・・風  


そこからバスに乗り継いでここまでやって来た。
博多から香椎に出て西戸崎、海の中道、という電車のルートも考えたが、
瀬戸内育ちの私には矢張り船の方に魅力がある。
船で直接志賀島へ入りたい、という気持ちも強かった。

が、港に着いたとき、志賀島行の船は生憎(あいにく)出たばかりであった。
次の便までには1時間もあり、待つよりは乗った方が、
と勧められて海の中道行に乗船したのである。

後備のデッキに立って潮風を受ける。
博多の街が見る見る遠離っていった。
何か船内放送をしているのだが良くは聞き取れない。
子供達の歓声と乗客たちのお喋りにかき消されているのだ。
近い遠いに拘わらず、誰だって旅は楽しいもの、
この喧騒も気にはするまい。
湾を横切ること30分足らずで海の中道に到着した。

レジャーランドとして開発された海の中道は、
若者や子供連れで賑っている。
園内のスピーカーからは、派手なBGMがかなりの音量で流れ、
イルカショーの案内に交じり、時々その観客の歓声も聞こえてくる。
蘇鉄(そてつ)と海、ビーチ、ホテル、ゲームセンター、レストラン、
人が右往左往していてぶつかりりそうになる。
正にレジャーランドである。
私は躊躇(ためら)うことなく公園を横切って、
船着き場で教えられた志賀島行のバス停へと向かった。

バスはなかなかやってこなかった。
整備された道路を車はかなりのスピードで通り過ぎていく。
私は上がり框(かまち)に腰掛けるようにして、
一段高くなっている歩道の端に腰を下ろした。
日頃殆ど運動をしない私の筋肉は、
鍛えられていない為かすぐ疲れる。
歩いているよりも、じっと立っている方が疲れてくる。
最近の若者のように、立っていられなくてついしゃがみたくなるのである。

以前、海外旅行のツアーに参加した時も、
「今度は体力をつけてから参加してください」
と別れ際に添乗員から言われた。
ロンドンの地下鉄に乗った時にも、
「ほら、席が空いたわよ」
と、私は年長の人から声を掛けられ、
些か恥ずかしい思いをした。
体調の優れない時であったとはいえ、
体力のなさを、しみじみと情けなく思ったものである。

それでも、なかなかトレーニングをする気にはなれない。
「私も少しは運動をしなくちゃいけないわ」とか、
「水泳かせめて散歩でもしなくちゃ・・」
と、口にするばかりである。

それは、多忙過ぎるほどの毎日と日頃の睡眠不足とを思えば、
本当は身体を鍛えるよりも休めた方がいいのだ、
と一方では思っているからかもしれない。

「運動をしなくちゃいけない、と思うなんて。
私は楽しいからするのだけど・・」
とは娘の弁である。

確かに、私は、運動は余り好きではないのである。
それほど好きではないことの為に、
わざわざ出掛けていくなんて、億劫なことこの上ないのである。
ものぐさな私は、何か運動をしなくちゃ、と言うだけで、
結局死ぬまでせずじまいになるのであろう。


瓦葺の民家が軒を連ねる。
曲がりくねった細い道を、バスはゆっくり進んだ。
所々、軒先に堤燈(ちょうちん)が吊るされ、
そのいずれにも、「献燈」と筆で肉太の文字が黒々と書かれている。

町は祭りのようだ。
遠くから神楽が聞こえる。
白くペンキで塗られた古びた木製の掲示板には、
秋の大祭を知らせる張り紙があった。

その横に「ターナー展」のポスターも貼られている。
私は異郷の地で友人に会ったような、そんな思いでそのポスターを眺めた。
数年前、ロンドンのナショナルギャラリーで数多くのターナーに出合い、
この夏それをもう一度見たくて横浜の美術館に足を運んだ。
その展覧会がこの漁村の近くで開かれていようとは。

港の好きなターナーは、
この小さな漁村をどう描くだろうか。
先刻バスの窓から見た、砂地に引き上げられてあった舟や、
ロープに吊るされて、
風にはためきながら日を透かしていた烏賊を思い出す。

とりわけターナーが好き、というわけではないが、
幾人かの比較的好きな画家と同じように、
ターナーもまたいいのである。

絵画は専ら見て楽しむだけで、
私は専門的なことは何一つ解らない。
好き、余り好きではない、のいとも単純明快な見方しかしない。
いや、出来ないのである。
そんな私でさえ、ターナーの絵には風を感じる。
モネの絵の中に見る柔らかい光と同じように、
私はターナーの、その風が好きなのである。



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