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昨日、今日と出張で宮崎。あったかだけど、夜はちょっとひんやり。昨日、叔父とその娘、ぼくにとっては従姉妹がふたりで母の見舞いに来てくれたそう。姉が言うには、母は熱があってアイスノンを使っているものの賢そうな表情でふたりを迎えたとか。倒れてすぐに来てくれて以来の面会。その時の母は、目を開くこともなく、ひたすらくーくー眠っているだけ。でも、昨日の母は、言葉は発しないし、意思の疎通はとれないものの、目はパッチリ開いて表情も少しあったので、叔父と従姉妹はとても喜んでくれたとか。母は、ことに従姉妹の顔をじっと見つめていたらしい。「見覚えがあるなぁ」と思っていたのかも。母の妹の叔母は圧迫骨折の影響で同行できなかったそうだ。残念だっただろうな。歳を重ねると、体も傷んでくる。それがゆるゆるとやってくのか、どかんと一気に訪れるのかは人それぞれで違うのだろう。しかし、ホテルのベッドで寝ていると、なんだか体が痛くなってくる。ゆるゆる、老い、かな。
2017.05.19
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どうしたら、より良かったのかなぁ・・・。時々、そう考える。母が今の状態にならずにすんだポイントがどこかにあったんじゃないかなぁ。母が肺炎で入院する前、熱を出して寝ている間に、ぼくは二度、救急車を呼ぼうとした。一度目は、母が姿勢を維持できなくなった夜。ジャージの上下をジーンズとパーカーに着替えて、救急に電話をしようとした。でも、やめた。以前、母が同様の症状をみせたとき、徐々に元へ戻っていったのを目にしていたので、今回もそうじゃないかな、と期待したから。母の表情が辛そうではなかったことも、電話をする気持ちを抑えた。二度目は、その翌々日。熱が38度半ばを超えた午後。やはり、ジャージを着替えて携帯を手にし・・・でも、電話はしなかった。声をかけると、元気に返事をする。ベッドに横になったままだけど、口元に運ぶものはちゃんと食べる。おにぎり、サツマイモ、リンゴにイチゴ。出せば出すだけ食べそうな勢いなので、いい加減で切り上げたけど。その翌日、医師会病院で診療してもらうことが決まっていたからというのも、電話をしなかった理由にはある。でもなぁ。救急車を呼ばなきゃ、というのは直感みたいなものだから、その直感を信ずるべきだったのかなという思いが残る。悔いではないけど、別の現在があったような思いは残る。今日も姉は母を訪ねてくれた。当人も検査帰り。まだ本調子ではないんだろう。ぼくはと言えば、3時前に帰宅したものの、今日中にあげなければいけない台本に追われるままに面会時間を過ぎた。あ〜あ、と思いながらも、どこかホッとしている。
2017.05.16
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母は、医師会病院のパジャマのまま救急病院に運ばれ、そのまま入院した。救急車で運ばれる前、身の回りのものをまとめていると、看護師長が、「こんな時になんですが、落ちつかれたらパジャマをご返却ください」と言った。入院した翌日の午後、借りていたパジャマの返却を兼ねて医師会病院へ挨拶に行く。「まだ目は覚めていませんが、容態は落ちついてきたみたいです」看護師長は残念そうに、気の毒そうに、ぼくの話を聞いてくれていた。若い担当医にも報告。「先生のお見たての通り、脳の中央部分の出血でした。出血した部位からみて、手術はできないし、回復は難しいかもしれないとのことです」ぼくの言葉を聞いた若い担当医は、「肺炎は治ってきていたのに、残念です。お力になれずに申しわけありません」そう言って頭を下げてくれた。自宅に戻りながら、ふと思った。高い熱が10日間以上続き、軽い誤嚥性肺炎と診断され、入院。その治療中に脳卒中で倒れた。夕食後、看護師や介護士の歓談に混じっているとき、急に血圧が上がり、ゆっくりと意識が薄れていった。病院側が、治療中の患者である母のそんな変調に気づかなかったのは、医療過誤になるのかな?ちらりと思った。患部に既に動脈瘤があり、血圧の上昇がきっかけでそれが破裂した可能性がある。救急病院の担当医はMRIの画像を見ながらそう説明した。脳のMRIは、最初に入院した病院でも撮っていたはず。そこで異変を発見出来なかったのは、医療過誤になるのかな?ちらりと思った。でも、その思いは頭をかすめただけで、ぼくの考えの中心には降りてこなかった。運命なのかな。その思いが、ぼくの頭の中を占めていた。
2017.05.14
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1月6日、母が倒れた翌日の朝。久留米に住む従姉妹に電話をした。母はふたり姉妹で、妹、僕にとっての叔母は久留米に住んでいる。叔母は姉思いで、母が認知症の症状を見せるようになってからは気にかけてくれて、よく電話をくれた。母は電話に出ることが出来なくなっていたので、まずぼくが出て、「叔母さんから」と言って母に受話器をわたす。母はもう相手が自分の妹であることを思い出せず、電話に出ても会話にならない。なので、叔母は母に電話をするかわりに、ぼくの姉に母の様子を尋ねるようになった。年末には年越しのお小遣いとして母にお金を送ってくれていて、昨年の暮れに送ってくれたお金は、母の電気あんかと、監視用のカメラに使わせてもらった。熱を出して入院するまで、母はベッドをイスがわりに机に向かって座り、日々を過ごしていた。在宅の際、ぼくは二階の部屋にいる。すると、なんだかんだと母の部屋から音がする。ほとんどは本を読み上げる声だったり、トイレに立ってドアを開ける音だったりなのだけど、時に妙な物音が気になり降りて行くと、ベッドと机の間に落っこちていていたりした。足腰の力が落ちていて、一度座り込むと立ち上がれない。また落っこちているのではないかと気にかかり、物音がするたびに下へ降りて行く。それが日常になっていた。叔母が送ってくれたお金で買ったカメラは、机に座った母に向けて本棚の縁に取り付けた。映像はiPadで見ることが出来る。画像はかなりクリアで、わずかな明かりでも映るので、夜、電気を消した部屋の様子もよく分かる。母の部屋で物音がするとiPadでその様子をちょいと拝見。ベッドに入ってからも声を上げたりしたら、画面を見てどんな風かを確認することが出来るようになった。おかげで、二階から降りていく回数が格段に減った。そのカメラも、母が熱を出して入院するまで、実働はわずかに半月ほど。叔母の心遣いで購入した電気あんかは、三晩しか使わなかった。6日の朝、従姉妹には、母が倒れて入院したこと。今のところ意識はもどっていないことなどを伝えた。姉思いの叔母は、さぞかし驚き、落胆しただろう。翌日、叔母はもうひとりの従姉妹に連れられて、病室の母を訪ねた。ぼくは同行できなかったけれど、ベッドの脇に座り、眠る母の頭をずっと撫でていたという。
2017.05.13
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1月5日。検査を終え、担当医の説明を聞き、母が集中治療室を出たのが10時過ぎ。看護師さんが押してくれる母のベッドの脇について3階の病室へ。一人部屋だ。一人部屋をお願いしたのは、夜遅くで他の入院患者に申しわけないのと、もうひとつ、姉が面会に来たとき、母とふたりだけになれた方がいいだろうなという思いがあった。母が病室に落ちついてからか、その前だったか、はっきりしないけど、入院にあたってのこまごました手続きや心得、注意などについて、病棟の担当看護師さんから説明を受けた。でも、その内容は、断片的に、バラバラと思い出す。保証人、連帯保証人が必要なこと。着替えやタオルなどは患者側が用意すること。歯ブラシや紙パッドなど、身の回りのこまごましたモノで、患者側が用意しなければならないモノと、病院独自に準備しているモノの説明。入院費の締め日と支払日について。急性期の患者向けの病院なので、いずれ他の病院を見つけて移転しなければならないこと。卒中患者の追跡調査を行っているので、可能ならば協力して欲しいこと。・・・などなどなどなど、他にもあったはずだけど、思い出せないなぁ。あとから考えると、そんなにいっぺんに説明する必要は無いんじゃない?、というぐらいの量があった気がする。病院を出たのは10時半ぐらいだったろうか。出る前、母の様子を覗くと、眠っている。検査室から運ばれる間も、そして部屋にベッドが落ちついてからも、ずっと眠っていた。その寝顔だけを見れば、脳の中央が出血で傷んでいるとは思えない。ただぐっすり眠っている。そんな感じだ。
2017.05.12
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今日から三日間、宮崎に出張だ。母が入院してから、出かけやすくなった。皮肉なものというか、どこか後ろめたい感じがするけど、病院に世話になっているという事実が安心感につながっているのも事実。2か月ほど前、都城に出張した夜、母の夢を見て目が覚めた。原稿が書けない、原稿が書けない、原稿が書けない。そう言って、悩んでいた。夜中に起きて、ぼくも悩んだ。ぼくは直感霊感を信じる方ではないけれど、母のことを夢に見るなんてことはそれまでなかったし。ちょっと、気味が悪かった。夢枕に立つという言葉もあるし、何かあったのかな?でもまぁ夜中だし、何かあったら連絡が来るだろう。そう思って、寝直した。翌日、病室に寄ると、母は変わりなく、すーすー寝ていた。
2017.05.09
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脳のMRIを撮り終えるのに、10分もかからなかった気がする。あっと言う間だった。MRIの画像を見ながら、担当医から説明を受ける。「脳の真ん中あたりに、卒中を起こしているようです」確かに、脳の輪切り画像の真ん中に、黒く影が映っている。これが出血した患部だろうか。「この病院には脳外科がありませんので、近くの病院に移送したいと思います。すぐ救急車の準備をしますので、ちょっとお待ちください」待っている間、病室を片付ける。パジャマや下着、ティッシュに歯ブラシなど、1週間ほどの入院でもかなりたくさんの荷物があった。荷物を車に載せ、病院のロビーで待つ。患者の姿もなくなり、ガランとしたロビーに、担当医の怒号が事務室から響く。「一刻を争うのに、なにしとるんや!」どうやら、搬送しようとしている一番近い脳外科がある病院の対応が期待に添うほどテキパキしてないらしい。一度はこの病院に行くことが決まったようだが、結局満床で別の救急病院へ搬送することに。ここでちょっと時間のロスがあった。「一緒に行かれますか?」担当医が、救急病院まで救急車に同乗して行くか、尋ねてくれた。車を病院の駐車場に置いて行くと取りに来なくてはならないし、救急病院から自宅へ戻る際にも手間がかかる。救急病院の名前と住所を教えてもらい、ぼくは自分の車で救急車より先に出る。目的の救急病院は、仕事でよく通る国道から少し入ったところで、車で20分ほどで着く。母の救急車より先に着くかと思っていたら、国道に出てからすぐ追い抜かれた。他の車両と同じように車を少し脇に寄せて停まり、救急車をやり過ごす。なんか、緊急の措置をしてもらっているのかなぁ。遠ざかるサイレンを聞きながらあとを追うが、サイレンはどんどん小さくなり、聞こえなくなった。救急病院に着くと、母は既に検査室へ入っていて、待合室には誰もいない。時計を見ると午後7時40分を過ぎていた。搬送先を決めるのに少々時間がとられた感がある。検査は小一時間ぐらい続いたろうか。救急病院の担当医から呼ばれ、検査室へ。ベッドでぐーぐー寝ている母の横で、MRIの画像をモニターに映し出しつつ説明を受ける。担当医は至極冷静。急患には慣れているんだろう、やっぱり。MRIで見る母の脳の画像は、ここへ運ばれる前に撮ってもらった画像とほぼ同じ。「脳室の壁をやぶって、中へ出血しています。手術はちょっと不可能な部位です」担当医の説明は、4月21日付けの日記に書いた通り。要は出血が続くのか止まるのか、目が覚めるのか覚めないのか、現時点ではなんとも言えないということだ。「意識を取り戻すのは・・・、ちょっと厳しいかと思います」一連の説明を、モニターの前に立ったままで聞いた。説明を終えた担当医は、どこまで治療を望むかをぼくに尋ねた。前の病院に入院する際もきかれたが、延命治療をどうするか、ということだ。本来は患者本人の意思を確認しなければいけないのだが、今はしっかり眠っているし、意識を取り戻したとしても認知症の症状を考えるときちんとした回答が出来るとは思えない。母からはっきり聞いたことはないが、可能性の低い延命は避けたいような話はちらりほらりとしていた。なので、胃ろうなど手術を伴う治療はやめてもらう旨、証書を書いた。苦痛をやわらげる処置はするが、人工的に命を延ばすことはしないということに。「結局、餓死する様子を見ていられるかっていうことなのよね」友人の奥さんで、ベテランの看護師さんがそう言っていたことを思い出す。確かにそうだ。自分で食事をとれなくなる可能性が高い母は、外部から栄養を注入しないと、そのまま餓死してしまう。強制的に栄養をとらせる処置が無かったころは、母は眠ったまま衰弱していき、世を去ることとなるに違いない。母は、鼻から入れたチューブから点滴で養分をとることになるだろうということ。なんとなくホッとする。が、胃に穴を開けて直接胃に送り込むのとでは、やり方は違っていても、命を延ばすという目的は同じなんじゃないか?それでも、痛い思いはして欲しくない。
2017.05.08
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1月5日。車椅子を押してもらいながらリハビリに行く母の姿を見送ってから3時間後だ。携帯が鳴り、母の血圧が急激に上がったことを看護師が伝えてきたのは。車で病院に着き、1階でエレベーターを待つ。降りてきたエレベーターの扉が開く直前、中から、「いずみさん? それ、息子さん? 娘さん?」と、大きな声が聞こえた。開いたエレベーターから、ベッドに横たわった母が運び出される。聞こえてきたのは、付き添ってくれている若い担当医の声だった。担当医は母に、誰が来るかを尋ねたのかもしれない。母はぼくの名前を口にし、担当医はそれを聞き返していたのかもしれない。もう数分早く病院に着いていれば、ぼくの名を呼ぶ声を聞くことができたかも。ジーパンに着替えず、ジャージのまま出ていれば1、2分早く着けたかな。駐車場まで車を取りに行かず、走った方が早かったかな。階段をのぼったら、行き違いになっていたかも。ぼくの名前を言えたのかな、忘れてたくせに。最後の言葉になるのかな・・・。母が脳のMRIを撮ってもらっている間、ぼくは廊下の椅子に座り、そんなことを考えていた。
2017.05.07
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母が倒れた日、1月5日のことをかなり思い出してきた。午後、病室に行くと、母は看護師が集まる部屋で、テーブルの周りに丸くなった看護師の中に車椅子のまま混ぜてもらっていた。お風呂に入れてもらったあとだったように思う。分からないながらも話の輪の中に加わることは、母のリハビリにもいいことなんだろう。看護師に母の容態を聞いた記憶がある。熱はほぼ下がり、点滴は1日2回に減ったとのこと。食事はまだゼリー状のモノだが、そろそろ固形にかえていける段階に入る。「退院後はどうします?」そんな話も出た。熱を出す前までは、自分で着替えは出来ないものの、食事やトイレは時間をかければなんとか出来る状態だった。でも、12月半ばからはベッドでの生活が続き、熱が下がった今は車椅子での生活だ。ベッドも今のヤツじゃダメだから、電動のベッドをリースして・・・、車椅子も借りなきゃな。デイ・サービスはこれまで通り行けるのかな。車椅子で通うことになるだろうけど、玄関の上がりかまちと、玄関から門にかけての短いたたきにはいくつかの段差があるので、迎えに来てくれる車まで連れて行くのがちょっと手間だな・・・。ま、なんとかなるか。看護師には、そんな返事をした。看護師詰め所から出て来た母のところへ、リハビリ担当の若い介護士がやってきた。前日からリハビリを始めてくれているとのことだった。「熱を出すまでは、それでも手すりにすがって、ベッドから5〜6メートルほどのトイレまで歩いて往復していたんですよ」立てなくなったからの母しか知らない介護士は驚いて、「へぇ、そりゃすごいなぁ。じゃ、その頃に戻るのをリハビリの目標にしましょうね」後半は母に向かって話しかけながら、介護士は母をリハビリへと連れて行った。その後ろ姿が、体を起こしている母を見た最後になった、今のところは。
2017.05.06
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携帯にひと言ふた言書き込んでいるメモを元に母の現在に至る経過を思い出しつつ書いているが、1月4日だけ、メモがない。1月4日は病院が普通の診療に戻る日。この日に母の検査が本格化し、高熱が出た原因や、姿勢を維持できないワケなどが分かっていく。そのはずだったんだけど、メモはないし、記憶もまったく残っていない。年末年始の休みに入る前、担当医は、「4日になったら脳のMRIも撮りますから」と言ってくれたけど、その結果どころか、撮ったのかどうかも覚えていない。なんだかな〜。年末に入院してから徐々にだけど熱は下がり、顔色も良くなっていっていたのは事実なので、このまま良くなるな、きっと、という感じで安心していたのかなぁ。面会に行った記憶はある。3日に届いた年賀状を持って行った。母は文面を読むでもなく眺めていたような気がする。母の病室がある階へのエレベーターのドアが開くと、母の歌声が聞こえていたような気もするが、それがこの日だったかは分からない。大学病院から一時帰宅していた姉も、母が回復傾向にあることもあり、結局母には会わずじまいで病院へと戻った。記憶も記録もない1月4日。何ごともない、普通の日だったんだな、きっと。
2017.05.05
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1月3日。正月とは思えない好天が続き、南向きの病室はポカポカ。窓側の母のベッドあたりはじっとしていると汗ばむほどだ。体温を測ると、微熱の範囲だけれど熱がある。「気温が上がると、お年寄りは体温もあがりがちなんですよね」でも、39度近い熱があったころと比べると、顔色も普通に戻って来た。ベッドの上で歌を口ずさんでいる。元気になってきた。ま、高熱が出たときも、元気はあったけど。食事はまだゼリー状の流動食。90歳近くになるにしては残っている歯は多い母、ちゃんと噛めるモノが食べたいだろうな。しかし、静かだ。新年もまだ三日目。入院患者の多くが帰宅し、スタッフも最小限の人員を残してほとんどが休みの病院はがらんとして物音もしない。母の歌う童謡がのんびり響く。
2017.05.04
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1月2日。14時ごろ、面会に。入院の際に持参した赤いパジャマに着替えていた母は、ぼくの顔を見て「あら」と言った。その「あら」は、意外な人物が来たという「あら」なのか、今までどこに言ってたの?という「あら」なのか。母の興味は「あら」からすぐ離れてしまうので、判然としない。でも、母の意識の中には何かしらぼくの姿があるのだろう。それが息子としてなのか、どこかで見たことのある人なのか、それはぼくには、そして恐らく母にも、分からないのだろうけど。ロッカーを開くと、洗濯物が。入院して五日目にして初めて洗濯物が出た。それまでは、入院したときの姿そのままに、ベッドでジッとしていたことになる。まぁ、パジャマの上にトレーナー姿だったから、それはそれでいいのかも。ベッドの上の簡易テーブルには、介護士さんがチェックしてくれてるのだろう、家から持参してきて欲しいモノの表が貼られていた。見てみると、ティッシュなどの他に、タオルや石けん、リンスにシャンプーなどなど。お風呂に入れようとしてくれているのかも。まだ少し熱がある。
2017.05.03
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1月1日。母は、2017年を病院で迎えた。午後1時過ぎ。母宛の年賀状を持って病室を訪ねる。少し傾けてもらった電動ベッドに横たわって窓の方を見ていた母は、気配を感じたのか、こちらに顔を向けた。ぼくの顔を見ても何も言わなかったけど、顔色も良くなってきてるように感じる。年賀状を手渡す。入院したとき、母は何も手に持つことが出来なかった。それが高い熱のせいなのか、それとも別の病の影響なのか、今のところ分からないけれど、今日は年賀状を手に持つことが出来た。母は年賀状を1枚1枚、眺める。これが年賀状という、季節のグリーティングのためのやりとりだということは分かっていないけれど、きれいな絵を描いてくれているハガキは多少なりとも時間をかけて見ている。家族の写真を載せている賀状もお気に入り。1枚の年賀状から、出してくれた方の名前を読み上げて、「覚えてる?」「覚えてるよぉ」でも、反射的に答えているような感じで、どこの誰かを思い出しているわけではないようだ。元旦というのに、今日は暖かい。母の病室は南西を向いているので日中から日が傾く時間は太陽が差し込み、ぽかぽか。フリースを脱ぎ、パーカーを脱ぎ、長袖Tシャツ一枚になっても汗ばむほど。この暖かさがちょっと災いしたのか、お昼、母の体温は少々上がったとか。「年配の方は周囲の基本にも体温が左右されますからね」介護士のお兄さんが教えてくれた。この日、年賀状を手にする母の写真を携帯で撮った。入院先から年末年始だけ帰宅を許された姉に送ろうと思って。姉は帰宅した前日に、母の入院について、夫、ぼくにとっては義兄から聞いたばかりだった。12月の初旬に大学病院に入院してから姉が母の姿を見たのは、この写真が初めてだったかもしれない。ベッドに体を少し起こし、年賀状を手に、ちょっとおどけたような表情に見える母の写真。話すことが出来る最後の写真となった。今のところは。
2017.05.02
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こうやって書いていると、ちょこちょこと思い出してくるもんだなぁ。2016年大晦日。母、入院三日目。午後1時過ぎに病院を訪ねると、仕事を終えて帰宅する担当医に駐車場でばったり。「ずいぶんお元気になりました」年末ギリギリまで勤務、お疲れさまです。病室のある階にエレベーターから降りると、「ポッポッポー」聞き馴染みのある声がする。機嫌のいいときは童謡を歌うことが多い。三つ子の魂百まで、なんだろうか、やっぱり。電動ベッドに支えられて体を起こしていた母は、ぼくの顔を見て「おや?」という顔をした。どこかで見たことのある顔だわ、と思ったのかもしれない。顔色も良くなってきた。額に手をあてる。熱もないようだ。「きつくない?」「きつくなんか、ありまっしぇーん。ポッポッポー、ハト、ポッポー」調子が戻って来て、騒がしさも戻って来た。病室にテレビはないし、あってもテレビを見る習慣がない。ずっとベッドじゃ退屈かもと、詩集や本人の著書など、自宅から持って来た本数冊をベッドを横断するテーブルの上に置く。「これは、何ですか?」「あんたが読んでた本よ」「ふ〜ん」で、関心は歌に戻った。認知症が強くなってからも日がな一日本に目を落としていた母だけど、活字に対する興味はまだ復活してないらしい。
2017.05.01
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12月30日金曜日。母の入院、二日目。12時過ぎに訪ねると、ちょうどお昼ご飯中。どろんとした流動食を女性の介護士さんがひと匙ひと匙、口に運んでくれる。母はおとなしく口を開け、ゴックン。ちゃんと飲み込めている。「おいしいですか?」返事はナシ。でも、昨日は緊張で開きっぱなしという感じだった母の目が、少し穏やかな、どこか観念した様子。熱も下がってきているとのこと。肺の炎症は、誤嚥性のものではないかということだった。大きなモノではないので、さほど心配はいらないようだ。ちょっとホッとする。で、尋ねてみた。「私は誰でしょう?」「知らん」ひと言で処理。なるほど、普通に戻って来た。食事のじゃまになるし、洗濯物を持って20分ほどで退散した。
2017.04.30
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12月29日木曜日。朝9時、介護タクシーに来てもらう。電話でのぼくの頼み方がまずかったのか、介護タクシーは車椅子を積んできてなかった。でも、ドライバーさんが、これから向かう医師会病院へ車椅子を取りに行ってくれた。家に車椅子が入るのは初めてだ。ドライバーさんは手慣れたもので、母をベッドから抱き上げて車椅子に乗せてくれる。心配だった玄関の上がりかまちの段差も車椅子を後ろ向きにして、大きな車輪を利用して簡単に降りた。そして、車椅子のままタクシーへ。母が自分で歩けるときにさえ、車に乗せるまでかなりの時間がかかったのに。助かった。タクシーに乗ってしまえば、医師会病院まではものの3分。内科で診療。まずは検尿。だけど、自分で採取することが出来ないので、チューブを挿入して採ることに。検査室の奧から、母の叫び声が聞こえる。同時に、なだめすかす看護師さんたちの声も。かわいそうだし、申しわけなくも感じる。血液検査、胸のレントゲン、内臓のCTスキャンと検査が続いた。そして、レントゲンとCTスキャンの写真が並べられた診察室で医師から説明を受ける。「胸には小さな炎症がありますが、高熱が続くようなモノではないですね。内臓にも顕著な所見は見られません。しかし血液検査には炎症反応がしっかり出ているので、原因が分かるまで患者さんを預からせてください」で、そのまま入院。母の様子を見、ぼくの話を聞いて、「そのまま入院になるかもしれませんねぇ」と言った介護タクシーの運転手さんの言葉が現実となった。母を病院に残し、いったん家に戻る。そして、入院に必要な身の回りの品々にマジックで母の名前を書き、大きめのバッグに詰めて、病院へUターン。すると、母の入った病室には「面会謝絶」の札が。ギョッとしたけど、入院当初の患者は、看護師さんの目が常時届くこの部屋に入ると聞いてホッとする。電動ベッドで半身起こしてもらっている母は、手の甲に刺さった点滴のチューブを、「これは、なに?」と言いながら、物珍しそうに見ていた。早くも抗生物質の投与が始まった。とにかく、まず熱を下げようということらしい。男性の看護師さんがやってきて、嚥下のチェック。ゼリー状のモノ(ブドウの味がついているそう)を飲み込ませつつ、指先にはさんだ測定器で酸素量を見る。嚥下と酸素量とどういう関係があるのかは「?」だけれど、「結構いい数値ですね」とのこと。別につらそうな感じもない母は、元気にゼリーを飲み込む。そして、指先に取り付けた酸素測定器をはずそうとする。チェックのためだからと言ってもダメ。でも、看護師さんは、「もうちょっとがまんしましょうね」と優しく声をかけながら、辛抱強く数値を計り続けた。午後2時過ぎ、病棟の担当医から説明を受ける。まだ若い、男の先生だ。診察室で見た胸のレントゲンとCTスキャンの映像を再度参照しながら、より詳しく説明してくれたが、要約すれば「今のところ、発熱と体の傾斜の原因は分からない」とのこと。「体が傾いたり、急に歩けなくなったのは、高い熱のせいかもしれないし、脳に原因があるかもしれません。脳のMRIも撮りますが、年内の診療は今日まで。検査技師はもう休みに入っているので、本格的なチェックは年が明けた4日からですね」年内ギリギリ、間に合って良かった。家に引き上げる前、母の様子を覗く。点滴を受けながら、おとなしくベッドに横になっている。辛そうな様子はないし、不安げなところも見られない。年末年始をここで迎えるんだなぁ、松が開けたら退院出来るかな・・・なんて考えながら病室をあとにした。それから4か月。母は自分の部屋に戻らないままだ。
2017.04.29
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母の「右へ右へと体が傾く」状態は、翌日の12月27日になっても回復しなかった。食事はベッドで横になったままでとる状態が続き、トイレに歩いて行くことも出来ない。夕方には熱が38度台にまであがってきた。いつまで様子を見ればいいのだろう?本人を見ても辛そうな様子は全然ないのだけれど、それを“元気がある”ととればいいのか、“自分の体調が分からない”と危ぶんだ方がいいのか、それが分からないのが困る。翌日28日。朝から体温は38度台半ば。薬を飲み始めてもう10日目になる。さすがに変だと、9時過ぎにかかりつけ医を訪ねて紹介状を書いてもらい、家の近くの医師会病院へ電話。ぼくが午前中に予約に行き、午後に診てもらうということが可能かどうか尋ねる。回答は、午後に診療は出来るが、そのためには11時までに紹介状ともども患者本人を連れてこないとダメだとのこと。母を起こし、保てない姿勢を支えながら着替えをさせ、トイレに行かせ、車に乗せて・・・。こりゃ、到底間に合わん。ということで、この日に診てもらうことは諦めた。「きつい?」「い〜え、ぜーんぜん!」ベッドの中で、母は元気だ。
2017.04.28
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昨年のクリスマス・イヴ。朝、母の熱を測ると37.3度。あまり高くないなとは思ったけれど、土曜日だし、1年の最終週に突入してしまうので、もう一度診てもらっておこうとかかりつけ医へ。先生は胸のレントゲンを撮ってくれて、「やっぱり肺炎じゃないですね」ちょっとホッとする。年越し出来るようにと、風邪薬と抗生物質を1週間分、もらって帰ってきた。二日後の12月26日、月曜日。母の体に異常が起きる。立てない。そして、座っていても姿勢を維持できない。ベッドに腰掛けさせても体が右へ右へと倒れてしまう。それまではゆっくりゆっくりだけど自分でトイレまで行けたし、時間はかかるけど自分で食事をすることが出来ていた。それが、箸を手にしても体が倒れていくので、食べ物を口に持って行くことが出来ない。脇に座り、支えながら食べさせようにも、体は横へ横へ・・・。仕方ないので、ベッドに横になったまま食べさせた。食欲はあり、「おいしい?」ときくと、「おいしい」と答える。これが本当に美味という意味なのか、ぼくの言葉のおうむ返しなのか、認知症が進んでいるからよく分からない。口に運べば運ぶだけいくらでも食べそうだったので、適当なところで切り上げた。母は特に不服そうでもなく、ベッドで横になっている。しかし、どう対処すればいいのか?見る限り、本人は苦しそうな感じもないし、どんな気分なのか尋ねても要領を得ない。母はこれまで一回だけ、同様の状態になったことがある。確か一昨年の5月ごろだった。朝から姿勢を維持できず、きちんと腰掛けておれない。ゆらゆらと体が倒れていく。パーキンソン病の知人がいるが、その人が“オフ”になったときとよく似た感じに見えた。早めに病院へ連れて行こうと思っていたら、時間が経つにつれ徐々に回復していく。おや?と思っていると、お昼頃には普通に戻っていた。今回もそうなのかも。今日は様子を見よう。そう思った。
2017.04.27
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今日、姉が病室に行くと、母はアイスノン無しでうつらうつらしていたそう。「でも、額に手を当てると、ちょっと熱があるみたい」そんなメールが来た。12月の半ばからだから、4か月、ずっと熱があることになる。倒れる前は炎症だったんだろうけど、今は違うんだろうな。脳の調節機能がきちんと働いてないんだろう、やっぱり。38度以上とか高い熱は出ないけど、ゆるゆるずっと熱があるのもきついだろう。起きているときに様子を見ていても、本人がどう感じているかが分からないのがちょっと困るな。
2017.04.26
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母は37度半ばの熱を出していることが多い。なので、ほぼいつもアイスノンを頭の下に入れてもらっている。「熱が出るのは、どこかに炎症があるから。でも、お母さんの場合は脳の真ん中に出血していて、その近くには体温調節を担当する部位があるので、その影響かもしれません」主治医はそう説明してくれた。ぼくは日記をつける習慣はないけれど、母が認知症かな?と感じたころから、その様子を携帯のカレンダーにメモしている。それを見直して、倒れるまでの経過を振り返る。母が熱を出したのは、もう4か月以上前。12月18日のことだ。なんとなく顔が赤いなぁと思った。「きつくない?」と尋ねると、「ない」という返事。熱は37度ちょい。「私は平熱が低い」というのが元気なころの母の言い分だったので、用心のためにとかかりつけの内科に連れて行ったのが翌19日、月曜日だった。「予防接種もされてますし、インフルエンザではないでしょう」医師はそう言って、風邪薬と抗生物質を処方してくれた。その日は、薬を飲み、食事も普通にすませ、ご就寝。翌日20日、朝4時ころ。ふと目が覚めると、なんだかんだと母の声が聞こえる。二階に寝るぼくの真下に母は寝ているので、床を通して聞こえるのだ。時々、つけっぱなしのテレビ画面に出てくる文字を、夜中にひとつひとつ丁寧に読み上げたりもしていたので降りて行った。覗き込んだぼくの顔を、母は「何しに来たの?」という顔をして見上げた。ちょっと顔が赤いので熱を測ると38.9度。ギョ!本人は平気な顔をしているけど、この頃になると反応が鈍くなっていたので本当は辛かったのかもしれない。それが表情から読み取れないのがもどかしい。解熱剤を飲ませると、お昼前には37度半ばまで体温は下がった。が、21日の夕方には、また38.5度まで上がる。解熱剤を再度投与。この日から3日間ほどは、解熱剤無しで36度台、平熱に戻っていた。良くなってきたな、と感じていたのだけど・・・、
2017.04.25
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午後2時半、母の面会に。起きていた。黒目がちな目で、こちらを見る。今日はなんとなく賢そう。ちゃんと分かってるわよ、という表情をしているとき、ぼくと姉は冗談半分に「賢そう」と呼んだりしてる。しかし、不思議。目をさましていても、心も意識もなんにもないように見えるときもあれば、今日のようにジッとこちらを見つめるときもある。今日は話しかけても反応はなかったけれど、昨日、姉が童謡を歌ってやっていたら、その一節をほんのちょっと一緒に歌ったとか。姉は驚いていたが、ぼくも聞いてびっくり。意味のある言葉を出したのは、倒れてから初めてのこと。数日前は笑顔を見せた。すぐに無表情に戻り、そのままうつらうつら始めたから、感情の表れなのか、筋肉の反射作用だったのか、判然としない。でも、安定してきている感じはする。
2017.04.24
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1月6日の夕方。身の回りの品を運びがてら入院した母の様子を見に行ったあと、近くのパスタ屋で夕食をとろうとしていたら、携帯にメール。姉からだった。「たいへんな時に、一緒にいられなくて何もできなくてごめんね」姉は自身も肺炎にかかり、12月初頭から福岡市内の病院に入院していた。ひとり入院して治療中に心配をかけたくないので、母が12月中旬から体調を崩し、年末には入院したことを彼女には伏せていた。母が入院していることを姉が知ったのは、新年を迎えて帰宅が許されたとき。義理の兄が伝えてくれた。姉は仮の退院でもあり、また、投薬の影響で免疫力が落ちているので、帰宅している間は外出を極力控えるよう主治医に言われていた。母の経過も順調で正月2週目には退院出来そうな感じだし、寒い中面会に行き互いに風邪でもひくと元も子もないので、結局母には会わずじまいで三が日が過ぎると自分の病院へと戻っていった。その二日後に母は倒れた。認知症が進んでいる母に、退院したらあれもしてあげよう、これもしてあげよう。入院中のベッドの上で、姉はずっとそう考えていたに違いない。優しい人だから。その姉が「何もできなくてごめんね」とメールを打つ時の切なさ、無念さを思うと、ぼくは涙をこらえきれなかった。店員も、客もいるパスタ屋で、メガネをはずして目頭を押さえた。姉が見た母の元気な姿は、自分が入院する日の朝、着替えをさせるときの母だったろうか。それともその前日の夜、寝るときに世話をしたときの母だったかもしれない。そんな母が、意識を無くして眠っている。駆けつけたいけど出来ない姉は、その母の姿を病院のベッドでどんな思いで想像しているんだろう。そう思うと、涙が溢れた。泣きながら人前でパスタを食べる日が来るなんて、思いもしなかった。
2017.04.23
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母が倒れた1月5日の午後3時ころ、ぼくは母の病室を訪ねている。相部屋の病室。顔なじみになった隣のベッドのおばあさんが、「あ、息子さんが来た!」大きな声で言った。でも、母はベッドにいなかった。どこに行ったのか看護師さんに尋ねると、お風呂とのこと。軽い肺炎で入院してから1週間ほどたったこのころには、かなり病状も回復していた。5分ほど待っていると、母が車椅子で戻ってきた。「ほら、息子さんが訪ねて来てくれましたよ」車椅子を押すスタッフが、母にそう告げた。認知症がかなり進んでいた母はぼくが誰かは認識できなかったけれど、体を洗ってもらって気持ち良くなったのだろう、彼女なりの明るい顔を見せた。病室に戻った母は、いったんベッドに横になり検温。平熱だった。そして、また車椅子に乗せてもらい、「さぁ、息子さんにさよならして、リハビリに行きましょうね」「どこ、行くの?」「リハビリよ、リハビリ」「どこ?」車椅子を押すスタッフとのかみ合わない会話を残して、母は病室から出て行った。その後ろ姿が、体を起こしている母の最後の姿。今のところは。
2017.04.22
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今年、1月5日の夕方6時過ぎ、携帯が鳴った。母が入院していた病院からだった。なにかあったな、と思いつつ出ると、「お母さまの血圧が急に上がって・・・何分で来られますか?」と、看護師さんの声。「10分で」答えて、ジャージを着替えて車で向かう。歩いても5分程度の距離だけど、車で行った方がいいような気がした。病院に着いたのは、電話をもらってから10分たってなかったと思う。病室へ上がるエレベーターを待つ。降りてきたエレベーターのドアが開くと、移動ベッドに載せられた母が若い担当医の付き添いで出て来た。酸素吸入をしてもらっていたような気がする。そのままCTスキャンを撮る部屋へ。ドアの脇のベンチで待つこと10分程度。撮影した画像を見つつ担当医が言うには、脳の中央付近に出血が見られるとのこと。「この病院では脳外科の対応が出来ないので、病院を移します」そう言って、担当医と母のベッドはどこかへ消えた。病院のロビーで待っていると、玄関のすぐ脇で救急車のサイレンが鳴り出した。担当医がやってきて、「近くの脳外科病院に移送しようと思いましたが、満床なので、別の病院に向かいます。救急車に同乗しますか?」車を病院の駐車場に起きっぱなしにするわけにもいかないので、搬送される病院の名前と住所を聞いて、救急車に先立って出発する。冬の7時過ぎ。メインストリートももう暗い。搬送される病院を目指して走っていると、後ろから救急車がサイレンを鳴らして近づいてきた。他の車同様、停止してやり過ごす。母が乗る救急車だった。「あちらの世界に旅立とうとしている母親が運ばれる救急車に追い越される体験って、そうそうないよなぁ・・・」なんてことを考えていた。搬送先の病院に着くと、母は集中治療室に入ったらしく、誰もいない。救急の待合室に座っていると、救急車に同乗してくれた担当医が通りかかる。その若い先生も、母が今後どうなるかはわからないし、「十分お世話できずにすみません」「いえいえ、こちらこそどうもお世話になりました」といった挨拶ぐらいしか交わしようがない。待合室で待つこと1時間少し。治療室に呼ばれて行くと、母はベッドに横たわり、グースカ眠っていた。救急担当の医師は、パソコンにCTスキャンの画像を表示しながら、・脳室の壁を破って、脳室内に出血がみられる。・出血の量は大量ではないが、わずかと言える程度でもない。・場所が脳の中央付近なので、手術は出来ない。・出血が続くのか、止まるのかは、経過をみなければわからない。・意識が戻るかどうかはわからない。・予後は決して楽観できない。等々、要するに命を閉じる時も近いという冷厳な事実を、簡潔に、ひとつひとつ、きちんきちんと説明してくれた。ぼくは、なるほどね、と思いながら、かなり冷静に聞いていた。そのまま、母はこの病院に入院することに決定。病状を説明してくれた医師が僕に、「個室にしますか、それとも相部屋に?」「どう違うんですか?」「差額ベッド代が1日6000円ほどかかりますね」「あ、なるほどぉ・・・」夜10時過ぎの救急センターで交わすにしては奇妙な会話だなぁと思ったけれど、でも大事なことだな。夜遅くでもあり、相部屋だと他の患者さんを起こしてしまいそうで申しわけないので、個室へ入れてもらうことに。3階の病室に落ちついた母は、ただひたすら深く深く、眠っていた。
2017.04.21
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今日4月20日は母の誕生日。90歳。卒寿となる日を、母は病院のベッドで迎えた。今年1月5日、母は脳内出血で倒れた。以来、一日の大半をうつらうつら。時に目を開けるものの、声を発することはない。先日、近くにある郵便局の顔なじみの局長さんが、本局のスタッフ同道で訪ねてきた。母の保険がらみで、ご長寿お祝いの還付金があるが手続きをされないので心配して来てくれたのだった。母が倒れたいきさつを局長さんに話そうとして、ぼくは既に記憶があいまいになっているのにちょっと狼狽した。母は軽い肺炎で入院していた。今とは違う病院に。そこで療養していて、ほぼ回復したという矢先にその病院で倒れ、救急病院へと運ばれた。肺炎で入院する前後から、倒れて「回復は厳しい」と医者に告げられるまで、対応できたのはぼくひとり。ぼくの記憶が薄れると、家族はじめ、母の友人知人にその様子を告げることができなくなる。記憶をさかのぼっての、備忘録。そんな感じで、思い出すまま、母の日常を中心に書いていくことにする。
2017.04.20
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体重計に乗って確認したワケではないのだが、なんとなく太ってきた気がする。ジーンズの腹と太ももが、なんとなくきつい。この、“なんとなく”がヤバイのかも・・・。食事の量は変わってないけれど、運動というものはまったくと言っていいほどしないし、移動は車だから足も使わない、それに年をとってきて新陳代謝も衰えてきているのに食べる量が変わらないとくりゃ、そりゃ太るわねぇ。でも、食べる量を減らすダイエットは、健康にはよろしくないらしい。そんなに大量に食べてるわけじゃないし、肉よりもどちらかと言えば魚だし、アルコールも最近は縁遠いから、口に入るモノはそんなに削れないかなぁ。以前「ひと口30回以上噛む」ことを続けていたら4キロくらいやせた。ありとあらゆるダイエットをしてもダメだった人が、最後の手段のごとく、ひと口で噛む回数をきっちりと数え、なおかつグラフにして続けていたら劇的に痩せた!という話を聞いてやってみたら、効果があった。また始めるかな。でも、噛む回数を数えながらする食事って、味気ない。おいしいのか、そうじゃないのか、よ〜わからんようになってしまう。運動すればいいのだね、要するに。いい汗をかけば、ね。う〜ん、それが問題。そろそろ風が冷たいし・・・と、毎回同じところで足踏みをするのだった。いい汗、かく、か。
2013.11.17
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ここ数日、明け方ががっくんと寒くなった。まだコタツを出していないので、腰から下がすーすーする。灯油屋さんもやってくるように。まだあったかいのになぁ・・・と思っていたのは先週のことだ。秋から冬へ? 早いね。北向きの僕の部屋は結構冷える。もう膝掛けがないとアカンな。しかし、時の流れに伴って季節はきちんとめぐってくる。不思議だ。太陽がちょっと遠ざかっただけなのに、太陽ってすごいねぇ・・・とはお袋の弁。彼女の部屋は南向きなので、陽射しがあればまだあったかい。ぽかぽかと差し込む陽射しの中で、うつらうつらと居眠りばーさん。年寄りの特権かな。
2013.11.14
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ここしばらく、車の中では“昭和の歌”が流れてる。今でも自宅で仕事中は“やかましい系”の70年代ロックが流れていることが多いのだけど、運転中はどんなにやかましくても眠る時は眠ってしまいそうなので、共に唄える歌を YouTube からダウンロード。iPod からランダムに流し、唄う。特に夜中の車内はカラオケ化。これが結構眠気覚ましには有効だ。YouTube から「著作権侵害かなぁ」と思いつつも、手当たり次第にダウンロードして、今や“昭和の歌”ライブラリーは1千曲を超えた。不思議なのが、物心つく前の歌や生まれる前の歌までも唄えること。「長崎の鐘」(藤山一郎)とか、「かえり船」(田端義夫)、「上海帰りのリル」(津村謙)とか。まだまだある。テレビなぞはない時代の歌だったりするし、どうしてなのかなぁ・・・。昔、僕の家には炭坑で働く男衆がよくやってきていて、板張りの台所に座布団を敷いて丸くなり、花札に興じていた。それを脇に座って見ていた記憶があるから、赤丹青丹、猪鹿蝶だ!なんてやってる男衆が唄っていたのかもしれないな。1千曲超のライブラリー、昭和と限ってみたとはいえ、ジャンルはバラバラ。歌謡曲に、演歌に、フォークもある。なので、何が出てくるかな?という楽しみも。先日の夜中、運転中に流れて来て「おぉ!」と思ったのは、かぐや姫の「眼をとじて」。♪あ〜なたが首を かしげて見ていた〜♪ と歌い出すヤツですね。思わず一緒に唄ってしまいました。「眼をとじて」は山田パンダさんが書いた。パンダさんの曲は、かぐや姫の中でも好きな曲が多い。「眼をとじて」とか「僕の胸でおやすみ」とか「黄色い船」とか・・・・ん〜、もう思い出さん・・・。寡作なので、これくらいなのかな?今日は昼前からお出かけ。どんな曲が飛び出すかな〜。楽しみ。
2013.11.11
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今日もものすごい秋晴れ。天高く・・・とはよく言ったもんだな。でも、季節の変わり目の、あまりに晴れきった日というのは肉体的に苦手。ぼ〜っとするのはどうしてかしら?自分はその気になってないのに、周囲はそろそろジングルベルだの、餅つきだのと季節の先取りをされるので、こっちもなんだか落ち着かない今日この頃。先日も打合せの終わりに「忘年会は26日です」と言われて、は? もう?、と思ったら、来月の26日だった。今月と思ったこちらがイカンのかな。番組作りも年末進行となり、スケジュールがちょっとずつ前倒しに。その“ちょっと”が重なると、“たくさん”になってしまうのがしんどい。時に追われるのはイヤじゃぁっ!!・・・などと思いつつ、今日は1時間番組ふたつのプレビュー。どちらも年末オンエア予定で、どちらもディレクターは同じ人、ということは、この人も忙しい。今日のお昼に出張先から戻ってくるんだとか。体は大事にしましょうね、お互い。あぁ、本当に空が高い・・・。
2013.11.08
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地域の活動に力を入れている知人がいる。その彼が会長を務める団体が地域興しの一環として落語の独演会を開くというので馳せ参じた。高速も使って1時間半。会場の駐車場に着くと「ほとんどいっぱいなんで、一番奥でもいいですか?」と係の人。なるほど、一番奥の奧、側溝の脇だ。車の向きを変えようと、ぐるり、右にターンしたら、ガックン!、車体の左前が落ち沈む。瞬間、「あ〜、やっちまった!」。側溝に落輪・・・。ちゃんと蓋がしてあるのを確認したのにぃっ!降りて見てみると、落輪した先が蓋3枚分くらいオープンだった。見落としたのね・・・。こりゃぁ、JAFの出番だわ・・・と思っていたら、近くにいた男性陣6、7人がわらわらとやってきて、みんなでヨイショ!と持ち上げて、元に戻してくれた。ありがとうございます、助かりました。人間って、たくさん集まると力持ちぃ! 車に傷もなく、助かりましたわ、ほんと。落語独演会は、三遊亭竜楽師匠。中央大学法学部卒業という変わり種。竜楽師匠の詳しいプロフィールは、こちら。テレビではあまりお馴染みではないけれど、その実力はもちろん、活動力もピカイチ。テレビで見ないから活躍してないなんて思いがちだけど、テレビなんてほんの一面だもんな。外国語での落語に取り組んでいる師匠。以前、お菓子のルーツを探る番組でパティシエの辻口さんと共にポルトガルを旅していただいた際には、現地でポルトガル語の落語に挑戦。お菓子屋さんの一角に急遽あつらえた高座でやった演目は「ちりとてちん」。腐った豆腐を美味なる逸品と知ったかぶりして食べるところが笑いどころだけど、そこで地元の人たちはしっかり笑う。言葉もさることながら、見事な身振り手振り顔振り。ポルトガルの若い女性がゲハゲハ笑っているのがおもしろかったっけ。で、今日の高座は二話。あいにく知らない演目だったけど、休憩をはさんでおよそ2時間、楽しませていただきました。師匠、そして落輪から救出していただいた佐賀は牛津の町の皆さま、ありがとうございました。
2013.11.04
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越路吹雪さんのマネージャーだった岩谷時子さんは、マネージメント料をまったくとらなかったそう。「コーちゃんが好きだから」というのが理由だそうだ。いいね。岩谷さんが訳詞した歌を越路さんはたくさん歌ってる。『ラストダンスは私に』や『サン・トワ・マミー』に『ろくでなし』等々、いいね。越路さんの歌は結構好きで、時にiPodに入れては運転しながら聞いている。ついでながら、RCサクセションの『サン・トワ・マミー』も最高です。そうそう、越路さんがNHKの紅白歌合戦で『イカルスの星』を歌っているのを見た記憶があるんだけど、あれはいつのことかなぁ・・・。画面は白黒だったような気がする。『イカルスの星』は岩谷さんの訳詞じゃなくて作詞だっけ。『愛の讃歌』の岩谷さん訳(初の訳詞だったそう)に対して美輪明宏さんが「そんなの、歌の世界をきちんと訳してない」と言ったのは有名だ。もう15年以上前のことだけど、美輪さんに仕事でお会いした時、ご本人からその話を聞いたことがある。『愛の讃歌』はエディット・ピアフの自作自演。その歌詞には「愛のためなら盗みもするし、国だって友だちだって見捨てる」といった内容があり、美輪さんはそんな背徳的だと周囲から白眼視される面も愛の大切な本質だ、と力説された。そうだと僕も思うし、「そうですね」とその時も言ったけど・・・ごめんなさい、美輪訳も岩谷訳も、僕は大好きです!岩谷さん、安らかに。
2013.10.30
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ルー・リードさんがお亡くなりになった。71歳かな。単純に年齢だけでみれば“まだ若い”ということになるのだろうけど、肉体を乱雑に扱うミュージシャンの見本のような人だから(偏見だけど)、世を去るのもおかしくないのかもしれない。家には彼のアルバムが数枚あるけど、僕はルー・リードの熱心な聞き手ではないし、タイトルと曲が一致するのは「ワイルドサイドを歩け」しかない。でも、年を重ねてもスリムな体に危険な臭いをまとっている姿はかっこよかったな。ご冥福を祈ります。しかし寿命とは妙なモノ。以前、沖縄の地方紙の訃報欄に30代と100を越えた人のお亡くなり情報が並んでいるのを見たとき、不公平だなぁとやっぱり思った。その差70年間を30代で昇天した人が得たとして、その時間を刮目すべき使い方をするとも思えない。別に秀でた時間の過ごし方ではくても、普通であれば一番いい。でも、すっぱり切り落とされたように思い出せない、普通に過ごした、あったはずの時間もあるのだけれど。オレって小学校に行ったのかなぁ・・・? と、思うくらい、まったく何も思い出せない。記憶の吸い取り紙が脳みそを撫でていく〜って言ったのは誰だったかな?なんて書いていたら、岩谷時子さんの訃報が。作詞家としていい作品を沢山残している人だけど、越路吹雪さんのマネージャーでもあったっけ。97歳。“大往生”ということになるんだろうか。お疲れさまでした。
2013.10.28
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天高い秋空の日は、頭が重い。脳みそのシワが渋皮に覆われたような感じになってしまう。こんな日はゴロゴロするに限る。録画していた「東京ジャズ」を見ていたら、ラリー・カールトンのバンドにゲストとして登場したのはジョン・オーツさん。あら、ま〜。ホール&オーツの、あの“オーツ”が単独で、それも日本でやってるジャズ・フェスにゲストで登場するとは思わなかったな〜。やった曲は自作のモノで、ジャズというよりブルースフィーリングだったけど。もう60代も半ばだろうから確かに年齢は感じさせるけど、いや、お元気そうで何よりでした。かなりかなり昔のこと。僕の姉が福岡・天神を歩いていたら、前からホール&オーツのお二人が歩いてきたそうな。確かライブをやりにきていて、その合間に現地探検といったところだったんだろうな。すんごく背の高いハンサムさんと、小柄で精悍な感じのお兄さんだったそう。凸凹加減はコブクロってとこかしら。ラリー・カールトンも元気になった。ノドに銃撃を受けたのは、もう25年近く前になるかな。声帯をやられて一時は危なかった時期があったような記憶がある。その影響だろう、今も声は弱々しいけど、ギターは変わらずピカイチ。こちらもお元気そうで何よりです。
2013.10.27
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見るともはなしにBSの大リーグ中継をつけたまま仕事をしていたら、イニングの間にマウンドまわりにぞろぞろと人が並び、ギターを抱えたおじさんが中心に。どこかで見たなぁ…と思っていたら、おじさんが歌い始めた。「アメリカ・ザ・ビューティフル」ボストン・マラソンの時に起こったテロの犠牲者たちに捧げる歌。歌っているのは、ジェイムス・テイラーだった。へぇ、こんなところに。年とったなぁ。でも、どこか温かい優しい歌声は変わらないな。フラリと出てきて、サラリと歌って、終わり。いい感じ。日本だともっと麗々しくなるんだろうなぁ。なんて思っていたら、次のイニングの間かな、スタジアムに懐かしい曲が流れ始めた。「クラックリン・ロージー」、ニール・ダイアモンドだ。中学時代、シングル盤を手にした曲のひとつ。帽子をかぶってにやけたお兄さん姿のニール・ダイアモンドがジャケットだったな。曲に合わせてスタジアムのみんなが歌い、盛り上がる。いい感じ。これが応援ってものだろう。まだ後楽園球場があったころ、何度か巨人戦を見に行ったことがある。でも、トランペットを中心とした応援を強要される雰囲気がイヤになって、以来、1度もスタジアムに足を運んだことがない。ああいう応援風景がスタジアムの主役である限り、野球もサッカーも縁遠いな。誰かに音頭を取ってもらわなくても、思わず声をあげたり、立ち上がったり、拳を突きあげたりするのが応援だと思うから。
2013.10.26
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立て続けに台風・・・次々低気圧。となると、アタマが連続して重い。お医者さん曰く、“低気圧頭”。もう慣れてはいるけど、うっとうしいね。今日は打合せがみっつ。そろそろ出かけなきゃ。年末進行が始まって、スケジュールがタイトになってきた。会社勤めの皆さんは、年末年始はお休みだから仕事前倒しでもその先には休暇が待っているので気合いも入ろう。その仕事を受けるこちらは、除夜の鐘を聞きつつお仕事ということになるのだが。でも、この仕事を始めて四半世紀。なんとなく切れ目無く仕事をいただけてるからありがたいよね。皆さまの愛に支えられつつ、日々生きております。しかし、アタマが重いな・・・。
2013.10.24
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番組紹介テレメンタリー標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~琉球朝日放送が制作し、昨年9月にオンエアされた上記番組が「テレメンタリー」の年間最優秀作品に選ばれました。詳しい内容は → こちら同番組が5月6日(月)27時10分(深夜3時10分)よりテレビ朝日で再放送されます。※他の系列局でのオンエア日時は → こちら民主党政権下地元の強い反対にもかかわらず配備されたオスプレイ。政権が自民党へと揺り戻った今、憲法改悪も視野に入れる安部政権は“戦争ができる国”へ着々と歩を進めています。日常の生活さえも脅かす兵器。その配備が、住民の反対を無視し、どのように行われたのか?国民の誰もが知っておくべきことだと思います。強烈に遅い時間ではありますが見ていただければ幸いです。以下は昨年のオンエア前に書き込んだものです。--------------------------------------その危険性が取りざたされているオスプレイ。今年になっても事故が続きましたが、日本政府も操縦ミスというアメリカ側の分析をそのまま受け容れました。今、岩国基地に駐留しているオスプレイ。10月には沖縄 普天間基地に配備されることとなりそうです。軍事用ヘリ オスプレイは単に空を飛ぶだけではありません。沖縄本島北部にある訓練場を中心に戦争を想定した訓練をするのです。空で行われる戦争のための訓練。その真下に、高江(たかえ)という集落はあります。ここに、訓練に向けて、新たに6つのヘリパッドが建設されようとしています。ベトナム戦争が行われていた時代、この集落には「ベトナム村」と呼ばれる施設がありました。ベトコン(アメリカ側の蔑称ですが…)の村を再現しそこでゲリラ掃討作戦の訓練をしていたのです。その「ベトナム村」には村民の役として高江の住民がかり出されていました。高江の人々は人を殺すための訓練で標的とされていたのです。その村に、なぜアメリカ軍は住民の反対を押し切り、新たなヘリパッドを作ろうとするのか?こう考える人々が増えています。「ベトナム村と同じように、訓練には標的が必要さ」あの頃はベトナムの村を模した映画のセットのようなもの。しかし、ヘリパッドが新たに配備されようとしている現在、高江という集落自体が戦争訓練の標的となっている。その恐怖と憤りが住民を反対行動へと駆り立てています。--------------------------------------
2013.05.02
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番組紹介ムーブ海と陸の狭間で~ 漂海民・モーケン ~22万人以上の人々の命を奪った8年前のスマトラ島沖地震。亡くなった人の多くは津波の犠牲となりました。その津波を先祖から伝わる智恵で回避した人たちがいます。定住することなく、海を漂いつつ生きる、漂海民 モーケン族の人たちです。山へと向かうアリの大群。赤く色を変えた月。そんな自然の姿を迫り来る脅威の警告ととらえたモーケン族の人たち。海に寄り添って生きていた彼らはひとりの犠牲者も出さなかったと言われています。しかし、あの津波のあと、モーケン族の暮らしは変わりました。海上を離れ、陸での定住生活をする人たちが増えたのです。海を漂う生活を棄てたモーケン族の人たち。彼らに何が起こっているのでしょうか?詳しい内容は → こちら* 制 作 *RKB毎日放送*放映局 および 日時*RKB毎日放送 9月16日(日) 25:00NBC長崎放送 9月23日(日) 25:20RKK熊本放送 9月23日(日) 26:20OBS大分放送 9月23日(日) 25:20MRT宮崎放送 9月20日(木) 10:50MBC南日本放送 9月23日(日) 6:15RBC琉球放送 9月23日(日) 25:50
2012.09.15
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情報ツールとしての Facebook がどんなものか確かめるために、最近ちょこちょこいじってる。アドレスを入力しただけで「お友達?」がずらずらと並ぶのにはちょっと面食らった。その存在をまったく忘れていた人が入っているのにもびっくりだね。仕事上でメールを数回やり取りしただけで、ここ数年はまったく音信不通の人だ。これは何を解析した結果なのかな? ぼくのアドレスにメールをくれた人を世界に散らばるサーバーから検索しているんだろうかしら? それとも、ぼくのパソコンの中をサーチしてるのかな。それだと問題になるだろうから、違うかな。いろんなことを考えるんだねぇ。友人知人の中に、まったく知らない人もずらりと並ぶ。ぼくが仕事でちょくちょくおじゃまする県の人たちが多いね。これは何を解析してるんだろ。ぼくがどんなHPをよく覗くのか、その足跡を追っているのかな?いろんなことが出来るんだなぁ。一応本名登録がエチケットのようだけど、どんなことが出来るのかなぁと試しに覗くつもりだったのでアルファベットで入ったら、知人から探し当てられて「友達リクエスト」が届いたのにも驚いた。知人のページにぼくのことが「知り合いかも?」と出たのかしらん。これは便利な機能でもあるけど、余計なお節介でもあるわねぇ。同姓同名の人がいてびっくり。「同姓同名ぐらいいるだろう」とは思うけど、ぼくの姓はありそうでめったにお目にかかれないし、名前は別に珍しくはないけど男性でこの名前はこれまたありそうであまりない。これまで二人の同姓同名さんがいた。ひとりは小学校の時。朝のホームルームのときに担任の先生が、「○○、お前、今日、死んでたな」「は?」朝刊にぼくと同姓同名の警察官が殉職したという記事が載っていたのだった。もうひとりの同性聡明さんもまったく同じパターン(警察官?で殉職)だったと思うのだけど、こちらは記憶がはっきりしない。いるんだねぇ、同じ名前。同性じゃなく、お嬢さんみたいだけど。しかし、「お前、死んでたな」なんて、今の先生が言うと懲罰ものだね。プログラミングのせいだと思うけど、Facebookが表示する言葉遣いが気になるな。特に「友達」って言葉だらけのところがね。英語だと「Friend(s)」表示なんだろうか。「友達になる」って言い方、押しつけがましい感じがしてしまう。クリックするだけで友達になれたら、それはそれでハッピーなことだけど…なんて思うこちらがひねくれてるんだろうな。でもなぁ、「○月×日 △さんと□さんが友達になりました」なんてことを知らされても、ちょっと困るなぁ。ぼくは「友達の友達は皆友達だ」というタイプじゃないしね。個人情報に敏感で、ドキュメンタリー番組などは再放送さえも難しいこのご時世だけど、Facebook上では個人の行動や思考&嗜好に人脈などがあからさまになっている。そのへん、使っている人はあまり気にはならないのかな。みんなさらけ出していいやという腹のくくり方をしないと、使いづらいツール。「友達リクエスト」を無視する勇気も必要みたいだし、自分のHPや匿名でのツイッターのように「や〜めた」と投げ出すとき、その投げ出し方が難しいね。もう少しいじってみて、ぼくが使いこなすことができそうか、試してみよ。
2012.09.09
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番組紹介テレメンタリー標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~詳しい内容は → こちら* 制 作 *琉球朝日放送*放映局 および 日時*岩手朝日テレビ 09/09 日 26:00 - 26:30九州朝日放送 09/09 日 25:25 - 25:55※放送日時のないエリアでのオンエアは終了しました。
2012.09.08
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歯医者に通い始めてきょうで3回目。まだ歯石をとっている段階だ。特に虫歯が痛むとかいうわけではないのだけれど長い間放置していて、いつかは行かねば…と思ってた。夏休みの間は子どもたちがわんさと来るので、9月の声を聞き、朝夕だけは季節の移り変わりが感じられるようになったこの時期に、ようやく実行ということで。カルテを見てもらったら6年ぶりだとのこと。きちんと磨いているつもりでも、歯石ががっちり、着色もしっかりあると言われてしまった。そうだよね…。歯はとっても大事。健康診断同様、毎年1回は歯もチェックしてもらった方がいいのは重々承知してはいるのだけれど、歯医者さんはやっぱり苦手。でも、診察室の椅子に座ると、もうままよ、目を閉じ、口を開けて、されるがままになるしかない。がしがしがしがし、歯石と着色を削り取る音を聞きながら、歯医者さんや歯科技工士さんって偉いなと思う。おやじがあんぐり開いた口の中を覗き込み、一心不乱に作業をするなんてぼくには出来ないなぁ。それも、とってもとっても丁寧だ。技工士さんによってはやり方が微妙に違う。きのうの方は丁寧だけどずっと口に手をあてたまま。口を開けてると唾液が出てきて溜まるけど、技工士さんの手があるので口を閉じて飲み込めない。口を開けたまま飲み込むのはちょっと難しい。きょうの技工士さんは作業が少し進むごとに「はい、口を閉じてください」と言ってくれ、ぼくが口の中を整えるのを待ってくれる。快適でした。歯石を取り、磨いてもらったあとの歯は、舌先で触るとつるつるしていて気持ちいい。「これを維持しよう!」と、6年前も思ったんだけどね。作業は、上下の歯をそれぞれ左右の奥と前の6ブロックに分けて進んでる。きょうで3回目。下の左→上の右→下の前と来て、次回はどこかなぁ。今のところ、表面だけにとどまっていた小さな虫歯が一箇所発見されたのみ。これ以上、何もないといいのだけれど。
2012.09.06
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番組紹介テレメンタリー標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~その危険性が取りざたされているオスプレイ。今年になっても事故が続きましたが、日本政府も操縦ミスというアメリカ側の分析をそのまま受け容れました。今、岩国基地に駐留しているオスプレイ。10月には沖縄 普天間基地に配備されることとなりそうです。軍事用ヘリ オスプレイは単に空を飛ぶだけではありません。沖縄本島北部にある訓練場を中心に戦争を想定した訓練をするのです。空で行われる戦争のための訓練。その真下に、高江(たかえ)という集落はあります。ここに、訓練に向けて、新たに6つのヘリパッドが建設されようとしています。ベトナム戦争が行われていた時代、この集落には「ベトナム村」と呼ばれる施設がありました。ベトコン(アメリカ側の蔑称ですが…)の村を再現しそこでゲリラ掃討作戦の訓練をしていたのです。その「ベトナム村」には村民の役として高江の住民がかり出されていました。高江の人々は人を殺すための訓練で標的とされていたのです。その村に、なぜアメリカ軍は住民の反対を押し切り、新たなヘリパッドを作ろうとするのか?こう考える人々が増えています。「ベトナム村と同じように、訓練には標的が必要さ」あの頃はベトナムの村を模した映画のセットのようなもの。しかし、ヘリパッドが新たに配備されようとしている現在、高江という集落自体が戦争訓練の標的となっている。その恐怖と憤りが住民を反対行動へと駆り立てています。詳しい内容は → こちら* 制 作 *琉球朝日放送*放映局 および 日時*テレビ朝日 09/03 月 27:18 - 27:48北海道テレビ放送 09/08 土 25:30 - 26:00青森朝日放送 09/03 月 25:48 - 26:18岩手朝日テレビ 09/09 日 26:00 - 26:30東日本放送 09/04 火 25:56 - 26:26秋田朝日放送 09/08 土 25:55 - 26:25山形テレビ 09/02 日 26:38 - 27:08福島放送 09/03 月 25:55 - 26:25新潟テレビ21 09/01 土 05:20 - 05:50長野朝日放送 09/02 日 26:20 - 26:50静岡朝日テレビ 09/03 月 26:25 - 26:55北陸朝日放送 09/02 日 26:55 - 27:25名古屋テレビ放送 09/08 土 05:20 - 05:50朝日放送 09/01 土 06:00 - 06:30広島ホームテレビ 09/03 月 25:51 - 26:21山口朝日放送 09/03 月 25:43 - 26:13瀬戸内海放送 09/02 日 26:25 - 26:55愛媛朝日テレビ 09/08 土 26:00 - 26:30九州朝日放送 09/09 日 25:25 - 25:55長崎文化放送 09/03 月 25:55 - 26:25熊本朝日放送 09/04 火 26:15 - 26:45大分朝日放送 09/03 月 25:55 - 26:25鹿児島放送 09/02 日 06:00 - 06:30琉球朝日放送 09/02 日 26:10 - 26:40
2012.08.29
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ふぅ…。
2012.08.03
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友人宅のとなりは田んぼ。音楽を聴く音量をあげても、田んぼを超えた遠いお隣にはほとんど聞こえないそう。この地には骨を埋めるつもりはないらしいけど、「四方近くに家があるのはもうイヤやね」などと言う。確かに風の通りがいいし、そこに人工的な香りがしないね。なぜか懐かしい青ガエル。梅雨が終わってからずっと続く暑さはこたえるだろうね。でも、ここは「暑い・・・・」というため息さえも暑いような時期は1週間から十日ぐらいだってよ。もうちょっとガマンしなっせ。で、友人宅の愛犬、「めい」。女の子で、とてもとっても人なつっこく、シッポをぶんぶん振りつつ体を低くして、「遊んで遊んで、かまってよ〜」。番犬にはならんね。めいちゃんや、深夜、開け放ちの窓の下で「くんくん…ひゅぅん」と何度か鳴いていたのは寝言かな?
2012.08.02
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銀座通りを1丁目から、昔の勤め先があった8丁目へと歩く。ずいぶんとブランドショップが増えたねぇ。三越のライオンが入り口へと引っ込んだのはいつ頃かな。4丁目の交差点に雄々しくうずくまっていたのに、これじゃ待ち合わせがしにくいね。地下の映画館は今もあるんだね。ここで映画を見たことはないけど、通りを横切るかわりによく通ったね。珍しいのか、旅人なのか、若い男性が地下への入り口や映画館、反対側の飲み屋街などの写真を撮っている。みゆき通りとの交差点に人だかり。みんな携帯を手にかざしてる。なんだろ?近づくと・・・。おやおや、通り名を刻した看板の上に鎮座してるのは、銀座 ファッション・ストリートにネコ助さん。首輪をしてるから飼い猫かな。たくさんの人に見上げられても平然としているのは、怖いから? 登れそうもないけど、誰かに乗っけられたのかしらん。「もう3時間くらいたつぞ」と、誰かの声。8丁目まで行って戻るとネコ助さんはまだ看板の上に乗っていて、困惑気な表情の警官がふたり、見上げていた。落とし物として、交番行き?
2012.08.01
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上野駅はとてもきれいになっていた。新入社員のころ、上野駅の待合室で乗客を相手にアンケート調査をした。「駅の改修に伴うなんたらかんたら」…内容はすっかり忘れたけど、女学生のバイトがアンケート用紙を片手に聞き取る形の調査だった。ぼくの役目は何ヵ所かの待合室を回って、ちゃんと進んでいるかをチェックすること。ま、楽な仕事…のハズだったんだけどねぇ。アルバイトの女学生たちに、地廻りのようなチンピラ3、4人がからみ始めた。と、言っても「いくつ~?」とか、「かわいい子ちゃ~ん」とか、「お茶しようぜ」とかの、たわいない声をかけてまとわりつくだけなんだけど、乗客はいやがるし、女の子たちは怖がるしで、仕事がちっとも進まない。困ったね。「すみませんが、やめてください」こう言わなきゃねぇ、立場的に。今度はこっちがからまれることになるけどね。「お前が責任者か?」「そうですが」「ほぉ、じゃ、お前は駅長か」…話をするのもイヤになるね。ねちねちからまれたのは10分くらいだけど、あんまりアホなんで、スネでも蹴りあげて逃げてやろうかと思ったな。会社に忠誠を貫いたわけじゃないんだけどね。そんな待合室があった中央口のコンコースでは、いわき市の物産展が開かれていた。いわきは前日に会った友人のお母さんのふるさと。原発事故の風評被害で、農産物海産物は苦戦してるとか。出来事は、起こる前には戻らない。だったら、学ばなきゃ。慰安の日々を取り戻すためにね。
2012.07.31
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真っ青ないい天気だぁ…。夏らしいねぇ。しかし、この気温はなんですねん?ネコ助のアイスノンをかっぱらって、シエスタタイムに入るかな。
2012.07.31
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32年ぶりの邂逅も無事に終了。翌日、茨城と福島の県境に近い集落へ、中学時代の友人を訪ねる。会社を少し早めにリタイアした彼は、田舎暮らしがしたいと縁もゆかりもないこの地に奥さんと二人で移り住んだ。築100年ほどの農家を借りてるが、あの大震災のときはアップライトピアノが踊り出すほどに揺れ、瓦や風呂の壁は落ち、とっても怖い思いをしたそうで、しばらくは庭にテントを張って生活していたとか。夜は近くの居酒屋で奥さん共々呑みつつ話し、家に戻ってオリンピックを眺めつつ話し、そのまま布団にごろり。目が覚めたときには、奥さんはすでにご出勤。見送りもせずにすみません。朝食は、飼っているニワトリが産んだ卵で、友人が目玉焼きを作ってくれた。これも自家製のトマトが添えてある。うまいね。周囲は田んぼに囲まれて、夜は窓を開け放ち、網戸ごしに入る涼しい空気が心地よかった。おじゃましました。次はいつ会えるかな。
2012.07.30
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クラス会の会場は東京駅と有楽町駅の間、元都庁の跡地に建てられた東京国際フォーラムという、壮麗な建物の中。ここに学生時代の友人が支配人を務めるビアレストランがある。しかし、立派で広い建物だね~。東京駅から徒歩5分と書いてあったので歩いて来たけど、駅地下の蟻の巣のような通路でまず迷い、フォーラムに入ってからまた迷い、開始時間ギリギリに滑り込みセーフ。仲の良かったヤツが幹事係で、ぼくの顔を見るなり「はい、会費5000円」と手をつき出す。おいおい、32年ぶりの感慨は後回しかよ。集まったのは11人。頭やお腹がしっかり中年になったオヤジたち、名刺交換から始まるのがなんとなく滑稽。会話のきっかけが必要だし、やっぱり所属は大切だもんね。だれが、どんなところに就職したのかさっぱり知らなかったぼくは、おかげでみんなのこしかたがおぼろ気ながら見えた。卒業してもうかなりな年月がたつので、中には転職を6回も7回も繰り返したヤツもいれば、この7月(つまりは今月)独立して自分のコンサルタント事務所を開いたヤツもいる。いろいろだね。そんな中、ぼくは自分の仕事内容を伝えるのにひと苦労。番組の構成係って認知度が低いな、ほんと。次に全国放送がある際には「見てね」メールを出さねばね。しかし、26時とか27時とか、「それ、何時?」っていう時間ばかりだからなぁ。見てって言いづらい時間帯なのがネックだな。みんなでかくなったり、薄くなったり、シワシワになったり。顔と名前が一致しないヤツもちらほら。ぼくらは第二外国語でクラス分けされていて、ぼくらスペイン語かを選んだのは人数が少なく、政治学科と経済学科、二つの学科が混じった55人のクラスだった。やっぱり選択科目の関係もあって、同じ学科のヤツの方が馴染みが多いね。見かけはそれぞれ年相応だけど、話すと中身は昔のまんま。まぁ、それぞれに山も谷もあるんだろうけど、そんな話をしても楽しくないもんね。みんなの記憶をジグソーパズルのように組み合わせていくと、当時の光景がクリアに見えて来るのが昔馴染みのヤツらと話す時の楽しみだ。思い返すとバカな学生時代だったね。だから、楽しいんだけど。出席者はほぼ全員、東京はじめ関東在住。九州くんだりからやって来たのはぼくだけ。だからそれだけは喝采を受けた。いやいや、フライトはタダだから…。次はもっと人数を増やして、来年の正月にやろう!と、盛り上がる。それまでに、マイル、貯まるかなぁ。
2012.07.29
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クラス会場近くにやって来た。 ちょっと緊張するね。
2012.07.28
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家を午前9時半に出たのに、馬喰町のホテルに入ったのは午後5時半…。東京は羽田の滑走路からが遠いねぇ。羽田空港では到着口まで長々と歩き、東京駅までのリムジンバスが渋滞で遅れ、東京駅では馬喰町行きのホームがわからず構内をウロウロ。いつの間にか待ち合わせ場所て名高い「銀の鈴」へ。こんなにせせこましいスペースじゃなかったような…。目指す総武線は地下だった。4番ホームで並んでいたら、「次の列車は2番ホームから」だと。荷物を抱えてえっちらおっちら、階段を再び登り降りしてそのホームへ。山手線みたいに続々と来る路線じゃないらしく、車内でしばし待つ。馬喰町は二つ目。あっさり着いて地上へ出たら、「駅から徒歩2分」のホテルが見あたらない。コロコロバッグを引いてしばし歩くが…通りが寂しくなって行く。初めてのホテルでテキトーに歩いても迷ったことは無いのだが…これは、カンペキに間違ったね。すでに汗だくなので、お茶をしつつひと休み。気を取り直して、反対方向に歩いて行ったら、10分ほどで目的のホテルが現れた。その隣に地下鉄の入り口が。確かに2分だね。部屋でしばし休んで、銀座探訪へ。銀座界隈で、ぼくは二つの会社に勤めた。そのどちらも、今はこの地には無い。建物はそのままあるけど、片方はテナントビルとなっている。もう四半世紀以上前のことだものね。街の店も変わったね。有名ブランドが連なっている。アップルストアも賑わってるし。でも、多彩な文具を扱う伊東屋は変わらずあるし、大通り地下の映画&飲み屋街はそのまま。会社の帰りにしばしば寄ったお好み焼き屋や釜飯屋も変わらずある。昔と今が入り交じって、なんだか妙な感じ。しかし、こんな華やかなところを毎日てくてく通っていたかと思うと、なんかイヤだね。だから、東京からとんずらしたんだ。
2012.07.28
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