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キリシタン殉教地として有名な、雲仙地獄のある旧小浜町の町木は、「山法師」の木でした。そして町村合併で、七ヵ町が合併して雲仙市に成りましたが、市の木として小浜町の木を採用されました。山法師の花は4枚花弁の白い花で、十字架を思わせます。キリシタンに関係がありそうです。そこで、何時もの言葉遊びで推理してみると、「山=サン」「サン(ポルトガル語)=聖(日本語)」。山法師が聖法師となり、キリシタンのお坊さん(伝道者)のような感じを受けてしまいます。同じように、山の神は聖の神、しかも山の神は女だそうです。これにも又、女神マリアを隠しているように感じてしまいます。何故、町木に山法師?と思っていましたが、これまでに見てきた遺物だけでも、最近は何故なのか納得してしまいます。やはり、キリシタン信仰が神仏習合の中に含まれ、隠されているようです。その事を知っていた知識人の方達の中に、江戸期の宗教の中身が受け継がれていたように思えます。雲仙の衣笠山には、足元に蟹が彫ってありキリシタン像?があります。「ザビエルが舟で嵐に遭った時、紐に繋いだ十字架を海にひたし無事を祈っていると、紐が切れ十字架が海に沈んでいったそうです。ところが、浜辺についたところ、はさみに十字架を挟んだ蟹が海から出てきた。」と言う話が、この像がキリシタン遺物であるとされている根拠だそうです。しかし、このキリシタン像?は新しく、奉納者の名前と共に小浜町の文字が彫られているそうです。したがって、小浜村から小浜町になった後に奉納された像だろうとのことです。その奉納者の人達と同じ苗字の多い地区には、多くのキリシタン遺物があるようです。そして、その地区の墓地には、明治後期以降に建立されたと思える墓石で、墓碑の屋根の殻破風に逆さ卍が彫られ、正面に書かれた南旡阿弥陀仏の南の文字の中に、十字が隠された墓石もありました。その墓碑は、過去に私のブログで紹介した事があります。しかし、この地区の住民は、島原の乱の際には藩主側に付いて、一揆軍と戦っていたと記録されている物もあり、幕府のキリシタン政策(神仏習合の中にキリシタンの教えを組み込む)を理解し、賛同していたように思えます。以上のような状態を見て感じる事は、江戸時代の神仏習合の中に、キリシタンが隠されていることを知っていた人達が、戦前までは確実に居たのではないかという事です。しかし、その事は「見猿、聞か猿、言わ猿」が、暗黙の了解だったのでしょう。
2012年09月05日
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最後には殉教者となったイエスの弟子のペテロも、最初の頃は普通の人の弱い心の持ち主だったようです。イエスに「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と言われたとおり、、イエスの状況を見に行った際見つかってしまったペテロは「そんな人は知らない。」と言って、のがれています。その後すぐに、鶏が鳴いた。イエスの言われたとおりの行動をとったペテロは、その事を恥じキリストの教えの布教の為に、最後には命を落とすことに成りました。しかし、そこまでの強い心を持つ事の出来る人間は、稀に居ますが、めったには居ないのではないでしょうか。ほとんどの人が、命惜しさに「私は知りません」と言うでしょう。しかし、心の中までは変える事が出来ないのも人間です。そのような弱い心を持った人間も、もし仲間の人達が多くなり、力を持ったと錯覚するような情報を耳にすれば、キリシタンの教えを禁止する政権の打倒をめざし、蜂起する可能性が出てきます。島原の乱の前にも、上総村寿庵の回状など幾つかの情報操作が成されているようです。しかし、情報は間違っていました。一揆軍が大敗したことにより、意図的に流された情報により、騙されたと知った立ち帰りキリシタン信者は、命欲しさに再び転んだことでしょう。島原の乱後の幕府は、キリシタン信者に対して相当の配慮を示しているように感じます。当時の藩主であった寺沢氏にしても松倉氏にしても、多くの乱に参加した罪なき一般庶民の命を助ける為、島原の乱が「キリシタン一揆」ではなく、藩主の悪政による「農民一揆」だとするために、一切の責任を負い己の命を投げ出したとするならば、二人の藩主は、徳川幕府が築いた統一国家の安泰を願い、国家の為の殉教者になったように感じます。 下のサイトなどを見ても感じるのは、島原の乱後の天草や島原半島南部では、寺院や有力者を中心とした人達により、キリシタン信仰を隠した民間信仰が考え出されたように思えます。「切 支 丹 遺 物」http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/kirishitan/index.html江戸期の神仏習合には、イエズス会の一部が大いに関わっているようです。しかし、あくまでもキリシタン信仰は「耳なし芳一」のように、経文(仏教)で隠さなくてはなりません。隠すことを忘れてキリシタンが表に現れた時には、芳一の耳が切り取られたように、それなりの処罰が待ち受けていたのでしょう。また、芳一の耳が切り取られたとき(殉教者が出た時)に騒ぎ出すようなことがあったなら、その時こそキリシタン信仰全体が抹殺されたかもしれません。耳を切り取られた芳一は、声ひとつ出さなかったので生きて帰る事が出来ました。仏教に転んだことにして、仏教の中にキリシタン信仰を隠し続けた人達は、聖人に成れないペテロのようです。原城発掘調査で、多くのペテロ十字が出土したことは、一度は「キリストを知らない」と言ったが最後は信仰の為に殉教した、聖人ペテロを目指したからかもしれません。しかし、乱に参加した人達にも聖人ペテロには成りきれず、鶏に泣かれるのを恐れながら生き続ける事を選んだ、聖人に成る前の心の弱いペテロとして、生き抜いた人が居たのではなかったのでしょうか。「死んで花実が咲くものか」、 【意味】 どんな状況に あっても、生きていればこそいつかよいこともめぐってくるものだが、死んでしまえばよい ことも起こらない。どんなことがあっても生きていなければならないということ。私が子供の頃までは、正月の行事の「オンノホネ(どんど焼き)」の風習が残っていました。中学生以下の子供達だけで、1月6日の夜までに正月飾りを各家庭から取り払ってきて保管して置き、翌7日には、真中に竹を立て楠の枝を山から切り出してきて、正月飾りを焼く用意をします。夕方近くになると火を付けると、書初めの半紙が空高く舞い上がるように、燃え上がる炎に乗せるように投げこみ、習字の上達を祈ります。その後その場所で、燃え残りの炭火で鏡餅を焼いてたべて、一年の健康を祈っていました。「どんど焼き」の事を「オンノホネ」と言うのは、火が燃え上がる時に「オンノホネドーイ、トンノボボジョ」と言う掛け声をかけるからです。この地方の方言では、「鬼の骨ぞ、鶏の女陰部」とも取れますが、これでは何の意味か分かりませんでした。ある日ふと思い付いたのですが、「オンノホネドーイ、トンノボボジョ」には、もう一つの解釈もできるようです。「オンノホネドーイ」を「オンノホンネドーイ」とするならば、「私の本音ぞ」と言う意味に成ります。転んだふりをしたキリシタン信者は、キリストを知らないと言ったペテロのように、鶏が鳴きさえしなければ、「キリストを知らない」と言わなければならない場面に出会う事もないでしょう。鶏の雌なら時の声を上げて鳴く事はありません。オンノホネの風習を創った先人が、転んだふりをしたキリシタン信仰者だとすれば、「自分の本音は、鶏が鳴かない雌であってほしい」と思う心を、「オンノホネドーイ、トンノボボジョ」の掛け声で子供たちに代弁してもらうことで、転んだことを懺悔しているようにも解釈できるようです。
2012年09月02日
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会津キリシタン研究所のブログで島原の乱が取り上げられ、殉教者数に付いての私の考えが紹介してありました。当初は男女惣合三万七千人もいたとされている一揆軍も、原城落城直前の籠城者の数は二万三千人、山田右衛門作ただ一人を除いて全員が殺戮された、とするには無理がありそうです。上の写真を見ても、万人を超えた死者が出たとは考えにくい、発掘結果のように感じます。もちろん他の場所にも、多くの殉教者の遺体が葬られているだろうとは思います。ここだけを見て判断するのも如何なものかとも思いますが、カンボジアのポルポト政権下での大虐殺の画像などと見比べると、原城で二万を超える殉教者が居たとするなら、もっと大量の遺骨が積み重なっていても、おかしくないと思われます。下のサイトでは、原城での殉教者に付いて書かれていますが、何れも納得のいく推測のように感じました。原城の戦いと島原・天草の乱を考え直すもし、今の歴史で語られているように、島原半島南部の村がほとんど全滅したとするなら、そして、今の住民の殆んどの祖先が島原の乱後の入植者だとしたら、半島南部には島原弁が残っていなかった可能性があります。私の子供の頃は、集落ごとにある程度の言葉の違いがありました。地域によっては、島原弁とは到底思えない方言を話している地域もあります。そのような事から、確かに乱後の入植者が多かったことは事実のようですが、多数の生き残り(転宗→立ち返り→転宗)も存在しているように感じます。また島原半島の昔話には、籠城しなかったであろう一揆軍の生き残りと思えるカッパが町を荒らして困っていたので、法師が河童を雲仙に誘い込んで退治した話も残っています。この話と他の言い伝えや今ある遺物を総合して推理してみると、当時の状況がある程度見えてくるような気がします。何時もの勝手な推理では、神仏習合の中にキリシタンをも習合している姿を改めて見せ、一揆の生き残りの指導者を説得し転宗させたように思えるのです。島原の乱には、長崎などからも船を使って、島原の乱に参加した人達がいたような言い伝えも残っています。住民同士でも、城側に付いた者と一揆側に付いた者が殺し合っているようです。しかし、城側に付いた住民の多く住む地域にも、多くの仏教の中に習合されたキリシタン遺物と思える物が、多く残っています。キリシタンを一羽一絡げに論じる事には、無理がありそうに感じます。適応政策を認めたキリシタンと、純粋にローマカトリックを求めたキリシタン。島原の乱には、その間に翻弄された人達の姿が見えるようです。人間の心の弱さを教えたキリストの言葉、日本の文化の根底には常にペテロの姿が潜んでいるような気がします。日本の恥を知る文化は、ペテロの文化?島原半島の神社には、鶏の画が逆さに張ってあるところがあるようです。子供の夜泣きを封じる呪いだそうですが、鶏に泣かれては困るので画を逆さに張る習慣が出来たのではないでしょうか。
2012年09月01日
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文政年間の墓碑です。女性の法号が書かれていますが、七月四日と書かれた下に、「たよ」と平仮名で女性の名前が書かれています。普通なら法号の本人の俗名は、墓碑の横に書かれているようですが、何故か正面に書かれています。何か意味があるのでしょうか。それとも合葬された他の人の名前でしょうか。変わった墓碑です。後ろの墓碑には、法号の檡の上に皈元と書かれています。島原半島の江戸期の墓碑には、帰真と書かれた墓碑が多いようですが、帰元や帰命と書かれた物もあります。しかし、明治以降の墓碑には、何故か帰心や帰元と書かれた墓碑が無いように感じます。江戸の仏教と明治の仏教は、何かが確実に変わったようです。勝手な推理ですが、浦上四番崩れに見られるような、キリシタン信仰への取り締まりが厳しくなったせいのように思えます。
2012年08月29日
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結合の瞬間 その後の安定姿勢 イトトンボの交尾の形がハートのマークを作ることは、この前の糸トンボの写真をアップした時に、調べて分かったことでした。愛情たっぷり、本当に綺麗なハートマークになっています。前回アップしたアオモンイトトンボの雌の色と、今回交尾をしているトンボの雌とでは、色模様が違っているようです。
2012年08月25日
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新聞掲載の「東照大権現像(白描)」 北有馬ピロティーセンターにある有馬晴信像のレプリカ 烏帽子に彫られた十字 袴に二連のリング模様 案内板 江戸幕府第9代将軍、徳川家重像(ウキペディアより) 8月21日の長崎新聞に「最晩年の顔を伝える下絵か」のタイトルで、徳川記念財団に伝わる「東照大権現像(白描)」が紹介されていました。「紙形」と呼ばれる下絵の可能性が注目を集めているそうで、没後に招かれる肖像画は、この紙形を基に依頼主の了解を得ながら完成させられたと考えられると書かれてあり、その後に描かれた家康像の姿を定着させた原画の可能性があるそうです。この「東照大権現像(白描)」の烏帽子には、正面から見ると十字にも見えるような縫い目が描かれています。同じような十字の線が彫られている「北有馬ピロティー文化センター日野江」にある、有馬晴信像のレプリカの烏帽子に彫られた十字の線は、「十字架が刻まれている」と解説してあります。そして、此方の方の十字はハッキリと彫られています。そこで調べてみると、島原の乱鎮圧の上使で辞世の句を残し戦死した、板倉重昌の肖像画の烏帽子にも、家康の肖像画と同じような、左右の端が下がった形の交差した縫い目の線が描かれています。と言う事は、晴信像の烏帽子に彫られた十字も、ただの縫い目になってしまいます。しかし、江戸時代の宗教遺物を見て思うのは、晴信像の烏帽子の十字も、家康や他の将軍や大名の烏帽子の、ただの縫い目と思われる線も、やはり十字を表しているのではないのでしょうか。何の飾りにもならない布の縫い目と思われる線を、何故、肖像画に描く必要があったのか。やはり、徳川家はキリシタン?調べていて特に感じたのは、九代将軍の徳川家重像に描かれている烏帽子には、わざと十字を刺繍してあるようにさえ見えるのです。何かの意図があって、描かれている可能性があるように感じます。
2012年08月24日
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アオモンイトトンボ 雄 雌 カワセミを見つけに川に行ってみましたが、最近全然見かけません。イトトンボが居たのでパチリ。
2012年08月20日
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石川県のユネスコの世界無形遺産に登録されている、田の神様の行事「アエノコト」に付いてブログに書いた後、もう少し調べてみました。田の神様を描いた掛け軸には、聖徳太子のような恰好をした画の他に、アエノコトを調べた民俗学者の柳田國男が取り上げなかった、稲を担いだ翁の画もあったようです。そして、掛け軸は家々で事なり、画の描かれていない掛け軸などもあることから、掛け軸が祀ってあるわけでもないようです。しかし、田の神様の目が見えないと言う事と、御供え物に二股大根や、栗の木で作った箸を供える事は一致しています。柳田國男が取り上げなかった、「稲を担いだ翁の画」を撮った写真の裏には、「宮城県岩沼郡 竹駒稲荷神社(東北における本江) いなり彦の神」と書かれているそうで、アエノコトに使うために稲荷神図を使ったものと思われます。そこで柳田國男は、田の神様と関係ない稲荷神と看做したのかもしれません。しかし、今では柳田國男の説が一般化し、「アエノコト」を【古くから行われている新嘗の祭礼。「アエノコト」とは「アエ=饗」の「コト=祭り」を意味する。】、として固定化した田の神様の行事の呼び名も、地元では「アイノコト」とも言われていたそうです。「二股大根」と「栗の木で作られた箸」で思い浮かぶのは、二股の間に棒をクリ入れる。子孫繁栄の行為と合わせて、豊作を願っているように感じます。それも「アイノコト」。やはり「変った稲荷神社」や「イナイ地蔵」と同じく「INRI」(「ユダヤ人の王、ナザレのイエス)に関係がありそうです。加賀藩では、前田利家に庇護されていた高山右近が、20年間以上も滞在しているようです。案外、奥能登の「アエノコト」の行事は、キリシタン信仰の隠れ蓑だったのかもしれません。民俗学者の柳田國男の説は、本当なのか疑問がわいてきました。
2012年08月19日
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補修された首なし地蔵 地蔵様の前に、鈴と扇子を持った猿 補修された首なし地蔵 地蔵様の台座に、剣十字・徳利と杯 前回紹介した、ソロバン恵比寿の近所で見かけた地蔵堂ですが、二つの地蔵堂の、どちらの地蔵様の首も一度破壊されており、セメントで補修してあるように見えます。顔が白く塗られており、一体には口紅が塗られています。口紅はソロバン恵比寿にも塗られていました。昔からの慣習だと思われますが、何か意味があったのでしょうか。もし意味があったとするならば、この地蔵様もソロバン恵比寿も、女性だと主張しているように思えます。と言う事は、女神様を祀っているのでは・・・。女神様と言えば、目の神様として祀られている、藤原 景清を祀る宮崎市の生目八幡宮も、目の神様で女神様?生目八幡宮が目の神様となった言われは、「景清が源家への復讐を断念する為に自身の両眼を抉った」とされています。それに似ている話で、目を抉り取った話は、島原半島に残る「竜女お諏訪」伝説にもあります。http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201208080000/comment/write/これら全てが、聖書に書かれている、「もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。」と、関係があるように感じています。
2012年08月18日
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ソロバン恵比寿の横に祀ってある、御幣を持った猿の石像ですが、恵比寿様の神の使い?と言う事では無さそうです。何かの意味があって、一緒に祀られているかのかもしれません。御幣を持った猿を検索してみると、江戸時代の色んな信仰に猿が関係しているようです。もしも過去の私の推理どおり、猿をキリシタンのサルバドル(ポルトガル語で救世主)として祀ってあるとすれば、映画「十戒」でみた、モーゼがシナイ山に居る時、稲妻が岩に十戒を焼き付けた場面と、関係があるのではないかと思えてきました。もしかして、この猿の持つ御幣の形は、稲妻を表しているのではないでしょうか。「雷・聖書」で検索してみると、「モーゼが語りかけると、主は雷鳴をもって答えられた」(出エジプト記19.19 )、と言う一節がヒットしました。この猿は御幣だけしか持っていませんが、三番叟の格好をした猿は、もう片方の手に鈴を持っていました。御幣で稲妻を表し、鈴では雷を表しているように感じます。もし、そのように考える事が出来れば、前回の推理を基に、隣に祀られている十戒(ソロバン戎)を神の声(雷)で聞いた ユダヤの民の救世主(「サルバドル=猿)、モーゼの石像だと言う推理が成り立ちます。歴史上、島原の乱でキリシタンが全滅したとされる町に、このような変わった石像が祀られています。やはり、江戸時代の神仏習合の中身は、キリシタン信仰だったように感じます。しかし、仏教の衣に包まれたキリシタン信仰は、キリシタンを理解した人達だけには分かっていても、日光東照宮の権現様(家康)の三猿が、「見るな、聞くな、言うな、秘密にしておけ」、と言っているようです。もし、その事を表に出そうとしようものなら、すぐにキリシタンの嫌疑をかけられ、処罰を受けることにも成りそうです。江戸時代の神仏習合とは、イエズス会が中国で成功した適応政策の、日本での成功した姿だったのかもしれません。その事が、イエズス会より後から日本に宣教師を送り込んだ、ドミニコ会などの批判にさらされ典礼論争を引き起こし、その後のイエズス会の解散につながったのでしょう。佐賀では人間と親しかった河童民話が多いのに比べ、島原半島では悪い河童の民話が多いように感じるのも、案外関係があるように思えます。イエズス会日本管区長代理フェレイラ神父は、沢野忠庵となり、その後に外国から入って来た宣教師達を、棄教させたとの説もあるようです。ドミニコ会などのスペイン系托鉢修道士会と、ポルトガル系イエズス会が、反目し合っていたとは考えられないでしょうか。
2012年08月18日
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お盆も過ぎ、そろそろ鮎も下ってきています。今年の落ち鮎は、数も少なく型も小さいようです。口の横の方で掠り取るように、石に付いた苔を食んでいる所を、パチリ。
2012年08月17日
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ソロバン恵比寿湯島の方向を向き、横に猿の石像が祀ってあります。 ソロバン恵比寿から見る湯島(通称・談合島)湯島は、島原の乱の計画を練った(談合をした)場所だそうです。 ソロバン恵比寿を見に行ってきました。見てびっくりしたのが、恵比寿様の横に猿の石像が祀ってあったことです。猿がサルバドル(救世主)だと推理した、過去のブロブの延長戦になってきました。もし、猿や申に救世主の意味を隠しているのだとすれば、このソロバン恵比寿もキリシタン信仰に関係してくるのではと思い、早速、ソロバンに付いて調べてみました。検索でヒットしたソロばんかきょうによると、日本に来た宣教師たちが、計算機であるジナと言う算盤が、日本に有る事を知ったことが書かれていました。当時の日本ではソロバンと言わず、ジナと言っていたようです。そのジナが、何故、ソロバン(十露盤)と言われるようになったのか。おそらく【ラ・ポ・日対訳辞典】(1595年)に書かれている、【アバクルス:計算のために使われる器具。日本、算、そろばん。】のアバ クルスが、ジナをソロバン(十露盤)の名称に変えたのではないでしょうか。アバクルスの、アバは、ポルトガル語で単位の意味を持ち、クルスは、十の意味を持っているようです。ジナが十露盤に名称を変えたのは、ジナがポルトガル語に訳される際に、十で繰り上がる単位の意味のアバクルスと言うように成り、それを日本語に再訳する際に、ソロバンの玉を、葉っぱの上でコロコロ動く露の丸い玉に見立て、十の露で十露盤。ポルトガル語に訳されたアバクルスの中には、クルス(十)の文字が含まれています。そのように考えると、アバクルス(十)を持った恵比寿(戎)も、大阪の十日戎も、モーゼの十戒のように思えてきます。戎と戒、線一本だけの違いです。キリシタンに好意的だったとされている、前田利家が愛用していたソロバンが前田家の家宝として残っていた事も、「南蛮屏風」や「駿府城・築城図屏風」にソロバンが描かれている事も、江戸時代のソロバンには、ただ単に計算機としての役割だけではなく、何らかの宗教的意味をも込められていたのではと思い、今回も勝手な推理を楽しんでみました。
2012年08月16日
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ゴイサギ幼鳥 鋭い野生の目 ゴイサギの幼鳥です。成鳥とは、羽根の色が違い斑点が付いています。斑点が星のように見えるのか、ホシゴイと呼ばれているようです。生後1~2年位は、このような模様だそうです。
2012年08月11日
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今日もカワセミを追って、とまった所をパチリ。二回目のカワセミの写真、今回は20m位まで近づく事が出来ました。どうすれば、もっと近づく事が出来るのか・・・。
2012年08月09日
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稲を荷った稲荷像を調べていると、同じような姿をした片目を瞑った、聖徳太子のような画が描かれた掛け軸が、田の神様として床の間に祀ってある所がありました。ユネスコの世界無形遺産に登録されている、奥能登の新嘗の祭礼「アエノコト」では、床の間に掛けてある掛け軸に供え物をして、五穀豊穣を祈願するのだそうです。田の神様は目が見えないそうで、家の主人が紋付袴の正装で、姿が見えない田の神様を、あたかも目の前に神がいるように演じて、饗応するのだそうです。田の神様が、何故、片目を瞑っているのか。稲穂で片目を突いたから、と言われているようですが、それだけのことでしょうか。もしかして、聖書に書かれている、「もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。」を隠しているのではないでしょうか。雲仙市の「雲仙国民休暇村」の在る諏訪の池にも、”おすわ”の龍伝説がありますが、この”おすわ”も片目を抜き出して、龍となって天に上ります。江戸期の神仏習合の中に、キリシタン信仰までもが習合されている、と思っている私には、「アエノコト」にも「"おすわ"の龍伝説」にも、聖書の「片目になって神の国に入る方がよい。」の教えを、隠しているように思えます。稲を荷って片目を瞑っいる聖徳太子のような画、聖徳太子もキリストも、厩戸で生まれたとされているようです。島原半島の方言では、「荷う」を「イナウ」と言います。稲を荷った田の神様は、四角の中に十字が隠れているように感じます。稲荷神影古図と書かれた「稲束を負う老翁と狐」、(藤原信実『杉の葉)の画もあるようで、過去にブログで取り上げた佐久間のイナイ地蔵も、やはり稲を荷っています。荷い=「イナイ」には、イナーイ=「INRI」?が隠されているようです。「INRI」=「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」。
2012年08月08日
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カワセミを見つけに川に行ってみると、二種類の糸トンボが飛んでいました。このトンボだけがとまってくれましたが、遠すぎてピンボケ。
2012年08月07日
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石塀の一部 石塀を利用した小屋の裏口 小屋の裏口に彫られた、恵比寿・大黒 島原には特に多く残っている石塀です。上の写真のように石の壁を利用して、その上に小屋が建てられている所が、島原半島の古い民家に残っています。このような立派な石積みの塀が、島原半島では多く見られます。凄い技術だと感心させられますが、住宅の改築などで徐々に取り壊され、無くなってきているようです。勿体ないことですね。今、造るとしたら相当の金額が必要になるし、技術者も殆んど居ないのではないでしょうか。
2012年08月06日
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墓碑に彫られた石像には、観音様のような持ち物を持った石像以外に、合掌をした物、茶巾のような布で手を隠した物、手に丸い球や宝珠のような物を持っている物と、大きく分けて3種類あるようです。この浮き彫りに彫られた石像は、手にしている丸い球が赤く塗られています。缶スプレーでペンキを吹き付けてあるようですが、他にも赤く塗られた物を見たことがあるので、イタズラだとは思えません。庵のような小さな建物の形の中に彫られていますが、屋根の棟は、上から見ると丸い棒が三本、このような屋根の形をした斗升型の塚墓が、三位一体を表していると書かれている記事を、読んだことがあります。横には、恵元霊と書かれており、没年が元文三年と書かれています。この赤い球を見て、手に持っているのは、もしかして、ザビエルのハート?と、つい考えてしまいました。神戸市立博物館の「聖フランシスコ・ザヴィエル像(重要文化財)」には、赤いハートを手にしたザビエルが描かれています。過去に紹介した、「猿地蔵と同じ信仰の対象?」の猿は、桃を手に持っています。私が子供の頃、トランプのハートを赤桃と言い、スペードは黒桃、クローバは三つ葉、ダイヤだけは、ダイヤと言っていたことを思い出します。火窓が桃の形をした石灯籠もありました。庚申信仰の申や秀吉のあだ名の猿を、サルバドルではないかとした過去のブログ、 「猿・申・サル」 と繋げて考えてみると、この石像が手にしている物も、ザビエルが手に持った赤いハートと推理しても、良いのではないかと勝手に思っています。話はそれますが、猿葉(サルバ)稲荷の近くに、サルバ・カレッジと言う名の英語塾があります。最近までは、猿葉稲荷のサルバから付けられた名称だろうと、勝手に思っていましたが間違いでした。経営者の名前がサルバドルと言う方で、そこからサルバ・カレッジとの名称が、付けられているようです。「救世主=サルバドル(ポルトガル語)=猿=申」の推理も、まんざら間違いではなさそうです。余談ですが、キリシタン墓碑に、∧の形の下に十の文字が書かれている物が在るようです。これも、「聖=サン(ポルトガル語)=三=山」と考えて、山をサンとして十をクルスにすると、サン・クルス=聖十字に成ります。十字は、ポルトガル語の「Cruz(クロウズ)」を模して、「久留子(くるす)」と言われているそうです。江戸期の神仏習合には、キリシタンが確実に習合されているように感じます。
2012年08月05日
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享保年間の墓碑です。年の代わりに天の字が使われています。このような天年号の使われている物は、キリシタンに関係しているとされているようです。肩には、肩掛けのような物が掛けられているようにも見えます。手には、宝珠と数珠のような物を持っているようですが、数珠のような物は半分隠されているような感じがします。もしかして、メダイかロザリオ?しかし、この墓石の在る村は、島原の乱で全滅したとされている村です。島原半島の古い墓地には、この天年号の使われている墓碑が、在るのが普通のようです。もし、この村や周囲の村が島原の乱で全滅したとするならば、その後入植してきた私達の祖先も、また、キリシタンに関係を持っていた人達ではなかったのでしょうか。江戸期の墓碑を見ていると、苗字の書かれた墓碑がほとんどです。ある程度の身分に在る人の墓碑か、帰農した武士の可能性が大きいように感じます。聞いた話によると、戦後、進駐軍による武器の接収をするとの噂があり、刀などの武器を土の中に隠したり、接収されるよりはと海に捨てたそうです。私の母方の祖父の持っていた刀も、土の中に隠していて錆びてしまったままです。昭和30年代には、島原半島から多くの刀が砥ぎに出された事を、伯父の友人の長崎市の研ぎ師の方から聞いたことがあります。砥ぎに出された刀の中に、名刀と言われる刀が多く存在していたことは、研ぎ師の方も意外に思われていたようでした。意外と名のある武士が、島原半島に入植して来たのではないでしょうか。
2012年08月04日
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牛頭天王を調べている途中で、下のブログの牛頭天王が出てきました。 定年、これからの人生楽しみ探しの旅 坂戸市澤木薬師堂の牛頭天王[ゴズテンノウ](牛頭観音) http://blogs.yahoo.co.jp/sakado_iwasaki/38410935.htmlここに紹介されている牛頭天王の石像には、下のブログ 会津キリシタン研究所 子安観音像http://plaza.rakuten.co.jp/aizukirishitan/diary/200904230001/に書かれている、メムの文字が隠されているように見えます。右腕の形と、その上の方に彫られた謎の線を繋ぎ合わせると、ヘブライ語のメムの文字によく似ています。メムを調べてみるとミリマムで、ラテン語ではマリアだそうです。少し変わった馬頭印は、指の間が上から順に、三角・十字・ハートに見えます。また、一身三面は、カトリックの三位一体を隠し、三目と鼻で十字を隠しているようにも見えます。手にした剣も見ようによっては、十字にも見えてしまいます。姿は馬頭観音でありながら、本地仏は薬師如来の牛頭天王。この不思議な石像にも、江戸時代の神仏習合の、中身が見えているように思えました。坂戸市を調べてみると、江戸時代に八王子千人同心が、日光東照宮を警備する日光勤番のために整備した、千人同心街道の宿場町があった所でもあるようです。東照宮を警護する千人同心、千人の名は、 ただ単に人数に対して付けられた名称でしょうか。
2012年08月02日
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衣の下の着衣が気になります。まるで胸を隠すように、襞の付いた着衣が身に着けられ、紐で蝶結びに縛られています。胸を隠す必要があるのでしょうか。それとも、女性を表そうとしているのでしょうか。もし、女性を表そうとしているのなら、この地蔵様は女神様?
2012年08月01日
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この石像の祀ってある所は、江戸時代には修験の盛んな地だったようです。そのど真ん中に、八坂神社の石祠(石祠の側面には石社と彫られていました。)があります。社は八坂神社で、中には祇園牛頭天王(石祠の側面に彫られていました。)が祀ってあります。これまでネットで見た仏像などで、同じ仏像でも、かなり違った形が存在することは、既に了解済みの事でしたが、この牛頭天王も変わった形をしているのではないでしょうか。お腹のところに紐が結んであるので、羽織を羽織っているのでしょう。下には和服に関係のない、シュミーズのような着衣を、身に着けているように見えます。このシュミーズのような着衣は、お地蔵様や墓碑の石像にも身に付けている物があり、おかしな取り合わせだと感じていました。それに、この石像はズボンをはいているようです。江戸期に流行したと言う説もある、タッツケ袴かもしれません。羽織もタッツケ袴も、南蛮服をモデルに作られた和服のようです。江戸時代に造られた石像が、このような西洋的な衣装を身に着けていること自体が、江戸時代の宗教の中に、キリシタンが隠されている事を表しているのではないでしょうか。この石像の首の周りには、髭のような物が彫られていますが、床屋のおじさんとしては髭のようには見えません。もしかして、南蛮衣装のラッフル(ひだ襟)ではと思ってしまいます。普通の牛頭天王の持ち物は斧のようですが、この牛頭天王石像は剣を持っています。見ようによっては、この剣も逆さ十字に見えないこともないようです。両肩の下には変な突起が付けられていますが、もしかして、背中に羽根を付けているのでは・・・?
2012年07月31日
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今日の長崎新聞に、「キリシタン墓碑?」の表題の記事が、掲載されていました。場所は、平戸市春日町。長方形の石組み遺構4基を、市教委が発見していた事が分かったそうです。掲載されていた写真を見て、よく似た物が、私の写真の中にもあったので、紹介してみたいと思います。この写真の墓地は、小豆島移民の方の墓地のようで、周囲の墓碑には、没年月日の二十日を十十日と書かれている物や、没年が寛政十年の墓碑で、戒名が「一王正徳信士」と書かれた物もあります。戒名に「一」の文字が使われている墓碑は、キリシタンに関係している可能性も、あるとした説もあるようです。今回紹介した墓碑も、もしかしてキリシタン墓碑?だったら、島原の乱の後に移民してきた、私達の御先祖様も、キリシタン?私の勝手な持論、「徳川幕府の神仏習合には、キリシタンも習合していた。」を、証明する事が出来れば、隠れ・潜伏キリシタンの不思議が、解けてしまうのですが・・・。話は変わり、 昭和の初めに亡くなった私の祖母は、長崎の本河内の生まれでした。 その当時、父の家族が本河内に住居していた関係で、祖母も本河内の墓地に埋葬されていましたが、その後、祖父の故郷の島原半島に住居を移し、墓所も此方に求めたそうです。その後、長崎に埋葬されていた祖母の遺骨を、こちらに移したのですが、土葬であったために遺骨が多すぎ、大きなカメに入れて今の墓地の中に、移したことを覚えています。当時の埋葬は、火葬場が整備されていない地区では、土葬が残っていたとも言われているようですが、大半は火葬の時代では、なかったのでしょうか?
2012年07月12日
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過去のブログ、「猿・申・サル」では、中南米の国、エルサルバドルの首都サンサルバドルから、「サン・サルバドル=スペイン・ポルトガル語で聖救世主=イエス・キリスト」と仮定して、三猿や、秀吉の「あだ名」の猿に関連付けました。 その後、「山伏の格好」を書いている時に、「マルチリヨ(殉教)の心得」等の、キリシタン教理書の中に、遣欧少年使節が持ち帰った活版印刷機により、加津佐で刷られたであろうと思われる、告解の手引き書『さるばとる・むんぢ』(1598年)があることを知りました。1598年は、秀吉の無くなった年で、かなり早い時点で「サルバトル」の言葉が、日本人に知られていたように思われます。「サン」=「セント」、「サルバトル」=「略してサル」、合わせて三猿。キリシタンを神仏習合の中に隠すには、格好の言葉だったのかもしれません。しかも、その当時、キリシタン教理書などの発行に関係していながら、後に徳川政権に取り込まれた不干斎 巴鼻庵(ふかんさい はびあん)が、神仏習合の中にキリシタンを隠す手助けをしたと考えれば、私は納得してしまいます。庚申信仰は、「三尸」が体から抜け出し、「天帝に、その人間の罪悪を告げる」。キリシタン信仰では、「記録天使」が「天帝(デウス)に、その人間の善悪や祈りを記録して知らせる」。マラキ書の3章16節に、「「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。」と書かれているそうです。 夜を徹して語り合う点では、似通っているようです。「サル」=救世主としての、庚申信仰とキリシタン信仰の、共通点のように思えます。今回は、少々こじ付けが過ぎたようで、反省。
2012年07月05日
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このような卵形の墓碑は、僧侶の墓碑だと聞いています。墓碑には、阿闍梨〇〇・・・と書かれていて、修験の寺社の墓地に在ります。そして、没年には、文化八?天と書かれています。この墓地には、他にも天年号が書かれた墓碑があります。修験の、しかも阿闍梨の墓碑に、天年号が書かれていることは、修験の中にもキリシタンが隠されていたことを、表しているようです。ここには、前に紹介した事のある、〇〇十二世法印〇〇大和尚塔の墓碑もあり、没年には、安政三辰天九月八日寂と書かれています。あまりにも堂々と書かれていることが、何を意味するのか、答えは一つのような感じがします。神仏習合の中に、確実にキリシタンも含まれているようです。ここには、江戸期の神仏習合の、全容の一部以上を明らかにするだけの、遺物が揃っているように感じました。遺物が残っているうちに、キリシタン研究の専門の方に、詳細な調査をしてもらいたいですね。と言っても、専門家の方達は、既にご存じかもしれません。暗黙の秘密にされているのかもしれません。自由気ままな妄想を、ブログに書けるのは、ずぶの素人の特権でしょうか。島原の乱で全滅したとされる地域に、何故、これだけの天年号の使われた、江戸時代の墓碑が残っているのか。島原半島の、何ヵ所かの墓地を見て回っただけで、没年に天年号が使われている墓碑が無い墓地は、ほとんど無いようでした。しかし、戦後の村社会の崩壊と共に、歴史の遺物は壊され続けています。そのまま闇に葬ってしまったほうが良いのか、歴史の真実を追及した方が良いのか、今でも思案しています。
2012年07月04日
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この地方の墓碑によく見かける、座禅を組んだような格好の像が彫られた墓碑です。このような墓碑の石像は、宝珠のようなものを持っているか、手を茶巾のような布で隠しているようですが、なにを意味しているのか、今のところ分からないままです。この像は、頭に丸い頭巾のような物を、被っているようです。一見すれば、女の子のオカッパの髪型のように見えますが、下に、文久三年・純覺童子と書かれているので、男の子供の墓碑でしょう。このような形をした頭巾を、中世の西洋を題材にした、テレビ番組か映画を見たような記憶があったので、調べてみると、遣欧少年使節が謁見した、当時のローマ法王が頭に被っている、頭巾のような物によく似ているようです。最近では、江戸時代の日本の仏教の中身が、キリシタンの教えだったのではなかったのかと言う疑問から、確信に変わってきている私の頭の中では、この頭巾を被った像が、ローマ法王を隠しているのでは・・・と考えてしまいます。あまりにも飛躍した妄想になってしまうようですが、時間があれば、もう少し突っ込んで調べてみたいと思います。
2012年07月03日
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前回取り上げた、「山伏の格好をして隠れては いけない旨の内容が書かれた、キリシタンの内部資料」、と思っていたのは、遣欧少年使節が持ち帰った、活版印刷機により刷られた、「マルチリヨ(殉教)の心得」の中に書かれているそうです。彼らの持ち帰った、活版印刷機で刷られた多くの書物は、宣教師たちが追放された後、教理の理解やカクレキリシタンの存続に、必要不可欠の物だったのかもしれません。「天草本伊曽保物語」は、不干斎 巴鼻庵(ふかんさい はびあん)によって訳され、天草に持ち込んだ活版印刷機で刷られた物だそうですが、そのハビアンが後に棄教し「破提宇子(ハデウス)」を書いたのも、何故の疑問符が付きます。伴天連追放令の真っ只中に秀吉に謁見した、ヴァリアーノ神父の持ち帰った活版印刷機を使い、日本語の教理書を作り残した後にキリシタンを棄教し、一転してキリシタン批判を繰り広げた裏には、予定された何かがあったように思えます。当時、適応政策派のイエズス会と、後発のスペイン系・托鉢修道士会の間には、かなり厳しい対立問題があったようで、ヴァリアーノは、その解決に苦慮していたように、書かれているものもありました。後に、そのフランシスコ会などが提起した典礼論争により、イエズス会の中国での活動が停止され、イエズス会自体も、ロシアのみが活動できる、唯一の国になってしまったようです。そのような状況に苦慮していた、イエズス会のヴァリアーノ神父は、秀吉に適応政策の内容を打ち明け、日本に適応したキリスト教を作り上げる事を、日本の幕府に託したように考えた方が、禁教の時代にも関わらず、キリシタン文化が残った、何故が、解決できるように感じます。そして、家康に受け継がれていったのではないでしょうか。その事が、天皇家の紋章が菊であり、内閣の紋章が桐であることに、つながっているのかもしれません。宣教師の中には、日本人を見下す人や、日本の文化を素晴らしいと認める人が、居たのでしょう。元は同じであった宗教であっても、幾つもの分派を生み出します。そのような伝道者の解釈の違いが顕著になった時に分派し、時としては宗教戦争をも引き起こしているように思えます。反省、今回の妄想は、少し飛躍しすぎたようです。
2012年07月02日
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何時も教科書代わりに読んでいる、「会津キリシタン研究所」の今日のブログに、「会津の修験道」と題した記事が書かれています。その「会津キリシタン研究所」のブログは、このブログの左側のカレンダー下にある、Favorite Blogから見る事が出来ます。そこには、キリシタンと修験道の関係が書かれています。島原の乱で、住民が全滅したと歴史に書かれている地区に在る、日本最古の物とされているキリシタン伏碑(墓碑)も、「ヤンボッ(山伏)さん」と言われて、祀られていました。雲仙の四面宮は、「江戸時代に島原藩の祈願所とされ、高力家や松平家等の歴代藩主の崇敬を受けた」とされているようで、山伏の聖地でもあります。このブログ上で、前に紹介したことのある、葡萄の彫刻の施された社の本殿は、島原半島に幾つかある四面宮の末社です。葡萄は、キリシタンには欠かせない物のようです。江戸期の山岳信仰の山伏には、キリシタンが隠されているようです。何処かで見たようですが、記憶が間違っていなければ、キリシタン宣教師に対して、山伏の格好をして隠れては いけない旨の内容が書かれた、キリシタンの内部資料が存在していたようです。そのような、秘密の内部資料をワザと表に出せば、山伏の中に宣教師は居ないと思い込ませる事が、容易に出来るような気がします。しかし、それではあまりにも単純すぎるようです。しかし、権力者側から、その内部資料を理由に「山伏の中に宣教師は居ないのだ」と宣言されれば、簡単に隠す事が出来るように思います。日本の幕府は、キリシタンをローマカトリックから切り離し、ザビエルやヴァリアーノが目指したイエズス会の「適応政策」(適応主義)を基本に、全ての神仏を習合して庚申(猿・申・サルで勝手に解釈)したのではないでしょうか。日本の神仏習合の中に組み込まれたキリシタンは、その後、儒教など中国の宗教や文化を取り入れ、見事に適応政策を成功させたマテオリッチ((中国名利瑪竇(り まとう))などの宣教師や、中国のキリシタン信者による、漢語に訳されたヨーロッパの新知識の多くを、中国貿易により日本に取り入れたのではないのでしょうか。そして、、その橋渡しをしたのが、中国の禅僧達ではなかったのかと思います。清の密偵と疑われ長崎に幽閉されていた、中国から渡来した禅僧の東皐心越(とうこう しんえつ)が、水戸藩の徳川光圀の尽力により釈放されていることも、興味をそそります。水戸家には、カトリックで最も大切にされるミサに関係する遺品が揃っているそうです。内容は、ブログ「神庭信幸 ハムと薪と、それから保存」の「水戸徳川家に遺る秘宝キリシタン道具」に書かれています。
2012年07月01日
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首には変わった形の首飾りが付けられています。手には何故か蓮華座だけを持っていますが、この上に何かの像を置いて礼拝したのではないでしょうか。はたして何の像が置かれていたのか、蓮華座の上に小さな像を置いた姿は、キリストを抱いたマリアを想像させても、無理ではないでしょう。又、不動明王などの画像を検索してみると、坐像の中に、このような小さな蓮華座が、頭上に置かれているものもあるようです。そこにも、やはり、何かの小さな像が祀られていたのかもしれません。おそらく、神事を行う時だけに、何処かに隠された小さな像を、このような蓮華座の上に、置いたのではないでしょうか。このような袖の無い着衣が、古い時代の日本にあったのか疑問ですが、変わった形をしています。そして、肩から後ろに掛けられた布は、ケープ(西洋の肩掛け)のようにも見えます。手には帯のような物も掛けられていますが、よく見ると、その帯のような物は、肩から垂れ下がっているようにも見えます。見かたによっては、ローマ・カトリックで使用される、「ストラ」にも見えるようです。この仏像?の額にはティアラのような頭飾りが付けられていますが、観音様の髪飾りとは少し違うようで、西洋の女王様のティアラのようにも見えます。しかし、この像の祀られている場所は、観音堂ではなく神社で、地区全体で祀っておられるようです。島原半島には、旧村全体で祀ってある神社の入り口に、十字や三角の火袋が彫られた灯籠が、村の名前で奉献されている所もあります。隠れキリシタンや潜伏キリシタンでは、片付けられない何かが存在しているようです。
2012年07月01日
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神社に行くと、大木に注連縄が巻かれているのを目にします。神社の御神木になっているようですが、何故か、神社でよく使われる榊ではなく、ここでも楠の大木が御神木になっています。楠と聞けば、思い出すのが樟脳です。それは私の母方の祖父が、製麺業と共に樟脳の製造所も経営していたからで、楠を蒸留する為の木端作りの前準備の為の楠の皮剥ぎが、子供の頃の私の遊びでした。当時は樟脳も専売品でしたが、その後、需要の減少から専売品から外され、製造所は閉鎖しました。戦時中には、軍需品としての樟脳の需要が増大し、兵隊さんも派遣されて来て居たそうです。それは樟脳が、戦争では不可欠な、無煙火薬の原料に使われたからでしょう。日頃から、「神仏習合の中にキリシタンが習合されている」と考えているので、神木の楠とキリシタンに何らかの関係性がないものか、樟脳に付いて調べてみました。「日向の香り」に書かれている事によると、樟脳は、キリシタンが日本に入ってきた織田信長の時代には輸出が始まり、江戸時代には金銀、生糸 と並び重要な輸出品となったと書かれています。海外からの輸入に対しての支払いに、金銀に代わる輸出品としての役割があったのでしょう。そう考えると、養蚕で出来る生糸や楠からできる樟脳は、国を豊かにさせる貴重品だったようです。キリシタンにより西洋との貿易の窓口が開かれ、その後の貿易を支えた蚕や楠は、日本の新たな救世主となったように思えます。富をもたらす神として、崇めるに値する存在でもあったのでしょう。そのように考えれば、蚕や楠が祀られている陰に、キリシタンへの感謝が隠されて居たとしても、不思議では無いように思います。
2012年06月30日
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四角の中に幽黙と書かれています。 上の写真の丸の部分をアップしました。四葉のクローバが彫られています。 過去のブログへ、「無し」さんからコメントがありましたが、 http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201009120000/#commentの写真を削除していましたので、再度アップロードして置きます。
2012年06月29日
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今朝、すぐそばに在る川を眺めに、カメラを持って出てみると、今年になって二回目のカワセミとの遭遇。急いでカメラを向けてパチリ。二回目のシャッターを切ろうとした時には、カワセミは飛んで行ってしまいました。私にとっては、たった一枚だけの写真になりましたが、記念すべき初めてのカワセミの写真。40メートルくらい離れていて、あいにくの曇り日和のせいで、きれいな画像にはなりませんでしたが、記念にアップ。
2012年06月29日
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この墓碑は、前に紹介したかもしれないのですが、どうしても、そのブログを見つけ出す事が出来なかったので、ここに再度かもしれませんが、紹介します。この墓碑は、斗升型墓碑(塚墓)に良く似ています。天保年間と嘉永年間に亡くなられた、ご夫婦の墓碑で、ご夫婦の娘さんも合葬されています。墓碑は、学校敷地などもポンと寄付された、大地主の方の墓碑で、この地域全体で今でも大事に管理されていると、近所の方に聞きました。この墓碑が変わっている点は、一点目が、埋葬されている方達の名前が、[通称]の氏名で書かれていることです。この事は、本名を隠さなければいけないような事情が、あったのではないかと考えられます。それが何故なのか。もう一点目は、埋葬者が、第四世であることが書かれていることです。反対面には、娘さんが、五世であることも書かれています。江戸時代の将軍家などでは、第〇〇代将軍などと呼ばれていることから、大〇〇世と書かれている事に、不思議な感じがしました。これまでに見てきた墓碑の中にも、第〇〇世と書かれているものを見たことがありますが、その墓碑も、やはり大地主の方の墓地に在ります。戒名には、了元・負圓と書かれていますが、徳川幕府のキリシタン隠しに関係があるのではないでしょうか。
2012年06月28日
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裏庭に行ってみると、ホウジロが無心に餌を探していました。早速カメラを取に行きましたが、帰ってくるまでに居なくなる可能性大。しかし、餌の虫をツツいていたホウジロは、まだその場に居たのでパチリ。どうにか、カメラに収める事が出来ました。
2012年06月26日
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大雨が降った後の道路を走ってみると、彼方此方の崖が少しずつ崩れているのが目につきました。車の中なら、田植えの終わった田んぼを見て、子供の頃の「川祭り」の事を思い出しました。今でも集落によっては、田植えの済んだ後に「川祭り」と称して、休息日を設けている所があるようです。私の子供の頃までは、ここら辺りの地区全体が川祭りの行事を行っていました。昔の「川祭り」と言えば、川の洗い場などに、茹でた素麺を藁で包んだ物を御供えし、川祭りの期間に川で泳ぐと、河童にお尻の穴を取られると言って、川で泳ぐことが禁じられていました。おそらく、川の水は綺麗に見えていても田植えの済んだ直後は、田植えの前に肥料として撒かれた、人糞などの肥しの成分が分解していないので、衛生上危険があったからでしょう。人間が尻の穴を取られると、尻の穴がポッカリと開いてしまいます。と言う事は、死んでしまうことだと思います。川祭りで、川に御供えする素麺は、水を守ってくれる水神様(河童?)に御供えします。河童はキュウリが好きだと言いますが、河童の好きなキュウリとは、イタリア料理で良く使われる、ウリ科カボチャ属のズッキーニではないのでしょうか。家紋に使われているモッコの形に似ています。http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201104290000/ 下の写真に彫られている文様は、今見ると、蔓菊のようにも見えます。このような事から、御供えの素麺は、キリシタン文化と共にローマから伝搬した、パスタ文化の日本版ではないかと、勝手に思っています。
2012年06月25日
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斗枡型の墓碑との出会いこれまでに私のブログで取り上げた、稲を荷うイナイ地蔵、稲を荷う田の神様、このような神様も稲荷神と習合されているようです。稲荷神社の神使である狐ですが、何故、狐なのか疑問でした。狐を調べてみると、狐にも位があるそうで、天狐・空狐・気狐・野狐の順で天弧の位が一番高いそうです。そこで、稲荷神社のキツネを天弧とすれば、天狐(テンコ)=天子(テンコ)になります。このブログでは、稲荷神はイナイ神であり、イナイをイナーイ(INRI)に変え、稲荷神に神仏習合されたと、推理しています。INRIの4文字は、日本語では「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と訳されているそうです。稲荷神の中にイエスが習合され、その神の使いが天狐だとすれば、稲荷神の神使は天使になります。江戸時代のキリシタン信仰は、稲荷神の中に確実に習合され、その後も生き続けているように思えます。日本の稲荷神社の総本社である、伏見稲荷の御札が、それを表しているようです。そこに描かれている二匹の蛇の口は、験(しるし)の杉、倉の鍵をくわえています。キリシタンに置き換えれば、験(しるし)の杉はレバノン杉を、倉の鍵はキリストがペテロに渡した天国のカギを、表しているようです。蛇は、エデンの園でアダムとイブに、禁断の果実を食べる事を、そそのかしました。上の方には、盃の中に三つの宝珠が描かれています。聖杯の中に三位一体を表しているようです。その右側に書かれている、上の写真の斗升(使徒トマス?)形墓碑に描かれた、違い山形の文様に良く似た形は、もしかして、キリストの処刑地である、ゴルゴダの丘を表しているのではないでしょうか。そして、一番下に稲荷神(キリスト?)の神使である天狐(天使?)が、描かれています。稲荷神の神使である狐の好物が油揚げ、油揚げは天婦羅の一種で、この天婦羅に付いては、下を参照してみて下さい。最後のところに書かれていることが、関係ありそうです。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1244668947精進料理の中に「油揚げ」がありますが、ここに書かれているテンポラスとも関係がありそうです。もしかして、油揚げが好きな狐とは、宣教師のこと?
2012年06月24日
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近所の駐車場で、ピーピーと甲高い声で鳴いていたので、撮りに行きました。今までに見たことのない、変わった鳥で可愛いのですが、鳥の名前がわかりません。ネットで調べてみると、「コチドリ」と言う、チドリ類のなかで最も小さい、全長16cm、チドリ科の鳥でした。
2012年06月23日
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前回のイナイ地蔵を探しているときに、稲を荷う(島原弁でイナウ)聖徳太子のような姿の田の神様が、石川県の能登で祀られていることを、知る事が出来ました。床の間に、掛け軸のように祀られている田の神様は、「あえのこと(ユネスコ無形文化遺産)」で、見る事が出来ます。田の神様は豊穣の神様、田の文字は四角の中に、十字架を表しているように思えます。聖徳太子は「厩戸の王子」、イエスキリストも馬小屋で生まれています。五島のカクレキリシタンでも、五穀豊穣を祈る儀式があるそうです。田の神様も、キリシタン隠し?ウインクをしている姿が、ユニークです。
2012年06月21日
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上の写真は、2011年05月08日・「変った稲荷神社」で紹介したものですが、同じような形をした、イナイ地蔵が、「佐久間ダムを見下ろす「松山公園」・弘法大師と稲荷神」のブログで紹介されていました。イナウと言う言葉が、島原弁だと思っていた私には、静岡県浜松市でもイナイ地蔵と言われていることに、驚いています。キリシタンに興味を持ってから、色々と皆さんから教えて貰い、知る事が出来た言葉の中に、「INRI」の文字がありました。「変った稲荷神社」での私の推理では、稲荷様が、「イナーイの神=INRIの神」で、「稲を荷(イナ)ってくる神、稲荷神=何か(豊作?幸せ?富み?)を荷ってくる神、ユダヤ人の王,ナザレのイエス」になっています。西洋での豊作は麦ですが、日本では米(稲)です。麦の図柄は、キリシタンでよく使われる図柄のようです。イナイ地蔵の横には、弘法大師像が祀られているそうで、その周辺には四国八十八箇所を模した石仏が並んでいるそうです。稲荷神社と弘法大師には、やはり江戸時代の神仏習合と関係がありそうです。隠れキリシタンでは、母子像が崇拝されているようですが、民間信仰の中にも、子安観音、水子地蔵などの他に、子安弘法大師像もあります。おそらく、このような民間信仰も、キリシタンと関係があるのでしょう。弘法大師は、景教との接点があったとされており、真言密教の中にキリシタン信仰を隠す為に、無理やり神仏習合に利用されたようにも思えます。ウキィペディアにも、【明治末に来日したアジア研究家の英国人であるイ・エ・ゴードン夫人は、真言宗と景教の関連性を確信し、高野山に中国・西安(長安)にあった景教の記念碑「大秦景教流行中国碑」のレプリカを建立した。この記念碑は、今も高野山に現存している。(夫人の墓もその隣りにある。)】と書かれています。そして、このイナイ地蔵がある所が佐久間ダムの周辺で、ダムが建設された当時の所在地は磐田郡佐久間村だそうです。この村名の佐久間にも、何か隠れているような気がしますが、今のところ宿題として残っている状態です。
2012年06月21日
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諫早湾干拓が出来て以降、家の周辺で見たことのない水鳥を、よく見るようになりました。鷺の仲間でコサギやアオサギが最近多いようです。その前はゴイサギをよく見かけていましたが、最近は近所で見かけなくなりました。冬の諏訪の池では、シラサギの中でも大型でアオサギ程度の大きさの、ダイサギも見る事が出来ました。しかし、今回見た上の写真のクロサギは、今までに見たことが無く、最初はウミウだと思っていましたが、カメラを望遠にして写真に収め、後で拡大して良く見てみると、口ばしの形が違います。体の形がコサギに似ているようなので、鷺で検索してみるとクロサギであることが分かりました。珍しかったので、早速ブログに乗せてみました。
2012年06月20日
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鳥居と石灯籠の間に見える猿葉山から分祀された猿葉稲荷神社雲仙登山道に在る祈りの里の猿葉稲荷神社キリシタンに興味を持って暫くした頃から、「サル」という言葉が気になって仕方がありませんでした。三猿(見猿・聞か猿・言わ猿)の猿、庚申塔の申、織田信長が豊臣秀吉に付けた「あだ名」の猿。一般には、「秀吉の風貌が猿に似ていた」と言われていますが、これには疑問を感じていました。それは何故?信長が付けた秀吉の風貌を表した、もう一つの「あだ名」に禿げ鼠があります。おそらく俗に言われる秀吉の「あだ名」は、後者の禿げ鼠であったろうと思われます。また、秀吉が復興に尽力したと言われる、滋賀県大津市坂本にある山王総本宮日吉大社の、神の使いが猿であることから考えて、サルが秀吉を揶揄する「あだ名」では無かったと思われ、秀吉の「あだ名」のサルには、他に深い意味があるように感じていました。信長が天下人になる過程で、幾多の困難を、常識を超えた方法で乗り越えてきた秀吉は、信長にとっての救世主だったのではないでしょうか。もちろん、一度焼き払われた日吉大社の復興に尽力してくれた秀吉も、日吉大社の救世主。ここまで述べれば、これから私の言おうとする事が分かる方も居られるでしょう。そう、救世主=サルバドル(スペイン、ポルトガル語)、略して「サル」です。信長は、秀吉の常識を超えた作戦で、何回も困難を乗り越えることが出来たことでしょう。その度に、信長は秀吉に対しサルバドル(救世主)と言って褒め称え、高い地位を与えていったと思われます。「救世主=サルバドル(スペイン、ポルトガル語)=サル」が成立すれば、【三猿(見猿・聞か猿・言わ猿)の猿・庚申塔の申、織田信長が豊臣秀吉に付けた「あだ名」の猿・山王総本宮日吉大社の、神の使いの猿】の疑問が、全て解決出来るように思えます。上に書いた推理のヒントになったのが、雲仙市の小浜町と千々石町の境にある猿葉(サルバ)稲荷神社と、中南米の国、エルサルバドルの首都サンサルバドルでした。猿葉稲荷は小さな稲荷神社ですが、地元の人の言い伝えでは、佐賀の祐徳稲荷神社よりも格が上だと言われています。稲荷神社とキリシタンとの関係は、2011年05月08日「変った稲荷神社 」で、すでに推理済みですので読んでみて下さい。小学生の頃、世界の国と首都を、担任の先生に徹底して叩き込まれた事が、このようなかたちで神仏習合の推理に役立とうとは、思いもよりませんでした。以上のようなことから考えて、江戸時代の神仏習合には、やはりキリシタン信仰をも含まれていた、という結果に辿り着きました。本音と建前の上手な使い分けの結果ではないでしょうか。サン・サルバドル=スペイン・ポルトガル語で聖救世主=イエス・キリスト三猿、サン・サルバドルを略して、サン・サル=三猿(見猿・聞か猿・言わ猿)、本音がキリシタンであることは、見ても見ないふり、聞いても聞こえないふり、もし知っていても言わない。庚申、庚の字は、【同音の「更」につながり、植物の生長が止まって新たな形に変化しようとする状態】、申の字は、サルバドルを略してサル(申)。二つの文字を合わせれば、一旦止まっていた救世主イエスキリストの信仰が、新たな形に変化(神仏習合)して更に成長を続けたことを意味する。
2012年06月15日
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ふと思い出したことがあります。南島原市有家町に在る酒造所のホームページに、「明治三年、長崎浦上村・・・より酒造稼ぎ高百五十石譲り受け。」と書かれていました。明治三年は、浦上4番崩れで続々と長崎の信徒達が捕縛されて、流罪に処された最後の時期です。江戸時代まであった浦上村の酒造所が、明治になり浦上4番崩れのせいで廃業に追い込まれたのかもしれません。隠れキリシタンの村と言われていた浦上村に、江戸時代までは酒の酒造所が在ったことは意外でした。キリシタンには、葡萄酒は必需品だと思います。もしかして、浦上の酒造所でも、密かに葡萄酒が造られていたのでは、との疑問が生じてきました。このブログでも取り上げた、「勝沼ワインのルーツ」ですが、ウィキペディアで調べてみると、1877年(明治10年)、当時の祝村(現在の甲州市勝沼下岩崎)に創設された大日本葡萄酒会社が、2人の青年(高野正誠、土屋龍憲)をワイン醸造技術の習得のためにフランスへ派遣した。2年後に帰国した両名によって、甲州種を使い本格的なワイン生産が初められたが、醸造や貯蔵の技術に問題があり、不良品が流通するなどしたため、同社は1886年(明治19年)に解散した。その後、勝沼では、この試みを引き継いで、ワイン醸造事業が様々な形で展開していった。と書かれていました。ここに書かれている事によると、先に葡萄酒会社が造られ、それから技術者をフランスへ派遣しています。そして彼らが返ってきたのが、その二年後。その間に、大日本葡萄酒会社が、葡萄酒を造っていなかったとは思えません。おそらく、大善寺の薬師如来の法薬としての葡萄酒が、会社設立以前から、細々と造られていたことが考えられます。しかし、技術者二人がフランスで学んできた葡萄酒は、外国人用のワインであり、大善寺・薬師如来の法薬として造られていた、それまでの勝沼の葡萄酒とは、違ったものだったのでしょう。西洋と日本の二百数十年の時の流れの中で、日本の葡萄酒とヨーロッパのワインが、違うものになっていた可能性が十分に考えられますが、江戸時代からあった原料になる葡萄の栽培技術が、その後の勝沼ワインを造りだす元になったのではないのでしょうか。勝沼町の醸造所が、世界に誇れる日本製ワインを造ることが出来るようになれたのも、江戸時代からの法薬としての勝沼の葡萄酒の需要があったればこそ、法薬の葡萄酒から外国人にも通用する、今の勝沼ワインに変わっていくことが出来たように思えます。そして、薬師如来の法薬である葡萄酒を、勝沼に持ち込んだのが、武士としては死んでいる有馬晴信と家臣団と考えれば、大善寺の葡萄を持った薬師如来は、仏教の衣に包み隠されたキリシタンの、礼拝の対象であったとも考えることが出来ます。
2012年06月14日
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有馬晴信の戒名は、「晴信院殿迷誉宗転大禅定門」、となっているようです。晴信の紙位牌の写真は、山梨県内のニュース(山梨日日新聞から)で見る事が出来ましたが、今は見られなくなっているようです。戒名の中の「迷誉宗転」、気になる文字列です。そこに、二人の男性の戒名が書かれており、両方の院号には、武士等に用いられる院殿が用いてあります。ご夫婦の戒名が書かれている位牌は目にしますが、男性二名の戒名が書かれたものは、珍しいのではないでしょうか。それと、位号が大禅定門と大信士、普通のご夫婦の場合、居士には大姉、信士には信女と、つり合いのとれた位号が書かれているのが、普通のようです。ここで又、とんでもない推理をした結果が、晴信の位牌に書かれている戒名は、「武士として一度死んだ晴信の戒名と、その後、実際に亡くなった晴信の戒名」ではないのか、と言うことに成りました。前に、このブログで取り上げた、「路の辻に在る、鷲ヶ濱音右エ門墓」、「鷲ヶ浜音右衛門・高木野良太、墓」、で推理したように、有馬晴信の紙の位牌に書かれた二つの戒名は、同一人物の可能性があるように思えてなりません。もし、この推理の結果が正しかったとすれば、「勝沼ワインのルーツ」が、島原半島であった事に成るのですが・・・。
2012年06月12日
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有馬晴信が謫居(タッキョ)地の近くにある、栖雲寺に秘蔵してあった虚空蔵菩薩像のレプリカが、日野江城跡地の近くにある、ピロティー文化センター二階に展示されていました。像の手には、台座の付いた十字架が持たれています。この像に描かれている人が有馬晴信だとすれば、この像が描かれた時点で、武士としての晴信は死んでいたようですが、人としての晴信は生きていたのではないかと思ってしまいます。有馬晴信ではと思われている、この虚空蔵菩薩像のレプリカの頭髪を見ると、髷が落とされたザンバラ髪が肩まで垂れ、月代(サカヤキ)だけが目立っています。よく時代劇などを見ていると、殺すに惜しい人の打ち首の場面で、髷だけを切り落としただけで、武士としての其の人は死んだことになっていました。日本側の記録では、晴信は切腹したとされているようですが、キリスト教側の記録では、自害を選ばず首を切り落とされたとなっているようです。それに晴信は、家臣たちの殉死も許さなかったとされていて、妻ジェスタは頭髪を切り、共にいた僅かな女たち、他の家来も日本の風習にしたがって同様に髪を切ったとされているようです。また、この虚空蔵菩薩像の保管されていた栖雲寺(サイウンジ)の栖の字は、来栖の「栖」で意味を調べてみると、「巣・人の住む所・棲家」となっています。そして、「雲」を調べてみると、「高いこと、遠いことなどのたとえ」となっていました。栖雲寺とは、雲上の人の棲む処で、有馬晴信自身が剃髪して僧となり、家臣団と共に仏教の衣の中に隠れ、生き続けていた場所ではないのでしょうか。晴信の謫居(タッキョ)地跡には、今では国道の下に埋まっている、今宮大明神があったそうです。今宮を調べてみると、「新しくできた宮(神社)」となっています。晴信は、この地で晩年を過ごし、新しい神(虚空蔵菩薩)になったと思えてしまいます。晴信の処刑のときは、150名の武装兵で幽閉された屋敷を取り囲んでいたそうで、部外者の目撃は不可能だったでしょう。このような死人を生き返らせるような、とんでもない推理に至ったのも、晴信の遺骸が何処に埋葬されたか定かでないからです。ここから話が変わりますが、この時の幕府の検使は、島原の乱鎮圧の上使である板倉重昌の兄、板倉周防守重宗でした。その板倉周防守重宗は、晩年、徳川家の宿老として江戸で幕政に参与し、保科正之ら大老と同格の発言力を持っていたとされています。そして、この二人の父、板倉勝重は幼少のとき仏門に入り、その後、家督相続のために還俗(げんぞく)した人で、まだ寺社奉行の制度がなかった頃、崇伝と共に徳川幕府の寺社に関する職務にあたっていた人です。江戸幕府の宗教再編に大きな影響力を持っていたのではないでしょうか。晴信の処刑の際の幕府の検使、島原の乱の際の鎮圧の上使、寺社奉行の出来る前の寺社に関する職務にあたっていた人など、板倉家は、キリシタン対策に大きく関わっているようです。また、この松倉勝重の父の松倉好重は、後に島原藩主となった深溝松平家の2代深溝松平好景に仕えて、善明提の戦いで戦死しており、板倉家の島原との関係にも、興味深いものがあるようです。
2012年06月11日
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キリシタン大名サミット会場近くの、空き店舗を利用した日野江城発掘品の展示場です。板戸には南蛮屏風図の模写が書かれています。後日、ご近所の方に聞いた話では、この店舗を提供して下さった方の、お父さんが書かれたのではないか?、とのことでした。この日の、この会場には、日野江城跡から発掘された金箔瓦の本物や、野立て用の石製風炉(カマド)、当時の貿易商品である陶磁器類などが展示されており、なかなか見ごたえのある内容でした。この場所に居られた方が、「勝沼ワインの元は、有馬晴信に付き添って行った、家臣が造ったのでは」、と言われた話を耳にしました。それはあり得るなと思い、帰ってから早速に、葡萄を持った仏像があったことを思い出し、そのことを調べてみました。その仏像とは、山梨県甲州市勝沼町にある、大善寺の薬師如来像です。この薬師如来像の由来には、 「養老二年(718年)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れました。行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置した」、と書かれていました。私は日頃から、行基や弘法大師の伝説には、宣教師が隠されているのでは、と勝手に思っています。この勝沼町の大善寺から直線距離で5~6Km離れた隣町に、有馬晴信終焉の地や、謫居(たっきょ)の地があります。偶然としては、あまりにも出来すぎではないでしょうか。そして、ここでは葡萄を法薬としています。葡萄を薬として使うには、何らかの加工をしなくては、一年中薬として使うことが出来ません。甲州の地は葡萄の栽培と醸造に適した気候だったのでしょう。その為に、晴信と共に島原から甲州に、葡萄酒を造れる人が同行したのでは、と思えてしまいました。
2012年06月08日
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「仏法即相撲」、相撲の司家「吉田司家」の伝書の中の一つだそうです。相撲が神事とばかり思っていたので、意外な感じもしましたが、これまでに色々と調べてきた結果として、それもアリかなと感じました。吉田司家に伝わるものの中には、豊臣秀吉公下賜の「日月団扇」・徳川家康公下賜の「葡萄団扇」もあるそうですが、日月や葡萄はキリシタン信仰でも、よく使われる文様のようです。相撲が一般庶民と関係してきたのは、江戸時代の盛んになった、勧進相撲ではないのでしょうか。それまでの相撲は、宮中の行事や護衛、警護の職の採用試験的側面も持っていたようです。江戸時代になり、吉田司家は、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をしています。それまで衰退していた相撲は、勧進相撲が行われるようになり、盛んになったようです。吉田司家の19代吉田追風は、横綱制度を考案し、谷風・小野川に横綱を免許したそうです。寛政3年および寛政6年には、「11代将軍徳川家斉の上覧相撲を奉仕し、武家相撲の作法および土俵の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。」とされており、徳川幕府とのつながりも強かったようです。他方、江戸末期には、京都の五条家が相撲の家元と称し、あちこちで横綱免許を出していたことがあったそうですが、現、雲仙市小浜町出身の4代目 玉垣 額之助は、「柏戸と共に五条家からの横綱免許を受けたが、柏戸がそれを辞退したのを見てそれに遠慮したのか、綱を締めることは結局なかった。」となっています。そのことが評価されてか、出身地小浜町の剣柄神社(現小浜神社)には、義人 玉垣 額之助」として頌徳碑が建てられています。また、吉田司家は、「明治維新の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。」ともされており、現、南島原市有家町出身のの関取「鷲ケ濱音右衛門」が、亡くなったとされる、明治2年8月と同時期になっているのが、気にかかります。一般に「廃仏毀釈」と言われている、【日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」】の出された時期に、相撲廃止論が起こったのは、「仏法即相撲」であったためではないのでしょうか。私が勝手に推理した、江戸時代の「キリシタンをも習合した仏法」が解体されて、国家神道に変えられると考えた民衆の不安は、相当にあったように感じます。
2012年06月07日
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江戸時代には勧進相撲や勧進歌舞伎が盛んだったようです。勧進とは寄付を受ける行為で、キリスト教関係では、寄付の事をドネーションと言うようです。教会では寄付を受けた代わりに、リボンが与えられるようです。赤い羽根募金や緑の羽根募金で、羽を胸につけてくれるのと似ていますね。これまでに、このブログで紹介した神社の、古い扁額や石灯篭にも、リボンが彫られているものがありました。 キリシタン教会組織の、ドネーション(寄付)によって造られたことを意味して、彫られたのではないでしょうか。上の写真の墓碑は、墓地の中にある大阪相撲の力士の墓です。明治の時代に亡くなられているようですが、随分後に建て替えられたものかもしれません。この墓碑の気になる所は、没年の旧八月二十四日の二十の字が、十字を横に二つ重ねた特殊な字形になっていることです。そして、屋根の部分を上から見ると丸が見え、横から見ると、教会の鐘を扁平にしたような形です。この墓碑は墓地の中にありましたが、これまでに見てきた関取の墓碑は、何故か墓地ではなく、道端に在ることが多いように感じました。墓碑は、家族の方達がお参りするのが通常ですが、大相撲の関取の墓碑は、何故、誰でもがお参りできる、人通りの多い場所に造られているのか。私の推理では、関取が「神として祀られた」です。では何の神かと言うと、それはキリシタンの神ではないかと思うのです。キリシタンの日本の守護神は、ミカエルでした。天使の最高位にありながら、傲慢になり神に成り代わろうとした堕天使ルシファーは、大天使ミカエルにより地に落とされ、、負けたルシファーはサタン(ドラゴンとも)になったとされているようです。「傲慢になりすぎるといけません」と、教えているようですね。相撲には、この堕天使ルシファーの教えが、隠されているのではないでしょうか。「カエル 相撲」で検索してみると、下のブロブがかかってきました。http://blogs.yahoo.co.jp/shoshoir405/22685766.htmlそこには、俳人の一茶が関係しているようです。又、相撲は河童(キリシタン宣教師?)伝説にもよく出てくるようです。キリシタンと相撲の相似点は、五つの色にもあるようです。相撲の土俵の「四房」の色は、白・緑・黒・赤、そして水を表わす「水引幕」の紫です。キリシタンの典礼の色にも、下のような意味があるそうです。白:神の栄光、清らかさ、喜び、 緑:希望、歩みの堅実さ、忍耐深く聞く、黒:死、苦しみ、悲しみ赤:火、愛、殉教、紫:償い、回心、節制、待つこと、死者の贖罪と冥福を祈るそして、水引幕の中央を絞り上げている「揚巻」は十文字に結ばれています。
2012年06月01日
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雲仙には、河童の伝説があります。その伝説は、「河童 昔話 三太郎」で検索されれば出てくるだろうと思います。この話をもとに、また妄想の世界で楽しんでみたいと思います。「河童=キリシタン宣教師」と仮定して、この話を読んでみると、面白いことにキリシタンが山岳信仰に変わっていくのです。そして、その後、菩薩信仰に変わります。この伝説に出てくる河童は、人として認めてもらおうと、元々雲仙に居た「山の神」に人間にして下さいと頼んでいます。雲仙は、元々が仏教の盛んな地であったことは、フロイスによっても紹介されていますし、周知の事実だと思います。その当時の日本の仏教は、仏教が日本に伝えられた後に、それまでの御岳信仰などの神道と神仏習合が行われていました。その神や仏と、同等の地位を認めてもらおうとしたことが、河童が人間に成ろうとしたことだと思いました。同等の地位を認めてもらう手段として、山岳信仰の「山の神」を頼りにした。この事は、キリシタンが日本に入ってきた初期に、デウスを大日如来と訳して布教をしたことに似ているようです。しかし、それはすぐに訂正され、その後は、神をデウスとして布教されたようです。各地で布教して回る宣教師(河童)の事が、この伝説では、おしゃべりな河童として書かれているのではないでしょうか。宣教活動だけをしていても、元からある日本の神や仏と、同等の地位を獲得出来るはずが無いと考えた「山の神」(ここでは時の権力者)は、布教活動を一時停止し、世の中の役に立つ仕事をしなさい、と教えたように思えるのです。しかし、河童達(宣教師達)は、一時は布教活動をやめて静かにし、世の中の為になる仕事(ヨーロッパの医療や土木や天文学)をしていたのですが、何時しか又、布教活動を始めてしまった。この結果が、「島原の乱」を引き起こしたように思えてしまいました。その結果、残ったのが、神や仏の形に成らないまま、キリシタンの教えだけが雲仙の普賢や妙見信仰として修験の形で、残ったように思えます。雲仙の四面宮は、妙見神社・普賢神社などを祀り、女人禁制の修験道の聖地でした。各地の四面宮には、キリシタンの痕跡では、と思われるものが残っています。そして、その四面宮は、島原の殿様の庇護を受けていたことが、知られているようです。又、人間と仲良しの河童伝説は佐賀に多いようですが、イエズス会の勢力が強かったと思われる有馬には、何故か、河童が悪者のように伝えられている昔話、【「瓢箪(ひょうたん)と河童」 島原半島民話集 関敬吾著 】 もあるようです。この点も、研究してみれば面白いように感じました。この民話集を書かれた関敬吾氏は、島原半島の輩出した偉人、関三兄弟の一人として有名な方です。又、この関氏の生家は、弘法大師伝説のある六角形の井戸の傍にあり、説明板も設置されており、町の名所になっています。
2012年05月27日
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島原之乱戦没者無縁の諸霊・八十八ヶ所平和塔と書かれた石碑が、ここにもありました。裏に何が書かれているのか、見る事が出来ませんでしたが、これまでに見てきたものには、建立者に長崎市や別府市の御家族のの名前が記され、その横に並べて、その地区名部落一同と書かれており、最後に「坂下教会浄修ニヨリ」と書かれています。この「坂下教会浄修ニヨリ」の意味が、未だに分かりません。この石碑はまだ新しいもので、他の同じような石碑に書かれている建立年は、昭和五十五年になっていました。島原半島出身者の方達なのかわかりませんが、広範囲の方が関与しておられるようです。この石碑の周りには、これまで見てきたような神社や地蔵様も無く、写真に写っている勢至菩薩ではないかと思われる、手の壊れた小さな菩薩像だけでした。
2012年05月24日
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先日、テレビの番組で、26聖人記念館50年前の長崎貴重映像が放送されていました。 そこで ふと思い浮かんだのが、殉教者の処刑図です。さっそく調べてみると、やはり十字架にかけられ処刑されている図が出てきました。もし、検索で出てきた処刑図のように、本当に十字架にかけられ処刑されたとするならば、そこには重要なことが隠されているのでは、と感じました。ここからは、「十字架にかけられ処刑された事が本当だとするならば」の、仮定での推理です。ここで一つ疑問に思ったことが、なぜ禁制のキリシタン信仰者を処刑するために十字架が使われたのか。敬謙なキリシタン信徒にとっては、主イエスと同じ方法で処刑され神に召されることは、この上なく光栄な事ではないのでしょうか。また、これを見た信徒たちの手本に成る危険性をもはらんでいます。そのことは、後にキリシタン信徒の信心心を高めたとする説もあるようです。では、何故。推理の結果は、秀吉が当時のヨーロッパの植民地政策を嫌い、その政策に利用される可能性のある、ローマの指示に従うキリシタンを排除し、秀吉に逆らえないキリシタンは、逆に利用しようと考えていたのではないかと思えるのです。キリシタン信徒たちの、「主」に仕える純粋な姿勢を国民全員に植え付け、日本の「主」となった秀吉に忠誠を誓わせる事が出来れば、これ以上ない盤石な政権ができるのではないでしょうか。そして、その政策が徳川政権に受け継がれた。
2012年05月24日
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