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【第1000夜】 2004年7月7日良寛『良寛全集』1959 東京創元社東郷豊治編 ↓いそのかみ ふりにし御世に ありといふ ↓猿(まし)と兎(をさぎ)と狐(きつに)とが ↓友をむすびて あしたには ↓野山にあそび ゆふべには 林にかへり 良寛の書について一冊書き下ろしてくれませんか、と言ってきたのは古賀弘幸君だった。 彼はぼくが良寛に惚れきっているのをよく知っていて、おりふし、良寛の書は打点が高いんだよ、良寛はグレン・グールド(980夜)やキース・ジャレットのピアノによく似合うよねといったような感想を言っていたのを、おもしろがってくれていた。チック・コリアはどうですかというので、うーん、それは比田井南谷かなあと言ったら、手を叩いておおいに喜んでくれた。 こういう言い方は、古谷蒼韻による「マイヨールとジャコメッティから水分を涸らしていくと良寛になる」といったたぐいの感想と同様で、当たっているとも当たってないともいえる。この蒼韻の感想にしても、マイヨールとジャコメッティ(500夜)が一緒になっているところがよくわからない。 それでも古賀君は、そういう感想が書道界にはあまりにも足りなくなっているので、ぜひ書けというのだった。 たしかに良寛を評して、昭和三筆の鈴木翠軒の「達意の書」や日比野五鳳の「品がいい」や手島右卿の「天真が流露している」だけでは物足りない。そもそも良寛の書は達意ではない。焦意(焦がれた筆意)であろう。 書の批評というもの、たしかにあまりに言葉が足りない。禅がおもてむきは「不立文字・以心伝心」といいながら「修行の禅」にくらべて「言葉の禅」が劣らぬように、存分に言葉を豊饒高速にしていたように、書も「見ればわかる」「この三折法はなっていない」「純乎たる書風だ」などというのでは、とうてい埒はあかない。 そこには水墨山水をめぐって多大な言葉が費やされてきたように、また江戸の文人画に幾多の言葉が注がれてきたように、それなりに多彩でラディカルな「言葉の書道」というものが蓄積されていかなければならず、とくに良寛の書ということになると、これは究極の相手なのである。よほどの言葉さえ喉元でつまってしまう。 それを急に期待されて、一冊にしてほしいと言われても困るのだった。 ↓かくしつつ 年のへぬれば ひさがたの ↓天(あま)の帝(みかど)の ききまして ぼくが良寛の書に親しめたのは、樋口雅山房さんによっていた。樋口さんは薬剤師をかたわらでめざす墨人会所属の書家で、はやくから森田子龍と井上有一(223夜)のあいだにいて、その書魂というべきを継承しようとしていた。 その墨人会が、会誌の「墨美」で1959年から10年にわたって良寛を連載しつづけた。それを見たのが大きかったのである。良寛こそが日本の懐素や黄谷山であることが、たちまち誇りのようなものになってきた。 また、良寛は大仙和尚に伴われて備前の円通寺で12年ほどを曹洞禅の修行におくったのだが(じっさいにはいろいろ遊行に出ていた)、その円通寺時代に寂巌の書を見ていただろうことが、ぼくの良寛像を広げていた。寂巌もぼくが好きな書人だった。 そのうえで良寛は日本でもあった。万葉に浸り、故郷の国上山(くがみやま)の神奈備を慕い、「いろは」を仮名にするのを一心に書け抜けた。それは懐素であって佐理であって、しかし越後の良寛そのものだった。 しかし、その良寛の書をめぐって一冊を書くとなると容易ではない。うん、まあ、そのうちと言っているうちに、これ以上を待たせるのはまずくなってきた。 どんなことでもそうだが、依頼を受けたままほったらかしにしていても、そのほったらかしの臨界値というか、節度というか、犯罪すれすれの限界というものがあって、プロの著者たちはこの「すれすれ」がいつ近づいてきたかを正確に察知する。 ぼくは書き手であるとともに、他方においてはエディターシップを仕事としてきたから、この「すれすれ」が平均よりは早くやってくるのだが、それでも自分でもこれはまずいなという気持ちになるときもある。文章を綴るという仕事は、最初の2~3のパラグラフのところでいくつもの切り口に割れているといっこうに次に進まない。ささくれだった筆の先のように、文章が割れていく。あるいはノズルがつまっていて、それをむりに押すから、文章が細く切れたり掠ったり、ところどころで血瘤のように溜まってしまう。長年、こんなことを経験していると、書き出す前に微妙な予兆がやってくるものなのだ。 このときもそんな気がして、なんだかうまくない。そこで、まずは口述したいと申し入れた。古賀君もいろいろ質問してみたいと言う。 彼は雑誌「墨」の編集者なので、日中の書道文化史にも書法にも詳しい。それだけに片寄った質問になりかねない(実際にはそんなことはなく、とても広げた質問をしてくれた)。もう一人、あまり書にも良寛にも交わってこなかったが、ぼくを知る聞き手がほしいということで、太田香保さんも加わった。これで、のっぴきならなくなってきた。 ↓それがまことを しらんとて ↓翁となりて そが許(もと)に よろぼひ行きて申すらく 何度くらい質問を交えた口述をしたろうか。ワープロ・プリントで上がってきたものを見ながら(上手に構成されていた)、書きすすめた。それでもやはり冒頭の毛先と切り口が、一本に絞れない。 これは「書」の話をにもってくるのでは無理だなとおもって、良寛の歌か漢詩をもってくることにした。最初にすぐに或る漢詩が浮かんだが、捨てた。捨てた理由はあるのだが、しかし、その漢詩については、本当は書きたいこともあった。次のような話である。 田辺元が群馬の大学病院で亡くなったのち、教え子が遺品を整理していたら、二百字詰原稿用紙7枚に良寛の漢詩が30回も書き写されていた。それがぼくが思い浮かべた漢詩だったのである。 生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰々 天真に任かす 嚢中 三升の米 爐辺 一束の薪 誰か問はん 迷悟の跡 何ぞ知らん 名利の塵 夜雨 草庵の裡 雙脚 等閑に伸ばす このことは唐木順三(85夜)が筑摩の日本詩人選『良寛』に紹介していたことで、唐木はそこで、田辺元と良寛など、堅い楷書と柔らかい草書くらいの差があって、門人の誰も二つをむすびつけることなど思いもよらなかったと書き、「先生には生涯、草体のやうにくづれたところ、流れたところ、騰々然たるところは無かつたが、晩年にはその外貌は鉄斎や安田靫彦が遺した良寛像にやや似て来てゐた」と付け加えていた。 それにしても死期を間近かに控えた田辺元が、良寛の同じ詩を30回も丹念に浄書しようとしていたというのを知って、ぼくは胸に何かが迫ってきてしょうがなかった。 それでそのことを冒頭に書こうと思ったのだが、それをやめたのは、これでは良寛ではなくて別の角度からの話での出発になると思ったからだった。 ↓汝(いまし)たぐひを 異(こと)にして ↓同じ心に 遊ぶてふ ↓まこと聞きしが 如(ごと)あらば 良寛を慕っている文人墨客や作家や詩人歌人は数多い。あるとき五木寛之さんが言ったことだが(801夜)、良寛に出会わなくて、どうして無事に晩年を過ごせる日本の知識人がいますかねえと、たしかに言いたくなるくらいなのだ。 漱石(583夜)もこの漢詩に魅せられて、自分でも良寛を慕う漢詩を作っている。漱石の「則天去私」は修善寺で療養しているときの着想だが、良寛の生き方や考え方にもつながっていた。とくに大正3年に良寛の書を入手したときの感激といったらなかった。 子規(499夜)も良寛に驚いたようだが、それを示唆したのは良寛と同じ越後出身の会津八一(743夜)だった。良寛は漢詩も和歌もよくしたが、中国の唐詩選の五言絶句74首、七言絶句165首をこくごとく和語による歌ぶりにしてみせた八一には、良寛が深く見えていたのではないかと思う。すでに第一歌集『南京新唱』の自序に良寛を引いて、「良寛をしてわが歌を地下に聞かしめば、しらず果たして何を評すべきか」と書いた。 その八一に、坪内逍遥が熱海の別荘の門額「雙柿舎」を揮毫してもらったときも、逍遥は良寛風を望んだ。あの逍遥にして、こうだったのだ。 日本神話の場面を描きつづけた安田靫彦と、『大愚良寛』を著した相馬御風が良寛に傾倒していたことも有名で、もし靫彦と御風がいなければ、これほど良寛が人口に膾炙したかどうかはわからない。 北大路魯山人(47夜)においては崇拝に近く、書を真似てさすがに良寛の風姿花伝を香らせていた。今夜とりあげた『良寛全集』は東郷豊治の編集と解説になるもので、いま刊行されている良寛の詩歌集では最大のものなのだが、この校閲は堀口大学(480夜)が望んで担当している。大学の良寛論はとても耳が澄んでいるもので、ぼくはずいぶん影響されたものだった。 だいたい良寛は「知音」(ちいん)と「聞法」(もんぽう)がある人なのだ。“耳の禅”をもっていた。それは道元に学んで、空劫以前の消息に耳を澄ましてきた曹洞宗の禅僧としての、一種の極意ともいえる。堀口大学はフランス文学者であるが、その耳を澄ます言葉に過敏であった。 ↓翁が飢をすくへとて 杖を投じて 息(いこ)ひしに ↓やすきこととて ややありて ↓猿はうしろの 林より ↓栗(このみ)ひろひて 来りけり このほか、良寛に憧れた者はたくさんいた。松岡譲、亀井勝一郎、吉野秀雄は良寛の普及に貢献し、唐木順三が「最も日本人らしい日本人」と言ってからは、川端康成(53夜)の「良寛は日本の真髄を伝えた」にいたるまで、良寛は日本人の「心のふるさと」とさえ結びついた。 しかし、そのように良寛を褒めちぎっていって、良寛の何が伝わるかというと、これは案外に心もとない。 さきほどの田辺元書写の漢詩にして、この詩句から良寛の生活思想を「騰々任運」とか「任運自在」の一言でまとめる議論が陸続とあとを断たなかったのであるけれど、そうなるとこれは良寛が浸った道元禅の精神そのものと分かちがたく、それはそれで良寛ではあるけれど、半分は道元にもなってしまうのだ(988夜)。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年07月07日
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【第999夜】 2004年7月5日ホメーロス『オデュッセイアー』1971 岩波文庫Homeros : Odysseia 紀元前9世紀前後?呉茂一 訳 挿話1。およそ35年ほど前のことになるが、倉橋由美子さんを訪ねて高校生に読ませたい1冊を選んでもらいにいったとき、即座に、「それなら、やっぱりホメロスね」と言われたことが、いまなお耳の奥に残っている。ホメーロスではなくて、ホメロスだった。 高校生のための解説原稿を書く必要もあって、慌てて読んだ。呉茂一・高津春繁訳の筑摩版世界古典文学全集だったのがよかったのか、初めてギリシア神話の流れにすうっと入っていけた。 訳がよかったというのは、ここに採り上げた文庫版も同じく呉茂一の訳ではあるのだが、たとえば冒頭、「さればこの両人を闘争へと抗(あらが)いあわせたのはおん神か、レートとゼウスの神」となっているところ、筑摩版では「だが、いったい、神々のうちのどのかたが、この二人を向かいあわせて闘わせたのか。レートとゼウスの御子のアポロンである」というふうになっていて、なんとか筋が追えるようになっている。 ホメーロスの叙事詩は、ギリシア神話の長短短律の六脚韻による「綴合」(てんごう)というものが命であるのだが、それを忠実に反映した邦訳は、初めて読む者には辛すぎる。やはり、最初は物語が掴めなくては話にならず、とはいえ意訳や翻案や抄訳では、そこに語り部ホメーロスがいなくなる。ぼくとしては、まあまあの出発だったのだ。「やっぱりホメロスね」は本当だった。 挿話2。しばらくして、スタンリー・キューブリック(814夜)の『2001年宇宙の旅』の原題が “Space Odyssey” であることから(91夜)、ボーマン船長の宿命とオデュッセウスの帰還が重なって脳裏にこびりつくようになった。 オデッセイとはギリシア語のオデュッセイアーの英語読みで、「オデュッセウスの、歌物語」のことである。 それにしても、なぜ、キューブリックはオデュッセウスの歌物語を宇宙に運んだのか。それがなぜ、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』なのか。なぜ乗組員は行方知れずになって、ボーマン船長はまるで胎内回帰をするように幼児となり、かつ、老いた翁になったのか。 謎も興味もつきなかったのだが、この相手はでかすぎた。どうもギリシア・ローマ・ヨーロッパの全知に関係がありそうなのだ。ちなみにこのころは、マリオ・カメリーニの『ユリシーズ』を捜し出して、カーク・ダグラス主演の映画を何度も見たものだ。 余計なことだが、ごく最近公開されたヴォルフガング・ペーターゼンの『トロイ』では、ブラッド・ピットはアキレウスではなくて、オデュッセウスに扮するべきだった(プリアモスがピーター・オトゥールなのは、よかったけれど)。 挿話3。それからまた10年ほどたったころ、ぼくはギリシア・ローマ神話の全貌に単身で立ち向かっていて、汗びっしょりで悪戦苦闘していた。模造紙一枚ぶんに黒赤青の細かい字で神話構造図をつくっていたのだ。オリュンポスの神々とティターン一族をめぐるノートは3冊くらいになっていたろうか。 ぼくには、たえずこういう癖がある。『神曲』(913夜)も、『南総里見八犬伝』(998夜)も、『大菩薩峠』(688夜)も、ある時点にくるとたいてい図解したくなる。いや大作ばかりではない。ユダヤ教の歴史や「あはれ」の用例や地唄の変遷も図解する。そういう図解はしだいに溜まっていって、あるときそれらをしだいに付き合わせていくのが楽しみになっていく。 しかしこのときは、ギリシア・ローマ神話全体に対する興味だったので、オデュッセウスの物語は浮き上がってはこなかった。 挿話4。こうしてややあって、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に魅せられたとき、ついにオデュッセウスの物語構造を詳細に見ることになった。 いまさらいうまでもないだろうが、ギリシア名オデュッセウスは、ラテン名がウリクセース(Ulixes)、英名・仏名・独名がユリシーズ(Ulysses)である。ロンドンに行ったとき、白地に “ULYSSES” と大書した大型車が走っていたのを見たことがあるが、引っ越し屋であった。なるほど、オデュッセウスの物語がもつひとつの本質である “移動” に肖(あやか)ったのであろう。 ジョイスはとんでもないことを考えた。オデュッセウスを二人の人物に複相させて、同時にダブリンの町に出現させた。22歳の作家志望のスティーブン・ディーダラスと38歳のユダヤ人のレオポルド・ブルームである。二人はそれぞれオデュッセウス(=ユリシーズ)の顔をもっていて、6月16日のダブリンの町を動きまわる。ジョイスはオデュッセウスの物語を、たった一日に凝縮してみせた。おまけに『ユリシーズ』の章立ては、1)テレマコス、2)ネストルに始まって、3)プロテウス、4)カリュプソ、7)アイオロス、11)セイレーン、12)キュクロプス、15)キルケ、16)エウマイオス、17)イタケというふうに、順番こそ適当に入れ替えているが、まさに『オデュッセイアー』の物語の登場人物や出来事とそっくり照応されている。 これは読めば読むほど、考えれば考えるほどに、病気になりそうな、一世一代前代未聞のオデュッセウスの読み替えなのである。 しかしながら、このディーダラスとブルームという双頭の二人が、さてどこまでホメーロスの叙事詩を追想しているのか、それを感じ取るには、ジョイスはあまりに実験的で、ぼくからは、その、きっと符合や符牒がわかればぞくぞくとするであろうアクロバティックな対応が半分しか、いや3分の1くらいしか、見えてはこなかった。 T・S・エリオットによると、『ユリシーズ』は細部になればなるほど『オデュッセイアー』との平行的対応を克明に再生させているというのだが、そこがもうひとつ掴めない。しかも正しくもエリオットは、『ユリシーズ』は「古いから凄い」と言っているだけに、これはいかにも悔しいことだった。 秋成の奥に中国の白話や西行伝説を読み(447夜)、馬琴の奥に日本神話や中世伝説を読むというのなら(998夜)、 これはまだしも日本語の観念連合性をもって深められないことはない。それがホメーロスとジョイスとなると、お手上げなのだ。これはジョイスはジョイスとして楽しみ、それとは別に『イーリアス』や『オデュッセイアー』を啄んでいくしかないと思った。 挿話5。やがてぼくは日本文化に対する関心を深めていくのだが、それでもギリシア・ローマ・ルネサンスをどう見るかというのが、日本文化を解読するうえでの、つねに鏡像の過程になっていた(911夜)。 そこで導きの糸となったのが、ひとつは西脇順三郎(784夜)が寄せたギリシア精神の表象の仕方と、もうひとつが晩年の呉茂一を囲んでつくられた季刊誌「饗宴」に集った高橋睦郎さん(344夜)や多田智満子さんの、ギリシア神話に寄せた日本語の実験だったのである。 なにしろ高橋さんは22歳のときの処女詩集がミノタウロス幻想をめぐる『ミノ・あたしの雄牛』であり、多田さんには思索詩ともいうべき『オデュッセイアあるいは不在について』の連作がある。 ぼくはこれらの詩作に助けられ、そうか、なるほど、日本語による思考にもホメーロスの六脚韻の秘密を嗅ぐことができる余地と隙間が穿たれているのか、という展望をもったものだった。 こうして、挿話を5つほど集めれば、ぼくのささやかなオデュッセウス探検が東西をまたいで始まったということになるのだが、やはりのこと、この方面だけでも、入っていけばいくほど途方もない世界が待っていたわけで、いまだに、その2、3丁目をうろうろしているとしか思えない。 そもそもギリシア・ローマ神話が広すぎるし、そこには幾重にもわたる知の複雑骨折が何層多岐にもおよぶ意表をつくっていて、しかも、これが一番厄介なのだが、神名やその事跡に出会うたび、そこから猛烈な勢いでギリシア語やラテン語やその後の英仏独語が放射状に発散し、その言葉のひとつずつが全欧文化史のありとあらゆる場面に突き刺さって、そこに独自の「概念の森」の変更が何段にもギアチェンジされていることが多すぎるのだ。 そのプロセスにつきあわされるだけでも、目が眩む。いくらメモをとろうとも、まにあわない。 そんなわけだから、ここはやっぱり倉橋さんが言ったように、高校生くらいのときにホメーロスを読んで、その香りと味に幼く接しておくような、そういう付き合いをしておくべきだったのだ。 が、いまさらそんなことを言っても詮ないことで、ぼくはあいかわらずキューブリックやジョイスや高橋睦郎の勇敢を思い出しながら、オデュッセウスの旅を見る。 さて、今夜は、ぼくにとっての「千夜千冊」終着の前夜でもある。オデュッセウスの航海とは較べるべくもないが、航海を終える者には、航海者のみが整えなければならない身支度というものもある。 よくぞここまで無謀なことを、4年をかけて航行してきたものだとおもう。今夜にかぎってはまだ何の感慨もないけれど、それでも、あと2夜を過ぎると、そこがどこかの波止場か船着場なのだろうという程度の、なんだか見知らぬところへ来てしまったような、懐かしいところへ戻っていくのだろうなというような、そんな予感も騒ぐ。 エリック・ホッファー(840夜)ではないが、波止場にこそ日録は残されるべきものなのだ。 そこで、ぼくとして多少はそんな気分で、ホメーロスとその記録された叙事詩の周辺を見つめ、いくぶんは心を鎮めていきたいと、これらの電子文字をポツポツ打ち始めたのであった。 ともかくも、ホメーロスのことから語ってみよう。なんといってもホメーロスこそは、「千夜千冊」が採り上げてきた999冊のなかで、最も古い “著者” なのである。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年07月05日
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【第998夜】 2004年7月2日滝沢馬琴『南総里見八犬伝』1990 岩波文庫 (‥いまや玄月翁は男の身でありながらの産みの苦しみというものに、この世もかくやというほどの七転八倒、この産む身の母なるものの、もぞもぞとした感覚は何かと尋ねる暇もなく、ふらふらと書庫を彷徨ったかと思うまもなく、一冊二冊、五冊十冊と江戸戯作の書棚から妖しい一群を取り出して、ついには机上に曲亭馬琴の壮観を並べ立てたのでありました‥) (ば、馬琴ですか‥バキン‥?) そうです。馬琴です。曲亭滝沢馬琴です。いま、馬琴を読む人はいますかねえ。ほとんどいないかもしれませんね。まあ雅文俗文を駆使した和漢混淆体の文章だけでも、後ずさりするかもしれないね。でも、とりあえずは現代文になったものを読めばいいんです。それでも『八犬伝』のおおまかな凄さはわかります。それから原文に入っていくといい。 (でも、今夜は、その、いよいよの‥) なんといっても鴎外はね、「八犬伝は聖書のような本である」と言ったんです。こういうことは伊達では言えません。だってノヴァーリスになって、こう言うしかないわけですからね。『八犬伝』は聖書なんですよ。それにしても聖書をもちだされたとは、それも鴎外によってとは、馬琴もさぞかし冥利に尽きるでしょう。(ええ、でもセンセ‥) 『八犬伝』は読本(よみほん)ですね。だから読本を楽しむという読み方が必要です。稗史ですね。馬琴は100巻をこえる夥しい数の黄表紙や合巻も書いていますが、やっぱり読本が濃い。(はあ、こゆい‥) それでもこれらは、いまでいうなら大衆文学で、直木賞の範疇になる。けれどもいまどきの大衆文学作品で、これは聖書だなんて言えるものはありますか。ちょっとないでしょう。どんなものがあるかと、いまふと思い浮かべてみましたが、まあ、たとえば大西巨人の『神聖喜劇』や車谷長吉の『赤目四十八滝心中未遂』、それからごく最近の阿部和重が山形の町を舞台にした『シンセミア』など、いい出来ではあるけれど、やはり聖書とはいいがたい。 ではなぜ、鴎外はそんな大衆文学のひとつの読本の『八犬伝』を聖書などと大仰に思ったのかということですね。そこを知りたいでしょう。(べ、べつに‥) それはね、そこに「天」があるからですよ。(えっ、天がある? でもセンセ‥) 馬琴に「天」を感じたのは、鴎外だけじゃない。露伴もまた同じことを感じています。露伴は「馬琴は日本文学史上の最高の地位を占めている」と言いましてね、そのうえで、「杉や檜が天を向いているように垂直的である」と形容してみせた。 杉や檜が天を向いているようになんて、露伴らしいですよ。これも伊達や酔狂じゃあ、言えません。何が垂直的かというと、同じ戯作でも京伝や三馬や一九は並列的で、ヨコなんですね。言葉や主題が社会とヨコにつながっていて泥(なず)んでいる。 それが馬琴はタテに切り込み、タテに引き上げる。天があって、空がある。虚空があって、星宿がある。物語がそこに向かって逆巻いて、こう、瀑布のごとくババッと落ちてくる。そういうところが垂直的なんだと露伴は見たんです。 これはね、『八犬伝』に天界にまつわる話がいろいろ出てくるというような意味ではない。そりゃあたしかに『八犬伝』は冒頭からして『水滸伝』に借りて、竜虎山の伏魔殿から洪大尉が百八り妖魔を走らせ、これを天まで水しぶきにしておいて、こう、ババッと舞い散らせたわけですから、天界は物語の半分を占めているようなものですよ。 それに冒頭で、例の里見義実が滔々と弁じたてているのは龍の分類学でしょう。最初から『八犬伝』は天から金襴緞子でいてかつ暗黒な、不思議な異様な物語が、こう、ババッと散ってるでしょう。(ええ、でも、そのババッとだけでは‥センセ、あと3冊で‥) では、いったいどうして馬琴は「天」を介在させたかということですね。それがわからないとね。それには、ちょっと時代を見なくちゃいけません(いえ、そんなジカンは‥)。 あのね、江戸の文化は19世紀に入ると、文化・文政・天保という40年間でぴったり幕を閉じて、そこから先は御存知、黒船・安政の大獄・長州戦争ばっかりで、ことごとく幕末になるわけですね。この文化・文政・天保の40年間が、ちょうど馬琴の40代から没した82歳までにあたっています。そこにまず注目しておくことです。 で、この40年を思想や文芸や絵画で見ると、(そ、そこまで見なくても‥あと3冊が‥) この時期ってのは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』で明けて、式亭三馬の『浮世風呂』と『浮世床』、杉田玄白の『蘭学事始』、それから一茶の『おらが春』というふうに続くんですね。みんな、床屋とか洋学とか、外に向いてますね。ところが、このあと、山片蟠桃が『夢の代』を書き、平田篤胤が宣長の国学を受け、佐藤信淵が『混同秘策』や『天柱記』なんかを書いて、日本の本質を天にまつわらせていくんです。 それで、前夜にお話した会沢正志斎の『新論』の登場です。水戸の奥から「国体」が、ババッと出てくる。そうすると、南北は『東海道四谷怪談』を、頼山陽は『日本外史』を、それから北斎は『富嶽三十六景』を、何かをいったん重ねて折り返しておいて、それから天に開くんですね。(アイザワ正志斎と北斎が‥) いや、ところが戯作のほうではね、これがあいかわらずの柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』だったり、為永春水の『春色梅児誉美』だったりするんだね。 そこで、大塩平八郎が大坂天満で爆死して、馬琴が『南総里見八犬伝』を仕上げていった。それからもうひとつは、広重の『東海道五十三次』でしょうね。これは視点を上から横から斜めから‥‥。天保文化はこれで終わりです。(よ、よかった‥) ただし『八犬伝』はね、初編は文化14年からの書きおこしで、それをさらに30年をかけているんです。しかも最後は眼疾失明のなか、幽暗さだかならぬ部屋の中、ひたすら口述をしておみちに書かせ、やっと大団円の完結にまで漕ぎつけた。いちいちおみちに漢字を教えながらね。それまでの『八犬伝』は11行の細字で書いていたんだけれど、それを6行とか5行にして大きい字にしてある。それでも書ききった。凄いことですよ。 それが天保12年です。だからこの40年間は、まさに『八犬伝』の時代だったともいえる。 こういうぐあいに、この時代は「天」をどのように問題にするかは時代のテーマのひとつでもあったということです。それが戯作文化のなかでは、「天」を使っていたのは馬琴だけだった。おそらく鴎外も露伴もそういうところに感心したのでしょう。さすがだね(どうぞ、センセ、先を‥) それから、鴎外や露伴が馬琴を評価した理由には、もうひとつ別の事情もあったでしょう。それは『小説神髄』の坪内逍遥が、「小説の作法」のなかでクソミソに馬琴を貶めたんですね。そのため馬琴は明治読書界からしばらく姿を消していた。 逍遥は、八犬士のごときは仁義八行の化け物にて、とうてい人間とは言い難い。作者が背後で絲を索いているのはまことに興ざめであると言った。でも、これはどうみても逍遥のほうが狭隘すぎていて、これでは馬琴は浮かばれない。もっともクソミソに言われたのは馬琴だけでなく、三馬も一九も種彦も、江戸の戯作文学がまるごと粉砕されたのだけれど。まあ、逍遥のリアリズムの提唱はそれはそれでひとつの開示であったんですが、鴎外や露伴はそういう“写実の流行”などにはかまけなかった人ですからね。そこで戯作を救ったんです。けれどもそこがこの二人の卓見になるんだけれど、他の戯作には見向きもせずに、馬琴ばかりを評価しましたね。こういうところが偉かった。 これは最近のことになるけれど、いま、実は、江戸戯作というのが研究者のあいだではちょっとしたブームになっていましてね、戯作ならなんでも結構、江戸の戯作者はすごかった、あの技巧はいまの日本になくなっているという音頭になって、これはこれでミソもクソも一緒くたの手放し絶賛ばかりしてるんですね。そこには、馬琴をすぱっと引き抜く選択眼がなくなっている。 だから今日の日本には、馬琴もいないが、鴎外・露伴もいないんですよ。寂しいね(さ、寂しがっておられては‥) ま、こういうふうに、馬琴の熟成というものは文化文政天保にあるわけだけれど、じゃあ、その前がどういう文化だったかということです。(また、前に戻るうッ‥) そこには応挙、写楽、京伝、歌麿、そして宣長の『古事記伝』の完結という成果がずらりと揃っていたんです。だから馬琴の青年期は、これらの前世代をどのように見るかというところから始まるわけですね。そこで青年馬琴が目をつけたのが山東京伝なんですよ。馬琴は寛政2年(1790)に酒一樽をたずさえて、京伝の山東庵を訪れます。そして、京伝に習って戯作に入っていった。 あのね、ぼくは京伝をかなり高く買っているんです。この点については鴎外・露伴とはちょっとちがっていて、京伝の編集力こそ、その後のすべての戯作文化のありようと、メディア・エディトリアリティの何たるかを開いたのだと思っています。いずれそういうことも書きたいのだけど、いまそのサワリを言うと‥‥(そんなヨユーはないので‥) あっ、そう? じゃ話を戻して、その京伝を狙って馬琴が弟子入りしたというのは、だから馬琴も青年期にして、何か狙い澄ました目をもっていたということなんです。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年07月02日
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【第997夜】 2004年6月30日ヴィクター・コシュマン『水戸イデオロギー』1998 ぺりかん社J.Victor Koschmann : The Mito Ideology田尻祐一郎・梅森直之 訳 佐藤一斎は水府学と言った。明六社の西村茂樹(592夜)が水戸学と名付けたという説もある。これは深作安文の説だった。天保学ともいわれた。 しかし、水戸学といっても、広くて、長い。決して細くはないし、短くもない。水戸の徳川光圀が『大日本史』編修を発起した明暦3年(1657)から数えても、それが完結したのはやっと明治39年(1906)なのだから、それだけで250年をこえる。これはケルン大寺院の建築期間に匹敵する長大な長さだ。 長いだけでなく、ここには日本の近世史と近代史の最も重大な変革期がすっぽり入ってしまう。そのあいだ、水戸学が日本イデオロギーの中心を動かしていたとは、言いにくい。そんなことはない。その期間のどこかにだけ水戸イデオロギーが関与したと角砂糖を数えるように限定することも、難しい。そんなこともない。 水戸イデオロギーを儒学や国学に収めるのも難しい。そういうふうにはパズルは嵌まらない。それらをはみ出ているとも、それらを含んでいるともいえる。しかし、水戸学はまた「一国学」ともいわれていて、どこかに追いやられているようにも見える。どこか「べつ」のところに――。 光圀は18歳のときに『史記』伯夷伝を読んで、その高義を慕って修史の志を立てた。大井松隣による代筆ではあるが、「史筆によらずんば、何をもって後の人をして観感するところあらしめん。ここにおいて慨焉として初めて史を修むるの志あり」という有名な序文がある。実際にもそのくらいの気概をもった青年だったろう。 その志はゆるがず、30歳で史局を江戸神田の別邸に設けて、広く“史人”を集め、以来、「彰考館」を編纂研究所として日本史の解明解読に努めた。こうしてゆっくりと姿をあらわしてきたのが、250年をかけた『大日本史』である。厳密にいうのなら、この修史の開始日が水戸学のおこりにあたる。編集会議が水戸イデオロギーをつくった。 江戸中期、その『大日本史』編纂におよそ半世紀にわたる中断と停滞があった。そこで水戸学を、この中断を挟んで前期と後期に分けるのが研究者たちの見方になっている。この後期水戸学の集中的勃興が天保だった。だから天保学ともいった。 ところが、この前期水戸学と後期水戸学ではその思想も様相も活動も、馬と牛のごとくに大きく異なっている。前期は日本の歴史を幕府の史書とは別に独自に解明しようというものだったのだが、後期は尊王攘夷というイデオロギーと密接に結びついた。そればかりか『大日本史』の編修方針もかなり変化して、たとえば後期においては神代の神話的出来事も史実に記述しようとした。 本書はその後期水戸学に焦点をあてて、シカゴ学派特有の方法論的な分析を加えようとした一冊である。 今夜は、前夜の陽明学につづいて、ぼくとしては長らくほったらかしにしていた水戸学をめぐる。 会沢正志斎といい藤田東湖といい、久々に目を通すものばかりなので、書くのに時間がかかりそうだが、それよりも、こういう主題をなんとか今日のインターネットの画面に走らせて、なお何かの息吹を感じさせようとすることが、そもそも陽明学や水戸学がかつてはあれほど時代のエンジンの役割をもっていたのに、いまは遺棄された戦車のように夏草に覆われているので、まるで大友克洋(800夜)の廃墟と植物を描いた劇画のようで、妙な感じがする。 陽明学が古代中世アジアに根をおろした知と行の思想の柵(しがらみ)だとしたら、水戸学は日本の古代中世に根をおろそうとして「夜明け前」に噴き出てきた知と行の早瀬のようなものだったのかと見えるのだ。 二つとも、世の中からはすっかり忘れ去られて、歴史の一角に埋没したか、埋没させておきたい動向なのだろう。それが宿命だったとも、またその宿命を知る思想だったともいえる。まあ、それでもいいのだが、最近はひょんなことから研究者がふえている。アメリカの研究者たちが日本儒学や水戸学に関心をもちはじめているのだ。そのこともちょっと書いておきたい。 第327夜にジョン・ダワーをとりあげた。そのときはまだ出版されていなかったのだが、その直後にダワーは大部の『敗北を抱きしめて』(岩波書店)で戦後の日本と日本人を論じ、ピュリッツァー賞を受けた。 そこでダワーが、日本を議論するには“plurals”(複数者)という見方をしたほうがいい、“Japan”ではなくて“Japans”なんだと書いた。これは、ぼくの日本についての見方と一致するものだった。ぼくはそこを「一途で多様なおもかげの国、多様で一途なうつろいの国」というふうに、『日本流』(朝日新聞社)そのほかに書いた。 そのダワーがかつて、アメリカの対日政策と「近代化・民主化の理論」は共犯関係にあると告発して、アメリカ政府による敗戦後日本に対する政治目標が次の5点にあったという“証拠”をあげたことがある。本書の訳者である早稲田の梅森直之さんが本書「あとがき」にも書いていることである。 その5点というのは、なかなかすさまじく、1)日本の左翼の信用を失わせること、2)平和主義と再軍備の機運を殺ぐこと、3)アジア諸国に日本の社会的優越性を感じさせ、それをもって日本人を資本主義陣営に誘導すること、4)そのため、アメリカのジャパノロジストを徴用して「心理学的なプログラム」を付した教育を浸透させること、5)日本を中国のカウンターモデルとして、不安定なアジアの発展途上国に提示すること、というものだ。 この対日政策こそ、アメリカがいまなお各国に押し売りしようとしている「近代化・民主化の理論」の原型だというのである。きっとそうだろう。さもありなん、という5点だ。 こうしたアメリカ批判の学問成果は、ダワーやブルース・カミングスという研究者によって実証的な実を結んでいった。ジャパノロジストがアメリカの対日政策の分析を通してアメリカを批判するという例である。 しかし、このような“アメリカ肩越し”の見方だけで、現在の日本を歴史的に位置づけるだけでいいのかというアメリカのジャパノロジストの批判もあった。そういう批判をして脚光を浴びてきたのがシカゴ派である。ヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』(ぺりかん社)、テツオ・ナジタの『懐徳堂』(岩波書店)などがその成果で、本書のヴィクター・コシュマンもその線上にいる。 かれらは一気に日本の歴史の一角に入りこんで、そこに最新の学問的方法をぐりぐりさしこみ、それでもその走査に耐える日本社会や日本思想の特質をタフな文体で書きあげる。コシュマンも、本当かどうかは知らないが、ポール・リクールの解釈理論やミシェル・フーコーの言説理論やルイ・アルチュセールのイデオロギー理論を駆使して、水戸学に入ってみたという。 そうすると、「国体」や「名分」といった概念が歴史のなかで実際に動きまわった航跡のようなものとしてよく見えてくるらしい。これはもはや「柵」や「背戸」としての陽明学や水戸学ではないだろう。 日本の学界における水戸学の研究のほうはどうかというと、歴史学の遠山茂樹や政治学の丸山真男(564夜)らによる尊王攘夷のイデオロギーの社会性や運動性を総合的につきとめる研究から、浮上してきた。 当たり前のことだが、動機はアメリカのジャパノロジストとは、まったく異なる。敗戦前後、いったい日本はなぜあんなような戦争をおこしたのか、なぜ「天皇」や「国体」をあんなにもふりかざしたのか。その反省を歴史学者も政治学者もするところへ追いこまれて、その問題を解明しようとしてその奥を覗きこんだ必至の目が、水戸学の特徴を検出する作業にいたったのである。 当時、すでに「国体」という用語が水戸の会沢正志斎の『新論』から出てきたことは知られていた。しかし、その「国体」にどんな危険思想があったのか。それが病原菌なのか。 いろいろ調べてみると、遠山や丸山は、そういった国体を孕む思想は、必ずしも幕府を転覆させようとして出てきたのではなく、朱子学イデオロギーを背景とした幕藩体制立て直しの思想として登場してきたもので、そこにはかえって「名分」を重視した封建的な階統制があって、それが水戸学の特色なのだろうと考えた。 初期の国体イデオロギーそのものには危険なものはない。その「国体」が歪んだのだとしたら、水戸藩の中ではなく、幕末か明治か、昭和史の中だろうという見方である。 この見方には反論が出た。水戸学は必ずしも幕藩体制の護持や立て直しのためのものではなく、もっと「前向き」のもので、だからこそ尊王攘夷のイデオロギーに結びついたのだという、尾藤正英などの見方である。 尾藤は、水戸学は幕末の一時期に影響力を発揮したのではなく、日本の近代国家の形成過程という長い射程で位置づけられるべきだとも主張した。そうだとすると、水戸学は昭和史そのものの裏地としてずっと生きていたということになる。尾藤はまた、朱子学と水戸学はかなり異なっていたこと(水戸学派はほぼ全員が儒者だった)、『大日本史』が寛政期を分岐として、前期の儒教的合理的な歴史観から、後期の神話的な歴史観に転回していることなどをあげて、前期水戸学にはたしかに「理」を重んじた朱子学の合理があったものの、後期水戸学はむしろ徂徠学や国学と接近して、かなり広範な社会思想の根っこをつくっていったのではないかと論じた。 しかし、この見方にも反対意見が出た。 水戸学がそこまで役割をもったとはおもえないという、橋川文三や野口武彦による見解である。これが、ちょうどぼくが水戸学に関心をもったころだった。1970年代半ばくらいだろうか。 橋川は「国体」の用語は水戸から出たが、その言葉がもつ意味やイメージが広まったのは、徳川社会そのものがしだいに国家的自覚を迫られていたからで、その土壌としての要因をはずしては、水戸イデオロギーの傘を想定はできないと見た。野口はさらに広く水戸学以外の江戸の歴史家たちを比較して、水戸学の位置を上空から鳥の目で俯瞰できるようにした。とくに野口の『江戸の歴史家』(現・ちくま学芸文庫)は刺激に満ちた一冊で、『江戸の兵法』(ちくま学芸文庫)とともに、ぼくもずいぶん愛読した。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月30日
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【第996夜】 2004年6月28日王陽明『伝習録』1936 岩波文庫山田準・鈴木直治 訳注 今宵は、ぼくとしては初めてのことなのだが、陽明学をめぐっての感想を書こうかと思っている。 陽明学だから、中心には王陽明がいる。そのまわりに朱子や陸象山や李卓吾がいる。これらの名はいまはあまり知られていないか、知られていても読まれていない。 おそらく最近の日本では、「三島由紀夫って、たしか陽明学に凝っていたんでしょう?」というような見方があるくらいのものではないか。こういう人には、三島の自決は陽明学によると映っているのであろうが、王陽明がそういうことを奨めたわけではなかった。 また、自民党政治の奥座敷にやや詳しい者なら、安岡正篤が戦前戦後を一貫して陽明学を読講して(老荘思想とともに)、その思想の啓蒙をはかりつつ政界のご意見番を務めていたことを知っているかもしれない。けれども、その安岡に親しく会っていたのも佐藤栄作・福田赳夫・大平正芳までであろう。大平に池田派結成のための「宏池会」の名を贈ったのが安岡だった。 しかし、そういうことはあまりに烟雨の中のこととしてしか、語られてこなかった。それに、そういうことは陽明学とはたいした関係がない。 だいたい三島由紀夫にして、陽明学に目覚めたのはだいぶんあとになってかららしく、中村光夫との対談のなか、江藤淳が朱子学をやっているので、自分は陽明学をやろうと思っているというようなことを言っているのが、やっと最初の記録(1968)で、まさに左翼・全共闘台頭のときなのである。 実際に三島がどのくらい陽明学を理解していたかは、わからない。文章として正面きって陽明学にふれているのは、たしか、市ケ谷で自決した年に発売された『行動学入門』(1970)のなかのこと、それも大塩平八郎の「殺身成仁」(身を殺しても仁を成す)の能動的ニヒリズムを、三島らしく「革命哲学としての陽明学」というふうに規定しているばかりだった。 それゆえぼくなども、いまは、『豊饒の海』第2巻『奔馬』で、主人公の飯沼勲が大塩平八郎に託して、「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり」を引いていたのが気になるばかりであって、三島だから陽明学だというふうには、見ていない。 おおかた、そんなところが陽明学についての一般の印象だろうけれど、しかしいざ、その依って来たるところと、そこから打ち出された思想の波及を見ようとしたら、これはそうとうに複雑で広範囲にわたっている。 中心にいる王陽明の語録は『伝習録』にほぼまとまっているから、いつだって読めるけれど、その『伝習録』をとりあげるにしても、これはかなり広い領域のなかで扱わなければ、意味がない。どのように広いかは、このあとのぼくの文章を読んでもらうことにして、そのくらいにしなければ、陽明学など齧らぬほうがいいという意味もある。 テキストは岩波文庫版にしたが、明徳出版社の安岡正篤のものや岡田武彦のものも、最近出回っている吉田公平のものも、いろいろ読まれるのがいい。安岡の講義もそれなりにおもしろい。また朱子学や陽明学や日本の儒学も読んだほうがいい。 これから書くように、陽明学は中国と日本を頻繁にまたぎ、儒仏をゆさぶって眺めたほうがいいからだ。 その前に、「伝習」という言葉を説明しておく。 これは『論語』学而の「伝不習乎」に初出していて、古注では「習はざるを伝ふるか」と訓んでいた。朱注では「伝へて習はざるか」と訓んだ。どちらもあると思うが、「伝へて習はざるか」のほうがぴったりくる。 漢字の「習」とは雛鳥が飛び方を学んでいることをいう。白川静さんによれば(987夜)、それを人がまねて、曰の形の台の上で羽を擦って、何事かに集中する呪能行為のことをいう。その伝習だ。ぼくが好きな言葉である。 ISIS編集学校では師範や師範代が集って学衆に示すべき指南の方法をめぐる場を「伝習座」とよんでいる。むろん陽明学とは関係がない。もっとずっと以前の「伝へて習はざるか」を採った。 さて、ふりかえってみると、おそらく東アジアが生んだ思想のなかで、陽明学ほど短期間の有為転変が激しいものはなかったのではないかと思う。 いったい陽明学が見えずして、どのように儒学の流れが理解できるのかということもあり、また、日本儒学の思想を陽明学を除いて語ることなどできないということもありながら、陽明学ほど誤解されてきたものもなかった。 たとえば、その「知行合一」の思想はそもそも儒学なのか、正統な朱子学なのかという問いにすら答えにくくなっているだけではなく、それは心学か儒仏学かという問いもありうるし、修身の学か、天下安泰の学か、変革の思想か、王権奪取の学かという問いにも、陽明学シンパもあやしくて答えきれなくなっている。 陽明学は、中国で廃れて、日本で独自に復活した。このこと自体が謎なのである。 なぜ本場の中国で廃れて、日本で復活したのか。日本の何がそれを受け容れたのか。その復活にしても、まったく一様なものではなかったのだ。その一様でないところも、まるで陽明学のポイント・フラッシュが放射状に飛び散って各所に突き刺さったかのようで、武士道にも神道にも、禅にも明治キリスト教にも親和していったふしがある。 こういう思想はめずらしい。ある面では陽明学はどのようにも受け取れるところがある。そうなると、陽明学も時代の思想の割れ目パターンのようにしか映らない。 もうすこし広く掴まえたらどういうものになるか。ぼくなりに用意した二、三の意外な話から入っていきたい。 内村鑑三の『代表的日本人』(250夜)には、大きくは2カ所に陽明学についての言及がある。中江藤樹と西郷隆盛のところだ。 よく知られているように、二人とも陽明学に心服した。藤樹は日本の陽明学の泰斗であって、天人合一を謳って近江聖人と敬われた。その弟子に熊沢蕃山が出て、水土論と正心論を説いた。大西郷についてはいうまでもないだろうが、王陽明を読み、『伝習録』を座右にし、「敬天愛人」を心に決めた。 藤樹も西郷もそれぞれ陽明学に心服した。それはそうなのだが、この二人の陽明学への心服に、キリスト者の内村がぞっこん心服しているのである。それを読んでいると、キリスト教と陽明学は実は酷似しているのではないかという気になってくるのだ。 実際にも、そのことを指摘した幕末の志士がいた。才気煥発の高杉晋作である。高杉は当時の聞きかじりの知識ではあるものの、それでも幕末や上海のキリシタンの動向や心情を見て、キリスト教の本質を嗅ごうとしていた。それが長崎で『聖書』を読んでパッとひらめいたようだ。なんだ、これは陽明学ではないか、と。こういう話は陽明学そのものが広い懐をもっているのか、それとも異端であるがゆえに人々に孤絶の道を歩んだ者の思想や生き方との類似や暗合を思わせるのか、判断がつきがたいものを示しているのだが、ぼくには陽明学のひとつの特色を語っているものと見えている。 もうひとつ、別の話をする。 こちらは陽明学の土台にあたる朱子学本体に関連する話になってくる。ただし、ここにもやはり複雑な捩れが見える。 かつて、全国の小学校の校門や校庭には、薪を背負って熱心に本を読んでいる二宮金次郎の像が立っていた。最近はあまり見かけないようだが、東京駅近くの八重洲ブックセンタービルの前には金色の金次郎が、いまも俯(うつむ)いて立っている。なにしろ“読書する少年”という像だから、書店にはふさわしい(ちなみに八重洲ブックセンターでは、7月10日まで「松岡正剛千夜千冊」ブックフェアを開催してくれている)。 なぜ金次郎像が小学校に立つことになったのかは、井上章一(253夜)が『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』(新宿書房)で、その謎に挑んだ。明治の教育勅語的な政策が昭和になって延長され拡張された事情を、みごとに裏側から暴いたこの本はなかなかおもしろかったのだが、ところが、この二宮金次郎が歩きながら熱心に読んでいる本は何かというと、案外、知られていない。 いや、ぼくがこれまで問うたかぎりは、誰も知らなかった。この本は『大学』なのである。『大学』とは何か。四書五経のひとつである。では、少年金次郎はなぜ『大学』を読んでいるのか。 四書五経とは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書と、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経をいう。この順は中国でこれらのテキストが成立した順ではなく、中国で習う順である。『大学』が最初にあがっている。 こういうことを決めたのは朱子(朱熹)だった。古代帝国ではなかった。朱子が勝手に決めた。それまで科挙には五経を課していた。科挙は隋の文帝から始まっているが、唐代で文芸中心の進士科が重んじられ、宋代で朱子によって四書五経を対象とすることが確立する。五経はそのうちの一経だけを選択受験すればよかったから、いきおい、四書が流行した。なかでも『大学』はいわば共通一次試験の入門テキストのようなものだったから、誰もが読んだ。 ただし、『大学』というテキストは古代からあったわけではなく、『礼記』の一篇にすぎなかったものを朱子学が自立させて『大学』となった。 本来の大学の意味は、「学の大なるもの」ということで、漢の鄭玄は「博学をもって政となす」といい、隋の劉絃は「博大聖人の学」と説明している。これを宋の司馬光は拡張して、「正心・修身・斉家・治国よりもって盛徳、天下に著明なるに至るは、これ学の大なるものなり」と拡張した。 この司馬光の説明は、だいたいのところは朱子学のいう『大学』の主旨と重なっている。朱子は朱子で、この思想を三綱領八条目に整理した。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月28日
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【第995夜】 2004年6月25日アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『過程と実在』1979 松籟社・1981~1983 みすず書房Alfred North Whitehead : Process and Reality 1929山本誠作訳(松籟社版)平林康之訳(みすず書房版) ネクサス(nexus)というのは結合体や系列体のことをいう。ヘンリー・ミラーが英語で同名の小説を書いた。パッセージ(passage)とは推移や通過のことである。ウォルター・ベンヤミンはフランス語で同名(=パッサージュ)の記録を書いた。ぼくもそのことを第649夜と第908夜に書いておいた。 現代哲学の思潮に不案内な向きには、また、お堅い現代哲学を講義している連中には、さぞかし意外なことだろうが、ホワイトヘッドの有機体哲学には、このネクサスとパッセージが交差しながら脈動している。 ネクサスとパッセージは見えたり見えなかったりしながら多様にくみあわさって、ホワイトヘッドの宇宙論と世界観の縫い目になったのだ。 よくあることだし、べつだん責められることでもないけれど、ホワイトヘッドはやたらに難解に読まれるか、まったく知られないままか、そのどちらかばかりの不当な扱いをうけてきた。これは両方ともおかしいし、もったいない。 道元の宇宙とかカントの宇宙とかホーキングの宇宙という言い方があるように、ホワイトヘッドの宇宙があると見たほうが、いい。その宇宙はコスモロジカル・コスモスで、すぐれて連結的(connected)で、多元的である。 コスモロジーだから、そこには宇宙や世界の要素になる要素の候補が出てくる。ホワイトヘッドのばあいは、これを「アクチュアル・エンティティ」(actual entities=現実的実質・現実的存在)と名付けている。 どういうものかはのちにも説明するが、たとえば、一羽の鳥、神経細胞、子供がいだく母親という観念、東京神田小宮山書店、エネルギー量子、自我、ギリシアの歴史、地球の表面、衝突する銀河系、夕方の虹、タルコフスキーの映像、森進一の演歌、松岡正剛の恋人などがふくまれる。 これらは、このコスモロジーが通過するカメラの目には、一種の「経験のパルス」として映る。またコスモスからすれば、それは「侵入」(ingression)として映る。 いまあげたアクチュアル・エンティティを、お好みならば数値や記号に絞ることもできるし、メンデレーフが果敢にそうしたように、元素周期律表にすることもできる。第311夜にあげた『理科年表』もアクチュアル・エンティティの可愛らしい表示例なのである。 哲学というものは、一言でいえば計画である。アリストテレス哲学(291夜)もレーニン哲学(104夜)も、計画を練り、計画を実行に移そうとした。 そのうちの数理科学を背景にした哲学の計画には、ラッセルやカルナップのような論理的な計画もあれば、ライヘンバッハやトマス・クーンのような、思索の歴史を再構成するような計画もある。多くの哲学書とは、その計画を手帳のスケジュールに書きこむかわりに、使い古された哲学用語で繰り返しの多い言明を、少しずつずらしながら連ねていくことをいう。 しかし、なかには目が飛び出すほど斬新で、目が眩むほど大胆な計画もある。 ライプニッツには普遍計画があって、それにもとづいた普遍記号学の構想がその後の数理哲学の体系や特色を次々に産んでいった。ライプニッツは自分で計画を実行に移すより、歴史がその計画を実行することがわかっていたようだ。 ホワイトヘッドの計画は、最初は記号論理の用語とインクで書かれた計画だったが(それがラッセルとの共著の『プリンキピア・マテマティカ』にあたる)、その後はホワイトヘッドが想定したすぐれて有機的(organic)なコスモスに包まれた計画にした。 人間がそのコスモスに包まれてプロセス経験するだろうことを、ホワイトヘッド独自の用語とオーガニックなインクをつかって書いた計画書である。 その計画書はいくつもあったけれど、それらをマスタープランに仕立てたのが『過程と実在』なのである。 ホワイトヘッドは「ある」(being)と「なる」(becoming)のあいだを歩きつづけた哲人だった。「ある」(有)と「ない」(無)ではなくて、「ある」と「なる」。つねに「ある」から「なる」のほうに歩みつづけた。 そして、ときどき、その「なる」がいつのまにかに「ある」になってしまったヨーロッパ近代社会の理論的な不幸を鋭く問うた。ときに科学哲学の眼で、ときに歴史哲学の眼で、ときに生命哲学の眼で。ホワイトヘッドはヨーロッパの近代社会と近代科学が「なる」の思想を喪失していったことを嘆くのである。 そのようなホワイトヘッドの哲学は、もっぱら「有機体の哲学」とか、「プロセスの哲学」とよばれてきた。 有機体(organism)という言い方は、哲学の歴史のなかでほとんど言挙げされことがなかった言葉だが、『過程と実在』以降、ホワイトヘッドが想定したコスモスの特色を一言でいいあらわすときにつかう最重要概念に、格上げされた。 有機体哲学は、宇宙や世界の出来事(event)がオーガニック・プロセスの糸で織られているということ、あるいはそのようにオーガニック・プロセスによって世界を見たほうがいいだろうということを、告げている。オーガニック・プロセスそのものが宇宙や世界の構造のふるまいにあたっているということである。 このことは、『過程と実在』の原題である “Process and Reality” にもよく表象されている。 ホワイトヘッドのオーガニック・プロセスは、構造であって、かつ方法でもあった。「世界が方法を必要としているのではなく、方法が世界を必要としたのだ」。 おこがましくもぼくの言い方でいうのなら、「世界が編集されているのではなくて、編集することが世界と呼ばれるようになった」というふうになる。ここには、やはり、「ある」から「なる」への歩みが特色されている。 しかし、このようなオーガニックな方法をもった哲学や思想が、近代以降の欧米社会に登場したことはない。 なぜなら、それまでの思想では、世界の形や現象の姿をオーガニックに見るというばあいは、ほとんど生命や生物のメタファーで眺めていたのだし、世界の形や現象の姿をプロセスで見るというばあいは、原因と結果のプロセスに実証の目を介入させることばかりが意図されてきたからだ。 しかも最近は、オーガニックといえば有機栽培やオーガニック食品をさすようになって、それが宇宙のアクチュアル・エンティティとかかわっていることも、ホワイトヘッド社製であることも、すっかり忘れられている。 ホワイトヘッドはオーガニック・プロセスの素材と特徴によって世界と現象があらかた記述できると考えた。 その素材は、さっきも言ったように、アクチュアル・エンティティである。アクチュアル・エンティティは「ある」と「なる」のすべてのプロセスを通過している「経験のパルス」の一つずつをさしている。これをホワイトヘッドは好んで “point-frash” ともよんだ。「点-尖光」というふうに訳される。 一方、世界と現象をあらわしている特徴は、ホワイトヘッドの考え方によれば、「個体性」と「相互依存性」と「成長」、およびその組み合わせによって記述ができるとみなされていた。個体的な特徴を見ること、それらがどのように相互依存しているかを見ること、そして、結局は何が成長しつつあるのかを見ること、これで大事な特徴がすべてわかるということだ。 このような計画をもち、その計画を構造として記述できた哲人はいなかった。ライプニッツから飛んで、途中にガウスやヴィーコ(874夜)や、ときにはエミール・ゾラ(707夜)を挟んでもいいのだが、やはりその大きさからいうと、次がホワイトヘッドだった。 そうなったにはむろん才能も、作業における緻密の発揮も、環境もあるのだが、ホワイトヘッドを稀有の哲人にしている理由がもうひとつあることを、ぼくは以前からおもいついていた。それはホワイトヘッドに “zest” (熱意)があったということだ。 ホワイトヘッドの宇宙は “zest” でできていて、ホワイトヘッドの教育は “zest” のカリキュラムだったのである。 さて、今夜はめずらしく英語(英単語)を多用しながら綴っている。そうしたいのではなく、ホワイトヘッドの文章には独特の概念がちりばめられていて、これをある程度のスピードで渉(わた)っていくには、ぼくには翻訳語だけではカバーしきれないからだ。 たとえば、『過程と実在』を貫く概念のひとつに “concrescence” という言葉があるのだが、これには「合生」という翻訳があてられている。いい翻訳だとはおもうけれど、ホワイトヘッドが合生を語るにあたっては、しばしば「具体化」(concretion)をともなわせて、つかう。合生と具体化は日本語の綴りでは似ていないが、英語では “concrescence” と “concretion” は共鳴しあっている。 こういうことがピンとくるには、少しは英語の綴りが見えていたほうがいいだろう。 残念ながら日本では、ホワイトヘッドの有機体哲学はそんなに知られていない。ぼくはたまたま二つのコースで同時にホワイトヘッドをめざしたことがあったため、20代の後半をホワイトヘッド・ブギウギで送れた。 ひとつは、アインシュタイン宇宙論と量子力学の解読者としてホワイトヘッドを読むことになったもので、ここでは “Concept of Nature” という原題をもつ『科学的認識の基礎』(理論社)から入った。とくに『科学と近代世界』と『観念の冒険』と『象徴作用』には没入した。 そのころのぼくは、初期のホワイトヘッドがさかんに強調していた「延長的抽象化」(extensive abstruction)という方法に首ったけで、誰彼なしにそのカッコよさを吹聴していたものだ。それに感応したのが、いまは編集工学研究所の代表をしている澁谷恭子だった。彼女はある年のぼくの誕生日にホワイトヘッド・メッセージを贈ってくれた。 もうひとつは、コンラッド・ウォディントンの発生学から入ってホワイトヘッドに抜けていったコースだった。そのときはウォディントンがホワイトヘッドの弟子筋だとは知らなくて、気がついたらホワイトヘッド・ループに入っていた。ぼくが思うには、このウォディトンこそがホワイトヘッド有機体哲学の最もラディカルな継承者なのである。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月25日
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【第994夜】 2004年6月23日ウィルヘルム・ライプニッツ『ライプニッツ著作集』1988~1999 工作舎Gottfried Wilhelm Leibniz : Opera Omnia 1666~1715監修=下村寅太郎・山本信ほか翻訳=原亨吉・佐々木能章・佐々木力ほか 数学には記号がつきものだとおもわれている。そんなことはない。数学記号がないころから数学はさかんだったし、数式が言明しているメッセージ内容には、必ずしも記号は躍っていない。 数学的能力と記号的能力も、べつものである。記号の力を借りない数学的思考はいくらでも可能だし、既存の数学に対応していない記号的思考はいくらでもある。急に引き合いにだすけれど、三浦梅園やウンベルト・エーコには記号的能力はあろうが、数学的能力はほとんどないだろうし、ニュートンやホイヘンスは記号的能力に頼る必要がないほどに数学的能力に長けていた。 しかしいったん記号が定着し、それがしだいに体系性をもっていくと、数学的思考と記号的思考のあいだの峻別はあいまいになっていって、とくに、記号というものがどれくらい実体を指示しているかという議論や、思考はどれくらい記号の助けを借りているかという議論をしているうちに、記号的数学こそが数学だという観念をどこかに押しやることができなくなっていった。 とくに代数学が記号で表現されてからは、この問題は、大きな謎とも、人間思考の本質を解く鍵とも、逆に、思考を阻む壁とも見えてきた。こうした問題を考えようとするとき、つねにその中央にあらわれてくるのがライプニッツなのである。 もともと代数学と記号化とは関係がないものだった。アル・フワリズミーの代数学、いわゆるアルジェブラには記号がまったく使われていなかった。 代数学の呼称のルーツとなったアルジェブラが、プラス・マイナス記号もアラビア数字も使っていないということは、そのころはまだ、文章上のレトリックとして代数を“綴っていた”ということになる。代数は思考の文法に所属していたともいえる。 それがラテン世界に入ってきて、これを写本するプロセスで省略記号を考案しているうちに、いわゆる代数記号に発展していった。佐々木力が紹介していたのだったとおもうが、たとえばアラビア語で1次元の未知数はシャイといい、それをラテン語ではレースというそうだが、その頭文字のRを独特の筆記文字で書くうちに代数記号になっていったという例が、記録上でも明確であるらしい。 考えてみれば、文法や文体に所属する代数ならば、地域や国や民族や風習によって、代数は変わっていくものだったのである。 しかし、それを記号化していくとなると、そこには共通性や共有性が問われることになる。距離と温度と質量をつなげる数学が必要になり、ポンドとドルと円には交換レートが必要になり、それらを“交ぜても”計算できる方法が必要になる。 こうして未知数がだんだん記号になっていくとなると、ついでデカルト以前に代数学にとりくんでいたヴィエトが既知数も記号化して、幾何学的な解析はすべて記号代数学で展開できるようにした。これを継承したのがデカルトで、そこでは代数によって思考も方法も精神規則も説明できるというふうに、主張されるようになった。 その代数思考をライプニッツが批判するところから、数理哲学思想史上の思考と数学と記号をめぐる巨大な幕があく。これが知のバロックの開幕なのである。 ライプニッツが数学と記号のあいだに立っていたとき、その目はまずデカルトに注がれていた。 デカルトは『方法叙説』で幾何学を重視したのだが、この文章は読みにくいだけでなく、ニュートンが指摘しているように誤りも多いものだった。しかし、その訴えるところには実に大きなものがある。そこで、このデカルトの幾何学論には当時からいくつものコメンタリーがついて、しかもフランス語版からラテン語版にも移し替えられていた。その間に、デカルトが考えていることは「普遍数学」というものだという定説ができあがっていったのである。 ライプニッツが目を注いだのは、このデカルト的普遍数学の、定まりきらない雄叫びのようなものだった。実はデカルト自身はそこまで考えきってはいなかったのである(と、ぼくは思っている)。 しかし、ライプニッツはそのデカルト的普遍数学に挑み、そこに量概念しか機能していないという欠陥を見いだした。たとえば、代数的な離散量と幾何学的な連続量をそのままごっちゃにして扱っているという欠陥である。ライプニッツは、もし普遍数学というものがあるのだとしたら、そこには量だけではなく、もっと広くて多様なカテゴリーが扱われるべきだと考えたのだ。「質」や「関係」だって扱われるべきだと考えたのだった。 マテマティカとは、そもそもは「学ばれるべきもの」という意味である。その原形には、第799夜や『遊学』のプラトンの項目に書いておいたように、マテシスがある。 マテシスやマテマティカは、想起されるべきすべてのものを学習記憶するための方法なのだ。そうだとすれば(まさに、そうなのだが)、そのマテシスやマテマティカは、いったん“記号の森”を通過して、そのうちから最も適切な記号群を連れ帰ってもよかったのである。そういうことをしても、平気なはずなのだ。 こうしてライプニッツは当時の普遍数学の欠陥を前にしつつ、そこに記号をもちこんで、これを普遍記号学として確立する構想をもつにいたったわけである。 1666年はライプニッツがまだ20歳である。しかしこの年に執筆された『結合法論』(デ・アルテ・コンビナトリア)には、その後のライプニッツの構想がいろいろなかたちで発露した。こんなに独創に富んだ仮説は、当時も今日も、めったに見られない。それにしても20歳である。 ライプツィッヒ大学でアリストテレス哲学とユークリッド幾何学を学んでいたライプニッツは、すでにいくつもの問題が対比的に自分の前に聳え立っていることに感づいていた。神の語り方と人間の語り方の対比、普遍の論理と個別の論理の対比、名前をもつ力(唯名論)とそこに物事がある力(実在論)という対比??。 これらを前にしていたライプニッツは、はやくも二人の教師からすばらしいヒントを引き出していたようだ。哲学のヤーコプ・トマジウスからは幾何学と精神の関係と「モナド」の意味を、数学のエアハルト・ヴァイケルからは哲学と科学の和解の方法とその和解のための論証の方法を、しっかり採取していた。 このときすでにライプニッツの胸中には、新たな「普遍学」を確立するという思いがいっぱいに膨らんでいたようだ。キーワードは「コンビナトリア」。すなわち「結合」である。 かくて哲学の修士・法学の学士を得たライプニッツが、つづいて哲学の教授資格のために書いたのが、「結合に関する算術的論議」という論文と、それを一冊の書物にまとめた『結合法論』(著作集第1巻)だった。ここに、ライプニッツをして有名にさせた「人間思想のためのアルファベット」というアイディアが開花する。 初期のライプニッツに一番大きな示唆を与えたのは、おそらくライムンドゥス・ルルスのアルス・コンビナトリア(結合術)だったろう。ルルスはこれを「アルス・マグナ」(大いなる術)とよんでいた。 13世紀のカタロニアでこの秘策を構想したルルスのアルス・コンビナトリアは、まさに三浦梅園にこそ見せたかったものである。 ルルスは6系列からなる一種の範疇表を作成して、そこにBからKまでの9個の文字を用いて、絶対的述語・相対的述語・問い・主語・徳・悪徳などのプラトン的な9個の範疇(カテゴリー)を動かそうとした。とくにそのうちの絶対的述語と相対的述語は字母Aと字母Tの円に配当されて、概念が主語から述語へ、述語から主語へ置換できるようにした。 驚くべきは、第四図と称されたクアルタ・フィグラが3つの同心円で構成されていて、そのうちの内側の2つの円が回転することによって、3個ずつの文字のすべての組み合わせが得られるようになっていることだ。なんだか遺伝アルゴリズムを思わせる。 ルルスが構想したのは、限定されたいくつかの用語(テルミエ)をつかっての、あらゆる問いに応じ、そこから各種の学を構成することが可能な「ローギッシェ・マシーネ」(論理機械)なのである。それゆえ、それは論理術にも普遍術にも記憶術にも使えそうなものだった。けれども、その根幹にあったのは、なんといってもアルス・コンビナトリアという編集術なのである。 ルルスのアルス・コンビナトリアは梅園の条理学のようには孤立しなかった。各方面に猛烈に吸収されていった。ライプニッツ以前、それは多くの学術と神秘思想と記憶術に採用されている。 とくに、ニコラウス・クザーヌス、ピコ・デッラ・ミランドラ、アグリッパ、ジョルダーノ・ブルーノ、カンパネッラ、パラケルスス、ヨハン・ハインリッヒ・アルシュテート、アタナシウス・キルヒャーに特有された。 この顔ぶれでわかるように、アルス・コンビナトリアはしだいにスペインからイタリア・ルネサンスへ、それからフランス・イギリスへ、そしてそれらが瀘過され尾鰭をつけて、ついに最も濃いものがドイツへと波及していったことが見てとれる。 ドイツにルルスが色濃く波及した理由には、ひとつには、クザーヌスの『知の無知』とアグリッパの『学の不確実さと空言』のあいだでアルス・コンビナトリアをめぐる熾烈な論争があって、それがアルス・コンビナトリアを新たな論理マシーンとして議論できる素地にしていたことであろう。 もうひとつには、おそらくルルス主義がカバラ思想と結び付いたことである。カバラでは、もともとセフィロートというフォーマットによって神の知の流出の組み合わせの可能性を追求していたし、そこではヘブライ文字のローテーションによる「文字と瞑想との対応関係」も重視されていた。それがもともと文字を重視するドイツの風土で新たな可能性への転換がはかられる契機ともなっていったのではないかと、ぼくは思っている。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月23日
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【第993夜】 2004年6月21日三浦梅園『玄語』1982 中央公論社・1982 岩波書店日本の名著20=山田慶児責任編集 日本思想大系41=島田虔次・田口正治校注 「八月某日。わが風景の大荒廃、ここに中絶す」という詩句が屹立する小野十三郎の『大海辺』と題された詩は、「半島の若者らは、みな国へかえってしまつた」と綴ったあと、次の一節になる。敗戦直後の詩だ。 又夢を見た。 豊後の国。国東郡。 百五十年昔の美しい夕焼雲だ。 その中にあなたはひとり立つてゐた。 梅園三浦。 しきりにあなたを想ふ。 小野がどういう詩人だったかは、ここでは省く。大杉栄の自由の幻覚を背負った男だった。 その小野が梅園を「しきりに想ふ」というのは、ぼくにとって意外であるとともに、さもあろうとも得心させた。小野でなくとも、男たちは日本という女を攫って梅園を想うべきである。小野はこうも書いていた、「遠い古い農業国。どうか安全に みんなそこに帰りつけますように」。 さて、以下は、ある時ある夜に、三浦梅園が生まれ育った地からさほど遠くない由布岳の麓の一室で開かれた会合に招かれて、ぼくが話したときのテープからの抄録記である。 その夜の30人ほどの会は、梅園を語るための会ではなくて、むしろ編集工学的発想について話すための場であったのだが、ぼくが勝手にその半分以上を梅園語りにした。そう思って読まれたい。この一夜を準備していただいた歯科医の阿部成善さん、建築家の辻隆司さんにお礼を申し上げたい。 もうひとつ、断っておく。今夜とりあげた『玄語』という表題をもつ書籍は、いまのところは、ない。ぼくが「千夜千冊」のためにわかりやすく『玄語』としたもので、実際に入手できるのは「日本の名著」第20巻『三浦梅園』(中央公論社)に収録され、また「日本思想大系」第41巻『三浦梅園』(岩波書店)に収録されているものをさす。了解されたい。【講演】 こんばんは。松岡正剛です。さきほど空港から高速を通ってこちらに入りました。ちょっと蒸し暑いですね。 今夜は、おそらくは主にドイツや日本の美学を重視していられる方々が、ここ湯布院の一隅に集まっていらっしゃると聞いていますが、三浦梅園に関心をもっておられる方も少なくないと思います。専門的に研究している方もおられることでしょう。 なにしろ梅園は、ここから遠くない国東半島の二子山の麓に生まれ育って、3度にわたる短期間の旅を除いて、生涯をほとんど国東の里に送っています。宇佐や別府や湯布院にとっても馴染みの、孤高の思想家でしょう。空港からこちらにくる途中にも、その梅園の里が緑の中に映えて、高速道路の向こうのほうに見えましね。いまの安岐町、昔は杵築藩でした。 その梅園の里を、私はこれまで3度ほど訪れました。そこで驚いたことがあるのですが、旧宅には梅園が書き写した『和漢朗詠集』があるんです。13歳のころの筆写です。これはびっくりした。このことは実に梅園の思想を暗示しているんです。 御存知のように、『和漢朗詠集』というのは藤原公任が編集して、これを行成があらゆる書体を書き分けた美しいもので、漢詩と和歌を交互に、かつアクロバティックに並べた王朝ヒットソング集です。いわば漢詩と和歌を半々にブラウジングして、カット&コピーをしているわけです。 この、半々の情報を別々のところから持ってきて、うまく並べるというところが、梅園の哲学にも関係するところで、それはまた、私の趣向とも深く関連してくるところなんです。梅園がそういうものを13歳のころに書写していたのには、驚きましたね。 さて、今夜お集まりの方々のなかには、私の事務所が以前に毎月発送していた「半巡通信」という小冊子を読んでいただいていた方がおられるように聞いています。 それでお話しするのですが、いったい、この「半巡」というのはどういう意味なのかと、しばしば訊かれます。 この小冊子は、実は最初のうちは「一到半巡通信」と名付けていたのですが、これでは意味がわからない、何のこっちゃと言われてました(笑)。そこで「一到」を取って、ちょっと短くしたのですが、やっぱり意味がわからない(笑)。 「半巡」というのは文字通り、やっと半分くらい巡ってきたという意味です。旅の途中とか、「いつだって折返し点」というようなところでしょうか。まあ、「半ちく」とか「半ちらけ」という意味もある(笑)。なんとか全体に向かって一到しようとしても、まだやっとこさっとこ半分くらいのところにいるという意味です。どっちにせよ、これじゃ、誰にもわかりっこないですね(笑)。 なぜそんな言葉をタイトルに選んだかというと、私は、この「半」という文字がそうとうに好きなんです。そもそも「半」という見方にもたいへんに関心がある。 何かを半分、半分というふうにどんどん切っていくと、いつかは究極の最小性に達します。紙も半切(はんせつ)とか半截(はんさい)といいますが、その紙を半分、半分と切っていくと、それはついには仏教にいう「微塵」というものになる。半分というのは、そういう方法をもっているわけです。 全部じゃなくて半分をめざすのが、かえって何かを見させてくれるんですね。「半」があるから、「全」の手掛かりもある。半球とか半期とかともいいますね。半径という言い方もおもしろい。逆にまた、うまく半分を重ねていけばそれまで見えていなかった「元のもの」や「新しいもの」に達するかもしれません。 半分にはそれを半分にした前の姿、つまり元の情報があるわけです。「半」にはそんな未萌の可能性があるように思うんです。 そのように思えるのは、どうも人間の最初の行為のひとつに、何かを「半分にする」という切断的な思考が先駆していたからではないかと思います。 幼児も子供も、おそらく最初におぼえる数の観念は「半分」なのではないでしょうか。ドーナッツやチョコレートを兄弟で半分っこする、一つだけ残ったミカンを半分っこする。 私も、母から「お兄ちゃんなんだから、半分を敬子にあげなさい」とよく言われました。それをすると、「セイゴオ、えらいわね」と褒められる。ま、仕方なくやっていたわけですが(笑)。しかしながら岡潔さんではないですけれど、子供というのはひょっとしたら、まず「半分」がわかって、そのあとにやっと自然数の「一」を知るようになるのではないか。そんな感じがします。 ひるがえってみると、私の編集文化や編集工学の発想や着想には、この「半」と、そして「対」(つい)という考え方がいつも動いていました。「半」と「対」は似ているようですが、「対」というのは、半と半とが互いに相い並んだ状態で、何かと何かで一組になっている状態のことです。 この一組、あるいは一対は、私の見方ではそれ自体で「一つ」なんですね。もともとは別々の二つが寄り添ったり、並んだり、重なったのかもしれないが、それで一つになっている以上、それは一つのものとして見たほうがいい。 ということは、半と半とで「一」になるわけで、一対にはいつも半と半とがあるということです。いいかえれば、どんな一つのことを見ても、そこには何かの半と半とがやってきていると見るとおもしろいということです。 たとえば「中途半端」という言葉がありますね。あれはまさに物事を半ちらけでほったらかしにするということで、もっぱら非難のときに使う言葉なんでしょうが、この「半端」をそのままにしないで、むしろその「中途」のアドレスをもって活用したらどうか。私はそういうことを考えるんです。 誰にだって、人生や仕事のなかでは、いくつもの中途半端があるわけでしょう。私が子供のころからほったらかしにした工作やノートといったら、もう無数に近い(笑)。隠していたって、みなさんも中途半端をたくさんもっている。それを、なにもかも中途半端で終わったからといって放っておくのは、おかしいですよ。もったいない。 それより、その半端をきちんと見極めて、これを別の半端とつなげていったって、いいんです。 編集というのはそうことを無視しない。半端をちゃんと見る。そうすると、半端と半端が合わさって、新たな一対になるということだってあるわけです。 私は高校時代に四則演算器を作りたくて、中途半端に終わりました。それから教会に通って神のことを考えようとしたけれど、これも途中で放置したままでしたし、一方、禅に関心をもって鎌倉の寺々に行ってみましたが、これも中途半端。大学ではマルクスや革命のことを夢想し、また、幾何学や量子力学の本を漁っていた。でも、それらはべつだん専門課程でやったわけではないし、みんな中途半端です。 そういうものがいっぱいあった。あったのですが、『遊』という雑誌をつくるとき、これらの断片や破片や半端を、新しい紙の上においていろいろ組み合わせてみたのです。 そうすると、たとえば物理学と民俗学のようなまったく異質なものが、それが断片で飯場であるがゆえに、ちょっとずつ繋がってくる。関係しあってくるんですね。 私はそういう作業に熱中することを「遊学」とか「編集工学」と名付けたのですが、これはキリなくおもしろかった。それから20年以上もたって、たとえば『花鳥風月の科学』という本を書くことになりましたが、それはそのときの物理学と民俗学が対角線上で出会ったときの、パッと走った光の軌跡のようなものにもとづいているわけです。 さて、そんな私の半ちらけな話はともかくとして、実は、三浦梅園という人は、この「対」や「一対」という考え方を徹底的に、かつ形而上学的に、また知覚と知識の関係をフルバージョンで駆使した人だったのです。まあ、編集工学の曾祖父のようなものです(笑)。 梅園は、その一対を「一、一」というふうに呼んで、それを自然や世界や社会の基本の概念単位にしています。この「一、一」という見方がとてもおもしろいんですね。天・地、気・物、円・方、性・体など、あるい動静、清濁・没露、分合・反比など、まことに多くの概念や名辞を、それぞれ「一、一」というふうに対比させ、その一対を情報の基本単位にしたわけです。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月21日
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【第992夜】 2004年6月18日小林秀雄『本居宣長』1977新潮社 小林秀雄を書きたいのか、本居宣長を書きたいのかといえば、今夜は宣長をめぐりたいのである。 それなら宣長の『古事記伝』や『排蘆小船』(あしわけのおぶね)や『玉くしげ』などをとりあげればいいだろうに、そうしないのは、ひとつには、まだ宣長を書くにはとうてい読みきれていない個所が多すぎるということがあり(たとえば宣長には72年間におよぶ日記がある)、もうひとつには、今日の時代に宣長を問うには現在者を少なくとも一人は介在させたいからである。 その一人には小林秀雄こそがふさわしかった。いや、津田左右吉や保田與重郎(203夜)に、あるいは石川淳(831夜)や丸山真男(564夜)に伴走してもらいながらでもよいのだが、そういうことはこれまでにもある程度やってきたことなので、今夜は是非にも小林秀雄なのだ。 それに、なんといっても小林にあっては、ランボオ、モーツァルト、ゴッホ、ドストエフスキー、ベルグソンなどを回遊し、その長きにわたった批評の変遷のあげくをへて、最後に辿りついたのが宣長だった。 小林は昭和40年(1965)に「新潮」6月号に『本居宣長』の連載を始めて、実に11年にわたってこれを書き継いだ。そのときですでに74歳であったが、さらに3年後にも『本居宣長補記』の連載をして78歳まで書き、その3年後に青山二郎(262夜)や河上徹太郎を追うように亡くなった。 小林が最後に辿りついたのが宣長だったといえば、小林のそれまでの「批評という思想」の総決算が宣長に向かったと思われそうだが、必ずしもそうではない。 小林が総決算をしたかったとすれば、それは日本人としての自分の考え方を総決算したかったのであって、それには宣長に向かうことがふさわしかったのだろう。けれども、小林は何かの総決算をしたくて『本居宣長』を書いたのでもなかった。小林にはそういう成算主義はない。 それに、小林には「民族」という視点が欠けている。いや、そういう視点を注意深くあえて欠かせてきた。「日本人」という言葉もめったに使わない。 小林には民族とか日本人というよりも、「自己」という言葉のほうが広かった。自己の精神は国家や民族を超えるばあいのほうが多いと考えてきた。小林には自己のほうが国家より大きかったのである。 だから、つねに「自己」を問うてきた。それは小林がすべての批評を通じて最も大切にしてきた節操。それゆえ、小林は自己という思想の一番深いところを最後の最後になって、十数年をかけて宣長に向かいながら考えようとした。そう、見たほうがあたっている。 ところが、である。ところが宣長にとっては、「自己」は「日本」や「日本の古意」であり、まさに「日本という自己」を解明することが、その思想のすべてだったのだ。それ以外の個々の自己など、どうでもよかったのである。 ここにおいて、小林から見た宣長を、さらに宣長をもって批評するという見方が、俄然、おもしろいものとなって浮上する。今夜は少々そこを交ぜてみたいのだ。 小林の思想は最初から「無私」に向かっていた。ドストエフスキー論やゴッホ論はその最初の表明である。小林は無私をもつ者こそを真の自己とみなしたかったのだ。 無私をもつ者が自己であるだなんて、まったく言葉の矛盾ではないかと思える者がいるとしたら、それは小林をちゃんと読んだことがないか、あるいは小林のみならず、秀れた哲学や芸術をちゃんと見てこなかったせいである。本物の思想や芸術には、よく見れば必ずそこに「無私」が露出する。そんなことは、道元(988夜)からイサム・ノグチ(786夜)まで、荘子(726)からシオラン(23夜)まで、持ち出すのも億劫なほどに歴然としているはずだ。 無私とは、小林が何度も説いてきたように、「得ようと思って得るもの」であり、「そうしないかぎりは自己も出てこないもの」なのである。小林が『本居宣長』で、伊藤仁斎や荻生徂徠をめぐって、「自己を過去に投入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となつてゐた」と書いたのも、そのことだ。 ところが、宣長においてはたとえそのような「無私としての自己」があるとしても、それは日本そのものの本来であって、宣長その人の自己となどというものではなく、その無私はつぶさに「神」や「惟神(かんながら)」に直結するものだったのである。 かつて宣長の『うひ山ぶみ』を現代語に移した石川淳は、そういう宣長を「人格脱出した男」とか「無意識の名優である」とさえ言ったものだった。 さあ、どうするか。小林にとっては人格はともかくも、無意識そのものを相手にする気など、ない。石川とちがって、小林は宣長が「無意識の名優」だとも見たくない。 しかし、宣長は自己には毫もこだわらない。自己が一気に日本大ないしは日本小になっていて、そこにしか「まごころ」がないと言っている。しかも宣長は、そういう見方だけが学問や思想をひらく唯一の方法だと考えた。 一方、小林は正直に告白しているのだが、他の思想家にくらべても、宣長の学問的方法にはそうとうの、いや抜群卓抜な説得力があると感じている。けれども、それがすべて日本の思想の根幹であると言われると、困る。 こうして小林が格闘することになったのだ。自問し、自答することになったのである。 小林の『本居宣長』は、小林が自己に問うて自己に答えようとするその自問自答が、つねに宣長を介在させながら進むところが、興味深い。 本居宣長が32年をかけた『古事記伝』には(岩波文庫で全4冊)、巻一の末尾に『直毘霊』(なおびのたま)という序がついている。 「道といふことの諭(あげつら)ひなり」という副題がつく。これは一言でいえば儒学批判にあたる。 この儒学批判は、のちに宣長が「漢意」(からごころ)を離れて「古意」(いにしえごころ)に投企していく最大の契機となったのものであるのだが、まだこのときはそこまで徹底していない。それで平気だった。なぜなら、宣長は漢語漢文による思考を離れれば、それで古道に入れると決断するまでに、歌の本質や物語の本質についての用意周到な思索を練り上げて、それからこの投企を実現するほうに向かったからである。 たとえば、である。物語には「儒仏にいう善悪にあづからぬもの」があるというような洞察は、当時も今も、びっくりするほどにすごい洞察である。宣長はこういう周到な前提を積み重ねて、『古事記伝』を不朽の記述にまで高めるだろうことを、予知していたにちがいない。 そういう宣長を相手に小林はどうしたかというと、このように宣長が、執筆著作のたびに確実にステップを踏んで、儒から和へ、そこから和の歌へ、その和の歌の自己から歌の無私へ、また、歌の無私から歌の本来へ、さらに歌の本来からふたたび儒から和へ、そのうちすべてを日本の本来へと、まったく率直に深化していく姿に、ほとんど目を見張る思いをもちつつも、その手順というのか、テンポというのか、絶対に見誤らない古道へのアプローチの強みというのか、そういうものをまるで小林流に再生するかのように、『本居宣長』を綴っていったのである。 しかしながら、それだけ記述の目を慎重にしていた小林も、結論からいえば、宣長の本当の思想のごく一部をしか書きあらわせなかった。 これは、小林の責任ではない。宣長の途方もない深さに出会っては、小林も石川も、丸山も津田も、少なくともぼくが齧った宣長論者のすべてが、その本質を言葉で書ききることなど、不可能なことだったようにおもわれる。 仮にそうだとすれば、小林はそのことも計算に入れて、あえて宣長には近接しにくいということを書きつづけたのかと、言いたくもなってくる。 きっと小林は思索者ではなかったのである。失敗も成功もあったろうが、おそらくは「思索そのもの」であろうとした人だったのである。 こうして小林の『本居宣長』は、縮めていえば、宣長の「古道の思想」をあえて感覚的にのみ徘徊できるように、宣長の源氏論にひそむ「もののあはれ」をところどころ突っ込むことによって、一個の宣長像を六曲数双屏風の絵のように一扇一扇に描いたのだ。 ぼくには、この書き方は好ましい。小林のすべてが見えるような書き方になっているとおもわれる。 ところが本書は発売しばらくして10万部も売れたにもかかわらず、実のところはあまり評判がよくなくて、ぼくの知るかぎりはろくな評判記も書かれてこなかった。その理由は、小林は宣長をちゃんと書いていないのではないかという漠然とした感想が、読者や評者のがわにあるからだろうとおもう。 それはないものねだりなのである。なぜなら小林は宣長を書いたのではなく、宣長の目による思索をしたかったからだ。それは小林がたとえば、「言霊といふ古語は生活の中に織り込まれた言葉だつたが、言霊信仰といふ現代語は、机上のものだ」とか、もっと本書をめぐってのポイントでいえば、「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出さうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考へるといふ、宣長の肉声だけである」とかと綴っている文章にも、うかがえる。 小林は宣長を書いたのではなく、宣長の目になろうとして、自問自答したのだった。 そこに気づいたのは山本七平(796夜)の『小林秀雄の流儀』(新潮文庫)や細谷博の『小林秀雄論』(おうふう)あたりかもしれないが、やはりそれだけは不満だ。 いまの日本はこういう本をこそじっくり書評すべきであって、それが小林秀雄が日本にもたらした莫大な文化遺産に返礼する唯一の方法だとおもうのだ。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月18日
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【第991夜】 2004年6月16日松尾芭蕉『おくのほそ道』1952・2003 角川ソフィア文庫「朝を思ひ、また夕を思ふべし」 「朝を思ひ、また夕を思ふべし」 さあ、芭蕉である。どう書こうかとは何も想定しないで、いま書きはじめた。 できれば、「漢」の表現文化に習熟していた露伴(983)が、晩年には「和」の芭蕉七部集に傾注していったように、いつかはそういうことをしたいと思うけれど、なかなかその機縁に没しきれないで数十年がすぎた。朝にも夕べにも芭蕉が出入りするような日々があれば、いつかまたそういうことも試みたい。それができれば、ぼくにも多少の逆旅(げきりょ)がおこるということになる。 そのかわりといってはなんだが、ここでは『おくのほそ道』をまたぐ芭蕉の推敲編集の草叢に少しく分け入って、その相違を僅かに浮かび上がらせ、蕉門の俳風が到達しきった元禄4年(1691)7月の『猿蓑』で話を終えたいとおもう。露伴の『評釈猿蓑』に敬意を表してのことだ。 『猿蓑』は、蕉門の総力を結集した乾坤一擲の作品集ともいうべきもので、芭蕉は一句一句の入集についての選択はむろん、句中の一語一語にまで気を配った。許六は「猿蓑は俳諧の古今集なり」とさえ言った。 露伴のものは、芭蕉その人が「漢と和」をしばらくリバース・モードにしたことに露伴が気づいて書きこんだ,俳諧評釈をめぐる文芸史上屈指の里程標だった。 ところで最初に言っておいたほうがいいだろうから言っておくが、芭蕉は天才ではない。名人である。そういう比較をしていいのなら、其角のほうが天才だった。才気も走っていた。 芭蕉は才気の人ではない。編集文化の超名人なのである。其角はそういう名人には一度もなりえなかった。 このことは芭蕉の推敲のプロセスにすべてあらわれている。芭蕉はつねに句を動かしていた。一語千転させていた。それも何日にも何カ月にもおよぶことがあった。そういう芭蕉の推敲の妙についてはおいおい了解してもらえるはずのことだろう。 「予が方寸の上に分別なし」 芭蕉についてどう語るかということは、百通りがある。ぼくが読み継いだものを拾っただけでも、おそらく数十を超えている。父の書棚からひっぱりだした懐かしい山本健吉(483)の『芭蕉』(新潮社の「一時間文庫」で3冊)を拙(つたな)い嚆矢にして、それからいったいどのくらいを読んだのだろうか。 大学時代は安東次男の評釈が鮮烈にテビューしていて、それを貪り読んだし、その後は唐木順三(085)を知ってちょっと落ち着き(大きく芭蕉を見るようになり)、その後に保田與重郎(203)から露伴に及んで、居ずまいをただしたものだ。そのころだったか、内田魯庵のぞくぞくするような『芭蕉桃青傳』や芥川龍之介の皮肉な『芭蕉雑記』にも遊んだ。 芭蕉のどの句が好きなのかなどということになっては、これは数年ごとにわらわらと変貌しつづけた。 しかしいま、あらためてふりかえってみると、芭蕉が成し遂げたことは、やっぱり貫之(512)、定家、世阿弥(118)、宗祇、契沖に続く日本語計画の大きな大きな切り出しだったというふうに、見えている。この切り出しには、発句の自立といった様式的なことも、いわゆる「さび」「しをり」「ほそみ」「かろみ」の発見ということも、高悟帰俗や高低自在といった編集哲学も、みんな含まれる。 では、なぜ芭蕉がそれをできたのかといえば、あの、時代の裂け目を象(かたど)る江戸の俳諧群という団子レースから、芭蕉が透体脱落したからである。さっと抜け出たからである。 それは貫之が六歌仙から抜け出し、世阿弥が大和四座から抜け出したのに似て、その表意の意識はまことに高速で、その達意の覚悟はすこぶる周到だった。 けれども、なぜ芭蕉にそれができたのかが存分に納得できるには、芭蕉の俳諧人生がその切り出しまでにどのようなスレッシュホールドに達していたかを知る必要もある。 芭蕉翁という「翁」の呼び名がふさわしいにもかかわらず、意外にも芭蕉は51歳の短い生涯だった。しかも本格的に俳諧にとりくんだのはやっと30歳をこえてからのこと、宗匠として立机(りっき)したときは、もう34歳になっていた。 それなのに芭蕉は計画したことをほぼ成し遂げた。そして日本語に革命をもたらした。 「虚に居て実を行ふべし」 芭蕉は寛永21年に伊賀上野に生まれている。藤堂藩の無足人(土着郷士)の次男だった。 寛永文化がどういうもので、つづく寛文文化がどうなっていて、かつ伊賀上野や藤堂藩がどういうところかも重要なのであるが、そのことを書いているとキリがない。 ともかくも最初は貞門の北村季吟に惹かれ、そして29歳で江戸に出た。ここで貞門から談林を覗き、さらに模索を始めた。とりあえずはこれが前提である。だから、この前提までに俳諧前史というものがどのように芭蕉に見えていたかが、芭蕉を語るときのとりあえずの出発点になる。 ごくごくはしょって言うが、京都に発した貞門は、連歌に習熟した松永貞徳によっておこされたものであるだけに、俳言(はいごん)を打ち出した。漢語や俗語や俚諺をつかうことをいう。 俳言は連歌にはなかった言葉をつかったから俳言なのである。だから、ここから俳諧が和歌や連歌から少しずつ自立の準備を始めたことになる。貞門はその俳言を交ぜながら縁語や掛詞を駆使した。たとえば、「山の腰にはく夕だちや雲の帯」(貞徳)。夕立と太刀が掛詞になり、「はく」(佩く・穿く)「腰」「帯」が縁語になって、まだ和歌の風情も残している。 この貞門俳諧の流行が寛永文化に重なっていた。そのなかで『犬子集』を刊行した。これは松江重頼の編集によるもので、俳諧史の最初の活気にあたる。たしか早稲田の暉峻康隆だったとおもうのだが、「日本の三代詩歌集を選べというなら、迷わず『万葉集』『古今集』『犬子集』を選ぶ」と言っていた。かなり大胆な見解だろうけれど、よくわかるところもある。それぞれ時代を切り拓いた最初の詩歌集であったからだ。 貞徳がこうした俗っぽい俳諧を奨励したのには、それなりの算段があった。そのころの武士や町人の識字率が低かったからである。貞徳自身は高尚なボキャブラリーをもちながらも、それをひけらかすことをあえて避け、武士や町人がひとまず俳諧(連俳)をものすることができるように、ハードルを下げたのである。そのことによって多くの者がどうにか言葉を操れるようになったなら、伊勢や源氏や八代集を読むように勧めた。 が、それはそうだとしても、貞門はあまりに言語遊戯に耽った。耽りすぎた。表意を研鑽するものがなくなっていった。そこで大坂の西山宗因がこれに反発した。天満天神社の連歌所の宗匠である。 「実に居て虚にあそぶことはかたし」 宗因の挙動は、第974夜の近松浄瑠璃誕生をめぐる顛末にも書いておいたことだが、京都に対するに大坂の反発を根にもっていた。竹本義太夫が大坂に出て、近松が京都から大坂に移った前史には、この宗因の先行的登場があったのである。 宗因にはもうひとつ、生活や身の回りの俳諧を詠みたいという主張があった。これが談林で、ここからが寛文文化になる。「白露や無分別なるおきどころ」(宗因)。 ここに西鶴(618)が顔を出す。西鶴はもとは鶴永と号していたのだが、宗因門下に入って西山の西をもらって西鶴と改めたことでわかるように、談林を急羨望で先導する役割をはたした。そのうえ、自分は一人でも荒木田守武(ここが連俳の原点である)に戻って「面白み」に徹するという気概をもっていた。「何とて世の風俗を放れたる俳諧を好まざるや、世こぞって濁れり、我ひとり清めり」と自負を述べている。「大晦日定めなき世のさだめかな」(西鶴)。 京・大坂のこうした反目は江戸の社会文化を議論するに、つねに起爆点になっていると思っておくとよい。ついでながら、この反目が低迷しているうちに江戸がおいしいところを攫って(浮世絵や江戸歌舞伎がそのひとつ)、そこにまったく新しい文化様式を経済文化として確立していったというのが、徳川社会文化の前半の大きな流れだった。 京の貞門、大坂の談林はこうして互いに詰(なじ)りあううちに、しだいに新鮮な勢いを衰退させていった。これで、飽きられた。厭きられた。 連歌も俳諧もむろん面白くて連打されるものではあるけれど、そこにスタイルやテイストが発芽しているうちはいいのだが、そこに文言を当て嵌めていじっているのが続きすぎると、「あき」がくる。スタイルやテイストは費い尽くしては失策なのである。 「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」 貞門・談林の風波が重なるなか、ここに19歳の芭蕉が藤堂藩の侍大将である藤堂新七郎の台所御用人として出仕して、その嫡子良忠の御伽衆になった。 良忠は北村季吟の門下に入って俳諧を習っていた。芭蕉も主人に倣ってついつい俳諧を遊びはじめたにちがいない。ただし、21歳のときの俳号「宗房」時代の句が残っているのだが、そうとうにヘタクソだった。「姥桜咲くや老後の思ひ出で」(宗房)。 おそらくこのまま良忠とともに遊んでいたら、芭蕉はとうてい芭蕉にならなかったであろう。ところが芭蕉23歳のとき、良忠が25歳で急没した。これで芭蕉は藩内での出世を諦める。早々に辞職した。そして、とくに勝算があるでもなく京に出て、季吟に古典・漢詩文・俳諧を習いだしたのだ。もっとも、この道に進むもうかどうかをまだまだ迷っている。 当時、俳諧師という職能は、黒衣円頂の装いにあらわれているように、士農工商の枠の外の者なのである。生活の資はすべて門人の点料か旦那衆の眷顧に頼らなくてはならなかった。へたをすれば連衆の御機嫌を伺う“おもらい坊主”と蔑まれたほどなのだ。この時期の芭蕉が迷っていたとしても無理はない。 それに芭蕉自身が、のちに「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」と言っている。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月16日
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【第990夜】 2004年6月14日ジョリ・カルル・ユイスマンス『さかしま』1962 桃源社・1984 光風社・2002 河出文庫Jotis Karl Huysmans : A Rebours 1884 澁澤龍彦 訳 これから綴ることは、ユイスマンスと頽廃と信仰とについてであるけれど、それは同時に、ふだん諸君が感じていることと気が付かないままに過ごしていることの両端でもあるはずだ。注意深く文脈を追われたい。 なぜ以下のような書き方をするかということは、ユイスマンスにも原因があるけれど、ユイスマンスを読んできた批評のくだらなさにも起因する。諸君も数々の読書をしてきたのであろうけれど、察するにコンラッド・ローレンツ(172)とデズモンド・モリス(322)を同じエソロジー(動物行動学)の分野と思って読み、寺山修司(413)と澁澤龍彦(968)をなんとなく近くにして読み、ついついロートレアモン(680)とユイスマンスを一つの包囲のなかで読んでしまってきたのではないかとおもう。 これはまずいのだ。もっと深彫りをして読む必要がある。それだけではなく、いままで似ているとか近しいと思いこまされてきたものを切断し、遠いものや縁がないものとあきらめていたものを近寄せなさい。それが「読むことの真行草」を諸君に提供してくれる。 というわけで、今夜は『さかしま』ついでに「千夜千冊」の読み方も少しばかり示唆したい。 バルテュス(984)のカトリック的中世をまっとうに理解しないことによってバルテュス愛玩派の称揚が無意味に広がってきたように、ユイスマンスの『さかしま』のデ・ゼッサントにひそむ孤立したカトリシズムを長らく誤解してきた読者の傾向というものがある。 べつだん小説のなかでのこと、誤解しようと何しようとかまわないが、ことデカダンスをどう語り交わすかという愉楽を友と分かちあうには、やはりデ・ゼッサントの趣味の奥にひそむ逆理というものを、少しは問題にしておかなければならない。これは唐津や志野を味わう感覚ではとうてい語りえないものなのだ。 なぜなら、唐津や志野には「悪」や「罪」がない。いってみれば、近松(974)がない。むろん南北(949)もない。つまり説経節がない。事の当初から「実と美と善」の研鑽に向かっている。それがまた陶芸のよさというものだ。 しかしながら、世の中の「実や美や善」には「悪」や「頽廃」を通過することによってやっと見えてくるものもある。こういうことは日本でなら説経節や近松を、ヨーロッパでならそれこそデ・ゼッサントやバルテュスをいったん凝視しておくことで見えてくる(そういうことが多い)。もっというなら、世の価値観のなかにはダンテの地獄篇を通して見えてくるものがあるということだ(913)。 ここまでは、よろしいか。 さて、ぼくのどこかには、薄明の光条のさしこみのようなものではあるものの、カトリシズムに対するちょっとした共感がある。 それについてはすでに『イエズス会』(222)や内村鑑三(250)やアウグスティヌス(733)のところで多少のことを綴っておいたので、ここでは繰り返さないけれど、ただしこれはカトリック中世主義に寄せる共感なのである。キリスト教全般や、最近のキリスト教と国家のありかたなどにはいまもってとくに関心はない。 すなわちぼくは、華厳禅にタオイズムの香りを見て、ジョン・C・リリー(207)に神を嗅ぎ、アリスター・ハーディ(313)にこそ神学をおぼえるというのが好きなのだ。だから江藤淳では『犬と私』(214)を選んでみた。 だんだん話がややこしくなっているけれど、ここまでも、よろしいか。 そこでユイスマンスの話になるが、この作家は工芸を好んだ作家であった。父親が彫刻師だった。 処女作は散文詩であるが、まるで金属細工のような言葉の填め込みになっている。その後の作品は社会の状況を扱うが、やはりどこかに銀線や大理石を研磨したり溶融したりしているようなところがあった。それがあるときエミール・ゾラ(707)の目にとまって、「メダンの夕べ」に列せられることになった。 やがてユイスマンスは大胆にもゾラの自然主義を美意識にだけ注入刻印することを思いついた。それが本書『さかしま』である。その勢いはしばらくとまらず、ついでは大作『彼方』(1891)となって、幼児虐殺で名高いジル・ド・レエや黒ミサを扱った。 これは見たところは驚くべき悪魔主義の作品であり、それが好きでユイスマンスを読む者もいまなお少なくないのだが、ぼくはそれよりも中世神秘主義の卓抜な解読書として読んだ。そこにユイスマンスの心理が反映しているなどとは読まなかった。それゆえこれは、いわばウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(241)なのである。 そこでついでに言っておくけれど、諸君は何が何でも自分の心理と作家の趣向をつなげて見すぎているのではないか。言葉の職人というものがいることを、また、登場人物に託す心理の大半は作者の心理とは連動しないですむことを、知らなすぎるのではないか。もしそうならば、いま諸君がただちに着手すべきことは、「心理」と「趣向」の擬似連携を叩き割ることなのである。少なくとも「千夜千冊」はそのようにして読まれたい。 これは余計な話だったろうか。 話、戻って、そのユイスマンスがカトリックに“回心”したのは、『彼方』を書いてのちのことだったというふうに、文学史ではなっている。 ユイスマンスは『彼方』であまりに「悪」を描いたので各方面から非難を受け、そこでヴェルサイユ郊外イニーのトラピスト派修道院に参籠して、敢然と修練の道に入っていったのだ。ユイスマンスはこの時期に“別人”になったのだ。頽廃主義と悪魔主義を捨てたのだ。そう、見られている。 これが伝記上のユイスマンスの有名な旋回である。 もっとも伝記といっても、いまのところはロバート・バルティックの『ユイスマンス伝』くらいしか紹介されていないけれど、他の文学評論も似たり寄ったりだ。 ともかくも、そこで書かれたのが、『出発』『大伽藍』『献身者』の3部作だった。この3作にこめられた中世カトリック神秘主義は、たしかにまことにラディカルだった。 ぼくは『大伽藍』(1898)から読んだのだが、最初の数十ページで脱帽した。そこに描かれているのはシャルトル大聖堂の詳細きわまりない内部装飾だけだった。その一部始終を主人公のデュルタルが観察しているだけだった。それなのに、そのことに感銘した。 こういうことができるのは、かつてならジョン・ラスキンただ一人であったろう。あの『ヴェニスの石』や『建築の七燈』がそれを成し遂げた。その次にこのような描写に徹することができたのは、きっとヴィクトル・ユゴー(962)だったろうけれど、さしもの『ノートル・ダム・ド・パリ』も、その寺院描写の直前で物語のほうにシフトしていった。 それがユイスマンスにおいては、寺院描写に徹底できた。これはなるほど快哉だ。 では、その快哉のほうのことを書いておく。 ユイスマンスは3部作につづいて、そのまま『修練者』(1903)へ、さらには『腐爛の華』(1906)に求心していった。『腐爛の華』は聖女リドヴィナの伝記を背景に、リドヴィナが受苦したいっさいの業病を描写した。リドヴィナは血の膿にまみれた聖女だったのである。この描写は『小栗判官』も『弱法師』もかなわない。実はこれまでの「千夜千冊」にも、この作品に匹敵するものはない。 しかしユイスマンスはそれにもとどまらない。死の直前のユイスマンスが最後に向かったのは、一種のルポルタージュ・ノベルともいうべき『ルルドの群衆』(1906)だったのである。どういうものか、ちょっと知らせたい。 マチアス・グリューネヴァルトの『十字架刑図』を見てほしい。この狂暴な一服の絵は何を告示しつづけているか。 背景は暗黒である。そこに十字架で血膿を流している断末魔のキリストがいる。その首は落ち、手は捩れ、脚は歪んでいる。左には悲痛に耐えるマリア、右に十字架に近寄ろうとするヨハネ。描写はあくまで架刑の激痛を克明に蘇らせるかのように稠密だ。こんな絵はかつて、なかった。 1903年の秋、ユイスマンスはベルリンからカッセルに向かっている。ユイスマンスに影響を与えたサン・トマ教会の助祭ミュニエ師と連れ立っていた。15年前に、ユイスマンスにとって生涯最大の衝撃的な出会いであった恐ろしい絵を、カッセルの小さな堂宇にもう一度見るためだった。ユイスマンスにとって、このキリスト像こそがいっさいの陽気を払った「貧者のキリスト」であり、生命の腐爛に向かう「真のキリスト」だったからである。 グリューネヴァルトが描いたのは一個の死骸なのである。そのくらい凄い絵だ。グリューネヴァルトはその死骸の進捗にキリスト教の暗澹たる未来を予告した。そこには「神の死骸」が描かれていた。 このことに衝撃をうけたユイスマンスは、最後の最後になってこの絵の深刻な意味からの必死の脱出を企てる。おそらくはそのように今後のユイスマンス伝記は書かれるべきだろう。 もうひとつ蛇足で言っておくと、絵画を小説にとりこんだ作品は、だいたいは作家の調子が絶頂期にあると思ってまちがいがない。参考にしてほしい。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月14日
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【第989夜】 2004年6月11日半村良『産霊山秘録』1973 早川書房1992 祥伝社 ヒの一族だと思っていたら、ヒ一族だった。日とも卑とも非とも綴られる一族である。山野を跳梁し、神に仕え、皇室の存続だけを意図して動く。ずっとヒの一族と思っていたので、あえてそう書くことにするが、このヒの一族の正体が奇想天外なのである。 はるか30年ほど前の読後感なのに、いまだ鮮明に蘇るのだが、冒頭に参った。 永禄11年の初夏、醍醐三宝院の茶席に、亭主役の門跡義演僧正が3人の客を招いている。奈良の蜂屋紹佐、松屋久政、堺の天王寺屋今井宗久である。いずれ劣らぬ数寄者のコレクター。 3人は床に掛かった圓悟克勤の墨跡に息を呑んでいる。利休が所蔵しているはずの逸品の二つ目が出たからだ。3人は値を張り合って、二千貫文で天王寺屋が落とした。墨跡の出所はあかされなかったが、実は山科言継だった。 この山科家がヒの司を秘密裡に任されていた。禁中では異(こと)の者とも呼ぶならわしらしい。その起源は遠い昔にさかのぼり、一説には皇室より上に位するほどだったのが、時代がくだるにしたがって体制の一部にくみこまれ、元応・元亨のころは日野家の管轄になっていた。しかしつねに皇室の危機を救ってきたとも噂されてきた。 その後、ヒは南北朝とともに分裂し、滅んだとも伝えられていたのが、どうやら山科家に移管されていたらしい。 醍醐はもとは日野家の名字領であり、醍醐寺と山科言継がつながっているのも何かの機縁なのである。二千貫文はそのヒが動き出すための資金のようだった‥‥。 こうして想像を絶する物語がはじまるのだが、われわれはこの物語を絶賛しながら読み回していたものだ。われわれというのは工作舎の初期メンバーである。 すでに1968年に予兆があった。桃源社が40年にわたって埋もれていた国枝史郎の『神州纐纈城』を復刊した。三島由紀夫をして、「こと文学に関するかぎり、われわれは1925年よりもずっと低俗な時代に住んでいるのではないか」と言わしめた日本伝奇文学の最高傑作である。「負の文学」としても問題を孕んでいる。 それだけではなく桃源社は、このとき“大ロマン復活シリーズ”を全29巻、“日本ロマンシリーズ”を全11巻、惜しみなく次々に繰り出して、小栗虫太郎・横溝正史・夢野久作・久生十蘭・海野十三・白井喬二・江戸川乱歩らを禁断の書棚から華麗にばらまいた(すでに澁澤龍彦のものは刊行中だった。知る人ぞ知る編集名人の矢貴昇司の仕業であった)。のちの角川文庫による横溝ブームもこのパンドラの匣が開いたせいによる。 この日本伝奇小説の蘇生を背景に、おりからの日本SF界の冒険と高揚が重なって(小松左京・光瀬龍・石川喬司‥)、その交点に颯爽と登場したのが半村良だった。 半村は1971年に『石の血脈』で話題をとると、すぐさま福島正実の「SFマガジン」に『産霊山秘録』を連載し、完結してからは第1回泉鏡花賞をさらってしまった。この賞の仕掛け人である五木寛之が感服した。 それを、われわれは待ってましたと読んだのだ。当時、工作舎で流行っていたものはいろいろあるが、とくに山田風太郎と半村良と諸星大二郎、それにJ・G・バラード(第80夜)とフレデリック・ブラウン(第418夜)、そして桑沢デザイン研究所を途中でやめて入ってきた戸田ツトムが毎日レコードをかけまくっていた喧しいキャロル・・・・・・。 それにしても『産霊山秘録』の仕組みには脱帽だった。もとより荒唐無稽は承知のうえだが、ともかくよく練られていた。 ヒの一族は天地開闢を司ったタカミムスビの直系ということになっている。ムスビ(産霊)はむろん「ムス・ヒ」で、ヒはスピリチュアル・エネルギーをあらわしている。鏡・依玉・伊吹を神器として尊守してきた。ヒの者は男ばかりで、女はいない。妻問いであり、ケガレを避けた。一つ胤の者のうち、年少の者が代々継ぐことにもなっている。日の民であり、非の民なのだ。ヒから見れば、ほかのすべての人間たちは里者になる。 そのヒの者はテレポーテーションの技能を身につけている。SFなら念力移動というところだが、ここではワタリとよばれる。神籬(ひもろぎ)から神籬へと飛んでいく。それゆえ各地の忍びはどこかでヒの者とつながって、比叡、日の岡、百済寺、諏訪、鹿島、大国魂神社、そのほか意外なところに産霊山(ムスビノヤマ)を秘守し、そのネットワークを広げている。そこは「芯の山」ともよばれた。 物語はそのヒの一族が、織田信長に天下をとらそうとして動き出したというふうに始まっている。 世は正親町天皇の御代。足利義昭の力はもはや風前の灯火で、このままでは乱世が皇族におよびかねない。そこを信長に抜けきらせる。そういうヒの計画だ。宗主の随風とその弟の明智十兵衛光秀が実行にあたった。そこに狂言まわしの飛稚(とびわか)が加わる。 ところがそこへ、信長の比叡焼き打ちという暴挙がおこる。比叡はヒの養育地ともいうべき神奈備である。さあ、どうするか。 このまま筋書きを書いてしまっては、この紹介で『産霊山秘録』を読みたくなっている諸君には身も蓋もないのだが、ヒの一族という発想の面白さを知るにはもうすこし、物語を追ったほうがいい(重要なところはぼかしておくので、まあ、安心して読んでほしい)。 随風は信長には光秀を送り、藤堂与右衛門(高虎)や猿飛や山内一豊らには家康・信玄を見張らせる。衆議のうえ、信玄は呪殺することにした。家康も牽制した。しかし信長の猛威はそのようなヒの努力とは関係なく拡張し、暴走しているようにも見える。随風や光秀はこれはヒの裏側のネが動いたのだと見る。 このネについては明確な説明がないのだが、ヒとは裏腹の関係にある動向らしい(ネの説明がないのはこの作品の欠陥になるが、これはのちに大作『妖星伝』のほうにいかされた。ネは根の国のネ、常や峰や杵のネなのである)。 こうして光秀は本能寺に信長を屠ることにした(これが本能寺の変の真相だった)。が、光秀も殺される。 ヒは新たな照準を家康にあて、あくまで日本エネルギーの安定を計ろうとする。とくに秀吉なんぞには日本を任せられない。随風は南光坊天海と名を替えて天台座主にのぼりつめ、家康の背後につくことにした。ともかくも「玉」を守りつつ、幕藩の混乱を鎮めなければならない。 そのためには強力な神籬をいくつも組み合わせて、新たなシステムを準備できる「芯の山」がいる。天海は日光二荒山を選んだ。オオナムチとタゴリヒメとアジスキタカヒコネを祀っている。猿飛がそのシステム設計に当たった。伊吹がさかんに鳴り出している。伊吹とは金剛杼に似た音叉のようなものらしい。 関ヶ原はヒの動きで家康が勝利した。猿飛の子の佐助は豊臣残党の封印に走るため真田の組に入る。 佐助がしなければならないのは、伊勢と善光寺を三角につなぐもう一点を探索することである。それはなんと越前永平寺にあった。案の定、永平寺には道元が設えた承陽殿に神器がそろっていた(!)。しかし、その佐助をじわじわと追い詰めているものがある。半村良はこの見えない一派に失明者の一群をあてた。 その一群の本拠は各地にあるが、ひとつは信州鹿沢にある。眼病治癒の湯元として知られている。この一帯に海野・滋野・根津(彌津)・望月といった一族が栄え、白鳥明神や諸羽明神を信仰している。彌津には「ののう巫子」という巫女集団が伴った。諸羽明神は山科言継の山科の祖神でもある。山科には四宮河原に盲目の歌人・蝉丸も祀っている。 いま、この盲人の一派はオシラサマを奉じて新たな結束をかためているらしい。どうやらその背後には奥州伊達家がからんでいる。佐助は包囲を感じながら、徳川の世が確立しそこなえば、伊達が出てきてふたたび混乱がおこることを予感する。 こうして上巻の大詰めになっていく。すべては謎のままであるが、天海のシナリオが辛うじて奏功していることは、幕府が「禁中並公家諸法度」を発したことにもうかがえる。 下巻の最初の舞台は、天保の世に移る。盗賊が八百八町を徘徊している。巨盗の淀屋辰五郎、鼠小僧次郎吉、大塩平八郎の残党、そのほかの有象無象がそれぞれに百鬼夜行していた。 その一人である新吉は、これらの怪盗たちとは異なる動きをする。新吉は、渋谷宮益坂の井戸掘り職人の重吉に育てられた捨て子であるらしい。重吉は井戸掘りゆえか、江戸の地底や通路に詳しかった。新吉は宮益坂付近の御嶽神社の裏手の千代田稲荷に地底に入る通路があることを教えられ、その奥に女帝が君臨していることを知る。オシラサマだった。 新吉はやがて、幕政改革の旗手水野忠邦と淀屋辰五郎が裏で結託して、わざと義盗めいた鼠小僧をつくりあげ、大塩の騒乱まで演出していることが見えてくる。新吉はこの流れをヒの一族というものが食いとめようとしていることを知って、驚いた。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月11日
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【第988夜】 2004年6月9日道元『正法眼蔵』1952鴻盟社 道元の言葉は激しくて、澄んでいる。しかも一切同時現成なのである。たとえば高速でいて、雅量に富んでいる。たとえば刀身のようでいて、その刀身に月が映じ、さらにその切っ先の動きは悠久の山水の気運に応じたりもする。 言葉そのものが透体脱落して、観仏三昧を自在に往来しているのである。漢語が日本語になろうとして躍っているようにも感じる。こういう仏教哲学は他にはない。 しかし困ることがある。道元を読みはじめたら他のものを読む気がしなくなることだ。それほどいつも、汲めども尽きぬ含蓄が押し寄せてくる。湧いてくる。深いというよりも、言葉が多層多岐に重畳していて、ちょっとした見方で撥ね方が異なってくる。水墨には破墨と溌墨という技法があるのだが、それに近い。墨が墨を破り、墨が墨を撥ねつける。 だから、道元の読み方は二つしかない。よほどに向き合いたくてゆっくりと道元に入っていけるときに読むか、聖書を読むように傍らにおいて読むか。 ぼくも、その両方で読んできた。 聖書のように読むのには、昭和27年発行の鴻盟社の『本山版正法眼蔵』縮刷本を愛用した。本山版というのは95巻本をいう。これはソフトカバーも手にとりやすく、読みやすい。あれほどに大部の『正法眼蔵』が片手に入る。 こういうハンドリング感覚というものは妙なもので、『正法眼蔵』をコンサイスの辞書のように読んでいると、道元に入るというよりも、自分の前の何かに道元を移し変えているような気分になる。 ゆっくり読むときは、校注本や訳注本、さらに現代語の訳文がついている対訳本を見る。当初は岩波日本思想大系をベースキャンプにしてきたが、道元の言葉はあたかも文様のごとくにいかようにも読めるので、ついついテキストを変えることも多い。また道元には『永平広録』や『永平元禅師語録』も、さらに『正法眼蔵図随聞記』もあって、これも見逃せない。良寛が「一夜灯前 涙とまらず 湿し尽す永平古仏録」と感想を書いたのは、おそらく『道元禅師語録』である。そういうものも読む。 関連書も多い。だから、そのまま研究書や評釈本に進んでしまうこともあるが、それはそれで夢中になれるのだ。2年ほど前には何燕生の『道元と中国禅思想』(法蔵館)を読んだばかりだった。道元は中国で如浄に出会えて「眼横鼻直」を問われ「単伝正直」を知り、それなのに「空手還郷」をもって帰朝したのだが、どうも中国禅との関係が見えきらなかったので、読んでみた。また1年前には山内舜雄の大冊『道元禅と天台本覚法門』(大蔵出版)を読んだのだが、これは失望した。 こういうぐあいだから、道元を読むといってもいつも右往左往なのである。けれども、そこまでしてでも道元に振り回されることは、なによりの快感で、これは親鸞や日蓮ではそうはいかない。 向こうから道元が歩いてやってくることもある。 最近のことでは、かつて現代思潮社社主として澁澤龍彦とともにサド裁判などでならした石井恭二さんが、1990年代に入って現代文『正法眼蔵』の大翻訳を敢行し、その書評や対談を頼まれたのがきっかけで、道元を現代哲学のように読み返すことが続いていた。 そこへ、知人の平盛サヨ子が大谷哲夫『永平の風』(文芸社)のエディトリアル・ライティングを担当して、また道元に触れることになり、さらに大阪の講演会で一緒になった立松和平ともなぜか道元の話になって、さっそく『道元』(小学館)を贈ってきた。ある版元から「道元を書きませんか」とも言われている。 しかし、正直いって、とうてい書けそうもない。なにしろ40年にわたる恋人なのだ。 思い返すと、最初に道元を読んだのは学生時代のこと、森本和夫が早稲田での談話会で『正法眼蔵』の話をして刺激をうけたときのことだった。寺田透の校注で、たちまち「有時」の一節、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」に惹かれた。 道元にアランやハイデガーやベルグソンを凌駕する時間哲学があることを知ったのは、ある意味では道元にひそむ現代的な哲学性に入りやすくなったのではあったが、べつの意味では道元の禅者としての格闘を等閑視することになり、その後のぼくは、むしろ現代性をとっぱらって道元を読むほうに傾いた。 そういうときに大乗禅の師家である秋月龍さんがぼくの前にあらわれて、「君の空海論や大拙論は出色だ」と言い出しかとおもうまもなく、なにかにつけては呼び出されるようになるうちに、道元と西田幾多郎の読み方のお相手をさせられるようになった。ちょうど秋月さんが、そのころはまだ一般向けが珍しい『道元入門』(講談社現代新書)を書いたあとだったと憶う。 道元を読むと、そこに浸りたくなる。その峡谷から外に出たくなくなっていく。それを道元は望んでいないとも思えるが、その浸るところが何かも考えたくなる。 似たようなことを考えた人は当然いくらもいるようで、岩田慶治(第757夜)の『道元の見た宇宙』(青土社)のばあいは、 “flow” という一語をあげた。そのフローに浸るというか、そこを漂うというか、自身をフローさせつつ道元とともに生の世界像に一身を任せるのが道元を読むことだという主旨になっている。 寺田透の『透体脱落』(思潮社)は、道元ばかりを扱っているのではないけれど、やはり一冊の中核を道元が占めている。寺田は「僕に残す光それ自体であるやうな虚無、しかし意力の充満した美しい虚無のかんじにさそはれる」と書いた。寺田は道元が放った光に浸ったのであろう。 それが吉田一穂では、自身の脊髄を道元と合わせて極北の軸を自らに突き刺すことをもって道元に浸るのだから、これは苛烈な道元との合体である。 みんながみんな、道元を好きに読んできた。それが道元の「逆対応」という魅力であった。そこには禅のもつ魅力もむろん関与しているが、それだけではなく、道元の文才や言葉づかいや独自の用法もあずかっている。すでに井上ひさしが『道元の冒険』でもあきらかにしたことだ。 さて、このようなことを綴ってばかりでは、いつまでたっても『正法眼蔵』には入れないので、余談はこのへんにして、では、以下にはごくごく僅かな隙間から洩れ出ずる道元の裂帛の言葉を案内しておきたいとおもう。 もっとも、こんなことをするのは初めてで、やりはじめてみてすぐわかったのだが、もっと早くにこういうノートを何種類も作っておけばよかったと悔やむばかりなのである。 5年におよんだ入宋の日々を終えた道元は、安貞元年(1227)に帰国すると建仁寺に身を寄せて、『普勧坐禅儀』を書いた。坐禅の心得と作法の一書である。 しかしそれが、従来の仏教のいっさいの贅肉を殺ぐものであったため、天台本拠の延暦寺に対する誹謗非難とうけとられ、建仁寺も道元を追い出しにかかった。鎌倉以前の仏教は今日と同様に、贅肉だらけだったのだ。やむなく深草極楽寺の安養院に退いた道元は、「激揚の時をまつゆゑに、しばらく雲遊して先哲の風を聞く」という覚悟をするのだが、このとき30歳をこえたばかりの道元は、さすがに憤懣やるかたない。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月09日
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【第987夜】 2004年6月7日白川静『漢字の世界』1・21976平凡社東洋文庫 若き日の白川さんは読書をして一生を送り切りたいと決断した人である。その読書も「猶ほ浅きを嫌ふ」という覚悟で臨んだ。そして、それを成し遂げた。 その白川さんについて、ナムジュン・パイク(白南準)は「日本の人は白川静を読まなくてはダメよ」とぼくに言っていた。当時、世界のビデオアートの先頭を切っていたパイクは、『遊』創刊号にいちはやくエールをおくってくれた人である。 そのころ日本のアーティストはおろか、知識人でも白川静を読んでいる者など、ほとんどいなかった。白川静をもちだして話に乗ってきてくれたのは、ぼくの周辺では武田泰淳・中野美代子・杉浦康平くらいだったろうか。いま、ぼくの手元には、その武田泰淳の赤坂の書庫からせしめた『漢字』初版が残っている。赤鉛筆と青鉛筆の泰淳マーキングがついていて、懐かしい。 ナムジュン・パイクが白川静を読むべきだと言ったのが、さて、何年のことだったかは、はっきりしない。1976年に東洋文庫で『漢字の世界』1・2が刊行されたときのことだったのではないかと思うけれど、もしそうでないなら『遊』創刊直後のことで、『漢字』(岩波新書)と『金文の世界』(東洋文庫)がほぼ同時に刊行されたときだったろう。 だからこの前後に、白川静ブームはおきていてもよかったのだ。しかし、まったくそうはならなかった。いまでもよくおぼえているが、『遊』で白川さんへのインタヴュー取材と執筆をお願いしたときは、「編集者がくるのは何年ぶりかなあ」とぽつりと言っていた(下村寅太郎さんも沢田瑞穂さんも、同じことを言っていた)。 白川静は遅咲きだったといわれる。それがいまは、白川静なしで漢字文化を語ることなど考えられないものとなった。知の洞窟には遅咲きなんて、ないというべきなのである。その洞窟がいかに深く、その奥でいかに多様に分岐しているか、それだけが問われればいい。知は地脈と地層をこそつくられるべきなのだ。 それにしても『字統』が刊行されたときは熱いものが胸を走った。「ぼくの原稿はね、数万枚ほど、白鶴酒造にたまっているんだよ」と言っていた白川さんの言葉が、十数年ぶりに蘇ってきたからだ。白川さんはかつて先輩の新村出に「辞書というものは間口が狭くて奥が深いものがいい」と言われ、それを心掛けてきた人だ。その新村出の『広辞苑』はその後に改編が加えられて、とっくに間口ばかりが広いものになっている。白川さんは「あれは、新村先生とちょうど逆の辞書になりましたね」と笑う。 自慢じゃないが、ぼくは父がもっていた第二版の『広辞苑』を母に譲ってから、その後は一度も引いたことがない。 そんなことはともかく、白川静の「字書」(白川さんはこのようによぶ)の出現は、平凡社の英断のおかげだ。『字統』どころか、続いて『字訓』『字通』と連打して、さらに『白川静著作集』(平凡社)の刊行にまで踏み切った。あっぱれというしかない。きっと経営事情は大変だろうに、版元魂とでもいうものを感じる。これについては岩波よりも、断然に平凡社に軍配を上げたい。 というわけで、ぼくがひそかに耽読していた白川静の漢字論はいまでは多くの日本人の共有財となっている(その、はずだ)。それをいまさら解説するのも野暮だろう。そこで今夜は、ちょっと別の角度から白川世界を案内することにする。 ちなみに、ごく最近になって、白川さんは石牟礼道子さん(第985夜)の全集の推薦の言葉として「その詩魂は潮騒のようだ」を書いた。平成の露伴連環は白川静まで届いて動き出していたのである。 文章にはさまざまなスタイルやテイストがある。どの味がいいというものはない。果実や魚貝類の味と同じだ。 白川さんの文章はまことに濃密で、一語一節がふつうの文章の数行あるいは数十行にあたる。一頁を読めばときに一冊の濃縮を髣髴とさせる。これは漢字の研究者なのだから当たり前だろうと見えるかもしれないが、そんなことはない。漢字研究者たちの文章はいくらも読んできたが、白川さんのような文章は皆無であって、独自に白川スタイルをつくりあげた。このスタイルがどこに起因するかといえば、漢字の分類学に起因するのではなく、白川さんの思想に出所する。 その稠密広辺な思想を圧縮するのは容易ではないが、とりあえず骨太の特色だけ5つをまとめると、ざっとこういうことだろう。 第1には、神の杖が文字以前の動向を祓って、これを漢字にするにあたっては一線一画の組み立てに意味の巫祝を装わせたと見ている。これがすばらしい。漢字はその一字ずつ、一画ずつが神の依代づくりのプロセスであって、憑坐(よりまし)なのだ。 神巫季成のプロセスのすべてが漢字のそこかしこにあらわれているということは、漢字文化の発生はつねに一文字に発端し、一文字に回帰できるはずだということになる。少なくとも甲骨文や金文に原型をもつものは――。 たとえば「文」の一字は人間が創造した秩序や価値そのものをあらわしている。しかもそのルーツは×印を肌に刻み入れる文身(入墨)にあって、加入と聖化の儀礼になっていた。 文身は東アジア全域の沿海部にみられる習俗である。しかし、白川さんは古代中国がその「文」を人文の極致にまで高めて、ついに理念にまでしたことを追う。それが孔子の「斯文」であって、そこから「文明」の総体さえ派生したと見た。やがて「産」「顔」「彦」などの文字がつくられ、「文」が意識内面の高徳をもあらわすようになると、いずれは真の教養を示すようになった。「文化」とは、それをいう。こんな文化論を、白川静以外の誰が提案できただろうか。 第2に、文字はつねに融即をくりかえしていて、そのたびにこれを使う者たちの観念を形象していたと見る思想がある。漢字に担い手を想定したことだ。 たとえば、農民は農耕を開始するときにその神庫をひらいてこれを成員に分かつのだが、その使用に先立って虫除けをする。そのとき鼓声を用い、その振動が邪気を払う。それが「嘉」であって、この礼を発端に多様な農耕儀礼が組み立てられていく。 このように、白川さんは文字と職能と祭祀を貫いて見た。それは、あたかも漢字そのものを土に刺し、漢字そのものを手にして空中で振り、漢字を紙に折って精霊たちに食わせているようなものだ。ときには漢字を武器にして人を殺害することもある。まさにそのように、漢字を担い手の動作に連動させたのだ。こんな漢字学者はまったくいなかった。 第3には、白川さんの漢字論は、言霊と聖地をしっかり繋いで、これを切り離さないという思想をもっている。文字はトポグラフィックであって、万古の風景の記憶ともいうべきものであり、しかもそこにはつねに唸るような声がともなっている。 たとえば「音」は、いくたびも人を襲う自然の災異に抗してあらわれる神威の来訪をあらわす文字であるのだが、その音の出現する原風景を引きずっている。だから、この音が意味をもつときは「言」となり、その言を聞きとるものがいれば、それが「聖」なのである。そして、こうした来訪の気配を読むことが「望」だった。 第4に、白川さんは古代中国と古代日本をつねに同時に見据えてきた。これは内藤湖南・狩野直喜・石田幹之助といった先賢にはごく当然のことであったけれど、のちに廃れてしまった視野である。 廃れたには理由がある。よほど漢籍に通暁していなければならないのと、そのうえで日本の古典を愛していなければならない。これで次々にギブアップしていった。あとは中国文芸派と日本古典研究に四分五裂に散っていった。こんなことはギリシア語やラテン語を知らないでフランス思想の表皮にかぶれるようなもので、日本はかつての「東洋学によって日本を知る」という方法を失ったのである。 けれども、白川さんはごく初期に『詩経』と『万葉集』を同時に読むという読書計画をたててこのかた、この両眼視野の深化を研鑽し、今日にいたるまでその探求を続行させた。 これが稀有なのだ。なぜそのような読書計画をたてたかはあとで紹介するが、おかげで、ぼくなどは古代日本文化の微妙な本質を白川さんの古代中国文化論を精読することによって学ぶという方法を採らせてもらえることになった。 とくに講談社学術文庫のために書きおろした『中国古代の文化』と『中国古代の民俗』の一対はものすごい。これはぼくが何度となく読み耽った2冊で(若い仲間にあげたのを含めておそらく6組ほど入手した)、この2冊こそは東アジアに沈潜発露する観念技術の精髄をくまなく叙述構成しえているのではないかと思われる。 それどころか、これは中国文化論であって、それ以上に日本文化論なのだ。そのことに気づいているのはぼくばかりではないだろうが、ぼくの日本論が白川静の中国文化論にその骨法の肝腎を借りていることを知っている人は、少ないだろうとおもう。 第5に、白川さんは社会における豊饒と衰微を分けず、攻進と守勢を重ね、法律と芸能を分断しない。また、文字と身体を区別せず、脅威と安寧を別々に語らない。つまり文字文化や言語文化における生成と変節と死滅をつねにひとつながりに見る。 これは「正なるもの」と「負なるもの」を連続として見るという見方である。あるいは正と負の作用を鍵と鍵穴の関係として見る。この見方があの強靭で雄弁な思想を支えたのだった。たとえば、次のように――。 中国文化をおこしたのは六身の洪水神である。禹、台駘、女窩、共工、蚩尤、そして混淆神を数える。それぞれ、龍門山の水勢を制御し(禹)、汾水の太原を治め(台駘)、折れた大地の柱を補って冀州の溢流を防ぎ(女窩)、長江南方の古族陸終氏の祖となって人面朱髪戴角の異形としてふるまい(共工)、内蒙古に黄帝と戦って雲霧をおこして(蚩尤)、神話伝説にのこった。 洪水は古代社会の魔物である。暗幽の神である。それゆえ水禍のたびに多様な神が出没し、消長してきた。しかしそのなかで、ごくわずかの洪水神だけが王となった。あとは水没したか、殺された。 そして残った王のもとに、法と文字と芸能が制度化されたのだ。しかしこの王にも「負」があった。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月07日
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【第986夜】 2004年6月4日多田富雄『免疫の意味論』1993青土社 五木寛之が愉快なことを言った。ぼくは物心ついてから意識的に手を洗ったことがない。すると多田富雄が、それで免疫力がついたのかもしれませんね。 また五木寛之がこう言った、昔は鼻たれ小僧の青っ洟には緑膿菌などの雑菌がいて、それなりに免疫系を刺激していたわけでしょう。そのほうが花粉症などおこらなくてすんだんじゃないですか。多田富雄が笑いながら答えた、東南アジアで水を飲むとわれわれは下痢をしますが、向こうの人たちは平気です。これが免疫の本質です。でも、不潔だからいいということじゃないんです。 問題は「部品の病気」と「関係の病気」ということなのである。部分が治ったからといって、関係が治ったわけではない。多田富雄さんはつねに「関係の病気」を研究し、そのことを文章にも、能にも、詩にも、してきた。 今度は多田富雄が、こう言った。私は井上さんの『私家版日本語文法』を何度読んだかわかりません。そこで、あれに触発されて、「私家版免疫文法」というスライドまでつくったんです。免疫にも文法の時制のようなものがあるんです。 そうしたら井上ひさしが、こう言った。教室で一回さされると、当分さされることはない。これは免疫みたいなものですね。われわれは日々、自己と非自己をくりかえしてるんですね。それがどのようにスーパーシステムになるかというと、ひょっとするとそれは戯曲や小説を書くときのしくみと似ているかもしれませんね。 多田富雄が、こう言った。ふつうのシステムはいろいろな要素を組み立ててできるんです。スーパーシステムは、要素そのものまで創り出しながら自己組織化していくシステムのことです。まさにすぐれた文学と同じです。井上ひさしが、膝を打ってこう言った。形容詞ひとつで芝居は変わってしまいますからね。その形容詞ひとつが男と女の成り立ちにまで関係しているので驚きました。『生命の意味論』(新潮社)を読んでいたら、「人間は女がモトで、男は女があとから加工されてできあがった」と書いてあったでしょう。同性愛すら生命意味論なんですね。多田富雄が、微笑して言った。男はむりやり男になっているんですから、型通りにならない男はいくらでも出てくるんです。 多田さんには、スーパーシステム論という大胆な仮説がある。 われわれは遺伝情報とともに免疫情報や内分泌情報をもっているのだが、その両方を組み合わせていくと、どこかに要素を創発しているとしか思えないしくみがあることに気がついた。それがスーパーシステムの特色である。けれども、どうもその創発は女性(メス)が思いついたようなものなのだ。 このことについては、ぼくもすこぶる関心があったので、第414夜には『性の起源』を、第905夜には『聖杯と剣』を渉猟しておいた。しかし、多田さんは、そこをこんな名文句でまとめてみせた、「女は存在だが、男は現象にすぎない」と。 スーパーシステムでは自己も目的も曖昧なのである。自分でルールをつくってそれを生かしていくわけなのだ。 そこで中村桂子が、こんなふうに言った。スーパーシステムは自己創出系と言ってもいいでしょうね。ただし、最適解を求めているわけではない。生命には「最もよいという発想」がありませんからね。 多田富雄も同意する、生命は、きっと曖昧の原理のようなものを最初から含んでいたんでしょう。 中村桂子は、さらに続けた。しかも目的があってもそれぞれ別なものになっていて、それらを統合する役割をどこかがもっているわけではありませんからね。多田富雄も言った、生命にはオーケストラの指揮者はいないんです。けれども遺伝子のひとつずつはそれぞれ意味についても無意味についても何らかの機能をもっていて、自分で役割を終えて自殺する遺伝子もいれば、繋ぎ役や何の役にもたたないイントロンやエクソンもいるわけです。免疫系でもアナジーといって、反応をやめちゃう機能をもつこともあるんです。それらを含めて、生命には関係の相対において曖昧がありますね。 免疫系が何をしているかといえば、抗体抗原反応をおこしている。抗原は外部からやってくる病原菌やウィルスなどである。これが非自己にあたる。高分子のタンパク質や多糖類であることが多い。 われわれは、これに抵抗するためのしくみの担い手として抗体をつくる。これが自己である。非自己がなければ、自己もつくれない。 しかも抗体は胸腺のT細胞と骨髄のB細胞の2種類がなければ動かない。B細胞が抗体をつくるには、T細胞がなければならない。ということはT細胞からB細胞になんらかの指令が届いているはずで、そこには情報が関与しているはずである。この情報は免疫言語とでもいうべきもので、かつてはインターロイキン(ロイキンは白血球のこと)と、いまはサイトカイン(サイトは細胞、カインははたらくもの)とよばれる。 そのT細胞にもいろいろあって、免疫反応を上げるはたらきのあるヘルパーT細胞も、それを抑制するサプレッサーT細胞も、癌細胞などに直接に結合してその力を消去しようとするキラーT細胞もある。こうした免疫系の原型はメクラウナギなどの円口類からじょじょに形成されてきて、われわれにまで及んだ。 免疫系にはまだまだわからないことが多いのであるが、多田さんは、本書にこう書いた。「免疫というシステムは、先見性のない細胞群をまずつくりだし、その一揃いを温存することによって、逆に、未知のいかなるものが入ってきても対処しうる広い反応性を、すなわち先見性をつくりだしている」。 次に白洲正子が、こう挨拶をした。先だってはわざわざ病院までお見舞に来ていただいてありがとうございます。あのころはもう、夢うつつで、いろんなことをやったわよ。お能を舞ったりね。 多田富雄も応じた。私も死ぬときにどんなことをするかよく考えます。きっと「融」(とおる)の早舞なんてやるのかもしれません。白洲正子が応じた。だから死ぬなんてちっともこわくないのよ。死にそうなときって、なんだか岩山のようなものが見えたわね。落ちたらそれきりなんだけど、私は『弱法師』の出のところを舞ってるのね。夢の中のそのまたその自分の心の中でね。 多田富雄は深く頷きながら、こう言った。私は今年、顔面神経麻痺になりまして、顔面神経は7本に枝分かれしているのですが、その1本が味覚の神経になっていて、そのため味覚障害がおこるんです。顔面神経はカッコわるいのをがまんしていればすみますが、味覚が1カ月もないのは、きついですね。すると白洲正子が平然と言ってのけた。あら、私はドイツで子宮外妊娠で破裂しちゃったんだけど、手術の麻酔も失敗したらしく、1年ぐらい何を食べてもエーテルの味だったわよ。 多田富雄は気圧されて、こう言った。味覚というのは記憶です。白洲正子はこう言った、でも、『隅田川』の「親子とてなにやらん」というような、仮の世の記憶というのもあるみたいよね。 多田さんは少年のころから小鼓に親しんできた。新作能も書いている。『無明の井』では脳死と臓器移植を扱い、『望恨歌』では朝鮮人強制連行事件を扱った。 最近ではアインシュタインの特殊相対性理論をあしらった『一石仙人』がある。大倉正之助(第866夜)が舞台に上げた。ニューヨークで『無明の井』が上演されたときは絶賛され、ドクター・ノオとよばれた。 多田さんの能は、まさに「仮の世の記憶」を書いている。それは能舞台を借りた “生命の複式夢幻能” というものだった。 その多田さんが2001年5月に、旅先の金沢で脳梗塞の発作に襲われた。生死のさかいをさまよったのち、目覚めたときは右半身が完全に運動麻痺となり、声を失っていた。嚥下も困難で、水を飲んでも苦しい。 多田さんは一夜にして虫となったカフカの『変身』を思い出し、脳裏をダンテ『神曲』(第913夜)の「この門をくぐるもの、すべての希望を捨てよ」が過(よぎ)った。自殺も考えたという。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月04日
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【第985夜】 2004年6月2日石牟礼道子『はにかみの国』2002石風社 持ち重り。 石牟礼道子には、これまで発表された詩が30篇そこそこある。それらをまとめて、このほど『はにかみの国』という詩集が石風社から刊行された。なかに1974年に書かれた同名の『はにかみの国』という詩が入っている。 「ふるさとの海のよわいをかぞえる」と始まって、「インドの砂漠から匍匐(ほふく)してくる太陽よ」とよびかけ、「こころづけば はにかみの国の魂は去り 原始(はじめ)よりことば 知らざりき ことばは 黄泉(よもつ)へぐいと知らざりき」で終わる。 たいへんに響いてくる詩だ。 その響きがどこかに当たるところがある。さながら水琴窟の水滴を受ける壷のようなものとも、雨垂れが打つ樋とも、もっと巨きく、木霊がそこから戻ってくる見えない蒼穹ともいえるところに、響きがこつんと当たっているとも聞こえる。 きっとそこへ言葉が往って、復ってくるのであろう。そのどこかに響きがあるわけで、おそらくはこの詩からは言葉を当て返しているところの反響が、聞こえてくるのであろう。 こなれない胃液は天明の飢饉ゆづりだから ざくろよりかなしい息子をたべられない わかれのときにみえる 故郷の老婆たちの髪の色 くわえてここまでひきずってきた それが命の綱だった頭陀袋 これは『乞食』(こつじき)という詩だ。やはり言葉が前に進んでいって、どこかで戻ってくるときに、響きをたてている。 『涅槃』という詩のばあいは、「じぶんの愛をひき裂いてしまったので もうなんにも生まれ替わることはできません 垂れ下がってしまった片割れの方の魂で 空が透きとおる昏れ方に ひくひく ないていました」とあって、「ですから ほら 赤いけしの花が 青い道のりの奥で 一輪の幽玄を なよやかに 咲いているのです」と結ばれる。 この、最初の「ないていました」と「咲いているのです」のあいだに、涅槃図が出てきて、そこには仏さまも乗っていない白象が描かれている。「それからというものは ときどきあらわれる涅槃図に ひどくさびしそうな白象が立っていて 仏さまも乗せずに たったひとりでゆく というのです」という一節だ。 この詩は、ここで往還あるいは折り返しをおこしている。だから、ここに反響板があり水琴窟がある。響きはその涅槃図のなかの白象から聞こえてくるわけだった。 持ち重り。 石牟礼道子の詩にはその1篇ずつに「持ち重り」がある。石牟礼自身がこう書いている、「歳月というものは相当に持ち重りのするものだ」というふうに。 どうしてそんなことを言うのかということも、石牟礼の次の言葉から感じることができる。「詩を書いているなどといえばなにやら気恥かしい。心の生理が露わになるからだろうか。散文ではそうも思わないのが不思議である」。 詩と散文。とりあえず石牟礼はそういう比較をしているが、むろんこれは詩と散文の差異だけから出ている感想なのではない。そこで、こういう説明もする。 「書いては隠し、隠しして来たような気がする。やりそこなってばかり生きてきたからだと思う」。 石牟礼にとって詩は、「やりそこない」の例なのだ。実際にもたくさんの書き損じもあるのであろう。そして、僅か30篇あまりが櫛の隙間で梳かれてきたのであろう。そうであるから、それらの詩には持ち重りがあるのであろう。 しかし、やりそこなっているのは、石牟礼ではない。実は「はにかみの国」のほうなのだ。石牟礼はそれを気恥かしく見つめ、それでもそこから静かに蛮勇を絞り出してきた。少なくとも石牟礼を読んできた者には、そのことはずっと伝わっている。『苦海浄土』を読んだとき以来、その響きが聞こえなくなったことはない。 『苦海浄土』が講談社から出版されたのは1969年だった。原稿はその3年ほど前から渡辺京二が編集をしていた「熊本風土記」に、『海と山のあいだに』の表題で連載されていた。折口信夫を想わせる表題だ。 渡辺と石牟礼を結んだのは、同じく熊本県に生まれ育った谷川雁である。サークル村の運動を提唱していた。もし、埴谷雄高(第932夜)にも吉本隆明(第89夜)にも平岡正明(第771夜)にも欠けているものがあるとしたら、それは谷川雁にあるにちがいないと言われていたころの谷川は、石牟礼のような名もない主婦の精神と活動に、「かたち」と「いのち」の両方の息吹を与えていた。 そのころ、石牟礼は水俣に住む貧しい家の主婦だった。 渡辺によると、石牟礼はその家のなかの畳一枚を縦に半分切ったくらいの板敷きの出っぱりを“書斎”にして、年端もいかぬ文章好きの少女が人目を恥じらいながら書きつづけているというふうだったという。 けれども、『苦海浄土』の第7章にそのことが綴られているのだが、1968年に石牟礼の義務感が背中を押されるようにして水俣病対策市民会議を結成することになり、そのような市民運動のリーダーが書いた『苦海浄土』は、ノンフィクション作品としてはそれこそ反響が鳴り響いたのであったが、それを文学作品として躊躇なく称賛できる者が、当時の文壇や批評家に乏しかったものである。 名著『逝きし世の面影』の著者でもある渡辺は、そうした日本の文壇の反応に、早くから失望と批判の言葉を放っていた。 かくて石牟礼道子は、チッソ告発のジャンヌ・ダルクとして、水俣病問題を推進する自発リーダーとしてのみ、知られていった。上野英信が「石牟礼道子の凄さは、水俣病被害者を棄民として捉えたところだ」と評価したことも、石牟礼の社会派としての活動を浮き彫りにした。なにしろ『苦海浄土』は大宅壮一ノンフィクション賞の第1回受賞作となったのだ。 むろん、そうなのである。石牟礼や森崎和江の登場は、日本の抵抗運動の現代史にとっても特異なことだった。しかし、石牟礼道子の作品には、それにとどまらない光の粒のようなものがびっしり詰まっていた。そして、それが輝きながら「持ち重り」をもっていた。 石牟礼は『苦海浄土』について、「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」と書いている。 まさにそうなのだ。そう言われて、気がついた。ぼくも、いま思い出しても、『苦海浄土』は長塚節の『土』や住井すゑの『橋のない川』と似た作品のようには読まなかったのだ。そこから説経節や浄瑠璃に近い調べを聞いたのだった。が、そのときはそれが幻聴のように思えた。 それが幻聴ではなかったことは、『十六夜橋』(径書房・ちくま文庫)を読んだときにわかった。この作品は、不知火の海辺の土木事業家の一家と、そこにまつわる3代にわたる女性たちや石工や船頭たちに流れ去った出来事が夢を見るように描かれていて、むしろ幻聴そのものを主題にしているかにも見えるのだが、読めばわかるように、かえってそこにずっしりとした「持ち重り」が輝いていた。それが『苦海浄土』以上に鮮明になっている。 ぼくは驚いて、こういう文学は少ないと思ったものである。少なくとも最近には、ない。原民喜の『夏の花』や北条民雄の『いのちの初夜』などをふと思い出したが、それとはちがう。 やがて『あやとりの記』(福音館書店)や『おえん遊行』(筑摩書房)を戻って読んで、むしろ伊勢や建礼門院右京太夫の和歌に近いものを感じた。 しかし、石牟礼は恋を綴っているわけではない。なんというのか、「そこの浄化」とでもいうべきものを綴っている。 その「そこ」とは、有明海や不知火にまつわり、そこにつながるものたちの「そこ」であり、「浄化」は、浄土すら想定できなかったものたちに鎮魂をこめて呟く祈りのような調べのことである。 ぼくは、これらのことが水俣病にかかわったことからすべて出所しているとは思えなかった。おそらくは、それ以前になんらかの「生と死のあいだ」や「海と山のあいだ」の原記憶のようなものがあって、そこへ弱法師や小栗判官ではないが“業病”のような災禍が覆ってきて、そこを浄化するための詩魂が浮き身のように漂泊して滲み出てきたというふうに、見えた。 ……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年06月02日
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【第984夜】 2004年5月31日クロード・ロワ『バルテュス』1997河出書房新社Claude Roy : BALTHUS 1996與謝野文子 訳 今夜は、バルテュスがアウグスティヌスの使徒であり、リルケとジャコメッティとマルローに救われていたこと、そこにはポーランドとイタリアと日本がたえず銀色に光っていたこと、そしてフェリーニのようにバルテュスを見ることがきっと気持ちのいいだろうことなどを、伝えておきたい。 ついでにバルテュスを借りて、自称アーティストたちや他称知識人たちには、絵を見る力が極端に落魄しつつあることを告げてもおきたい。 その前に、最初にお断りしておかなければならないことがある。第968夜に、この「千夜千冊」で兄弟姉妹を扱ったのは大佛次郎・野尻抱影の兄弟一組だけだと書いたのだが、今夜で2組目になった。バルテュスの兄がピエール・クロソウスキー(第395夜)であるからだ。 そのことについて、さっそく本題のひとつに入ることにするが、クロソウスキーとバルテュスが兄弟であることは、多くの知識人たちのバルテュスを見る目を狂わせた。バルテュスが“危険な少女”を描きつづけたことをクロソウスキーとの関係で“解読”しすぎたのだ。加うるに、クロソウスキーがドミニコ会修道士であったこと、かの『ロベルトは今夜』があまりにエロティックであったこと、にもかかわらずその後、イスラムに改宗したことなどを、計算に入れすぎた。 たしかにバルテュスは、内なるクロソウスキー一族に向いた言い尽くせぬ血の縁を感じていたようだ。けれども、そこに炎上する青い火はクロソウスキーが表現した文学とバルテュスの絵の比較をしたところで、何も見えてはこない。そのことも最初に断っておく。 そもそもバルテュスは幾多の誤解に包まれて、有名になりすぎた画家だった。 最初に誤解をしたのはアンドレ・ブルトンを筆頭とするシュルレアリストたちであったけれど(バルテュスはシュルレアリスムをまったく認めていなかった)、その後も数々の批評家や美術家やファンたちが、バルテュスを祭り上げるときでさえ、バルテュスを誤解した。 だいたいバルテュスは西洋近代芸術のいっさいを拒否しているはずなのに(おそらくバルテュスの本質は中世教会の中でおこっていた出来事にある)、多くの者たちがバルテュスを近代芸術の革命や病理や心理と結びつけすぎた。 たとえば、その絵の裏側にはニーチェやバタイユがいるとか、ピカソとちょうど反対側にいる天才だとか、ルイス・キャロルのアリスをモディリアニとシャガールに並ぶ現代芸術にした貢献者だとか、そんな訳知りが連打されてきた。 けれども、実際にはそんなものではなかったのだ。バルテュスはニーチェに一度も関心をもたなかったし、破壊を肯定するバタイユとは論争してその考え方を退けた。ピカソの作品も1920年代の古典主義期しか認めず(とくに薔薇の時代は嫌いだった)、モディリアニは退屈すぎて見るに堪えないと思っていた。おまけに、バルテュスが描く少女は茶目っ気や悪戯の好きなアリスなどではなく、真剣そのものの天使であって、あまりに真剣なのでその姿のすべてをバルテュスに晒したのである。 バルテュスに「病んだ精神身体」を想定しすぎたことも、おせっかいなことだった。 なるほど、バルテュスの劇的な瞬間を凍結したような絵からは、やすやすと「不健全」や「不安定」や「不吉」をいくらでも引っ張り出すことができそうであるが、しかし、それはバルテュスが宗教画家の本質をもっているからで、その絵には、信仰へ旅立とうとしている者たちの初期の不穏な心情が描かれているからなのだ。 それにバルテュスは自分の生身の身体についても、病理を好むようなところはまったくなかった。少年バルテュスはサッカー少年であって(それもチーム一の人気者で)、自分の体の切れを細部にわたって誇った青年であり、その姿態によって女たちの気を惹く努力を惜しまなかった人物なのだ。 ということは、バルテュスについての誤解はことごとく、バルテュスを見る者の異端権威主義と男性俗物主義にもとづいていたということなのである。これは男たちが心せねばならないことである。 最近おもうことは、バルテュスの本質を見抜いているのは、むしろ女性たちだということだ。 ぼくの周辺にはのっけからバルテュスのコートをさっと羽織ってしまったという女性が何人もいる。それがまた、よく似合っている。松岡事務所の仁科玲子はPCのスクリーンセーバーにしばらく『夢見るテレーズ』を入れっぱなしだったし、京都「伊万里」の山田峰子はバルテュスなしでは大人少女でいられない。二人ともバルテュスについての理屈など一言もいわないが(他の芸術家との比較もしようとしない)、それなのにいつもバルテュスの絵の中からひょいと出てくる。 なにしろバルテュスは魚座で、上昇宮が山羊座なのである(これはバルテュスが大事にしていた暗合だ)。こういうことは女性たちのほうがピンとくるようだ。 けれどもその一方で、こういう女性たちの半分以上が、たとえばエゴン・シーレ(第702夜)も好きだということも告げておかなくてはならない。このへんはいささか怪しい。こういう拙速は女性にありがちなことなのだが、これはよくない。何かを勘違いしている。シーレとバルテュスはまったく異なっている。 そんなことはシーレが好きだったたくさんの自画像とバルテュスの少なめの自画像を見れば、すぐわかる(ぼくは702夜ではシーレのために「ウィーン的即身成仏」とか「皮膚自我」という言葉を使っておいた)。これに対して、バルテュスは外装的な自分と絵にあらわれる内装的な自己とをきっぱり分けている。内なる自己だけがバルテュスの絵なのである。このことは、女性たちがいささか心したほうがいいことではあるまいか。 本書は、数あるバルテュスについての本のなかで、最もバルテュス的である。猫的だという意味でそう言ったのだが、なぜそのようになりえたかというと、クロード・ロワが猫的であって、猫はバルテュス的であるからだ。 そのようにバルテュスを記述することは、それまで誰もできなかった。ざっと上に述べておいたように、さまざまな芸術的異端と対比しようとしたことが、バルテュスに対する目を曇らせたのである。本書のほかには、コスタンツォ・コンスタンティーニ(第142夜に案内したフェリーニ本の編者)の『バルテュスとの対話』(白水社)が、バルテュスの弁明を証かしていて読ませるが(この本はよく準備されたインタヴュー集になっている)、これは二人がともにポーランドを祖先の原郷としていたからだった。 ついでに言っておくと、ポーランド性はバルテュスの「彼方にひそむ幻想」を長らくつくっていた。パリに生まれ、西ヨーロッパ人としての人生を送ったにもかかわらず、バルテュスはつねに出自のポーランドを想い、その奥にひそむゲルマンやケルトの遺伝的記憶を偲んでいた。そういった自分の出自についての調査さえ依頼した。 バルテュスがクロソウスキー・ド・ローラ伯爵の血をもっていることを誇ったわけではない。ヴィリエ・ド・リラダン(第953夜)はその伯爵の血にこそ執着を示したけれど、バルテュスはそのずっと奥にあるものだけを覗こうとした。あの最後まで覗き見をしたかった独特の目で--。 もっとも、アメリカを除く外国に行くことをあれほど躊らわなかったバルテュスが(杉浦康平同様に、バルテュスは最後までアメリカを認めようとしなかった。ついでに言うと、鈴木清順もアメリカを決して行こうとしない)、ポーランドにはついに一度も行かなかったことについては、ぼくはその「彼方にひそむ幻想」が深い負の色合いを帯びていたからだろうことを感ずる。 ともかくも、猫的であることとポーランド的であること、このことが自分を打ち明けるのが億劫だったはずのバルテュスに、やっと光をあてたのだ。 バルテュスが学んだ絵画作品は数多いが(バルテュスは中世以降の絵画の模写をずっとしつづけていた)、なかでもピエロ・デッラ・フランチェスカとニコラ・プッサンとギュスターヴ・クールベから受けた影響は絶対的とでもいうほどのものだった。 バルテュスはしばしば自分が宗教画家であることを訴えているのだが(それにもかかわらず、知識人や批評家はその発言がアイロニーだと思いこんだのだが)、この3人に対する敬意をみれば、バルテュスが神学的絵画性あるいは絵画的神学性とずっと一緒にいたことはあきらかである。 このことから推察できるのは、バルテュスの少女はジョットであってフランチェスカであり、その姿態はクールベの『眠り』であったということだ。 しかし、バルテュスはつねに目前のものを愛していたから(少女アンナや数々の友人やシャッスィーの風景)、わざわざ宗教画に題材を求めるなどということはしなかった。中世の教会はバルテュスのアトリエでもよかったのである。それゆえバルテュスの絵に性器や下着がまるみえの少女がそこに描かれていたからといって、また、その少女が窓の向こうを見ている後ろ向きであるからといって、それが裸身の天使でないとはいえないのである。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年05月31日
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【第983夜】 2004年5月28日幸田露伴『連環記』1927・1991岩波文庫 【香】いよいよ露伴ですね。待ってました。第247夜では露伴の面影だけでしたから、ついに本物登場。【玄】うん、やっとね。千夜が終わらないうちに、お出ましいただいておかないとね(笑)。【香】松岡さんが青年時代に買った個人全集が、天心全集・湖南全集・熊楠全集、そして露伴全集ですよね。【玄】それと折口信夫と寺田寅彦と三枝博音かな。【香】今夜はいろいろの露伴を、ぜひともかいつまんでください。私は露伴が国事よりも家事を大きく見ているところが好きなんです。【玄】その第247夜に紹介した『蝸牛庵訪問記』は、のちに岩波の社長になった小林勇さんが書いたものだけれど、なかなか滋味溢れるというのか、露伴の滋味が洩れるというのか(笑)、そういうものがあったね。だいたい小林勇という人は中谷宇吉郎と絵画二人展をやったり、料理にうるさかったり、玩人喪徳というけれど、そういう人だったんだろうね。文章もヘタクソ。【香】出版人としては、ちょっと変わってますよね。【玄】だからこそ露伴のような変人を書けた(笑)。だって露伴の昭和時代を20年間にわたって綴ったんだから。50代以降の露伴なんてとても尋常じゃつきあえない。それは幸田文(第44夜)さんのものを読めば、すぐわかる。【香】やっぱり変人? 家事にも異常にきびしかったんですよね。松岡さんは、晩年の露伴はカラスミとかタタミイワシみたいだと書いてましたね。【玄】はっはは、コゴミの醤油漬とかヌタの白味噌あえとかね(笑)。ま、あんな家に育って、あんなに教養があれば、そうなりますよ。湯島の聖堂に通いづめだものね。【香】あんな家というと? 奥様が冷たいとか、文さんが娘にいるとか。【玄】その前から変(笑)。お父さんが幕臣でしょう。表お坊主だった。表お坊主というのは、式部職だね。そこに8人が生まれて、みんな変だった。上のお兄さんが海軍大尉の探検家で千島を調査していたし、弟は日本史狂いの東京商科大学教授(いまの一橋)、妹は有名な幸田延(のぶ)で、日本の最初のピアニストだよね。たしかケーベル先生に習っている。その下の妹の幸はヴァイオリニスト。みんな、当時でいえばハイカラの先頭を走っている。幸田一家のあとからハイカラがくっついてきたという感じだよね。【香】そうか、ハイカラのほうだったんですね。【玄】露伴だって、逓信省の電信修技士の学校だからね。ニッカウィスキーで有名な北海道余市に電信技師として赴任している。露伴の電気感覚は誰もふれないけれど、実は賢治を大きく先行しています。でも、露伴は少年のころから漢籍が大好きで、ほとんど毎晩にわたって埋没しているようなものだったから、その漢文ベースが厚い。あれほどに漢籍に通じていたのは、富岡鉄斎と幸田露伴くらいなものでしょう。その二人とも、目がおかしかったことに、ぼくは注目してるんだけどね。【香】目ですか。【玄】鉄斎は例のごときの斜視だし、露伴は5歳のころに半眼を悪くしているからね。隻眼の仙人のようなもの。こういった目の疾患や特徴は大事ですよ。ラフカディオ・ハーンだってそうでしょう。半分が見えていない。杉浦康平がひどい乱視であることは、杉浦さんの発想の原点になっているしね。だってお月さんが7つも9つも見えるんだものね。そうすると、かえって精緻なデザインになる。五体健康なんてろくなもんじゃない(笑)。露伴もどこかで、「瞑目枯座、心ひそかに瞽者を分とす」と書いていますね。【香】露伴って慶応3年の生まれで、子規や漱石と同じ歳ですよね。明治大正昭和をそのまま時代順に見ていたことになりますね。【玄】紅葉、熊楠、宮武外骨、斎藤緑雨とも同じだね。それから伊東忠太やフランク・ロイド・ライトとも同い歳。凄い時代だよ。坪内裕三さんに『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』(マガジンハウス)という坪内流のおもしろい交差録がありますね。【香】やっぱり関係ありますか。【玄】そりゃ、あるよ。唐木順三さん(第85夜)がおもしろいことを言っていて、明治20年代生まれまでの日本人は本気の教養があったけれど、それ以降の世代はむりやり修養を必要としたというんだね。つまり、おベンキョーしないと何もわからなくなった。浄瑠璃も常磐津も女(むすめ)義太夫も、ロダンもセザンヌも進化論も。【香】それって致命的なことですか。【玄】文化が水や風で見えているのと、外まわりでベンキョーするのでは、だいぶん違う。漱石が漢詩を書けたのは、そういう水がまだ近所にも流れていたからです。【香】だって、私たちから見ると、松岡さんも日本文化が水や肌でわかっている感じがするのに。【玄】まったく比較になりません。(笑)それにしても、いまどき露伴を読んでいる人は少ないだろうね。孤絶無援かもしれない。どういうふうに薦めようかなあ。【香】私は松岡さんに、露伴を読まなくて何が日本文学だと言われて読んだんですけれど、最初は読めなかった。【玄】何、読んだんだっけ?【香】『五重塔』。【玄】えっ、あれが読めなかった?【香】漢文的というのか、漢語的というのか。どういう読み方で納得していいかも、どういうスピードをつけるのかも、わからなかったですね。やっぱり水が読めなかった。【玄】文章がねえ。【香】文章も文体も。それがわからないと、なぜああいうことを書くかということも見えてこないんですね。それで2年くらいおいておいたら、今度は松岡さんが『天うつ浪』がいいよと言われたから、読んでみたところ、今度はすうっと入っていけた。【玄】ふーん、そうか。ぼくは高校時代に『五重塔』を読んだけど、まったく抵抗がなかったねえ。何でだろう?【香】だから、私たちと松岡さんとでも、時代はかなり違うんですよ。それに松岡さんの京都の家だって、花鳥風月や有職故実があったわけですから。【玄】それって歳の話だよ(笑)。露伴は時代が前に進むことなんて関心がなかったし、当初のものは当初に屹立しているべきだと考えていたんだろうね。『五重塔』を映画にしたいと言われたとき、何度も断って、粋(すい)なこと言ってるんだね。あれは着物に仕立てたんだから、法被や襦袢にしてもらっちゃ困るというんだ。こういうことはナマ半可じゃ言えないね。【香】ところが、われわれは『五重塔』の「のっそり十兵衛」は法被や半纏を着た職人に見えますよね。【玄】そう、そこなんだね。露伴が凄いところと、最近の読者にわかりにくいのは。【香】なぜ、露伴はあんなに職人世界を描いたんですか。【玄】淡島寒月に薦められて西鶴を読んだのが、それまでの漢文世界と交じったんだろうね。それで、職人気質というより、筆や鑿(のみ)や歌が向かうところを書いたわけだ。そういうものが向かう境涯だね。その行方。【香】西鶴と出会って何かがおこった。『好色五人女』の筆写までしていますよね。【玄】おおざっぱにいうと、露伴には3回ほどにわたる変換と転位というか、重心をぐぐっとずらしたところが、あるんだね。その一つが西鶴との出会いですよ。これで何がおこったかというと、和漢の境界がなくなった。文体も完璧な和漢混淆体。それがしだいに磨きがかかっていくと、露伴も書くのがおもしろくてしょうがなかったんだろうね。それは『五重塔』より、西行について書いた『二日物語』に絶頂していますよ。それがまだ31歳くらいだからね。【香】やっぱり文体を磨いたんですか。【玄】磨いたなんてもんじゃないね。文章全部、一言一句が磨き粉みたいなもの(笑)。露伴はずっと「文章」と「言語」はちがうと見ていた人なんです。……楽天ブックスで購入全文はこちら。
2004年05月28日
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【第982夜】 2004年5月26日荒俣宏『世界大博物図鑑』全5巻1987~1991平凡社 いつ電話をしても、平凡社のどこかで寝てると思いますという返事だった。それが、この3日ほどは奥の机で寝てましたね、この1週間は風呂にも入れなかったんじゃないですか、さあ、ビルのどこかにいるとは思うんですが、この1カ月は誰も姿を見ていません、というふうに怪しい中継ぎになってきた。 もっと怪しいのは、これはどうみても異常事態だと思うのに、誰も荒俣宏に忍びよっている恐ろしい危機や悲惨な危険をまったく訴えないことだ。それどころか、そういうことは荒俣宏においてはごく当然なことなので、そんなことにいちいちかかわりたくない、心配したくないという投げやりな反応なのである。 これは立派だと思った。感心した。ついに荒俣宏は、常軌を逸することを周囲には常軌だと悟らせることに成功したわけだ。 快挙なのである。荒俣宏は大博物百科全書生物篇を一人で書き抜いたのだ。本書のカバーや箱書や本の背を見るといい。これは「荒俣宏著」であって、「荒俣宏監修」でも「編纂荒俣宏」でもない。 こんなことは、植物に絞った牧野富太郎(第171夜参照)このかた、誰もなしとげたことがなかったことだ。偉業のなかの偉業だ。平凡社という出版社の刊行物からしても、このあとこれに匹敵したのは漢字の白川静ただ一人。まして博物学全般をめぐって荒俣宏の博識と調査力と執念に次ぐ“新人”が登場するとは、当分おもえない。 だから1987年の初夏のこと、第1回配本の第4巻「鳥類」が店頭発売されたときは、「おお、ついにやったか」というどよめきがぼく自身のなかですら轟いた。 六本木の青山ブックセンターだった。さっそく手にして、帰りのカフェ「カルチェ」で眺めた(この店はいまはないが、当時のぼくは六本木で本を買ったら、必ずここに腰を下ろしたものだ。なんといってもカルチェなのだ)。 おお、おお、やっている。図版がすばらしく豊富で、名画名品がずらりと揃っている。鳥類1000種がすべて歴史と国籍を跨いだカラー図版で登場するだけでも、ありえなかったことなのだ。が、これは荒俣ならばこそ、そして荒俣だけにやれることだった。 本文の組み立ても、書きっぷりも、さすがにうまい。ナチュラル・ヒストリーならではの自由度と荒俣宏ならではの知識の屈託が心地よく婚姻している。1項目の構成は「名の由来」「博物誌」の基本項目を中心に、これに随時、「発見史」「絶滅記録」「家畜史」「美術」「神話・伝説」「民話・伝承」「ことわざ・成句」「天気予知」「星座」「文学」の順で項目が追加されている。 この執筆構成の部立(ぶだて)がすでに、ナチュラル・ヒストリーとして自在奔放な新機軸になっている。執筆枚数は「鳥類」1巻だけで、400字詰で1300枚におよんだという。 そもそもナチュラル・ヒストリーという領域は、博物全般をめざしてスタートしながらも、その尻尾を近代生物学のほうから齧られ、その頭部を科学一般の常識から寄り詰められて、ナチュラル・ヒストリー本来の「存在をふやす学」という目的を逸したかにみえた半死半生領域だったのである。いってみれば、博物学自体が絶滅に瀕した珍獣のようなものだったのだ。 それを荒俣宏が完全復活させた。環境保護をした。つまり「存在をふやす学」としての博物学復古計画が企てられ、足掛け8年をもってその生物篇が奇蹟的に再生されたのだ。荒俣君本人も書いていることだけれど、「これは、科学でもなければ文学でもない。その両方が分化する以前の知の体系なのである」。 この「分化以前の知の体系」というところがミソで、そうでないと、博物学はどんどん解体されて細分化された学問の片隅に押しやられていくばかりになっていく。そんなことだけが正当化されるとどうなるかというと、すべての曖昧なものが切り捨てられ、中間領域がなくなる。証拠のあるものだけが記録に許されるということになる。 もっと問題なのは、分化以前の観点がなくなっていくことである。そこにはもはやプリニウスもパラケルススもダ・ヴィンチもキルヒャーもフラッドもいなくなる。いや、人間の歴史文化が生んだ想像力の歴史というものが忘れ去られてしまう。 そこで、荒俣宏が立ち上がったのだ。いや、立ち上がると大きすぎてまわりの者が困るから、平凡社で寝起きすることにした。 それで荒俣宏が何をしたかといえば、まさに現在の科学から置き去りにされた“死んだ項目”をついに復興させたのだ。また、記述のなかで人間の歴史文化的想像力の痕跡の復活に挑んだのである。 こうしてたとえば、この博物図鑑「鳥類」には、ワシタカ類とキジ類のあいだに、なんとガルーダ、グリフォン、サンダーバード、そして大鵬が登録されたのだ。のみならずキジ類には、ウズラ、シャコ、ニワトリ、キジ、ヤマドリ、セイラン、次が鳳凰で、そこからクジャク、シチメンチョウ、ホロホロチョウ、ツメバケイと進んで、ここでフェニックス(不死鳥)がエントリーできたのだ。 こんな博物図鑑はなかった。まさに人間の想像力と表現力は、細大漏らさず救済されたのである。「存在がふえる博物学」が、これでなんとか瀕死の重症から立ち直ったのである。 最終配本されたのは、1991年8月にふさわしい第1巻「蟲類」だった。タイトルからして感動させた。虫類ではなく、蟲類! そもそも虫とは何かといえば、中国では獣・鳥・魚以外のすべての動物のことなのである。虫偏の文字なら、全部が全部、虫なのだ。たとえばカニ(蟹)、エビ(蝦)、クモ(蛛)、コウモリ(蝙蝠)、カエル(蛙)、ヘビ(蛇)、はてはニジ(虹)まで‥‥。そこでたくさんの諸々雑多の虫を一緒くたにした「蟲」という文字がつかわれた。 江戸の最大最強の本格的な虫狂いであった栗本丹洲に『千蟲譜』という驚くべき虫尽くしの本がある。漢字で集めた虫の感字集の趣きさえ濃厚な、異常な書である。西欧的な意味ではナチュラル・ヒストリーとはいいにくい。ところが荒俣宏はこれに倣って、虫偏の動物をことごとく大博物図鑑に収めてしまったのだ。 ぼくはこの方針に快哉をおくりたい。さらに痛快なのは、この巻の冒頭に「腹の虫」をもってきたことだ。 むろんマジメなというか、困った扁形動物門条虫類もちゃんと扱っている。ギョウチュウ、カイチュウ、サナダムシなどだ(第244夜の藤田紘一郎『笑うカイチュウ』を参照してほしい)。 これはアリストテレスにも悩ましかった蟲で、アリストテレスはとりあえず「平たい虫、丸い虫、アスカリス」に分けた。アスカリスはいまでいうギョウチュウである。いわゆる体内寄生虫。かれらはすでに原始古代から人体を巣くって活躍していたのである。馬王堆の死骸からも住血吸虫や条虫の卵の化石が見つかっている。 しかし荒俣宏は、これらにとどまることなく、中国民間信仰に有名な「三尸九虫」(さんしきゅうちゅう)もとりあげ、このタオイズムに満ちた怪しい12匹の虫たちがどんな民俗信仰や儀式をもたらしたかに言及し、三尸九虫なき庚申信仰などありえないことをちゃんと付け加えた。 のみならず、「蠱毒」にふれて、古代中国で最も恐るべき妖術のひとつであった蠱術をも紹介する。虫遣いというのは、あれでなかなか奥が広いのだ。そこにもしっかり入れている。 こんな博物図鑑は誰もつくれなかった。たいしたものである。なお蟲術については「松岡正剛編集セカイ読本」の『分母の消息』第3分冊『景色と景気』の第6章「蠱術と姫君」も参照されたい。 それにしても『世界大博物図鑑』の刊行は、日本1980年代最大の事件のひとつに数えられる快挙だった。 この快挙の意味を味わうには、やはりこの全5巻を手元に備えていなければならない。そして、気持ちのいい昼下がりや気分が塞いだ夕刻にでもゆっくり眺め、好きなところを啄んでみることだ。 たとえば、アゲハチョウの項目をあけてみると、この世のものとはおもえぬ美しい図版にいくつもお目にかかれる。また、この蝶を各民族がどのように見ていたかがわかる。ローマ人はパピリオとみなし、イギリ人はツバメの尾をそこに見て、中国人は鳳凰の変形を感じて鳳蝶と名付けた。それが日本では翅を上げているほうに特徴を見て、揚羽蝶と和称した。そもそも荘子の「胡蝶の夢」からして、あれはアゲハチョウなのである(第726夜)。 疑問が解けることも少なくない。ぼくは姫路にあった「お菊神社」が播州皿屋敷のお菊を祀っていることまではよかったのだが、そこにお菊は霊虫となって祀られた意味がわからなかった。が、この博物図鑑でやっと、お菊が後ろ手に柱に縛られている姿がアゲハチョウの蛹に見立てられたと知って、驚いた。 それにもうひとつ、『日本書紀』皇極紀にある常世虫(常世神)の記事にはかねてから関心はあったけれど、それがアゲハチョウの幼虫であることも、この図鑑解説で知ったのである。 いったい、そんなことを知ってどうなるかと思うバカモノたちがいるだろうとおもうので、一発、ビンタをくらわせておく。それなら、では聞くが、いったい「知る」とは何を知ることなのか。それを答えなさい。 どこそこのフランスパンは皮がおいしいということ、助六と揚巻がどうなるかということ、宇宙が膨張しているってどういうことかということ、アゲハチョウを見て荘子が胡蝶の夢を思うことは、それぞれ知識である。しかも、これの知の成り立ちには、どこにもちがいはない。 問題は、どこそこのフランスパンの皮がおいしいと感じたということは、結局は何軒かのパン屋を比較したからだろうけれど、では、それをどこまで進むか、どこで止めるかということなのだ。 知ることをバカにしてはいけません。「ぼくは知識よりも自分で体験したことだけを重視してましてね」などと嘯いて得意がっている連中がよくいるけれど、こういう連中にかぎって他人の意見を理解しようとしないことが多い。こういう御仁たちは、知というものが共有空間を動いているものだということが、わかっていないのである。…… 楽天ブックスで購入 全文はこちら。
2004年05月26日
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【第981夜】 2004年5月24日杉浦康平『かたち誕生』1997NHK出版 杉浦さんが‥唐草文様を見ている。そこからエジプト、ギリシア、東アジア、中国、日本をまたぐユーラシア植物帯のうねりが立ち上がる。パルメットから忍冬唐草へ。しかしその文様をもっとよく見ていると、植物たちは動きだし、そこに渦が見えてくる。 日本の正月では、この唐草文様を覆って獅子舞が踊っている。中国では獅子だけではなく、龍も亀も、鳥も魚も、その体に渦を纏って世界の始原や変容にかかわっている。杉浦さんは‥目を転じ、その渦がときにバティック(更紗)となって人体を覆い、古伊万里の章魚唐草となって大器となり、ジャワ動く影絵となって夢に入りこむことを、抽き出してくる。 こうして杉浦さんに‥よって、どの渦にも、天の渦・地の渦が、水の渦・火の渦が、気の渦・息の渦が、躍動していくことになる。 これらの渦を総じていくと、カルパヴリクシャが待っている。樹木が吐く息のことである。けれども杉浦さんが‥見るカルパヴリクシャハは、地表を動き、村を渦巻き、空中の雷や鳥の旋回や風の乱流と重ね合わさっていく。また、そのカルパヴリクシャは体の内側に入ってDNAから三半規管におよぶあらゆる捩れとも、なっていく。 バウハウス以来の多くのデザイン論というものは、渦の形態を比較するだけだった。大半の文化人類学は渦のパターンが儀式や会話や物語のどこに出てくるかを調べるだけだった。 ところが杉浦さんの‥目は、何も言わない図像や線画に想像力による動きを与えることから、その研究を開始する。そうなのだ。杉浦さん‥その人がデザイン論の主語であり、杉浦さん‥その人が新たな文化人類学の対象になっていいほどなのだ。 本書のタイトルになっている「かたち」を、杉浦さんは‥「かた」と「ち」に分けた。 「かた」は形代や形式のカタ(形)、象形や気象のカタ(象)、母型や原型や字型のカタ(型)などを孕んでいる言葉で、「ち」はイノチ(命)やチカラ(力)やミヅチ(蛟・蜃)のチ。どちらがなくても「かたち」は誕生しない。 では、どのように「かた」と「ち」は出会ってきたか。杉浦さんは‥祈りのなかに、文字の発生文化のなかに、葬祭のなかに、その出会いを拾い、そのすべてをひとつずつ照応させて、そこにひそむルールと、そこにかかわる人々のロールと、そこでつかわれたツールの、さしずめ“ルル3条”をつなげた回廊を次々につくっていった。 杉浦図像学あるいは杉浦観相学とは、このことだ。 久々に杉浦さんについて書いている。もっとも、今夜はできるだけカジュアルに書きたい気分になっている。 池袋の喫茶店「ろば」の2階の木造事務所に、ちっぽけな工作舎を開いたころ、ぼくは杉浦さんの‥すべての言動に感動しまくっていた。そのことを書いておく。 そのころ杉浦さんは‥小さな計算尺で版下指定をしていた。まるで数理学者のようだった。指定はスタビロの色鉛筆の深紅と臙脂。字は小さくて、間架結構が美しい。当時のぼくには、その計算尺と赤紫の文字が杉浦目盛と杉浦色というものだった。また杉浦さんは‥葉書より小さなカードを脇に何枚かおいていて、何かを思いつくとメモを必ず簡略なドローイングにしていた。それもやはりスタビロの色鉛筆。すべてはドローイング・メモ。走り書きは一度も見たことがない。なんであれ、丁寧に扱うこと、とくに本のページを繰るときは??。それが杉浦康平だった。 杉浦さんは‥話をしながら、その時間がくると「あ、ちょっと待ってね」と言って、別室で必ずラジオの民族音楽と現代音楽の録音をしていた。そのテープ・コレクションは、おそらく小泉文夫や秋山邦晴を上回るにちがいない。耳を澄ます人、目を凝らす人。それも杉浦康平だった。 こんな印象もある。杉浦さんは‥話の途中でハッハッハと笑うとき、そこで急転直下の切り返しと意表をつく折り目をつくっていた。 たとえば、「そこのとこをよく呑みこんで、分解製版をよろしくお願いしますね」。そう、印刷所の担当者に言って「ハッハッハ、ごはん食べてからのほうがいいよ。一緒に分版を呑み込めるからね。そうすると腑に落ちる」。 このハッハッハは、冗談のように見えていて、いつもとんでもない発想にもとづいていた。のちに誰もが知るようになったろうけれど、杉浦さんには‥「図像が世界を呑み、世界は図像を吐いている」という見方があるのだが、印刷担当者はその「思想」を椅子を立ちあがりざまの瞬間に送られたわけなのである。 可憐な担当者は、汗を拭きながら、「いや、ごはん抜きでがんばりますから」と言って、そそくさと帰っていく。 これは何度か紹介したことだが、杉浦さんの‥アトリエでは、誰もペーパーセメントをつかわない。両面テープを3ミリ角にハサミで切って、どんなものも貼る。これを杉浦さんは‥ドライ・フィニッシュと名付けていた。 杉浦さんは‥厖大なブックデザインとエディトリアルデザインを手掛けてきたが、出来上がったばかりの本をぺらぺら “追認” しているところを、ぼくは見たことがない。そっと机の端に置いておいて、ずいぶんたって、一人になってから見る。 こんなこともしだいに気が付いた。杉浦さんは‥めったにパーティに出ない。杉浦さんは‥広告の仕事はしない(弟は資生堂のパッケージデザイナーのトップだった)。杉浦さんは‥年賀状は作らない。そのかわり海外から細字で感想をしるした絵葉書が届く。そして杉浦さんは‥アメリカには絶対に行かない人である。 理由を聞くと、「ま、一人くらい抵抗する者がいたっていいでしょう」。それ以上の理由は聞いたことがないが、たった一度だけ、何かの会話のときに、「原爆など落としちゃいけないよ」とぽつりと言った。 ぼくにとっての杉浦さんは‥夜中に電話をしてくる杉浦康平であることも多かった。 ずっと以前、工作舎で誰も電話に出なかったことがあった。翌日、用件があって杉浦アトリエに行くと、「きのうはみんな早く帰ったみたいね。若いうちは寝ないでもやりたいことがあるもんだけれどね、ハッハッハ」と笑った。 話の最後がハッハッハで終わるときは、よほどのメッセージなのである。その夜から工作舎では誰かが不寝番をするようになり、そのうち誰もが寝なくなっていた。しばらくたって、ぼくが夜中の杉浦アトリエに一人で調べものをしていると、珈琲でも飲もうかと言って、妙にニコニコして前に坐り、こう言った。「そういえば、最近は松岡くんのところは夜中も起きているね。やっぱり頼まれなくても徹夜しなくっちゃ、若いうちはもったいないものね」。 こういう杉浦さんの‥一挙手一投足にまつわる場面は、それこそ数かぎりなく、ぼくの目と耳と体に残ったままにある。ぼくはその数々の場面をあえて伝説にし、あえて杉浦神話にしたいとさえ思う。 古代このかた、そのようにしてしか「事実」は「物語」として伝えられてこなかったのだ。 きっとぼくは、いつか杉浦さんを‥めぐるちょっと長めのものを書きたいのだろうと思う。 それが法華経ふうか維摩経ふうか、秋里籬島(第386夜)や坂崎坦(第505夜)みたいなものなのか、それともエレナ・ガーロ(第404夜)やガルシア・マルケス(第765夜)のようになるのかは、わからない。 杉浦さんは‥神話もSFも映画も好きだから(ブラッドベリやバラードやタルコフスキーについて何度話しこんだことか)、エッシャーのような立体映像を交えた杉浦DVDのようなものも、きっとおもしろいだろう。ときには閑吟集や斎藤史の『記憶の茂み』(第692夜)のような歌や、あるいはヒップホップのような合いの手をまぜて。……全文はこちら。
2004年05月24日
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