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番組構成師 [ izumatsu ] の部屋
「画家・八島太郎〜慈しむ生命〜」
◎『画家・八島太郎〜慈しむ生命〜』
制作:RKB毎日放送 放送:1994年5月29日
八島太郎(本名:岩松惇/いわまつ・あつし)さんは、アメリカ在住の絵本作家。
番組では、日本とアメリカで強烈な個性を発しながら、自由奔放に生きた八島さんの人生をたどります。
◆ストーリー
鹿児島県根占町に生まれた八島さんは東京美術学校(現・東京芸術大学)在学中からプロレタリア美術運動に身を投じ、軍部や財閥を強烈に風刺した絵で注目を 集めます。『蟹工船』などを書いた作家・小林多喜二が特高に虐待されたあげく命を落とした時、八島さんは多喜二の死に顔をスケッチしています。
八島さん自身、何度も投獄されています。同じくプロレタリア美術運動の活動家だった妻の光(みつ)さんと共に投獄されたこともあります。その時、光さんのおなかには子供が宿っていました。そんなことも委細かまわず、特高は拷問を浴びせます。
八島さんより一足早く出獄した光さん。その時、獄窓から八島さんが目にしたのは、ひとりで歩けないほどに弱った妊娠9ヵ月の妻の姿でした。
私のはらわたは焼けるようであった。
新しい赤ん坊よ、生まれない赤ん坊よ、
お前の父親は何もできないのだ。
どうか生きるのをとめないでおくれ。
八島さんが監獄でこう願った赤ん坊は、無事誕生します。長じて俳優となり、アカデミー賞助演男優賞にノミネート(『砲艦サンパブロ』)されたこともあるマコ岩松さんです。
八島さんは生まれた赤ん坊に「歓迎」と書いたカードを送っています。その意味を取材時85歳の八島さんはこう語りました。
「よく生まれてきたなぁと、その意味で"歓迎"ですよ」
1939(S14)年、日本は着実に戦争への道を突き進んでいます。八島さん夫妻は絵の勉強をするために、小学生だったマコさんを光さんの実家へ預け、アメリカへ旅立ちます。そして、ニューヨークの美術学校に入学しました。
1941(S16)年12月8日、太平洋戦争が勃発。軍部への憎悪が胸に湧きあがった八島さんは、こんな絵を描きます。
−世界の国々に日の丸を立てた世界地図を前に、刀を手にする口ひげの男−
絵のタイトルは『Mr.Tojo of Japan』。
日本の軍国主義の象徴である東条英機を痛烈に風刺したのです。
「東条を描くことを思いついた時には、非常に嬉しかったです。この野郎、コテンコテンにやってやろうと思ってね(笑)」
八島さんはこの絵を自ら新聞社に持ち込みました。
続いて八島さんは『The New Sun(新しき太陽)』という画集を出します。政治活動に参加し、投獄されても希望を捨てない日本人の姿を描いたこの本は、アメリカの新聞や雑誌に広く取り上げられました。
「こんな日本人もいるのか!」
日本人を"東洋の野蛮な黄色いサル"と揶揄し、偏見にとりつかれていた多くのアメリカ人にとって、『The New Sun』に描かれている日本人の姿は驚きであり、大発見だったのです。
八島さんの描く絵、そして日本軍国主義に対する姿勢は、アメリカで高く評価されることになります。
「あの人を反逆の画家というのは誤りだと思うんだな。あの人の絵にそんな思想性はないよ」
こう語るのは、沖縄の陪審裁判の体験を書いた『逆転』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作家・伊佐千尋(いさ・ちひろ)さん。八島さんが光さんと結婚する前に別の女生徒の間にもうけた子供で、マコ岩松さんの兄にあたります。
「あの人はもっと自由人。描きたい絵を描こうとするのに国家が介入する。それに反発しただけなんだ」
戦争が始まって間もなく、八島さんはアメリカの戦略情報局で日本兵に投降を呼びかけるビラを描き始めます。"伝単"と呼ばれるこうしたビラは、日本軍もアメリカ軍もこぞって作成し、上空から敵兵めがけばらまきました。
当時、アメリカ軍が作成していたビラは、圧倒的な兵力を誇示するか、食べ物が欲しければ降参しろという、日本兵の反感をあおるものばかりでした。
八島さんはビラの内容を変えるように主張します。ひとりでも多くの命を救いたい。そう考えた八島さんのビラには、例えば抱き合う母と子の絵と共に、こんな言葉がそえられていました。
父よ、生きよ。
あくまで生き抜くことは、
父よ、夫よ、あなたの義務である。
Q どうしてこういう内容のものを描いたんですか?
「・・・・どうして描いたのかを聞かれるのが不思議で・・・あんまり自然なもんだから」
その頃、神戸にある妻の実家に預けられていた息子のマコ岩松(岩松信)さんは、小学校で仲間たちに取り囲まれ、いじめられていました。
「イワマツマコトはスパイの子!」
もうひとりの息子・伊佐千尋さんは沖縄にいました。アメリカ軍の攻撃が激しくなり、もうダメだという時、伊佐さん一家は沖縄を脱出します。しかし、医者だった育ての父は、患者を残して行くことはできないと沖縄に残ったのです。
「オレたちだけを脱出させて、自分はひとり、死を覚悟して沖縄に残った。やっぱりオレの父は、沖縄で亡くなった父なんだよ。それは何ものにもかえられないんだ」
八島さんは、投降を進めるビラを描き続けます。
死ぬな、断じて死ぬな!
耐えろ。機会を待て。
死んで欲しくない。生きて欲しい。
戦後こそあなたたちが必要だ。
父・八島太郎の描いたビラに対する息子ふたりの思いはまったく違います。
「人の命を救うほど力はないね、悪いけど。そんな時代じゃないんだよ、ビラ一枚で思いとどまるようなね。奔流のように、みんな流されている時代だから」
と、兄の伊佐千尋さん。
一方、弟のマコさんは、
「仮に投降ということをあえてやった日本兵がいたとすれば、それが10人であろうとひとりであろうと、価値があったと思いますね」
日本降伏の日、八島さんはカルカッタにいました。抱き合って喜ぶ同僚たち。祈り、願い続けた終戦です。でも、八島さんは同僚の輪に入ってはいけませんでした。
「なんか、身を隠すような気持ちがあったんですよ。そして、誰もいないところに行って・・・・ワーッと・・・・泣き出しちゃったんですよ・・・・。もっと早く、こうしたかった。でも、これが自分としては・・・・精一杯だったと・・・・」
1945(S20)年、マコさんに会うため、八島さんは神戸を訪れます。久しぶりに会う父親。マコさんは緊張していました。
「オヤジはね、『やぁ、元気だったくゎい?』っていう風にしゃべるんだよね。『寂しくなかったくゎい?』とかね。"くゎい"ってのは何だろうな、なんて思ってね(笑)」
その時、八島さんはアメリカ軍の軍服姿。戦時中の働きが認められ、少佐待遇で帰国したのです。そのことを知った伊佐さんは、
「軽率なヤツだなぁって、イヤになっちゃうんだよね。オヤジと同じバカなところをオレも持ってるから(笑)、いっそうイヤになる」
1949(S24)年、マコさんは15歳で渡米。アメリカでは、初めて会う妹・モモが待っていました。
八島さんはアメリカに来たばかりのマコさんをたくさん描いています。
「離れて暮らした長い時間を、オヤジなりに埋めようとしてたんでしょうね」
マコさんはそう思っています。
戦争が終わってしばらくすると、八島さんは絵本を描き始めます。
最初に描いたのは『The Village Tree(村の木)』。ふるさとの鹿児島県根占で過ごした子供の頃の思い出を描いたものでした。
続いて、『Crow Boy(からす太郎)』を発表し、アメリカの絵本界で最高の栄誉とされるカルデコット賞を受賞。確固たる地位を築くのです。
『からす太郎』は日本でも出版され、高い評価を得ています。
でも、八島さんには「アメリカのスパイ」という陰口がついてまわりました。戦争の色濃い日本に子供を置いたままアメリカに渡り、戦時中は日本人でありなが ら強制収容にもならず、それどころか軍で日本兵に投降を勧めるビラを描いていた。そんな生き方に共鳴できない人がいるのも確かです。
息子のマコさんは父親をこう評します。
「非常に我が強い人間なんです。エゴが。自分のやりたいことのためなら、どんなことでも、敢えてやる」
そう語りながら、マコさんはこうも言うのです。
「オヤジと同じ大胆さ、それと色彩感覚を、役者としての自分に吸収したいですね」
戦前、戦中、戦後を思うがままに、自由奔放に生きた父。その姿に、今、アメリカを生き抜いている息子は、共感する部分が多いのです。
◆後日談
取材当時、八島さんは新たな絵本、『One-Inch Fellow(一寸法師)』の制作中でした。
それは八島さんの小学校の同級生をモデルにしたもの。チビで勉強嫌いの桶屋の息子がやがて立派な桶屋となるというストーリーで、『一寸法師』の話が挿入されるという作品でした。
しかし、この番組が放送されて間もなく、1994年6月30日、八島さんは心臓発作のためロサンゼルスの病院で亡くなりました。『One-Inch Fellow』は未完のままです。
葬儀の席上、マコさんは次のように挨拶したそうです。
「オヤジは自分のやりたいことをやり、生きたいように生き、そして死んでいった。こんな見事な人生ってありますか。お悔やみなんて、オヤジにはいりません」
◆制作の思い出
マコさんとモモさんに八島さんの絵本を英文のまま朗読していただいたのですが、それをストーリーの中にどう溶け込ませるか、試行錯誤しました。
取材当時、八島さんは脳溢血の後遺症で言葉が聞き取りづらいところもありましたが、文字スーパーなしで通しています。生の声を活かし、見ている人に、耳をそばだてるようにして八島さんの言葉を聞いて欲しいと思ったのです。
もし、2003年の今、この番組を作ったとしたら、画面は文字スーパーの嵐かもしれません。そうなると番組の持つ力や情感がず〜んと小さなものになってしまうことでしょう。
民間放送連盟賞の最優秀賞(教養部門)を初めていただいた番組でもあり、とても思い出深いものです。
この番組のディレクターだったW氏は、今や日本のドキュメンタリー界を代表するディレクター。たくさんの番組を一緒にやらせていただきました。
若い日、いや、若くはないなぁ、未熟な頃、一緒にあ〜だこ〜だと言い合いながら仕事ができたこと、ほんとによかったと思っています。
(2003年10月)
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