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暑くなったり寒くなったり・・。 毎年の事ながらこの季節ははっきりしない天気が多い。30度を超そうものならたまらなく飲みたくなるものがある。 そう、ビールである。 友人や知り合いには私が無類の酒飲みというイメージが定着しているが、毎日毎日飲んでいるわけではない。ただ、一回飲み始めると延々と、何時間でも、吐いてでも飲み続ける、というだけなのだ。 私の飲酒歴はかなりの年数になる。 兄に勧められるままビールを飲んで吐いたのが12歳の時。 中学3年の頃の私には、何故か不良の友達が多く出来てしまい、そいつらと大人ぶって味もわかりゃしないのに毎日ウイスキーを飲んでいた。飲み方もわからなかったためストレートである。氷もいれたことがなかった。 ある日不良の女先輩を交えて飲んだ日には、不良女先輩の持つ色気と香りにメロメロになってしまい、浮かれ気分で痛飲。気づいたらトイレの便座を枕に眠ってしまっていた。かけていたメガネも真っ二つに折れていた、というオマケ付きであった。 しかし、その出来事から好きな女の子のタイプがガラリと変わってしまい、ケバイ女が好みになってしまった。 話を戻そう。 しかし、基本的に私はビールしか飲まない。飲まない、のではなく飲めないといった方が正確だろうか。 日本酒も焼酎もウイスキーもワインも、一滴飲んだだけで不愉快になってしまう。 また、私は「飯を食いながら酒を飲む」ということが出来ない。居酒屋などで飲んでいても、つまみの類は一切食わない。飲むだけ、である。 なにか非常に損をしているような気がしないでもない。 もうすこし「オトナの飲み方」をしたいものである。
2006年09月20日
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さて今回は祖父の話である。 我が祖父は齢90の大長老である。近頃めっきりボケてきて、背中もほぼ90度に曲がっているが元気で中々死にそうにない。 この祖父は昔からチョイチョイおかしな行動を起こしては、家族を爆笑と混沌の渦に巻き込んできた。 ある時、いきなり髪型をモヒカンにして食卓に現れた時は父が味噌汁を吹いた。 ある時、パンツ一丁で食卓に現れた時は母が烈火の如く怒り狂った。「暑かったから」との名言を残し、祖父はそのままの格好で飯を食った。 ある時、私が便所のドアを開けると、祖父は便座にまたがりうんうんと唸っていた。慌てて出て行こうとする私に一言。 「ワシのことは気にせず、小便をしたらよい。」 ・・・できるかっ!! と、まあ数え上げればキリがないのである。 しかし、私が祖父と暮らしてきて一番驚いた事がある。 いつものように、夕食の時間を告げに行こうと祖父の部屋のドアを開けたところ、祖父が難しい顔をして悩んでいた。「どうしたん?」と声をかけると、「いやぁ~、このビデオを見ようと思ったんじゃが、途中で見れんようになってしまうんじゃ。」との事。 そのビデオテープを受け取って調べてみると、テープがぶち切れていた。セロハンテープで応急処置をし、「ちょっと画像が乱れるかもしれんけど、一応見れるはずだよ。」と私はデッキにテープを入れて再生ボタンをプッシュしたところ・・。 画面に映し出されたのは、男と女が絡み合う魅惑のパラダイス映像であった。 俗に言う「エロビデオ」である。 「ジジイのくせにこんなもの見やがって・・。」と呆れたものの、当時私は思春期真っ只中の純情少年であったため、画面に釘付けになってしまった。 想像して見て欲しい。 一心不乱にエロビデオを眺めるジジイとその孫・・。 しかも祖父は耳が遠かったため、テレビからあふれ出る音は大音量であった。その音を聞きつけた母が慌てて祖父の部屋に飛び込んできて、無言でテレビを消した後、何故か私に鉄拳をふるった。 あの時の痛みと、祖父と分け合った甘美な空間を決して忘れはしないであろう。 祖父が死に、弔辞などを披露できるのであれば、この一件を是非とも語り、涙を誘いたいものである。
2006年09月18日
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私はプロレスが好きだ。 中学生の頃、たまたまテレビを見ていたらプロレスをやっていた。四角いジャングルの中で、屈強な男達が組み合い、投げあい、殴りあう。 私の中で何かが弾けた。初めての恋にも似たあの時の高揚感を何と表現したら良いのか、今でも言葉は見つからない。 プロレス雑誌を読みふけり、レンタルビデオ屋でプロレスビデオを借り、プロレス好きの友人(そのほとんどは、私が洗脳したのだが)と、技の研究をし、威力を検証しあったりして遊んでいた。 私のプロレス熱は、4つ年上の兄にも飛び火した。むしろ、兄にとっては日々溜まる受験勉強のストレスを、弟がプロレス好きをいいことに、殴ったり蹴ったり投げたりして、晴らしていたに過ぎなかったのであろうが。 兄と私の熱い闘いは、兄が勝手に私の部屋に入ってきて、「カーン」と言われた瞬間から始まる。いきなり殴りかかってくるものだからたまらない。普通の人間ならば、その理不尽な暴力に憤るものだが、私の場合は違っていた。むしろそのゴングの瞬間を今か今かと待ちわびていた。ここまでくればちょっと頭がどうかしている、と思うがどうだろうか。 闘いは毎日のように繰り広げられた。しかし、一般家庭にはリングなどと言うものはない。当然床はフローリングで、固い。そんな凶悪な環境の中で、兄は私をバックドロップで投げたり、パイルドライバーで脳天から落としたり・・。 よく死ななかったものである。 闘いは2階で行われていたため、当然下の階に響く。下の階というのは主に両親のテリトリーである。どっすんばったんと毎日の様にやられた両親の怒りはどのようなものであっただろうか。 業を煮やした母親が、階段を獣のように駆け上がり、私の部屋のドアを音速で開けた。 男と男の闘いのリングに、乱入してきたのである。 「おまえら、ええかげんにせんか~~~~!!!」 雄叫び一閃。突如の招かざる乱入者に動きが止まる兄弟。 動きの止まった兄の手をとった母親。私は兄に迫り来るであろう悲劇を憂い、その成り行きを見守っていたのだが・・。 母親は兄の手をとり、勢いをつけて窓際へ押しやった。ん・・?こ、この一連のムーブは・・。まさか母親は兄を「ロープに振った」のか? 殴られる、と思っていたであろう兄も、予想だにしない流れに困惑顔であったが、いまだ闘いの余韻が体の奥底にくすぶっていたのであろう。 部屋の端の窓際に放り投げられた兄は、いったん窓際まで走っていったかと思うと、くるりと反転し、窓に背中をつけ、そのまま母親の元へと帰っていったのである。 まさしく、プロレスの動きそのままであった。そう、ロープワークによる攻防を、この親子は私の前で見せていたのである。 高々と手を上げていた母が、走りよる兄に向かってその手刀を切った。故・ジャイアント馬場にも勝るとも劣らない見事な「脳天唐竹割り」であった。 カウンターでその一撃を受けた兄は、あえなくダウン。そのまま10秒ほど立ち上がれなかった。 うずくまる兄に「静かにせえ!」と捨て台詞を吐いた母は、意気揚々と階段を下りていった・・。 その出来事以来、兄は受験勉強に精を出すこととなり、私の部屋に入ってくることもなく、当然ゴングも鳴らなくなった。 母は強い。
2006年09月15日
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今日は私が高校生の頃のお話をしようと思う。 私が通っていた高校は、男子校であった。その高校は頭をイカレタ色に染めた者や、制服のズボンが必要以上に膨らんでいる者が多い、いわゆる不良という者が多数いた所であった。 中学生の同級生が、マトモな共学の高校に通っていく中、私は女っ気一つない刑務所の様な高校に通う事が心底イヤであった。また、もう少し勉強しておけばよかったと後悔したものである。 どの学校にも入学する前に、説明会みたいな行事があるのだが、その説明会を担当した教師の中に、ゴリラとワニを足してさらにカバをかけた様な凶悪な風貌の教師がいた。 「この先生にだけは関わりあいたくない!」 とありったけの祈りを天に投げかけたが、その願いは届かず、その先生はめでたく私の担任になった。オマケに高校生活3年間の全て、この先生は私の担任となるというドラマが待っていた。 生徒の6割は不良であったが、治安に関しては全くと言っていいほど安全だったように記憶している。その理由は、どんな不良よりも先生が強かったからである。 とにかく先生方は、少しでも素行の悪い者を見つけると容赦なく殴る、蹴るのである。昨今のニュースで騒がれているような体罰など、生ぬるいほどの「暴力」でもって生徒を支配していたのである。 これは私が1年生のころの話である。 英語の授業中、ベラベラとお喋りをカマシている不良2名がいた。英語の先生は、白髪交じりのダンディーな優男風の、微笑を絶やさない先生であったため、ナメられていたのだろう。 なんど注意されても不良2名はお喋りを止めなかった。ダンディー先生は微笑みを絶やさず不良2名に近づいていったかと思うと、持っていた和英辞典を高々と振り上げ、その背表紙を不良2名に次々と叩き付けたのである。 頭を押さえながら動かなくなった不良2名。クラス中が凍りついた。 そして何事も無かったかのように授業は続けられた。私はこっそり読んでいた漫画を机の中に音も無く戻した。それ以来、英語の授業中には無駄話が一切無くなった。恐怖政治とはこういう事なのだろう。この学校の治安の良さの一画を垣間見た様な気がしたものである。 まだまだ書き足りないが、続きはまたの機会にしようと思う。 私が体験した事を思い出したら吐き気がしてきたからである。もう寝よう・・。
2006年09月13日
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関東地方は今日も雨。肌寒い日が続いている。 私の隣でちょこんと座っているウサギも、寒さに震えている。 日々忙しい中、私が一番めんどくさいと思う作業は、「飯の用意」である。基本的にズボラな私。料理をすること自体は好きなのであるが、オノレのためだけに飯の用意をする事は、そこはかとなく侘しい気がするのである。 外食をしてもいいのだが、外食には私のおかしなコダワリスキルが発動してしまう。そのコダワリスキルとは、「自宅で作れそうなものは食べに行かない」というもの。 例えば私は焼き魚が大好物な生き物であるが、それをわざわざ近所の店に食べに行かなくても、自宅で焼いて食えばいい、という考えの持ち主であるのだ。 もちろん、店にはそんじょそこらのスーパーではお目にかかれない素晴らしい素材などを客に提供するのであろうが、それでも納得が行かないのもまた事実。 話が訳のわからない方向に逸れてしまった。飯の用意の話に戻ろう。 私の夕飯というのは基本的に、白飯+おかずのみである。シンプルイズベスト。味噌汁だとかサラダだとかいうオプションは一切つかない。 また、おかずを大量に、一人で食うにも関わらず3~4人前ほど作る。アホである。 今日などは思わず涙がホロっとこぼれ落ちそうなほど悲しいメニューであった。 近所のスーパーに、豆腐が破格の値段で売っていた。その値段驚く無かれ30円。なにかイカガワシイ香りが漂ってくるがおかまいなし。 庶民の私は安いものに目がないのである。 その豆腐を気が狂ったかの如く、5丁購入。しめて150円也。 もうお分かりであろう。そう、今宵の晩餐は「湯豆腐」である。断っておくが、豆腐のみである。 土鍋など無い。野菜も、薬味もない、純粋な曇りのない「湯豆腐」である。 出汁昆布、ポン酢、豆腐。材料はこれだけ。書いている私ですら涙をこらえきれないほどの侘しさである。 出汁をとって大量の豆腐を入れ、ポン酢と共に食らう。男だ。なんて男なんだ。 3丁をたいらげ、体は汗だく。これだけ大量に食うと、たかが豆腐とは言え満腹になる。しかし腹持ちは異常に悪い。燃費が悪すぎる。2時間しか経っていないのにもう空腹を覚える。 さすがに豆腐は飽きたので、いそいそとラーメン屋に向かう私・・。 アホである。こんなことなら最初からラーメンを食っていればよかったのである。 一人暮らしは侘しい。特にこんな肌寒い日には・・。今宵もいいブルースが私のギターから奏でられるであろう。
2006年09月13日
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残暑お見舞い申し上げます。 最近はなんの罰か特に忙しく、なかなかドンドルマに行けないアキです。 当分はモンハンとは関係のない話が続くでしょうが、ご容赦あれ。 さて、私は自慢ではないがヘビーゲーマーである。 ファミコン、ディスクシステム、プレステ、セがサターン、ドリームキャスト・・。 名だたるハードを全て所有していた。特に、エックスボックスにいたっては、「フェイブル」というゲームをプレイしたいだけの為に、アキ情報網をフル活用し、神奈川県の質屋で5000円という破格の値段で購入するという離れ業をやってのけた。 この「フェイブル」というゲームは、街中にいるNPCが全てフルボイスでお喋りをカマしてくるというトンでもないゲームであった。 また、ゲーム内で結婚が出来、この嫁ハンの機嫌をアイテムなどで上げてくと、ムフフな夜を過ごせるのだが、その際にも、「ねぇ、もう寝ましょうよ」などと、盛りのついたドラ猫の如く話しかけてくるのである。 若かった私は大興奮してしまい、話の本筋、世界の動向などどこ吹く風とばかりに嫁に高価なアイテムを貢ぎまくったものであった。 しかし最も熱中したゲームといえば・・。 ファミコンの「忍者じゃじゃ丸くん」ではなかっただろうか。 幼少の頃暮らしていた家は、貧乏とまではいかなかったが、そんなに余裕のある生活をしている訳でもなかったため、テレビが置いていなかった。 しかし、私が小学2年生くらいの頃、やっとテレビがやってきた。それに伴い、なんとファミコンもやってくるというオマケつきであった。その際に上記のゲームも我が家の仲間入りとなった。 しかし、ファミコン導入に難色を示していた母により、「ゲームは土曜日に1時間のみ」という理不尽な条例まで制定されてしまったのである。 「かゆい所に手が届かない」 当時の心境としてこの言葉がピッタリあてはまる。 それでも土曜日になったらゲームができるのである。テレビも無かった我が家では考えられないほどの改善ぶりである。また、母の機嫌を上げてしまえば、特別にゲームの時間を作ってくれることもあったので、私はお手伝いにいそしんだり、勉学に励んだりと世渡りのスキルアップに余念が無かったことを覚えている。 しかし、基本的には土曜日に1時間しかゲームは出来ない訳で、それはもう真剣だった。 「忍者じゃじゃ丸くん」は、主人公が、なまず太夫という変なオッサンにさらわれた姫を助けに行く、というステージクリア型のアクションゲームである。 10人ほどの敵を全て倒せばステージクリアなのだが、各ステージにはボスキャラが存在している。 「おゆき」「クロベエ」「カラカッサ」etc・・ 攻略本だとか、ネットだとかそんなものが一切無かった時代。 頼れるものはオノレの腕のみである。 迫り来る敵をバッサバッサとなぎ倒し、ステージをクリアしていった。 十数面をやっとの思いでクリアし、さて次の敵は誰じゃらほい?と画面の前で待ちわびていると・・。 「全員集合」 の文字。いざステージが始まって、私は愕然とした。なんと、今まで倒してきたボスキャラクター達がまさしく全員集合しているのである。 絶望に私の目が曇る。が、もしかするとこれは最終ステージなのではなかろうか?これをクリアするとエンディングが迎えられるのではなかろうか? 絶望の隙間から一筋の希望の光。迷わずいけよ。行けば分かるさ。1,2、3、ダァー!! 鬼気迫る私の顔を見て、母はなんと思ったであろう。「その熱意を少しだけでも他に・・。」などと思っていたであろうか。 しゃらくさい。こっちは時間が無いのである。あと5分ほどで強制的にテレビ画面はプロ野球中継に変わってしまうのである。ラストチャンス。これを逃せばもうこのゲームのエンディングを1週間我慢せざるを得ない瀬戸際であった。 果たして私は、悪魔の巣窟から生還を果たした。全ての敵を打ち果たし、いざ感動のエンディングへ・・・。 しかし画面の文字が私に告げたのは、無情にも更なる試練であった。 「スーパーおゆき 登場」 私の中で何かが弾け、そして真っ白になった。 画面は巨人戦に切り替わった。こうして私の闘いは幕を閉じたのであった。 後日談になるが、このゲームにエンディングは無かった。そう、延々にステージが続いて行くのである。その事実を知った時の私の顔はどんな顔であったであろう。 タイムマシンがあるならば、その顔を見に行きたいものである。
2006年09月11日
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