戦前戦中の語り部

戦前戦中の語り部

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

明日が楽しみ

明日が楽しみ

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Comments

しゅぽいめん@ 風水で5年間幸せ 女性は、首にはネックレス 指には指輪 手…
しゅぽいめん@ Re:平成二十六年、2014年は、歴史的転換点になるか(01/02) 新春明けましておめでとうございます。 2…
しゅぽいめん @ Re:堺市長選挙告示(09/21) 訪問有難うございます(-_-)/~~~ピシー!ピ…
モンブラン ボールペン@ uffzkhlvuug@gmail.com 突然訪問します失礼しました。あなたのブ…
シャネル 財布@ bbysmhy@gmail.com 今日は よろしくお願いしますね^^すごい…

Freepage List

2020.08.15
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
私は元気で、75回目の終戦記念日を迎えられ感無量です。

あの悲惨な大東亜戦争敗戦日は当時としては、最も暑い35度でした。
空は真っ青と言うより、紫色で、今では日本アルプスでも見られなくなっています。

当時、私は大阪の難波国民学校から滋賀県栗太郡老上村野路、現、草津市野路に集団疎開していましたが、三月十三日深夜からの第一回大阪大空襲で、今の難波体育館の入り口に在った実家が焼かれた事を知ったのは生き残った家族がぽつぽつ子供を引き取りに来てからでした。

三月末に、母親が迎えに来ましたが、空襲で破壊され、難波からは高野線直通運転はなく、南海本線に乗り、岸里駅で、高野線に乗り換えることになりました。

しかし、やって来たのは、屋根のない無蓋貨車で、子供では乗り込むことは無理でした。

母親は必死に乗り込み、引っ張り上げてくれましたが、沢山の人に押しつぶされ、呆然と立っていると貨物列車は行ってしまいました。

新しい家がどこにあるか、降りる駅も分からず、何時間も立ちすくんでいると、引き返して来た母親に会いほっとした光景が今でも浮かんできますが、新しい家に着いた記憶は飛んでいます。

それから半年で、終戦を迎えましたが、新しい学校はdeep大阪と言われる南河内郡で、自己紹介で、名前と集団疎開の話をすると、ひひん、そうけ? と言われて、度肝を抜かれました。



15日の玉音放送はおはぎを食べながら聴きましたが、昭和天皇が何を言われているのか、分からなかったが、数日まえ、お墓参りで、敵B29爆撃機が谷町九丁目付近で、撒いたビラ、マリアナ通信で、ポツダム宣言受諾を読んでいたので、日本が負けたと直ぐに分かりました。

そのビラは直ぐ憲兵が取りに来て、手元にはありませんが、頭には刻まれています。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.08.17 14:07:09
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: