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純粋な悦びというのは、外側の物質や人物、体験で感じる喜びに依存せず、存在そのもので完結する悦びです。外側の何かはそもそも自身の中にあるさまざまな側面を引き出す刺激に過ぎません… また外側に求めるものは元々私たちに内在しているものです。そのような意味で私たちは一生自分の内側から出ることはありません… 自身が肉体を去る時は、この次元でのmy宇宙も終わります。 自身の内面の旅を始めるのには躊躇や怖れを感じる場合がありますが、一生自分の内側から出ることはないのであれば、この内面という環境に真摯に向き合う必要があります。苦しさや葛藤を少しでも感じるのであれば、そのバランスをとったり、また葛藤の原因を探り、手放すように促されます。またそのようなメッセージを受けとることも多くなるでしょう… 内面の奥深くに入ると、内なる叡智に自ずとアクセスすることになります。すると内なる源泉とつながり、人生が人生を開いていくようになります。 その宝箱の鍵穴が見つけられるのは、その宝箱の存在を認識し、それを開けようとした時だけです。
2019.09.29
休むこと、余白など生産性がない、主体性がないと認識されるものの中にこそ、私たちの無限の可能性を見いだすことが出来ます。またとるに足らないと感じられることの中には、自らのバランスを見ることが出来ます。自分の意識を通して眺めるこの世界は、実に興味深いと言えます。現代社会は完全に休むことを自身に許可したり、リラックスすることから遠ざかっている傾向にあります。それは、休むことに何ら生産性を見いだせなかったり、全てをコントロールしなければならないと考えているからでしょう…実際には「無」というものの中にこそ、すべ全てを生み出す源があります。完全な休息の中にこそ、創造性が発揮され、実際の活動を通して懸命に生み出そうとしていたことに対して、もっと容易に進むヒントや変化を受け入れる余裕や、また生産性を上げるための資源が潜んでいます。この世に変化しないものはありませんので、私たちも常に変化していくことで、状況に則しつつ安定性を発揮出来ます。また絵画の余白のように、「ないこと」は主体を際立たせます。これは何かを失ったときにそのありがたさに気付くことにも似ています。内面について同じように考えてみると、何も三次元的な長所がないと感じる人の中にこそ、またそのようなことを意識しない人の中にこそ、その主体である真我、無限の可能性を秘めた私というものを思い出される可能性高くなります。三次元的な飾りを全て横に置いたその時に、自らの真の姿が輝きだすのです。この地球からいきなりつまみ出され真っ暗な宇宙空間に放り出されたら、本当に何もないことの真の意味を体感出来るのだと思います。周りには何もなく、上下左右の認識もなく、立つ場所も身体も何もない、真っ暗な空間…私たちは意識を使って意図とエネルギーでそういったところから、現実を創造しているのだと思います。
2019.09.28
大宇宙と小宇宙のように、マクロとミクロの存在を意識することで、気付くことがたくさんあります。例えば人間はこの世に生まれて「死」を迎えるという「一生」というスパンがありますが、そういう意味では一日一日がそのミクロ版と言えるかもしれません…起きて生が始まり、夜寝る時にその日…短い生が終わります。本当の意味では時間はないですし、個々がこの地上での体験をするという意味では、正に毎日地上体験を終える小さな死を迎えていることになります。また人類は皆、「目覚め」に向かって転生を繰り返して来ていますが、地球での体験を終えるその終盤では必ず内面の奥深くに入って行きます。そうして、外側の世界に頼らずに自身を満たせることを思い出すのです。また最終的に日々の営みに必要だったのは存在そのものであったことを思い出すのです。人生晩年にもなると目や耳、身体の機能が落ちてきます。一つの生を「地球での全ての生の縮小版」として見てみると、晩年になればなるほど、五感や体力に頼らずに、内面で自身を満たす状態に誘われるとも言えるでしょう…人生の終盤になって、既に内面で自身を満たすことが出来ていれば、身体機能の低下がもとで悲嘆にくれるということはありません…逆に内面の充足により、機能面の低下は遅延することにもなります。また一生の縮小版である一日という単位でとらえた場合も同じ傾向になります。夜になればなるほど、身体は鎮静に向かうのが自然の摂理です。電気がなければ(文明生活でなければ) 、活動的になるのは難しくなり、内面の世界に入るのが自然な流れです。また、メラトニンというホルモン物質は体内時計に影響し、身体も自然に沈静の方向へとむかいます。ですので、多くの方の活動が静かになる夜、内面を見つめたり瞑想をするには最も適した時間となります。例えば人は病気などで死期を認識すると、自身の一生について考えるようになります。そのような状況においては、この世で生きた証を何か残したいと思うことが多くあるようです。また人生を悔いなく終わることに意識を向ける人もいるでしょう…人生を満足に終えるためには、今日という縮小版の生の最期に充足した感覚を持って終わりたいものです。もたらされている全てに感謝を捧げ、自らを祝福して終える…そのように生きれば、マクロの一生も充足して終えることが出来ると思います。
2019.09.27
自分自身の中で「なくしたい」「修正したい」と感じている部分、それについては当然クライアントさんが「問題点」と認識されているので、自然にそこから取り組むということになります。ですが基本的に「それを排除しよう」というやり方はうまくいかないことが多いものです。これは例えて言うと「もぐらたたき」のようなもので、穴から顔を出してそこを叩いても、また別の穴から顔を出すようなものです。最終的に自身を全体性をそなえた存在であることを認め、その「なくしたい部分」はそれを構成する要素であるとみなすことが大事になります。つまり「なくしたい」と思っている自身の判断や、問題だと思っている意識そのものに働きかけをすることが結果的にはバランスを生み、「その部分」が問題のない状態へと変化します。このことに限らず、常に私たちの中でアンバランスというものが不快な事実をもたらします。逆に言うとバランスが取れていない部分を示すのが、この世の「問題」、「苦難」ということも言えるでしょう…本来は起こる出来事は常にニュートラルで、その判断こそが葛藤を生んでいるのです。★★★他にもブログを書いています★★★
2019.09.15
現代社会は「プラス」する方向へ行くのが良いとされます。資格や能力、教養はあればあるほど良く、何かを身に付けることが人生をよりよく、豊かにすると考えがちです。内なる神に実際に導かれたのはその逆の生き方でした。それは人生で身に付けていたものを徹底的にマイナスしていくという作業でした。感情の解放に始まり、自身の中にある制限や決め事、道徳、ストーリー、また資格や能力に頼らない生き方…長所と思っていたことや能力、持ち物など外側の飾りに限らず、内側で自身の「価値」だと思い込んでいたことも次々と手放すことを促されました。しまいにはその辺の道路の脇に普通に生きている雑草のような感じに…飾りの全くない純粋な「存在」を受け容れることの大切を教えられました。一方、その通過儀礼を過ぎ、玉ねぎを外側から少しずつはぐようにしていくと、中心に近づけば近づくほど、私たちの完全性や能力ははかり知れないことが自ずとわかってきます。そして、内面の素晴らしい宝物が発見され、顔を出してくると自身がいかに素晴らしい存在であったのかが認識され、求めるものは全て内側にあることも感じられてきます。そうすると自然に力も抜け(力までもマイナスされ)、人生が人生を導いていくようになります。果てしない平安な感覚と生かされているという確信…生かされていることがわかると、人生は自身の力で無理矢理コントロールしなくても良いことも理解でき、人生にもともと「問題」というものは存在しなかったことに気付きます…★★★他にもブログを書いています★★★
2019.09.07
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