11月2、3、4日は「唐津くんち」。
唐津神社のお祭り「唐津くんち」は寛文年間に始まったとされていて
神幸行列のように曳山がこの祭りに登場するのは、
一番曳山の「赤獅子(あかじし)」が文政2年(1819年)に奉納されてかららしい。
以後、曳山は明治9年(1876年)までに15台が製作されているが、
うち1台は焼けて消失して、現在奉納されているのは
14台の曳山があります (3年前の写真だけどご存知ない方参考までに・・・)
よって、もちろん私も小さい頃から、この
「唐津くんち」と共に成長して来た
でも
私自身はあんまり「唐津くんち」には縁が薄いらしく
楽しい良い思い出が殆どない・・・
まず一番記憶が古いのは、確か3歳頃。
ヘリウムガスが入った風船は当時珍しく、
子供は誰しもその風船が欲しくて憧れだった。
私も勿論親(?多分)に買ってもらい
喜び勇んで家に持ち帰り、家の中へ入ろうとした瞬間
何故かその風船を手離してしまって![]()
あれよあれよと言う間に遠く空へ飛んで行き、
いつまでもいつまでも泣いていた
記憶がある。
次に古い記憶は、確か小学校低学年の頃。
私の母の実家は印刷業をしていて、父はそこで働いていたため
祖母(父方)は会社の社員の方々を家に呼んで
母は中学校の教師をしていたので
当時先生方は「唐津くんち」と言えば見回りに(生徒が悪ふざけしないように)
行かなきゃだったから、母と「おくんち」に行った記憶がない。
で
その小学校低学年の頃、多分母方の伯母か父方の伯母かに
連れて行って貰ったんだけど、
母から『おくんちのおこずかいは自分で管理しなさい』と
三千円渡されて
生まれて始めての大金だったのでドキドキしていたのを覚えてる。
大金を持った経験が無かったので
財布の中へお金の入れ方を知らずに
重ねて一まとめにして四つ折りにして入れておいた。
大勢の人達が行きかう人ごみの中で
小さな小学校の低学年の女の子の背丈では
出店は何が出てるのかはっきり分らなかったけれど
大金を持った事にドキドキしているのと
嬉しいのとで、何でもいいから、早く何かが欲しかった
とりあえずしばらく歩いていて
目に飛び込んできた何か(何を買ったかすら忘れた)ものを
買おうと思い、手を引いて先を行く伯母に「ちょっと待ってて」と言った。
そして自分で欲しいものを出店のオジチャンだかオバチャンだかに
伝えると、「650円」だと言うので
舞い上がった私は、財布の中身を全て差し出し
お釣りを350円貰うと、そそくさと人ごみの中に居る伯母の所へ
戻っていった
そして、三千円あった財布の中が350円になっていた事に気がつき![]()
もういちどあの場所へ戻って
多く払いすぎた二千円を取り戻そうと思ったけど
低学年の私には到底探すことも出来ず![]()
家に帰ってから母にこっぴどく叱られた
それからと言うもの、私は出店がトラウマで
どこに行っても出店で色々買おうと思った事はない
中学校も高校も彼氏は居らず、「唐津くんち」の曳き子に
恋焦がれ、浮かれる事もなく・・・(さりげなくカミングアウトか??)
短大は福岡へ行き、おくんちとは遠く離れた。
結婚して子供が生まれたら、子供を連れて一緒に
「えんや~えんや~」(曳山を曳く時の掛け声)を
見に行きたいと思っていたけど
いざ結婚してみると
曳山のある町でもないのに、自営の家に嫁いだばっかりに
(別居していたけど)
当然のようにお持て成しの手伝いに早朝から借り出され
子供と一緒に「えんや~えんや~」を見る事もなかった・・・。
「おくんちに行きたい」と一言でも言おうもんなら
当時の義母なら、どんな苦言を言われたか分からない!
恐ろしくて到底言えない雰囲気だった。
。
結婚15年目にしてやっとそのチャンスが現れた。
なぜなら、義母が体調を崩して
今年は「お持て成し」はしないと言ったのだ。
せっかく訪れたチャンス
娘に「おくんち見に行こうか?」というと
「いや、よか。」(ううん、いかなくていい)
・・・・・
断られる始末。
例年なら旦那も息子も「曳き子」としてお祭りに参加しているのだけれど
今年は私の祖母が他界したので
自粛して家に居たけど
さすがに息子に一緒に行こうとは言わなかった。
別に「唐津くんち」だけが親子スキンシップの時間じゃないけど
せっかく唐津に生まれたのだから
地元にしかない地元のお祭り位は
自分が出来なかった経験(親と一緒に楽しむ)を
したかったなぁ・・・と思った。
この3日間は、引きこもりのように家に居っぱなしで
こそこそとクリスマスの準備を始めた連休だった。
親は無くても子は育つって
この事かしら~
唐津くんち 最終日! 2005.11.04 コメント(2)
えんや~!えんや~! 2005.11.02