Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

広東汕頭潮州旅情3



「潮州旅情18」

「中国写真ライフ」では、
広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。

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潮州市にある広済橋の全長は520mほどあり、
上の写真は橋を渡り終え、対岸の入口を、
撮影したが、ここまで40分ほどの時間が掛かった。

各望楼の前で立ち止まり、観光客が多いので、
出来るだけ人の波が途切れるのを待って、
シャッターを切っているので時間が掛かった。

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私は向こう岸には何があるのだろうと思い来たが、
散策をすれば、集合時間に間に合わなくなると、
広済橋の来た道を引き返すことにした。

広済橋が掛かる韓江は、広東省東部を流れ、
南シナ海に注ぐ大きな川で掲陽市、汕頭市や、
潮州市、および梅州市をはぐくむ川である。

韓江の川幅は広い所で960mあり全長は410キロ。
揚子江の6300キロとは比べものにならないが、
江西省南部、福建省西部、広東省東部を交わる。

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韓江の上流には広東省河源市から流れる梅江と、
福建省西部の寧化県に発する汀江と梅潭河がある。

三支流は140キロから310キロあり合流し韓江となり、
潮州市より先で三角州を形成し汕頭市で海に入る。

韓江は、唐代の詩人・政治家の韓愈が、土木工事を、
行い奴隷を解放するなど多くの貢献をし民衆が、
韓愈のその名を記念して韓江と名づけた。

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「潮州旅情19」

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潮州の広済橋の建造され始めた宋代以前には、
520mの川幅を渡し船を利用していた。

1170年より広済橋の建造が始まったが、
当初56年という歳月を掛け、どうにか、
3分の1の橋脚が出来上がった。

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当初は3分の1の木造の橋脚で橋を造り、
残りの3分の2の川幅に85隻以上の渡し船を、
繋ぎ浮き橋としたが、洪水の度に流された。

1450年頃になり、東西の岸より橋脚を造り、
残りの100mほどを渡し船を利用し浮き橋とした。

下の写真は、2003年から橋脚をコンクリートで、
造り直した時点の浮き橋の空間風景で、この時には、
昔、85隻だった渡し船の数が18隻と長さが縮まる。

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広済橋は広東省東部最大の塩の集積地でもあり、
潮州城内と韓江東側を結ぶ主要交通路として活躍。

下の写真は遊覧船が通り抜けようとするところ、
だが大きな船の場合、橋の下を航行できないので、
渡し船の浮き橋を開放するとの事。

だが、その時には事前に管理局へ連絡し、
観光客の通行規制をするとの事だったが、今まで
数えるほどしかないとの事だった。

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橋脚の上に望楼が造ってあり遠くから見ても、
美しく見えるが、古代の広東地方特有の構造で、
開閉式の浮き橋としては中国最古になるとの事。

何とか約束の時間に帰って来れたが、待ち合わせの
場所にツアーの人たちは居なく、辺りを探していると、
約束した待ち合わせ場所とは全く違うところから、
大きな声で「日本人!日本人!ここ!」と呼ぶので、
何とも、気恥ずかしい思いで歩いて行った。

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「潮州旅情20」

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潮州の広済橋の写真も最終となった。
写真は昨夜ライトアップされた城壁の、
写真を撮影しておいたものを公開したい。

上の写真は、対岸の車の中から広済橋を、
撮影したものだが夜のため望遠側を使い、
何枚も手ブレ画像になってしまった。

広済橋の姿は望遠で撮っても小さくなったが、
雰囲気だけは感じ取れるのではないかと思う。

下の写真は城壁のライトアップ姿で1050年には、
潮州の城が出来上がっていたが300年後に、
全面的に修築され、高さ28m、幅34mほどである。

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現存するのは韓江に面した全長2キロの間に、
建つ上水、竹木、広済、下水の4つの城門のみ。

700年ほど前には4キロの渡り城壁があった。

現在4つの城門の中でも最も美しいとされるのが、
広済橋に面して立つ広済楼でライトアップすると、
その広済門の城壁は、更に美しく際立つ。

夜7時過ぎより、広東省潮州料理を市中心地まで、
食べに行ったが、新鮮な魚介類を蒸した海鮮料理や、
フカヒレのスープは久しぶりに美味いと感じた。

明日より、広東省や福建省でも有名な禅宗の、
仏教寺院の開元寺の写真を公開していきたい。

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「潮州旅情21」

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潮州の広済橋や広済門、広済楼を観た後、
市内まで戻り、少し遅めの昼食を取った。

昼食まで海鮮料理が出たので満足した。
だが、歩いてバスの停めてある所まで行き次の、
観光目的地の開元寺へ向うのに時間が掛かった。

昼食のために交通量が多く渋滞した市内を、
往復50分ほどの時間を掛けて行ったことに、
不満を抱く声が中国人から上がっていた。

なぜならば、広済門から5分ほどの所に料理店も、
建ち並び、また目的地の開元寺までは歩いて、
7分ほどの所にあり、不満が出ても致し方ない。

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唐の第6代皇帝の玄宗は開元年号の738年ごろに、
各州毎に大きな寺を建てるよう指示した。

唐の玄宗皇帝と言えば、治世の前半は開元の治で、
善い政治を治め唐の絶頂期を迎えたが、楊貴妃と、
出会った事で政治を怠り、安史の乱の原因を作った。

開元寺は元々官立寺院で人民に対する仏教思想の、
浸透を目的としており、現在残る開元大寺は、
福建省の福州や泉州、広東省潮州などが有名である。

空海のちの弘法大使が唐に渡って最初に入った寺が、
開元寺で寺は福州市にあり、最古の仏教寺院


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「潮州旅情22」

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開元寺の雰囲気といっても中国の、
仏教寺院は禅宗の寺がほとんどであり、
どこの省の寺に行っても、寺の中の配置は、
土地の大小や寺が建った時代により違うが、
基本的に四天王と釈迦牟尼世尊等は同じである。

日本へ仏教が伝わったのは、1400年ほど前だが、
歴史の中で、思想の違いにより新興宗教が、
乱立した時代を経て、大乗仏教も多義に分かれた。

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写真の開元寺は潮州にあるが、真言宗の空海は、
唐の時代遣唐使の一行で福州近くの海岸に、
漂着し、暫くは福州の役所預かりとなった。

経緯はまた後で書くとして、藤原葛野麻呂と、
空海たちは海賊の容疑がはれ、遣唐使の、
一員という事が分かり、福州の開元寺に入った。

福州の開元寺と潮州の開元寺の中に入ると、
造りも類似しているが、福州は福建省の省都で、
賑わいの度合いは、やはり福州の方が賑わう。

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「潮州旅情23」

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潮州の開元寺は、738年に建てられたが、
中国に現存する4大開元寺のひとつである。

唐代に蓮華寺と呼ばれていたが、元代には、
万寿禅寺と改名し、更に明代に開元鎮国禅寺と、
改名し現在に至っている。

福州の開元寺は、548年に建てられており、
写真の潮州の開元寺より190年も早い。

だが、当初は大雲寺と名づけられ、唐代初期には、
竜興寺と改名され、738年に玄宗により、
現在の開元寺と改名されたという事である。

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泉州の開元寺は、686年の創建され真言密教の、
開祖である空海が福州と共に留学で立ち寄った。

元々、空海は蘇州の舘山寺へ留学するため、
遣唐使船団で蘇州を目指していたが、暴風雨に、
舵をとられてしまい、400キロ以上離れた違う所へ、
漂着してしまったという。

蘇州にも開元寺があるが、今は報恩寺と改名され、
その寺は蘇州北寺塔と有名な寺になっている。

写真は長い線香を手に持ち祈りを捧げている人々。

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「潮州旅情24」

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写真は天王殿に安置されている四大天王像。
日本の四天王像と中国の四天王像とでは、
日本の方が相当厳粛な表情をしている。

広目天は西方を護る守護神左側に安置され、
ヘビを右腕に巻きつけ、左は握り拳をつくる。
神話では帝釈天の配下で、後に仏教の守護神となる。

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上の写真は多聞天で、甲冑に身を固めて両手で、
宝塔を捧げ持つ姿の像が一般的で、毘沙門天と、
呼ぶ人もあり元々財宝神だったが、だが中国に
伝わる過程で武神としての信仰が生まれた。

下の写真は増長天で、南方を護る守護神である。
天王殿では釈迦牟尼世尊が安置される本尊に、
向かって左手前に安置するのが原則である。

増長天は右手に刀や剣のを持っている場合が多い。
写真は右胸の前で右手に剣を持ち、左手は、
拳にして右腰に置く姿で描かれる。

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下の写真は持国天像で東方を護る守護神である。
本尊に向かって、右手の後ろ側に、
安置されるのが一般的である。

元々足下に邪鬼を踏みつけ、振り上げた右手には、
刀を持ち仏敵を威嚇する姿の像だが、中国の
民間信仰では琵琶を抱え持った姿で表される。

四天王を安置する天王殿は、釈迦牟尼世尊を、
安置する大雄宝殿の建物の手前に建てられている。

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「潮州旅情25」

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潮州の開元寺へ着いたのが午後2時半過ぎだった。
禅宗の僧侶の人たちによる托鉢が見たかったが、
午前中にしか托鉢は行わず見れなかった。

禅寺では規定や作法も厳しく決められており、
托鉢は仏道修行の一端ではあるが、乞食とは違う。

確かに在家から食などを受けるので、その姿は、
首から托鉢セットを掛けて100人ほどの列で行動。

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私も蘇州で出会った事があり、首から提げた箱に、
次から次へと赤い袋に入れた寸志を入れていく。

僧侶はお経を唱えながら、在家の人が素早く投げ込む、
寸志袋を受け取り、直ぐに次の僧侶が続いていく。

観光客の人たちも入れていたが、何となく寸志袋を、
入れる人は初めから決められた人のような感じだ。

また托鉢は午前中に限ることとのルールがあるようだ。
また托鉢は、生命を支えるに足るだけを受け、
それ以上を乞食してはならないと決められている。

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当たり前の事ではあるが、在家に迷惑を掛けてはならない。
托鉢は、午前中に行うとの取り決めは、僧侶の修行で、
座禅などの修行に午後の時間を費やす為との事であった。

托鉢は、手に持つ食器は寺で認められた私物とのこと。
私が見たのは僧侶の衣装に合わせた色の箱を首から、
提げて托鉢をしていたように覚えている。

日本では、ご飯茶碗を手に持つシーンをドラマで見た事が、
あるが実際の所は分からない。茶碗の材料は、木製の茶碗は、
外道の持つものと禁じられ、また石の食器は仏陀の、
持ち物に限られており持ってはならない。

写真は、潮州開元寺の境内の香炉と線香と香炉の竜。

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「潮州旅情26」

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開元寺の大雄宝殿前の香炉付近にて撮影。
この開元という名の由来は、日本で言う処の、
昭和・平成ように中国唐代の開元に由来する。

唐代の年号の開元は713年~741年の28年間を、
開元と呼び、第6代皇帝玄宗の時代であった。

第6代皇帝玄宗と言われてもピンと来なかったが、
楊貴妃をこよなく愛した皇帝と聞かされ理解できた。

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玄宗皇帝の在位は712年~756年の44年間だが、
なぜ713年~741年の28年間で残りの16年間は、
何と呼ぶ年号なのかと疑問に思った。

712年~713年までの年号を先天と呼び玄宗皇帝の、
第5代皇帝の父の睿宗の時代で、742年~756年は、
天宝と呼ぶ年号で玄宗の治世後半の年号を呼んだ。

楊貴妃との出会いは天宝3年に始まり、楊貴妃に溺れ、
反乱が起こり、楊貴妃は絞殺され、玄宗は退位した。

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第6代皇帝玄宗は開元年間の治世で混乱を平定し、
政治家や役人の規律や風紀を正し農業の振興や、
辺境の防備に努め、文化的にも唐の最盛期を成した。

その開元年間に多くの開元寺の建立を指示した。
楊貴妃と知り合う7年前の738年玄宗が勅により各州に、
建立された寺で、その時の年号が開元という事である。

政治家や役人の風紀を正した皇帝自ら、楊貴妃に出会い、
自分自身が退位に追い込まれてしまった。

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「潮州旅情27」

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写真は、開元寺大雄宝殿の屋根に置いた魔除け。
龍の絶妙な魔除けの飾りが施してあった。

空海の話に戻ると空海は遣唐使船団と共に、
目的地である蘇州には向かえず暴風雨により、
船団を離脱し荒波の中、漂流していた。

空海の乗った船は1か月間漂流したのち温州から、
南へ50キロ離れた海岸へ辿り着いたが、元々の、
目的地の蘇州からは850キロも離れていた。

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漂着した船には大使の藤原葛野麻呂が同船しており、
220キロほど離れた福州の観察役所へ向かった。

福州では、一行が国書や身分を証明するものがなく、
罪人扱いのまま上陸を許されず、船も閉め出され、
海岸の砂上にゴザを敷いた上に留め置かれる。

この苦境を救ったのが、留学生の空海であった。
大使に代わり書き上げた上申書の文章が取り上げられ、
福州に上陸し、福州開元寺へ入る事が出来た。

空海とは平安時代初期の僧で弘法大師の名で知られる。

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「潮州旅情28」

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写真は、開元寺大雄宝殿前にて長い線香を両手に、
捧げ持ち祈る女性の姿は日本では見られない姿だ。

中国は元々儒教の国であったが、仏教が伝わり、
五世紀頃より道教の教えが浸透しはじめた。

儒教・仏教・道教の三つの思想が庶民の間を、
独り歩きし、中国は各時代に仏教と道教が対立。

各時代の権力者は仏教と道教を儒教に取り込み、
思想の統一を図ろうとしたが上手くは行かなかった。

唐の時代は儒教と道教と仏教とが中国に存在していた。
儒教と仏教とは、主張する内容に違いがあり、儒教か、
仏教かの何れを信じるかが、人々の間で問題となった。

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人々には儒教と仏教の両方取り入れ生活する事が困難で、
儒教の人生を生きるか、仏教の人生を生きるかの選択を、
迫られたが唐の時代は、仏教の勢力が盛大だった。

儒教は父親家系の秩序を重視した俗世道徳であるのに、
対して、仏教はこの世の本質を苦とし、その煩悩から、
解脱することを目的とした教えである。

道教は徳があれば教育しなくとも人は教化されるので、
宇宙のあり方に従って自然のままであることを教えた。

儒教は礼儀を重んじる道徳で、仏教は釈迦の教えを、
修行し成仏を得る教えで、道教は自らの道を探求。

中国は孔子の説いた儒教を重んじてきた国であり、
礼儀に対しては何処の国より浸透自覚していた。

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だが儒教を否定し孔子を徹底的に破壊した文化大革命。
古い文化を破壊し新しい文化を築き上げる思想が、
中国内を駆け巡った10年間に仏教も道教も破壊された。

人々の心にも、また礼儀や人に対しても壁を作った。
現在の若者は礼儀を重んじる心が戻りつつある。

中国13億人と戸籍のない中国人2億人の15億人もいる。
礼儀作法のかけらもない人が居るのは当たり前である。

中国は都合が悪くなると発展途上国と論点をはぐらかすが、
意外と中国トップクラスの中に礼儀の無い人が居るのかも。
だが一般庶民はあまり関心がなく政府間の問題と割り切る。

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「潮州旅情29」

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写真は、潮州市にある開元寺の大雄宝殿の中に、
安置されている釈迦如来像の画像である。

潮州は広東省東部に位置する地方行政市である。
広東省の省都は広州で、香港に近くには深センや
珠海、中山など知られる所も多い。

また珠海からマカオまでも車で30分ほどの距離、
私が広州に住んでいた頃に車を運転して香港や
マカオの境界まで2時間ほどで行っていた。

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話しが逸れたが、潮州は1800年のの古い歴史があり、
今までにも多くの華僑を輩出している事でも知られる。

中華民国時代は潮安県だったが、解放後1953年に、
潮州市となり広東省の省轄市となった。

開元寺と名のつく寺は河北省石家庄市、江蘇省蘇州市、
浙江省台州市、福建省福州市、福建省泉州市と、
広東省潮州市の6箇所にあり建立年も同じ時期である。

台湾にも開元寺あるが、1680年建立の寺であり、
殆ど同時期、中国内に建立された寺を対象に調べた。

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調べると言っても中国内6か所の開元寺の面積を、
語るならば、この潮州が一番広く12万平方mある。
次に泉州の7万平方mで、一番狭かったのは福州だった。

写真の大雄宝殿の本尊には大きな釈迦如来像が安置され、
脇師は左脇侍が文殊菩薩、右脇侍が普賢菩薩が立つ。

十大弟子の舎利弗・阿難・迦葉らの像が釈迦を見守り、
釈迦如来像の裏側には、龍の子供の上に乗っている、
観世音菩薩の素晴らしい魅了される彫り物がある。

中国禅宗の大乗仏教寺院の造りは殆ど同じである。
この日、潮州よりアモイ方面の万石山公園へ移動した。

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