2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全9件 (9件中 1-9件目)
1
0:前言「現代日本の常識」問1:民主政体でその主義主張を変える手段として容認しうるものは何か?答1:選挙、あるいはそれに付随する各種合法的政治活動問2:法治国家において法に反する行為は一般に何と呼ばれるか?答2:犯罪問3:現代民主主義国家内において、暴力をもってその国家の存在を覆そうとする行為を何と言うか?答3:テロ・革命問4:日本は民主主義国家か?答4:○ 以上異論のある方はおいでだろうか?ではこれらを踏まえていただいた上で・・・問5:違法行為や暴力を容認し自らの政治的主義主張を他者の迷惑を顧みず強要する行為を認めるか?この答えはあえて明記しない。 さて犯罪を政治的に擁護するという主張が散見されるようになった。そういった主張者は概ね下記のような論陣を張る。「政治的主張があるのだからこれは思想・信条の自由の表現であり、これを裁くことは思想弾圧・政治弾圧である。」だが彼ら以外の多くの政治的主張が一切の犯罪行為を付随せず行われ続けてきたことは考慮されない。そう、これらの行為は政治的主張だから裁かれたのではない。手段として「犯罪」を用いたから裁かれたのだ。彼らは言を左右に話題を逸らし、「犯罪者」を擁護していることについては一切触れようとはしない。 目的が手段を正当化することはない。あってはならない。それすら理解出来ないから「犯罪を手段として利用する自称革命的行動」を擁護するのだろうか。1:選民主義的革命思想「全体主義への回帰」 これら独善的論者には歪んだ選民思想が見て取れる。ここではそれを証明してみようと思うので以下の引用を読んでいただきたい。ちなみに発言者当人は自らを「確信犯的な左翼」と称している。>民主主義は常に衆愚政治に陥る危険があります。多数者が正しいなんて保証はどこにもないのです。 多数決が正しいなんて保証は誰にも出来ない。だが少数よりは多数の方に「より正しい」見解を持つ人間が多数含まれている可能性は高い。ただし少数派と多数派それぞれ派の人間の知能・倫理のレベルが同じ分布曲線を示す、すなわち同じレベルの人間であるという前提が必要ではあるが。 これに続く部分が「選民思想」が溢れ出した瞬間である。当人に自覚は無いのかもしれないが、もしそうならより危機的状況であろうことは想像に難くない。>しかし、私達がシニシズムや絶望に陥らない限り、潜在的な真の多数者が目覚める時が必ず来ると確信しています。 ここが自分(とその仲間)が含まれる少数派だけが正しいと盲信している部分である。これを読み解けば、文の主語の「私達」は「潜在的な真の多数者」(そのようなものが存在する根拠は書かれない)を目覚めさせる、導く存在である、と主張していることが判る。すなわち「真の多数者を目覚めさせる」「私達」は当然既に目覚めており、「真の多数者」が含まれる一般の大衆とは一線を画した進んだ存在なのだ、そういう主張、思想、すなわち「選民思想」が読みとれる。 この発言に対し主張を同じくする他の論者から付いたコメントはこの推測を更に補強する。以下を読んでいただきたい。>私もそう思います。非人間的な人間は人間性という重みが欠けてるがゆえに、身軽で無意味に活動的で、非常に行動が迅速だという気がします。だから一人で百人分くらいの活動が出来、実際よりも遙かに人数が多いかのように見えるのです。 文頭の同意の次、自らの主義主張に同意できない人間を「非人間的」「「人間性という重みが欠けている」と言い切り、昨今の世相の変化はそういった人間が「実際よりも遙かに人数が多いかのように見える」せいで、実相はそうではないと元発言者の趣旨を補強している。当然その根拠は示されず彼らの「根拠無き思いこみ」だけがそのベースとなっている。根拠など無いのは当人がその文章の中で語っている以下の部分、>けれどもそういう人達の方が、人数的には多いと思います。サイレント・マジョリティーって奴ですね。 で明らかになる。思っているだけで何ら証明はしていない。そして自らを受け入れない社会の方が間違っており、自分たちこそが正当であると以下の結言を持ってきている。>人間性や思慮深さを無能とする、今の価値観の方がおかしいのではないか? とね。 自らは人間性を持ち思慮深く、他者はそうではない。自ら以外の多数は間違っており、自分を含む少数が正しい。根拠すら存在しないこれを「歪んだ選民思想」と言わずして何と表現すればいいのか。 ここで歴史を紐解いてほしい。ドイツ第三帝国、ソビエト連邦、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国。これらは「選ばれた思想を持つ人間がその他の一般人を善導する」といった選民思想を共通項に持ち、その途中経過で他民族や他国民、あるいは自国民すら粛正した歴史を有する国家群だ。時として自らが定めた法すら無視し、目的は手段を正当化するという行動を行い続けてきた国家。時として法の無視を容認し、目的は手段を正当化するという行動を主張し行い続けている自称「確信犯的左翼」。何かが似てはいないか? 彼らの選民思想はその劣化版コピー、不出来な孫達と言えるのではないだろうか。歴史を60年以上引き返してそういった国家体制を作るのが彼らの基本思想ならば我々の選択肢は一つしかない。2:狂気と革命の閉塞「アナーキズムの美学」>言っとくが、僕はそこらのネトウヨどもよりよっぽど執念深くサディスティックに「粘着」するタイプだからな。 >狙ったネトウヨ君のネットライフはもちろん社会的生命を根絶するところまで攻撃の手をゆるめず、2ちゃんの叩きもかくやというまでに残虐な活動をすることも辞さないほどに恐ろしくサディスティックなコミュにしたんだがね。>というわけで、こっちもネトウヨもビビるほどの邪道なゴロツキ、リンチ好きの狂犬の集団になって、あらゆる悪罵と脅迫と陋劣によって、エモノを追い詰め、ギタギタにしてやろうじゃないかと提案してるのです。弱いものイジメは楽しいぞ♪ さて、これらを読んで感じただろうか。字面だけみればそのエゴイズムと暴力的性向、そしてその背景となる狂気に恐れを抱くかもしれない。だが私は「この人は暴力を是とする無頼漢であるという「演技」に自己陶酔する哀れな人か、真性の○○なのだな」と思った。よく言われることに「ヤクザではチンピラほどいきがる」というものがある。「弱い犬ほど良く吼える」とも言う。もし本当に「完膚なきまでに叩きのめしたい」のであれば相手の警戒していない隙に行うべきだ。そのために現代戦では情報の収集・秘匿が重視されてきた。「今から叩き潰す」と吼えるのは「相手を怯えさせる事で引き下がらせる」効果を期待しているだけだ。 もう一度言う。チンピラがいきがる理由はいきがることで相手をおびえさせ自己を上位に見せかけるため、すなわち虚勢にすぎない。よって私はこう判断する。「このような手法に出る相手は、力関係において互角以下の存在であるか、そういった基本も理解できていない愚物」なのだと。 さてこういった人物が自らの友人にいた場合あなたはどうするだろう。1 友人として彼を諌める。2 友人としての付き合いを絶つ。まぁこういう感じだろうか。だがそれでは自称「確信犯的左翼」にはなれないのだ。以下は自称確信犯的左翼の発言からの引用である。>○○さんはリアルで会うと人間味溢れる本当に人間らしい方なんですよ。>○○さんはそういう発言をする方なのです。それを理解し受け入れた上で、私はかれの友人であるわけです。>かれの友人という立場を離れて、社会運動に携わる者らのうちの一人として言えば、別の作風というか運動スタイルが望ましいと考えています。>過激かもしれませんが、それでも私は○○さんのことを大切な友人だと思っているし、信頼している、ということです。そのことで私が偏見を持たれてしまうとしても、それは受け入れます「本当は良い人間性なんだ!」「友人だから無批判に擁護し受け入れるのだ!」「信頼しているんだ!」 自称確信犯的左翼は、法に反しようと倫理が怪しかろうと仲間は絶対に守るものなのだ。ああ、素晴らしき哉美しき友情、我らが麗しい同志愛に栄えあれ!それは万人が無批判に受け入れるべき崇高な精神だ!彼らは叫ぶ、自己犠牲と見てくれの友情に陶酔しながら。それが他人には絶対理解されないということを無視しながら。 一歩引けばこれが「仲間内の傷の舐めあい」「暴走族の連帯意識」と同質な低レベルのものであることが理解できる。ではこれらを平気で主張できる「確信犯的左翼」がサイレントマジョリティーから政治的シンパシーを得ることは可能だろうか?答え:「有り得ない」彼らは自身が作り出した殻、その外の人間からは一切賛意を得られない。相手を思想的に転向させることもかなわない。なぜか?「外の人間」な時点で仲間ではないからである。ディスカッションを行い、相手を論理的に納得させ、その上で相手の過去の思想をクリアして咎めないようにして仲間に受け入れることが「転向」させることである。だがかれらはディスカッションの段階で相手を罵り拒絶する。なにしろ「仲間内の論理とモラル、そして仲間自身」が全てに優先するのだから。何より哀れなのはそういった失敗を仲間内で傷を舐めあい、悪かったのは自らの失敗ではなく相手側だったのだと安易な結論へと飛びつくことだ。そう、彼らには進歩するだけの精神的キャパシティーが存在していないのである。 進歩には自らの過ちを認めそれを乗り越えることが必要だ。しかし彼らはそれが出来ない。なぜなら彼らは間違っていたと認めることがないからだ。 相手の論理を常に「反動的」「差別的」と罵り「暴力で排除しようと威嚇」して良しとするからだ。 過ちを認めて修正されない主義主張に進歩などないのだ。3:結論 左翼的政治運動の未来「流れよ我が涙、と確信犯的左翼は言った」>権力と対峙する姿勢のないところに、運動はあり得ない。 権力と対峙する自分に自己陶酔し、それだけが目的であるかのようにしか振舞えない自称確信犯的左翼。>ネットウヨへの対処法が一つしかないのが身に沁みてよくわかった。対話を拒否するしかないのだ。 対話を拒否し、自らの作り出した殻に籠もることでしか自らの思想を守れない自称確信犯的左翼。>「二重基準」など幾らでも言いなさい。私は断固として「偏向」するからね。妥協はしない。 過ちを認めず、自己の思想のみを頑なに守ることでしか自己主張できない自称確信犯的左翼。>私は一切の中立性・偽りの「客観性」・公平性を放棄し批判する。断固として偏向する。 自己を絶対視し他者の視点を認めず、己の判断基準こそが絶対正義であると唯一神の如く吼える自称確信犯的左翼。>××氏をアク禁にしました。さよなら、××氏。 論理的に対抗できないと、自らに与えられている力を行使して対話を拒絶する自称確信犯的左翼。 自称確信犯的左翼氏の哀れな姿を見て、果たして左翼的運動に未来・救いはあるのかと危惧する方も多かろう。だが安心(?)して欲しい。彼自身も語っている。>貴方は「△△△△△」の呼び掛けを揶揄しているのでしょうが、賛同人の中で私は異端的であり、主流派ではない。 そう、彼は彼が認めるように主流派ではないのだ。ある人は彼との対話で「君はこれから尾翼を名乗るって後ろのほうにいると、真面目な左翼の人々が迷惑しなくて済むだろう(笑) 」と揶揄した。そうかれは「左翼」ではない。自称「確信犯的左翼」なのだ。 そしてそれはいくら涙を流しても、自らそれを認知できない限り改めることは出来ない。さらばだ、「確信犯的左翼」とその一党。あなたたちが日の目を見ることは無い。たとえ西から日が昇ることがあろうとも。
Jan 31, 2006
コメント(10)
http://anime.livedoor.com/movie?id=7169591873476c97新兵器に関する続報です。
Jan 29, 2006
コメント(4)
自称平和主義者の方々が声高に叫ぶ「日本は世界第2位の軍事費大国だ!」というのは本当なのか。ちなみにそういう意見を出す人に「論拠は? 証拠は?」と尋ねると99%返答が返ってくることはない。のこりの1%、回答を返す人の答えですら「平和運動をしている人から聞いた」「そういうWeb-siteを見た」という又聞きのレベルでしかない。「データが古いのかな」と言う人もいるが、その古いデータはいつのものか、そもそもそれはどこから出たデータなのかは回答されない。これは楽天であろうとmixiであろうと共通の傾向である。・・・なにかそういう「指導マニュアル」でも配布されましたか? さて普段から検証せよと言っている手前、このデータの出所についても色々サーチしていたわけだが・・・・今回納得できるだけの資料をまとめることが出来たので、「世界2位派」の方達にお勉強してもらうためヒントを書いてみようと思う。問1 日本の防衛費(ドル換算)が初めて世界第2位になったのはいつか。 答え 1993年(平成5年)問2 日本の防衛費が最高額(ドル換算)を記録した年はいつか、またその総額(ドル換算)は? 答え 1995年(平成7年)、総額502億ドル。★ヒント:バブル、円高ドル安(ほとんど解答なのだが)
Jan 24, 2006
コメント(3)
楽天のブログなのにmixiの話題が続いて恐縮だが、何しろ読んでも読んでも尽きぬまさに「ネタの泉」としか言いようが無い状態なのだ。どうかご容赦願いたい。 今回の話題は仮称「反政府自衛官代弁事件」とでもしておこうかと思う。 ことの起こりは1/19にmixi内某コミュに立った一つのトピックである。(掲示板等で言うところのスレッドと考えていただきたい)そこにおいて大元の発言者(A氏とする)が「エリート自衛官(B氏とする)の声」として書いた内容を概略まとめると以下のようになる。(カッコ内は私が付けた仮名。固有名詞等は極力伏せ字とした)0 タイトル「あるエリート自衛官の言葉より」1 C会のような連中の言説は迷惑である (C会とは左翼系運動を批評・観察するコミュニティであり、左翼系論者からはウヨクの巣窟という評価のようだ)2 自衛隊と旧軍を一緒にされると困る。3 だから靖国は俺は参拝反対。4 でも公の場では言えない。5 改憲論議のエスカレートを懸念。6 理由は国外へ出て戦闘に加わる可能性があるから。7 でも命令があれば行く。8 だが、皆に伝えておいて欲しいことがある9 いつの時代でも、歯止めの利かない感情的な世論の道具になって兵士たちは死ぬのだ、と。 書き込まれた直後から多くの人から様々な批評・意見が書き込まれた。「個人の意見だろう」「実在するのか」「エリートが言ったから何?」それらに対してA氏は「特定されないように曖昧にした。それなりに地位がある人だ。作り話ではない。」とコメントした。これに続いて「文民統制」「内心の自由」「職業選択の自由」「公務員の倫理」「守秘義務」「自衛隊法違反」と様々な方向へ話題が続いていくことになる。 そういった議論の合間に「本発言は別人物のmixi日記からの引用である。」とのコメントが書き込まれ、そのコメント内において「B氏の階級が3佐」と元の日記では書かれていたことが明らかにされる。そしてC会に対するA氏の継続的なスタンス(A氏はC会批判のトピックを立てたりしていた)から、「A氏はC会批判のためだけにこれを引用しわざわざトピックを立てたのだろう」という批判の後、A氏から驚愕のコメントが付けられる。「当人はC会とは直接言ってませんでした。」 そしてこの同コメント内で、以前に彼を非難していたとあるコメントに「誤解されるような書き込みは止めていただけますか? 」と発言しているのである。誤解も何も「自ら大元の発言を改竄」しているのにである。 さらに大元を読んだ方から「引用元の記述者は、小林よしのり、藤岡信勝,上坂冬子の名前を挙げて、彼らみたいな連中、と述べていたはずです。」「防衛大出身で、三等陸佐を自称する、しかし現在は閑職にいる、という人物とコンタクトを取ったらしい」 この段階でC会批判の部分は否定され、続いてタイトルの「エリート自衛官」さえも疑わしいことが明らかになった。エリートが閑職に就くのは失脚した場合であることは、自衛隊だろうと民間企業だろうと変わらない。当然早速に「ぢゃあエリート自衛官ってスレタイが嘘ぢゃん」というコメントが付くことになる。 しかしこれだけでは終わらなかった。なんと大元の日記を精読した方から「だが、皆に伝えておいて欲しいことがある」なる記述が存在しないと示されたのである。 ここで最初に書いた個条書きをそれぞれ確認する。× 0項× 1項○ 2項○ 3項△ 4項○ 5項○ 6項○ 7項× 8項○ 9項 行頭に付加した×はトピック中で虚偽又は創作と判明した部分、△は前後矛盾の部分である。以下、各項の真偽等からトピックを立てたA氏の思惑等を推察していくことにする。 まず0項のエリートという記述が「虚偽」であることは興味深い。このタイトルはこれを付加することで自己の発言に権威付けをすることを求めていたか、あるいは3佐という階級に関する無知・先入観があったと推察される。しかし発言本文に対する改竄状況を考慮すれば、単純な誤解によるものとは考えにくい。何らかの悪意に基づく意図があったと判断するのが妥当であると考える。 第1項の改竄は論外である。明らかに「B3佐」の発言とは違っており、仮にB3佐が実在したとしてもこのような特定団体への誹謗中傷は認めないだろう。(そもそもB3佐がC会の存在を知っているかどうかすら怪しい)この項はB3佐というよりも、A氏個人の意志か思惑なのだろうが、それがいかなるものであれ他者の日記・発言を「改竄して引用する」という行為は極めて卑劣であることを忘れてはならない。なにしろ当のA氏は何があってもその責を「エリート自衛官B3佐」に負わせることが出来る(はずだった)のだから。 第2、3項についてはそれが個人的なものであると考えれば何ら違法性はない。これらは政治的な行為とは言い難く、後述する「反戦自衛官裁判判例」(以下D判例とする)に照らし合わせても何ら抵触しない。 第4項はB3佐の発言として考えれば「公にはしたくない」という意思表示である。仮にこれが事実であった場合、本発言は個人的交友の範囲でのプライベートなものでありB3佐自身は公表される類の物ではないと考えていたことが伺われる。しかるにA氏は(自己の恣意的な思想をB3佐のものであるかのように捏造して付け加えた上で)これをmixi内で公開(少なくとも公開した日記から転載)し、その意思に反した行動を行っている。法的な問題はさておき倫理上極めて不誠実な行動であり、発言者たるA氏の人間性に大きな疑いを投げかける部分である。この捏造を付け加えることが自己を保身しB3佐に全ての責を負わせるという行為に繋がっていることは言うまでもない。 第5、6項についてはいささか微妙な問題を含んでいる。もしB3佐当人が4項の発言とは矛盾するものの本発言の公開を了承していたと仮定すると、B3佐はD判例に照らして自衛隊法による処罰が行われる可能性が高い。 なぜか?この2項目については政治的要素を多分に含んでいる。自衛官は属する組織の性質上、一般国民、一般公務員よりも人権が制約されるものであると判例ではされている。特にその政治的言論が政府の政策・立場に反する、干渉する場合は自衛官がこれを公にすることは「文民統制」に反することになり、これらの行動は国民の自衛隊への政治的信頼性を損なうこととなりかねない。よって自衛隊法58条の1または52条に抵触したと判断され懲戒処分の対象となるのだ。 仮にも3佐がこういった事項(過去の事例)を無視する、忘却するとは考えにくい。すなわちこの発言は「B3佐は非エリート出身」であるか「発言自体が捏造」である可能性を高めるものであることがわかる。もちろん捏造であればその責はB3佐ではなくA氏に帰することになる。 第7項は自衛官として当然の事柄であるので問題は全くない。たとえ個人的にどう思おうと、命令には従うのが自衛官なのだ。 第8項はトピックにおいて「捏造」が明らかになった部分である。ちなみにこれが事実であった場合、4項との明白な矛盾が生じる。わずか数行の文章内において相互に矛盾する箇所が3カ所というのは、仮にもエリート(?)自衛官の作成する文章ではない。むしろ複数の人物によって書かれたと考える方が自然である。この相互矛盾から推察される「これは一人の人物では書き難い」ということは、コメントによって提起された「捏造である」ことを証明していることになろう。 第9項も問題がある。ニュアンスからしてB3佐はそれに対して不満があるようだ。当然ではあるが個人として内心不満に思うのは何ら問題はない。D判例においても個人の内心の自由までは規制されていない。しかし自衛官しかも幹部自衛官が「立場を公にして政府・国民を否定する」ようなことを言うのは論外である。それは日本という議会制民主主義国家において「国民の選挙によって選ばれた政府(とその指揮下の自衛隊)」の否定に繋がる重大発言であり、自衛官としての資格を問われかねない内容であると判断される。 本稿において述べたようにこのような愚かな発言をする自衛官がもし「実在する」というのであれば、明確な証拠をもって示していただく必要がある。理由は簡単、本事例は「自衛官としてふさわしくない人間」が武器をふるう可能性を示唆しているからだ。 もちろんB3佐が実在しないと言うのならば話は別である。その場合はA氏が「デマをもって自衛隊に対して何らかの思想活動を目論んだ」か「虚偽の言論で当該コミュ参加者間に対して不信感・不安感の醸成を企んだ」という単純な回答に帰結するからである。以上についてのA氏の説明・釈明をmixiにおいて希望するものである。 さて。文中でD判例として述べた「反戦自衛官裁判」を簡単に説明させていただく。まずは一連の流れから。S47.4.27 陸上自衛官Yは制服を着用したまま報道関係者を同道の上、防衛庁前で以下の要求書を読み上げた ・立川強行移駐反対 ・自衛隊沖縄配備反対同4.28 Y、芝公園で制服のまま「4.28沖縄返還協定反対、自衛隊沖縄派兵阻止、日帝の釣魚台略奪阻止、入管二法粉砕中央総決起集会」に参加、壇上で同趣旨の声明文読み上げに加え以下の主張を行った ・閣議決定済み各種計画への反対 ・自衛官の人権保障 ・幹部、曹・士の差別撤廃 (以上各事項の法改正)上記の各行動から陸上自衛隊は隊法58条1項などに反するとして懲戒処分、同懲戒処分に対してY、取り消し訴訟を提起した。・・・改めて書き出すと頭痛がするような事件である。「馬鹿?」というところか。ちなみに1審、控訴審、最高裁まで一貫して判決は「懲戒処分は適法」であった。それらから興味を引く物の概要をまとめてみると以下のようになる。・著しく歪曲又は誇張した事実を前提にして自衛隊を誹謗中傷した・有事に行動する武力集団としての自衛隊は、不断から一糸乱れぬ厳正な規律と強固な団結を保持することが不可欠である・これは実力組織としての性質に由来する本質的な要請である・故に文民統制の原則は当然として、内部においては所掌する者の判断と決定が最大限に尊重される必要がある・一般市民から志願してなった自衛官は市民と同じ権利自由が保障されなければならないわけではない・志願してかかる立場になったのであるから、立場の範囲内において権利自由が制約されても憲法問題は生じない【第1審】・表現の自由は公務員の地位にある者の発言が無制約であることを示すものではない・国民の信頼を損なう発言は慎むべきである、国民の信頼があってこそ行政が成り立つ・自衛隊の場合、その性質上、自衛隊員相互の信頼がその活動に不可欠であることは論じるまでもない【控訴審】・自衛官が制服や官職を利用して公然と政府を批判することは、本来政治的中立を保ちつつ一体となって国民全体に奉仕すべき責務を負う自衛隊の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため職務の能率的で安定した運営が阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の遂行にも重大な支障を来すおそれがある【最高裁】 以上で私がなぜB3佐の実在にこだわるかおわかりいただけたと思う。私はB3佐が存在するのならば、彼の発言は本当かを任務に対する阻害要因として確認する義務があるのである。しかし現段階になってもmixiにおいてA氏は沈黙を守ったままである。 私としてはA氏が正真正銘の卑劣漢で全ての発言は捏造であり、B3佐なぞ実在しないことを望んでいる。だがそう望むからと言って真実を確認しないわけにはいかない。なぜならB3佐が実在することは自衛隊にとってひいては日本にとって極めて危険な因子を内在させていることになるからである。(なお本トピックは一応未だに継続している。A氏は姿すら見せず雲隠れしているようだが)
Jan 23, 2006
コメント(1)
さて私は先般の日記で「最近mixiが面白い」と書いた。【以下、一部についてmixi内の規約に抵触するとのmixi事務局からの通報のため該当する部分を削除した。ただし指摘された規約に関係しない部分については削除していない。いわゆる前振り部分なので本文には影響がないのでご了承願いたい。】 では私はmixiで今私が面白いと感じているもの、それについて述べてみよう。 ここをお読みの皆さんはご存じのように、私の職業は「特別職国家公務員」である。一部主義の方々にはこの職業は蛇蝎のごとく忌み嫌われている。それはおそらく彼らが狂信的に主張する「彼らの平和主義」と対立しているからであると私は推測している。ここで誤解を招かないように言っておくが私は「平和主義者」だ。戦争など起こらなければそれに越したことはないし、武力を持って他国に侵攻する行為は好むところではない。(あくまで一般論である。無数に存在する戦争の形態をこのような簡単な形で括ってしまうことは愚かな行為であるからだ)しかしながら他国から武力を行使される危険性を考えれば、これに常に備える必要性は明白なのである。実例としてあげれば、「イラクのクウェート侵攻」はイラク軍の侵攻を阻止(あるいは国際社会・国連の介入までの時間稼ぎを)できるだけの軍事力を保有していなかったが故に発生した。クウェートの軍備状況を見たフセイン・イラクは「1対1なら勝てる」と判断し行動したからである。クウェート側は外交主体でアラブ国家群の中で生き残れると判断していたようだが、それが正しかったかどうかは歴史が語っている。フセイン・イラクの占領からクウェートを解放したのは外交努力ではなかったことこそその証明に他ならない。 さて話が逸れたが、楽天と同じくこういった「主義の方々」はmixi内にも多数存在している。むしろ開放されているが故に多くの人からの批評・批判に曝されて消え去らざるを得ない楽天他のブログよりも、mixi内には数多くの「主義の方々」が存在しているようだ。 この「主義の方々」も含めた様々な人たちが集って意見を交換するとあるコミュニティで、昨年の教科書採択問題の際の中核派の話題が出たときのことである。多くの(普通の)参加者の方は、かつて行った殺人を正当化し続けている中核派が、その正体を隠したまま行った一連の行為について「胡散臭い」と判断していた。これは至極真っ当な反応でおそらく大多数の日本国民にとっても通常の反応であると私は考える。 しかし不思議なことに執拗に彼らを擁護する発言を繰り返す数名の参加者が居たのである。戦争に反対し平和の大切さを普段から説き続け、自衛隊の一切の活動や存在意義、政府の各種外交方針、米国追従政策(?)の批判・否定を声高に発言していた人たち、彼らの口からついに出た驚天動地の擁護発言・・・それは「時と場合によって暴力を併用する平和運動は容認される」であった。 多くの「主義の方々」、特に平和主義者を自認する方々は「戦争反対」を主張している。(もちろん私も基本的には反対なのだが)そこに基づき彼らは自らの考えを絶対正義と捉え、米国の対テロ戦争やイラク紛争、あるいは世界各地の内戦について否定的意見を述べ、対話による解決を行わない(実際は国連を始めとして常に行われているのだが)国家・陣営に対する非難を浴びせ、軍備自体が諸悪の根元と主張してきたわけだ。 ところがそういった人の中から一部とは言え上記の「時と場合によって暴力を併用する平和運動は容認される」が主張されたことに私は心底驚いたのである。(加えて言うならば彼らは「法は権力側に恣意的運用をされているので守るも守らないも時と場合による」との趣旨の主張もしている。) さて私は何に驚いたのか。少し冷静に考えれば判ることなのだが、なんと彼らは自ら「戦争反対の理由」を完全否定してしまったのである。彼らは自ら(あるいは中核派が)主体的にその主義主張に基づき「(時と場合によって)暴力を容認できる」と主張したのだ。では「彼らではない誰か」が自らの主義主張で行動することを否定できるのだろうか。出来るわけがないではないか。時と場合によって、暴力を併用する平和運動は容認される。なぜならばそれは人民の国家を作り上げるために必要だからである。時と場合によって、チベットにおける民族浄化は容認される。なぜならばそれは中華人民共和国の平和を維持するためだからである。時と場合によって、他国への核兵器による恫喝は容認される。なぜならばそれは我が国の自由と主体思想を守るために必要だからである。時と場合によって、ルワンダの難民虐殺は容認される。なぜならばそれはルワンダの不穏分子を一掃するために必要だからである。時と場合によって、日本への侵略戦争は容認される。なぜならば・・・・etc.etc.... そして彼らはその発言において「行動する側の考え・判断」こそが絶対であると主張した。その行動が他者からどう見えようと、法にどう違反しようと、秩序をどう乱そうと、犠牲者がいかほど出ようと、ただ行動する側が「時と場合によって考えれば今回は問題ない」と判断すれば全て容認されると主張した。これははたして「戦争反対」「平和運動」にふさわしい行動論理と言えるのか?それは戦争に勝利することをもって自らの正当性を証明しようとする「軍国主義者」の主張と何が違うのか?・・・彼らは本当に平和主義者なのか? 彼らの最大の失敗は「時と場合によって」と書き込んだことだ。 その判断を下せるものが自分たちだけである、そう勘違いしたことだ。 法治国家においてその行動の是非を判定するのは「法(もしくは司法機関)」でなければならない。 けしてそれは個人あるいは一集団が行ってはならない、その当然のことが理解できていない彼らが一般国民の支持を受けること未来永劫ないだろう。 JSF氏始め幾人かの方が「それは平和運動ではない、革命運動である」と主張するのはもっともだ。日本では合法的に行われる各種政治活動は誰にも規制されない。私個人は社民党が大嫌いだが、社民党が(党として)違法行為をしない限りこれをどうすることも出来ないことくらいは知っている。法は「個人の嗜好を超越したところ」に存在する、法治国家はこれを忘れてはならないのだ。そして国家がそれを守っている限り、個人は法を守らねばならない。当然だが暴力を伴わず法を遵守する革命というものが存在するのならば、これは弾圧されてはならない。だが彼らはそれを否定し法を犯した。よってこれは法治国家によって駆逐されるのは極めて当然なのである。 mixiにおいてついに偽りの平和主義の仮面を捨て去った「主義の方々」は今後どういう末路を辿るのか。この一大喜劇を私は見逃すわけにはいかない。・・・こうして今日も私はmixiから目が離せないのである。【追記】 なお誤解を招かないように言い添えれば、そのコミュニティにおいて「時と場合によって暴力を併用する平和運動は容認される」「法は権力側に恣意的運用をされているので守るも守らないも時と場合による」等という無体な主張を行っているのは極々少数である。大半の参加者は「平和の大事さ」や「それを守るための手段について」や「それぞれ意見の交換」あるいは「情報交換」を目的に集っている普通の人たちである。そういう意味で「真の危険思想」が日本においては受け入れられてはいないことを私は確認しそして安心している。日本はまだまだ捨てたものではない、そう思えるのだ。
Jan 17, 2006
コメント(18)
mixiの方で戯れている事が多いです。参加してみたいという方がおられましたら、捨てメアドを添えて私書箱にお入れください。
Jan 9, 2006
コメント(3)
http://anime.livedoor.com/movie?id=7c2b96541747b374コピペして「?」での改行をなくしてジャンプしてください。(作者様:http://anime.livedoor.com/theater/2.html )
Jan 7, 2006
コメント(3)
新年早々1日2度更新の快挙・・・とか思っていたらいきなり替え歌からです。本当にありがとうございました。レッド市民僕らの世界は素晴らしい ファシストどもにゃ渡せない平和を愛する市民には ブッシュ政権許せないレッド市民 レッド市民反戦反米 条約違反倒せ悪の米国を暴け悪の虐殺を劣化ウラン弾 受けてみろ白リン爆弾 それ見たか僕らの日本は美しい ネットウヨクにゃ渡せない憲法愛する市民には にちゃんねらーが許せないレッド市民 レッド市民無防備宣言 9条堅持倒せ悪の自民党潰せ悪のプロ奴隷朝日の記事を 受けてみろ中韓反論 それ見たか【元歌:レッドバロンOP】それゆけチュウカック(右派ハ 右派ハ 右派ハ のハ)俺たちゃ サヨク (ウンウン)アッタマ いいぞ (ウンウン)レーニン毛沢東好きなもの 好きなもの 大朝日米軍自衛隊 追いかけてそれ行け それ行けチュウカックツンツン 中核~(右保ホ 右保ホ 右保ホ のホ)俺たちゃ 市民 (ウンウン)右翼にゃ 負けない (ウンウン)杉並親の会好きなもの 好きなもの 第9条扶桑社教科書 ぶっ潰せそれ行け それ行けチュウカックツンツン 中核~【元歌:タイムボカンED】☆失われた支持を求めて赤い思想に 集めた支持者行き場無くした陳情 映すテレ朝今は歪んだ思想 道連れにしてデモに出るがいいさDo you remember That's old マルクス遠い日に置き去りにした夢物語を ネタに替えて 笑ってあげる左翼は誰も 論理破綻十字架背負った 論理破綻赤い色の 左翼の夢 どこに胸の思想が 哀しすぎる右手の光るナイフ 仲間切り裂くただの嘲りだけじゃ 寂しいだろう裁いてあげる その命Do you remember That's old スターリンこの国で内ゲバをした物語を 目覚めるまで 笑ってあげる左翼はいつも 論理矛盾持論も主張も 論理矛盾赤い色の 左翼の夢 どこにDo you remember That's old レーニン遠い日に置き去りにした夢物語を ネタに替えて 笑ってあげる左翼は誰も 論理破綻十字架背負った 論理破綻赤い色の 左翼の夢 どこに【元歌:機甲創世記モスピーダOP】レッド・チャイナ日本国 赤く染め上げる記事は朝日の流した捏造だけだねあり得ないソースを 確かめるように何度もシナ向く 背中がつらいよマスメディアに咲く 真冬のバラだね消せない記事だけ 声高に映し愛しいコリアを 出来ればずっとこの胸抱きしめ 擁護したいけど圧力が最後の 捏造だなんてオオニシと 生まれる時代を 間違えたのさRed Red China in your SoulRed Red China in your Soul....日本国 赤く染め上げる記事は朝日の流した捏造だけだねあり得ないソースを 確かめるように何度もシナ向く 背中がつらいよソース出す ネトウヨの獣たちには捏造は いつでも哀しい 刃になるよRed Red China in your SoulRed Red China in your Soul燃える抗議受け 書いた記者 クビにしてOh ohohohRed Red China in your SoulRed Red China in your SoulRed Red China in your SoulRed Red China in your Soul【元歌:機甲創世記モスピーダED】
Jan 5, 2006
コメント(5)
2006年となりました。(既に5日ですが)本年も昨年同様よろしくお願いいたします。(昨年叔父が亡くなっているため、新年の挨拶をこれにて替えさせていただきます) さて・・・・ 巷では白りん弾関連の話が話題になっていたようである。(私も幾つかコメントをさせていただいた)既に大多数の愚論は鎮圧されたようだが一部くすぶっているところもある。そのくすぶりの大半が白りん爆弾だのこれを化学兵器に含むだのという、そもそもの名称や定義自体を理解していない暴論でありこれらには放置プレイでの晒し者がふさわしい。 しかしその否定の理由が「倫理上問題があるから」という主張、その背景に存在するものの放つ『妖しげな香り』だけは放置しておくには危険すぎる。今回はこういった類の『倫理の名を隠れ蓑にした危険思想』について少し私見を述べ、併せて2006年の抱負を語ってみたいと思う。【以下本文】 倫理-モラルというものは法や条約よりも早い時代から存在していたものである。言葉、文章として形作られる体系としての『法律』よりも、個人のモラル、人間関係を円滑にするためのマナー、宗教的戒律、小規模な人間集団間の暗黙の了解等といったものから自然形成された『掟』が早くから存在していたのは疑うべくもない。 ではそういった「掟」がありながら、なぜ『法体系』『条約等』といった明文化されたものが近代社会において生じることになったのか。最も古い(といわれる)ハムラビ王の法典、「目には目を」はなぜ作られねばならなかったのか。(このあたりの知識・認識は私にはせいぜいが高校生程度の知識しかないので、誤りがあったらぜひご指摘いただきたい) 法というものは基本的にそれによって律せられる社会に対して「一定の秩序」をもたらすものである。その秩序が「社会全体」「権力者個人」「宗教集団」等のどれに対して有利になるかどうかは問題ではない。社会のあり方に「一定の枠をはめ、一定の秩序をもたらす」ことが法における最低限の共通事項だからだ。 実際のところ「小規模な地域的集団」だけで社会が構成されているうちは明文化された法は必ずしも必要ではない。(と私は考える)こういった場合では「モラル」「口伝」「掟」「お告げ」「長老の判断」といったものでも十分にその小規模社会の秩序は保ちうるからだ。これを乱す者には「村八分」「追放」といった様々な手段をが採られ、それが法と同等以上の強制力を発揮した。それは歴史上の事実に見ることが出来る。(もしこれが極端に個人や一方に有利になるような方法であれば、そこで反乱や革命等といった秩序の変換が起こる。しかしその場合も秩序自体が失われるわけではなく、旧秩序から新秩序へと基盤となる「もの」が変わるだけである) 中世以降に時代が移り、地域的小集団(ムラや町)が統廃合されて国家というより大きな集団が構成されることで、地域的小集団の数だけあった千差万別の「モラル」「掟」を共通化する必要が生じることになった。一つの大きな集団(国家等)の中で「東地方では無罪、西地方では有罪」というような偏り・違いを生じさせては、共通の基盤・認識を維持できず、一つの集団として行動し得ないからである。歴史の流れの中で数多くの「モラル・掟」といったものが取捨選択により昇華・共通化され、その最大公約数的なもの(中には元になる小規模集団の発言力の違いで押し切られた例も多々あるが)が明文化して出来上がったものが『法』なのである。(『法』に反しない範囲での『地域的規則』は現代でも認められている。市条例などがそうだ) では世界における社会の基本要素が国家(法治国家)となった現代ではどうか。各国家の法はその国家における「秩序の基本」となっている。「各」と書いた理由は、例えば日本では法に触れないが別の国では死刑に匹敵する、あるいはその逆のようなものが世界には幾つも存在しているからだ。(イスラムの宗教的戒律と日本の無宗教的社会を比べればわかりやすいかもしれない。飲酒などがその明確な例である)国家の法(国内法)はそれぞれの国内における「独自の基準」であり、似通った部分はあれど基本的には別のものである。 中世世界までは各国の国内法は基本的に互いに無関係であり、これに対する干渉は原則として許されるものではなかった。しかし科学文明の発展により各国家間での交流が頻繁かつ密接になった現代世界においては、複数の国家間の共通的な基盤を(一部でも)作る必要が生じることになる。これがいわゆる『国際条約』である。 個人的モラル→地域的掟→法→国際条約、という昇華・拡大のステップを経ていくことで、それの適用される範囲は大きくなっていく。これに伴いその枠組みに影響される人間の数は増大し、個人の『倫理観』というものが相対的に小さな要素へと変化した。(母集団たる摘要範囲が大きくなるのだから当然である)ただしこれは個人の倫理自体を排除するものではない。倫理は法体系に内包され、また法体系はそれに反しない倫理を排することはないからである。倫理を内包し共通化した法体系が『最大多数が納得できる範囲』で秩序を保つには、法(あるいは条約)を逸脱することが許されないことが前提となる。これは「一個人の倫理」と「法体系」の関係を希薄にすることにもつながっていく。(その悪しき影響の一面が「法に違反しなければ何をやっても良い」という倫理の崩壊である) また特に国際条約に関して言えば、もしその条約が国内の各種規範と合致しないのならばこれを批准しないという選択肢も残されていることは忘れてはならない。(実際にそういった例も多い)こういった条件から「条約に加盟すること=その条約の提供する秩序に従い条約を遵守する」という法と同等の関係が成り立つ。この関係は、条約を遵守する制約に付随して通常は何らかの利益(直接的なものから間接的なものまで)を、条約を破れば同様に何らかの不利益もたらすことで保証されることになる。 話を少し変えよう。昨今よく見られる白りん弾弾劾や最近話題の無防備地域宣言における論法は概ね次のようなものである。「法(条約)ではこうなっていて問題はないが、倫理的に問題があり悪であるから断罪する」この論法と「倫理的に問題があるならば、法(条約)を変えてこれ以後は悪として断罪すべきである」という論法の違いが理解できるだろうか。 前者は「人治」である。 後者は「法治」である。断罪する基準が「個人の倫理」なのか「体系化された法(条約等含む)」なのかの違いが極めて大きいことはおわかりになると思う。(後者の論理に基づいた運動を行う正当な平和団体も存在していることは救いである。平和団体の全てが独善ではないことを証明する貴重な証拠だからである) さてこれらの主義の方々の主張する、「多くの人間・小集団のモラルの昇華した末の『法・条約』よりも、個人又は自分を含む小集団の倫理・モラルが優れている」と断言できる根拠はいったい何処にあるのだろうか。歪んだ選民意識なのか、はたまた想像も付かない何らかの形でその結果から利益を保証されているのか。 ここで思い出さねばならないのは、一個人(あるいは一部の小集団)の判断・倫理が法よりも優先される社会・国家・集団が日本のすぐ近くにも存在していた、あるいは今現在も存在していることである。 例えば中華人民共和国、あるいは朝鮮民主主義人民共和国、日本におけるオウム真理教という極めて危険な小集団、これらの存在が及ぼす(及ぼした)幾つもの影響(そして実害)を我々は考えなければならない。それらを無視して自らの倫理観こそが『絶対にして唯一の正義』と主張して、法を蔑ろにし他者を断罪する行為を行う彼らは果たしてどういった思想者の末裔なのか、そこまで想像しなければならない。 白りん弾を「倫理」の観点から非難する人々、無防備地域宣言を条約を曲解して主張・推進する人々、ありもしない条約を盾に他者を非難する人々。彼らの主張する倫理は本当に「正しい」ものなのか?法を蔑ろにする「個人の倫理」とはいかなるものなのか? 我々は数多くの歴史的出来事から、一個人の倫理が法を超越して国家を支配した様々な実例を知っている。そしてそれらが引き起こした「悲惨な歴史」に枚挙の暇がないことも。もちろん現存する法治が完全なものであると主張することは無茶な話だ。人間の作り出したものに完璧を要求することは傲慢以外の何物でもない。しかしながら少数の倫理による人治より、多数の倫理の昇華から作られた法による法治のほうが、その中に含まれる誤謬をより少なくしている可能性は高いのである。 そろそろ結論に移ろうと思う。 ここ数年、法・条約を軽んじてまでも自らの持つ倫理観の正しさを声高に主張する人々が増えてきた。彼らが法・条約を軽んじるのではなく自らの倫理観を法自体に反映させるべく働きかけるのならば、もしかしたらその過程でその倫理が法へと取り込まれ昇華されることで、法体系それ自体がより一層優れた高みへとステップアップすることもあるだろう。しかし白りん弾弾劾・無防備地域運動ともに、それを主張する人々は己の倫理の「絶対的無謬」を全く疑っていない。ただ疑わないだけであればまだ良いが、疑わないために既存の法を、条約を、事実を歪曲し捏造してまでも主張するのはいったいなぜなのだろうか。 繰り返して言おう。自らの倫理観の正しさを全く疑わず、他者の倫理観との整合性を図ることなく国家を運営した歴史、その結末を我々は幾つも知っているはずだ。彼らは自らの説く人道と倫理の美名の影で、その悲惨な歴史を繰り返す危険性を内在させているのである。 民主主義国家の「法と倫理」、そして国際社会の「協調と秩序」を守るために、私たちは彼らの歪んだ独善的倫理と主張をうち破るだけの知識を身につける必要がある。そして発達したネット社会はその手段を容易に提供してくれる。検証し、思考し、また検証せよ。この一連の過程に労を惜しんではならない。 私は彼ら主義の方々を反面教師として今年一年また(ゆっくりとではあるが)日記を重ねていきたいと思う。これが今年の年頭に当たっての抱負である。
Jan 5, 2006
コメント(3)
全9件 (9件中 1-9件目)
1