ヘンリーの国際関係学

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April 4, 2004
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◇参考資料
 12月に雑誌で遺棄毒ガスと砲弾の被害者のことを書いた記事の一部です。興味のある方にはぜひ、呼んでいただきたいので迷惑を承知で遅らさせていただきます。

【 にがい涙の大地から  ~終わらぬ被害・旧日本軍の遺棄兵器~ 】 
■ 毒ガスに塗り替えられた人生
 ハルピン市内に住む李臣さん(五十九歳)は一九七四年、河の浚渫工事の仕事中に毒ガスの被害にあった。日本軍敗戦の年に生まれた李臣さんは、当時、すこぶる健康な二十九歳の青年だった。三年前に結婚した奥さんと、生まれたばかりの長女とのしあわせな毎日を送っていた。ある晩、いつものように仲間四人と働いていたとき、突然ガリガリという不審な音がして、船のエンジンに何か絡まって止まった。『なんだろう?と思ってポンプの中をのぞいたんですよ。そしたら、黒い液体が少し漏れていたんです。わたしが引っかかっている物体を取り出して、仲間に渡したんです。』次の瞬間、強烈なマスタードの匂いがして、あまりの刺激臭に目が開けられなくなった。その空気を吸ったとたん、そこにいた四人全員が気分が悪くなって、吐き気をもよおし、そのまま仕事ができなくなってしまった。早めに仕事を切り上げた李臣さんは、『何か得体の知れない毒物に違いないと直感しました。ただ、まさかそれが日本軍の遺棄した毒ガスだとは夢にも思いませんでした。』

 家に帰るとすぐに毒ガスの症状が出始めた。毒ガスの入れ物に触った両手にはぶどう大の水泡が沢山できて、まるでぶどうの房のように膨れ上がった。眼からは涙が止まらなくなり、頭にも卵のような大きな水泡ができた。自分の体の異変を尋常でないと感じた李臣さんは、病院にかけこんだが、医師も『見たことも聞いたこともない症状だ』として、治療法が見つからなかった。その間にも症状はどんどん悪くなり、顔は真っ黒になり、手も変色してしまった。手の指と指の間がくっついて水かきのようなものができた。医者に行って切ってもらっても、すぐにまた同じように水かきができる。寝ていると体中から膿がでて、布団がぐっしょりと濡れるので、夜中に何度も変えなければならなかった。手や口が腐ってひどいにおいがした。トイレにも満足にいけなかった。妻の呉鳳琴(ウ・フウチン)さんは『変わり果てた夫の姿を見て、自分の人生の幸せはなんと短いのだろうかと毎日泣きました。原因もわからない。直る当てもない。働けなくなった夫と、生まれたばかりの子供を抱えて、明日からどうやっていきていこうかと途方にくれました。』原因が旧日本軍の毒ガスだとわかったのは、事故から一ヶ月後、北京の国立病院で見てもらったときだ。担当した医師は同じような症状の患者を診たことがあった。原因を聞いた李臣さんは目の前が真っ暗になった。『毒ガスが原因なら、もう一生直らないとわかったからです。以前、日本軍の毒ガスの被害を記事で見たことがあったからです。これで、自分の人生ももうおわったと思いました。』

 それからの李臣さん一家の生活は悲惨を極めた。入退院を繰り返し、あまり働けなくなった夫の収入は半分以下に減った。代わりに、妻がごみ広いなどの仕事で働いて生活を支えたが、治療費がかかるために極貧生活になった。八十五年の春節(旧正月)には家にお金が二元しかなかった。正月なのに餃子さえも食べることができなかった。父親の得体の知れない病気は伝染病だとうわさになり、近所付き合いもままならなくなった。

 『娘が小さいころ、道で遊んでいる友達の仲間に入ろうとすると、ほかの子供たちの母親が飛んできて、自分の子供をそれぞれ家に連れて帰るんです。あの一家は、奇病の一家で、遊ぶと移るかもしれない。一緒に遊んじゃいけないと。うちの娘はいつも仲間はずれでした。私は母親として娘に何もしてやれないのが悔しかったし、自分たちに何の落ち度もないのに、なぜ、こんなめにあわなければならないのかと悔しくて悔しくてたまりませんでした。』

 事故にあってから生まれた次女は病気がちで、満足に学校にも行けなかった。『学校に行かせるどころか、娘に新しい服も買ってやれない。アイスを食べたいとねだられても買ってやれない。自分の被害のせいで家族をそういう目にあわせていることが本当につらくて、つらくて。』



 厳しい年月をともに過ごしてきた夫婦はとても仲がいい。住んでいる集合住宅の屋上を借りて、小さな花壇を作り、二人で花の手入れにいそしんでいる。子供も大きくなって結婚し、生活を支えてくれているので、かつてのような極貧生活ではない。『この草は食べられるのよ。まずしくかったからいろんなことを知ったわ。』

仲良く話す二人だが、次女を生んでから二十五年以上、二人はセックスをしていない。若かった二人は事故の後も、症状がひと段落すると普通に性生活をはじめた。しかし、セックスのたびにあまりに痛むので病院で見てもらうと毒ガスは李臣さんの精液を通じて、奥さんの子宮をぼろぼろにしていた。それでも若かった二人は、もう一人子供をつくりたいと体を交わしたが、次女が生まれた後は、病気が妻に移るためにセックスをすることをやめた。『私もね、若かったんですよ。愛している人に愛してもらえない。愛し合いたいのに愛し合えない。そのつらさが、わかりますか?女としての幸せも毒ガスのせいで、なくなってしまったんですよ。』

 いまも、李臣さんの体には、むごたらしい毒ガスの傷があちこちにある。さすがに最近は年月がたったので、体に水泡や水かきができることはあまりなくなったが、足を悪くしていて歩くのがやっとだ。毎日毎日、心臓や肝臓などの障害のためにおよそ三〇錠の薬を飲んでいる。事故から三十年を経た今も、李臣さんの体は、外側も内側もぼろぼろなのだ。同じ事故にあった仲間も同じような症状で苦しみ、すでに亡くなったものもいる。

 今年の八月にチチハルで起きた最新の毒ガス事故の新聞を見ながら、二人はつぶやいた。
『事故にあったこの人達は、私たちが味わった苦しみをこれからずっと味わうんですよ。貧しくて死にたかったこと、病気がひどくてやりきれなかったこと、愛し合いたくても愛し合えなかったこと。なぜ、同じ間違いがいつまでも続くんでしょう? あんな苦しみは私たちだけで十分です。他の誰にも味わってほしくない。』





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Last updated  April 6, 2004 02:53:10 PM
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