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遺産分割、整理の話し合いは相続人同士でいつするのが適当なのか?私の中では49日が適当だと思っていたのだが…。------------------------------------------------------------相続権の放棄とは…被相続人が死亡して3ヶ月経過していても【自己が相続人になったことを知ったときから起算する】------------------------------------------------------------長女曰く「父親の銀行口座を凍結・解約するため」との返答故人の口座は金融機関側に「本人死亡」の情報が入ると口座がストップ引き出すには相続人全員の委任状が必要葬儀で急ぐ事は「故人の口座から必要な金額引き出すこと」だろうなぜなら最近のご老人は自分の葬儀代ぐらい貯金している。逆にすぐ解約するとマズイ理由は・故人の口座から引き落とし(光熱費・通信費)の有無・振り込み(年金・その他)の有無を考慮する必要がある。そうそう一般の人の訃報の情報が金融機関に流れることはない。実家は地方なので、どんな人でも地元新聞の「地域の訃報欄」に掲載される。「隠密に葬儀をしたい」母としては速攻新聞掲載を止めた。知り合いの葬儀屋さんは「遺産関係の手続きは死後すぐやるとか聞かないし相談もされないな…」と。------------------------------------------------------------2月9日出発当日関東は寝雪が残りながらも「やっと行ける」と安堵し空港行きバスを待つがなかなか暮らせど来ない。バスに乗れば45分で空港に着くのに道路は渋滞している様子…やっと来た運転手に「これに乗ったら空港まで2時間かかります!!」私たち夫婦同様「ギャッーーーー!!」ってキャリーを引きずりゼーゼー言いながら他の何組かの人と共に駅に走って行き、なんとか飛行機に間に合う事ができた。グッタリしつつ北海道到着駅まで迎えに来た次女も「やっと来てホッとした~」と歓迎しつつ長女に対する注意事項をうながしてきた。父死亡の夜(2月7日)枕経を上げに坊さんと父方親戚が来た→『えっ?親戚に知らせたの??』長女曰く「私はアタマ良いのに家族全員オカシイ私だけこの家の人間じゃない!」2月10日に葬儀屋さんに来てもらい洗女と打ち合わせさせる。長女曰く「洗女は東京のやり方持ち出す気でいるから、説明してもらう」と…。次女は「私は今まで聞き流してきたから洗女もそうした方が良い」「ママが長女VS洗女でバトり神経ヤラれて憔悴して倒れそう」「葬儀屋さんもわざわざ呼んで手間取らせるのが申し訳ないから呼ばないで欲しい」との事だった。忠告はありがたいが我慢する気が無かったが、飛行機騒ぎでグッタリ疲れたので勘弁して欲しかった。------------------------------------------------------------帰宅すると、長女と旦那(義兄1)とその次男そして母がいた。「げっ、なんでいるんだ?」とスルーしまずは父に会わなければいけない。2Fの仏間はタンス3組ある6畳棺を取り囲むように【白布】が天井から床まで吊るされてボロを隠していた。それにしてもやけに狭い!と思ったらタンスの前にパイプベットがありそれも白布で隠して棺を安置してあった。「仏間だからこの部屋にしたのか?」それにしては仏壇の扉は49日まで閉めるものだが全開OPENんーこれが北海道流?それともウチの宗派?がこうなのか?仏間は導師と家族2人しか入れなく「狭小で通夜かぁ…」と他の人は茶の間で壁を向いて通夜を迎えた様子だ。棺は一番安い【桐八】私も一人でかつぐ事のできネジもなくでカラーボックスより簡単に作れる。今は棺や骨壷もネットで売っていて、それを持ちこむ人はあまりいないのが現実だがAmazonで桐八が2万しないから送料入れても大分お得だ。「パパに欲しいな…」と生前思っていたがまだ健康な時だったし、管理が悪いとカビとか生えそうだから買わず終いだった。購入したら自分ん家の棺なのだから『棺カスタムしたらダメなのかな~』と思っていた。話がそれるが…痛車とか痛スノボーがあるから【痛棺】はダメなのだろうか?棺前面に二次元嫁を描き、嫁の抱き枕と共に「嫁(2次)と一緒にあの世に逝きたい」と願う人もいるのではないだろうか?死という断絶や終焉の時、そのような趣味の物を持ちだしたら「悪ふざけ」と捕らわれるのかもしれないが今や結婚もしない車も買わないけどアニメやアイドルには価値を見出し親近感を感じ「俺たちが育てた!」と本気で好きな人々は選挙権を百万単位で買う人だ。凝り性の彼らは葬儀で嫁と共に逝けるのならその演出にメチャクチャ凝るのではないだろうか?アイドルは肖像権があるし、大島優子も棺になるのは良い気がしないだろうが秋元康やヒャダインがヤルと言えばAKB葬儀社とかスグ出来そうだ。(あ、でも高くなりそうっ!)冠婚葬祭はオプションという演出で売り上げを上げる業界である。それに、アニメやアイドル好きの坊さんなんか間違いなくいると思う痛棺を見て「故人の嫁も良いけど、ウチの嫁の方がもっといい」と読経を上げるかもしれない。冠婚葬祭業界は、消費できる購買層を自由度が低いだけで取り逃しているのではないだろうか?------------------------------------------------------------「パパ~来たよ~」と桐八の窓を開け父にご対面。納棺師として気になったのが、棺の窓のアクリル版に砂ほこりが付きっぱなしだった件。棺は倉庫でダンボールに折りたたまれた状態で保管されており納棺する前に、ババババーっと組み立て持参する。桐八はリーズナブルで回転率の良い棺も若干の砂ぼこりや木屑の汚れは必ず付いている。窓を開けた時にアクリル板の中と外の両面を拭くのは当たり前の作業なのだが「これも北海道流なのか…」と黙って拭き取って置いた。当の父は確かに小汚く、髭もボーボーだし片目と口が開き歯も鼻毛も見える…。でも【良い遺体】でした。死後3日目、納棺されていた父死んだ初日につけたドライアイスは溶けてなくなっていたが、臭くもないし変色もない。闘病中の「病み疲れ」はあってもそれはメイクや処置でキレイに出来る類。この仕事を通じて、父の遺体を見てやっと実感できたのが「ご遺体は3、4日目が一番良い顔」だと言える!と確信しました。死に際の苦しみの表情も死後変化による筋肉の弛緩で表情がゆるみ穏やかに見える父を見てグッと胸が熱くなったのは「眉間に全然しわが無くて、父は苦悩を感じていない」そう思えたから…。「楽になれたんだ、ヨカッタ。」そう安堵出来た事がとてもありがたく、父に対して感謝の気持ちで泣けたのです。色んなご遺体に接すると、頭の地肌からマッサージしても眉間のしわが取れない故人様もいて、故人の表情は見る者の気持ちを左右します。「人生の歴史」は技術だけでは改善できないのです父は眠剤でとにかくいつも寝ていた人。ベットから落ちてからは歩けないのでオムツをして少々床ずれが気になりだした頃に亡くなった。介護してきた母や姉たちは、思い通りに食べたり酒を止めない父に憤りや不毛を感じていた時期もあったが我をつき通した死に方により結果、脂肪が無く栄養素がない父は即身仏さながらに穏やかな良い遺体になれたのですから、不思議なモノだ次女曰く「何かしてあげたらナムナム~って手を合わせてね。だんだん仏に近づいてたよ。」と。延命治療の是非を論じる書籍が沢山ある。もちろん「死にたくない・死なせたくない」そう強く願う人には延命治療は大変意味のあるものでそれを否定はしない。何かの本で『「120歳まで生きたい」と言っている人がいたのでボクは随分この人は欲張りだなぁと思った…』と、書いている本がありそれになんとなく共感できるのはそこには本人の欲の様なモノを感じたからだ。人生は苦楽どちらの中にいるのが良い悪いではなく苦しくとも「人間らしい心と感情」で学びがある状態が大切なのだと思う。父自身は生きることを放棄する様な終末だったが家族にお礼なんか言ったことない人なのに人に感謝できる人になっていた。私の中にある「誰かに認められたい」という気持ちは人に「感謝される」「褒められる」事で感じ取れそれが「生きる糧・生きがい」になるだが、感謝してくれる人・褒めてくれる人がいるからこそそれが成り立ち逆に「生き場所」を与えてもらえているに他ならない。感謝の感情は心を整えると思う。小さな事で人に感謝できたり、日常にありがたいと思えたら「生きてるだけで丸儲け」になり寿命という命の長さにこだわらなくて良いのではないだろうか?父は本当は何を思っていたのかはわからない。でも、私たち家族はそこから感じる事や学ぶ事が沢山あった。死してさらに感謝を感じられた。親が子に最後に与えられるものは「死を教える」ことだと思う。次女はしきりに「パパはちょうど良い時期に死んだんだと思う、きっと今がベストだと思って死んだんだと思う」と言う。こんな状態を治めるつもりで言ってくれているのかもしれないが仏に近づいた父は、喜怒哀楽など「人間らしい心」は通り越してしまったからもう人でいる必要が無くなったのかもしれない。父のような自然に生きる力が消える亡くなり方なら「遺体が傷むから」という常套句は本来使えない。腐るというより乾燥し「シオれて行く」という状態。延命治療が無い明治・大正時代なんかはこんな亡くなり方は普通だろうし、ドライアイスなど本当に無用だっただろう。葬儀は忙しく、時間が足りなくて終わってから心残りが1つ2つ出てくるモノだ。それに、だんだん良くなる表情の故人をすぐに火葬するのはもったいないと実感した。それにもしご自分で亡くなった家族の処置やメイクができるなら?(もちろん納棺師に頼んでも良いでしょうが)5,6日はイケるだろうから葬儀は焦らなくても大丈夫と私はそう思う父への焼香が終わったら、いよいよ「長女と対決」だ憂鬱な気持ちで棺の窓を閉めた続く
2014年03月31日
2月7日の夜から降り出した雪は翌朝にはすっかり関東を北国に変えていました。2月8日:帰省予定当日「こりゃ飛行機飛ぶのかな…」寝ないで葬式に行く準備をし、朝一ペットシッターさんと自宅での留守中の打ち合わせ。雪は一向に止まず旦那が「えっ!!飛行機欠航っ?」と叫びネットやTVを見つつ航空会社に電話しまくりましたが…完全終了茫然とした頭で「うちのように葬式でどうしても帰らなきゃいけない他の人もきっといるんだろうな…」と妄想していました。とりあえず実家に知らせなければならない。時間はまもなく正午洗女「飛行機やっぱり雪で欠航、今日行けないから葬式延期して」母「えええ?うわぁあぁ~どうしようねぇ」母は関東では大パニックになっている状態に実感が無い様子。洗女「なんとかこっちも行ける便探して見るし、列車も乗れるか探すけどでも葬式今日にしたんでしょ?ワタシ聞かされてないよ、だます様な事してヒドイ!」母「いやぁ、9日の通夜にしようと思ったらお坊さんが骨折してて代わりのお坊さんが8日か10日の通夜じゃないと来れないって言うから仕方がないのさ」菩提寺の坊さんが骨折って…;代わりの利かない商売しているのに随分不注意な坊さんだと少し呆れた。洗女「ちょっとまって、なんでうちが坊さんに合わせないといけないの?ウチの葬式なんだよ?!」母「いや~それに長女婿が休み取れないって言ってるし、親戚にももう連絡してこれから来ちゃうから」洗女「甥っ子達は休みどうなの?オジサン達は?」母「休み交代したみたいだけど、オジサンたちはみんな定年してるから…。」洗女「じゃあ、休み取れないって義兄1人の休みのこと?!それに親戚呼ばないで葬式するって言ってたのママなのに何で呼ぶことになったの?!」母「いやぁ長女が呼んだ方が良いって言うから…モゴモゴモゴ」洗女「私は実の娘なのに娘婿の休みの都合で葬式出るの我慢させられるの?パパは私のDNAの半分なのに、そのパパにひと目も会えないで終わらせろっていうのかい?!」母「仕方がないしょっ、ママの葬式の時に来てくれればいいしょ~」洗女「フザケんなぁーー!!!」理性がフットンでいる私の背後で旦那と猫が怒り狂う私の姿に怯えている様子が感じられました。洗女「私はパパに会いたいんだ!それに私が来なくてイイという事は、実の娘より娘婿を優先させるという事だ!そういう考えなら私はもう北海道には二度と行かないし金輪際連絡もしない!そちらからもこの電話を切ったら二度と連絡をしてくるな!!ママが言う事はそういう事を私にさせるという事だ!!それでもイイのかぁあああ!!」母「ううぅ、どうしようぅ、困ったねぇいやぁ困ったぁ;」私は本当にヒドイ事を言うし、大人げも無いと思う。でもこんなに怒ったのは、たぶん今まで溜めに溜めたモノが爆発したのだと思う。----------------------------------------------------恥ずかしながら、実家の姉2人は仲が悪い。それはもう最悪と言える状態で攻撃は主に長女から次女に時にスコップで足を突いたり、平手打ちされたり…その2人の関係が少なからず家族を不幸にして来ていた。私は帰省すると、長女と次女と母それぞれの「日頃のお互いへのウップン」を投げかけられてきた。それはまるで転校生や中途入社の新人が古参の生徒や社員から「この人は自分の味方になるかもしれない」可能性を加味され妙になれなれしくされる、アレと同様であった。皆それぞれの立場がある。皆それぞれの言い分も、それぞれの事実もある。誰も否定もしたくないし、日頃会えない申し訳なさもある。誰の味方にも敵にもならないし、無条件に受け入れるそういう役割の人が家族たちには必要なんじゃないか?それが三女として私の役目だと思っていた。姉たち2人の関係は2人で解決する問題。それくらい私たちはもう年を取り大人になっていたから。とは言っても八方美人は非常に疲れ、実家から足を遠のかせた。父は誰にも肩入れする事が無く、いつも平等かつ無関心に家族に接していた。母はその時、自分に都合が良い、自分の不安を埋めてくれる誰かに寄り添う人で「条件付きの愛情」が見え隠れする母親だった。それぞれ嫁いでも、嫁ぎ先より実家との結びつきの方が強い姉達は今どきの結婚のスタイルなのだろうが仲が悪い。ある母のその弱さは、私の言葉よりも他者の言葉を信じ私のそれまでの全てを疑われる言葉を投げかけられた。それから10年、実家と音信不通にすることにした…。実は破たんしている我が家で末っ子の私は何の発言権もなく認められないまま一人上京し、社会に大人にしてもらった。社会の常識はまったく知らなかったモノで厳しく泣く事も多かったが、それは常識が欠如していたが故だった。そして「人は意外と優しくて丁寧で親切でもある」と家にいては知る事が無かった事も経験した。「家族の思想から解放されて本当に良かった」その後押しをしてくれた父はやはり私に一番大切な物をくれたような気がする。母の弱さに憤り、姉たちの関係に疲れ家族に対して誇らしさを感じられないのはイコール自分自身に誇りを感じられないから。そしてどこか欠落した部分が自分にあるからだろう。音信不通の行動は誰一人理解されずとも意固地を貫き、尚更孤独と業に苦しめられた。だが何が自分をそうしたのか?どうして母をそこまで許せないのか?ある日見た夢が教えてくれた。「どうして、私の言う事信じてくれないの!?」そう何かに泣き叫ぶ夢を見て、ハッとして目を覚ました。母や家族と距離を取りたかったのはその悲しみからだった。私は母というアイデンティティに否定された気がして自分を呪っていたのだと思った。私にとって結婚は「家族を持てる」という喜びだった。何も知らない義父母を落胆させたくないが為、実家とは連絡を取る様になった。なぜか、母は私が音信不通になった理由は「父が悪い」としており父を傷つけていたかもしれない事に怒りを通り越し、母の身勝手さに諦めを感じた。父と2人きりの夜中に「パパは何も悪くないし、東京に行かせてくれた事は感謝している」すでに耳が聞こえなくなっていたのでチラシの裏にそう書いて誰にも見られない様に破り捨てた。自分語りになってしまったが、ワタシと己が家の恥の歴史を独り言の様に告白する事は戒めであり禊でもある。自己正当化するつもりはない、親不幸で器も小さい。だが、私はそうやって親や家族に失望し「自分より大きな存在」と思っていたモノが「本当はそうでもない」と知る通過儀礼を通し大人になってしまった。人は自信の無さや恐怖心は、家族間でも溝を生みだす。納棺師の仕事を通じ、多くの家族の関係を見て「幸せとは家庭円満で過ごす事」と強く感じるのは、なかなか会えないとしても誰かとの絆があると信じられる事は死を超越してもその後の家族の生きる力に繋がるのだと感じ取れたからだそれは宗教に関係はない。人が人らしく生きて、親は子供に根拠は無くとも自信を持てるよう育てる事。単に家族の日々の営み、それで養う事ができるのだと思う。今、自分は幸福な状態だと思えたらきっと人は自然に色んなものに目が行き感謝できるようになるのだと思う。父は生きる気力を失ってしまった。父は寂しいとか弱音は言ってくれなかった。父と私たち家族の関係の希薄さは反省でもあり、ショックでもある。人は一人では生きられないの意味は、心の結びつきの有無の事に他ならない。円満な家族を持たない私は大きな事は言えない。円満じゃないからこのような展開なのだろう。寂しいとシミジミと思う。TVで「葬儀の場では必ず誰か1人ブチ壊す人がいます」と言っていた。まさか自分がその1人になると思わなかったが私は休火山で親の死に触発され爆発した。円満な家庭を作るためのごまかしを自分に作ってはいけない妥協できないなら我慢はしなくていいと思う。小さなわだかまりは疑心暗鬼を生む家族に嫌われることを恐れず、自分の意見は言って向き合った方が良い今はそうしなければならない、と思った。-----------------------------------------------------母「じゃあ、葬儀屋さんも『告別式は別の日にしても良い』みたいな事言ってくれていたから聞いてみるかい?」母はまた私が良くも悪くも有言実行なので再び音信不通になることを恐れたのだろう。再び母から連絡が来て母「通夜は今晩やるけど、告別式は11日にすることになった」と段取りを整えた。今回の葬儀で母自身の自己判断で行動したのは死亡診断書と告別式の変更だけだ。うちでも飛行機は10日まで飛ばない状況が分かり、昼の便をやっと抑えることができた。母「これでイイしょ?日付も変えたんだからこっちきたら長女に謝りなさいよっ!」洗女「はあああぁ?なんでこっちが謝るんだー!!謝るのはソッチだろーが!!」背後で日頃、長女にやられている次女のゲラゲラ笑う声が聞こえた。母「ああぁ、なんでこんなキカナイ子になっちゃったんだろう…」母のため息が聞こえたが、私は長女にもし何かされても戦う気は失せていなく『メリケンサックと安全靴用意してやろうかっ』くらいに思っていた。2月9日日曜日昨夜の通夜の様子は誰からも伝えられないが、自宅で行ったのだろう。納棺は家族で入れたそうだから、明日の10日に納棺されたままでもパパはメイクする事ができる。そこへ長女からメールが来た。「友人から聞いたのだが銀行口座を閉じるので法定相続人の印鑑と印鑑証明、住民票を持ってきて下さい」・・・・。父が死んでまだ2日である。財産なんか何もなく、父名義の家があるだけだ。10日(月)出発予定の朝一に寝雪が残るのに市役所に寄れる余裕などない。「なんで早々に片づけたがるんだろう…」長女とはインターバルを置いていたのに、またメラメラと怒りの残り火が燃えあがってきた。続く
2014年03月21日
「え?アンタ来るの?」そのひと言でブチ切れました。洗女「アンタ来るのってナニ言ってるの!?娘だから行くに決まってんじゃん!#」長女「いや、来るとかハッキリ言ってなかったし…」洗女「そんなの行くに決まってるじゃん!日程変えて!」長女「それは無理だわ、もうみんな仕事休み取っちゃって変えられないし」洗女「ハァ~#ナニ言ってるの!?普通葬式の日程は一番遠方に住んでいる人が来れる日に合わせるんだよ!!」長女「それに火葬場の日程も決まっちゃったし」洗女「とにかく頑張って行くから葬儀9、10日に日延べして!」姉の言う事は葬儀をする段取りの上で「こちらの都合なんだからそれは甘んじて受け入れろ」という意味合いでした。なぜ実の娘なのに自分が父親の葬儀に出られないのか?葬儀に出られなくても仕方がないと認知されているのか?「なぜこんな扱いを受けるんだ!」と旦那に泣きながら訴えたのでした。「家族が忌引きの休みを提出したからもう変えられない」が葬儀の日程を変えられない理由だそうです。が、まだ父が亡くなった当日の話です。その日のうちに休み変更を受けてくれない会社があるならばそれはブラック以外の何物でもないでしょうし同じ会社の同僚同士、いつ自分が葬家の立場になるか分かりません。「お互い様」の精神で助けあえない状況にいるならば日頃の自分の社内での人間関係の構築ができていないからじゃないの?とまで思いました。人間というのはトラブルが生じるとあれやこれやとネガティブな妄想が生まれる悲しき生き物で今の私がそれでした。------------------------------------------------------------北海道は札幌雪まつり開催中でチケットは最も取りにくい時期そして気になる東京の大雪の予報また我が家には現在猫4匹おります。旅行をほぼしないのもこの子たちがいる事が一つにあります。今回はいつ帰ってこれるかわかりませんので初めてペットシッターさんに依頼してみました。旦那は義父母に連絡してくれて義父はアワアワと「俺たちはどうしたらいい?」と行く気だったようですが家族だけで小さく葬儀すると断りました。義実家に行く度「お父さんは元気か?」と聞いてきて「父の状態はあまり良くない」と本当の事を言っても「それでも元気なんでしょ?!」と「大丈夫、元気です」というまで会話を終えてくれないのです。父は孫に恵まれたけど自分の殻に閉じこもり、反して義父は1人の孫も抱けないけど精神的に元気です。同年代の人が具合悪いとか死んだとかあまり聞きたくないのかもしれませんが「自分の番」も考え義父は自分の墓を○○○万で建ててしまいました。義兄もうちも子供がいないので将来無縁墓になるのはほぼ確定でどうしたものかと困ってしまいます…。生前の葬儀相談とか樹木葬の墓地を探したり「墓友」とコミュニティーを持ったりとたまにTVで見ます。自分の逝き場所を作りたいという思いが湧き上がり、そういう活動できる人は「私さびしがり屋だから」と堂々と言える気力のある元気な人なのだと改めて思いました。父もそんな人であって欲しかったと思いました。義父は「ウチからは5万、にーちゃん(義兄)からは3万出しといて」と旦那に伝え香典を立て替える事に。【教えて○○】みたいなやつでは「嫁に行った娘の香典は10万」とありましたのでそれが世間の相場らしく強ち義父の香典の額も間違いじゃないのでしょう。義父は旦那に「バッチリ決めてコイ!!」と鼻息荒く気合を入れてくれました。「パパも具合悪いし、今年の正月は北海道に行った方が良いかも…」と話していたのですが、義父は年末になると「いつ来るンダ?」とワクワクしながらお誘いの電話をくれていました。父の状況を理解しようとしてくれない義父を少々恨めしく思いましたし結果あまり帰省できすに死んだ父に申し訳なく思います。それでも私が嫁いだ「ダンナ家」の義父がちゃんと香典を持たせてくれたのは私を「うちの二男の嫁としてちゃんとしてあげています」という義父の思いなのだと受け止め感謝しています。全てが思い通りにいかなくても嫁に行くという事はそういう事なのかもしれないと思いました。花向け?に出してくれる義父からの香典は「ダンナ家」の意地と後押しと思い勇気を得たのでした。「金を出すんだから口出す権利はあるよな…。」と------------------------------------------------------------激安とされている航空チケットは出発に近い日程だとオークション状態でどんどん値段が上がっていき、購入するのは困難を極め激安航空機の意味が全くない価格で購入。それでも2月8日の16時~のチケットが取れたことを伝えると長女「やっぱ日延べは無理」との返答…そこから私は姉と何を話したのか血圧が上がり過ぎてあまり覚えていません。ただ怒鳴りあった事だけおぼろげに覚えてはいますが…。ですが、葬儀社の人がまだ家にいて火葬場の時間の都合を聞くと葬儀社「この地域の火葬場は市営の火葬場で火葬料は無料です。 『到着順での火葬』ですからいつ行っても良いんです。 予約制ではなく、釜も30機あるので込み合うという事もないですし」私の住む関東は市営でも火葬料は有料です。それでも民営より安いので市営火葬場の市民の葬家は、繁忙期には1週間~10日待つなんて珍しい事でもありません。関東の人は「火葬場の空きがあるうちに予約しないと葬儀がいつになるかわからない」そこには友引きの火葬場の休みも入る訳ですから火葬場の予約優先で葬儀の日程を組むのが一般的です。洗女「ならば家族に焦って葬式しなくてもいい事説明して下さい」そして長女からは怒った口調で「わかった、葬儀は9,10日にする」と電話を切ったのでした。------------------------------------------------------------7日の夜には「明日の関東の天気は雪の可能性」と警戒を促すニュースが流れていました。その後、母が作ってくれた喪服を一応持って行くかどうか迷いながら準備をしつつ(母も誰も着ないから持って来なくてもイイと言われていた)次女に電話をしたところ、あれ?なんだか微妙に【話がかみ合わない】「葬式8,9日になったのわかってる?」と次女洗女「えっ?だって9,10にするって長女が…」次女「違うんだって、9,10日にしようとしたら坊さんの都合で 8,9日か11,12日じゃないと来れないって言うから やっぱ8,9日になったんだよ!」洗女「聞いてない!!。゜(゜▽曲▽。゜)゜。だまされたーー!!」 時刻は7日の23時、もう葬儀の日程も今さら変えられない。日取りの事は教えてもらえないまま、私は8日通夜が終わった後ノコノコと家に参上する事になっていた。それがまた悔しくて泣きながら次女に怒りを訴え「通夜中に行って思いっきりイヤミぶちかましてやる!」と虎視眈々と長女に対して湧き上がる怨みと怒りから「何をしてやろうか~~m(- -m)~呪~」とドロドロしたモノを抑えることができないまま2月8日の出発の日を迎えたのでした。続く
2014年03月13日
そもそも父は突然死に過ぎましたし、死んだ日取りがすごく悪かったです。2月8日東京に45年ぶりの大雪が降り、首都圏は大パニックになりました。その週から天気予報で大雪の可能性をうたっていましたが天気予報がこれだけイヤな大当たりするのも困ったものです。2月7日前日から熱を出していた私は、早朝次女から「パパが死んだよ」の一報で起こされました。ですが、実家の取り決め事は長女が何でも取り仕切るので「また連絡する」とのやり取りで再び寝こみました。(3人とも家庭を持ち、次女は親と3F建て2世帯住宅で同居)しばらくすると長女から「葬儀屋さん呼んだ方が良いの?」との連絡もちろん呼んだ方が良いのですがもうずいぶん昔から母が、3人娘で墓守がいない事もあり両親の祖父母と自分たち6人が入れる納骨堂を購入していましてその寺の【檀家】になっていました。家で不幸があったなら檀家の寺にまず一報するのが通常です。洗女「まず寺に連絡して坊さんの顔立てないとダメだわ。 先に葬儀社に連絡すると別の坊さん紹介スルって言いだすし 紹介手数料も取られる。 葬儀屋は後でだよ。 それに葬儀社は別に1社ですぐ決めなくても 相見(あいみつ)取って1番いいと思ったところで決めて良いよ。 あと、パパは1Fに下ろしてね! 2Fは暖かいからパパ腐っちゃうよ(笑)」 しっかりしている長女なのですがこと葬儀に関しては彼女を買い被りすぎていたのかもしれません。母親はというと長女「かかりつけ医に死亡診断書を出されて、止めたのにサッサと市役所行っちゃったよ」との事。死亡診断書(死亡届)をもらったら市役所に申請すると火葬許可証が貰えます。それを火葬場で提出して初めて火葬ができ火葬終了後に埋葬許可証が貰えます。そんなの今どき葬儀社が代理でやる仕事ですがチャカチャカ早く片づけちゃおう!と動きたがるのは母と長女はそっくりです。「母テンパってるな…。」一端電話を切りました。これが後で最悪の事態になります。------------------------------------------------------------余談が長いのですが…葬儀社とお坊さんは大体結託していてもちろん形式上は葬儀社がお坊さんを祭り立て上げ丁寧に対応しますが葬家に檀家など決まった寺が無い場合葬儀社にいる各宗派の言わば【登録派遣坊主】が紹介という形で派遣されます。派遣されたお坊さんは、葬家からのお布施からバックマージンを葬儀社に渡します。最近は「お経だけ読んでくれるなら誰でも良い」というくらい葬儀の宗旨に対してドライな人も多いので本当に祭壇の大きさに関係なく【1日だけの葬儀】1DAY葬儀もあったりお坊さん自体も葬儀社に「葬式のご用命ありませんか~」とモロに言わなくても、菓子折り持って営業に来ます。マンションなどを事務所にし檀家を持たない【マンション坊主】の方も結構いるので「呼ばれてラッキー」というお坊さんも割といます。そもそもこんな宗教離れは各家族とかの社会構造も有りますが社会に対してその役目を果たしていないから宗教はなれしているのだと思います。私は宗教は根本的に「悩める人の安心学」で人生の指針や生きるヒントをくれる与えるものだと思います。が、悩める人はこの世にごまんといるのに宗教との結びつきが弱いのは宗教家がその役割を果たしていない人々が相談できると知らない敷居が高い、洗脳への恐怖、献金の負担、政治への関与などが抵抗感となり仏教=葬式、神道=初詣、キリスト教=クリスマスなどイベント重視となるのだと思います。日本人の信仰の薄さ、信仰に固執しない自由さは平素な日常を送れる人にも、他国との摩擦の還元にもなりそれは良い事でもありますが強い意志力を保つ拠り所が存在しないのも事実です。また、たまに強い吸引力のある宗教があるとしたらカルトだったりしますし;某出版社でTVの人生相談に出演されるお坊さんと医学部教授の2人が悩みとは何か?どのように解決したらいいのか?を対談する企画の本があったのですがあまりにもレベルが違いすぎてお坊さんが何も良い事が言えず、答えられず辞退された…。という極秘エピソードの絶対タイトルの言えない名著も有ります。毎年3月は内閣府が決めた自殺対策強化月間です。ブッタも「苦行じゃ悟れません」「人は救えません」って言っています。宗教法人が営利事業で無いのなら国の代わりに人々に生きる希望を与えるべく大々的に悩める人を救う活動した方が良いと思います。(もちろんされている宗教従事者の方もいるでしょうがあまりにも目立たない)修行の卒業試験で富士の樹海とか東尋坊とかに悩める人を救いに行って改心させられたら晴れて免許皆伝にするとか。坊さんになりたいとしてもその適性や能力があるか?宗教従事者こそ社会貢献活動をして初めて国から認められた公益性のある宗教法人と言え、それぐらいして宗教の必要性が社会一般に認められやっと身近になると思うのです…が私は言いすぎでしょうか?------------------------------------------------------------その後、長女に父の写メを送ってもらい顔を確認して・父を1Fに下ろしたか?・ドライアイスや空いている口をタオルなどの当てモノで閉じるやり方・着せ替え用の服を用意する事・葬儀社には細かい記載のある見積書を出してもらう事・必要じゃないオプションは断れる事と連絡しましたが音沙汰なし。私がなぜ1Fに下ろせとうるさいか?と言うと・・・そもそも、母は中途半端に信心深く随分昔から永代供養の納骨堂を買い成人前に娘3人にそれぞれ50万近くする喪服一式を用意し嫁に持たせ自分たちの葬式に対する構想を持っていました。「誰にも知らせないで葬式したい」と。建てなおす前の家も現在も田舎だからでしょう。皆で集まり葬式もできる多目的スペースの部屋を作っていました。以前の家も「この障子を外したら家で葬式出来る様にこうなんだよ」と幼い時に聞いておりましたし、具合の悪い父を見て「葬式は家で誰にも言わないで家族葬でいいね」と。また、北海道の家は暖房をつけていればとにかく温かい!ので幾らガリガリの父でも状態が分からない私には「腐敗進行の抑制」や「暖気によるドライアイスの過度な消耗」を極力抑えたいですしそして狭い回り階段で2Fで納棺されたままだと棺を立てて下ろさなければならなくなります。そんな状態じゃ父は棺の中で体育座りになってしまいます。熱でガンガンする頭で連絡を待っていたらやっと長女から電話長女「今、葬儀屋さん来てて祭壇作ってるわ」洗女「えっ?何社か見積もり出さないの?」長女「お坊さんの紹介で来た葬儀屋さんだからこの葬儀屋さんでイイって」洗女「…。葬式1日だけ?」長女「1日だけだとお坊さんダメだっていうから通夜と告別式2日やるって」洗女「1Fに下ろしたんでしょ?」長女「下ろしてないよ、もう葬儀屋さん祭壇作っちゃってるし」洗女「!?なんで!言ったじゃん、下ろさないとダメだって!」長女「そんな事言ったってそれで良いって言ってるし」洗女「えええぇぇ?????!!!!」長女「それで日程は2月8日9日に決ったよ」洗女「!!チョチョ待って!私まだ飛行機チケット取ってないって! それに明日こっち大雪で飛行機飛ぶか分かんないんだよ!!」長女「え?アンタ来るの?」洗女「。゜(゜◎Д◎#゜)゜。!!!!!」ここから怒涛の長女VS洗女の大バトルが勃発してしまいました。人生初、アラフォーのこの歳になるまで姉とこんな大ゲンカした事ありません。また、あまりにもメチャクチャすぎてこんなヒッドイ葬式、赤い霊柩車でも見た事ありません。今考えるとしょうもないエピソードがあり過ぎて救いようがないのですが家族葬とか考えている人は参考になると思います。続く
2014年03月04日
前日の夜から熱で寝込んでいた私は2月7日の朝、次女の電話で「パパが死んだよ」と起こされました。父は5,6年ほぼ寝たきりになったのは心の病です。------------------------------------------------------------父が閉じこもる様になったのは生まれ持った寂しい心と大切な人や大切なものを次々に失くした喪失感からです。父は長男で弟1人と姉・妹の6人兄弟。父の親(祖父母)の教育方針がなぜか「男は中卒で自活しろ、女は学をつけろ」と、叔母たちは進学させても父と叔父だけ中卒で家出し米屋の丁稚奉公人に。「これからは学歴が無ければ苦労するに決まってる!!」と祖父と大ゲンカした母は自営美容師の金策力で父を夜間高校に行かせ、父は高校で副会長していたそうです。母の予測通り学歴で左右される時代となり叔母たちの連れ合いは地方公務員・JR(旧国鉄)・国家公務員・大学教授父と叔父は一介のサラリーマンと自動車整備工生活レベルに差がある事は事実で、父と祖父母の関係は円満ではなく同じ境遇の叔父とだけ心を通わせられていました。かわりに父が親の様に慕うのは趣味で「日曜農業」していた畑の持ち主のUさんのオバーさんでした。Uさんは連れ合いを亡くし、息子さん2人も独立し単身農業毎週1時間かけて畑に通う父の方が息子さん達より会う頻度も多くうちが家を新築した時はUさんを1泊で招待し「息子にも家に招かれた事がない」と喜んでくれたそうです。そんなUさんが突然、事故死しました。冬に屋根の雪下ろしをしようと、体にロープを巻いていたのですが屋根から落ちてしまいました。ロープの長さは中途半端で屋根下に落ちる事も出来ないロープを這い上がる力など老人にはない屋根からぶら下がったまま凍死したのです。事故は北海道でニュースとなり、偶然TVでそれを見た父は絶叫したそうです。次いで叔父もガンで自分より先に亡くなってしまいました。2人の葬儀の時、いつも寡黙な父が立っていられないほど泣き崩れたそうです。その後借りた町内の畑も分譲販売で廃園聴力も失いどんな高い補聴器も不具合ばかり北海道内8時間かかるところを日帰り出張できた自慢の運転も「耳が聞こえないから危ない」と免許も返上父自身のアイデンティティはほぼ全て失って行きました。母もいて、2世帯住宅で次女家族の孫が4人、犬や猫も沢山いて豊かでなくとも安定し、本来恵まれていたはずです。でも父が人生に心を閉ざしたのはそこからです。------------------------------------------------------------和田秀樹著『痛快!心理学』より健康な心とは…「元気な心」を持っている人問題なのは「感情」の部分です。「感情」とは気力や情動を表します。親や配偶者の死への直面子供の独立、定年退職などで「喪失体験」が次々と起これば気持ちが落ち込みやすくなるもの無理ではありません。それに加え、老化で前頭葉が縮むと意欲・気力が衰え無感動になり神経伝達物質の減少が抑うつ的になり自発性が失われます。「気力」をなくした人はその意欲を持てません。歳を取っても「心の元気」を維持するためには自分の好きな事、やりたい事を遠慮なく行う事が大切です。「喪失体験」が増えるとその人のアイデンティティの一部となっていた物が失われると、そのショックはうつ病を招きかねません。------------------------------------------------------------父は不必要にプライドの高い人でそれが故に頑張れる人でもありました。そして「悪い人」じゃないけど「良い人」だったワケじゃありません。仕事で北海道内を車で単独出張・営業してくるのですが「残った在庫、田舎モンの親父にだまくらかして売ってきた」と嬉々と話す父を不快に思ったのも事実です。私は子供のころ、祖父に自分のオモチャを取り上げられ年下の従姉妹に持って行かれる事が何度かあったり母から言われ、祖父母にお菓子を「差し入れだよ~」と知ったばかりの大人びた言葉を使っただけで祖母に「差し入れとは牢屋にいる人間に言う言葉だ!」マジギレされ祖母と母は大バトルしていた記憶があります。祖父母が子供の私に辛く当たっていた部分は明らかに自己都合・理解だけの行動と発言でした。私が感じた父への不快感はどこか祖父母と似ていて不誠実なのにその手段を取るのは、人を信頼できないし、損したくない、負けたくないなど何か欠乏したが故の倫理や認識の欠如だったのではないか?そんな寂しさが心に巣食うのは、祖父母たちも愛情や絆を信じたり感じられなかったからではないか?今にして気づき、寂しく思うのです。その後の父は、唯一の趣味の読書もやめ酒か眠剤を飲んで四六時中寝ているだけの人になりました。ボケることはなく、内臓も一切悪くない。でも耳は聞こえないので、家族とは「筆談ホステス」ならぬ「筆談オジーサン」になり、母は裏の白いチラシを集めていました。耳が聞こえない事は孤独を深めます。父の耳は先天的難聴者の方と変わらない程の障害認定を受けました。みんなといてもつまらなくなると「寝る」とその場を離れる姿に私は申し訳なさを感じていました。父が初めて補聴器をつけている姿に『ズキン』と小さくショックを受け運転出来なくなっていたり、筆談や鈴の付いた靴も見る度に私の知る父の威厳がガクン失われていくのがとても悲しかったです。「カウンセラーに一度連れて行けば?」父の症状や仕事で遺族の心のケアを学びたかった私は民間のカウンセリングスクールに通っていた事もありそうアドバイスしたのですが、父は硬くなに拒否したそうです。どこかに出かける事に誘っても、黙って首を横に振るだけ家族は父を前向きにする事はどうしてもできませんでした。そのうち、酒のせいでやけに転ぶと思ったら実は脳出血していて緊急手術幸い命に別条も障害も残らず手術した病院では長期入院させられないので、断酒目的も兼ね精神病院に入院。看護師さんに話しかけられても聞こえず返事できないので病院内でどこにいてもわかるように父のスリッパには鈴がつけられチリンチリン鳴らしながら見舞いの私をニコニコ迎える父に胸が締め付けられました。その後の父は完全自宅療養です。結果、少しずつ命が枯れていきました。手術後一瞬でた痴ほうも全く頭は正常に戻りお稲荷さんや柿とかバナナなど少々の手乗りサルの様な生活どんどん痩せて行きガンジーと呼ばれるようになり自力で歩けなくオムツになりました。父は現状維持できたとしても元気になる見込みはありません。「延命はしない」と決めた母は無理に胃ろうや点滴する事もなく病院からの栄養食1缶だけ自由に食べれる様、枕元に置いていました。今年の年明けにベットから落ち激痛を訴え検査してもどこも骨折もしていません。ですが、1カ月後に肺炎で亡くなりました。酒を飲めば、眠剤で眠れば「何もないと感じる自分」と向き合わず眠りにつける何も考えたくない、感じたくない…無になりたいそう思っていたのではないかと思います。------------------------------------------------------------最近、心理学の本でアドラーが注目されています。アドラーは【前向きな心理学】でトラウマの経験があっても人生には立ち上がろう、行動しようと思える前向きさがあれば過去の経験は関係ないと言います。否定はしないのですが万能ではないなと思うのは「心の体力がまだある人には有効」な心理学だと思うからです。頑固さの下の誰よりも寂しさを抱えた父の生命力は「辛いなんて感じていません」という無表情を貫くプライドが支えていたのだと思います。幼い頃から我慢が多かった父心の内を明かす事こそ生き恥であり黙って耐えて飲み込む事でも、納得しきれない失ったものへの悲しみを見つめつづけない為に眠り続ける。その理由を誰にも言えないし、自分でもそうとしかできない。不器用で素直じゃないけど父は自分なりのプライドを貫いたのだと思います。------------------------------------------------------------大雪と札幌雪まつりの影響で飛行機のチケットが全く取れないのに8,9日で葬儀の日程を決めてしまった長女と大ゲンカしました。結果、帰れないので通夜には出れず母に告別式を12日に延期させました。やっと10日に帰れる前日、父の写真を次女に撮って送ってもらい傲慢だと思われても「我をつき通して本当に良かった」と反省していません。なぜなら、父はとても穏やかな顔をしていて見た事のない父にちゃんと会う事ができたからこんな父に会えなかったら一生後悔していたからです寂しさも苦しさも苦悩も感じさせない表情は「父は楽になれたんだ」という大きな安心感をくれました。親孝行らしい事は何もしなかったけど後悔していません。父の力の抜けた顔を見て救われたのと同様に究極に親が子供に望む事は「子供がちゃんと笑えて生きている」それだけだと思うのです。父が私に望むのは「見ていて安心できる事」だと思うからです。子供が人生にくじけず生きていく事。それは時に難しいけど唯一続けていく親孝行で供養だと思っています。「パパ、やっと来たよ~お疲れ様だったねぇ」もう無理しなくて良くなった父の亡骸にそう声をかけました。続く
2014年03月01日
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