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毎日がしんどい。 この疲労感。 そして、ほとんどかんじることのない家庭における充実感。 家庭が壊れたってことか。 家族運営に失敗 したってことか。 すべて 私が悪い。 ・・・・・・・・・・この発想の組み立て自体が 間違っているのか。
Apr 29, 2010
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昨日 精神の山を超えた。 ここ数日間、自分の存在の必要性のなさを 痛感する 機会が 突然 増発し、あっという間に 悪い方向へ 意識が加速しました。 部屋の整理を行なうということの中で、10年ほどの 荷物の蓄積物を 捨て去る事で、自分の過去を捨て去る=否定する という 意識が 増大してしまいました。 300冊以上の書籍とプリント類を 破棄して、どこぞの 引越しか?と思われる量の ごみを吐き出したわけです。 荷物の整理 →自己否定 →必要性の欠落 → 関係性の反省・清算 → 家族性の否定 →部屋を出る・家を出る・遠くに行く・果てしなく遠くにいく → もう会えない
Apr 6, 2010
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2010年 節目の年になる予感がしている。何ができるか。そして 何ができないか。
Mar 24, 2010
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今、何にエネルギーを 注いでいるかを 書き記しておきたいとおもいます。第二子の小学校受験目前です。今週から 神奈川県私立の受験が始まります。そして、来月頭から 東京の私立が始まります。そして、来月末には、東京の国立の試験になります。第一子の際の苦い苦い思い出を心の糧として、私は、ここまで 突き進んできました。お受験教室に足しげく通い、講師の説明を食い入るように聞き、質問を投げかけ、どのように子どもの現実を把握すればよいのか、 それぞれの講師の寄って立つ学問的な立場を反映したことばを いくつもいくつも もらいながら、自らの中で整理して ようやく 今ここにたどり着きました。「受験」ということを 必要悪として、認めながら、私自身仕事を続けてきたけれど、必要悪の中に それとは異なる価値を可能であるならば、見出そうと あがき続けてきた 10念あまりの歳月だったともおもう。今、第二子が受験に際して、やはり、受験という名目だけで 学習が進行するという事はありえないのだと、再確認させられている次第。子どものやる気を引き出す事の大切さ。
Oct 21, 2007
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2007年 になりました。 2006年の後半は 教育問題を取り扱うには、重大な年でした。 教育基本法という その根本を規定している法律が 改変されてしまったという事実がここにあります。 この改変が 今後どのように 教育問題にどのように 影を落としていくのか。 おそらくは、国家権力のもとに、教育統制が強まっていくのであろうと思われるのだけれど。
Jan 1, 2007
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教育基本法の「改正」は 必要ないと 私は考えます。 今、何のために、「改正」をしようとしているのか、その意図が全くわからない。 私の立場をとにもかくにも、ここに明らかにしておきます。
Dec 14, 2006
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わが子の給食の話。皆様からの意見を知らせていただければうれしいです。 キムチ丼が何度か 給食でだされるようになっているが、キムチが辛く 現実には、ほとんど食べられない。先日の給食時は、班の全員が食べられなかった。班員の中には、在日朝鮮人の子どもも含まれているが、その子でさえもらべれなかった。・・・・という話を聞いたとき・・・ 1、キムチ丼が給食で出されているという事態は すごいことで、わたしたちの時代に は考えられなかった、きわめて先進的な 人権教育の一つなのかと感じた。 2、しかし、現実にその給食を食べられない・・・ということは、教育内容として、そ のフォローが足りないのではないか。キムチという韓国の文化を給食を通して紹介し ようという意図はわかるが、現実には 「辛くて食べられない」ものであるという意 識をただただ強調するだけの内容に成り下がっているのではないか・・・と。
Sep 17, 2006
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自転車の補助輪を一昨日にはずしたばかりの第二子。一昨日30分ほど 練習したが、すぐにでも乗れそうな感じ。 そして、本日 昼ごろ、あっという間に 補助輪が合った時に乗れたのと同じように乗って動き始めた。 「何となく漕げそう」→「漕げる」 あっという間に、乗ってしまった。 その勢いの良さには感動しました。できなかったものが、あっという間にできるようになっていく様子は、第一子が自転車に乗れるようになった時に感じた感動と同様に それを見ているものの心をとても豊かにしてくれます。
Sep 10, 2006
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東という漢字を 覚えるのに 日(太陽)+ ↑(出る方向)という 発想に とある本で出会った。語源的にどういうことになっているのかは、調べていないが、漢字の意味を押さえる上で、面白い発想であると感じました。
Sep 3, 2006
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左手で文字を書くことにチャレンジしてみたら どのようなことが生じるのか、ここ数日興味をもっています。 今まで、何度かチャレンジをしてきたこともあったのですが、左手を充分に使いこなすことで、自分の中に何か新しい発想、右脳の刺激などを得ることが少しはできるのかもしれない などと ぼんやりと考え始めました。
May 9, 2006
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できることは限られている しかし、できることは やらねばならない。 今、胃袋を傷めている現実がありますが、その中でも、やれることはしておかねばなりません。 来年度がどのような一年になろうとしているのか、今その決着点に立とうとしています。
Mar 5, 2006
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数々の子どものトラブルを最終的に学校管理職の下では解決できず、現在、教育委員会(区教委)を介在させることで、その安定化を模索している。
Feb 8, 2006
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新年になりました。新年早々に はやくも ストレス過多な状態になっています。
Jan 11, 2006
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わが子の私立小学校の編入試験を受けてきました。 初めての体験であり、びっくりしたけれど、私たちの住む地域における私立小学校の存在意義が改めて実感された。「公立小学校」が如何にひどいところが多いのか、その結果として 私立小学校への編入を希望するものが続出しているのだという現実を 肌で感じ取りました。
Dec 14, 2005
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いよいよ新過程下の入試が始まります。 その初年度である今年は様々な問題が発生することでしょう。 化学においては、文科省教科書における内容の量的な増大、学習内容(化学2)の選択性の登場など、旧課程との違いがいくつかあります。 内容的な増大部分は、おそらく 浪人生の存在を考えると出題を初年度は見合わせるのが筋だろうと考えます。 が、選択分野の出題については、様々な波紋が結果として発生してしまうのではないか・・・と思われます。一、選択分野のなかで内容がかぶっているところを中心に出題する 二、選択分野の選択ごとに問題を作成する 三、選択分野は一切出題しない一、であれば、かぶっているところしか出題できず、出題の問題の質に限定が付く。二、であれば、選択問題によって、難易度に差が出やすく、公平性を欠くおそれがある。三、であれば、はじめから、出題外であると宣言しておいた方が受験生には親切である。(出題の仕様がないのなら、始めから出さないと宣言する) 各大学の対応をこれから私としては注視していかざるを得ないのですが、大学によっては、選択分野についてのコメントをあらかじめ願書に書き込んでいるところもあります。(問題の発生を未然に防ぐための対応と考えてよいでしょう)
Dec 7, 2005
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はやくも師走を迎えている。 今年の時間の経つ速さは 余りに速すぎる。 この半年間、子どもの小学校と常に緊張関係を強いられてきた。 教育条件の問題、体罰の問題、余りに不適切な発言。 ・・・・・ことあるごとに、問題の提起を行い、協議を続けてきた。 しかし、担任本人に、自覚を促すことは結果としてできなかった。 問題教師であると考えざるを得ない。 半年間 これだけ問題の提起をされ続けたこともないだろうし、これだけ語気を強めて粘り強く提案・提起をされつづけたこともないだろう。 この教師の罷免を結果として求めています。 担任不適格として。 いよいよ その判断が今週末に下るようです。
Dec 4, 2005
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よりよく学ぶ、そのための条件は何かと・・・考えてきた12年間。 それが予備校講師として考えてきたことだった。忘れ物をした学生がいる。それをこころよく思わなかった若きころの自分。ーー何人かの学生にはぶち切れたことがあったかもしれない。でもどこかで、私に授業に参加したいという気持ちがあるから教室に足を運び、やってきてくれたのだと思っていた・・・その気持ちにこたえるべくテキストをコピーしたり必要なプリントをコピーして(忘れてきても)授業に支障がないように渡してきた。それが、今私が伝えたいことを伝えるために必要であれば、何らのストレスを感じることなく私自身の仕事であるともどこかで感じていた。やがて、テキストを使うことさえしなくなってきた。テキストは、復習用の演習問題を載せるだけにして、授業用には常にプリントとを用いることにした。基本的にテキストを用いて説明することはない・・・・そんな授業スタイルを確立した。そのなかで、授業に来た学生には 体と頭だけ運んでもらえれば、何とかその場の中で学び つかみとって欲しいものを つかみとってもらえる授業展開を確立してきた。そんな私がこのたび 子どものクラスの担任と 再び猛烈に対立した。「忘れ物をしたから 授業に参加する権利がない」と担任が我が子の件で主張したことに端を発する。忘れ物ををしたら、その補助教具が教室にあったとしても子どもにそれを貸し出すことはせず、授業に参加させない・・・・そんな暴論を担任教師が吐いたがために 私は切れざるを得なかった。子の担任が問題教師であることはこれまでに既に述べているので改めて繰り返さないけれど、授業に参加する権利を子どもは持っている。それが侵害されれば教師の教育権の放棄になる。それを平然と何らの謝罪なく行う担任教師。それを見過ごせないために私はこの間管理職に訴えてきた。
Oct 15, 2005
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この間 ふたたび 子どものクラスで問題がゾクゾク発生している。 絶えられず、学校への出席を停止した。 子どもの体調に変化が生じたためだ。 心身症を併発されては 一体何のための学校か、その存在の根拠さえ怪しくなる。 再度の 学校管理職との対応の協議。 もはや 元のクラスでの参加は難しい。
Oct 6, 2005
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今日 わが子と算数の学習をしていた。 今、わが子は、とある教材で 二桁たす二桁の計算をやっている。 その過程で、「いちあがり」の部分でかなりのつまずきを見せ、なんだかんだと数週間経過してきていた。ここ数日かなり順調に計算自体はできるようになっていたようではあるが。 今日、その課題を数枚こなして、少し疲れた顔をしていた後・・・私から、「今から三桁たす三桁の足し算しようか・・・。これが出来るとかなり高額なお菓子の買い物が出来ることになってくる。」という話をした。 本人は疲れた様子だったが、このことばにかなり興味を惹かれたようで、私のつくった練習問題を元気にはじめた。 いくつか具体的に説明しながら、一上がりのない計算問題から、一箇所のみ一上がりのある計算問題、そして、2箇所一上がりのある計算問題へと、本人が驚くほどスムーズに順調に流れるように進んでいく。 そこで、つぎは、「4桁たす4桁」やってみようか・・・と言って、問題を作成してやらせてみると、次々と筆が動く・・・。 では、「5桁たす5桁ね・・・」と自然に進んでいく。 「これで、どんなに大きな数でも足し算できることになったよ。」と本人と私で大いに確認した。 楽しく、興味深い一瞬だった。 わが子の頭脳の構造がこのとき少し高度化したことが わかった。 頭の柔軟性とはこのような過程で見られることなんだなと再認識。
Sep 18, 2005
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総選挙を前にして、いよいよ 私の住む町においても 投票してこのひとに国会で、「言うべきことを言ってほしい」と思える候補がいなくなりました。比例区にはまだまだ、そのような候補はいますが、小選挙区からは、完全に消えてしまいました。 これが、2大政党制ということの最終的な帰結なのかと思うと、何とも気持ちの悪さが残る。 しかし、投票権という権利を手放すわけにはいかないので、必ず投票所にはいって、投票用紙をもらい、その場で候補名を書く気持ちが生じなければ、それをそのまま投票箱に入れざるを得ない。こういうかたちの白票の投票になる可能性が今私の中ではたかい。 選挙権という権利は、民衆が何とかして勝ち取った権利なので、私はこの権利の行使だけはしておきます。
Sep 9, 2005
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自分を信じる力。 それをどのように育て、はぐくむか。 過剰に信じるのではなく、等身大の自分を信じる眼をどのように培うか。
Aug 31, 2005
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8.6 広島に何年かぶりに降り立った。子どもとともに。原爆ドームを見て、そして、記念館に入った。人であふれていた。 こどもに、何らかのものを伝えたい。現場に降り立つことで伝わるものがあるだろうと思って。現場主義を今回は採った。実際何かは伝わった。はじめて、きちんと戦争の話をした。祖母が体験した戦争を語った。これから、毎年、8.6広島に 滞在したいものだと思っています。
Aug 13, 2005
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ふと振り返ってみると 自分の得意だとおもっているところで、勝負をしようとしている。 それは、苦しいと自分が思い始めたときからだ。 苦しくなると、自分を守ろうとして、自分に自信のあるところで、形勢を建て直し、全体としての自分のありようをよい方向に移行させようとする・・・そんな作用が働いているように思う。
Aug 3, 2005
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まだまだこれからさき どのような事態が待っているのかわからない・・・という気持ちで生きていく。そんなことを 心がけて 数年が立つ。実際 予期せぬ出来事にも 多く遭遇してきた。そして、これからも きっとその延長上で生きていくことにはなるのだろう。しかし、まだ、私にはわたしの人生 の あるべき姿が 見出せていない(と感じ続けている)。
Aug 2, 2005
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「対談 子どもの事実」筑摩書房 斉藤・林 第二部 教育の可能性 より @教師は学校の中では、一つの権力者なんですね。そこをはっきり自覚して、自分の権力にできるだけ頼らないで何かが出来るような教師になるということ、これが一番教師にとって大事じゃないかということを思いますね。★教師の権力性については、常々考えさせられること。権力を行使しはじめれば、単に情報を上から下に垂れ流すだけの「役人」に過ぎなくなる。@発問が、ただ何とか子どもに発言させるためだけではお話にならない。発問が何のためかということさえ、あんまりまともには考えられていないのではないでしょうか。発問というのは医者の問診に当たるものです。だから外部からは見えない内部に病気があるかないか、あるいは内部がどういう状態になっているかを、さぐるために問いを出すのです。そして、問いを出して得られた情報を、どのくらい深く正確に読みとるかが授業者の中心課題ではないでしょうか。★発問は何のためになされるべきかの原則を再度うえのことばから、確認させられた。発問とは何か。再度考えていかなければならない。@教師にとってやはり、学問の自由が必要になる。杉本判決で言っている、学問の自由は単に大学の先生にだけでなく、実際の仕事をやっている小・中・高校の教師にも必要だということは、ここのところを言っていると思うのです。自分で教材の選択をする、学問に対する自分の解釈を持つ、考え方を持つという、この学問に対する自由ということが非常に必要になってきますね。@教師の場合でも、自分が努力しないで、自由のある世界で好き勝手が出来るというのは自由とはいえないわけです。やはり教師ととしての責任を負って、自分が学べ、相手も新鮮になってくるような仕事をつくりだしたときに、はじめて自由があるんですね。@教師は専門家として、しかも芸術や科学とちっとも変わりない創造的な仕事として作品を出さなくてはいけないんだと思う。そしてそこに出た作品は、瞬間瞬間に、みんなそこで消えてしまって、見た人の眼底に残っているだけです。そういうはかないしごとなんだけれども、やはり作品としてこれを見よと問いかけてみる以外にないと思うんですね。★ 毎回毎回の授業は、子どもたちと教師の間の作品作りなのだ。授業という作品を参加者の共同作業としてつくっているのだという、生々しい発言に触れた。
Jul 30, 2005
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昨日 千葉東京神奈川地域を中心に、震度5強の地震が発生。 私たちの住む町は 震度4ということだったが、ここ数年間に経験した中で最強のものだった。 その瞬間そとに出いていたのだが、地鳴りというものがこういう音なのか、とはじめて耳にした。不気味な、音だった。
Jul 24, 2005
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本日 都内の予備校系の幼稚園を見学してきました。 某河●塾の系列下にある幼稚園なのですが、この間の小学校における問題のあまりの深さに嫌気がさしていただけに、新鮮な感覚で校内を見ることができたように思います。 子どもの感覚に迫り そこから 何かが自然に引き出されてくる・・・ そんな子どもの姿を見続けたい という想いが 湧き上がってきました。 今 私たち が わが子たちに どれほどのことができているのか 振り返る機会にもなりました。 もっともっと 子どもと関わって 面白いなにごとかの関係を 創っていけたら楽しいだろうな と 校内を歩きながら 思ったことを 書き記しておきたいと思います。
Jul 10, 2005
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6月頭から 7月頭までの 一ヶ月間 学校との話し合いにおいて さまざまな点が議論された。それらの一つひつとはいずれも教育と関わったテーマであり、このHP上にその内容を書き記すに値するものと思っている。 まだ、ホットな時期なので その際に作成したさまざまな文書をこの場にすぐに載せることは見合わせるが、しばしの時間をおいて 順次UPしていきたいと思っています。 問題のある教師が 問題を起こしたとき、その問題と如何に向き合うことができるかを 問い続けた一ヶ月間だったようにおもいます。 私自身考えることも多くありました。 決して無駄な1ヶ月ではなかったけれど、莫大な時間をこの問題に割かざるを得なかった・・・。
Jul 8, 2005
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あっという間の7月 6月は一体何度、子どもの小学校に足を運んだことになるのだろう。 体罰教師にその事実を認めさせ、体罰をしたという認識を持たせ、 これからどのように指導していくのか、そのことをただし、保護者会が2度開催されて・・・・その間の経過報告がなされた。 私たちの対応がこれでよかったのかどうかは、これからの担任の動き方次第だろうと思う。 子どもたちをきちんと見て、子どもたちと接して欲しい ただ その当たり前の要求をしただけなのに、 体罰を肯定するものが あまりにたくさん世の中に存在することを 逆に 知らされることになった。 これはある意味で悲しい現実だ。 しかし、それを悲しがっているだけでは 現実は何も変わらない。 体罰でもってしか 子どもと接することのできないそんな現実を如何に変革できるか、変革しようとするか、変革する気にさせるか。 私にできることは何か。
Jul 2, 2005
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先週より 子どものクラスの授業参観がはじまった。 今週もあと二日 参観日がある。 先週は丸一日、授業観察記録をとりながら参観した。 いろいろなものが見えてきた。 子どもの担任は現在 休暇を取っているが、その代理の先生が行なう授業において、問題のある担任のクラスの子どもたちがどのように動くかは 見るべきところと考えている。 「授業観察」という用語は、教育学の中の用語であると考えているが、私はまだ、その方法論を確立しているわけではまったくない。とりあえず、必要に応じてとりあえずの記録を取っている状態だ。その中でも、子どもの教師の発話への食いつきぶり、授業の退屈さとそのときの子どもの動き の関連性は きわめて明瞭に見えた。 音楽の授業において、子どもが教科書を頭に載せ、子ども同士が教科書で叩きあい、それを見た教師の叱責が激しくなり、子どもが机の上に足を上げ、泣き出し、後ろのほうの子どもはまったく関係ない動作をしている・・・集中力のない授業展開に 驚いた。 私の感覚では、これは、「見せる」授業ではない。「見せられない」授業だ・・。こんな授業を見てしまった私は、これから、さらに、このクラスの問題点を指摘し続けていくことになるのだろう....
Jun 19, 2005
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先日 あまりの対応の悪さに 生まれて初めて、担任を糾弾した。 己の持てるエネルギーをすべて 言語に変換して その意図するところを伝えた。
Jun 13, 2005
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ありえないことに、今度は 担任が体罰を認めず、抵抗を続けている。 己の身の保全を測っているのか、何なのか。 記憶が飛んでいるなどという、ありえない発言を続けている。 とんでもない担任であることが あまりにはっきりと判明した日。
Jun 9, 2005
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子どもの担任の体罰の件 校長はその存在を認めました。 2時間、その後の対応を協議。 担任からの謝罪が どのような形でなされるべきか 今後 改めて 考えていくことになりそうです。 担任は、以前からの体罰教師だということ。 ・・・・・指導によって、体罰認識を どの程度かえららるのか が、まったく見えない・・・というのが校長の判断でもあったという・・・ ふだつきの問題教師でした。 それでも人間生まれ変わったように 変革することは、本人が本気であればありうることだとは思っていますので、その様子を くれぐれも注視していきたいと思っています。 なお、校長とは、その担任からの報復の存在について確認し、 それをいかにして 防止するか、させないか、今後考えていくことを 協議しました。
Jun 7, 2005
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子どものクラス担任は、体罰教師だった。 そのことが次第しだいに判明してきている。 本日校長宛に、質問と要望書を速達で、提出してきました。 報告できることは、このHPにて 書き込んでいきたいと思っています。以下は、学校サイドとこれからの事実確認、話し合いを進めるにあたっての資料・・・。@@@@@@@@@@@@@@@ 『子どもの権利 マニュアル』日本弁護士連合会 こうち書房 1995年 から 体罰について 関係のある箇所を抜き出しておく。 学校教育法 11条:「校長および教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒および児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」 <体罰とは何か>法務庁法務調査意見長官からの「児童懲戒権の限界について」(1958年12月22日)より 「懲戒の内容が身体的性質のものである場合を意味する」 「身体に対する侵害を内容とする懲戒―なぐる、蹴るの類-がこれに該当する」 「被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。たとえば、端座・直立等、特定の姿勢を長時間にわたって保持させるというような懲戒は体罰の一種と解されなければならない」 「特定の場合が体罰に該当するかどうかは、当該児童の年齢・健康・場所および時間的環境など、さまざまな条件を考え合わせて肉体的苦痛の有無を判定すべき」<懲戒との違い>法務省「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」(1949年8月2日)より・ 用便に行かせなかったり、食事時間を過ぎても教室に留め置くことは肉体的苦痛を伴うから体罰となり、学校教育法に違反する・ 遅刻した生徒を教室に入れず、授業を受けさせないことはたとえ短時間でも義務教育では許されない・ 授業時間に怠けた、騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない。教室内に立たせることは体罰にならない限り懲戒範囲ないとして認めてよい・ 人の物を盗んだり、こわしたりした場合など、懲らしめる趣旨で、体罰にならない程度に、放課後残しても差し支えない・ 遅刻防止のための合同登校は構わないが、軍事教練的色彩を帯びないよう注意すること <法的評価>損害賠償:体罰となる行為は違憲であり、刑法上の犯罪を構成する一方、不法行為として損害賠償の責任が生じる。 私立学校の教員の場合は、教師責任を問われているが、公立学校の場合には国家賠償法に基づき、地方自治体の責任になる。懲戒処分:体罰行為を実行した教師、またはこれを防止すべき義務のある校長など管理者がこの防止を怠っていたときには、公務員として懲戒処分の対象となる。(地方公務員法29条)<体罰のもたらす影響>教育とは生徒と教師の信頼を基礎としなければ成立しえないものであるが、体罰はこの教育の基礎というべき信頼関係を暴力によって破壊するものといえよう。したがって体罰のもたらす第一の影響は、信頼によって立つ教育の根本的な破壊である。<体罰に対する対策>・ 教師・校長ら教職員に対する説明・改善要求・ 教育委員会に対する改善措置・罷免の要求・ 学校設置者としての市区町村に対する責任追及と改善要求★ 市区町村議会の議員と提携する。ただし、慎重に対応しないと反発・介入を招くこともあるので要注意・ 民事・刑事など法律上の責任追及・ 生徒会、PTA.市民団体などの活動による改善 →参考図書『子どもの人権110番』有斐閣・ 弁護士会人権擁護委員会・子どもの権利委員会への申し立て<留意すべき事項>・ 「円満な処置」と「見逃す」こととの区別を付ける★ 徹底的に調査して体罰が絶対に許されないことを明確にしなければ後続を断てない。公表しない場合でも、この2つの区別は付けるべきだ。・ 報復的不利益を受けることを恐れない★ 学校側に抗議することによって、報復され不利益を受けるのではないかとの恐れから、体罰を是認し横行させている場合が多いが、体罰を根絶する強い意思態度で臨むように援助する・ 校長・教育委員会の指導責任を明確にする★ 体罰画発生した場合、校長・教委側の答弁はほとんど、「さようなことが起こる気配はなかった」「知らなかった」「聞いていなかった」そして、「再びこのようなことを繰り返さないように」。これは、日常の指導責任が以下になおざりにされていたかを明らかにするものであり、もともと知らなかったでは済まされるものではない。 このような答弁に終始させないように具体的な対策を立てさせなければ再発は防げない。・ 被害者の気持ちを最大限尊重する子どもの権利:子どもには正当防衛・緊急避難(刑法36条、37条)によって、理不尽な体罰と称する暴力から身体・生命の安全を守る権利がある。(登校拒否も体罰に対する抵抗であることが少なくない)資料1 体罰禁止の申立書 被申立人 校長 申し立ての趣旨:学校における教員体罰を禁止することの指導を求める 申し立ての理由: 1学校における教員の体罰 具体例 2教員の体罰と学校側の態度 ・・・申し立てをするまでの学校側とのやり取り 3体罰は学校教育法に違反する 11条違反である。 4よって 申立人は 被申立人に対して、教員の生徒に対する体罰の禁止を求めて申し立てに及んだ次第である 5事件申し立てについては、書面による回答を求める この郵便物は、証明郵便物として、差し出したことを証明します・・・郵便局長
Jun 5, 2005
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今 眼の前にある暴力 2005年5月に入って、子どものクラスで、担任教師が体罰という名の暴力を行使し始めている。その内容は、聞こえてきた範囲で、子どもを廊下に立たせること、教師に言うことを聞かなかった子どもの両手を上に長時間にわたって挙げさせ続けること の2点。担任教師の喘ぎにも似たようなものを私は感じる。どのような思いで、担任が子どもにこのような体罰を行っているのか、きちんと聞き取るべきだと思うが、今現在は何もできていない。その中においてさえ、今考えなければならないことがあると思う。 「廊下に立たせる」という体罰は私には、古典的なまさに古典的な対応であると直感した。「え?」なぜ今の時代にこのような方法がというのが正直な感想。そして、そのことはおそらく、まだ、「公」にはなっていないだろうということ。(それは「公」にすることの恐怖つまり教師からの次なる反撃の恐怖を乗り越えなければならないからだ。) 立たせられた子どもの立場になって考えれば、明白な人権侵害であることは論を待たないだろうと思っています。立たされているということは、全校生徒の知るところになる可能性がある。さらしものにされる可能性がある。また、授業を受ける権利を教師が意図的に奪ったことになる。また、両手を長時間挙げさせるという行為は「陰湿な」子どもへの対応だと感じます。「殴る」ことがよい対応だとは決して思わないけれど、なぜ殴られたかは殴られた側は実感しやすい。このいじめ的な対応は、子どもの心を陰湿なものに変質させると感じた。もう一つの暴力。本日、運動会のプログラムが配布されてきた。見て愕然。「国旗・区旗・校旗」掲揚と明確に書き記されている。「この話聞いてない・・・。終業式・始業式に挙げるとは聞いていたけれど・・・やっぱりな」という印象はぬぐいきれない。しかも、運動会始まってすぐに掲揚し、降ろすところまでやるらしい。ということは、ひょっとすると、子どもたちの誰かに、この作業をさせるのかもしれない・・・。国家の暴力装置である「日の丸」を浸透させるための場として、運動会が利用される。以上のことを、<観念論的なことば>で現象を捉えるなら次のようになると思います。国家の暴力装置として「日の丸」が一方にある。それを運動会という場面で、子どもに、親に強制する。そのことを通して、国家の意思、国家の存在を意識させる。国家とは、強大なものだ、反対することなど許されないといった意識の付与がなされる。「日の丸」を揚げ、降ろすという行為を子どもたちに見せることを通して、「国家の意思」を伝えようとしていると考えざるを得ない。もう一方に、本来国家とは切り離されて存在していることが可能な「学級」という存在がある。この中で、学級支配という名目で、教師によって暴力(的)行為が生じている。子どもと教師が本来の関係を形成できず、本来のあるべき姿から、次第しだいにずれてきている。そのずれは、大きくこそなれ、縮まない。子どもは萎縮する。教師は強権をふるいたい放題振るうようになるだろう。今、わが子は、国家の暴力と、教師による学級暴力の2重の暴力支配を受けていることになる。その両者が、区別されることなく、おそらく体に染み付いていくことになるのだろう。その中で、一体何を感じるか。10歳にもならない児童の純な心の中に、何を感性として身に付けさせられてしまうか。 「暴力の連鎖」ということばがあるが、その連鎖の最初の回路を作っているのが学校そのものではないのか。こんな学校はいらない。考えただけでも うすら恐ろしい。
May 20, 2005
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いよいよ 首都圏でも 女性専用車両が デビューしました。 まだまだ 始まったばかりなので、はっきりとしたことはいいがたいと思っているのですが、この風潮がどこまで突き進むのかについては 注意してみていかなければならないだろうな戸は思っています。 「痴漢行為」を名目にした、「女性の保護」という観点は理解できるし、それを支えるものとして、「痴漢行為」をしたという冤罪をきせられてきた男性が、この電鉄会社の方針を望むのは理解できる。 しかし、この問題が「女性の保護」の問題だけで推移するのなら それはそれで私が今抱いている気持ち悪さは 大部分解消していくのかもしれない・・・。 この「女性専用車両」という対処療法的な方策でもって、ことに対応したが故に副次的に発生してきかねない大問題が あるような気がして私にはならないのです。 「女性の権利の保障」と「男女の分断・男性の排除」の問題は、ことを見間違えると、あるいは、事の展開次第では、どちらに触れるかは判らないと思っているのです。「排外主義」的な動きが 結果としてこの方策の実行によって強められことがあるのなら、このことの問題を 違う形で展開していただくことを 電鉄会社に求めていくことが必要であると思っています。 はじまって 1週間が 経つ前ですが・・
May 15, 2005
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入学式および入学式以降も 「日の丸 君が代」の件で 依然として小学校とは交渉継続といった印象です。 そのため 整理した文章のUP は 当面見送ろうかと思います。 一段落ついて、管理職の利害関係がなくなったろころで、事実経過および私の考えをUPしていきたいと思います。
Apr 19, 2005
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こどもの小学校の入学式をめぐって 昨日今日と小学校と対応を重ねてきた。もちろん、日の丸・君が代の件です。後日 記録をUPする予定。
Apr 6, 2005
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今年も春期講習の時期になりました。新しい学生との出会い。苦しい予備校経営の中で、どのような学生と今年度で会えるか・・・。
Mar 23, 2005
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数学の学力が伸び悩む学生の 心理機構を仮説として考えてみました。<悪循環の回路> (1)自分で問題集をやろうとした場合問題を少し考える→わからない→解答を見る→ノートに意味わらずとも書き写す→判った気になって安心する→やり直すことはない→実際にはできないのだがそのことを意識しないですむ→実力がつかない→テストで点数が出ない→なぜ点数が出ないのかがわからない(自分では作業しているのに・・・)→ 迷宮入り(2)集団授業で力を付けようと授業に出た場合テキストを予習する→できたものと、できないものがある→教師の板書された解答をひたすら写す→写すことで安心する→判った気になる・判らなくても解答があるので後で復習すればよいと安心する→自分でできたものだけが生きた力になるが、できなかったものは依然として未開発→実力が上がらない→理由がわからない→迷宮入り(3)XX回などの通信添削の場合添削問題をやる→調べながらでもできた問題、できなかった問題がある→郵送する→解答が送られてくるが、添削は2週間ほどかかる→解答を見ても、自分の疑問がすでに雲散霧消している→添削が真っ赤になって返ってくる→さらに時間が経過しているので疑問は完全に消えている→真っ赤になった添削に意味を見出しがたい→添削の提出をしなくなる→迷宮入り@@@@他にもいろいろな悪循環系があると思います。その系が自分で自覚できたとき、はじめて 学力の向上へ向けての新しい循環が始まるのではないかと思っています。
Mar 20, 2005
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三角関数について 直角三角形を考えて 斜辺(一番長い辺)を1の長さにしたとします。 斜辺ともう一辺のなす角をθとします。 このときできた三角形で 辺の長さが、1 cosθ sinθ で 表せる。 この三角形は かなり有効です サイン、コサインの定義式であると同時に さまざまな公式の証明が行える 三角形でもあります。 (未了)
Mar 18, 2005
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インフルエンザは influenceと似た単語だなと思っていたところ・・・@@@@@インフルエンザの語源は、「星の影響」を意味するイタリア語「influence」である。昔のイタリアでは、この病気の原因が解らず、占星術師などにより惑星の並びによるものと考えられていたことによる。@@@@@という記述を見出した。昔 病気を治すために 占い師 などの果たす役割が極めて大きかったことを改めて感じたしだい。この時代のことを、非科学的な治療法であると、私としては、簡単に切り捨ててしまってはいけないと思っています。当時、多くの人がわけのわからない病気で死んでいく、その様を見て、何とか 命を救いたい、生き延びたい そのためには 占いにでも、祈祷師にでもとにかくお願いをして、そのことでもって、心の安寧を保ちたい。きっと そんな気持ちで、インフルエンザの流行の過ぎ去るのを待っていたことだろうと思うのです。医師というものの存在の原初形態がここにはあると思います。
Mar 16, 2005
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以下は 今 私が考えている 入学式に参加された皆様へのお手紙・・・・ @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@新入生の皆さん、入学おめでとうございます。 ここに集まられた保護者・教職員・関係者の方々、私には、この度の入学式において わからないことがあります。 「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱のことです。 なぜこのことが、この入学式に必要なのか、ひとりの新入生の親として 私にはわかりません。わが子がこの小学校で 学びはじめるというそのスタートの日に、なぜ「日の丸」が掲揚され、「君が代」を斉唱されなければならないのか・・・・わたしにはわからない。 私は、「子どもにわからないことはわからないと言いなさい」とこれまで教えてきました。これからもそうするつもりです。私が子どもに言い聞かせていることを、私自身が破るわけにはいかないので、私は今この皆様へのお手紙で、私にはここがわからないとお知らせしているわけです。そして、もし皆さまが私のこの疑問への答えをお持ちならば、是非とも教えていただきたいと思っています。小学校という教育の場であるからこそ、「私は自らの恥をさらしてでも、私は私のわからないことはわからないと言わねばならないと思っています。」 ただわからないからといって、わからないわからないというだけでは、進歩がないので、子どもには「自分なりに調べて見なさい。その上でまたわからなければわからないところを言ってきなさい。」と教えています。なので、子どもたちの教えのとおり、私もこの件でいろいろと考え、調べてきました。それでもわからないのです。区立の小学校の入学者は《日本人に限定されている》から日本の国旗であるという「日の丸」を掲げ、日本の国歌であるという「君が代」を斉唱しなければならないのだろうか? 学校教育法を読んでみたところ、国籍に関する条件はどこにも書いていなかった。おもいだして見れば、在日朝鮮人の私の友人はかつて同じ小学校で学んでいたので、日本人に限定されているということなどどこにもないことはわかった。日本国籍を持つものだけが入学してくるわけでもないのに、なぜ、「日の丸」「君が代」を子どもたちに、保護者に、教職員に強制しようとするのか…ますます その根拠がわからなくなった。 次に考えたのは、区立小学校では「日本人であること」を強調したいから、その初めの日に、日本国家の旗といわれる「日の丸」、日本国家の歌といわれる「君が代」を強制するのだろうか? 今日本国籍を所有していなくとも、小学校に通っている間に日本国籍を所有するように暗に促されているということなのだろうか? どの国の国籍を所有しようとそれは本人の選択の自由だと思っていたのだが、それは間違いだったのだろうか?? 私は、入学式とは、新入生の入学をお祝いする会なのだと思ってここにやってきました。心からわが子とその同級生の入学をお祝いしたい。そして、保護者・教職員の皆様にはこれから6年間よろしくお付き合いくださいと申し上げたい。心からそのことばを言える場であってほしいと思う。 しかし、現実はどうだろうか? 私の持った疑問は、果たして私だけの疑問なのでしょうか? 私にはそうは思えないのです。ここに集われた多くの方々の中には、「日の丸」「君が代」の中にある多くの疑問・矛盾を感じられていると思うのです。かつて、15年戦争において日本軍はアジア各国を天皇の名で、「日の丸」を掲げて侵略した。侵略の血が染み付いた「日の丸」、侵略を推し進めた天皇を賛美する「君が代」。その歴史的な事実の存在を知っていながら、そのことを授業で教える前に、入学式という場で、新入生に無前提に子どもたちに「日の丸」「君が代」が押し付けられる。 私にはこのことは全く納得がいきません。 「国旗国家法」が国会で承認されたとき、教育現場ではそれは強制しないという国会答弁があったことを記憶しています。しかし、今私たちの前でなされていることは、「強制」そのものです。 しかも、「強制する」根拠がわからない。 以上のことから 、私は本日ここに抗議の意を表したいと思います。 ここまで、読んでいただいたことに感謝します。 皆様の意見をいただければ幸いです。 2005.4.吉日 ****@hotmail.com 新入生の親有志
Mar 12, 2005
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2005年度 都立高校卒業式において、「日の丸・君が代」の強制に反対するものがビラまきを行ったところ、校長が警察に通報→逮捕 という事態が今 私たちの前で生じている。これは 昨年度の「日の丸君が代」の強制の動きを受けた動きと見てよい。 ビラを配る自由さえ、今 「日の丸・君が代問題」においては制限されてきている。大問題である。 ビラを配って自分の意見を主張するという「表現の自由」を制限している学校長に問いたい。 貴校においては、 「学生に自分の思うこと感じることを表現することを奨励していないのか?」 「学生は教師の言うことをただただ効いていればよいのだなどという指導をつねにしているのか?」と。 参考記事:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050311-00000069-mai-soci
Mar 11, 2005
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『DNAの冒険ーことばと人間を自然科学する』を先週から突如読んでいる。 この本は、数年前に購入し 当時一定のところまで読み進んでいたのだが挫折し、時間がどんどん経過していた。 この度 ふとこの本がわたしの目に留まり 一気に読み進んでいる。 DNAをめぐる議論を さまざまな角度から さまざまな素朴な疑問を吸収しながら 開かれた場における初歩的な議論を通して 論が展開されて行く様は やはり私が目指す一つの議論の形態のあり方を指し示しているように思う。 時を改めて また この本から学んだことを 整理することを通して 私自身の 飛躍を遂げたいと思う。
Mar 9, 2005
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山の事故で 岩と地面の間に自らの片手が挟まり その手を自らナイフで切り落とすことで 何とか 岩場から這い出し 自らの命を自らの手で 守ったという ARON RALSTON の話を PENGIN READERS '’STORIES OF COURAGE''のなかの一つの話として 昨日読む。 私自身 登山で 山道から転げ落ちたことがあり、助けに来てくれた物をも引き込んで 落ちそうになり、第三者にさらに助けを求め 何とか助け出されたという経験を持つがゆえに 当時の状況を思い起こしながら 読みました。 山で同じような事故にあったとき、私ならどうするか 自らの命を守るために 自らの手を切断するという選択をはたしてできるか ・・・思いをめぐらせました。
Mar 1, 2005
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ちかごろ 小さな文字を見るのが つらくなりつつあります。このたび、このHPの文字は できるだけ 大きなものに設定してみました。私てきには ずいぶん見やすくなったなと 感じています。
Feb 28, 2005
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ほっ としたそのときを たいせつにしたい。ぶじに いちにち をおえられた ことをただただ ありがたかったとおもいながら くらしたい。これが ほんらい の いきざまなのだ・・・
Feb 27, 2005
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ここ数年 大手予備校 K塾 や S台が都内のいたるところに教室を展開し始めました。10年前には考えられないことでした。 K塾は千駄ヶ谷、S台はお茶の水と 都内では一箇所で その教室数を増やしていったのに対して、ここ数年、町田を皮切りに、自由が丘、吉祥寺、青葉台 と これまでならそこに教室を出すなどとは考えられない場所に教室を開き始めた。浪人部が今後圧倒的な勢いで減少していくことを見据えて、「現役館」などと銘打っている次第。 地元の塾・予備校にとっては非常に生徒集めが厳しくなる。こどもの数が減少している上に強力な同業他社の登場では、潰れるところが次々と出てくることだろう。 かくいう、私のいる予備校にも いよいよ 新設K塾の影響が出始めるものと思われる。
Feb 17, 2005
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りんごを食べたいとおもいお店に行く。 多くの種類があれど、つやだし剤をつけたものを避け素朴な一見いろの悪いりんごを買って帰る。 おいしいのかな?と思いながら皮をむく。 一切れ味見しながら むいていく。 おいしい。 しかも 蜜入りだ!! こんな毎日がつづいている。@@@@@@@@@@@@@@@りんごの色のよいものは 一瞬おいしいのかなという気持ちを起こさせる。明らかに人工的な色つや であっても、りんごは赤い、赤いりんごはうまい、という固定観念からすぐには抜け出せない・・・。そんな日々の葛藤の中で、おいしいりんごに素朴に出会えたときは、素朴にうれしくなれる。
Feb 16, 2005
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