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会社員磯谷利恵さん(31)は8月24日午後10時ごろ名古屋市千種区自由が丘の路上で拉致され、その後、無残にも惨殺され山林に遺棄された 逮捕されたのは住所不定、無職川岸健治(40)愛知県豊明市栄町西大根、朝日新聞勧誘員神田司(36)名古屋市東区泉1丁目、無職堀慶末(32)の3人、このバカ鬼畜3人を結びつけたのは闇サイトだった・・・事件が発覚したのは川岸の自首、しかしながらこいつの自首理由である「殺さないでという女性の声が耳から離れなかった、死刑が怖かった」という理由には反吐が出る、なんの罪も無い人を殺めてしまったという反省などは皆無、ただ怖い、怖い、怖いからという自分勝手なバカまあ、こんなバカが自首する理由なんてこんなもんだろう、死刑があってよかったね、自首するひとつのおもりになっているのだから事件概要は各メディアで伝えられているとおり、なんとも身勝手で短絡的な犯行であり、被害者本人の無念さもさることながら母子家庭であった磯谷さんの母の無念さを考えると・・・金が欲しい、非力な女性のほうが金を奪いやすい、顔を見られた、殺さないとまずい、とりあえず7万円手に入れた、もっと欲しい、次の犯行を計画主犯格の神田がすすめた計画のようだが、誰もが思っただろう、アホかと!変な話だが、単にお金が欲しいなら、それもOLの財布に入っている金額で満足なら、ひったくりやスリで済ますものだ、もっと高額を狙うなら、会社の金庫や銀行といったところ、この点が実はこういう集団犯罪の特徴なのだバカが3人集まるとバカ×3というだけではなく、仕切る人間が暴走しはじめるたとえば、神田ひとりだけだったら、万引きや強盗でもしてアホなりの捕まり方をして終わりなんだろうが、集団になると普段出来ないことをやってしまう一対一での凶行は、怨恨が一番の理由だが、集団惨殺事件は仕切り屋の暴走が多いのだ、まわりの人間に強がってみせるため暴走する、引くに引けなくなって暴走する、名古屋アベックや綾瀬コンクリート、栃木リンチを出すまでもなくこの場合もそう、携帯の闇サイトでバカ3人がつながったばっかりに、死ななくてもいい、ひとりの女性がメッタ打ちされて惨殺されてしまういま言えることは、ひとつに自己防衛の気運を高めること、加害者が悪いことは百も承知だが、それは自己保全できる理由にはならない、鬼畜バカには残念だが常識は通じないのだ、磯谷さんはこの日、昼ごろの出勤で帰宅が遅くなっているが、いつもは7時30分頃に帰宅しているそうだ、この日に限ってとかたまたま遅くなったことが意外に襲われる理由のひとつになっているその日に限って遅くなり、普段通らない近道を通ったら犯罪に巻き込まれた、こういう事件は枚挙にいとまがない悲しいことだがこれが現実としかいまは言えない、自己防衛の気運を高めようそしてもうひとつ、こういうバカの末路を見ておくことだ、メディアも国民も犯罪の過激さばかりに気をとられているように思える、ニュースにしてもブログにしても、記事掲載数を見れば一目瞭然だが、裁判記録などの事件後のことについて触れる内容は犯罪記事掲載と比べて激減する昨年末に起きた妹を殺害後、バラバラにして洋服ダンスに入れていた兄の事件はショッキングな内容で、メディアもこぞって取りあげていたが、いまとなっては風化しつつあるかのような事件となってしまっている(この事件、東京地裁で裁判長は弁護側の精神鑑定を採用しています)磯谷利恵さんの、「殺さないで・・・」という言葉は届かなかった・・・この3人は極刑にすべし、日本が死刑大国と他国から呼ばれることになろうとも、ひとを無慈悲に殺めたら死刑、この主張だけは譲れない磯谷利恵さんのご冥福をお祈りします 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年08月29日
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8月15日の敗戦の日に鹿児島知覧の特攻平和会館を見て回った慶次時期的なこともあるのか、多くの老若男女が会館に訪れていた・・・・・・・・・翌朝、ニュースが電車と軽自動車衝突の詳細を伝えていた、正直迷惑天気予報では今日も晴れて暑くなるということだ、猛暑だってよ「そうか、晴れるか・・・よし決めた!!」ということでやってきました早朝、鈍行で揺られ揺られて、ハウステンボス、諫早を通過し長崎駅へ 写している歩道橋の下で長崎市長が殺された 眼下には路面電車がチンチン鳴らして走っている、いい感じ 歩道橋を下りて、浦上方向に歩くとすぐに急な上り坂がある、その上には「西坂公園」、日本二十六聖人殉教地が存在する秀吉の禁教令により石田三成は京都でフランシスコ会員、信徒、イエズス会関係者あわせて24名の耳たぶを切り落とし(秀吉の命令は耳鼻をそぎ落とす)、市中を引き回した、その後、長崎で処刑を敢行するため徒歩にて死地へ彼らは向かうこととなる、途中、彼らの世話をした2人の信徒をあわせ計26人が西坂の丘にて槍で串刺しにされ殉教したこの銅像に向かって右にすすむと記念館があり、その横に小さな小さな殉教者の墓があった、どうしたものかと迷ったが、彼らにはこれがいいのだろうと、胸の前で十字をきり、冥福をそっと祈った彼らのことはルイス・フロイスなどの宣教師によって欧州に伝えられ死後約300年して列聖し、聖人となった、日本ではそれからさらに100年ほどしていまのような記念堂がつくられた。当時の宣教師は諜報委員もかねており、本国に詳しく日本の様子を伝え本国も彼らの報告を大切にしていた、だからといって秀吉の弾圧が正しいとはいえないが、為政者にとっては怖かったのだろう、異国の信仰心が西坂の丘をゆっくり下りて、灼熱の太陽の放射光を浴び、とあるところに向かっている・・・そこは・・・長崎平和公園・・・つづく *さっき二時間ほどかけて書いたのに、途中で終了しますとの文字・・・ IE7は本当に不安定だ、いい加減にしろ 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年08月28日
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”清き名をとわにのこして国のため身をささけけむ若きもののふ”北白川房子元妃殿下 (入館券に記載)三角兵舎からタクシーが待つ場所まで戻る際に目に飛び込んだ「至純」という石碑、贈り主は小泉純一郎前首相である「至純」という言葉からもっとも遠い存在である政治家だからこそ余計にかれら特攻隊員達がまぶしく見えるのかもしれない政治家というものは清濁あわせのむことが出来てこそ一流といえる理想ばっかり語っていたり、汚いことに手を染めてばかりいる人間にはつとまらない、いや任せられない 果たしてこの石碑に刻まれていることが実現するのであろうか? アリランの歌声とほく母の国に念ひ残して散りし花花 光山文博少尉光山少尉(散華後、二階級特進にて大尉に)は、朝鮮人である、彼は京都薬学専門学校(現京都薬科大学)を卒業し、陸軍航空隊を志願し難関を突破、大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧)に配属となった軍人になることに反対する母を一ヵ月後亡くす、そのときに父より母の、「文博はお国に捧げた身だから、お国のために奉公を」という言葉を告げられ、さらに父より、「日本が勝つか負けるか大変な戦争だ十分戦ってくれ」という言葉を聞き、特攻志願を決めたのであった昭和20年5月10日(特攻前夜)、彼はひとり富屋食堂を訪ねた、そこは特攻の母と呼ばれる「鳥浜トメさん」が経営する食堂だ多くの特攻隊員たちが大声で歌を歌っていた、トメさんは光山大尉にも歌をすすめた、恥ずかしがりやの光山大尉は帽子を深々とかぶり、うつむきながらも、故郷の歌「アリラン」を歌った、なぜだか涙があふれてくる涙声で歌う光山大尉の手を握り、トメさんも泣いていた・・・彼は最後にトメさんに朝鮮の黄色い縞の布で作った財布を渡す、「出撃記念光山少尉」と書かれ、トメさんが大切にしていたそれはいまでも残っている大正9年慶尚南道生まれの卓庚鉉(たくこうげん)こと光山大尉は翌日、振武隊として隼に乗り込み、24歳の若さで沖縄西の空に散った・・・たらちねの母のみとぞ偲ばるる弥生の空の朝霞かな 辞世の句特攻平和会館を後にし、次は「富屋食堂(いまは食堂ではない)」に向かうトメさん(平成4年にお亡くなりになっています)のお孫さんが今は館長として様々なトメさんと特攻隊員たちとのつながりを示す展示物を守っている当時から変わらないたたずまい、特攻隊員たちはここに来ては、トメさんに最後のお別れを告げて飛び立っていった、何人もの若者を見送ったトメさんは戦後、多くを語ろうとはしなかった この電柱を見て欲しい、これも当時のまま、リアル世代ではない慶次には物珍しいことこの上ない、写真でしか見たことがない木の電柱だ「ホタルになって帰ってくる」といって宮川軍曹が特攻出撃した翌日、一匹のホタルが食堂に舞い込んだエピソードなど、ここには重厚な空気が漂っているタクシーの運転手さんに「知覧武家屋敷群」に行くこともすすめられたが、時間の関係で泣く泣く帰ることにした、喜入駅まで送ってもらうことに下世話な話だが、特攻平和会館、富屋食堂、武家屋敷群とタクシーを一台貸切で6000円は安い、運転手さんものんびりしていい人だったなあそういえば喜入駅から鹿児島中央まで行く間に「桜島」がキレイに見え、写真を撮っておこうとパチパチするも、すべて看板やら住宅やらが入り込み、へたくそな写真しか撮・れ・な・か・っ・た!さらに鹿児島中央から博多方面へ帰る際、九州新幹線を使ったのだが、軽自動車と列車が衝突した影響でダイヤが乱れまくり、指定席券は無く乗車率200%の自由席で帰ったのであった、もうホームで客の罵声が飛ぶ飛ぶ、そりゃそうでしょ、あの暑い中「リレーつばめ」の乗換えで一時間もホームに放置されているんだから、特急券の意味が無いよ慶次の知覧珍道日記はいかがだったでせうか、8月15日の敗戦の日と重なったわけですが、やっぱり実際に訪れることはどんな本を読むよりも肌で感じることができる分、いいなあって思いました最後にトメさんが残した言葉をご紹介して幕引きとさせていただきます”なぜ生き残ったのか考えなさい。何かあなたにしなければならないことがあって生かされたのだから”*リレーつばめ九州新幹線は途中で列車リレーをします、鹿児島-博多間なら途中の駅で乗降し乗り継ぎです、指定席の方は例えば3号車6Dという席が乗換えで4号車8Bというふうに変わります、正直面倒です(苦笑) 一 夢 庵 風 流 日 記 つ・づ・く・・・
2007年08月24日
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”いさぎよく風に散りにし花のこと御国のためとただ進むらむ”北白川房子元妃殿下 (入館券に記載)特攻銅像「とこしえに」とT-6Gがお出迎えしてくれるこの横には「母」をイメージした像が置かれ、「お母さん!」と叫び死んでいった隊員たちの御霊を慰めているさらに砂利道のなか、歩をすすめると、「ごぉ~ん」という音色が聞こえてくる、夏休み家族旅行中なのか、子供たちが楽しそうに鐘をついていた「平和の鐘」、神妙に鐘をつく人もいれば、キャッキャッうれしそうに鐘をつく子供もいる・・・鐘の意味はあとで知ればいい、楽しそうな家族の姿は英霊にとってひとつの清涼剤となろう さあ、いよいよ平和会館に入るとしよう残念ながら、会館内の展示物はすべて撮影禁止のため写真は無い中には、特攻の変遷と歴史、隊員たちの特攻前の様子を写した写真や遺書、遺品がズラリと並んでいる、また当時のアサヒグラフの勇猛なる記事や写真がうらめしそうに掲載されている海から30年後に引き上げられた「零戦」が展示されていた、20ミリ機関砲2門13ミリ機関銃2挺を装備している大戦末期の型だ、写真は外から撮ってみた会館に入ると、すぐに目に飛び込むピアノがある、「フッペルのピアノ」昭和5年、佐賀県鳥栖の婦人会の方々が子供たちに本物の音色を聞かせたいと寄付金を募り、ドイツから最高級のピアノを取り寄せました。そのピアノは鳥栖国民学校に贈与され、子供たちは本物の音色で音楽を勉強することができました、このときの寄付金は4500円、現在の1億円です。それから15年ほど月日が流れた昭和20年、ある二人の音楽学校出身の青年が鳥栖国民学校に走ってやってきました、彼らは明日出撃が決まっている特攻隊員でした。「思い切りピアノを弾いて死にたい」とベートーベンの「月光」と「海ゆかば」を弾きました。居合わせたこどもたちや先生は泣きじゃくり、「海ゆかば」を一緒に歌い敬礼して見送ったのでした・・・。時は過ぎ、フッペルのピアノは学校の隅に置かれ、廃棄処分になることが決まります、昭和20年当時ピアノ担当だった上野歌子先生は廃棄処分になるなら手元に置いておきたいと鳥栖小学校(旧鳥栖国民学校)の児童の前であのときのことを話します、あまりにも痛烈な思い出のため、胸にしまいこんでいた特攻隊員たちとのひととき。この話がラジオでも取り上げられ大きな反響を呼びました。上野歌子先生は講演先の宮崎で平成4年に亡くなられました。月光を弾きて往きたる特攻の 思い語るか古きピアノよ(上野歌子 詠)慶次はフッペルのピアノの話は知っていたが、フッペルのピアノを初めて見たとき、嗚咽をとめることができなくて、恥ずかしくてトイレで泣いた、いま書きながらも涙が出てくる、平和な時代なら思う存分音楽の勉強を出来ただろう会館を出て、三角兵舎に向かう、ここは特攻出撃前の2~3日を仲間と過ごす兵舎だ、これは復刻施設ではない、当時の跡地に現存する三角兵舎であるここで飯を食べ、談笑し、酒を酌み交わし、そして飛び立っていった三角兵舎の奥を覗くと、たくさんの石灯篭が置いてある これは特攻平和観音堂、中には特攻平和観音像が置かれている、大和法隆寺の夢ちがい観音を模造したものだ、悪い夢と良い夢を取り替えてくれ、平和と幸をもたらしてくれる仏像、慶次もそっと手をあわせ拝んできたさて、知覧の旅も次が最終回、もう少しだけお付き合いくだされ*写真はすべて8月15日撮影* 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年08月21日
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”敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花”戦史に登場する初めて編成された特攻隊は、昭和19年10月25日 ルソン島マバラカット基地の第一航空隊で編成された「神風(じんぷう)特別攻撃隊」24機(うち特攻機13機)、この特別攻撃隊は4つの隊に分けられ、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名づけられる、上記の本居宣長のうたにちなんだものであった。海軍の特攻基地として主なものは鹿屋、谷田部、元山、石垣島、台南等の各海軍基地から飛び立って行った、陸軍は知覧、万世、都城、徳之島、喜界島等から出撃している、最後のほうは、海軍水中特攻回天、水上特攻震洋等多岐にわたり、戦艦大和までも特攻出撃して行き、振武隊と名づけられた陸軍特攻隊も数多く大空に散華していった。昭和20年8月15日大分飛行場にて終戦を察知した宇垣中将は特攻予定の彗星5機に至急準備を命じ、自ら直率して出撃を決め、玉音放送が流れても、停戦命令が発令されていないのを理由に出撃を強行、大分飛行場に向かった。山本元帥から贈られた短刀を手に彗星11機、搭乗員22名とともに指揮官機に乗り込んだ宇垣中将は乗機を先頭に出撃、午後7時30分「われ必中突入す」の無電を最後に特攻作戦は終了した。現在、鹿児島県川辺郡知覧町に「知覧特攻平和会館」がつくられ平和を考えさせるミュージアムとして隊員の遺影、遺品をひろく公開している。いつものように前置きはかたいこのブログ、ここからは旅日記のような感じで長々と連載させていただこうと思う、慶次のご先祖様のお墓は父母方ともに九州にある、最初はひとり墓参りに行ったのだが、そこからふと「行ってみたい知覧に・・・」という思いが湧き上がり九州上部地域から一気に鹿児島まで行くことにした。 切符は青春18切符を使用。朝早く出立、JR快速と普通列車を乗り継ぎ、鹿児島中央駅へ向かう、途中乗り換えの大牟田駅にて 面白いものを発見し撮影する 「かるた」の発祥地域だったとは知らなかった・・・・鈍行しか来ないのでそれに乗り込んだ、この時点で昼を過ぎようとしている携帯に装備されているテレビで戦没者慰霊の様子を見る、そうこの日は8月15日とにかく南下、南へ♪南へ♪♪ 熊本で降りて深呼吸~、阿蘇に行きたい誘惑にかられるが、我慢して南下!しか~し、ここで大変なことに気づく、このままでは知覧に到着しても平和会館は見れない、午後5時までしかやっていない(入館は4時30分まで)からだ、そこで予定を変更し新八代から九州新幹線に乗ることにしたこれで新八代~鹿児島中央までノンストップ!! 和風な雰囲気の新幹線を満喫し、キャビンアテンダントに平和会館への行き方を教わる・・・鹿児島中央駅に到着後、足早に指宿枕崎線ホームへと向かい、快速ワンマンに乗車、最寄り駅の「喜入(きいれ)駅」はもう間近だ~思い立ったが吉日っていう言葉は確かにあるが、地図や時刻表などのアイテムは用意したほうがいいなあと(慶次としては旅先では人に聞く、これ基本)少しだけ反省・・・さあ、時間は3時をまわり見学時間は2時間弱しかないぞ喜入駅は「喜び入る」という語呂から「喜入駅」名の入った切符は幸運のアイテムだ!・・・って駅の掲示板に長々と説明してあった・・・「商売繁盛」などのスタンプ入りもありますよって推していましたなあ 喜入駅到着後、バスも出ているようだが、ここはタクシーを利用することにした慶次「特攻平和会館までお願いします」運転手さん「はい、あっ、いまならJAの主催でわたしが3箇所三時間ほど同行し て案内して6000円ですけど、案内しましょうか」慶次「うっ・・・ああ、結構です、はい・・・・三時間は・・・」慶次は見学してすぐにホテルまでトンボ帰りしなければならなかったので、三時間後に鹿児島中央まで出て電車で帰ることを考えると、まず無理だと思いこのプランをお断りした運転手さんと鹿児島が初上陸のこととか、名産、温泉などの話をしつつ会館まで飛ばしてもらっていると、「ピッ、ピッ」っとメーターがグングン上がっていく平和会館入り口あたりで5000円を超えようとしているではないか・・・慶次「ああ、これなら6000円プランでお願いすればよかったですね(笑)」運転手さん「ん? ん~、じゃあ今からそうしましょうかね」慶次「ええ~!! いいんですか、それ」運転手さん「はっはっはっ、いいよいいよ、じゃあ、ここで待ってますよ 入り口はここからまっすぐ、表にも三角兵舎とかあるから」慶次「はい~、全部見てきます!! 行ってきます!!」親切な鹿児島の運転手さんの好意にあまえ、いざ特攻平和会館へ次回は「知覧特攻平和会館の巻」です 写真は平成19年8月15日撮影追伸今回、はじめて携帯カメラを多用した、こんなにキレイに撮れるとわかっていたら、いままで行った神社なんかもいっぱいアップできたのに~使用携帯機種 V604SH 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年08月19日
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「平成19年8月18日撮影」なんじゃ!! JPEGのまま載せられんのかい!!GIFに変換すると画質が落ちるんじゃい!!ねむい・・・またあとで~追伸 いまやってみたら「JPEG」でも登録できた・・・あたまが耄碌しているようで・・・
2007年08月18日
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「単なる必勝の信念以外の何物でもなく、皇土の荒廃と国民の犠牲を強要するもので、まづ残存航空部隊と水上特攻隊の体当り攻撃で聯合国軍の洋上撃滅を狙ひ、ついで上陸してくる敵に対しては、装備の低下せる兵力と、婦女子にいたるまで竹槍をもって・・・(人の波)で押し切ろうとするものであった」「よくやって呉れたと父も母も共に喜んでいてくれます。武人としてもつたない程武運に恵まれた死だと深く思っています」上は、数ヶ月前に、「額で叩き割る空母、神風特攻隊沖縄へ発進」との見出しを一面記事にしていた「朝日新聞」、下は、今では人権屋弁護士を助け、日教組批判は許さないといわんばかりに共産党機関紙「赤旗」よりもさらに左と思われる記事しか載せない「東京新聞」が戦時中載せた、敷島隊の特攻を褒め称える記事である。大本営発表による新聞記事統制がこのような記事を書かせたという新聞側の論理は、満州事変時の彼らの行動によりすべて疑われるものとなろう日露戦争もそうであったが、戦争、それも勝ち戦を伝える記事は売れる、バカのように売れる、読売は満州に多くの記者を派遣し、いまの地位を確保することになる敗戦後、180度態度が変化した国民と世論米軍の空襲被害を受けた住民たちは、特攻隊基地があったから空襲を受けたと彼らを非難した、「お前たちがちゃんと戦わないからだ!」といった辛らつな非難はそこら中から起きたのだ「特攻帰り」、「特攻崩れ」といった言葉も登場した、特攻隊員の中には敗戦後、無頼集団の仲間入りをしたものがいた、罪を犯し、悪さをしたものがいたのだ、しかし考えて欲しい、陸士や将校、学校に戻れる学徒兵ならともかく、予科練、少年飛行兵組は、学歴もなければ職制も無い、お国のためと投げ打つ覚悟だった命は、敗戦後は糾弾され、小さくなり居場所も無くなってしまったのだ1944年にレイテ沖での戦いにおいて初の特攻作戦を成功させたとして軍神と崇められることになる敷島隊隊長「関行男(つらお)享年24歳」の妻真理子は関行男の母の強い声もあり、関家から籍を抜き実家に戻った、なぜなら、戦死当時の称賛に対するねたみや特攻隊員は戦犯になるという噂が流布し、関わりを避けようとする市民が多くいたからだそんな180度態度の変わった市民に対し、ジッと我慢し亡き自分の息子のことを信じ、「遺族等援護法」の成立を待たずして、貧しくひっそりと死んだ母サカエはつらかったことであろう、もちろん貧しさがではない、お国のために、国民のためにと思い、死んでいった息子が今では・・・悲しかったであろう「軍事研究」には次のようなエピソードが載せられている、ある生き残った特攻兵が戦死した特攻兵とかわした最後の会話の手記である「それで負けたらどういうことになるんだ?」「わたしたちが死んでも、国民の何人かは生き残るでしょう、その人たちを 信じて戦うしかないでしょう」「よし、そうか、生き残った人たちを信じよう」慶次は大日本帝国万歳とはこれっぽっちも思わない、国家制度や軍事問題領土拡張への方針に対するクエスチョンなどなど、個別的案件をあげればキリが無い、しかし、これとそれとは別、どんな方針であれ、その中でさまざまな思いを抱き、散っていった方々に対する態度まで大日本帝国への批判と混ぜてしまってはいけないのではないか日本はまもなく、「敗戦の日」をむかえる*トップページに戦争関連の書物、DVDを並べておきました 8月20日あたりまで掲載を休止します 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年08月11日
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カムチャッカの若者がキリンの夢を見てるときメキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている ニューヨークの少女がほほえみながら寝返りをうつときローマの少年は柱頭を染める朝日にウインクするこの地球ではいつもどこかで朝がはじまっているぼくらは朝をリレーするのだ経度から経度へとそうしていわば交替で地球を守る眠る前のひととき耳をすますとどこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴っているそれはあなたの送った朝を誰かがしっかりと受け止めた証拠なのだ この詩はひとからひとへとつながるバトンを描いていますふと考えるのですが、昨日の自分が今日の自分へ今日の自分が明日の自分へ、大切なバトンを託していると何気ない日常を送っているようで、バトンは確実に渡っているのですP.S 台風あっちいけ 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年08月02日
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