謎解き「張作霖爆殺事件」(加藤康男著、2011)[1928(昭和3年)の事件] を読み衝撃を受ける。
日本の中国侵略の方向付けに、決定的な出来事となった事件。島国日本の義務教育教科書また学者の歴史通説としても、関東軍高級参謀河本大作が謀った事件として、常識となっていると感じます。
日本人がかって入手し得なかった、旧ソ連・英外務省他の機密文書(爆発直後の写真を含む)という重要なる状況証拠を入手し、今までの日本人が考えも及ばなかった事件の真相に迫る、極めて重大なる書です。。(福井義高著「日本人が知らない最先端の世界史」より・・・この書もお勧め)
何故重大かと言えば、この事件により、時の田中義一首相が昭和天皇により、責任を迫られ辞任、その後の日本はこの時から日中戦争という泥沼に引きづり込まれ、1931年9月18日 柳条湖事件(関東軍が奉天の満鉄線路爆破→張学良軍と主張→奉天占領→満州事変)、1932年3月1日 満州国政府「建国宣言」、1933年2月24日国際連盟脱退、1940年9月27日三国軍事同盟(日独伊)締結、1941年12月8日真珠湾攻撃、という破滅の入口へと誘われていくことになる発端となるのであるから・・・。
極東軍事裁判が戦犯対象としたのは、実にこの1928年6月4日の「張作霖爆殺事件」から1945年8月15日までの期間であるわけです。
英の生んだ名探偵シャーロック・ホームズ氏・・・残された些細に見える物証と状況証拠を広範な知識を駆使した推理によって、犯人を突き止めていく、という名探偵(MI6を生んだ英にこそ生まれえたホームズ氏)に共鳴の念を抱かれる方には是非お勧めの、重要なる歴史書き換えを迫る書です。
この書のsummaryを掲載しますので、心惹かれた方は是非ご一読を・・・
以下引用、
まえがき
昭和三(一九二八)年六月三日深夜、北京・正陽門束駅のプラットホームに二十両連結の
特別列車がすべり込んだ。
重連の大型蒸気機関車に続いて十七両の客車と貨車一両という編成である。二両目の機関
車が真っ黒な鋼鉄版で覆われているのがひときわ人目を惹いていた。
ホームに立つ痩身の 男は張作霖、中華民国陸海軍大元帥である。
奉天(遼寧)、吉林、黒竜江にわたる東三省全域(満州)を支配して中央へ進出、 北京政府
の大元帥を自ら宣言した男がいま故郷の奉天(現瀋陽)へ引き上げる瞬間だ。
二年前の昭和元(一九二六)年七月、国民革命軍(南方派)総司令蒋介石によって広東を
基点に北伐が開始された。
北伐軍は長江(揚子江)一帯に進出、南方各省を支配下に収めた。こうした蒋介石の動き
に対して、張作霖は北方軍閥の連合軍ともいえる安国軍を組織して争ったが、北伐軍の進撃を食い止めることはできなかった。
張作霖が完全に敗北して満州に国民政府の影響力が及ぶのを警戒した日本政府は、この日
までさまざまな手段によって張作霖の満州帰還を促してきた。ソ連に対する防波堤が破壊さ
れるのを恐れたからである。
敗色濃厚となった張作霖は、ここにきてようやく北京を明け渡す覚悟を決めた。今日まで
熾烈な軍閥闘争のいきさつがあるが、それについては他の先行研究書に譲って、本書では割
愛したい。
鼠色の大元帥の通常礼装に身を包んだ張作霖の横顔には、憂いに満ちた影が射していた。
それにしても、 およそ三十時間後に彼が爆死するとは、
この場にいる誰が予測していたで
あろう。軍楽隊が奏でる荘重な曲に送られながらタラップに立った大元帥は、 見送りの
長
男張学良はじめ楊宇霞、
孫伝芳ら武将、高官、内外要人らとの別れを惜しみつつ貴賓車の
中へ消えた。
日本側からも 北京駐在公使芳沢謙吉
、坂西利八郎中将、北京公使館付武官 建川美次少将
(のち中将、駐ソ大使)らが、小柄な男の背中を見送っていた。
それより前、大元帥府の正門から四台の乗用車が密かに出立した。
黄色に塗られた鋼鉄製の専用車の横には、夜目にも「張」の文字がくっきりと浮かんで見
える。右手車窓からは機関銃の銃座がものものしく突き出て、鈍色に光っている。この夜は
満月であった。
黄色は清朝皇帝のみが使用を許されていた特別な色調だ。張作霖があえて禁色ともいえる
黄色を使用していたのは、大陸覇権への強い意志の表れからと思えた。
すでに北京停車場からはこの夜、奉天軍の兵士を満載した列車が次々と発車し
ていた。さらに、家具・家財類を積んだ列車、鉄道の保線材料と自動車八台を積
んだ列車などがおよそ十五分おきに続く。
張作霖の第五夫人が乗り込んだ特別仕様の列車が発車したのが三日午前零時四
十五分だった。
いずれもが十八両から二十両ほどの編成で、傍目には張作霖がどの列車に乗車しているの
か判明しかねるようにダイヤが組まれていた。
満州の軍閥頭領が暗殺を怖れて列車編成を目まぐるしく変化させるのは常套手段だった。
張作霖の乗用車が低いプラットホームに横付けされたのは午前零時十三分である。車は大
元帥専用車両となる貴賓車のタラップ前でぴたりと止まった。
特別仕様の目立つ専用車両を使うのは再三躊躇された。編成責任者は何度目かの指示変
更の末、二日夜になってこの貴賓車を連結するとの通達を受けた。 そして、先行する各囮
列車にも似たような貴賓車を必ず連結しておくようにとの通達が入った。
車室の前後には、着剣した哨兵がいかめしく警護に就いている。
大元帥が乗車したのを見届けると、国務総理瀋復、陸軍総長張景恵、山東省督軍張宗
昌以下各閣僚や幕僚が乗車し、 さらに下女を従えた第六夫人が続いた。
そのとき奇妙な光景に映るかもしれないが、二人の日本軍人が車内に消えた。
張作霖の軍事顧問町野武馬(予備役大佐)
と 関乗軍参謀として張作霖の軍事顧問を務める
儀我誠也少佐(最終階級少将)
である。
さらに警戒厳重な中、見送り人に紛れて二人の日本人が目を光らせていた。一
一人は後に東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷で、
事件の首謀者は河本大作だと証言し
た北京公使館付武官補
田中隆吉
参謀 竹下義晴少佐
である 竹下は数日前に満州から密かに北京入りし、支那服に変装して様
子をうかがっていた。
奉天への帰還準備がすべて整った。
その夜の模様を「東京朝日新聞」はやや感傷的なペンで次のように報じている。
支那統一の夢破れて 去り行く敗残の王者 北京脱出の張作霖氏
支那統一の大望の夢も見果てぬうちに、こゝに敗残の身を包んで今北京を去らうとす
る彼を眼のあたりに見ては、たれか感慨無き者があらう。・・・
かくて列車は午前一時十五分といふに滅いるやうな汽笛の余ゐんを残して静かに発車した。
(昭和三年六月四日付)
つづく