び帰ってくるまで、ひたすらブリザードの中で空腹に耐えながら、卵を暖め続けるのですが、このとき、メスからオスへと卵がうまく手(足)渡しされるかどうかがひとつの難関だということは、この映画を見て初めて知りました…… このとき卵が氷点下40度の外気に数秒以上触れたなら、そこで卵は氷結して子育てはジエンドになってしまうので、この卵の足渡しの儀式は、ひじょうにハイリスクな行為なのです……呼吸のあったカップルたちは、このとき歌いながら舞いながら、卵の足渡しのタイミングをうまくはかって呼吸合わせをするのです…… メスたちが空腹を満たす旅に出かけた後、卵を守るオスたちは、荒れ狂う吹雪の中、最も厳しい冬の試練を4か月の絶食に耐えて、生き抜き、卵を守り通さねばならないのですが、やがて長かった冬が過ぎ、南極の空に太陽が戻ってくるころ、餌を求めて海に戻っていたメスのペンギンたちがようやく戻ってくるころには、元気な雛たちが孵っているのです……。 そのときすでに極限にまで衰弱しているオスペンギンたちは、メスと再びバトンタッチして、雛をあずけ、一斉に、海へと向かうのですが、この旅路のなかで多くの父ペンギンたちが力尽きて、倒れてゆくということです……。 ところで今回、この映画を見ていて初めて気がついたのは、皇帝ペンギンたちのくちばしがピンク色をしており、また頬のあたりがゴールドの毛で覆われていることでした。白い氷と青い空だけの風光のなかにあって、ペンギンたちの、このピンクとゴールドのコントラストは、とてもとても目立つのです…… 忍耐と限りない信頼が、この映像から伝わってくるメッセージだったのですが、思えば、このピンクとゴールドの2相の組み合わせは、オーラソーマの76番ボトルの色でした……そして、この76番ボトルは、Trusut(信頼)と呼ばれているのでした。これからB76を密かに、皇帝ペンギンボトルと呼ぶことにしよう。
August 16, 2005
からから天気のなか、にわか雨が通り過ぎてゆくと、傘を持たない人々が濡れながら、慌てて街を駆け抜けてゆく姿を目にしますが……そういうときに、ふと想い出すのは次の詩…… 有漏ぢより無漏ぢへかへる一やすみ あめふらばふれ風ふかばふけ (一休禅師の『道歌』より) 古来より、仏教では、瞑想の成果として得られる幾つかの超人的な通力のことを“神通”と言い習わしてきているけれど、多くは六つに分けられて六神通と称されています。 見えない世界を見たり、聞こえない声を聞いたり、他者のこころを見抜いたりする力の他に、漏尽通という名で呼ばれる第六番目の通力があって、上記の一休の道歌に有漏、無漏と詠まれているのは、その漏尽と関連があることばです…… 日々、外側に向かってエネルギーを漏らしながら生活しているわれわれが、ふと我に返って、エネルギーを逆流させ、刀を鞘に納めるように、一休みするとき……完全にエネルギーの漏れを止め切ることはできないまでも、通り雨が通り過ぎた後のようなすがすがしさを感じるのは確かです。 気づかないうちに、次から次へと漏れ出しているエネルギー流出を、わずかでも減らすことができるなら、、、、 エネルギーは火だ エネルギーは太陽的なものだ あなたがどこへも動かず 完全にいまここに静止し なんの動きもなくあなた自身に収斂しているとき 一切の漏出は止まる 漏出が起こるのは欲望と望みを通してだからだ あなたは未来のせいで漏らす 漏出というのは動機があるからだ 何かしろ 何かになれ 何かを持て なんでお前は坐って時間の浪費をやってるんだ? 行け! 動け! やれ! そうやって漏出がはじまる もしあなたがただただここにいたら どうして漏らし得る? エネルギーが収斂する あなたの上に落着する それは火の環となる そうして心の氷河が溶けはじめる (OSHO 『存在の詩』) わたしたちの体内には、約60兆個と推定される細胞があり、その細胞の中にあるミトコンドリアと呼ばれる小器官のなかで、エネルギーがつくられつづけているのですが、もし、日々の生活のなかでエネルギーを漏らし続けているならば、いくらミトコンドリアが頑張ってみたところで、地面をはうようにして生きてゆくのが精一杯の状態になってしまいます…… 細胞の内側に住んでいる大地の女神と呼んでもおかしくないようなこのミトコンドリアが日々生み出してくれているエネルギーを、刻一刻、きちんと受け取って、無駄に漏らさないよう、正しく使いこなしてゆくことができるなら、やがて徐々に、余剰のエネルギーがプールを始めてゆくことでしょう…… けれども、エネルギーの漏出があまり長く続いてきたために、もはやミトコンドリア自体が疲弊して、くたびれ果ててしまっているような身体も、今の時代では、たくさん見受けることができるような気がします……
June 28, 2005
海馬と書いて、カイバと読みますが、海馬とはタツノオトシゴのこと……実は、人間の脳の中には、ちょうど両耳の奥のあたりに、このタツノオトシゴのかたちに似た部位があって、そのかたちから海馬と呼ばれています。 ここは短期記憶の座として知られており、コンピュータに喩えるならば、メモリーに該当するような機能を持っているのですが、例えば、タクシーの運転を生業としてるような人たちの海馬は、ふつうの人たちよりもずいぶんと発達しており、町の道路情報が緻密な地図として頻回にインプットされることで、このエリアが鍛えられ、一生増えることはないとみなされていた神経細胞の数までが.実際に増えていることが確認されているということです。 海馬で処理された短期記憶は、そのままでは消えてしまうので、ハードデスクに相当する側頭葉に移されて、そこで初めて安定した長期記憶になるのですが、このプロセスがうまく進まないと、聞いたはなから忘れてゆくという、はなはだこころもとない擬似ノーマインド現象が起こってゆきます…… ところがなんと興味深いことに、この記憶サーキットの要である海馬の中に、なんとナビゲータ機能とでも名づけるのがふさわしいような、その人が現在地球のどこに存在しているのか、その場所を定位する働きのある不思議なニューロンが存在しているというのです……。 聞くところでは、海馬の中のある特定の細胞は、特定の場所にのみ反応するということのようですが……これは、たとえば、わたしが今こうして岡山の自宅にいてパソコンを入力しているとき、パソコンの前に坐っているこの場所にのみ反応して活性化する特殊なニューロンが海馬のなかにあるというのです……。 わたしが大阪や、東京方面に出かけてゆくとすれば、当然、海馬の中の別のニューロンが反応して活性化してゆくことになります……わたしのからだが移動してゆくにつれて、海馬のどこかも点滅しながら、その活性部位を移動させてゆくというのですから、それはまるで、交通機関の動向を電光パネル表示させている管理室の光景を見ているような気分になってきます。 つまるところ、人間の肉体が存在している場所を定位して、脳の中にマッピングしてゆくという驚くべき作業を、海馬は日々刻々と行なっているということなのですが、特定の場所にのみ反応するということで、この特殊な神経細胞は、“場所ニューロン”と呼ばれているようです。 ……以上、今日読み終えた『できる人は地図思考』吉田たかよし著(日経BP社)より、一番、印象に残ったところをメモとして書き留めておきました。
June 23, 2005
… トーニングを瞑想の方便として用いていると、あたかも自分自身の身体がひとつの楽器のように感じられてきます。とりわけ弦楽器の弦を、ひとつづつ丁寧に、調律、調弦しているのと似たような感触が得られるからなのですが…… 聞くところでは、ストラディヴァリのようなバイオリンの名器であったとしても、もし、弾き手によって、調弦されることなく長い間放置されてしまったら、その美しい音色は失われてしまうそうですし、また逆に、何の変哲もないふつうのバイオリンでさえ、毎日、毎日、愛を込めて調律を続けていると、次第に、より音色を発するようになると言います…… 自らの身体の調律、調弦とは言い得て妙なりで、実際、毎日、トーニングを続けてみると、微妙な狂いに耳がどんどん敏感になってゆくのですが、そのズレを整え切ることができないとしても、その微妙なズレがあることに気づいていること自体が大きな要素となって働きはじめます…… よく瞑想を鏡にたとえ、その鏡に積もったホコリを払うという視覚的なイメージが使われたりするのですが、そういう意味では、調律、調弦というのは、聴覚的なイメージであるだけでなく、実践上の、リアリティでもあるのです……そんなことを思い浮かべていると、次のようなoshoのことばが見つかりました…… 思考のセンターは頭脳 感情のセンターはハート 生命力のセンターは臍だ 思考、黙考、熟考は頭脳を通して起こる 愛や憎しみ、怒りというような感情を経験し 感じることはハートを通して起こる 思考の細胞はとても緊張していて リラックスする必要がある 考えることには非常な緊張とストレスを伴い 脳は大きなストレスを受ける 思考というヴィーナ(弦楽器)の弦が あまりにも張りつめていると 音楽は生み出されない それどころか弦が切れてしまう ……つまりひとは混乱してしまう 人はとても混乱している 思考というヴィーナの弦を 少し緩ませることが本当に必要だ そうすれば、創造される音楽に調和できるだろう ハートの状況は脳の場合とまったく反対だ ハートの弦はとてもゆるんでいる もう少し締めるほうがいい そうすれば創造される音楽に調和できる 思考の緊張は減らし ハートの弦のゆるみを少し締める必要がある 思考と感情の弦の調子が合っていて バランスが取れていたら そのとき、音楽が奏でられ そこから臍への旅ができる (OSHO 『 The Inner Journey』)
June 21, 2005
今、手元にある『StarPeople of Earth』の15号は、聖なる音を求めて……という特集が組まれていて、なかなか興味深い内容が満載されていますが、音を用いる瞑想や、トーニングなどに取り組まれている方には、お勧めの資料です。 以前、この日記でも紹介したことがある山根麻衣さんの新曲『輝きの音』にまつわる記事にもページが割かれており、また、『輝きの音』の出だしの部分などが収録されているCDも付録でついています…… いろいろと紹介した内容があるのですが、今、わたしが行なっているサウンド・レゾナンスの観点からみたとき、トーニングという独自の発声方法をめぐる重要な手がかりに触れられている記事として、ハルモニア主宰の鍋島久美子さんのコメントをとりあげ、少し紹介してみたいと思います…… 「精妙な音は人の中心を開く」と題された鍋島さんへのインタビュー記事は、まず、“耳を開く”という小見出しで始まりますが、発声の元には、まず、聞くことありき、という基本が、ここでも的確に語られています…… それはどう歌うか、どう弾くかという技術ではなく あくまでも“聞こえる音”の自然な発露として 音が出るということなんです つまりその人に聞こえている音が その人の中心を通って出てくる それは歌おう、弾こうとして意図的に出す音とは まったく質が”違います…… (鍋島久美子) わたしたちの声というのは、常に他者を意識し、外界に存在する他者に向けて、発せられています。見るというまなざしひとつとりあげてみても、外にある対象を凝視して、エネルギーを流出させるような見方もあれば、ただ、静かな水面が月影をきれいに映し出すように、ただただ、あるがままのものを映し出すように意識を内転させて、映る姿をただ眺めている……見るというよりも、むしろ、見えるという状態がそこに顕現してくるのと同じように、聞くのではなく、むしろ、聞こえてくる状態が顕現してくることが大切だということです…… ですから、トーニングを行なう場合でも、発声する前に、聞こえてくる音によく耳を傾け、周波数的なガイドのために設けられたCDの音にしっかりとチューニングをし、よく聞いてから、声を出すことが、とても大切になってきます…… 聞こえない音は、出すことができない……これがまず第一に、こころにとめておくべき留意点のひとつです。 それから二番目に、声を外側に流出させないで、内側に響かせるようにすることも大切なポイントになってきます。さきほども書きましたが、わたしたちが言葉をしゃべるのは、外側にある他者とコミュニケートしようとする目的があるわけです……つねに、わたしたちは、声を出すことを、外界に結びつけていますから、どうしても声を出そうとするときに、その声を外向きに使いがちです…… 例えば、ステージに立って、聴衆に向かって歌を歌うという設定の場合でボイストレーニングをする場合でも、へたをすると、自分自身を響かせることよりも、聴衆を意識し、聴衆に、声が届くことを意識することが先になったりしがちです…… トーニングは、誰かに声を聞かせるために行なうものではなく、自分自身を響かせること、自分自身の響きの広がりを拡張することにあるのですから、無意識のうちに外向きに声を使おうとする傾向に流されないよう、時々、声を引き戻すことに留意する必要があるのです……このあたりの感触を、鍋島さんは、きわめて的確に、次のように述べてらっしゃいました…… 声を出すときには いつも「後ろへ出して」と言っています 後ろへ出す音は、 その人の深い部分からやってきます 深いけれども、軽くて、クリアーで 生きる喜びが息づいていて 感情ゆたかだけど、そこに埋没しない その人の宇宙の音、 存在の音だな、と感じる音なんです 開かれた音というのでしょうか 耳を開き、その開かれた耳を通して入ってくる周波数、波のリズムに、ただ軽やかに乗って、からだを中空の竹のように響かせるというのは、サーファーたちが波にのるときのわざとも似通っているような感じがします。 最初は、まず、とにかく音を発することから始まるトーニングでいいのですが、少しづつ、少しづつ、そのプロセスが深化するにつれて、徐々に耳が開かれてゆきます……耳が開かれてくればくるほど、人は、音にますます敏感になり、微妙な周波数の違いや、その波の音への乗り方の出来、不出来がよくわかるようになってきます…… そして、うまく音の波に乗れたときには、体内のノイズが一斉に静まり、深い深い沈黙への扉が、音もなく開いていることに気づくようになるでしょう。
June 13, 2005
ブレインとマインド……脳と心作用、このふたつはどのような関係にあるのだろう? わたし自身の観察では、脳というのはすばしい自己制御力を備えたバイオ・コンピュータであり、マインドというのは、そのバイオ・コンピュータに外部からインストールされているソフト乃至、そのソフトを働かせることによって蓄積されているところの記憶のプールといった趣きがあるように思うのだが…… ある意味では、バイオ・コンピュータは、ぴかぴかのハイパフォーマンスが約束されている手つかずのコンピュータのようなものだけれども、使い手がへたであれば、宝の持ち腐れというのか、本来与えられている力が十全に発揮されないばかりか、へんな計算をして、奇妙な振る舞いを指示するようにもなってしまうかもしれない…… これを少し、主観的サイドから眺めてみると、マインドはブレインに発生しているノイズのような感じもある……そして、ひとたびこのノイズが収まると、脳は、静かに、その最高度の機能を発揮しはじめるようだ…… そんなことをつらつら思っていると、先日、サウンド・レゾナンスのワークで訪れた小松のウディタ宅に置いてあったohso の雑誌を何気なく手に取って、ページを開いてみると、こんなことが書いてあった。 脳はマインドとは完全に異なる マインドは社会から与えられるが 脳はあなたの身体の一部だ 脳は ヒンドゥー教徒でも キリスト教徒でも イスラム教徒でもない。 が、マインドは ヒンドゥー教徒だったり イスラム教徒だったり キリスト教徒だったりする 脳はすばらしい生きたコンピュータだ あなたがマインドを落とせば落とすほど あなたの脳はもっと鋭く もっと知性的になる あなたの凡庸さを つくり出しているのはマインドだ 今、あなたの脳は かなりたくさんのゴミをかかえている! 脳が機能しているのはまったくもって奇蹟だ あなたの脳はその機能をすべて失っている 一度、マインドが落ちたら 脳は完全に機能するだろう osho 『Be still and Know』(じたばたしなさんな)
June 6, 2005
先日、今年3度目の石川県小松でのサウンド・レゾナンスのワークショップとコンサレルテーションを終え、最終日、名古屋へと向かう道すがら、前から訪ねたかった福井県立恐竜博物館へ足を伸ばすことができたのでした…… 前回、まだ白山山麓の里にも雪が残っていた3月初旬、勝山にある“子どもの家小学校、中学校”という、きわめて斬新で、実験的で、しかも、グランディングがしっかりとできているニールの精神に基づく新しい学校を見学にいったおり、近くを通りかかったときに、突然、道路脇の森の中に、青空を背景として巨大な銀色の卵形の構造物が出現してきて、それがまるで、『風の谷のナウシカ』に出てくるオウムのような印象を受けたので、ぜひ立ち寄って見たかったのですが、時間の関係で断念したのが、この恐竜博物館だったのでした…… 今回は、どんよりとした空模様だったので、まるで銀色の巨大な卵が、同じ色の背景に溶け込んでしまって、境界線があいまいになっており、それもた一種独特の雰囲気を醸し出しているのでした…… そして、この巨大な恐竜博物館の内部もまた卵状になっており、エントランスから、いきなり地下にむかってエスカレータを降りていったあと、今度は、だんだんと螺旋状に階を上昇しながら、生命進化のプロセスを、化石やら、骨やら、岩石やら、パネルやら、ビデオ映像やらで学習できるようになっているのです…… 名前は恐竜博物館ですが、中は決して恐竜だけにフォーカスされているわけではなく、つまるところは、地球上の生命誕生から人間までの進化プロセスを、壮大なプロジェクトのなかで振り返ることができるようになっている見事な装置なのでした…… そして興味深いのは、この巨大な銀色に輝く卵の生命装置のすぐ近くに、宝慶寺という永平寺の奥の院……道元禅の隠しアジトのような道場があって、今でも、少数の修行者たちが、冬場の積雪3メートルを超えるという環境のなか、黙々と只管打坐していることと、今、そこの堂長として新人を育てている田中真海和尚こそ、79年にプーナのoshoのアシュラムで、ばったり出くわして以来の盟友だということです…… 宝慶寺については、別の日記で詳しく触れますが、ともかく最先端の科学的知見に基づく、生命の歩みの情報系を蓄えた地球情報カプセルと隣り合わせに、生命の核の目覚めを実践する生きた禅の中枢のひとつがあって、その母胎となる山が、やはり銀椀峰……銀色に輝く容器なのです…… それにしても、銀色の卵と銀色の椀……このふたつの天然と人工の構造物を並び立たせることができる白山麓、九頭竜の流れの流域は、なかなかのものですね……
June 2, 2005
さて、昨日の夕刻、岡山はどしゃぶりの雨でした……ゴールデンウィーク期間中の移動の疲れをぬぐい去るかのように、激しい雨が降りしきったのですが、一夜明けて、今朝は、ふたたび清々しい日が射しており、ウグイスも大きな声で啼いています。ところで女神サミットフィナーレでの麻以さんのステージですが、最後の方で、3月に誕生したばかりの新曲を披露してくれました……「輝きの音」というタイトルの曲がそれです……これはサウンド・レゾナンスのワークとも相性がよい歌詞なので、夏に予定されているという新盤のリリースが待ち遠しいところです…… 曲のアイデアは、彼女が伝え聞いたアフリカにある部族の伝承にヒントを得たものなのだそうです……この部族では、赤ちゃんがお腹の中にいる間に、お母さんは荒野に出かけ、瞑想をして、その赤ちゃんの歌、その赤ちゃんの本質の響きを聴き取ることに専念するのだそうです…… そして、その歌、その本質の響きが聴き取れたなら、母親は、帰ってきて、その歌を部族のみんなにも伝えるのです……するとそれはその生まれてくる子の魂の本質を映し出す、その子固有の音、響きとして、部族みんなの共有の体験になるわけですね。 やがて、その子は成長してゆきます。そしてさまざまな人生体験を積んでゆくうえで、様々な困難に出会うとき、または、病む時や、老いて死んでゆくときなどでも、まわりのみんながその歌を歌って、そのひとの魂の本質を思い出す手助けをするのだそうです…… そして、もし万が一にも、その子が道に迷い、悪事に身を染めるようなことが起こったとしても、現代社会のように罰則によって力づくで懲らしめるのではなく、部族の者たちみんなが輪になって、その真ん中に、その悪事を犯した子を坐らせ、みんなで、その子の魂の本質の歌を歌い、その子が再び本来の響きを取り戻せるように、音を通して想起のお手伝いをするのだということです…… 麻以さんは、この伝承を聴いて、こころを打たれ、「輝きの音」という新曲を生み出したわけですが、サウンド・レゾナンスのワークというのも、これとそっくりなプロセスを辿ります。そのひととの響きの本質を見出すささやかなお手伝いをし、また、忘れてしまったその人固有の振動数を思い起こすよすがとなる周波数や、音を見出すプロセスを辿るわけですから……麻以さんとは、コンサート後に購入いた『祈りの唄』というCDにサインをしてもらうとき、少し立ち話をすることができたのですが、幾人かの友人の友人でもあるということで、今後も、色々つながりが出てきそうな感じがしています。また、次回、時間があれば、音の話や映像の話をつっこんでしてみたいと思っているところです。
May 7, 2005
お天気に恵まれたゴールデン・ウィークでしたが、みなさん、いがかお過ごしでしたでしょうか。わがハート・オブ・ライフは、3日、4日、5日と、出雲参りの日々となりました。これはいくつかの偶然が重なったものなのですが、結局、なんとこの間に、2度も岡山と出雲を往復することになったのでした。 初日の3日は、京都からきていた母と、パートナーのブミカとともに3人で広島の比婆山越えをして、横田町方面から出雲に向かいました。途中で、鉄の神様である金山彦、金山姫を祀る金屋子神社を参拝……ここは「もののけ姫」のタタラのシーンで有名になり、訪れる人が増えたとされる神社ですが、山の奥にある、ひなびた神社でした……続いて、神魂(かもす)神社、八重垣神社とまわり、日が落ちてから玉造温泉や湯の川温泉などで宿を探したのですが、さすがにゴールデンウィークの期間に予約もせず温泉街を訪ねるのは無謀だったようで、軒並み10数件断られたのでした。 もう8時も過ぎるころ、ようやく出雲市内に入り、駅前のビジネスホテルなどを軒並み当たってみたけれど、やはり、どこも満室……これはもしかしたら野宿かも、と思いながら、電話帳を括って、軒並み電話をかけてみると、なんと、たったいまキャンセルが出たばかりという旅館を駅前に一軒見つけたので、さっそく3人で転がり込んだのでした。 でも結局、出雲大社へのお参りは、翌朝4日早くにというこのスケジュールは大成功で……大社へと通じる道路もまだ混んでなく、駐車場へのスムースに車を入れることができたのでした。(母もブミカも出雲大社へは初めて足を伸ばしたのです) そしてこのときはちょうど出雲大社のすぐ側の大社文化プレイスうらら館にて、女神サミットというプロジェクトが進行中だったので、のぞいてみることにしたのですが、朝一番のプログラム、エリック・バークランドさんのハープ演奏に間に合うことができました。また、午後のプログラムの一部である三砂ちづるさん(最近話題の『オニババ化する女たち』の著者)の講演「忘れられている女性の身体に“在る”力」も聴くことができたり、はざまに行なわれたミニ・コンサートの模様なども楽しんでくることができました。 このミニ・コンサートの中では、ネネちゃんの歌声が印象に残りました……須佐之男命の恋歌やら、平和憲法第九条を歌にして歌っちゃったりするのもよかったけれど、声量があるのと、彼女の声質が、ターコイズとゴールドをカバーしてて、オープン・ザ・セサミ的なボイスなのも今日的な感じがします… ところで、ネネちゃんというのは、一昔前に“ジュンとネネ”というコンビで歌番組でもスポットライト浴びてたあのネネちゃんですが……なんでも芸能界引いてからは、ハワイに越して、結構、ニューエイジ、精神世界系の旅を重ねてきてたといううわさは聴いてたのだけれど、こういう世界の中を旅していたのですね。 この4日の最終プログラムは、森のイスキアの初女さんのお話だったのですが、ちょと時間がないので、残念だけれどパスして、一路岡山を目指しました……とKろが、大渋滞に巻き込まれ、帰り着いたのが夜の10時頃……やっぱりゴールデンンウィーク中には移動するものじゃないですね。 そして明けて昨日5日、朝起きて、母たちが京都に発った後、ゆっくりと連日の疲れを取っていたのですが、朝食後、天気もよかったせいか、いきなり、“今、出発すれば、女神サミットの午後のイベントにも間に合うかも!” と思い立ち、ブミカに相談したところ、彼女も躊躇わずにうなずいたので、「よし、じゃあ、いこう!」モードにすぐさま切り替えて……一路出雲を目指して、車を再び岡山ICへと走らせることになったのでした…… 岡山と出雲大社は、距離的には順調に飛ばすと約3時間半で着く距離なのですが、結構飛ばしたのだけれど、残念ながら、午後1時からスタートする小嶋さちほさんのライア演奏には間に合わず、エンディング・コンサートからの参加と相成りました。 まずは奈良裕之さんが奏でる不思議な楽器や民族楽器演奏を味わった後、ホールで行なわれた山根麻以さんの演奏ステージに参加したのですが、どうやら今回は、このステージに参加するのが一番の目的だったのかもしれません。麻以さんのステージは、ゆっくりと点火してゆく感じで、だんだん盛り上がり、最後の方では、沸騰してきた感じで、おお、これはなかなかいい盛り上がり方だという感じになってきました、、、、、エネルギーがはじけるだけでなく、高みへとリードされてゆくようなステージに居合わせたのは久しぶりです。 このとき、なんだかこう太い女性のエネルギーがようやく目覚めて、立ち上がってきつつあるという感じがしたのです。そして、これだけの太さと根づきがあれば、きっと眠れる男性エネルギーを押し上げて、天まで触れる手助けを十分にすることができるだろう、と……そんな感じがしたのです…… 麻以さんのステージでは、プロジェクターから映像がステージ背後のスクリーンに幾何学模様や蓮の花の映像、銀河の映像などが、ずっと投射され続けていたのですが、エンディングに近づき、『祈りの唄』に乗ってダンシングのエネルギーがピークに達したころ、沖縄の聖地と思われる岬の岸壁に、金星がきらきらと瞬くシーン……が、、、映し出されます……そして、この太い大地のエネルギーに支えられながら、この光景が目に飛び込んで来たときには、「あぁ! これは」……これこそ空海が体験したところの「明星来影す!」の、あるいは仏陀が明けの明星を見て光明を得たときの光景だと思わせるほどの、すばらしい絶妙のタイミングにおける光に満ちた映像だったのです…… ところがその後、さらにスクリーンには、その光をさらに増幅、拡散させるかのような、巨大な霊山、カイラサ山の姿が映し出されてゆきます…… そしてカイラサが映し出されるや否や、その山頂から次から次へと光の玉が放たれ、飛び出してくるのですが、画面を見ていると、まるでその光の玉は聴衆の上にそのまま降り注いでくるかのように見えるのです…… こうしてカイラサから放たれ、飛び来る無数の光の玉は、会場かた立ち昇るいのちの祀りのダンスのエネルギーとが混ざり合って、そこには言うに言われぬ不可思議な光景が生み出されて行ったのでした。 「お~~どれ~~~、い~の~ち、おどれ~~~!」 と最大ボリュームで麻衣さんが歌うときには、会場は、ちょっとしたヤマタイカ状況になりますね。いのちの祭りのリズムとガイドを、高度なレベルで導くことができるシャーマニックな歌い手がまたひとり出て来たという感じです……
May 6, 2005
先日、テレビを見ていたら、NHKの『ご近所の底力』で、つい先日訪れたばかりの臼杵の町並みが映っていました。なんでも、臼杵市では、カラスによる生ゴミ散乱被害対策として、ゴミ袋の色を黄色に変えるという2年限定の政策を取り入れたとか…… 番組で科学的根拠について語っていましたが、カラスの網膜には、とりわけ黄色と赤色に敏感に反応する視覚細胞を有しているようです……これはフルーツの色彩に対応しているので、フルーツのサイズがどんなに小さくても、遠くから識別できるようにしてあるようです…… 実際、黄色のゴミ袋に入れた生ゴミに、カラスは見向きもせず、実験は大成功のようでした……要するに、あんましでかい黄色のゴミ袋では、その黄色がまぶしくて、中の生ゴミを認識することができない、ということのようなのですが…… それで思い出したのが、ゴッホ最晩年の絵です……黄金色の小麦畑の上を、カラスが乱舞する様を描いたあの絵です。 ゴッホ、黄色い麦畑 この絵の色彩には、ロイヤルブルー/レモンというオーラソーマボトルのコンビネーション “Old Soul” を彷彿させるところもあり、そのレモンの輝きに、対象世界の個物性への識別が揺らいでいる、、、、、、、 そして先頭のカラスは、夜鷹のように、ロイヤルブルーの天空を目指して、最後の飛翔を始めようとしている、、、、シルバーの霊光に包まれながら… ところで、OSHOは、サニヤシンやサドゥたちが着るローブの色というのは、第3番目の身体(アストラル体)に現れる色によって選ばれると語っています。そして、ゴータマ仏陀は、弟子たちのローブの色に黄色を選んだのだけれども、その黄色というのは、第七番目の身体であるニルヴァーナ体を強調するものだからだ、とも……。 言うなれば、黄色というのは、究極の死の色……究極の死の次元の色ということです。 これに対して、オーラソーマなどのシステムで語られる黄色というのは、ある意味では一番表層的なエゴの色、私の色、知識の色とされているのは、はなはだ興味深いコントラストです。 (但し、ゴールドのエリアの最新部、中核のところにあるインカネーショナル・スターの色は青地に黄色の星ですから、おそらくは、この次元の黄色との関連があるのでしょう) また、同じ黄色と言っても、そこにも種々のスペクトルがあり、少し周波数がずれ、色が若干変化するだけでも、カラスはもう騙されず、黄色い生ゴミ袋をついばみはじめるようです。 ちなみに、日本では、黄泉の国といいますが………黄色が湧きいずる泉とは、言い得て妙なりです。
April 30, 2005
この日記のタイトルは「現代文明の潜在性鉄欠乏」…… ひとつには人間の身体内部における鉄の働きを射程におさめた上での鉄欠乏の話、潜在性の鉄欠乏性貧血の話もしておきたいのですが、今日の「鉄欠乏』の話は、地球という身体における鉄欠乏の話です……実は一昨日、電気関係の下請け会社の社長を長年している友人と話していて驚いたのですが、今や業界筋では、鉄、実際には鋼板が不足しているということでなかなかシビアな状況になりつつあるようなのです。いやいや鉄だけじゃなくて、あらゆる資源が限界に近づきある兆しが見えはじめているのですが…… 人口が増加し続ける現代文明が消費し続ける巨大な構造物の素材として鉄を初めとする金属類が、もう前のようにふんだんに手に入らない状況が、昨年あたりから急激にリアルになってきているというのです…… 自動車を組み立てるにしても、プレスで形成する素材としての鋼板がないことにはどうしようもないわけですが、どうやらこの鋼板そのものの在庫が乏しくなってきているため、仕事がきても、材料調達ができなくて、お流れになることもあるとか…… 中国が急激な経済成長に入った煽りもあるとは思うものの、よく考えてみれば、当然といえば当然のこと……有限な資源を無際限に彫り尽くしてゆけば、やがては、限界がくるのは当然なのですが……。 巨大なビル、巨大な橋、巨大な道路網、巨大な船、巨大な飛行機、こうした人口構造物の身体の強度を支えるのは、今でも鉄の大切な仕事であり、それに代わる代替品はありえないのですが、その鉄が新陳代謝をしなくなりつつあるということだと思います…… これは仕事柄、私のように、人間の身体における鉄の貯蔵量や循環量(貧血の発生機序)に敏感にならざるをえない者の眼から見ると、ひじょうに興味をそそられる現象ではあります。
April 29, 2005

4泊5日の日程で、宮崎を訪れ、昨夜遅く、一息で岡山に帰り着いてきました……21夜のうちに岡山を発ち、四国に渡って、松山道を西へ……大洲インターで降りて、八幡浜まで一般路を走しり、明けて翌22日早朝のフェリーに乗船。2時間15分の海上の旅は、大分の臼杵へと続いています。このフェリーの深夜便は、到着後も朝の7時まで船内で仮睡できるので、なかなか便利です。九州は、朝から日差しが強く、7時でもまぶしいほど……陸路を延岡に向かって南下する前に、少し時間の余裕があったので、臼杵石仏と呼ばれる国宝の磨崖仏石窟を訪れてきたのですが、このすばらしい石仏群を寄進したのは、日本昔話に出て来たような炭焼きの真名野長者とか……古園石仏の大日如来を中心とする13仏の立ち姿が、とりわけ印象に残ったしだいです。臼杵石仏延岡でのコンサルテーションは、22, 23, 24 の 3日間……25日は day off として、県南の青島神社や、照葉樹林で有名な綾町を散策……綾では、照葉樹林の渓谷にかかる高さ142メートルの吊り橋を渡り、樹林のなかの遊歩道を1時間以上もたっぷりと歩きまわってきたのですが、1日おいて、今日の午後から、筋肉痛が顕われはじめたようです。森は、いたるところでカリフラワーのように見える、照葉樹林の白い花が咲き乱れ、若葉に透過する光が、グリーンのコントラストを描き出して、何よりの眼のごちそうでした…… 翌26日は、フェリーの港への時間が迫るぎりぎりまで、高千穂の峡谷や神社をめぐる旅……前からボートを漕いでみたいと思っていた高千穂峡谷は、水量もちょうどぴったりで、青い水をまんまんとたたえた峡谷の流れをゆったりと遡り、飛び散る滝のしぶきや、岸壁の光と影の陰影……岩場のはざまから顔を出すどこまでもフレッシュな緑の新芽の息吹を存分に味わうことができました。
April 27, 2005
急な話なのですが、4/22,23,24 の3日間、宮崎の延岡にて、サウンド・レゾナンスのコンサルテーションと、ナイトイベントを行なうことになりましたのでお知らせします。サウンド・レゾナンスのコンサルテーションの概要については、フリーページをごらんください。基本的には声をコンピュータで採取して、それを色のスペクトルに変換し、色彩言語を用いてリーディングしてゆくものですが、こうした左脳的なアプローチは、セッションを深化させてゆくために設けられた、あくまでも2次的な補助的手段にすぎません。セッションの本質は、やはり参加される方の魂の願いそのものに根ざしていますので……わたしはただその願いが浮上して、意識野にとらえられるのを、できるだけ邪魔しないように、触媒的に補佐するだけなのです。ただ、音を用いる技法というのは、想像していた以上にインパクトがあるようで、一歩踏み出そうとしている人たちの意識成長のプロセスをすみやかに促進することだけは請け合えると思います。ここちよい夢の中でまどろみ続けるのではなく、あるがままの真実に向き合い、例えそれが痛みを伴うものであったとしても、目覚めることへのステップを勇気をもって踏み出そうとする人たちにお勧めのセッションです。なお、金曜日の夜と土曜日の夜、コンサルテーションとは別に、ナイトイベントが設けられています。いずれも夜の7時から9時まで……内容は、細胞内チャクラの見取り図と、タンパク合成、そして、グランディングをめぐるお話と実践になります。(コンサルテーションは、滞在中、10セッションが用意してあります)お問い合わせ、申し込みは、私書箱メールでmonjuまで、お願いします。
April 14, 2005
昨日、一昨日と、仕事を兼ねながらではあるのですが、かねてより行ってみたいと思っていた滋賀のミホ・ミュージアムや京田辺の一休禅師ゆかりの禅寺を訪ねたり、関西エリアを周遊券でぐるりとまわり、さきほど帰ってきたきたところです…… ミホ・ミュージアム一休寺昨夜は、京都岩倉周辺に住む友人宅に泊めていただいたのですが、今朝は早朝早くから、銀閣寺周辺まで出かけ、時おり吹いてくる風に乗って勢いよく散りはじめた桜を眺めながら、哲学の道をぶらりぶらりと法然院のあたりまで散策してみたのです…… 法然院ちょうど銀閣寺周辺の桜たちはそのピンクの花吹雪を一斉飛ばし始めたところで、ようやく青空を見せてはじめた大空や、流れる川の上に、数限りない花弁が舞い散ってゆくさまはみごとでした。 聴くところでは、桜の花の舞い散る姿が吹雪になぞらえられたり、しんしんと降り積もる雪が華と呼ばれたりするのにはわけがあるそうで、それは5枚の花弁を持つ桜の花びらの落下スピードと、六角形に結晶した雪の切片が舞い落ちてくるスピードがぴったりと同じであるところからもきているとのこと…… そういう眼差しで、改めて今日の舞い散るペールピンクの花弁の動きを見ていると、確かに、確かに、これは雪の舞い踊る様とそっくりなのでした…… さて、法然院を出て、京都駅へと向かうタクシーの車中で、運転手の方から耳よりな情報を得たのですが、京都で、もっとも桜が舞い散る姿が見事なのは、二条城なのだそうです……二条城の桜は、お城の塀で囲まれているために、そのなかを通る風が、うまくつむじ風を起こすようで、そのために桜の花びらの滞空時間が他の場所で見るよりもずっと長いのだそうです…… 満開の桜もよいものですが、散りゆく桜もなかなか風情があるものなので……来年、もしタイミングが合うようなら、その二条城の桜が舞い踊る姿も見てみたいものだと思った次第です……
April 13, 2005

今夜は、お隣の曹源寺から不意の招待状が舞い込んできました……アメリカはニューヨークで、ダキーニ・ダンス・カンパニーというグループを率いるスーザンさんのダンス・パフォーマンスが、夕刻7時過ぎに曹源寺本堂で行なわれるということで、ふだんからお寺に出入りをしている近隣のひとたち数名が招待されたのでした。 スーザンさんは、大野一雄さんを師と仰ぐ、若き舞踏ダンサーのひとりなのですが、ふだんは青や黄色に発光する円や四角の形をしたネオン・オブジェを用いて、舞台空間に立体曼荼羅をつくりあげ、その曼荼羅の中を出入りしながら演舞をしたり、叫び声を上げたり、詩を朗読したりして、輪廻する魂の苦しみや解脱への願い、解放などを表現する独特のスタイルを持ったひとなのです…… 今回は、特別に老師の許しを得て来日し、曹源寺に10日間滞在して、禅を学び、最後に、本堂を舞台に見立てて、演舞を舞うチャンスを与えられたのです…… 本堂は、畳のスペースと板間のスペースがちょうど四角の曼荼羅を形成しているので、今回は、その四角の板間のスペースに、つばきの花でつくられた円形の曼荼羅が用意され、そこが彼女の舞台となったのです…… スーザンは、この椿の花の円形曼荼羅の中と外を出たり入ったりしながら、次第に、演舞のエネルギーを粗いものから、細やかなものへとシフトしていったのですが、一度、発光ネオン・サークルを用いた本舞台を見てみたいと思いました…… もちろん音響効果もなかなか興味深いもので、ダン・リーというひとがこのパフォーマンスのためにつくったという音が流れていたのですが、サウンドの効果の面からもいくつか興味深い点に気づかされたしだいです……
April 11, 2005

今日は少し、宮澤賢治の作品の紹介をしたいと思います…… ------------------------------------------------- 私はたづねます。 「おまへはうずのしゅげはすきかい、きらいかい」 蟻は活発に答えます。 「大好きです。誰だってあの人をきらひなものはありません」 「けれどもあの花はまっ黒だよ」 「いゝえ、黒く見えるときもそれはあります。 けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります」 「はてな、お前たちの眼にはそんな工合に見えるのかい」 「いゝえ、お日さんの光の降る時なら 誰だってまっ赤に見えるだろうと思ひます」 「そうそう。もうわかったよ お前たちはいつでも花をすかして見るのだから」 (宮澤賢治『おきなぐさ』より) ------------------------------------------------- 今、我が家の庭先では、鉢植えの翁草が、可憐な花を咲かせ始めているところです。おきなぐさは、うずのしゅげとも呼ばれていますが、この可憐な花を題材に、宮澤賢治が書いた珠玉の小品が『おきなぐさ』です。 4月上旬……ディープマジェンタ色の花を咲かせるおきなぐさ……オーラソーマでは、ボトルの下層におかれるディープマジェンタは、変容と癒しにとても深い関わりがある色とされていますね。 賢治によると、このおきなぐさは、その「変幻の光の奇術の中で夢よりもしづかに話す」のだそうですが、やがて夢よりも静かなコミュニケーションを交わしていたおきなぐさたちは、季節の巡りと共に、ふさふさとした銀色のふさに変わってゆくのでした。 (おきなぐさと呼ばれるのは、この銀色のふさのせいなのです) そして彼らは「きれいなすきとほった風」にのって、旅立つときがやってきます……「星が砕けて散るときのようにからだがばらばらになって1本づつ銀毛はまっしろに光り羽虫のように」飛んでゆき、ふたつの変光星になった……そう賢治の物語は続いてゆきます。 ところで、写真で紹介した“おきなぐさ(うずのしゅげ)”は国産の もので岡山で自生していたものなのですが、最近は、西洋翁草が、大量に入荷されるようになってきました。 ところが、賢治が作品のモデルとしたような黒に見えるほど赤の濃度が濃い、ディープマジェンタ色のおきなぐさは、どうやら国産のものに限るようなのです。これに対して輸入もののおきなぐさの花には、たくさん色のバリエーションがあるようです。 実は、このおきなぐさ……ホメオパシーの世界ではよく知られており、プルサティーラという名前で親しまれています。 『マテリア・メディカ』によると、プルサティーラのひとというのは、やさしく、穏やかで、内気、感情に動かされやすく、涙もろい傾向があり……甘えん坊で、一人でいることや、放っておかれることを恐れるために、そうならないようにしようとして、他者を拒むことがむずかしくなり、、従順で、他人を喜ばせる役目を引き受ける優等生タイプになりがちなのだそうです。 そういうひとは、このプルサティーラのレミディが助けになってくれるそうなのですが、もしかすると、うずのしゅげのディープマジェンタの色を太陽を透かして眺めるだけでも、効果があるかもしれません。
April 5, 2005
江戸時代につくられた、キリシタン弾圧と見張りのための檀家制度が仏教の魂を蝕んできたのはほんとうです……それがお墓の制度とも密に関わり合っているので、仏教的なスピリットの蘇りや、霊的世界の構造改革を言うのだっら、まっさきに手がけるべきは、こうした葬礼の方式ではないかと思われます。 そういう意味で、最近、散骨に代わって少しづつ芽生え始めてきている樹葬というのは注目に値するのですが、最近は、そのヴァージョンアップ形態として「桜葬」にスポットが当たり始めているようです。 先日も山陽新聞に記事が掲載されていました……桜葬とは、桜の樹の下に遺骨を埋めるスタイルの葬儀です。このモデルケースとなる墓地が、東京の町田に近々完成するそうですが、一度、現場を見てみたいなと思っています。 樹木の近くに遺骨を埋めるにあたり、骨壺を使わないので、やがて骨は土に返り、桜の花の滋養として生まれ変わります…… 詳しいことを知りたい方は、エンディング・センターまでお問い合わせください。電話番号は、03-3341-3555 です。
April 2, 2005
先日も日記で紹介させていただいた、即興ミュージシャンの室坂さんのHPを紹介いたします。サイトの内部には、彼女が演奏しているピアノ曲も入っていますので、ぜひ、お聞きください。では、『繭や』へ
March 31, 2005
昨夜放映されたダ・ヴィンチ特集……ダ・ヴィンチが描いたとされる、もう一枚の“モナ・リザ”を訪ねる番組でしたが、かなり信憑性が高いとされるもう一枚のモナ・リザが、近々公式に公表されるとのこと。番組の中で、ルーブル所蔵のモナ・リザとは異なるもう一枚のモナ・リザの映像を初めて目にすることができたのですが、この若きモナ・リザを見た瞬間、なんだか不思議な感覚が湧き起こってきました。まるでモナ・リザがベールを脱いで、とうとうその素顔を表すときがきた、と。番組では、ダ・ヴィンチが生涯肌身離さず所持っしていたとされる、ルーブル所蔵のモナ・リザの謎について迫り、その様式から、これはイエスの子どもを妊娠したマグダラのマリアの秘密を後世に伝えるためのダ・ヴィンチが仕掛けた隠し絵だという大胆な仮説を提示して終わりましたが、もしこの仮説が正しいとすれば、モナ・リザこそが、神秘の薔薇……ミスティック・ローズだということになります。
March 27, 2005
東京、横浜、鎌倉方面への3泊4日の旅を終え、帰宅したところです。今回は、模湖畔に住んでらっしゃる即興ピアノのミュージシャン、室坂京子さん宅を訪ねてきました。ご主人もアーティストで、何トンもある巨大な石をロープで空中に吊るして……しかも水の上に浮かべる……というオブジェにもっぱら挑戦中の方で、作品の写真を見せて頂いたのですが、とても興味深いものでした。昔、その2階で蚕を飼っていたことがある古民家へ手を入れたすてきなスペースでしたが、グランドピアノはもとより、アフリカのジャンベや木管楽器、陶器のオリジナルな不思議な楽器など、手に取って鳴らしたくなるような楽器がたくさん……ともかく、彼女の奏でる即興のピアノ曲をとても気に入ってしまいました。
March 25, 2005
中公新書の新刊で、『マグダラのマリア』というタイトルのものがあるようです。http://www.chuko.co.jp/new/2005/01/101781.html
March 21, 2005
以前、細胞内第一チャクラとしてミトコンドリアについて少し書いたことがあるのですが、来る24日(木)、鎌倉のユニティにて、ミトコンドリアとタンパク合成にまつわる特別講義を行うことになりました。時間は午後1時から5時迄となっています。興味のある方は、明日中にモンジュまでご連絡ください。参加費は、4,000円です。
March 20, 2005
一昨日、こんな不思議な夢を見た……霧のかかった日のこと、生まれ育った禅寺の、海を見下ろす門のところに立って遠くを見ていると、霧の彼方から、遥かに天高くそびえ立つ円錐状の山が顔をのぞかせている……その山容は、富士山のようだけれども、遥かに富士山よりも鋭角で、山の高さも遥かに高い……ちょうど宮沢賢治が描いている山のような姿をしている。こころのなかで「あぁ、これが白山の真の姿なのか」というつぶやきが生まれる。すると、円錐状の山容は、たちまち弧峰から、連峰へと姿を変えた……きわめてリアルなこの夢から覚めたあと、白山の真の姿だと認めたあの弧峰の姿が、何かに似ていたことに気づいた……そう、円空が観世音菩薩像の頭の上に乗せている円錐状の山の姿がそれだったのだ。
March 16, 2005
ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』を読んでいると、今まで、あまり気に留めなかった箇所に気づくようになってきている自分がいるのに気づくようになってきている。音、響き、身体感覚……サウンド・レゾナンスに取り組んでいると、自ずとこうした領域にアンテナが立ち、そうした情報に対して敏感になってきているのかもしれないと思ったりもするのですが……さて、フリーページに、『私という言葉の響き』というタイトルで、『奇蹟を求めて』の一文を掲載しておきました……ここの語られているグルジェフの言葉は、すべてサウンド・レゾナンスのワークの本質に関わるものですので、関心のある方は覗いてみてください。ウスペンスキーが、こういう方面ではまったくの音痴であったことを、改めて発見した次第です……
March 14, 2005
今夜、今話題の小説『ダ・ヴィンチ・コード』にまつわる特別番組が放映されるようです……。 =================================================== プレミアムステージ特別企画 超時空ミステリー!世紀の天才ダビンチ最大の謎と秘密の暗号 ~“ダ・ヴィンチ・コード”の真実に迫る!~ モナ・リザ微笑はカムフラージュ▽消された歴史・謎の秘密結成 =================================================== ■12日(土)21:00~22:54 フジテレビ(岡山では岡山放送)◇世紀の天才とうたわれたレオナルド・ダビンチ。彼が作品に込めた数々の秘密を浮かび上がらせた米国の作家ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」は全世界でベストセラーとなった。この本を切り口に、今なおダビンチが投げ掛け続ける数々の暗号を最新技術を駆使して解明する。修復を終えた「最後の晩餐」に現れた、いないはずの女性。果たしてその女性の正体は何か。出演は藤木直人、米倉涼子、荒俣宏ほか。 ------------------------------------------------------------今、発売予定日を大幅に過ぎてもまだ出版されていない『フラワー・オブ・ライフ』第2巻を原書で読んでいるところなのですが、ダ・ヴィンチが書き残したデッサンの中には、まさにもののみごとにフラワー・オブ・ライフの文様が描かれているようです。今日の番組で、このフラワー・オブ・ライフのところまで触れられるとはとうてい思えないのですが、それでも見ておいても損にはならない番組にはなるでしょう。わたしの見るところでは、この『ダ・ヴィンチ・コード』は、『フラワー・オブ・ライフ』の普及版、POPヴァージョンともいえる特質を備えた作品であり、ちょうどオーラ・ソーマが色彩の言語といいう秘教的概念をカラーボトルを通して広く人々の間に普及させたように、高次元の諸存在たちは、今度は小説というかたちを借りて、隠されてきた歴史の秘密を多くのひとに明かそうとしているようです。もしこれからヨーロッパ方面への旅を計画されていらっしゃる方があるならば、へたなガイドブックを読むよりも、この『ダ・ヴィンチ・コード』の方が、よほど楽しい道しるべとなるでしょう……。ところで『フラワー・オブ・ライフ』では、遠い過去、エジプト時代の、その遥か昔から連綿と続いてきているミステリー・スクールの存在について語っているのですが、それには女性のグループの流れと、男性のグループの流れが存在します。女性のグループの流れは、ホルスの左目のスクールと呼ばれ、男性のグループの流れはホルスの右目のスクールと呼ばれています……ハトホルの流れが、このうちのホスルの左目のスクールのベースとなることが、この2巻では明かされていたり、サウンド・レゾナスで使用する1オクターブ12の音階についての、エジプト・ミステリー・スクールでの伝達のされかたについても紹介されているという意味で、なかなか興味のつきない構成になっています。ちなみに、わたしの右目は、遺伝子欠損に由来する昨年来の奇病のため、顔面の皮膚に潰瘍が出きて皮膚がひっぱられているのですが、その引っ張られ方が、最近は、まるでホルスの右目のマークにそっくりになってきているのですが、悪戯な存在のジョークに、思わず笑みがこぼれてきてしまいます……。
March 12, 2005
昨日は、ひさしぶりに神戸の元町まで出かけ、神戸大丸で開催中の“円空仏展”まで足を運んできたところです。円空は、32歳から64歳まで約30有数年の生涯の間に、全国を遊行しながら、なんと12万体の仏像を刻みつづけたと言われています。もし是が事実だとすると、年間に4000体以上のペースですから、それはまさに超人的なペースだと言わねばなりません。円空は岐阜の美濃の出身の方なので、岐阜や愛知方面にはたくさんの足跡が残されているようですが、今回の特別展示会には、約160体が出品されていました。神戸大丸では、3/21まで円空展が行なわれていますので、近くの方は、ぜひ訪ねて行ってみてください。展示室へ一歩足を踏み込ん入り口のコーナーでは、瑠璃色に輝くヒーリングのブッダ=薬師如来を守る12神将の像が待ち受けていました。約50~60センチ高で、ボリューム感たっぷりのこれら12神将たちの姿は、フィジカルなボディが、100%グランディングし、センターラインが立つときにはかくあるべしという、その堂々とした姿を見る者に訴えかけてきます。これら12神将よりも大きい仏像もあれば、掌に乗るほど小さい仏像もありで、1時間ほどで見終わる予定だったのが、気がついたら有に2時間を過ぎていました……あまた展示してある円空仏の中で、一番私の目を引いたのは、円空と白山とのつながりをしめす一郡の仏像です。ひとつは観世音菩薩と善財童子と善女龍王との三位一体……しかもこのうち善財童子は、白山太神、善女龍王は龍天太神、観世音菩薩は春日太神とされていることで、観世音菩薩の脇に、華厳経の一主人公である53の善知識を訪ね求めて遊行する善財童子と、おそらくは法華経に説かれているところの龍女との関連を彷彿させる善女竜王が置かれている様をみるのは、なんとも味わい深いものでした。さらに、興味を惹かれたのは、細入村加賀沢村の古びた白山宮から発見された白山妙理大権現、白山金剛童子、そして白山不思儀十万金剛童子となづけられた一郡の神像でした……こららの小さな神像の裏側、背中側には、種子と呼ばれる、仏菩薩のエッセンスを顕すサウンドを記した梵字(11面観世音菩薩(キャ)、阿弥陀仏(キリーク)、観世音菩薩(サ))が墨で書き入れされているのです。こうした貴重な小品との出会いは、たぶん、こうした規模の展示会でないとなかなかむずかしいのではないかと思いますが、もちろん、いかにも円空風の、大胆で、荒削りで、エネルギッシュでありながら、それでいたどこまでもやさしい微笑みをたたえている仏像、神像もたくさん出品されており、自らを大いなるものに明け渡しきった人を通して働くクリエイティビティの息吹をたっぷりと味わうことができる、貴重な展示会だといえます。
March 11, 2005
さきほどパートナーのブミカに手伝ってもらい、初めてヘナにチャレンジしてみました。今、頭はヘナを塗った状態で、サランラップをぐるぐる巻きにしています。3時間ほど、こうしたままお風呂に入って、流すということです……聞いてはいたのですが、100%天然の純正へナが頭に触れ、頭皮に浸透してゆく感覚は、なかなか気持ちのよいものです。明日は、早起きをして、神戸大丸で催されている円空仏展を見に行く予定でいます。ところで春の足音が近づくにつれ、空中を飛翔する花粉の量がうなぎのぼりに増えてきている感じがします。花粉アレルギーというのは、もともとは皮膚粘膜上皮組織の脆弱化による、異種タンパクの易侵入が主因ですから、ヒスタミン対策というのは、根本治療ではありません。粘膜上の繊毛の活動が充分に活発であり、粘膜が分泌する粘液の質がよければ、そう簡単にアレルギー反応など起こすものではないからです。粘膜上皮組織を健全に育成し、バリヤー機能をしっかり立て直すためには、繊毛の動きの活性度を左右するヘム鉄はもとより、粘液を構成する主成分であるグルタミンを中心とするアミノ酸やビタミンAなどがとても大切な栄養素材となってきます……無意識裏に進行している栄養欠損のために、家に喩えるならば、生け垣や壁に相当する部分が疲弊し、老朽化をしているのに、その補修・改善をまるで考えず、ひたすら侵入してきた雨風や猫やイタチなどを追い出す手段に追われているのが、よく行なわれている抗ヒスタミン的な花粉症対策です。もちろん、根本的な部分が改善するまでに応急処置としての抗ヒスタミン対策は必要ですが、この場合でもビタミンCやカルシウムなど天然のかゆみ止め(抗ヒスタミン効果)作用を利用するだけで、結構な効き目があるのですから、やたらと薬にたよったりするのは本当に考えものです。ただし、中途半端なビタミンCの量では、いつまでたってもその至適量メカニズムを体感することはできないですから、花粉症に悩まされている方は、一度、思い切って、Cを取り入れてみるとよいかもしれません……
March 9, 2005
今日は、岡山市内で行なわれたメディカル・アロマの講習会に顔を出してきました。栄養素、色彩、音響と人間の身体や意識に関する研究はかなり深いところまで進めてきているのですが、香りの領域については、まだ本格的なサーチを始めるに至っていなかったので、ようやく機会を得たという感じです。通常のアロマオイルやオーラソーマに詳しく、自宅出産現場での臨床経験をたくさん重ねてきている助産師の友人からの勧めがあったので、今回、初めて本格的にアロマの領域に足を踏み入れてみようかという気持ちになってきたのです。香りを楽しむレベルのアロマと医療レベルで用いることのできるメディカル・アロマとでは、その抽出方法からしてかなりスタイルが異なっているようです。最終的には、どうやら各アロマオイルの特性を周波数的に分類してゆくことろまで控えているようなので、音を通じて身体と意識に働きかけるアプローチを主軸としている私にとっては、大いに興味をそそられているところです……
March 5, 2005
昨年と比べて今年は桁違いに忙しくなってきたため、春に備えての庭造りがまるで手つかずのまま来てしまいました。それが気がかりだったので、今日は気温が下がり、冬が戻ってきたような感じの1日でしたが、少し遠出して、花の苗を手に入れてきました。ノースポールを1ケース、花かんざしを10鉢、ムルチコーレを10鉢……それに腐葉土や赤玉土、園芸用の用土などです。保湿性や通気性が高く、それでいてい、保水力のある土をつくるには、ちょっとした工夫がいるのですが、今年はそれにソニックブルームの手法を重ねることで、植物に対する音楽の効果を実体験してゆくつもりです。栄養素と音波のブレンドがうまくゆけば、予想をはるかに超える花の開花を迎え入れることができるでしょう。いわば土壌そのものの組成を返るのは、適切な栄養素を体内に取り入れるのに似ていますが、クラシック音楽をうまく組み合わせて使うことで、生理活性をかなり高めてゆくことができるはずです。細胞が最高度のパフォーマンスを発揮して全一に生きることができるよう分子レベルでの栄養環境を整えることと、そうした環境がベストの状態で発現できるようにフィールドの音波(周波数)環境を整えることとは、不即不離の密接な関係にあると思われるので、この春は、いよいよ理論の臨床応用を始める最初の年になりそうです。
March 4, 2005
さきほど白山の麓にある雪の科学館、かつやま子どもの村探訪を終えて、戻ってきたところです……かつやま子どもの村は、北陸自動車道の福井北I.C.から九頭竜川を遡ったところにあるのですが、途中には、道元禅の本拠地である永平寺を通り抜けるのです。近くには恐竜博物館もあるので、これらはなかなか面白い組み合わせだと思います。伝統禅の世界と、最新の未来教育実践の場、古代の恐竜の息吹、雪の結晶……こうしたジグゾーパズルの断片のようなパーツが、白山山麓において互いに深い深い地下水脈においてつながりあっているのを感じながら、氷点下の空気をからだにいっぱいに浴びてきました。永平寺よりさらに奥まったところには、永平寺の奥の院の風情のある宝慶寺があります。冬期は3メールもの雪に覆われるこの禅寺では、永平寺で後進を指導していたこともある、79年にインドのプーナで会って以来の盟友である田中真海和尚が熱心な禅の修行者を守り、育てています。ここ数年来ご無沙汰していたので、久しぶりに連絡してみたところ、たまたま時間が空いているということなので、柴山潟の畔にある雪の科学館で待ち合わせをし、ダイヤモンドダスト生成の実験を見たあと、畔にある露天風呂につかりながら、ゆっくりと話し合うことができました。なお、雪の科学館では、ダイヤモンドダストの誕生や過冷却、そしてチンダル像現象の実験を再び目撃することができたのですが、今回は、前回とは別のスタッフの方が説明してくださったので、前回のときの説明と合わせると、さらに一段と立体的な映像を受け取ることができたようです。雪とは水を六角に結晶させる力がポジに顕われたものであり、チンダル像は、その同じ力がネガに顕われたものなのですが、いずれにしても、かたちをかたちたらしめている背後には、目には見えないかたちの象りがあるということを、この実験ほど、見事に訴えかけてくるものはありません……ちなみに、前回、ダイヤモンドダストの生成プロセスにおいて、実は、欠くことの出来ない大切な要素を紹介するのを忘れていましたので、ここで補っておきたいと思います。マイナス20度に冷却された空間に息を吐きかける……けれども、ただ吐きかけただけで、宇宙空間のような冷凍スペースに、生き物のような艶かしく蠢く雲粒ができるわけではないのです……それは、吹きかけた息そのものが過冷却状態にあるために、ひとふれのショックなしでは、プロセスが始まらないからです。そして、そのひとふれのショックとは、いわば指パッチン……つまり、急激に膨張する空気の爆発ようなものでもよいのです……雪の科学館では、この不可ショックを、荷物を梱包するときに使う空気入りエアキャップを指で破裂させることによって起こしています……一瞬の内に爆発して広がる空気は、あたりの気温を一気に数十度下げるのですが……この急激な温度下降によって、吐かれた吐息は、一瞬のうちに、オーロラのように艶かしく蠢く、不定形な生命体のような姿に変貌してゆくのです……。かつやま子どもの村小中学校では、生徒たちが自主的に、この雪の科学館への訪問学習を検討しているとのことでしたが、校長先生より、この学校の成り立ちや規模、教育理念、そして具体的な授業構成などを1時間以上にわたって伺うことができたのですが、なかなかすばらしい教育が実践されているようです。もしかすると知人の子どもが、近々、この学校に入学することになるかもしれません……
March 2, 2005
実は、急に決まったのですが、明日未明、岡山を発ち、再び、雪の科学館を訪問することになりました。車に乗って4人での旅となります。1泊して、2日中には帰ってくる予定でいます……その途中で、勝山にある“かつやま子どもの村小・中学校”を見学してこようと思っています。10時~12時まで“かつやま子どもの村、学校”に……午後2時~3時頃、雪の科学館を訪ねる予定でいますので、ご縁のある方には、現地でお会いできるかもしれません。http://www.kinokuni.ac.jp/katsuyama/
February 28, 2005
先日、鎌倉を訪ねたおり、久しぶりに建長寺の柏樹子に会いに行ってきたのですが、アート・ビーイングのガタサンサ、それからユニティに滞在中のサハジたちも途中でピックアップして、総勢4人での柏樹子訪問となった次第です。今回、サハジからスモーキークォーツでできた、かわいい仏足石の置物のプレゼントを頂いたのですが、ちょうどこの仏足石は、法輪、宝座、傘蓋、菩提樹と並び、ブッダ入滅後おおよそ500年の間、ブッダのシンボルとしてもちいられてきたものです。いわゆる仏像というのは、ブッダ入滅500年以降に生まれてきたものですから、ブッダのエネルギーが時代と共に減衰するにつれて、ひとのかたちをしたものが礼拝する信者たちのブリッジとして求められてきたのでしょう……奈良の薬師寺金堂には、ブッダが初めて法の輪をまわしたサルナートの仏足石のレプリカが中国は長安の普光寺にあったものを、遣唐使として渡った仏僧が転写請来した図を基に、天平時代に造られたものだそうですが、現在は国宝に指定されているそうです。ちなみに、下記のサイトで、ブッダの108の過去生を記した仏足石の画像を見ることができます……http://www.e-trip.info/myanmar/footprint.html実は、ハート・オブ・サウンドのワークをリードするようになってから、フットプリントという表現への関心が俄然、高まってきているのです……実際、このワークは、みずからのフットプリントを自覚してゆくことから始まるワークなのですから……。そして具体的にはosho が『庭先の柏樹子』と名づけたダルシャンの記録の中にある“グランディング・レッグス”というすばらしい瞑想法を用います。そこで、このワークの開始点を明瞭にさせるシンボルを探していたところ、タントラの図象の中に良い水準のものがあったのですが、どんぴしゃりではないので採用をためらっていたところ、まさにドンピシャリのものをサハジからプレゼントしてもらった次第です……建長寺の柏樹子へのガイドは、いわば、そのお返しでした……三門と仏殿、そして柏樹子というこの基本デザインに秘められているものについて、サハジにもシェアしたり、なかなか濃い時間を過ごすことができたのですが、なぜかサハジとは、まだまだシェアするものがたくさんあるような気がしているところです。
February 27, 2005
今日は、第4回スクール・オブ・サウンドの日でしたが、今日もまた、きわめて充実した時間を過ごすことができました。今日のクラスの題材としてヴィバルディの『四季』から“春”を選んだのですが、この“春”のメロディに関しては、タンパク質合成音楽にまつわる研究の大家であるステルンナイメール博士が、細胞の分裂増殖に関わるアクチンというタンパクの合成プロセスと深い関わりがあることを指摘しています。また『土壌の神秘』~ガイアを癒す人々~、第11章では、ソニックブルームと呼ばれる音波栽培を編み出したダン・カールソンとその研究仲間である音楽教師のホルツによる、鳥たちの声と植物の育成と実りの間に関連があるという研究成果が報告されていますが、その過程でもヴィバルデぃの『春』が登場してきます。では、ちょっとこのカールソンとホルツの探究プロセスを概観してみましょう……--------------------------------------------------カールソンは、1960年代に韓国に従軍していた時、極貧の若い母親が、他の子供たちを食べさせるために、4歳になる長男の足を、バックしてくる米軍のトラックの後輪にわざと轢かせ、その子を不具にすることで糧を得ようとしている悲惨な光景を目撃します。この光景は、カールソンの魂に大きな衝撃を与え、生涯をかけて、痩せた土地でも金をかけずに食物を豊かに収穫できる方法を探し出そうと決意を起こさせたと言われています。退役後、故郷のミネソタに戻ったカールソンは、園芸学と農学の独自なカリキュラムと方法論を開発し、植物に対して根からではなく、葉の気孔から適切な栄養補給を行なうことができるなら、たとえそこが不毛な土地や砂漠であったとしても、作物をしっかり育て、豊かな収穫を得ることが可能であることを発見します。ところが彼は、気孔を目覚めさせ、アックティブにさせるには、栄養素だけでなく、他の要素が必要であることに直ちに気づいたのです。そして気孔をアクティブにさせる原動力を探しているとき、カールソンは、ジョージ・ミルスタインの『家庭で植物を上手に育てる法』という一枚のレコードを見つけました。カールソンは、ポピュラーな曲に純音周波数の音を混ぜたミルスタインのこのレコードを手がかりとして、探求を進め、植物の気孔が開いて、養分を吸収することをサポートできるような周波数の発見に専念し、有る時、夜明け前後の鳥たちのさえずり……とぴったり一致する周波数とハーモニックッスの組み合わせを思いつきます。そしてこの着想を実現するために、カールソンは、ミネアポリスに住む音楽教師のマイケル・ホルツに技術面での協力を求めたのです。ホルツは、カールソンの実験的な音を耳にすると、そのピッチが、寝室の窓の外でさえずっている鳥たちの早朝コンサートと似ていることにを確認し、まず、その周波数を奏でることができるヒンドゥー音楽の旋律を用いて植物に実験してみたところ、大きな効果を生み出すことができました。この実験で、インド音楽に含まれていた高い周波数の音がトウモロコシの豊作をもたらしたことがわかってきたので、ホルツは、その周波数の音域に該当する西洋音楽をサーチし、ヴィバルディの『四季』の中から“春”と呼ばれる楽章を用いることを決断します。「この曲を何度も聴いていると、ヴィバルディは、きっと若い頃に鳥の鳴き声のことはすべて知っていて、それをこのヴァイオリンの長い楽節のなかに模倣しようとしたに違いないと実感しました」と彼は語っています。そしてさらにホルツは、その“春”の中で優勢なヴァイオリンの主旋律は、バッハのヴァイオリンソナタを反映していることを悟ったのです。バッハのヴァイオリンソナタは、オタワ大学の研究者がそれを小麦畑に流したところ、平均より66%も多い収穫をあげ、実も大きく密度も高いものが得られたそうです。こうした結果を参考に、ホルツは、植物の収穫を上げる最良の音楽として、バッハの『ヴァイオリン協奏曲ホ長調』を選んだのでした。ホルツは、このように言っています。「私が特にその協奏曲を選んだのは、反復が多いけれど、変調旋律が豊富だからです。バッハは音楽の大天才ですから、ほとんど一泊ごとにホ調からロ調へ、ロ調から嬰ト調へというように、和声的リズムを変えることができます。ところがヴィバルディの場合ですと、四小節くらい通してひとつの和音を続けることが頻繁にあります。だからこそ、バッハは類いなき大作曲家と見なされているのです。バッハのポピュラーなオルガン曲ではなく、ヴァイオリン協奏曲を私が選んだのは、ヴァイオリンの音色、つまり和声構造が、オルガンのそれに比べてはるかに豊だからです」さらにホルツとカールソンのリサーチは進み、鳥たちの鳴き声の周波数的分類と穀物の成長との関連を見出すまでに至ります。そして、人間の聴覚器官は、聴毛という微小な繊毛状の器官が周波数を聞き分けるのですが、植物の場合、それがどの部分で行なわれているかを調べてゆくことになります……。そしてとうとう彼らはつきとめました。……そう、それはヴァイオリンやビオラの共鳴箱のような形状をした細胞内小器官、ミトコンドリアであることを! このミトコンドリアの共鳴周波数は、25/秒であることもわかり、そのオクターブ倍音である5000/秒の周波数が、最もよくミトコンドリアを刺激し、穀物の収穫を上げることもわかってきたのです。
February 26, 2005
23、24、25と、鎌倉、横浜、東京方面を駆け足で巡り、さきほど、岡山に戻ってきたところです。23日鎌倉では、サウンド・レゾナンスの創始者であるコマラ・ローディがサウンド・レゾナンスを一般に紹介するために考案した公式のワンデーグループである“テイスト・オブ・サウンド・レゾナンス”の最新バージョンに参加するのが主目的だったのですが、今回のバージョンアップで、ほぼ公式のワンデーの骨組みは完成のレベルに達したのではないかと思います。よって、来月より、ハート・オブ・ライフでも、スクール・オブ・サウンドとハート・オブ・サウンドに加え、この公式の“テイスト・オブ・サウンド・レゾナンス”を新たにオープンしてゆくことにいたしました。日程などは、後でアップ致します。
February 25, 2005
19日から20日、21日と、石川県の小松市を訪れ、サウンド・レゾナンスのコンサルテーションとワンデーのワークショップをリードして、さきほど帰ってきたところです。今日の岡山は、風はまだ寒いとはいえ、日差しは、春のように暖かく、車で走っていると窓を開けたくなるくらいでしたが、さすがに小松は、北国で、滞在中も、よく雪が降っていました。初日は、少し時間的な余裕があったので、加賀一宮である白山ヒメ神社にお参りしたり、雪の科学館を訪ねたりすることができたのですが、雪の科学館は、館長さんや、スタッフの方が見せて下さる雪の赤ちゃン誕生の実験やら、溶けゆく氷の内部に浮かび上がる六方形の雪模様に居合わせることができて、おもわぬ大収穫がありました。マイナス20度の空間のなかに、ふ~~と吐かれた息が、まるで怪しくうごめく生々しい生き物のようなかたちと動きを見せながら、空中に漂う様を見つめていると、やがて、その不定形の生き物のような雲のかたちが、きらきら、きらきらと虹色に輝き始め、空中に浮かぶオパールのような輝きを放ち始めます……これがダイヤモンドダストと呼ばれる現象なのだそうですが、写真で見たりするのとは、まったく違って、今目前に形成され、誕生しつつあるダイヤモンドダストというのは、ぬらぬらと虹色に輝きながらうごめく、まさに生き物な感触を与えてくれるものでした……そしてそのオーロラのように輝きながら波打つダイヤモンドダストの漂える空間に、スタッフの方が、そろそろと金魚すくいの網ですくいとったシャボン溶液の膜を降ろしてゆくのです。すると、どんどん氷点下に冷やされてゆきながらも、まったく固まる様子を見せないそのシャボン膜に、ほんの一片のダイヤモンドダストが触れた瞬間、まるで花火が炸裂するかのように、そのシャボン液の膜は、一瞬のうちに、幾多の美しい六方形の結晶を開花させながら、みるみる雪の形に覆われてゆくのです。これこそ、宮沢賢治がこよなく愛し、生徒たちの前でよく繰り返していたとされる“過冷却”の実験ですが、今回、まったくみごとなシークエンスの中で、リアルな体験をさせていただくことができたのは、本当に幸運だったとしか言えません。他にも、この日、雪の科学館のスタッフの方と交わした会話や、展示パネルから得た洞察は、数えきれないほどのインスピレーションを残してくれたのですが、これから少しづつ、報告してゆきたいと思っています。明日からまた、鎌倉、横浜方面に出かけなければならないので、これらのレポートは、また帰ってきてから、お伝えしたいと思います。
February 22, 2005
明日からしばらく、サウンド・レゾナンスのワークのために、石川県の小松を訪れることになりました。この日記もしばらくはお休みです……。小松の近くの加賀市に、中谷宇吉郎-雪の科学館があるそうなので、行けたら行ってみたいと思っています。それでは、ミルクに蜂蜜を溶いた飲み物を飲んで、休むことにいたします。
February 17, 2005
『黄金の華の秘密』の中で、OSHOは、瞑想にはふたつのタイプがあると語っており、ひとつは、目のエネルギーに関わる瞑想であり、もうひとつは耳のエネルギーに関わる瞑想だと述べています。目は、肉体における男性的、能動的な側面を表し、耳は、肉体における女性的、受容的な側面を表しているのです……この講話のテキストとして用いられている『金華太乙宗旨』には、「目の光があるように、耳の光がある。目の光は外界にある太陽と月が合体したものである。耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である」という、興味深い言い回しの一節があります。まさに“耳の光”とは言い得て妙ですが、外側にある光に対して、内面にある光を感得しているときのフィーリングを、このことばは、なかなかうまく表現し得ているのではないかと思います。--------------------------------太陽光線と人間のアストラル体はある意味で対峙するものです透視意識をもって観察すると人間のアストラル体は内的な光ですそれは霊的なものなので肉眼には見えませんアストラル体は外的な光に対峙するものです太陽の光が弱くなり色あせ、消えていくと考えそのプロセスをさらに進めてみると内的な光が現れてきます(シュタイナー『身体と心が求める栄養学』131頁)--------------------------------確かに注意深く内面に耳を傾ける時、この内なる光が立ち現れてくるのを観じとることができるのですが……それは霊妙な輝きの光の感触と言ってもよいでしょう。--------------------------------耳のエネルギーに関わる瞑想は女性的な瞑想であり、受動的だ……あなたは何もせずにただ耳を傾ける鳥の声、松林を通り抜ける風の音あるいは音楽や、往来の騒音に耳を傾ける何もせずに、ただ耳を傾けるすると深い静けさが訪れて大きな安らぎが降りそそぎあなたを包みはじめるそれは目よりも耳を通してやるほうがやさしい耳を通してやるほうがやさしいのは耳が受動的で、攻撃的ではないからだ耳は〈存在〉に対して何もすることができないものごとを起こるにまかせるだけだ耳は扉であり、ただ受け容れる(OSHO『黄金の華の秘密』第七話)---------------------------------注意深く聴くこと、あたかも、耳で事物に触ってゆくかのように……耳のレーダーをもって、あたりを観察するかのごとくに。そして『金華太乙宗旨』は、この“耳の光”ということばに続いて、鶏が卵を温めて、ひなを孵すという現象の奥にある、きわめてデリケートな交流について実に的確で細やかな描写を行なってゆくのです……「『鶏が卵を孵すことができるのは、そのこころがつねに耳を澄ませているからだ』これは不思議な力を持つ重要な言葉である。鶏は熱の力によってその卵を孵す。だが、熱の力は殻を暖めるだけであり、中まで浸透することができない。そこで鶏はこころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。鶏は耳を澄ませることによってこれを行なう。そのようにしてこころを一心に集中させる。こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだて聴く姿勢を取っている。このようにして精神の集中は途切れることがない」鶏が、肉体の熱だけでなく、微細なこころのエネルギーを送り込むことによって、初めて卵の一番奥深いところに存在している“ひな”に息吹を送りとどけているように、瞑想者は、ごくごく注意深く、肉体の奥に眠っているいのちの中核に向かって意識の息吹を送り込み、その微細な領域に静かに耳をそばだてるのです。第一身体の物理次元におけるこの肉体に限って考察してみても、注意深く耳を澄まし、こころのエネルギー、意識の息吹をからだのコアへと吹き込んでゆけるかどうかが、そのボディワークの質を決定的に決める要因であると言っても過言ではありません……単に、機械的に動作を反復するだけでは、ほんとうに深いとろにまでその効果が至らないからです。それにしても、この様子はまさに、生まれたばかりの赤ちゃんの面倒をみているお母さんの日常生活にも似ているではありませんか……。---------------------------------これは鶏だけでなくすべての女性すべての母親人間の母親にすら当てはまることだ雷を伴う激しい嵐がやってきても彼女には聞こえず彼女が眠りから覚めることはないだが、子どもが泣きだしたり身動きをはじめたりするとそれだけで耳が絶えず子どもに焦点を合わせていたかのように彼女は即座に目を覚ます汽車が通り過ぎても彼女は目を覚まさない飛行機が通り過ぎても彼女は目を覚まさないだが、子どもが少しでもそわそわしだすと彼女はただちに耳をそばだてる彼女は全身耳となって子どもに耳を傾けている彼女は耳を通してハートとハートで結ばれているまるで子どもの心臓の鼓動そのものを聴くことができるかのように彼女は耳を澄ませているこれはすべての瞑想者がみずからの呼吸みずからの鼓動を聴くことができるほど深く耳と結びつく方法だ(OSHO『黄金の華の秘密』第七話)---------------------------------
February 16, 2005
ハート・オブ・ライフでは、2005年初頭より、グリシャンカール瞑想を、毎日夜の定番の瞑想として続けてきています。この瞑想の第一ステージには、息を吸えるだけ吸ったあと、止められるだけ止めてから吐き出すという、特殊な呼吸法を用いるのですが、体験してみると、日常意識から瞑想的空間へと意識をすみやかに切り替えるには、なかなか優れた方法だということがわかります……そこで、今日は、こうした止息を用いる呼吸法のポイントに少し触れてみたいと思います。肉体においてエネルギーの一形態である息が出たり入ったりするように、第四の領域であるメンタル界においては、エネルギーの一形態である想念、思考が波のように寄せては返しています。だから、息の仕方を変えることによって、想念、思考のありようを変化させることができるのだ、とoshoは言っています。----------------------------息を吸うのを止めたら想念がやってくるのも止む肉体の息を止めてみる……と、メンタル体での想念は止む(OSHO『瞑想……祝祭の芸術』17章)----------------------------そしてプラーナと呼ばれているものは、息そのものではなく、息を吸い込んだり、想念を取り入れたりするエネルギーそのものを指すとOSHOは言うのです。肉体とメンタル体における息と想念の出入は、他の微細な身体の中でも起こっている他のエネルギーの波より馴染みがあるので、見分けがつきやすいのでしょう。第二の層、第二の身体であるエーテル体においては、好悪、好き嫌い、愛と憎しみなどのといった感情的な波が出たり入ったりしてゆきます。愛や好意が寄せる波だとすれば、憎しみや、嫌悪は引く波と言ってもよいでしょう。ときおりこの波のボルテージがあまりにも高すぎるときには、まるで感情の大津波のような現象が起こったりもするようです。OSHOによると、第三の身体層、アストラル体の領域においては、磁力が関与すると言います。アストラル体の呼吸は、磁気的な力で構成されており、この領域は一種の磁力圏だと見なせるということです……。----------------------------ある瞬間にはあなたは力強いが次の瞬間には無力だあるときは希望に満ちているが次の瞬間には失望しているそしてあるときには自信に満ちているが次の瞬間には自信をすっかり失ってしまう……それはその磁性があなたの中に入ってくることとあなたの外へ出てゆくことだ神をもものともしない瞬間があるかと思えば影にさえおびえる瞬間もある(OSHO『瞑想……祝祭の芸術』17章)----------------------------OSHOは、これから先のもっと精妙な身体層における、息……寄せては返す波のリズムについても語っていますが、さしあたり、そんなに先の領域について先走りする必要はないと思います。肉体的な息とともに、感情、力、想念もまた、それぞれの層と領域において、出入を繰り返す一種の波に過ぎないということを心の片隅に留めておき、その出入にできるだけ気づいているよう試みるだけでも、それらの波に激しく自己同一化して、自らその大津波に飲み込まれてしまう危険から、少しは遠ざかることができるのではないでしょうか。
February 15, 2005
14日(月)、所要で、久しぶりに京都に出かけてきましたが、待ち合わせ場所に向かうタクシーの中で、運転手さんから、とても興味深い話を聴くことができました……「日が長くなってきましたね」という運転手さんからの話かけに応えて、会話が始まりました。「もう春が近いですね」と言うと、「でもまだまだ寒いですから……」と運転手さん。「こんなに寒いと、タクシーで暖かくして移動しようという人が増えるのではありませんか?」と尋ねると、「いや、それがだめなんです。まったく動きがないんです……前なら、寒いと乗客が増えるリズムや波があったんですけど、今は、さっぱりです。寒くても、雨が降ってきても、乗車率は変わらなくなってしまいましたね……外出をみなが控えてしまうんでしょうか。でも、晴れても乗車率が変わらないですし、今日はバレンタインデーなんですけれど、バレンタインデーだからといって乗車率が変化するわけじゃないんです……局所的には、例えば、円山公園の梅が咲いているという情報が出ると、円山公園のほんの一角だけ客の動きがあるんですが、前のように、その動きが周辺へと波紋を描いて広がってゆかないんですよ……周辺への波及効果というのが無くなってきてるんです……この話を聴いていた私は、だんだんサウンド・レゾナンス理論を経済現象へと応用したらこういうフィールドワークが成り立つのではないだろうかという感じががしてきたのです。リズムが消え、波紋が遠くへと広がってゆかないところ……それは響きの本質であるレゾナンスが消失している領域であり、まさに生命活性が低下している領域でもあるのですから……実際に、音叉とクリスタルを用いて、身体の各所を振動させるとき、きれいに響きがひびきわたるエリアは生命力に満ちており、リズムも伝わりやすいのですが、痛んでいたり、滞っていたりするエリアでは、音がそこに局所的に吸収されてしまって、広がってゆかないのです。そしてタクシーの車窓から眺めて観察した京都市内の客足の動向……それはまるで“心停止”状態に向かっている心臓のように思えてきたものです。経済のダイナミズムも、寄せては返す上下動がリズミカルに動いていてこそ活発に生きているのであって、波が消え、フラットになってきているということは、生命のパルスが消え行きそうになっているしるしなのかもしれません。
February 14, 2005
『これ、これ、千回もこれ』と題する禅のシリーズの講話の冒頭で、OSHO は、「この瞑想法は、来る禅シリーズの序章となる」と語り、ゴータマブッダのヴィパッサナ以来とされる「ミスティック・ローズ」と呼ばれる新しい瞑想法を、ブッダホールに集ったサニヤシンたちに手引きしてゆきます。----------------------------------------------------禅は、あなたのまさに本質、実存そのものだ私は、これまでもこの瞑想法について話したし一部の人はそれを21日間行なっただが、あなたがた全員がそれに参加したわけではないシリーズを始めるにあたってこのミスティック・ローズ(神秘のバラ)と呼ばれる瞑想法に参加してみるといいこの瞑想は四つのステージから成り立っているそれぞれが特定の目的のためにデザインされているそれは何世紀にもわたって、世代から世代へとあなたがたの実存のなかに注ぎ込まれてきたすべての毒物を外に出すためのものだ“笑い”が第一の段階だ著明な作家のひとり、ノーマン.カズンズは最近書き下ろした本のなかで自分の生涯にわたる実験について述べている彼によれば、理由などなくても20分間、ただ笑いさえすればすべての緊張が消え失せてしまう意識は高揚し、塵は消え去るやてみればわかるだろう理由などなくても笑うことができたら内側に抑圧されていたなにかが……小さな子どもの頃からあなたは笑わないように教えられてきた「まじめにやりなさい!」とその抑圧的な条件づけから抜け出さなくてはならない第二のステップは“涙”だ……涙はさらに深く抑圧されている私たちは、涙は弱さの兆候だと教えられてきたそうではない涙はあなたの目を浄化するだけではなくハートも浄化するそれはあなたを柔和にする涙はあなたを清らかに重荷を背負わせないようにするための生物進化の方策だ女性は男性ほど狂ったりしないというのは今ではよく知られているそしてその理由とは女性の方が簡単に泣いたり涙を流したりできるからだということがわかった小さな子どもにさえ「男らしくしなさい、めめしく泣いてはいけない!」ということが言われるしかし、肉体の仕組みを見るかぎり男にも女にも同じように涙をためた涙腺がある自殺する女性は男性よりも少ないということもわかってきた当然のことだが暴力的な宗教や、戦争や、大量虐殺を引き起す原因となった女性は歴史上ひとりもいない再び、全世界が泣いて、涙を流すことを学べばそれはとてつもない変容、変革になるだろう----------------------------------------------------こうして表層的な悲しみ、個人的な痛み、情緒的な涙を流し続けてゆくと、次第に、その涙の層は深まってゆきます……こうして第二ステージの7日間、毎日3時間泣き続けることで、わたしたちは次第に常泣菩薩のプロセスを辿ってゆくことになるのです……。クリシュナムルティが思考の悲しみと呼ぶ表面的な層をはるかに超えて、涙は、非情の悲しみの層へと降りてゆきます……と、そこには、人類の集合的な悲しみが、渦を巻いてうごめいているのを観ることができます……ところで、常泣菩薩の境地に先立って、まずは、7日間の笑うステージから始まるというのが、このミスティック・ローズのきわめてユニークなところなのですが、それは笑いというもが、何よりもまず、傷つき、萎縮し、冷えきっている第三チャクラへの特効薬として働ところからきているものと思われます……。さて、こうして充分に涙の層、悲しみの層を深く深く掘り下げることができれば……ミスティック・ローズは、次の第三ステージへと軽やかに移ってゆきます。----------------------------------------------------第三のステージは、“沈黙”だ私はそれを“丘の上の見張り”と呼んでいる静かになりなさいまるでヒマラヤの頂に、たった独りでいるかのようにすっかり沈黙し、独りになり、ただ見守り、耳を傾け……繊細な状態で、しかも身動きしないでいる----------------------------------------------------実際に、21日間のミスティック・ローズを体験した経験から言っても、最初の2つのステージのなかにトータルに入りきることができたなら、この第3ステージでは、通常の坐禅やヴィパサナでは、入り得ないほど繊細な領域に入り込んでゆくことが可能です。そしてそこは、墓場の沈黙でもなく、氷のように研ぎ澄まされた沈黙でもなく、ほとんど人が足を踏み入れたことのない、花咲き誇る豊穣なる沈黙のガーデンなのですから。こうしてゴータマブッダより2.500年経った今、OSHOによって現代人のために編み出されたミスティック・ローズ瞑想は、全一にエネルギーを注ぎ込んで笑いと涙のなかにコミットメントする人を、海潮音を聴き取ることができるスペースをへと搬送し、「是観世音菩薩を聞く」という体験を、必ず一瞥させてくれることでしょう。
February 12, 2005
平原綾香さんのデビュー曲『Jupiter』の歌詞の中には、ちょうど観音菩薩の働きをそのまま表しているようなくだりがあります。------------------------------------------心のしじまに 耳を澄まして私を呼んだなら どこへでも行くわあなたのその涙 私のものに--------------------------------苦しみの中にある衆生が、助けを求めてその名を呼ぶと、その声を聴いて、即座にやってきてくれる観音菩薩の働きを、上記の詩は、見事に描き出していると言えますし、平原綾香さんの声質とも相まって、この歌を聴く人々は、われ知らず、観音菩薩の働きの圏内へと誘い込まれているのかもしれません。さて、かつて遠い過去に、この惑星地球の上に存在する、すべての生き物たちの姿を観察しながら、とめどなく涙を流しつづける菩薩が存在していたそうです。その菩薩の名は常泣菩薩といい、いつも泣いてばかりいたことからこのように名づけられたということです。では常泣菩薩は、なぜ泣き続けていたのでしょう……それはこの世界に生きている生き物たちを深く観察すると、どんなに小さな生き物たちでも苦しみを背負いながら生きている姿が、深いところから、誤摩化しようもなく見えてきたからであり、もうひとつは、その苦しみに対して為す術もなく立ち尽くしている自分自身の無力さに対する涙でもあったともいいます……そして時が経ち、この常泣菩薩は、転生を遂げて、観音菩薩になったのです……観音菩薩は、千とひとつの手を持つとも言われ、また33の姿に変化して、人々を巧みに救いとってくれる菩薩なのですが、変容を遂げたこの菩薩は、もう無力ではなく、臨機応変に、それこそまさに縦横無尽の働きを発揮してゆくことになります。大いなる苦しみに呻吟し、のたうち回っているときでも、その名を呼べば、即座に感得して、その声を聴き取り、その苦しみを抜き取って、安らぎのなかへと導いてくれるとされる菩薩こそが観音菩薩ですが、この観音菩薩が観音菩薩になる前に、こうしてただひたすら泣き濡れる常泣菩薩の時代があったことはまさに注目に値することではないでしょうか。常泣菩薩から観音菩薩への転身を思う時、脳裏に浮かんでくるのは、クリシュナムルティの次のような言葉です……。---------------------------------------------おわかりになりませんか私はただおたずねしているのです思考、自己憐憫の悲しみ、イメージの悲しみよりももっとはるかに深い悲しみのことがわかりませんか? それにお気づきになりませんか?思考の悲しみではなく、もっと深いものその悲しみが終わる時、慈悲が誕生するのです。(クリシュナムルティ『生の全体性』より)--------------------------------------------『生の全体性』は、たくさん翻訳されているクリシュナムルティ関連の講話本の中では異色の作品であり、これはシャインバーグ博士、デービット・ボーム博士とクリシュナムルティの鼎談であることと、対話のプロセスが、クリシュナムルティ関連の本としては例外的に、こころの深みへと至るプロセスが、湛然に描き出されているところにあると思います。もし読者が、油断なく心し、細心の注意力を払って、この本に描き出された三者のプロセスを辿ってゆくことができたなら、あるいはもしかすると、クリシュナムルティが仕掛けている瞑想の道程を辿り直すことで、通常の読書体験を超えた、深い体験をするかもしれません……そしてそれはまた、まさに、常泣菩薩を通って、観音菩薩へと変容を遂げる旅でもあるのです。私たちの心の底には、個人的な悲しみではない、もっともっとはるかに深い悲しみの層があります。通常体験するところの悲しみというのは、そうした深いレベルの悲しみに比べるならば、まだまだ浅い個人的なものであり、むしろセンチメンタルなものと呼ぶの方が適切だと思われる感情の一こまにすぎないと言えます……クリシュナムルティが、この鼎談の中で「思考、自己憐憫の悲しみ、イメージの悲しみよりも、もっとはるかに深い悲しみ」と呼ぶものを……河合隼雄氏は中沢新一との対談の中で宮沢賢治の諸作品に触れながら、「情ではない“非情な悲しみ”、“非個人的な悲しみ”」(『ブッダの夢』)といった言葉で表現していますが、それはセンチメンタルな悲しみでもなく、いわゆる情緒溢れる母性の領域に属するものでもなく、もっと天空に向けて突き抜けたもので、名前をつけるならば、悲しみとしかいいようがないけれども、それはとても深いところにあるフィーリングで、いわゆる感情的なレベルのものではない悲しみだということになります。こころの深層にあるところの、この深い深い悲しみの層と、カルーナと呼ばれるところの仏菩薩の慈悲とは、紙一重です……この紙一重が、常泣菩薩と観音菩薩とを分かっている最後の薄い一枚のベールといってよいでしょう。ひとは、その悲しみが極限にまでくると、個人的な悲しみを超えた非情の悲しみのレベルに達っしてゆき、さらには、その悲しみの層をも突破して、無限の青空へと超出することができるのですが……そのとき初めて、観音の働きの源となる、カルーナが、大悲が立ち顕われてくるのです。そして、OSHOもまた言います……瞑想が慈悲となって花咲かないかぎり、その瞑想はまだ足りないところがある、と。
February 11, 2005
2/20(日)10;00~17:00、石川県の小松市で、Being プロジェクト主催によるワンデーのサウンド・ワークを行ないます。タイトルは『ハート・オブ・サウンド』となっていますが、小松での初めてのワークとなりますので、スクール・オブ・サウンドの内容を一部盛り込んだかたちのものにしてゆく予定です。また、前後の19日(土)、21(月)には、サウンド・レゾナンスのコンサルテーションを4枠づつ、合計8枠用意しています。いずれも後若干名、参加枠が残っているようですので、興味を持たれた方は、私書箱にメールでお問い合わせください。なお、18日(金)の午後7時より、現地にて懇談会を行ないます……サウンド・レゾナンスのワークに興味を持たれた方は、どうぞご参加くださいますように。
February 10, 2005
よく読まれるお経の代表に『観音経』と呼ばれる法華経の一節があるのですが、この経典の主人公は、観世音……即ち世界の音を、この惑星地球の音をよくよく観ずる菩薩であり、観音さまとして世間で親しまれている菩薩のことです。この観世音菩薩は、衆生の苦悩の声を聴き取ると、衆生の呼び声に応えて、即座に現れ、衆生を苦悩から救い、解脱を得さしめる精妙なる働きを持つが故に、観世音菩薩と称されている菩薩です。禅門でもよく読まれるこのお経の一節に、「妙音観世音、梵音海潮音、勝彼世間音……』というくだりがあるのですが、妙音観世音とは、この地球が奏でる妙なる音に精通せし菩薩のことであり、梵音海潮音とは、その響きが梵の音、即ちナーダブラーマ(神の音)は潮騒の音の如くであること、そして、それが世間から発せられている人間が放つ音よりも遥かに優れていることを語っています。ところで、海潮音といえば、実際に、大海の波は、ハミングのような音を生み出しているようですが、これはまさにオーシャニック・ヴォイスでもあり、地球が奏でる幾つかの音楽のなかでも、とりわけ注目に値すべき音のように思われます……http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050209304.html
February 9, 2005
日曜日にリードした“ハート・オブ・サウンド”は、想定していた以上に深いグループとなり……予定を2時間もオーバーして、最後に、プレイヤー瞑想で締めくくった頃には、あたりはとっぷりと暗闇に包まれていました。音のはざまから立ち現れてくるしじまの深さ、密度は、当初デザインしていた次元をはるかに超えて、限りなく濃密で、細やかなものになりました……このグループでは、大地からくるエネルギーと天空からくるエネルギーの双方に対して、からだを花のようにゆっくりと開いてゆくのですが、そのプロセスの中では、音や音声を用いるOSHOの瞑想がふんだんに用いられます……音を通して、沈黙へと至る……音の核心、ハートを通して、音の無い無限の静けさのなかに降りてゆくこのグループは、なによりもまず大地から立ち上るエネルギーに対して自らを開き、その足を深く深くグランディングさせてゆくことから始まります。祈りが天空のエネルギーを受け取る力に関連しているとしたら、グランディングもまた、大地から立ち上るエネルギーを受け取る力に関連していると言ってもいいでしょう。そして、それはまた地球の重力に対して、みずからのからだを全面的に開いてゆくことにもつながってきます。そうして地球の中心、コアが立てている響きを耳にすることができれば、このグループの基礎はできあがります。そこまでグランディングがしっかり打ち立てられれば、私たちは、みずからの力で、幾多の過去生を振り返ってゆくことができます。私たちの二つの足は、この大地を踏みしめ立っていますが、そこには、幾多の過去生において、個々の魂がこの惑星地球との間に取り結んできたすべての記憶がしまわれてもいるからです……
February 8, 2005
黒川さんの音象という概念は、科学的な客観的な研究によって導き出されてきた、分析的なものですが、OSHO が「音の下には感覚がある」というときの、音の印象、感覚は、純粋に主観的、体験的なものであることに注意を向けたいと思います。ひとつひとつの音が、自分自身の身体に、どんな感覚を呼び起こすのか……そこでは理論や分析的な情報によってではなく、ダイレクトな音の体験を通して、音の印象を探るプロセスを辿ることが、とても大切になってきます。馬や白クマやカバや犬たちが発する音に飼育士の人たちが愛情を込めて耳を傾けるように、諸々の音が自分自身の身体に刻み込んでゆく音象を注意深く探ってゆけば、やがてそこから個々人の反応の仕方のゆらぎによって反応の異なる部分ではない、万人に共通の効果と影響を与える音の種別が立ち顕われてくることでしょう。-------------------------------------------------特定の音は特定の感覚に結びついている他の感覚に結びつくことはけっしてないだからその音を自分のなかにつくりだせばそれに該当する感覚がつくりだされるどんな音であってもそれを用いればそれに結びついた感覚がまわりにつくりだされるその音が空間をくつりだしその空間は特定の感覚によって満たされる(OSHO『音と沈黙』より)-------------------------------------------------サウンド・レゾナンスのコンサルテーションにおいては、特定の体験につらなる記憶が身体上のどこに、どのように分布し、広がって保存されているかを右脳的意識を巡らし、注意深く探ってゆくのですが、その感覚記憶に対する身体上の対応点への気づきを深さらに細かく見てゆくための左脳的ツールとしてコンピュータを効果的に用います。ちょうど慢性的に推移する肉体の病に自覚症状が欠け易いように、身体上の対応点を見出そうとするときにも、その人のエネルギーを最も深いところでロックしている慢性的トラウマ記憶の部位は、気づきの光に照らし出されることからも隠れ潜みやすい傾向があるのですが、コンピュータを用いて声紋の解析を行うことで、そのブラインドスポットを見出しやすくなる利点があるのです……こうして右脳と左脳の両サイドからのアプローチを繰り返すことで、コンサルテーションはきわめて有効に「記憶が身体上にどのように分布、配列しているか」を見出してゆくことができるのです。いくつかのセッションを経験してみると、ほんとうに人間のからだというのは音(周波数)をホログラム的に内蔵させることによってその記憶をプールしている精密なスペースだという実感が湧いてくるのです。そして、参加者が、自分自身の課題の身体上の対応点を網羅したスペースから響き出してくる言語以前の言語、動物的なレベルにおける音とフィーリングに触れ、それを表出することができるようになると、事態は一挙に変化を迎え、そのひとの気づきを深め、心身の速やかな統合を加速させる適切な音が浮上してくることになるのですが、それはある意味では、フィーリングの層をも超えた地平から、音の世界へとやってくる、見えない調律師のわざのようだとも言っても過言ではありません。
February 4, 2005
昨日の日記で紹介した『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」……書店で見かけ、タイトルに気に入って購入し、ざっとひと読みした頃『世界一受けたい授業』というTV番組のなかで、著者の黒川伊保子さんが講師のひとりとして登場し、独自の理論をざっと展開しているのを見ることができました。その一幕を、下記のサイトでうかがうことができます……http://www.ntv.co.jp/sekaju/student/20041106.html 黒川伊保子:口の中は実はこんな風になっておりましてPの音というのは喉の奥にものすごく力を入れてしぼめた後に空気を送り込んで出します唇が気持ちいいんです!おっぱいが恋しい頃の子供は唇に力がある音が非常に快感!脳が気持ちいいんです! 赤ちゃんがよく無意識のうちにブーとかバブーとかやってますね。あれはもう唇が気持ちいいから! この唇がきもちいい快感が残るのでPの音の商品は。 ポッキー買って!ポッキー買って!とかね。ポリンキー買って!って言いたくなっちゃうんですね。このように幼児言語の発音プロセスを、身体感覚の次元にまで引き戻すことにより、言葉が形成される以前の音の下方にあるフィーリングに、科学的にも迫まろうとする試みが始まりつつあるようです。黒川さんは、こうした次元の音と体感的フィーリングとの関係を、“音象”というきわめて適切な概念で表現されているようですが、“音象”とは、まさに言い得て妙と言えるのではないでしょうか。さて、OSHOは、音の下方へともぐるメソッドの中で、言葉の土台をなしている音へと戻り、さらに、その音の下方へと潜り込むことで、その音の下にあるフィーリングの次元へと至り着いたとしても、それが最終地点ではないと言います。そこからさらに進一歩して、そのフィーリングをも消し去り、無音の彼方へと飛翔してゆくプロセスが残っている……と。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━次いで、フィーリングを去る重要なことは、フィーリングの最深層に達して初めてフィーリングを去ることが可能になるということだ今すぐにそれを去るわけにはゆかないあなたはフィーリングの最深層にいないそれでどうしてフィーリングを去ることができるだろう(OSHO『音と沈黙』より)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ポイントは、捨て去ることができるのは、自分が現に今立っている領域だけであるということに尽きると思います。未だ自分が立っても居ない領域を、あたかも捨て去ったかのように、あるいは捨て去ろうとしているかのように夢見ることはできたとしても、夢見ることで、本当に細やかな領域へと超えてゆけているわけではない、ということを、心にしっかりとどめ、常に今立っている地平からスタートすることを忘れないようにしたいものです。
February 3, 2005
『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』と呼ばれるシヴァの112の瞑想を集大成した書物があって、OSHOはかつて、このすべての112のメソッドについて、細やかな解説を加える一連の講話を行ったことがあります。日本でも全10巻にわたるこの講話の邦訳が刊行されていて、具体的な瞑想法に関心を持たれる方には、すぐれて興味深い読み物となっています。特に第四巻の『沈黙と音』と題されるシリーズには、音と沈黙にまつわる瞑想法が収録されていますので、サウンドを用いた瞑想を深めたいと思われる方にはお勧めの一冊となっています。OSHOは、人間の世界を構成しているのは言葉を高度に編み込んだ思想、科学、宗教などであるけれども、この基盤を為す言葉の下方には“音”があると述べています。そしてさらにその“音”の下方には、フィーリング、感触の世界があるが、人はそうした次元から遠く切り離されてしまっていると……音が土台となって言葉が編まれ、その言葉が思考を生みだし、そのまた思考が科学、宗教など様々な文化と呼ばれる現象を形成してゆくわけですが、この逆の道筋を辿ることができれば、音の下方へと降りてゆき、存在の根源的な次元へと入ってゆくことができると語ります……━━━━━━━━━━━━━━━━━━音の上にはことばが、思考が、哲学がある音の下にはフィーリングがあるフィーリングの下に達することができなければこころの下に達することはできないこの世界全体は音に満ちている人間の世界だけがことばに満ちている。ことばを使えない子どもたちでさえ音を使う実際、言語というものは世界中の子どもがみな用いている特定の音によってかたちづくられている(OSHO 『音と沈黙』より)━━━━━━━━━━━━━━━━━━最近、話題となっている『なぜ怪獣の名はガギグゲゴなのか』という新書には、子どもたちが発する音が基本となって、さまざまな言葉が生まれてくるプロセスが、きわめて独創性に溢れる視点から究明されており、楽しい読み物となっています。母音や子音を発音する際に、どのように口腔が開いたり、閉じたり、すぼんだりするのか、あるいは空気の圧縮や解放のプロセスが、身体レベルでどのような感触をもたらすのかといった、幼児が発する基本音と身体感覚の関係にまつわるパイオニア的な研究がなされていますので、一読を勧めたい本のひとつです。さて、音のはるか下方にある、第五身体レベルの精妙な波動は、犬や猫や白クマやカバたちによって理解されうるということですが、上記の講話の中で、OSHO は、ある詩人が書いた文章を引用しながら、ひとつのエピソードを紹介しています……馬と子どもだったころの詩人との間で起こったコミュニケーションの物語ですが、こうした精妙なレベルとのコンタクトがどれほどデリケートなものであるかがうかがえます。━━━━━━━━━━━━━━━━━━私はあるドイツ詩人の本を読んでいた彼は自分の子ども時代の出来事について語っている彼の父親は馬の愛好家だったそれで家の馬屋にはたくさんの馬がいただが父親は子どもを馬屋に近づけなかった子どもがまだ小さかったので危険だと思ったのだだが、父親がいないとき子どもはときどき馬屋に忍び込んだそこには友達がいた、一匹の馬だった子どもが入り込むたびに、馬はある音を立てたそして詩人は書いている……「私もまた馬とともに音を立てはじめた なぜなら、言語の可能性がまったくなかったからだ そして馬とのコミュニケーションのなかで 私は初めて“音”というものに気づくようになった ……その美しさ、その感覚に」人間が相手だったら、それに気づくのは不可能だ人間は死んでいる、馬はもっと生きているそして馬には言語がない、純粋な音がある馬はハートによって満たされている頭(マインド)によってではない詩人は思い出す……「初めて私は音の美しさ、音の意味に気づいた それは言葉や思念における意味ではなく フィーリングに満ちた意味だ」もし他の誰かがそこにいたら馬はその音を立てないすると子どもにはわかる馬はこう言おうとしている……「入っちゃだめ、人がここにいる、お父さんに叱られる」誰もいないときには、馬はその音を立てる「入っておいで、誰もいないよ」詩人は思い出す……「それは共謀だった、馬は私を大いに助けてくれた それから私は中に入って馬をなでる それが気に入ると、馬は頭を一定の仕草で動かす 気に入らなければ、その仕草では頭を動かさない 気に入ったときには、馬はそれを表現する そうでないときには、その仕草では動かない」詩人は言う……「それは数年続いた 私はそこに通っては馬をなでた その愛の深さは 他の誰にもけっして感じたことがないほどだった ところがある日のこと、私が馬の首を叩き 馬が恍惚してそれを楽しみ、頭を動かしていたとき 突然、私は初めて自分の手を意識した ……自分が叩いているということを すると、馬は動きを止めた 馬はもう首を動かさなくなった」詩人は言う……「それから何年もあいだ、私は試しつづけた だが何の反応もなかった 馬はもう答えようとしなかった 後になって、初めてきづいたのだが…… 自分の手と自分自身を意識したせいで エゴが入り込み、コミュニケーションが壊れたのだ もう二度と再び 馬とのあのコミュニケーションは回復できなかった」いったいどうしたことだろう以前はフィーリングのコミュニケーションだったところが、エゴが顕われたとたん言語が顕われたとたん思念が顕われたとたん位相が完全に変化するつまり彼は、音の上方へ移ってしまった以前、彼は音の下方にいた音の下方にいれば、音はフィーリングとなるフィーリングなら、馬も理解できただがもはや理解できないそれでコミュニケーションが壊れてしまった詩人は何度も何度も試みただが、努力したところで、うまくはゆかないなぜなら、その努力自体がエゴの努力だからだ
February 2, 2005
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