過去の思想家が何を考えてきたか明らかにするために、彼/彼女の著書や論文など公刊された文献ばかりでなく、未公刊のいろんな1次資料を入手して読み解くーーこうした研究は、文字通り「思想史」つまり「思想の歴史」研究であり、やることは歴史家と同じになってくる。こんなことは言うまでもないことだろうが、しかし長年「理論研究」をやってきた私にとっては、50歳を目前にしてようやく足を踏み入れる領域になる。30年近く前から関わってきた、イギリス亡命期のカール・マンハイムの思想の歴史がそれだ。これがようやく可能になったのは、6月にニューヨークの Bard College に行き、貴重なマンハイム資料の一部分を入手することができたからだ。その「一部分」に過ぎない資料を読み解く作業だけでも大変なのだから、先の長い話である。
マンハイムはドイツからイギリスに亡命する直前に、「精神の民主化」の問題を、自らの大学教員としての仕事との連関性で考えていたふしがある。すでに当時のワイマール共和国は、ヒトラーが政権を取る直前であり、ファシズムの足音はひたひたと迫っていた。ドイツ語では「Geist」である「精神」は、いろいろないきさつから英語では「culture」(文化)と訳され、「文化の民主化」と直訳できる「democratization of culture」として表現されることとなった。それは、マンハイムの死後に遺稿として出版された論文集Essays on the Sociology of Cultureの第3部に明らかだ。これはもともと、イギリス亡命前にマンハイムがドイツ語で書いていた複数の論文だが、彼の逝去後に英訳されて世に出たものであり、編集者や訳者の解釈が入ってしまっていると考えれば、資料としての取り扱いは「要注意」の文献ではある。しかし、この「democratization of culture」について、昨日から今日にかけて読んだ未公刊の1次資料 "Reply to T. S. Eliot by Karl Mannheim (1944)" でも触れられていたので、おやと思った。こうした1次資料がなければ、通俗的な理解で終わってしまうからだ。
マンハイムはしばしば「エリート主義者」という扱いを受ける。ドイツ時代の知識社会学で「自由に浮動するインテリゲンチア」を重視し、イギリス亡命後は大衆社会における社会計画論を唱えた彼だから、確かにそういう面は否定できない。だが、エリート主義者たるマンハイムが、なぜ最晩年はロンドン大学教育研究院に迎え入れられ、教育社会学に傾倒したのか、ジョン・デューイなどを通して「大衆の教育可能性」を考えていたからではないか。とすれば、単に「エリート主義者」とレッテル貼りをしてしまうことを許さないほどに、彼の思想は複雑だということになる。この1944年の1次資料は、イギリスのキリスト教知識人サークル Moot での仲間 T. S. エリオット(詩人)に対するマンハイムのコメントだが、マンハイムは「democratization of culture」の1つの側面として、専門家にしか分からないような高度な知識を、内容を薄めることなく社会に広めていくことを考えていたようだ。言わば知識の民主化と言ってもよい。もちろんマンハイムは、少数者としての知識人を重視していたことに変わりはないだろうが、彼の大衆社会論が決して大衆を上から目線で蔑視するものでなかったことは推察できる(その意味で、ウィリアム・コーンハウザーによるマンハイムの「貴族主義的」という分類は、やはりいささか単純に過ぎる)。
このマンハイムのコメントに対して、エリオットは、一般大衆に高度な知識を普及させることには悲観的だったと伝えられているが、それについては別の1次資料 "Comments on Mannheim's Letter by T. S. Eliot (1944)" が存在する。それを読むのはこれからだ。なお、これらの1次資料が載っているのは、以下の未刊行の文献の巻末資料としてらしい。Moot でのマンハイムの議論についてはとにかく資料が少ないので、貴重な1次資料だ。
Cooper, L. C., "The Hindu Prince: A Sociological Biography of Karl Mannheim", Vol. 2, appendices (unpublished typescript).