風狂夜話2
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フランク永井が死んだ。10月27日肺炎のため死去。76歳であった。宮城県大崎市出身。歌手を目指して上京後、芝浦の米軍キャンプでトレーラーの運転手をしていたが、事故で退職。生活費を稼ぐため、賞金目当てでのど自慢に出場したり、米軍のクラブ歌手としても働いた。その実力が認められ、昭和30年にデビューする。フランクはクラブ時代のニックネームからとったという。米軍クラブ時代からビング・クロスビーやフランク・シナトラのようなスタンダード・ジャズを歌いこなせたという実力の持ち主。周囲のすすめで歌謡曲に転向し、32年吉田正作曲の「有楽町で逢いましょう」が大ヒットし、一躍日本を代表する歌手になった。独特の歌唱法については「ほとんど先生らしい先生につかず、いわば自分のカンを頼って歌ってきた」と話していた。30年代から40年代にかけてヒット曲を連発するが、58年にはNHK紅白歌合戦に落選。不遇の時が続いた。60年10月に、愛人問題で追いつめられ、自宅で首をつって、自殺未遂をおこした。私はフランク永井のファンである。低音の魅力というより、ジャズからシャンソンまで幅ひろく歌いこなせる実力の故である。とくに「公園の手品師」や「恋さんのラブコール」のようなシャンソン風歌謡の魅力はやはりこの人しか出せない味わいによるのであろう。美空ひばりがそうであったように、作詞や作曲のイメージや気分を独自の解釈で歌いあげより深みをもたせていたと感じさせる。菅原洋一の雰囲気がかれの後継者にふさわしい。むしろシャンソン歌手という分野で大成が期待できた天才と惜しまれた。
2008年11月03日
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