ヒット商品応援団日記No770(毎週更新) 2020.9.6.
文化の無い「時代経験」
さて戦後のモノ不足を経て、1990年代初頭のバブル崩壊を受け、以降「豊さとは何か」が問われてきた。当時は「失われた20年」などと豊かさ論議が盛んであったが、「豊かさ」を見極めることなくこの春まで経過して来た、そんな感がしてならない。
思い返せば、バブル崩壊は日本社会・経済全てに対し変わることを命じられたいわば「人生」を見つめ直す時代であった。2008年のリーマンショックについては、年越し派遣村に代表されたように、「雇用」の持つ意味が問い直された。2011年3,11東日本大震災は災害日本列島に立ち向かう人と人の「絆」の大切さを実感させた。
コロナ禍が始まって6ヶ月が経過した。ウイルスは人が運ぶことから、ソーシャルディスタンス、三密、といった言葉が表しているように人と人との「距離」をとることを否応なくしいられて来た。しかも、距離をとるだけでなく、「移動」の抑制をもである。
クラスターの発生は東京では「江戸」を感じさせる屋台船の宴会からであり、大阪では梅田のライブハウスであった。以降、距離をとること、移動を自制する生活となり、多くの文化イベントが休止、あるいは縮小することとなった。それは歌舞伎のような伝統芸能から、プロ野球に代表されるスポーツイベントまで。更に日常においては学生たちのクラブ活動にまで及んだ。つまり、文化イベントに「空白」が生じたということである。その象徴が周知の甲子園を目指す高校野球の中止であり、縮小であった。こうしたメディアの舞台に出てくるようなイベントだけが「文化」ではない。文化の本質は日常当たり前のこととして取り入れて来たものにその意味がある。私の言葉で言えば、「生活文化」ということになる。
「文化」は継続・継承されてこそ文化となる
ところで今年の夏は各地で行われる予定の「祭り」のほとんどが中止となった。隅田川の花火は勿論のこと、「密」を避けるために花火師の勇姿によって全国各地でゲリラ的に行われた。また、夏の風物詩にもなった高校野球は各地方単位での試合となったが、春の選抜高校野球が1試合だけではあるが、甲子園で交流試合が行われた。ウイズコロナとかコロナとの共生、理屈っぽく言えば「出口戦略」として、できることからやってみようということである。未知のウイルスとは言え、かなりわかって来た。このブログのスタートとして、「正しく 恐る」、その「正しく」がかなりわかって来たからだ。
マスメディア、特にTVメディアは競うように「自論」を放映している。3~4月ごろのメディアの論調は「未知」であることから送り手も受け手も間違いがあっても許されることではあった。あのWHOですら当初はマスク着用の効果はないとしていたが、今や着用を勧めている。「コロナ禍から学ぶ」の第一回でも述べたが、パチンコ店が自主休業しないことを理由に、あるいは県をまたがってパチンコをやりにきた顧客へのインタビューで、あたかも「犯罪行為」であるかのように扱った。確かに、自粛休業要請に従わなかったパチンコ店もあったが、感染者のクラスター発生は起きていなかった。あるいはイタリアや米国NYの医療崩壊を繰り返し放映し、結果として視聴者に「恐怖」を与えて来たTVメディアはやっとその愚に気付き始め、軌道修正し始めて来た。しかし、エンターテイメント、つまり娯楽要素を盛り込むことは否定はしないが、モーニングショーにレギュラー出演している感染症の大学教授はなんと芸能プラダクションである旧ナベプロに所属す る始末である。変わり身の速さ、ある意味いい加減さはTVメディアの本質でもあるが、「コロナ禍」をエンターテイメント化する視線には抵抗がある。いや抵抗と言うより、娯楽として提供されるコロナ情報を信じることができるかである。
何故こうしたことを取り上げるかと言えば、TVによる娯楽番組も一つの「文化」である。しかし、こんな情報番組という冠を持った「娯楽番組」はコロナ禍が収束した後まで継続・継承して欲しくはないものである。一言で言えば番組の責任者であるプロデューサーの社会的責任とまでは言わないがその見識を疑う。コロナウイルスを使った単なる視聴率稼ぎだけの番組であると言うことだ。英国の覆面アーティスト、バンクシー(Banksy)は、新型コロナウイルスのパンデミックと闘う医療従事者らをたたえる新作を発表し作品は現在、英国内の病院に展示されていると言う。コロナ禍を娯楽的視点から放送する日本の情報番組とは真逆のあり方である。

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