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マネジメントを発明した人物といわれるピ-ター・ドラッカーの待望の「私の履歴書」が、明日の朝刊から始まる。95歳のドラッカーの著作の大部分は60歳を過ぎてからというから健康で長寿を保ち、テーマをずっと追い続けることがいかに素晴らしいことかがわかる。日本では熱狂的なファンが多く、履歴書の読み手は多いだろう。昨年私が書いた「図で読み解く!ドラッカー理論」は、ドラッカーのエッセンスを抉り取ったものだが、私にとっては随分と勉強になった。「ドラッカーを超える会」というのがある。業績では無理だからせめて元気でドラッカーの年まで元気で頑張ろうという趣旨の会である。会長の北矢行夫先生に先日会ったが、もうすぐ60歳とのこと。会長も今からですよと激励しておいたが、数年前に体調を崩したという。ともあれ、明日からの連載が楽しみだ。
2005/01/31
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○アナログ時代・日記帳 1冊の日記帳に出来事や感想、意見、考えたことなどを書いていく。3年日記というのもあった。毎年、日記の継続を決意するが、1年間続いたことはない。紙の日記帳は、デジタル時代に突入するまでずっと続いた。長い時間なので随分と書いたつもりだったが、今は残っていない。○デジタル時代・パワーポイント日記 パワーポイントを日記ソフトとして活用していた時代があった。PPにはプレゼンの説明用のメモを書いておく欄がある。プレゼンのパートにはその日の出来事を日誌として書き、メモ欄には感想などを書いて日記にするという使い分けをした。日誌と日記の区分ができてよかった。これは日航時代の最後の数年間と宮城大学に移ってから数年続いた。転職の前後がこの方式だったから、比較的真面目に当時の心境や他人の人生の観察などが残っているから、私にとっては大切な日記である。・ホームページ日記 ホームページを立ち上げた6年ほど前から図解Webの「久恒サロン」を使って、毎日の出来事やスケジュールを日誌的に活用してきた。書き込みに訪問者のコメントがつくことも多く、楽しい雰囲気を演出できた。・メルマガ日記 5年ほど前から「久恒啓一のビジネスマン教授日記」というメルマガをマグマグの仕組みを使って発行している。 毎週1回の発行だったから1年で50回以上。読者も講演や研修などでの受講生を中心に地道に集めてきて、今では9000にまで配信数が増えてきた。知り合いとのコミュニケーションや情報の発信面など、私にとってはすでに大きな武器となってきた。本の売れ行きも、メルマガの読者の増加とともに安定してきたし、販売の初速があがってきたように感じている。読者と直に繋がったという感覚だ。・ブログ日記 05年度、仙台にプロ野球チーム「東北楽天イーグルズ」が来ることになって、その記念に楽天のブログ日記を試すことにした。思いがけず使い勝手がよく、3ヶ月以上毎日書き込むという生まれてはじめての快挙となった。最近このブログ日記に「秘密日記」という「クローズ」のコーナーに時間軸で日誌をつけたり、感想を書き連ねたりできることに気がついた。オープン部分はトッピクス的に一つの話題やテーマで日記として使い、クローズ部分は日誌として使うという住み分けが可能だ。このブログ日記はそとに開かれているという特徴がある。今まで縁のなかった人ともリンクしあうなど、楽しい仕組みとなっている。-------------------------------------------------現在の日記・日誌・ブログ日誌「久恒啓一のデジタル日誌」 オープン日誌:トピックス中心 クローズ日誌:イベント(出来事・スケジュール)中心・メルマガ日記「久恒啓一のビジネスマン教授日記」 毎週日曜日の夜にブログ日誌を編集し、1週間の日記として配信するというスタイルが確立しつつある。毎日書き溜めているので、かなりの内容も短い時間で編集ができるようになった。・HPのサロン 以上のブログ日記の出現で、訪問者とのコミュニケーションをはかるサロンとして位置づけが明確になり、全体の体系化が進んだ。インターネット時代は、日記を毎日つけるという習慣がいとも簡単にできて、それがオープンになって他の人と繋がるという誰もが「開かれた日記」を持つという不思議な時代だ。また、「編集」という技術を用いて、多数の読者にその内容を簡単に発信できるというまことに便利な時代でもある。日記をつけることは、日々の進歩の源である。私自身も日記をつけながら日々進歩を重ねたい。
2005/01/30
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・万歩計。正しくは歩数計というとのことだ。一つは従来から愛用しているCITIZENのデジタル歩数計。これは歩数が示されるだけで単純で見やすいことが特徴。もう一つはOMRONのWalking styleという商品でポケットでもかばんでもフリー装着。一週間のメモリーがついているのが購入動機だ。・出張用キャリーBAG。無印良品でヒットしていると聞いて先週の出張用に40リッターの大きいほうを買ったが、量が入りすぎたので、小さい方を購入。一泊二日の出張にはこっちの方が使いやすいだろう。コンピュータと付属物を整理する工夫や洋服の収納も考えてある。軽くて強く、ひっぱる時の音が静か。・お風呂用の防水テレビ。前から考えていたのだが、見つけて衝動買い。健康と情報の両方にいいと思うが、どうなるだろうか。狙っていたiPODは売り切れだった。取材旅行用の一眼レフのデジタルカメラはパンフレットをまず揃えた。・雑誌。文藝春秋(戦後60周年総力特集)。創(出版界深刻不況の行方・出版社の最新内部事情)朝読んでいた「遼」という司馬遼太郎記念館会誌で「ジャーナリストとは、問題の核心をいっぺんにつかみ出して、それをティピカルに表現できる人。それを提示する時機を考えている人」という故人の言葉に感銘を受けた。昼食は横野さんとその漫画家志望のお嬢さんと摂る。その後、富田さんとゴルフの練習。
2005/01/29
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午前中は全国市町村職員研修所(市町村アカデミー)。「企画事務」という研修課程のコマだ。北海道から沖縄までの企画担当者が対象で、平均年齢は35歳。44名。この研修所での講義は、平成11年以来だそうで、久しぶり。企画担当といっても、随分と色々な名前があるものだ。企画課・総合政策部政策審議室・教育委員会・博物館・秘書政策推進室・総務課・情報政策課・政策推進課・企画合併推進課・研究課・福祉援護課・秘書企画課・総務課・企画財政課・企画情報課・産業振興課、、、、、。以下、肩書き。担当主査・主任・主任主事・吏員・担当係長・係長・主事・主幹・主査、、、、。今住んでいる宮城県と、生まれ育った大分県の人はいなかった。
2005/01/28
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夜は東京で、知的生産の技術研究会の講演。テーマは「合意学入門」。今回の参加者の特徴は大手企業のビジネスマンが多いことだ。日立製作所、東京三菱銀行、日本生命、シャープ、旭化成、ソニー、雪印乳業、セブンイレブン、新日鉄ソルーション、リクルート、財団法人国際協力機構など、、、、、。2次会も16人ほどが残り、ビールで懇親。
2005/01/27
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朝8時から夜8時までめまぐるしい一日。午前中・8時出勤。学内で仕事・10時、弁理士事務所を訪問・11時半、学内で修士論文審査会午後・14時半、学内で評議会・16時半、学内委員会・19時、書類整理
2005/01/26
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30代を中心に読者数の多いBIG TOMORROWに「図解・お悩み解決塾」という連載を持っている。2月末にでる号で1年間の連載終了となるが、今日はその取材で編集者とライターが大学に来訪。1時間ほどの取材を受けた。この連載では、「悩み」の「問題化」をこの1年間やってきたことになる。悩みは「心」、問題解決は「頭」。仕事の本質は問題の解決である。心を煩わせるより頭を使って問題を解決せよ。最後の号はこういう論旨でうまくまとまった。振り返ってみれば楽しい時間をすごした。この連載を本にする話も進みそうだ。
2005/01/25
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面鏡更新で宮城県運転免許センターへ。ほとんど運転はしていないことから、結果的に優良運転者ということになった。30分講習を受けて時代の流れを感じた。5年間の免許をいただく。道路交通法の改正(昭和14年度)は以下のとおり。まず優良運転者は講習は5年に1回で30分でいい。一般運転者(1回の違反)は60分。違反運転者は2時間。優良運転者は住所地以外でも更新が可能。運転者の高齢化が進んでいる。高齢運転者は70歳から。(今までは75歳)更新時に3時間の講習が必要。この高講習は高齢の自覚のためだ。もみじマークをつける。80歳になったら本人の意思で返納して欲しいが。障害者マーク(4つ葉)。酒酔い運転は3年以下50万円の罰金。酒気帯び運転は1年以下30万円の罰金。携帯は3ヶ月以下5万円の罰金。免許更新で免許更新を終えて、大学に戻って仕事。M出版社の編集者2人と大型企画の相談など。夕食はロイヤルパークホテルで食事。
2005/01/24
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日曜日の午後は、大学で仕事でした。残務処理と新しい仕事の仕込みと準備。研究室での日曜日の静寂な時間は何ごとにも変えがたい豊かな時間だ。夜は、明日の出版企画のための準備。
2005/01/23
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先日、元三重県知事の早稲田大学教授の北川さんが見えて、地方の首長選挙にマニフェストを入れる運動をやりたいという話があった。今日は、その延長線上に旧知の早稲田大学教授の上山さんやマニフェスト研究所の林事務局長が見えて、仙台メトロポリタンホテルで10数人の朝食会。「行政評価の導入は行政にサネンスを導入しようとしたものだが、このマニフェスト運動は政治家の評価にサイエンスを入れるもの。ローカル・マニフェストには2つの軸がある。有権者連合としてのネットワークと現役の首長連合だ。まともな候補者が選挙に出れるように変えること、選挙の戦い方を変えること、地方から変えること、この3つが目的。そして最終的に投票率をあげて政治を変えること。ローカル・マニフェスト・ネットワークは、候補者のマニフェスト作成支援、公開討論会の開催、マニフェストの評価・検証が任務。現在、東北は空白地域であり、早急に立ち上げたい。」今回の会合の出席者は地元では、大学教授、市議会議員、新聞記者、経営コンサルタント、そして野田一夫先生など。首長連盟への参加者は、宮城県では浅野知事と丸森町の渡辺政巳町長(48歳。「丸森に明るさを、私にお嫁さんを!」という公約で現役を破った)の2人のみ。岩手県は5人の首長が参加を表明しているそうだ。宮城県では、県知事選、仙台市長選の大きな2つの選挙が控えており、この中にこの運動を活かすということになるのだろう。
2005/01/22
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1年間かけて毎週発行される司馬遼太郎の世界に関心があり、創刊号から注文した。創刊号のテーマは「龍馬、脱藩のみち」。リレー寄稿「沢木耕太郎が歩く百三十キロ」志士たちを駆りたてたもの(松岡司)黒鉄ヒロシの名場面・龍馬脱藩エッセイ解説 陳瞬臣・篠田正浩・松本健一1971年から25年にわたって「週刊朝日」誌上に綴った「街道をゆく」全43冊を、日本とアジアを中心のビジュアルな50冊に編集。司馬遼太郎の旅と思索のハイライト部分を再録しながら、専門家による解説や、作家による新たな旅などを、多くの写真や図版とともに掲載するビッグプロジェクト。日本最高峰の作家と同時代に生きて、その著作を読む機会を与えられたことに感謝したいと思ったことがある。この1年間、毎週新聞と一緒に自自宅に届くこの冊子を読み・見るという日本再発見の日々となるに違いない。---------------------------------------------------読書中・東京坊ちゃん(林望)・百年の誤読(岡野宏文・豊崎由美)・父の肖像(辻井喬)
2005/01/21
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ある出版社の編集者二人と夜、食事をした。いくつかの既定の企画の進捗状況の確認以外に、対談本など私にとっては未知の領域の企画も含めて企画案がいくつも浮上した。飲食をともにしながらお互いの状況や意見を摺り合わせることでいい方向がでて愉快な時間を過ごした。それは、また忙しくなることでもあるのだが、、、。
2005/01/20
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午前中は、日常業務を片付ける。忙しくて最近は昼食時間も仕事になってしまっている。午後は、大学院のビジネスコミュニケーション論の最後の講義、それから全学の重要委員会二つが連続して続き、今終わったところ。ヤレヤレ、、、、、。夜19時半から学部教員の新年会を「三太郎」にて開催。ほとんどの教員が参加しなごやかな雰囲気の中で酒宴が始まった。右隣はたまたま私の後任の大学院研究科長が決まった山田先生だったので、引継ぎ的にいろいろな話がでた。私は15年度・16年度の2年間の任期満了で晴れて自由の身に。その後、新幹線で東京へ。
2005/01/19
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理事長をしているNPO法人キャリア開発研究機構の例会の講師に恩師である野田一夫先生(宮城大学初代学長)をお招きした。抱腹絶倒、味のある素晴らしいお話だった。終了後、仲間の理事たちと一緒に食事会を催したが、談論風発、豊か時間となって、みんなやる気になった。以下概要-------------------------------------------------------・CARRIERは運ぶ人。運送業者、感染症保菌者、伝書鳩・CAREER(カーリアと発音すべき)は、経歴が実質的価値と なるような職業、年季を経なければ一人前になれないよう な仕事・人間がその能力を本当に発揮できるのは、出自や学歴と関 係なく、カーリアと呼ぶに足る職業的知識や経験の蓄積を 通してだけである。・趣味こそは個人を社会と結びつける貴重な補足的媒体であ り、ロクな趣味のない人間はまず例外なく魅力のない人間 だと断言できる・カーリア(本業)と趣味(遊び)とは極めて矛盾した関係 にある・本業と趣味との矛盾した関係から人間が解放されるには年 をとる必要がある。「本業を立派に果たし終えている=カ ーリアを完成させている」ことが第一前提。外からの力で はなく自分の意志で本業から身を退くことが第二前提だ。・そこに「人間は引き時が難しい」という至言の真意があ る。・周囲とくに関係のあった外部とか後輩から惜しまれつつも く身を退いた人の中で、その後の人生で哀れをとどめた例 を私は知らない。・対照的に政界や業界や会社のドンと呼ばれていながら晩節 を汚した面々だ。・「退き時」を見失ったために、本業と趣味を両立させて生 きる「理想的な第二の人生」を享受する機会を逸したとい う意味で、哀れな輩というべきだろう。--------------・坊主、医者、教授は金を払う側がお礼をいう「反資本主義 的職業」だ・ニートのように統計的事実を過大に信用してはいけない。 一人一人違う。若者を恐れよ!----------------
2005/01/18
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後期最後の授業の日。午前は「知的生産の技術」。自分史を書くことをテーマとしている。最後の講義では最近やっている「人物記念館の旅」を1時間ほど講義してみた。(新しいジャンル。このテーマの講演もできそうだ)午後は「プレゼンの技術」。大プレゼン大会の二日目で8組の発表を行った。前回とあわせて17組。全員で評価し、4組を表彰。賞品は私の著書のうち好きなものをあげることにした。30人以上が対象となり、すぐに研究室にもらいにきた。学生の人気が高いのは「勉強してはいけない」と「伝える力」と「タイムマネジメント」など。もう一つは、図解ゼミで学生が描いてきた図にアドバイス。また、民法をこの2年間ずっと図解の題材にしている学生がおり、今日も4枚の図解にアドバイス。今年度中にはなんとか終えたいものだ。法律をテーマとした図解集ができあがる予定だ。その後、東京のP出版社と本の打ち合わせの予定だったが、風邪をひいいたとかで延期になった。独自に原稿をチェックする。他大学から科目履修生で来ている大学院入学希望者の相談にのる。
2005/01/17
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若い頃から書斎願望があった。知的生産に関心があったので、今から思えば書斎を確保することには熱心だったように思う。結婚して32歳で最初に買った千葉船橋のマンションでは、一部屋北側の一室を手に入れた。東急ハンズのPR誌に取材されたことがある。当時としては珍しくワープロとコピー機を買って使っていて、最初の本が出たのもこの書斎からだ。次に34歳で買い換えた横浜のマンションでは、リビングの隣の南側の一室を書斎として使った。家内が言うには、一番いい場所が夫の部屋となっている家などどこにもないということだった。ここでは「知的生産の技術」研究会で取材をまとめた本や共著などがぼつぼつ生まれた。39歳になって、千葉の佐倉に一戸建てを購入する。最初は2階に自分の部屋を持ったが、上にあがることも結構大きなバリアと感じていたのでなかなか使わない。そこで一階に書斎を持ってきた。40歳のときに書いた最初の単著を書いたこの家には7年住んだ。47歳でビジネスマンから大学教員へ転身して仙台へ。まず、教員宿舎に入る。4LDKと大きいマンションタイプの宿舎だったので、リビングの隣を自分の部屋にする。建学に奔走していたので、本を書く余裕はなく、この書斎では授業の準備しかできなかった。数年住んだが、犬を飼えないので一戸建てを急きょ借りることになった。室内で犬を飼えるのは一つしかなく、選択の余地なく借りる。古い家だったので、とても寒く知的生産性はあまりあがらない。この家には1年も住まなかった。その後、2年半前に住宅を購入。我が家では書斎は例によってもっともいい場所に確保するという慣行が確立していたので、公園に面した北川の部屋を書斎として設計する。公園の四季を楽しみながら、パソコンに向かって、せっせと原稿を書いたり、ホームページに書き込んだり、メルマガを打ったりという日々が続く。代表作である「図で考える人は仕事ができる」は、この書斎から生まれた最初の著作である。その後、30冊近くの書物がここから生まれたことになる。著書の半分以上だ。快適な環境を得て知的活動が活発になったようだ。
2005/01/16
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朝7時過ぎから夕方6時半過ぎまでの長丁場の監督業務。外国語、地理歴史、理科1・2・3。受験生は明日もあり大変だが、監督も気を使う。大雪警報が外れてよかった。----------------------------------今朝の河北新報の「紙面センサー」に執筆。以下、原案だが、長さの関係で若干変更になっている。-----------------「患者さま」という言葉を使う医療関係者が増えている。この業界にも顧客満足の考え方が広がってきた影響である。12月27日の社説は『「患者さま」/医療サービスは別の視点で』というテーマを取り上げ、「患者さま」に漂う危うさを指摘している。その違和感は、「さま」にではなくて「患者」という言葉の方にあると思う。「患う者」「患部のある者」というのが患者の意味だ。入院する人もそれぞれ職業を持っている。病院ではそれが「患者」という得体の知れない呼称で呼ばれる。そういう話を医者にしたら、最近では「ご病人様」という呼び方も出てきたというのであきれてしまった。こうなってくるとまさに病気だ。医療関係者にはしっくりくる名前を発明してもらいたいものだ。そういえば、ビジネスマン時代、「さんづけ運動」をやったことがある。役職で呼ぶのは止めようという主旨だ。ところが、社内放送で「広報部、課長の○○さん」という声が聞こえてきたことがある。これは広報の○○課長というよりもっと役職を強調する言い方だ。主旨を理解せずに、形だけを導入しようとするからおかしくなるという見本である。地味だが、「ふらっと道の駅」という連載記事がある。東北各地の道の駅を紹介する記事だ。昨年1月9日の秋田県昭和町から始まって、12月24日の大船渡で51回の連載を終えた。車で走っていると各地に「道の駅」があり、成功していることがわかる。そう思っていたら、昨年岩手県の水沢市で「まちの駅」という看板を見かけ、道の駅と間違えて入った。間違いも計算済みなのかもしれない。正月に帰省した一村一品運動の盛んな大分県では、おにぎりを買おうと思ってコンビニを探していたら、田舎道の一角に「里の駅」という施設を見かけて車をつけてみた。大分県の指定ナンバーが登録してあった。特産物を使ったおにぎりもあったが、これも一種のコンビニだろう。そして、山道でさびれた施設があり、営業をしている風には見えなかったが、看板を見ると「山の駅」と書いてあった。森の駅、海の駅、川の駅、、、、、と連想が広がってくる。正月の新聞各紙には少子化に関する特集が多かった。2006年に日本の人口はピークに達し、2050年には1億人、2100年には6700万人、そして紀元3500年には日本列島には日本人は一人(!)になるという説もある。少子化の大津波は、元旦から始まった特集や記事のキーワードになっていて、「少子化に挑む」や「家族」などの大型企画が目に付いた。元旦の河北新報は気合が入っていた。一面は「新時代 舞台は東北」としてイーグルスを前面に出し、12・13面の2面を使って、ベガルタの都並監督とイーグルスの田尾監督の気持ちのいい対談を打った。「改憲容認・積極派79%」を報じる世論調査。05年小泉政権仮想シナリオ。「戦後は戦前」という含蓄のある社説。「道州制誕生こうかわる」では3つのシミュレーション。「進む東北自治体再編」では終盤に入った各県の合併協議の全貌を伝えている。 プロ野球参入問題が契機となって、「地域密着」は新しいキーワードになった感がある。楽天は「地域密着」のビジョンとプランを作成しているという報道(3日)があったが、ユニフォームには「東北」の文字は無かった。地域密着の実をあげるためにも地元紙はこういうことにも厳しく目配りをして、皆が心から応援できる球団に育ててもらいたい。
2005/01/15
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昨日買った本の二つに偶然「マップ」という言葉がついていた。もちろん地図という意味だが、あらゆる分野で情報の地図が求められているということだろう。そしてこの2つのマップに拙著が紹介されているのを見つけた。-------------------------------------------------「新書マップ」(日経BP ) 現代を知る!!1000テーマ別 新書ガイド 7000冊の新書を対象に、基礎データを掲載 この本を買ってみていたら、「「働くことと企業」という 分類の中の「081 仕事術」という項目10冊の一つとして私 の「図解仕事人」(光文社新書)が紹介さていた。 「ビジネスにおけるコミュニケーション能力を高める技術 を伝授」「マインドマップ読書術」(松山真之介著ダイヤモンド社) 人気メルマガWebookの編集長が教える「知的ビジネスマン になるための読む技術、図解する技術」 この中で私のことが4回紹介されていた。 マインドマップのサンプルとして著者が書いた 「図で考える人は仕事ができる」 読者からの投稿という形で同じ本---------------------------------------------午前中は大学で仕事をして、午後は東北電力グループで講演、夜はNPOキャリア開発研究機構の理事会。
2005/01/14
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正月恒例のアイリスオーヤマの賀詞交換会(仙台メトロポリタンホテル)に出てきた。アイリスは今、仙台でもっとも元気な企業といってよい。ベガルタ仙台のメインスポンサー、東北楽天イーグルス参入でドーム構想の提案するなど常に話題を提供する有力企業である。一代でここまで築いてきた大山健太郎社長の挨拶は聞く価値のある内容で、毎年出席している。-----------------------------------------------------国内は、素材インフレと市場デフレの狭間で苦しい事業展開だった。素材の高騰を値上げに転嫁できない状態で、販売価格が上げられない。主力のホームセンター事業はマイナス成長だが、それ以外は二桁成長で、売り上げは685億円。経常離籍は70億円台(利益率10%)だった。コスト面では、合理化と生産性の向上、競争力面で高付加価値商品の開発が寄与した。海外では、アメリカは原料の価格上昇は製品価格に転嫁できた。欧州では40%アップの売り上げ。中国では大連での二桁成長、小売10テンポなど東北部で躍進。グループ全体では1370億円の売り上げ。今年で事業立ち上げ後41年。最初の20年はプロダクトアウト、次の20年はメーカーベンダー(製造卸)、今年からは製造小売を目指したい。この一環として、シンプルスタイルというソファーのカバーをシーズン毎に変える事業を始めた。3年以内に300店舗を達成する。これはユーザーインの新ビジネスモデルだ。 事業開発室長(東京)と商品企画担当の責任者が壇上で 紹介されたが、2人とも元気でイキがいい。3カ年計画で2007年にはグループで2000億円を目指す。(利益率10%)---------------------------------------来賓の浅野史郎宮城県知事・毎年のこの会は、大山社長による経済セミナーという感じ・まさに挑戦の連続----------------------------------------乾杯は七十七銀行の勝俣会長・この環境下に増益はウルトラC・仙台のリーディングカンパニー------------------------------------大山社長とご挨拶して、長春の吉林大学に客員で行っているので大連、瀋陽、ハルピンなどの工場などを見学させてもらいたいと申し込みをしておいた。河北新報の一力副社長とは、連載中の「紙面センサー」執筆の件、マニフェスト運動の件、人物記念館の件(阿部次郎)などが話題になった。
2005/01/13
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昨年、一太郎・花子のジャストシステムと図解ソフトの開発に携わった。技術者との共同作業やアドバイス、議論は、新しい経験だった。異世界の衝突でいろいろ見えてきたものがある。今まで、図解ソフトの話が何度かあったが、いずれも実現することはなかった。出来あいのソフトではなく、図解専用のソフトが欲しいとずっと思っていたが、今回そのプロジェクトが実現した。プレゼンソフトとしていくつかのメジャーなパソコン・ソフトがあるが、図解に特化したソフトは初めてではないだろうか。よく使う基本パターンを用意してあるので、それを利用しながら楽に自分自身の問題を図解にできるという特徴がある。この図解マスターには「下書き」機能がついている。気楽に下書き画面でキーワードなどを打ち込みながら図形を動かしていると、自然に図解が出来上がってくるという仕掛けになっている。ビジネスの現場で参考になる企画の図解などのテンプレートも用意してあるので、即戦力になる。人間の表情をたくさん使えるようにしたり、ビジネスの現場で使えるイラストを用意するなど、仕事で使えるイラストを意識的に搭載してある。操作の複雑性をできるだけ排除したので、迷うことが少ないはずだ。商品の発売は2月。私は監修者。http://www.hisatune.net/html/zukai-m/index.htm
2005/01/12
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「裁判員制度」が2009年度までに導入される。一般市民が裁判官とともに刑事裁判を審理することになると、検察側も弁護側も「わかりやすさ」が求められるようになる。実際に、東京地検では冒頭陳述をパソコンで図解ソフトを使って立証を行ったという記事がでていた。。新聞記事では「図や矢印を動かしながら裁判官に説明」というキャプションがついていた。最近、最高裁判所や高等裁判所からの講演依頼がでてきたが、裁判官・検察官・弁護士の三者ともに文章と口頭という従来表現に加えて、図解コミュニケーションが浸透していくという流れになるだろう。
2005/01/11
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年始は、毎年その年の計画を立案するという習慣がある。もうかれこれ25年も続いているかなあ。私にとっては大切な習慣だ。「人間は習慣の束」である。今年もできるかどうかはわからないが、やりたいことを自由に書き連ねた。これが全部できればすごいことになるのだが、まあ3割できればよしとしよう。「人物記念館の旅」と「知力は気力から、気力は体力から」が今年の特徴かな。
2005/01/10
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昨年創刊した「自分時間」という隔月刊の雑誌がある。「遊びから始まる、おいしい生活」というテーマで、主に40代から50代の男性を読者の想定としている。この雑誌にエッセーを書いて欲しいという注文がきた。連載のテーマとして「タイムコンシャス・ライフ」を掲げ、毎回異なった題で書くことにした。初回は「100年生きる地球人」を書き、2号目の今回(昨日出た。680円)は「カネ・ヒマ・カラダ、そしてココロ」という1200字のエッセーを書いた。村松友視、泉麻人、ラサール石井、前田武彦など8人が思い思いのことがらを書き付けている。村松さんは「遊びの流儀 カウンター遊び」、泉さんは「五十路旅の心得『銀座の歩き方』」、ラサール石井さんは「オジサン流クラブ活動」、前田さんは「遊びはムード」、嶋中労さんは「オヤヒへのエール ヨンさまに倣って」、高橋卓志さんは、「チャオプラヤでジントニック」、玉木正之さんは「遊びをせんとや生まれけん」という具合でなかなか面白い。創刊号は横浜特集だったが、今回の大特集は、「銀座通になる」という企画で、「マイバーを見つける」「銀座の旨い店」などが並んでいる。表紙の写真は浅井慎平さんがカメラマンで、女優の原田美枝子さんがモデル。創刊号は秋吉久美子だった。ここに並んだ人たちの中で、私にとっては新しい分野であるエッセーの勉強をしていこうかと思っている。
2005/01/09
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午前中は、犬の散歩の後、河北新報「紙面センサー」の締切が近いので、年末年始の河北新報と朝日や日経を読んで、必要なところは切り抜いた。テーマはいくつか見つかった。午後は、帰省中に母と行った、岡城、佐藤義美記念館、重光葵の記念館、三浦梅園資料館の探訪記をメモをみながらまとめる。
2005/01/08
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今日は、大学で仕事をしていたが、学長とゆっくり懇談する機会があり、問題点の整理や今後の方向の確認などができてよかった。---------------------------------------車で走っていると各地に「みちの駅」があり、人が多く、成功していることがわかる。このアイデアを出した国土交通省の職員は出世したとか、、。そう思っていたら、昨年岩手県の水沢市で「まちの駅」という看板を見かけたことがあり、みちの駅と間違えて入ったら、特産物を売っていたりレストランがあったりで、みちの駅の発想を応用したものだった。間違いも計算済みなのかもしれない。正月に帰った一村一品運動の盛んな大分県では、おにぎりを買おうと思ってコンビニを探していたら、田舎道の一角に「さとの駅」という施設を見かけて車をつけてみた。大分県の指定ナンバーが登録してあったから、県庁がつけているのだろう。特産物を使ったおにぎりもあった。これも一種のコンビニだろう。そして、山道でさびれた施設があり、看板を見ると「やまの駅」と書いてあった。営業をしている風には見えなかった。もりの駅、うみの駅、かわの駅、、、、、、。このように、優れたアイデアは広がりを持っていることを実感した。こういうことは車であちこ動いているとわかるのだと再認識。
2005/01/07
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午後は、大学で年賀状整理、講演の調整、スケジュール調整などを秘書と打ち合わせをする。東京高裁から管内(関東甲信越)の地方裁判所や簡易裁判所の庶務課長90人対象の2回の講演依頼を受ける。担当者、責任者とも女性だった。最高裁での講演と日経の本が影響している。面白い展開になってきた。また、筑波大学の大学研究センターの山本センター長から大学職員対象の大学管理のための大学院レベルの講義の依頼を受けたが、これは他の講演と重なっていて断らざるを得なかった。講演は今年も多そうだが、依頼元の事情を聞き、現場に足を運ぶと「時代」が見えてくる感じがする。講演も私にとっての現場探検の一つだ。今晩は、自宅でいくつかの原稿書きも予定している。
2005/01/06
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正月休みを延長。5日は、竹田市の岡城を訪問。荒城の月のモチーフとなった堅城。印象深い名城だった。佐藤義美記念館を訪問。日本のアンデルセンと呼ばれる童謡の作詞家。その後、国東半島の安岐町へ車を飛ばす。まず、重光葵を記念した三渓偉人館を訪問。ミズーリ号上で日本が降伏調印した当時の外務大臣。戦犯、後に許され戦後も活躍する。今回の旅のメインであった三浦梅園資料館を訪問。ずっと気になっていたが、予想どうり大きな収穫があった。今後の私の研究テーマに影響があるだろう。今回は1泊2日の旅だったが、すばらしい収穫の多い旅となった。詳細は別途報告するつもり。---------------------------------岡城址瀧廉太郎の「荒城の月」の舞台である。竹田は山々を描く南画の世界そのもであるといわれたが、山の上の台地を切り拓いて堅固な城をつくった、その名残りがこの岡城址である。確かに登り口以外の壁にあたる部分は、峻険で断崖絶壁で容易に人を寄せ付けない自然の城だ。大手門まで登ると後は、ほとんど台地となっていて広い。この中に三の丸や西の丸、家老の居宅、賄い方などの跡があり、本丸は一段と高くなっている。本丸に登ると360度に景色が見渡せる。北は九重・大船山の九州アルプス連邦、西は東洋一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母山(1756m)、傾山(1602m)の高峰一帯の大森林を一望のうちに収めることができる。そして下には2つの川が見える。牛が臥した形に似ていることから、臥牛城とも呼ばれている。日本の音百選に選ばれた岡城址では、風が大木の枝や葉をかすめる音がサワサワ、サワサワと響いている。また川の瀬音も聞こえる。「春高楼の花の宴 めぐるさかずき 影さして 千代の松枝 わけいでて 昔の光 今いずこ」という土井晩翠の「荒城の月」の歌詞が彫られた石碑が建っている。 この城は、大野郡緒方荘の緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられている。1586年に島津の大軍の猛攻を18歳の志賀親次が支え、秀吉から感謝状をもらっている。その後、中川氏の居城となった。御廟の山城、本丸と二の丸・三の丸が平山城、西の丸が平城で築城史上特異な城である。 本丸から下ったところに楽聖・瀧廉太郎の像が建っている。もしやと思って裏に回るとやはり朝倉文夫の署名があり、建立時のいきさつや友情が記されている。 「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳。この2つの教室は丁度向かい合っていたので、わずかに1年間ではあったが、印象は割合に深い。しかしそれから君の亡くなるまでの十年間はほとんど何も思い出せないのに、11歳の印象を土台に君の像を造ろうというのである。多少の不安を抱かぬではなかったが、製作に着手してみると印象派だんだん冴えてきて古い記憶は再び新しくなり、追憶は次から次へとよみがえる。学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君。それは稲葉川の為替に印した忘れることのできない韻律であった。そして八年後には一世を画した名曲「四季」「箱根の山」「荒城の月」に不朽の名を留めたことなど、美しい思い出の中に楽しく仕事を終わった。 昭和25年8月15日 朝倉文夫今、自分は50年前の童心に立ちかえり幽憶つくるところをしらず 君をしのぶれば(?)笛の音将に月を呼ぶ このような高台にある大きな城跡は見たことがない。瀧廉太郎が12歳から14歳の時分にこの岡城に何度も足を運び、大きな影響を受けたことが偲ばれる実に印象深い場所だった。-----------------------------------佐藤義美記念館「ニルスのふしぎな旅」「十五少年漂流記」の翻訳文の作者、「いぬのおまわりさん」などの作者である童謡詩人佐藤義美記念館。1905年竹田生まれ、1968年に63歳で没した。 横浜の家のつくりをそのままつくった2階建ての一戸建て。書斎には、机とベッドがあったが、ランプやかたつむりのように巻いた時計、鳥の模型など楽しい人柄を偲ばせる品がある。「日本のアンデルセン」とも呼ばれている。長身痩躯で、ヨット遊びの写真や帽子を被ったおしゃれな詩人。逗子の自宅で、仕事とヨット以外の時間は読書にあてていたという。最近(2004年)出た「ネバーランド」という童話の広場を目指した雑誌の創刊号は、佐藤義美特集だった。「いぬのおまわりさん」 まいごの まいごの こねこちゃん あなたの おうちは どこですか おうちを きいても わからない なまえを きいても わからない にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん ないてるばかりでいる こねこちゃん いぬのおまわりさん こまってしまって わん わん わん わん わん わん わん わん」グッドバイ「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ とうさん おでかけ 手をあげて でんしゃにのったら グッドバイバイ グッドバイ グッドバイ グッドバイバイはらっぱで あそんだ ともだちもおひるに なったら グッドバイバイグッドバイ グッドバイ グッドバイバイ三びこ うまれた 犬の 子もよそへ あげたら グッドバイバイグッドバイ グッドバイ グッドバイバイまちから いらしたおばさんもごようが すんだら グッドバイバイグッドバイ グッドバイ グッドバイバイあかい ゆうやけ お日さんもしずんで いったら グッドバイバイ」この二つの童謡は、今でも歌うことができる。本当に久しぶりに思い出した。この人の作品だったのか。歌の力は大きい。いつまでも残っている。 「一本の指が痛いとき」は原爆否定の長編童話。「ともだちシンフォニー」は、反戦のうた。-----------------山渓偉人館(重光葵) 国東半島の安岐町の道路沿いにある太平洋戦争で降伏調印(ミズーリ艦上)をした日本全権の外務大臣重光葵を記念した山渓偉人館の前に立つ。立派な胸像が建っている。もしかしてと作者名を見ると朝倉文夫とある。朝倉は、同県人の瀧廉太郎も、重光葵も、そして角聖双葉山も手がけていたのだ。 瀧廉太郎の父は直入郡の群長だったが、重光葵は三重町群長の次男。東大をでて外交官になった。ドイツ、英国、ポートランド、ベルサイユ、中国、ドイツ、上海、中国全権公使、天長節の満州での式典中に爆弾テロにあい、右足を失う。満州事変から大東亜戦争にかけて、外務次官、駐ソ連大使、駐映国大使、駐華大使。昭和18年東条内閣の外相、小磯内閣外相兼大東亜大臣、主戦後東久爾内閣の外相県大東亜相、ミズーリ号上での降伏調印、A級戦犯として巣鴨へ。昭和23年極東軍事裁判にて禁固7年、27年仮出所後、改進党総裁。29年第三次鳩山内閣では副総理・外相、日ソ交渉全権大使。 1887年生まれで1957年に69歳で世を去っている。文藝春秋社から「巣鴨日記」を出版している。偉人館には、チャーチルと2人で写った写真や爆弾テロにあう直前の写真などが印象に残った。役場の担当者がつきあってくれたが、この偉人館を訪れるのは年に4-5人ということだった。重光葵記念館と明確にするともっと人は訪れると思う。重光葵が太平洋戦争をどうみていたか、巣鴨日記を読んでみたいと思う。降伏調印に向かう心情 「ながらえて 甲斐ある命 ○○ しも しこの御盾ならましを」昭和25年「魂のよみがえる くにに幸のあれ 国の起こらで なぞ止むべきや」「国連の○に掲げし日の丸の 旗は朝日の輝きし見ゆ」娘・華子「不自由な足を引きずり 進み行く 壇上の父 我わすられじ」昭和32年杵築高等学校での揮毫 「志四海」-----------------三浦梅園資料館 1723年生まれで67歳で没した。杵築藩の黒岩往還と中津藩の藤田敬所に師事。医者をしつつ宇宙の仕組み、自然の摂理などを研究した思想家。遊学は生涯3回のみ。23歳の時の長崎では、天文学に触発され宇宙の原理を学び、その後天球儀も自力で作成している。30歳近くのお伊勢参りでは、天地の条理を発見、それが「玄論」となった。この書には宝の引用は一切ない。56歳で長崎に再び遊学。梅園塾には17カ国200人以上が学んでいた。 あらゆるものを円と直で説明できるという説を唱えた。円は直からできている。私の図解の理論と同じだ。そういえば、梅園の研究家が私の講演を聞いて同じだと言っていたことに納得がいった。陰と陽、は平等で相対的。一即一・一。一・一即一。反観合一は反対からみる方法。「自然が先生だ。自然の仕組みを活用すると大いなる成果があがる。人間は分と限度をわきまえよ。他の生物と共存せよ」同時代のカントや百科全書派のディドローと同じ考えだったそうだ。梅園は儒教を否定して、人を利すことが内を利すことになる。情欲が満たされてこそ社会は安定すると唱えた。著書「価原」は通貨はそのものに科地があるのではなく、交換が役割と定義。エンデの思想とも通じる。条理とは対の構造の確信。玄語図は円と直で構成されている。大直、大円。玄語図は湯川秀樹や古在由?が高く評価。 三浦梅園は、科学者、教育者、政治経済学者、文学者、医学者と万能の大きな学者だった。1975年には梅園学会ができ活発に活動している。 「人生恨むなかれ 人の識るなきを 幽谷深山 自らなき?なり」(辞世の句:中国の対句)「希う所は 後世作者興ることあらば 則ち顧を万分の一に得んことを。 死すとも且つ朽ちざるなり」(「敢語」序) 教育方針 「おのおの、その長ずる所にしたがい 好む所に向かわしめる」(「塾制――行状)門人師弟を教育するに各其の長ずる所に随い 其の好む所に適す」(行状9 それぞれの長所を伸ばし、好みに合うものをさがして。三浦梅園―亀井南明―広瀬淡窓梅園三語 玄語:天地を条理的に叙述した自然哲学書。他人の引用が一切ない。 「故人古書を一言も引かず我見る所にまかせて書きつらぬ」 贅語:従来の学説を天地の条理の観点から吟味した学術史。 「天地に合ふ所は拾い 天地に合わざる所はすつる故 諸家の説を取捨して贅語を書きたり」 敢語:人間の道を条理でとらえ儒教的政治学説をも大胆に批評した政治論三浦梅園の考え方を、図解コミュニケーションの先達として研究してみよう。梅園研究の資料や梅園学会の出版物などをたくさん買った。---------------------------------------
2005/01/05
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正月休暇を延長して、旅にでています。朝倉文夫記念館(大分県大野郡朝地) 「一日土をいじらざれば 一日の退歩である」という言葉を残した彫刻家朝倉文夫は、1883年に生まれ、1964年に没した。私の母の父と同世代ということになるから、私にとってはおじいさんの世代。朝倉文夫記念館は記念公園の中にあり、斜めの屋根が印象的な建物だが、設計は清家清だ。明治41年「闇」の文展に入選から活躍が始まる。母校東京美術学校(現東京芸大)の教授をつとめる。昭和23年文化勲章、 儒教の精神を大切にした姿勢の厳しい人で彫刻のみならず家や庭づくりにもこだわりをみせる。芸術家の街上野の谷中に住み多くの人と交友を深めた。 明治40年の卒業制作「進化」、41年「闇」では第二回文展最高賞の二等賞を受賞。第3回文展では「山から来た男」、第4回文展では「墓守」などで賞を次々に受ける。「自然な姿を自然なままに」という写実主義で、一度もヨーロッパに行かなかったため、独自の作風が生まれた。 肖像彫刻に豊富な作品を残した。初代左団次、五代目菊五郎、大隅重信、加納治五郎、瀧廉太郎など膨大な数の肖像をつくった。書画、俳句、茶道、釣りなどどの分野にも一流の才能を示した多芸多才の人。 記念館で最初に目がつくのが二人の裸婦像だ。このモデルは娘の朝倉摂と朝倉響子で、当時モデルになってくれる女性はなかなか見つからなかったため娘をモデルにしたという。摂は舞台芸術家で著名な方で、妹の響子は彫刻家。朝倉摂さんとはビジネスマン時代に一度仕事で縁があった記憶がある。大分県出身の大横綱双葉山の胸像も見事な彫刻である。求道者のような顔、厚く見事な胸。 女性群像の第二展示室、動物彫刻の第三展示室、男性彫刻の第四展示室は、斜めの土地をうまく生かして、階段を登っていく構造になっていて、新鮮な配置に感銘を受ける。 第二展示室には、「涙っぽい人」、「いずみ」、「のどか」、上を向いた「明」と下を向いた「暗」、「時の流れ」「松井須磨子」などが明るい日差しを受けながら群立している。裸婦の腰の張りなど実に写実的な作風。 第三展示室は、猫を中心とした動物彫刻の間。自宅に十数匹飼っていた猫の一挙手一投足を観察した作品が多い。昔教科書かなにかで見た記憶のある「つるされた猫」、「よく穫えたり」「ジュピター」そして「豊後牛」。多くの猿がひとつの方向に向かって雲に乗っている姿を描いた「雲」、話題を呼んだ人間への進化を扱った「進化」。 第四展示室は若い男性の裸の彫刻。右手を少しあげた「平和来」(1952)、左手で右腕をつかんだ「競技前」(、左手を上に上げた「生誕」、二人で肩を組む「友」、砲丸投げの選手を描いた「砲丸」など。若者らしさのみなぎる小さな顔。精悍な男、張りつめた筋肉、動きのある姿などすばらしい作品群だ。 コンクリと木を用いた明るい展示室には、生涯にわたって驚異的な量と質の高い作品の一部が展示されている。 不便な山の中にある記念館なので、私と母の一組だけだった。瀧廉太郎記念館(竹田市) 竹田は、小京都や遊芸の町と呼ばれている。直入郡の郡長であった父が住んだ町の中の屋敷が記念館となっている。父吉弘は日出藩家老を経て、維新後は内務省で大久保利通や伊藤博文に仕えている。廉太郎は東京、横浜、富山、東京、大分、竹田と父にしたがって動いている。ここで12歳からの2年半を過ごしている。1879年生まれで、朝倉文夫と同じ小学校の3年上で、朝倉文夫の肖像彫刻も残っている。東京音楽学校(現東京芸大)研究科卒業後、母校の教師となる。歌曲集「四季」、中学唱歌「荒城の月」「箱根八里」などを作曲。明治34年ドイツに留学したが結核にかかり帰国。 父から「将来、何になりたいのか」と問われた廉太郎は「音楽家になりたい」と答え、なりそこねたら「おしろい(歌舞伎役者)になります」と答えたという。東京音楽学校は首席で卒業している。 「四季」の緒言では、日本の音楽はせいぜい学校唱歌程度であって、今回の作品のような程度のものは極めて少ないと自信のほどをうかがわせている。西洋の物まねばかりの状態を残念がったそうだ。新しい音楽を目指したのだろう。またわかりやすく、楽しい音楽を目指した。 ドイツ留学でライプティッヒ音楽学校に入学するが結核にかかり帰国する。帰りのロンドンで土井晩翠が会いにくる。「荒城の月」は、土井晩翠の詩に曲をつける募集があり、廉太郎が応募し一位になったという経緯があり、晩翠が会いにきた。仙台の城や会津の城をイメージした「荒城の月」の詩をよんだ廉太郎は、竹田の岡城のことだと思ったという。この作詞・作曲コンビは生涯一度しか会えなかった。「人生は短し 芸術は長し」はこの廉太郎のためにあるような言葉だ。23年の短い人生を疾風のように駆け抜けた。 この記念館の名誉館長はジャーナリストの筑紫哲也だった。彼が大分県出身ということは知っていたが、錬太郎の妹の安部トミの孫にあたるということだ。「大音必稀」と書いた筑紫哲也の書が掲げてあった。 ドイツ留学の船旅の日程が地図にプロットされていた。4月7日に神戸、9日の長崎、13日上海、16日香港、21日シンガポール、ペナン、26日コロンボ、5月5日アデン、9日スエズ、10日ポートサイド、13日ナポリ、14日ジェノバ、ミラノ、18日ベルリン、6月7日ライプティッヒ。ヨーロッパ到着まで1か月以上かかっている。広瀬武夫記念館。 軍神広瀬武夫は1868年明治元年生まれ。1904年日露戦争で旅順港口で37歳で戦死。ロシアに留学後、ロシア駐在武官となる。戦艦朝日の水雷長として日露戦争に従軍。第二回旅順港閉塞作戦で福井丸を指揮、同船の沈没間際まで行方不明の部下杉野孫七をさがしつづけ戦死。広瀬神社の中にある記念館では、80歳の祖母に送った二つの写真が紹介されている。海軍大尉の正装とふんどし姿の写真の2枚。 明治40年に山下公園に銅像、そして昭和10年に広瀬神社建立。 神社の一角に「陸軍大臣 阿南惟機 顕彰碑 岸信介書」という碑が建っている。阿南は明治20年竹田に出生、第二方面司令官(ミンダナオ・セレベス)を経て、昭和20年4月7日陸軍大臣、8月15日自刃)。旧・竹田荘 江戸時代後期の画家。1777年―1835年。豊後岡藩医の次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆の際、藩政改革の建言がいれらず隠退。絵を谷文晁らに学び、繊細な筆致の独自の画風を確立。幕末文人画家の代表的な作家。頼山陽らと親交を持ち、詩や書にもすぐれた。59歳で死去。 「筆を用いて工みならざるを患えず、精神の到らざるを患う」(山中人饒舌) 竹田資料館から少しのぼったところにある田能村竹田の過ごした家。侍医の家だったが、隠居後南画の第一人者へ。追加:瀧廉太郎の「荒城の月」の舞台である。竹田は山々を描く南画の世界そのもであるといわれたが、山の上の台地を切り拓いて堅固な城をつくった、その名残りがこの岡城址である。確かに登り口以外の壁にあたる部分は、峻険で断崖絶壁で容易に人を寄せ付けない自然の城だ。大手門まで登ると後は、ほとんど台地となっていて広い。この中に三の丸や西の丸、家老の居宅、賄い方などの跡があり、本丸は一段と高くなっている。本丸に登ると360度に景色が見渡せる。北は九重・大船山の九州アルプス連邦、西は東洋一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母山(1756m)、傾山(1602m)の高峰一帯の大森林を一望のうちに収めることができる。そして下には2つの川が見える。牛が臥した形に似ていることから、臥牛城とも呼ばれている。日本の音百選に選ばれた岡城址では、風が大木の枝や葉をかすめる音がサワサワ、サワサワと響いている。また川の瀬音も聞こえる。「春高楼の花の宴 めぐるさかずき 影さして 千代の松枝 わけいでて 昔の光 今いずこ」という土井晩翠の「荒城の月」の歌詞が彫られた石碑が建っている。 この城は、大野郡緒方荘の緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられている。1586年に島津の大軍の猛攻を18歳の志賀親次が支え、秀吉から感謝状をもらっている。その後、中川氏の居城となった。御廟の山城、本丸と二の丸・三の丸が平山城、西の丸が平城で築城史上特異な城である。 本丸から下ったところに楽聖・瀧廉太郎の像が建っている。もしやと思って裏に回るとやはり朝倉文夫の署名があり、建立時のいきさつや友情が記されている。 「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳。この2つの教室は丁度向かい合っていたので、わずかに1年間ではあったが、印象は割合に深い。しかしそれから君の亡くなるまでの十年間はほとんど何も思い出せないのに、11歳の印象を土台に君の像を造ろうというのである。多少の不安を抱かぬではなかったが、製作に着手してみると印象派だんだん冴えてきて古い記憶は再び新しくなり、追憶は次から次へとよみがえる。学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君。それは稲葉川の為替に印した忘れることのできない韻律であった。そして八年後には一世を画した名曲「四季」「箱根の山」「荒城の月」に不朽の名を留めたことなど、美しい思い出の中に楽しく仕事を終わった。
2005/01/04
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郷里の偉人・福沢諭吉先生の旧居には、子供の頃から何回訪ねているだろう。豊前中津藩の下級武士の実家の土蔵の2階にある勉強部屋を覗く。5畳の部屋に木の書見台が置いてある。 記念館ではまず、ビデオを見る。中津人への呼びかけである「中津留別の書」の中にある有名な言葉「天は人に上に人を造らず 人の下に人を造らず と言えり」は、39歳のときに出た「学問のすすめ」に収録されて人口に膾炙したこと。初版20万部、偽版22万部として、当時の日本の人口3500万人の160人に一人が読んだという空前のベストセラーであったこと。この出版業の隆盛が慶應義塾の原資になったこと。貧富の違いなどは、学ぶものと学ばざるものとの違いにあり、日常生活に役に立つ学問が大切であること。個人が独立し、家が栄え、天下国家が栄えることなどが説明されている。 当時「文部省は竹橋にあり 文部卿は三田にあり」と言われたという。成田市長沼に力を貸した逸話も初めて聞いた。小川武兵との交流、御礼に味噌漬けを100年以上送り続けているという話も曾孫が語っていた。 1900年には、世紀送別会で「独立自尊迎新世紀」を演説した。 福沢諭吉の戒名は、「大観院独立自尊居士」という。 慶應義塾の「義塾」は、公衆のための義捐の金をもって建学する学塾で学費を収めないものという意味だそうだ。福沢がつくった中津市学校(1871-1881年)は当時、西日本第一の英学校といわれたが、慶應の教授たちが教えた。 昭和24年には天皇陛下の行幸、そして昭和41年には皇太子夫妻の行啓があった。母は行幸を覚えており、私は高校生のときの行啓を覚えていた。 福沢諭吉には9人の子供があった。男4人、女5人で、長男一太郎は慶應義塾社社頭・塾長、次男捨次郎は時事新報社社長。 「福翁自伝」の末尾には「回顧すれば六十何年、人生既往を想へば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」とあった。 系図を見ていると、曾孫の美和は昭和2年生まれだった。私の母と同年だったから、福沢諭吉は母のひいおじいさんという感覚になる。 民間に独立して思うところを主張すべきと論じた「学者安心論」、政権は中央政府・治権は地方にと論じた「分権論」、小吏になることを否定し官途以外に無限の広い世界があると論じた「士人処世論」などの本があった。いずれきちんと読んでみたい。 隣の諭吉茶屋で「独立自尊」「天は人の上に、、、」の書とともに、「今日も生涯の一日なり」が気に入って買った。 福沢旧居には何度も訪れているが、そのときの心境や問題意識で見えるものが違う。自分と同じ年齢のときに何をしていたか、どのような心境だったか、、、、。訪れるたびに郷里の偉人を鏡として、自分の変化も意識する。人物記念館の旅にはそういう楽しみ方もある。 隣の敷地に増田宗太郎の記念碑があった。中津在住の作家・松下竜一の「疾風の人」に詳しいが、福沢のまたいとこであるこの宗太郎も相当の人物だったようだ。今は増田宗太郎は誰も振り返らないそうだが、軍国主義時代には中津では福沢の評判は地に落ち、西南の役で中津隊の隊長として西郷隆盛とともに没した増田宗太郎を評価する人が多かったそうだ。時代の空気の変化の中で、福沢ほどの人物も評価の乱高下があったというから驚く。 午前中は、高校2年生のときの担任東浜先生(今は武本)自宅に伺う。母親と奥様が親友なのでご挨拶に。 夕方は高校時代の同級会に参加。10人くらいの仲間と気の置けない会話で本当に楽しかった。
2005/01/03
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元旦から2日にかけてこたつに入りながらテレビを見ていた。茂木健一郎の講義、シルクロード紀行、戦後60年特集、冬のソナタ、、、、、、、。そしてテレビを見ながら、原稿や読書も。飽きてきたので、母と近所の「太平楽」という温泉へ。混んでいたが、なんとかつかることができた。
2005/01/02
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元旦はまた大雪で、一日中テレビと新聞と仕事を少々。大晦日の夜から2004年の計画表を見ながら総括をする。今日からは、新年の計画表をつくっていくという手順になっている。仙台の家族や、親戚からの電話もかかってくる。暇にまかせていくつかの原稿も第一稿を書き出しておく。「伊豆の踊り子」「マイフェアレディー」などの映画もテレビで鑑賞。さて、今年はどんな年にしていこうか。昨年までの流れを大切にしてさらに一歩前に出るという展開になるかなあ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー新年あけましておめでとうございます!皆さんの今年の抱負はどのようなものですか?以下は、私の今年の心構えです。教育:「一年の計は穀を樹うるに如かず 十年の計は木を樹うるに如かず 終身の計は人を樹うるに如かず」(菅仲)研究:「地上にもともと道はない。歩く人が多くなればそれが道になる」(魯迅)地域貢献:「己の立てるところを深く掘れ、そこには必ず泉があらむ」(高山樗牛)最近、人物記念館の旅を始めました。宮沢賢治、新渡戸稲造、三浦綾子、井上靖、後藤新平、斉藤実、司馬遼太郎、斉藤茂吉、結城豊太郎、平田廣介、原阿佐緒、吉野作造、棟方志功、土門拳、、、、、、。今年もよろしくお願いいたします。
2005/01/01
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