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ある時、父が空を見上げ、今日はハトッシ(方言魚名)が大量に捕れる日だと、漁へ出かけ、間違いなく、言った通りの魚種を捕って来るのを目撃。陸に居ながら、何で海中の魚の事が分かるのだろうか?不思議に思い聞くと、風で感じるとの返事。魚の臭いがする訳でもなく、どうしてだろう?再度尋ねると、海から吹いて来る風の温度で、北上する黒潮の水温を体感。近海を、どの魚種が回遊して行くのか、当てるとのことである。小さな島少年たちはいろいろ実験をしたくなります。私、ひかるは魚のヒレに切れ目を入れた場合、まともに泳げるか実験。必死に、尾ビレで舵を取るにも、ほろ酔いチドリ泳ぎ。残酷な事をしてしまった、と後悔させられました。子供の頃、島の収入源は、黒糖生産で、サトウキビはネズミの格好の餌でした。ネズミが繁殖し、その天敵として、猛毒を持ったハブが、大繁殖していました。ハブは、脱皮をするので、皮を見ると、どれくらいの大きさか。ハブの棲家がどの近辺かは、子供同士の情報交換で察知できます。しかしハブは、かなりの行動範囲を持っているので、常に心の準備が必要。ハブに噛まれた人を数多く見、ひかるも噛まれる直前の危険な目に何度か遭い、毒の猛威は、嫌という程知り尽くしていました。噛み所によっては、命に関わります。ひかるはハブの猛毒、何かの薬になるのでは、子ハブを一升瓶に入れ飼いはじめました。猛毒を皮膚に塗ると毛が生える、毛生え薬になるのではとの考え。母に見つかりしこたま怒られました。ハブに三度も噛まれており、すぐ潰せとのこと。もとの棲家へ戻すと再度激怒、ハブは必ず育ったわが家へくる、なぜつぶさなかった、と。八年後両親が他界後、島人が我が家の管理中、冷蔵庫の裏に大きなハブがいた。噛まれる直前だったとのこと。迷信だと思っていた母の言葉「ハブは必ず我が家へ戻ってくる」執念深いハブを思い出した。
2026.05.30
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子供の好奇心、色々なことに、疑問を感じます。ひかるは、野生のハトを生け捕りにし、飛べないよう羽先を切り、ニワトリ同様、飼い慣らそうと実験。難なく飼い猫に食べられてしまい、小さなウズラですら、野良猫に襲われても逃げ切れるのに、何でいとも簡単に食べられるのだろうか、と考えさせられました。やはり、空を飛ぶ鳥は空で生き、たとえ小さなウズラでも、地上で生きる代々の知恵が備わっているのだなぁと感心。また、大空を飛び交う、ヒバリを観察すると、巣へ入る時、直接巣には入りません。わざと別な場所へ降り、茅の根を這って近づき、巣に入ります。直接巣に入ると、カラスに巣の場所を狙われ、卵や雛を食べられるため知恵を使っているのです。しかし巣から出る時は、直接飛び立ちます。頭隠して、尻隠さず、の格言通り。やる方もやる方、気付かない方も気付かない方。どちらも、似た者同士。間抜けな鳥もいます。ニワトリを野生化させた場合、卵を産む度に、必ず喜びの大声を「コケコッコー コケコッコー」と上げます。カラスはその大声で、卵が生まれたことと、巣の場所を確認、労せずして栄養満点な卵を頂戴。ニワトリの馬鹿さ加減は、見ていられません。他にも無責任な鳥がいます。野生のハトは、人間に見つからないよう、細心の注意をし、場所を考え巣を作ります。野生のハトの巣を見つけるのは、容易ではありません。一度、人間が巣を見つけ、近づいた気配が感じられると、警戒し二度と巣には戻りません。多分、人間の匂いを感じるのでしょう。我が子より、我が命を大事にする、臆病な生き物。普段は、楽しく飛び回っているスズメやヒバリたち、台風の時どうするのだろうか。台風を避け、遠くへ逃げるはずは無い。台風を避け、数十キロ先の島へ逃げ、翌日その島へ舞い戻って来ることは、とうてい考えられません。それが証拠に、台風が過ぎ去った翌日には、元気よく飛び回っているのです。その疑問は解けました。小鳥達は、危険が迫った時、岩穴で台風が過ぎ去るのを、じっと待っているのです。彼らは、どうしたら尊い命を守れるか、心得ていたのです。我々も、小鳥の生き方見習うべきではないだろうか。時代のうねりや大きな組織力で、一人で立ち向かっては、どうしようもないことが、しばしば身に降りかかります。何も一人で立ち向かい、尊い命を落とす必要はなく、厳しい嵐が自分に自分に降りかかった時、岩穴でじっと時を待ち、思案することも必要。嵐が通り過ぎた時、思いっ切り行動にでましょう。
2026.05.30
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生きていく中、誰もが持って生まれた財産、知恵を使わない方はありません。基本的な知識は、学校なり本を読む事で得られますが、知恵は見方や考え方、立場や状況などで十人十色。絞り出せば出す程、無尽蔵に出てきます。親子や将来に関する問題など、少なく見ても一人30以上の問題があるかと思いますが、一つ一つの問題に対し、いま採れる最良の方法、これしかない、という道を選んでみましょう。30通りの「これしかない」というものがあるはず。後は、その最良の方法を実行するだけ。そして30通りの問題すべてが矢となり、自分の方へ向かって来ますが、すべての問題には時間差があり、その時間差を利用し一つ一つ処理して行く。100の問題があったとしても、決して処理不可能ということはありません。今は小さな問題でも、将来は大きな問題になる場合もあり、それに対しては、今の内に手を打っておけば大きくならずに済む。今は大きな問題でも、時間が解決し、消滅する問題もあるかと思います。良きリーダーになれる人は、問題点を見つけられるか、処理出来るか、将来、伸ばすべき芽を見つけられるか、そして育て大きく出来るか、という事へ知恵をいかに絞り出せるかが、大事な要素ではないだろうか。数年後に大きな問題になる、と判断したならば、担当者を置き、現状のまま大きくするなと指示。今は小さくても、将来大きな芽にしたい場合は、しっかり説明をし、目標を持たせ担当させれば、芽は徐々に育って行きます。将来、大きくなる問題でも、今は処理が出来ない、という場合は、担当者を置き調査を継続。後で経過を知らずに荒療治するのと、知っていてやる事では、処理方法に大きな差が出て来るのは当然。男の働き盛り30代、ひかるは80人の部下を任され、下請けや外注を含めると、100数十人の仕事を処理していました。だいたいが15班から20班に分かれ、国内外取材、翌日以降の予定や下見、打ち合わせや段取り等、同時進行。他にも兼務が多く、電話は鳴りっぱなし、客は順番を待っている状況で、目の回る忙しさでした。これ程多くの問題をどう整理し、同時処理しているのか、コツを教えて欲しいと言われましたが、問題処理に、前記した通り、知恵を使っていたことが分からなかったようです。色々な問題があったとしても急ぐべきか、直接自分が実行すべきか、部下に振り分け、実行させて大丈夫かどうか、即座に判断し指示して行けば問題にはなりません。大事な事は、30本の矢を描き、時差処理をしていく。このようなことは、決してコンピューターには出来ず、そこが知恵を使う人間の偉大な要素ではないだろうか。
2026.05.30
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母は晩年、アルツハイマーとなりました。上京させるべく父を説得するにも「母の面倒は自分が見る」の一点張り。やむなく、石垣島の療養施設へ入所させました。アルツハイマー特有のものなのか、白衣の医者や看護師、薬を極端に拒んだとのことですが、東京のひかるのところへ行けるんだ、と言うと、素直に病院や薬も受け入れました。見知らぬ人を捕まえ、東京の息子、ひかるのところへ行くんだと口走っていたとのこと。日増しに容体が悪化しているとの連絡に帰郷。しかし、あれだけ待ち望んだ対面は、まさかと思われる再会となってしまいました。既に息子ひかるの面影は、母の記憶の領域に跡形も無くなっていたのです。お母さん、帰って来たぞ! ひかるだぞ!と声をかけるにも後ずさりをし、部屋の隅へ逃げ脅えて睨む拒否する眼差し。妖気すら漂う、一度も見たことのない視線でした。ひかるが帰って来たんだぞ、と近寄れば近寄る程、恐怖の色は濃くなるばかり。何で息子を怖がるんだ!何でこうなってしまったんだ!辛い時、孤独な時、何時も優しい母を思い出し、例え落ちぶれた姿でも、温かい眼差しで迎え入れてくれる。どんな時でも母にだけは信じてもらえる、という心の拠り所があったからこそ、今まで頑張って来れたはずなのに。元気な姿を見せ、喜ぶ顔が見たくて頑張って来れたのに。子供の頃、怒られもしました。叩かれもしました。しかし常に温かく見守る眼差しが有り、愛が有りました。命有る限り、我が身に限って、母の愛が閉ざされるなんて……まさかこのような親子の再会になるとは、一度も想像しなかった。夢だに見なかった。母の元、一つ屋根の下で生活出来たのは15歳まで。人間、いくつになっても母は母。もっともっと甘え「お母さん」といっぱい呼んでやりたかったのに。話したい事が、背負い切れない程、沢山あるのに。母の事を思い出さない日は、一日たりとてなかった。母とて一日たりとも忘れなかっただろうに。会える日を一日千秋の思いで待ち続けた母子。何で無情にも鉄の扉が降りてしまったのだろうか。子供達との離別生活、会いたい一心が高じ、アルツハイマーになったのだろうか。待たせ過ぎた、許してくれ。母の為、何一つしてやれなかった、喜ばせてやれなかった悔しさに、懺悔の波は押し寄せ、断腸の思いに唖然と立ちすくむだけでした。母子の心さえ通わせられないアルツハイマーの怖さ。これ程辛くて、寂しい世界があるだろうか。母の好物を思う存分食べさせると、脅えが和らぎ、手を握れるようになりました。(後で知ったことだが、施設での過酷な環境が、母から息子への信頼さえも奪い去っていたのだ)そして足腰の弱った母を背負い、散歩に出た時、あまりの軽さにつんのめり三歩歩んで立ち止まる。ランドセルの重さにしか感じられません。全ての記憶を失った母に心は通じず、長き別離を償う無言の歩み。南国の陽射しに汗ばむ背中。涙は止めどなく、踏み出す影へ、七つ・八つ。海を見下ろす丘の上、すべてを洗い流すかのように押し寄せる白いさざ波。波の足音は、ザザザーサー、ザザザーサーと浸み、身や心、砂浜までも洗い清めて行きます。はるばる長い旅路を渡って来たのだろうか、風は優しくすれ違い「風の渡り来る南、生まれ育った島、我が家があるんだぞ、風の行く先、東京があるんだぞ」と語りかけると、心が通じたのだろうか。母は何時迄も、生まれ育った南の空をじーっと見つめ、他を向こうとはしません。懐かしい古里、遠い昔の事を思い出しているのだろうか。首に抱き付く、か弱い両手にこもる力、島を手繰り寄せているのです。大きくあえぎ、高まる息遣い、首筋に二つ、熱く伝わる母の涙。翌年、死に水も取れない、心を通わせる事すら出来なかった、永遠の別れとなり、生涯ぬぐう事叶わず、消す事の出来ない、涙を背負い続ける人生となってしまいました。……親不孝 詫びる息子の 背に涙……
2026.05.30
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懺悔の丘。
2026.05.30
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入社5年目、放送局では心臓部門の「テレシネ」職場へ配属されました。放送開始から終了まで、交代制宿泊勤務がある、映画やアニメ、大量のコマーシャルなどを送出する職場。数十台もの映写機がずらりと立ち並び、指定された映写機へ素材を装填。魔法の箱、心臓部はミスが即全国へ流れ、緊張感がピリピリ伝わる職場です。遂に自分自身の手でフィルムをかけ、全国へ映画を流す時が来たのです。興奮のあまり胸は高鳴り、震える手。映写機の爪の噛み具合を二、三度確認。3秒前!2秒前!1秒前!スタート、オン!大成功!!遂にテレビという魔法の箱へ辿り着いた。見果てぬ夢だと思っていたのに。熱く込み上げるものがありました。私と同じように映画館に行けない子供達が、今このテレビで映画を観ていることでしょう。体が不自由な人で、映画館に行かなくても、家で映画が観られる。病院で療養中の人も。お年寄りで映画館に足を運べない人も。山間部の人も。島の人も。この映画を、何百万人もの人が観ているのだろうか。少しは世の役に立っているのでは。夢を追い続けて来た事は、間違いではなかった。遥か南の島、南十字星を眺め、ランプの灯りで過ごした子供の頃が思い出され、映画が観れなくて悔しかったこと。数々の失敗をし、パスポートを握り締め、親と別れたこと。貧しくて辛かった東京での生活等が、走馬灯の如く通り過ぎ、日本の南端で動き出したこの鼓動、無意味ではなかった。父よ、 母よ、この世に誕生させてくれて、有難う。生まれて初めて、心底湧き出る喜びを体験し涙が出ました。男泣きです。
2026.05.30
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また、テレビマンの世界は、視聴者には考えられない、過酷な職場でもあるのです。ジェットコースターの後ろ向き乗り、後ろ向き走りや、高所恐怖症の解消は勿論。野球中継などでは、どこへ飛ぶかも知れないホームランボールを、一瞬たりとも画面から外す、見逃すことは許されません。小さなファインダーに望遠レンズ、当たった瞬間の初速度は想像出来るかと思いますが、球を捉え続けるのは至難の業で、かなりの熟練を必要とします。また、一、三塁にランナーが出て、一打同点の時などは、盗塁をするのか先にホームを突かせるのか、両監督の腹の内を読み、全スタッフが瞬時に連係プレー。臨場感溢れる内容を放送。他のスポーツのルールやマナーは勿論、政治経済、芸能界や水中撮影など、あらゆる分野の勉強と訓練。そして、張り込み取材にいたっては忍耐あるのみ。ジェットコースター後ろ向き乗りで、フォーカス、ズーマーを自由に操作出来るカメラマンは、70人のカメラマン中たった一人しかいませんでした。また、ジェットコースターへ乗る時は、落下物、小物などは持ち込めません。我々が取材する場合は、施設責任者と十分にチェック、間違っても素人が真似をしないことです。ねつ造テレビや、やらせテレビ事件など、後を絶ちません。テレビはわずか60年で、街頭テレビの時代から家庭へ入り込み、大きな影響力を持つ情報機関に育ちました。子供達はテレビで育ち、教育にまで影響しかねません。往年のテレビマンが退き、安易に考えるようになったのか。競争原理、視聴率主義が強過ぎる為なのか。情報量が多くなり、不良品が出たのかは分かりませんが気になる事件。何があったとしても、人々の興味を無理に引くことのないよう、自然に共感され、興味を持たれ、納得してもらえる番組作りをしてほしいと、つくづく思うこの頃。テレビカメラの目は一つです。真実以外は写さない!偽りや、まやかしは決して写さない!テレビマンとしての心構えが求められています。そしてテレビは、自らの巨大な影響力を考え、巨象が踏みはずすことのないよう、勇み足の無いよう見つめ直す時期に来ているのではないだろうか。その昔、「歌は世に連れ、世は歌に連れ」と言われました。現在、「テレビは、世に連れ、世を写す鏡」慎重なる番組作りをして欲しい。目は一つ、狙う真実、正義の目。
2026.05.29
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他にもテレビの裏側には、色々なエピソードがあります。鉄塔での高所取材時、スタッフが本番終了までは無事でしたが、いざ降りる段になり、下を見た瞬間、高所恐怖症が走り、降りるに降りられなくなりました。下から声をかけるにも、見向きもせずボンドで貼り付けたのではないか、と思われるくらいベッタリしがみ付き、ワナワナと震える姿は人間セミそのもの。お笑い番組のシーンのようで、笑ってしまいそうですが命にかかわる一大事。救出作戦は大騒ぎになりました。しかし現場は笑い話ばかりではありません。思い出したくない事件もあります。御巣鷹山日航機墜落事故。取材活動の帰社後、スタッフの食が進まず、落ち込みが激しかったことには参りました。真夏の出来事、犠牲者と泣き崩れる遺族の姿が、あまりにも多すぎ、山全体を覆う臭気と霊気の中での取材。規制線はなく生々しい現場を見て、精神的に受けたショックが大きすぎたのです。食べ物を見ても、衣服を焼き捨てても、風呂に何度入っても、あの臭気が鼻にこびり付き、色々なシーンが蘇ってくるのです。遺族のことを考えると生々しいことを書くのは不謹慎ですが、何気なく見ると木の枝に肉片がぶら下がっていたり…本当にスタッフの脳、精神的なトラウマに陥りかねない極限状況。極力対話をし、冥福を祈り、元気をとり戻させるまでには1カ月必要でした。世の悲惨な出来事でも、いち早く正確に伝えるのがテレビマンの務め。二度とあのような事故の起きないことを願うしかありません。世の縮図を背負い、テレビマンは、今日も行く。
2026.05.29
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テレビ界就職直後の昭和40年、晴海に新設された、零下30度という当時としては画期的な冷凍倉庫取材に遭遇。当時は冷蔵庫自体の普及率は低く、冷凍室付の冷蔵庫は未発売。冷凍という言葉すらほとんど使われていませんでした。冷凍倉庫自体も初めての開業で、大きな話題として取り上げられたのだ。常夏の地で育ったひかるには、零下30度という世界は、今までに生きてきた中では、とても考えられません。即座にコチコチの冷凍人間にされてしまうことしか頭に浮かんで来ません。いよいよ本番になり、意地悪にも女性レポーターは奥の方へと入って行きます。仕事なので、やらなければ、という意識はあるのですが、冷凍人間への拒否反応で足が竦み、何時でも逃げ出せるよう、入り口のノブにしがみ付いているだけ。本番が終わると表へ飛び出すと同時に座り込み、へたり込んでしまった。二度とこのような仕事はやりたくないと思いました。周りからは「テレビより、お前の恐怖に慄く顔が、一番面白かった」とからかわれ、未だに語り草。氷や雪など無縁の世界で育った人間が、冷凍倉庫へ入れと言われると、冗談抜きにどうしても浮かんで来るのは冷凍人間。恐怖を感じ、拒否反応は間違いなく出て来ます。もし皆さんが、これから乗る飛行機が間違いなく墜落する、と分かっていても乗らざるを得ない場合。タラップを登る靴は、30キロにも感じるのではないだろうか。ドアにしがみ付き、墜落寸前に飛び降りたい心境になるかと思います。ひかるにとっての冷凍倉庫は、このような間違いなく死ぬのではないか、と恐怖を感じるところで、未だに零下30度という言葉は、身震いが出るセリフ。嫌な番組に冬の天気予報がある。予報官が、「シベリアから零下30度の寒気団が南下し……」聞いただけで、金切り音が奥歯から後頭部へ引っ張られる感じがし、一晩中凍て付きます。お願いだからこのセリフだけは絶対にやめてもらいたい、と思いますが、これは自分だけの問題ですので仕方がありません。せめて我が家のテレビだけは、このセリフを禁止用語とし、スピーカーから出ないよう、改造出来ないものかと考える寒がりやの小心者。
2026.05.29
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天気予報報
2026.05.29
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そして、女性は世の宝。女性無しに世の中成り立たず、男女雇用機会均等法も出来、議員や管理職等、女性は世の中を動かす大きな力となっています。そして所狭しと活躍する、素敵な女性が、大勢見られるようになって来たのも事実です。日本は美を重んじる国柄。昔の男尊女卑の悪習慣のせいなのか、素敵な女性に対する呼び方が見つかりません。例えばアメリカでは、ナイスレディーと呼ばれると、上品で素晴らしい女性と言うことで、呼ばれた方も誇りに受け止めます。辞書には、貴婦人、麗夫人という呼び方はありますが、普段、素直に呼ぶには語呂合わせが、あまり良くありません。素敵な日本女性を表現する、大事な言葉が、近代化から取り残されているように思われます。これで良いのだろうか?女性の社会進出が著しい昨今、公式な場所やパーティー等で、素敵な女性に乾杯、と言う気持ちを表現出来る、総称が必要ではないだろうか。女性議員はすぐにでも実現すべきで、実現の暁には、第1号の総称で呼ばれる事でしょう。そして、しかるべき国語として定め、教育にも取り入れ、外国にもアピール。小中学生の女の子達が、大人になった時、あの総称で呼ばれるような、素敵な女性になりたいと、自分を磨き実現できた時、本当に幸せを感じるのではないだろうか。個人的な提案ですが。清らかで品位のある、美しい心の素敵な女性、美顔人(ビガント)、と称したらいかがでしょうか。発音は外国人にも受けるかと思います。思わず拍手喝采、乾杯! 乾杯! と言いたくなる素敵な女性には、「ビガント、ビガント」と賞賛しようではありませんか。現実は、オバタリアンなる言葉が流行っており残念至極。もし、オバタリアンと呼ばれる行動があったとしたら、即反省すべきではないだろうか。日本女性としてビガント。子供達に見せつけよう。世界へ示していこう。オバタリアンと、呼ばれるな。オバタリアンと、呼ばせるな。オバタリアンと、さようなら。
2026.05.28
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現在、不愉快な言動ではあるが、オバタリアンが定着しています。電車がホームに近づくと周りをキョロキョロ、ソワソワ。前の席が空くならともかく、所かまわず空席を取らないと、人生が大損するかの如く、席を立つ人とぶつかり合いながらでも席を確保する姿。降りる流れに平気で逆らう姿。娘時代は、そうでもなかったはずなのに、自分さえ良ければいいのか、と聞きたくなります。切符を買う時、乗り物に乗り込む時も品のない素行に度々会い、やはりオバタリアンだと認めざるを得ない場面に出会うのは事実である。何も先んじたからとて、長生き出来る訳ではなし、飛び抜けて幸せとも言えないだろう。綺麗な衣装を纏い、化粧をしたとしても台無しで、悲しい限りだ。おそらく、バーゲンやスーパーの限定品売り出し等で、早い者勝ちの行動が何時の間にか身に染み付いているのであろう。大売り出しは、直接財布に影響が出るのでやむを得ませんが、他での押しのけへし分け出る行動は止めて貰いたい。娘が母親の行動を見て育ち、子孫末代まで引き継がれて行くのか、と思うと空恐ろしくなります。道徳や人生を教えるのは親の努め。なまったれ親が事あるごとに学校を責めますが、学校は全ての子供を同一教科書で同じように教えます。己の子の個性を一番知っている親が、その個性を後押しすることで、立派な人間に成るのです。「子供は、親の背中を見て育つ!」このままでは、どんな大人が出来上がるのだろうか。因果応報は、巡り巡って来る。苦労して育てあげた子供達に将来、オバタリアンと呼ばれ、平気でシルバーシートを占領する、大勢の娘さんが出来たのでは、皆さんが、結果的に辛い思いをするのでは無いだろうか。娘よ。貴方は素敵な女性になれる。決して悪い点は、真似することなかれ。一歩引く、貴方の心美しい。
2026.05.28
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しっかり自信をつけ、笑顔が戻った妹に、一番辛かったのは何だったんだと聞くと、体育の時間が一番辛かった。何度体育の時間がなくなればいいと思ったことか、と小さな声での呟き。島の広い運動場、友達が木登りをし、飛び回る姿、一人で見ているのは辛かったことだろう。手術の傷跡が多く残る足を「よくも私の足、魚の腹わたを取るように、あっちこっち切り開いてくれたもんだ」と笑って言っていました。東京での生活、銭湯へ行くしかありません。傷跡の多く残る、麻痺した足を人前にさらすことは、辛かっただろうに。耐えるしかなかったのです。あれから何年か経った後、今度は一級国家試験の更に上級、特級に挑戦するとのことでルートやパイ、微積分などの入り組んだ、ややこしい計算式を、どうしたら解けるのか教えて欲しい、と持ち込まれた。特殊な電卓をプレゼントする。問題はどう考えても、大学卒業の学力を必要とした難問ばかりで、妹には不可能としか思えませんでした。しかし見事に合格、「電卓のおかげだった」とお礼の連絡に、心から祝ってやりました。あえて妹の事を記したのは、障害の有無に関係なく、平等に与えられたこの元気に打ち続ける鼓動がある限り、自身の置かれている立場や状況を正面から見つめ、鼓動に負けない強い心、唯一最良の道を選択して行けば、素晴らしい人生が送れるものと確信しています。体の不自由な人達が、一人でも多く障害を乗り越え、社会の一員として胸を張り、堂々と生きて行って欲しいと願うからである。おそらく我が家は、福祉の光の届かない、日本南端の、最も貧しい家庭だったでしょう。障害者と両親が貧しさゆえ、2千キロという壁を乗り越えられず、会うこと叶わぬ状況下、幸せを求め続けた家族の絆、障害者の励みになれば、と。最近、自分で決断し、実行する妹の姿を見る時、「この妹に幸多かれ」と祈る日々。妹は生涯片足補装具で生きるしかありません。補装具でも仕方ない、しっかり自分の人生を歩んで欲しい。決して忘れない、あの時の笑顔を。「兄ちゃん! 私、給料袋、二つ貰えるようになったのよ」
2026.05.28
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負けず嫌いで意地っ張りな性格、擦り傷やアザだらけになりながらも、右手で自転車のサドルにしがみ付き左手でハンドルを操作。片方の足でペダルをこぐ乗り方を必死に練習。遊び盛りの姿を見、何でこんな目に遭うのか。完全にマヒした足、妹はいつも男の子のようにズボンを穿くしかありません。他の女の子同様、スカートを履かせてやりたい。何でスカートが履けない体になったんだ!何で3歳の女の子が、杖をついて歩かなければならないんだ!何の罪も犯していないのに。何で幼い女の子に、過酷な試練を背負わせるんだ。何で不公平な扱いをされなければならないのか。神様がいるなら助けて欲しい。妹のマヒした足を見るたび、動作を見るたび、涙が止まりませんでした。ひかるより妹のほうが、悔しい思いを数千、数万倍したことでしょう。不自由な体での行動範囲はわずか、車を自由に乗り回し、本当の足代わり、見聞きする喜びは、人生最大の喜びだったことでしょう。免許取得から数年後、妹の友人から連絡があり、電話は通じるけど、部屋には来ないで欲しい。来ても、絶対に中に入れない、とのこと。ひかるが電話をしても、同じ返事。でも大事な時は、必ず相談をしてきたので、今度のことは、大したことはないだろう、とあまり心配はしませんでした。数ヶ月経過後、妹が縫製技能国家試験に合格したので、祝ってやって欲しい、と友人からの連絡。受験のため、部屋中問題を張り、教材などで足の踏み場もなく、人を部屋に入れる状況でなかったとのことでした。その内、母校の東京都身体障害者職業訓練校から、後輩達のため、週に数日の実技指導と講義を引き受けて欲しい、と言われているとの相談。10年以上もお世話になっている縫製会社だけど、最悪の場合は、やめることを覚悟、講師の仕事を受けるべきだとアドバイス。学校側からも縫製会社に口添えがあり、会社勤めと講師の仕事を両立。一級縫製技能者、ということで、会社や得意先からも信頼され、サンプル品や高級品の縫製からサイズ直し、後輩達の指導、と忙しい日々を送っております。
2026.05.28
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やはり数年もの間、その一言が、忘れられなかったのでしょう。「障害者が免許を取得する場合、東京都には奨励制度があるし、大丈夫だ」と説得すると、長期休暇が取れそうにもない、とのこと。会社の方には、兄からお願いしよう。長年働き、休暇の目的もはっきりしていることだし、理解してもらえるはずだと。妹は最後に、全ての段取りは自分一人でやってみる、と言って納得しました。数ヶ月後、「取れた! 免許が取れた!」と弾んだ声で連絡があり、祝ってやりました。よほど嬉しかったのでしょう。無口で必要なこと以外はしゃべらない、兄にすら一度も笑顔を見せなかった妹が、車庫入れで失敗したことや、S字カーブで踏み外したことなど、笑顔でしゃべりまくっており、30年以上も背負って来た何かが吹っ切れた様子。このきっかけが自信となり、妹の人生は大きく展開していきました。車を購入、地方出身の同僚達と、お盆やお正月に友人の田舎へ同行。色々な土地や人との出会いや見聞あり。車が本当の足代わりとなり、あっという間に日本全国が行動範囲になったのです。やっと走り回れる3歳児、「兄ちゃん遊んでくれ」とピコタン、ピコタン追いかけていた姿が思い出されます。突然、引き付けを起こす程の高熱にうなされ発病。妹は、自分の2本の足で元気に歩いた記憶はないとのこと。小さな島には松葉杖とてなく、竹すらありません。まっすぐな木を与えると、船の櫂を漕ぐようについて、「兄ちゃん遊んでくれ」と追いかけて来るようになりました。
2026.05.28
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ひかる24歳。妹が上京するとのこと。友人及び親戚がなく、優しい言葉をかけてくれる人もいない、厳しい東京で生きて行けるのだろうか。片方の足は完全に麻痺しており、パスポート持参。15歳の少女である。しかし妹はあまり干渉されない東京で、ひっそり生活したかったのでしょう。小さな島、偏見の中で育ち、生きる全て、唯一の頼りは兄だったのでしょう。幸いにも東京都の身体障害者職業訓練校へ入学、卒業後、訓練校の紹介で縫製会社へ就職。会社の寮へ入れました。数年後、同業他社へ転職した同僚から、「今までより条件が良いので来ないか、との誘いに乗りたい」との件で相談。無計画で、衝動的な行動に、思いっ切り叱ってやりました。元気な友達は、あっちこっち転職するかも知れない。お前は障害者なのだから、他人の真似事はするな! じっと我慢しろ、と。妹は寂しそうな、そして芯から怒っている、射抜く眼差しで睨みつけているだけ。まさか兄から身体障害者扱いされるとは、思っても見なかったことでしょう。夢見る乙女心のショックは大きく、お互い気まずい無言の一時があり、「帰る」と一言残しトコトコ出て行きました。その後、数年間の音信不通があり、ひかるの方から連絡。「運転免許を取ったらどうだ」と持ちかけると、どうせ「障害者なのでしょ」と、蚊の鳴くような小さな声での返事。
2026.05.28
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単純過ぎる答えの様ですが、登山者に何で山に登るのかと聞いたとしても、山があるからだという答えの如く、岩と波がある限り千年先も1万年先も、只、「これしかない!」と繰り返す。自然の摂理だったのです。そして、台風が過ぎ去った翌日、父が畑を見回るのについて行きました。大切に丹精込め、育て上げた作物は、揺さぶられ、薙ぎ倒されています。うつろな眼差しで、何やらブツブツ呟き、根本に盛土する父の姿を見た時、哀れで、かわいそうに見え、反面、怒りを覚えました。台風は間違いなく毎年来る。近所の人達はこのような生活に見切りをつけ、歯が抜けるように島から出ていく中、何で父もそのような生活を求めないんだろうか。この父は、馬鹿じゃなかろうか、と言いようのない失望感に襲われました。しかし上京後、必死に生きる中で父の本当の気持ちが、理解出来るようになったのです。当時は妹の小児マヒが治せるものと信じ、手術のため全財産を使い果たし、日々の生計を維持する事すら必死だったのでした。台風に嫌という程痛めつけられようとも、島を出たくとも出られない。引っ越しをする事など、とても考えられず、前にも行けず、後へも引けない極限の状態にあり、ただただじっと時を過ごすしかない。これしかない!幼い頃抱いた失望感が無くなり、以後、立派な父に見えるようになりました。また台風は、ほとんど雨を伴いますが、子供の頃、雨のない、からっ風台風が襲いました。台風通過後、しぶきで覆われた島全体が焼け野原の如く枯れてしまい、家畜はおろか、人間さえも生存が危ぶまれる状況。もし本土を雨を伴わない台風が襲った場合、しぶきは風に乗り、海岸線より数キロ内陸部まで運ばれ枯れ野原化、膨大な塩害が出る事でしょう。台風の雨は、しぶきを洗い流してくれる、人間や自然にとっては、大事な恵みの雨なのです。この地方では島全体を焦土と化す、からっ風台風は、ピーカジ(火風)と呼ばれ、大きな自然災害をもたらすものとして恐れられています。
2026.05.27
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人工的に作られた防波堤に叩きつける波は、30メートルものしぶきをあげる。音も想像できるかと思いますが、大自然の熾烈な戦いは、えぐれた岩の横腹に、下からしゃくり上げる時、しぶきは粉末状に前方へ飛び散るだけ。搾り出される音も、これまた想像もできない、炸裂、唸り声の異様な合体音。巨大な鯨が押し潰され、もがき苦しみ、訳の分からない、悲痛の叫び声を出している様にも聞こえます。「ドキューン」 「ドズーン」、言葉では表現のしようがありません。そして台風通過後、一面に油を流し込んだような穏やかな水平線。嵐の前の静けさ、という諺がありますが、嵐の後の静けさの方が、はるかに静かです。なぜあれだけ熾烈な戦いをするのか?静かにしていればいいのに。なぜ無意味な戦いをするのか?普段は遊園地であり、色とりどりの熱帯魚達が見せてくれる、アニメの世界。穏やかで、母のように優しい海が、何で異様な音を出し、激しく恐ろしい海に変わるのだろうか?激しさと静寂が目の前に繰り広げられる時、静と動、鬼の顔と母の顔。この相反する変化に疑問を感じ、この二つの顔の持つ意味が、どうしても理解できませんでした。しかし後日、過酷な試練を味わった時、自分なりの答えが出せたのです。本当に苦しい時にとれる方法は、背を向けるか、前へ進むか、この二つしかないはずだ。背を向ける事は簡単ですが、しゃにむに前へ進むしかない「これしかない!」と、自身に確認出来た時、二つの顔に対し、自分なりの結論が出ました。そうです。二つの顔には、何ら意味がなく、ただ「これしかない!」
2026.05.27
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ひかるが中学生の頃、人生最大の難問にぶつかりました。島の生活や子供たちにとって、海は切っても切り離せない存在です。都会の子供たちが、公園や遊園地で遊ぶように、海と魚は、遊園地や動物園のようなものであり、熱帯魚と戯れて育ちました。しかし一度台風が荒れ狂うと、恐ろしい海に変化します。瞬間最大風速、70メートルの台風が暴れ狂った時の事を想像してみてください。普段は、波と岩が何気なく仲よく調和しており、さざ波が、えぐれた岩の横腹をくすぐる。今は眠たいから、くすぐるのはやめてくれよ、と戯れているように見えます。しかし一度台風が襲い暴れだす時、目の前に現れた姿は凄まじいものでした。木々は否応なしに揺さぶり、ねじ伏せられ、風雲は、摩擦のあまり雷音稲妻と化し、海は怒涛のうねりを片時も休む事なく送り続け、攻撃の手を緩めません。海鳴りは耳をつんざき、雨は天から降らず、横から殴りつける。風雲波は三つ巴となり、巨大な洗濯機が渦巻き、暴走するが如く、自然の猛威を見せつけ荒れ狂い、小さな島は恐れおののき震えているかのよう。人間の存在はあまりにも小さく地面を這い、神とて何ら頼りになりません。そして三つ巴となった風雲波の怒りの挑戦を受けて立つのもまた大自然で、どれ程痛めつけられようとも、負けるものか、と受けて立つのは岩でした。
2026.05.27
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また、日本のVTRが軌道に乗るやいなや、「日本の野球中継を、大リーグの中継に負けない番組にしたい」という話が、ひかるに持ち込まれた。アメリカと聞くだけで、「やってやろうではないか!」と即座に行動開始。やっと野球にスローVTRが一台導入された時期だと言うのに、一気にスローVTR6台を導入。当時、誰もが想像できなかった大型バス大、VTR6台搭載のVTR車で野球番組を作り上げたのである。苦労したのはスタッフ作りだ。カメラマンや音響、照明や効果など番組スタッフはいるがスロー職ははじめてで、ワンランク下に見えやりたがらない。とんでもない発想が生まれた。当時スローの操作は車のシフトレバーのように左手でコマ送りを操作。もちろん右手はカメラ切り替えボタンを瞬時に押す。レバー操作を右にすることも考えたが、社内の事情から左になった。思案の末、入社したての新人で左利きを抜擢、いきなり本番スタッフ、またレバー操作が左手なので運動神経抜群な右手利きより上手に操作。左スローは一気に軌道に乗った。往年の野球番組ファンなら、いきなり次々と出てくるスロー画面、コマ送り戻しに食い入るように見たでしょう。球場へ行くよりテレビで見た方がいい、と現在の野球放送の原点を、あっと言う間に作り上げ、業界人のど肝を抜いたのである。一番は大リーグの中継だったでしょう。野球にとどまらずバレーボール番組、サッカーや相撲、あらゆる番組にオメガ方式VTRが使用されていく。記した通り、アメリカアンペックス社のテープ幅2インチVTRは東京のキー局ですら4台前後、ローカル局では持てなかった。オメガ方式国産VTRは単身用冷蔵庫同等の形状で電子編集ができ、スペースや値段でローカル局でも持てる。ローカルで録画編集し放送、全国がスタジオおよび番組の対象になったのである。キー局は20台、30台単位で導入、大量のコマーシャルなども処理。編集問題がクリアーされアニメなどにも利用。日本は世界最先端の映像王国になっていったのです。
2026.05.26
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なぜひかるが社長でもないキー局の社員でもない、開発予算を行使できる立場でもないのに革命的なことができたのだろうか。時代背景である。東京のテレビキー局は30社前後のローカル局を持っています。系列局です。エリア拡大のため全国の山々に鉄塔を立て拡大。スタジオはカラー化、コマーシャルフィルムは膨大化のためコンピュータを導入。テレビ局はウハウハ儲かるが人材、事業化でゴタゴタ状態。ひかるのテレビの命は番組作り、スタジオから抜け出し北海道、九州、四国、全国の家にまで入り込み番組を作るという発想をする人がいなかった。そのためロケができるVTR、カメラ、レンズやバッテリーの開発に携わる人がひかるだけだった。更にソニーは当時、民生用VTR、VHS対ベータ方式で大敗。VTR事業から撤退かと言われていた。放送用VTRでもVHS陣営がすすめるアルファ方式が先行。試作機を導入し溢れるフィルムのビデオ化段階だった。名もないひかるだが放送業界からたった一人ソニーの放送用VTRオメガ方式を実用化すべき、と厚木工場へ乗り込む。訳の分からない男が来た、と追い返したいところだが、ベータ方式で大敗。藁をもつかむ思いの状況下、担当部長のM氏はひかると握手したのである。24時間体制、あっという間にオメガ方式に軍配が上がる。
2026.05.26
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ロケーションを多用した番組作り、ひかるにとって、それ自体は朝飯前の仕事だ。並行して、大きな壁が目の前に立ちはだかったのである。それは、VTRの問題だ。当時日本では、アメリカ・アンペックス社のテープ幅2インチVTRが導入され独占していた。2インチ幅は5センチ以上あり1時間テープはずっしりと重く高速で巻き戻し再生。当時の日本の技術で製作は無理、10年が過ぎ買い替え時期になっていた。丁度日本の技術もアメリカに肩を並べるところまで進んでいたのである。更新機種を日本製とし、2インチから1インチへの移行を目指したのである。アメリカ製2インチVTRは値段がローカル局では買えない。キー局のフジテレビで4台、日本テレビ、TBS、テレビ朝日、テレビ東京、大阪のテレビ局、NHKも含め、国内には30台前後が導入されていた。なんといっても、目玉が飛び出る程の値段で、日本のメーカーでは、特許の壁があり、模倣を許さなかった。極めつけは、可搬型のVR3000という旅行トランク大の機種で、アンペックス社とNASAが軍事偵察機搭載用に開発したという、当時の最先端技術が集約された機械だ。パビックという会社や、TBS、フジテレビにもない。両局は子会社である八峯テレビに持たせる方式、ドラマロケやスタートしたVCM等で重宝されていた。ひかるはこの機械で稼げば稼ぐほど、将来の後継機種を考えずにはいられなかった。この可搬型のVR3000、たぶん防衛庁やNHKも含め、国内には5台前後が導入されていた。このままアメリカ機種に更新したら、日本の放送業界は儲けの大半をごっそりアメリカへ上納することになる。アメリカにだけは負けたくないというひかるにとって、とても許しておけるものではない。早速立ち上がったが、とても一人の力で太刀打ち出来るようなものではない。それこそ、死闘と呼ぶにふさわしい試練が待ち構えている。しかしひかるは、3年をもって日本からアメリカ製VTRの影を抹殺する。そして、5年後には、日本のVTRが、全世界の放送局を独占したのである。
2026.05.26
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沖縄の本土復帰時、パスポートを焼き捨て、本土の同期の連中と論争もケンカも対等に出来る、と目に見えない鎖の呪縛から解放されたのである。そんな事は多分、体験した人にしか分からないことであろう。そんな時、窓際族から社の中心へ戻るはめになったのだ。そしてひかるは暴走した。今度はいい意味での暴走だ。同期の連中は先に管理職として登用され、会社の経営にまで携わり、後輩たちからは一目も二目もおかれていた。それが、徒党を組んで会社に反旗を翻したのである。ひかるにとって、その行為は許せなかった。今まで付いてきた後輩たち、女房子供もいるだろうに・・自分の利益ばかり考えていいものか! と頭へ来たのである。社の中心に座ると、ひかるは重役や社長を論破した。そして社長には、三日三晩、いやと言われても追いかけ回し、「取り巻く状況は最悪だ、しかし守りに回っていると、さらに社員は、歯が抜けるように引き抜かれていく、現在3分の2の社員が残っているが、5割を切ればなだれ現象になり、もう持たない。どうせなら、半端でない覚悟を持って、一気に攻めよう、それしか道はない」 と説いたのである。いや、間違いなく、説教だった。あまりの熱意に社長は、反省をした。飛び出した連中は、折あらば、更に社の弱体化をさせよう、取って代わるべく、虎視眈々と狙っている。それに比べ、注目もされず、黙々と仕事をし、管理職の機会を与えられなかったこの男が、本気で社を憂い、たとえどのようなことがあっても、最後まで残って踏ん張ると言い切る。「飛び出したい人は、飛び出せ! 自分は最後まで残る、看板は俺がはずす!」と不動の姿を見せるひかるを見直したのである。逞しく、一回りも二回りも大きく脱皮した姿で、全社員に号令を発したのである。社長は、人材登用が間違っていたと反省し、存分に暴れてみろと、ひかるに託したのである。ひかるが思い切った、電光石火の行動が採れたのには、この暴走があったのだ。
2026.05.26
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年齢的にはビートたけしとテリー伊藤君の間、番組作りはベテラン中のベテランで、不慣れなテリー君のフォローとたけしの間を取り持て、と指示。またMカメラマンはフジテレビ日曜日ゴールデンタイム8時からの萩本欽一「オールスター家族対抗歌合戦」のチーフカメラをやっていた人物で同時進行中。収録日程を確認し、民放キー局8チャンネルの裏番組4チャンネル、ゴールデンタイム同時間帯に同一チーフカメラマンを起用したのである。ひかるはお笑い番組もやっていたのでたけしは顔見知りだ。これといった印象はないが関西に対抗する東京のお笑い界の起爆剤になるのではないかと見ていた。ひかるは毎日平均して15本前後のスタジオ番組や中継、ロケやニュースの取材等忙しい思いをしていたがMカメラマンにたけしの番組、細かに報告するよう指示してあった。ロケが終わると必ずMカメラマンとは時間を取り状況報告は受けると同時にMカメラマンには不慣れなテリー伊藤君、たけしとの間をうまくフォローするよう、その都度指示していたのだ。たけしの事故後、雨傘番組が次々とお蔵入り状況時、会社の近くの小料理屋でMカメラマンと報告を聞きながら話をしていると、時々首をくねらせ、すくめるような動作、チック現象が出る。Mカメラマンに注意すると、全く感じていないし自分は何もしていないと言い張る。これはたけしが事故の後、首をくるんくるんとヒュッ突かせるチック現象が出、ファインダーを見ていて、無意識のうちに移ってしまった職業病である。ひかるがMカメラマンを番組担当にしている都合上あまり強硬に止めろと言えなかった。そのうち色んな事が起きた。飲み屋のママが「あんた達2人何をやってんの?? 首をくるんくるんヒュッ突く、気持ちが悪いね」と言う。な なんとひかるに移ってしまったのだ~ヒュッ突きをひかるとMカメラマンが交互にくねる、笑い話だ。その内、何という事だ! ママに移ってしまったのだ。料理をしながら、あるいは、いらっしゃいませ、と言いながらくるんくるんとヒュッ突きをやっている。恐るべし・・その内お客までがくるんくるんとヒュッ突きをやっている。店中大騒ぎだ。これはもうたけしに責任を取って貰うしかないだろうという事になる。ところがひょんな事にMカメラマンがトイレへ入っていていなくなると、全員収まってしまう。出てくると全員がまた、くるんくるん。止めろ~たけし~裁判にしてもMカメラマンが証言台に立たないと実証出来ない。とんでもないたけし伝染病、ワクチンのないコロナ以上だ!!本物たけしのヒュッ突き病が放送されると、全国でヒュッ突きが蔓延し放送局自体がやり玉に挙げられ社会問題化するのでは、と心配した。このたけし騒動、たけし! 責任を取れ! と言いたかったがその内たけしも番組お蔵入り中、徐々に収まりMカメラマンも収まった。それで一件落着、たけしは人騒がせな奴じゃ。
2026.05.26
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話はたけしの話に戻す。たけしは20代ツービートで漫才をやっていたがチョボチョボでヒットしなかった。当時は大阪の上方漫才、横山やすし西川きよしブームで、東京では萩本欽一と坂上二郎のコント55号、伊東四朗のてんぷくトリオやドリフターズが人気。テレビ界で影の薄くなったたけしを起用し、大雨で中止になる野球中継番組の代替え番組企画が持ち上がった。当時後楽園球場はドーム化されていなかった。王選手と長嶋茂雄の属する巨人軍大ブーム、日本テレビの野球中継が雨で中止になった場合に流す、いわゆる代替え番組「天才たけしの元気が出るTV」での起用。売れているタレントなら断るだろうがたけしは、代替え番組だとしても初めてたけしの名前が番組の冠に付くタイトル、鬼瓦権蔵役だ。この番組はスタジオメインでロケの映像をどれだけ取り込めるかにポイントがあった。ひかるはそのロケの部分を請け負ったのである。しかし毎週代替え番組を作るが、多少の雨ではブームの巨人軍野球中継の視聴率が良いため中止にしない。どしゃ降りの雨が降らない限り、たけしの出番は無い。スタッフは毎週代替え番組を作って編集するが、また流れてお蔵入りだが、使い回しが出来ない為また作る。当時日本テレビの野球中継が絶好調、視聴率が良く雨傘番組だとしてもお金は予定通り値切る事なく全額支払う。番組作る側からすれば気が抜けてしまうがお金の為だと言い聞かせ頑張るしかない。そんな中、たけしがバイクで交通事故を起こし、とんでもない顔面になってしまったのである。どうあがいてもたけしの顔はテレビに出せる状態では無い。しかし初めて番組タイトルに自分の名前が出たたけしは、何が何でも続行したい強い意志を示した。代替え番組が良かったのだろうか、かなりひどかったたけしの顔はお蔵入りし、なかなか放送されなかったのである。実はこの時ロケーションディレクターをしていたのが後のタレント テリー伊藤君であった。大学を出て間もない27歳前後だったと思うが、ど素人で初めての番組作り、色々苦労させられた。「天才たけしの元気が出るテレビ」は1985年4月から代替え番組として開始。巨人軍野球が絶好調でたけし番組はほとんど放送されません。そんな中たけしは交通事故を起こしたのです。日本テレビ野球放送が終わった10月、松方弘樹や高田純次などを加え本格的な番組になっていきます。
2026.05.26
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ビートたけしの番組でロケを担当させたMカメラマンを、ねるとんに起用。ロケの経験が豊富で、他のカメラマンとの連携がスムーズにいったのである。もちろんオールロケで、これほど充実した内容の番組ができる、ということで、業界では予想以上の評価を得ることになったのである。労使問題で青息吐息だった会社が、誰もが目を疑う活況ぶりだ。当然、業界では注目され、後にフジテレビ100%子会社となって行く。早稲田出身の露木氏はじめ、慶應出身者が周りにゴロゴロいるが、ひかるは益々異彩を発揮していく。威張ることなく腰が低い、テレビの命は番組だ!、とお茶の間を意識。人間として生まれ一番愚かな事、一番の不幸は、せっかく親から貰った知恵を、使うことなく墓場へ持っていくこと、とひかるの口癖は響き渡っていた。当時、テレビ局はカラー放送、ネット局充実へほとんどの資金や人材が当てられ、番組の内容がスタジオ中心でマンネリ化している事に気が付く人はいなかった。ひかるにとって、テレビは単なるテレビでなく、何時までも魔法の箱であって欲しい。テレビには団欒があり、新しい知識を得る場でもあります。遥か彼方の山や川、望遠鏡ですら見えない風景や景色がある。行った事もない、国や場所で営まれる人々の生活も垣間見られる。ふるさとがあり、夢があったり、人々は生涯、どれくらいテレビと対面するのだろうか。子供達はテレビで育ち、教育にまで影響しかねない。子供の頃見た魔法の箱、テレビは未来永劫、魔法の箱だ。テレビの、命は番組である。知性、感性、人間性あふれる番組を作り、感動、興奮を、お茶の間へ届けよう。離島や山奥、昔や未来、時空を超えた画をお茶の間へ届けよう。そして、テレビに恋した男が贈る言葉。テレビは、いかに視聴者の目となり得るか、越えられるか、知覚たらんか。
2026.05.26
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この番組の放送時間帯は不毛の時間帯と言われ、なかなか視聴率がとれない売り物にならない時間帯だったが一変したのだ。この番組が放送されると、業界の人達から見ると、中継車を持ち込んで、かなりケーブルを引き回し、番組が作られていると思ったらしい。コスト的に中継車をキープすれば、キープしただけで一日百万以上はかかってしまう。こんな時間帯に、中継車を使って番組を作るなんて、とても考えられない、といわれたのである。この番組はスタジオで番組を作る以上の、素晴らしい画が、低コストでお茶の間に届けられたのである。ロケの場合、だいたいバッテリーは5、6個持っていく。ねるとんは、4チェーン必要なので、照明やVTRなどを含めても30個前後あれば十分、このシステムは威力を発揮したのである。スタジオの音楽番組やドラマなどは、台本があって、ディレクターがカット割りを決めていく。重要な仕事である。ロケの場合、いちいちカット割りなぞ言っていられない。カメラマンが、全体的な画の構成、流れを把握していく必要がある。かなり高度な能力を必要とされるが、バッテリーの問題が解決され番組内容に集中できるため、いい番組が出来るというわけだ。
2026.05.25
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ねるとんでは、これまでにない、全く新しい多重ロケ方式が採り入れられた。常に、4台のカメラとVTRが対になっており、同時にスタートさせ、テープが終わるまで、一切ストップをさせない。4台のカメラ・VTRが回っている状態で、映画で使われていたガチンコを撮りスタートマークにする。4台のカメラは、自由に動き回り、あらゆる角度から収録。例えばグラスを落として割るシーンなど、手元と落ちる床面を撮るカメラを決め撮影。編集時に、スタートマークを揃え、同時にスタート、4分割画面に、それぞれの画をはめ込んで編集ポイントをチェックする。早い話が、4画面を見て、タッチをしていけば、面白い表情が、リアルに編集出来るというシステムだ。もちろん、素人相手なので、従来のストップ、スタートを繰り返していたのでは、とても表情が硬く画像にならない。まかり間違い、演技をつければ、完璧なやらせになってしまう。もちろん、常に当時では、最高倍率の望遠レンズ、高感度のカメラを用意、かなり離れた距離から、カップルをねらう。カップルは、近くに人もいなければ、カメラの影もないので、普通の恋人が恋を語るように語る。皆さんが、テレビを見、その状況は知っているだろう。編集も、例えば、プロポーズシーンで、別の男が、ちょっと待った! 誰が見たとしても、生放送、あるいは、それ以上の内容だったのだ。
2026.05.25
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ロケを採り入れた番組を作りたい、誰もが考えうる発想だが、具体化するには何らかの着想が不可欠だ。当時のロケ、一番の難点はバッテリー問題だった。ひかるもカーバッテリー等、あらゆるバッテリーを考え、実験したが、やはり無理だった。試行錯誤、明けても暮れても実験中、小型弁当箱大、きゃしゃに見えるが、ビニール樹脂でコーティングされた物が目に止まった。テストをすると十分行ける代物だ。ひかるは、これで放送業界を一変させられる、と小躍りした。BP90という型名で、早速チャージャーを分解、誰もが驚く72連のフローティング式チャージャーを部下を動員し、一月もたたない内に完成させたのである。メーカーが四個チャージ出来る4連式を得意になって売り込みに来たが、72連を見せると、腰を抜かさんばかりに驚いた。こんな事をする人など、想像も出来なかったであろう。ビートたけしの番組で威力を発揮したが、さらに多重ロケという「ねるとん紅鯨団」、当時では考えられない番組手法で、このフローティングシステムが成否を分けたと言える。ひかるはビートたけしの番組でロケの真髄を得徳した、Mカメラマンを起用し、本格的なロケ時代の幕開けを確実な形にしていったのである。現在、秘境番組、NHKの家族に乾杯、ポツンと一軒家などオールロケ花盛りだが、40年以上も前にそれ以上の番組が作られていたのだ。恐るべきは、このBP90なるバッテリー、あらゆるロケの電源として使われ、なおかつ40年を経た今でも活躍中。ひかるの着想、電光石火の決断がロケの電源を統一、安定させたのだ。このバッテリーは照明やVTR,音響機材など全てのロケ機材の電源に使われ、各メーカーが統一電源で機材開発、設計が出来、日本の映像業界が世界の先駆者に成ったのは言うまでもない。いち早く電源を統一、投資リスクを軽減できた業界は五十年以上もアメリカの放送NTSC方式から脱却。デジタルのスカイツリー時代を築いて行ったのである。世界の放送方式はアメリカ、ヨーロッパ、共産圏、日本の4方式で放送されている。
2026.05.25
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20代後半、沖縄が本土復帰をする。ひかるは大事にしていたパスポートを焼き捨てた。ひかるの中で何かが吹っ切れたようだ。そしてちょうどその頃、社内には、一大異変が起きていた。第一期入社の同期の連中は、管理職として各部門を統括していたが、よりによってその連中が束になって、会社を辞め別会社を設立し、従来の仕事をそっくり持って独立していったのだ。組合が出来、労使問題でガタガタしているとはいえ、発注先であるフジテレビ゙が、設立されたばかりの、資本の入っていない独立会社へ翌日から仕事を廻す。明らかに契約違反であり、フジテレビはひかるの所属する子会社を潰しにかかった、と解釈されても仕方のない事情であった。取り巻く周りからもかなり注目されている中、唯一残った第一期生、ひかるは社のど真ん中へ担ぎ出されてしまったのである。しかし、ひかるは苦境に立たされれば立たされる程、頭を使う。次から次と、誰もがあっと驚く奇抜な策を行使、放送業界全体をも覆すリーダーシップを発揮して行くのである。四度にわたり、管理職が有能な社員を引き連れ独立、残された社員がほとんど組合員、次々と有能な社員が引き抜かれ、社の存亡が危惧される混乱。当然、沈静化するまで待とう、何とか無難に切り抜けよう、と守りに徹するのが普通である。しかし、ひかるは全く逆の発想だ。こういう時だからこそ打って出る、しゃにむに攻撃態勢を取り、社内の目を組合騒動からそらせ、一丸にする。攻撃目標も、生半可でないどでかい目標を掲げる、という発想だ。当時のテレビはドラマやクイズ花盛りで、スタジオ、局内中心で作られている。ロケを大量に取り入れ、山や川、家の中まで入り込み、外部の映像を茶の間へ届けよう、番組作りの土俵を強引に外へ出す。技術プロダクションとしてテレビ局と番組の内容で勝負しようとの考えである。ひかるが手始めにトライしたのが、タケシのデビュー番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」だった。兵藤ゆきや高田純次の映像は、お茶の間に大いに受けた。そして、業界を、あっと驚かせたリアルな表現、しかも素人を相手にした、オールロケの集団お見合い番組「ねるとん紅鯨団」だった。勿論この番組はとんねるずのデビュー番組だ。この二つの番組でスタジオ中心から強引に外の映像を茶の間へ届ける。並行して海外ロケ機材開発、海外の電源事情や電波問題などデータを確立。30年後ノーベル賞に輝くリチウムバッテリーの初期商品BP-90を開発。その後、日本は世界に類を見ない映像、テレビ王国へと突き進んでいったのである。次回、裏話など・・・ご期待を。
2026.05.25
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(株)東通は、TBSから社長が送り込まれ、経営陣もTBS色が強かった。第一事業所がTBS内に置かれ、第二事業所がフジテレビ内に置かれた。頭が良く入社試験の成績の良い人がTBS内第一事業所に配属されたと言われたが、たぶん事実であろう。TBSはドラマ制作に力を入れ、「ドラマのTBS」というイメージで、フジテレビは、ピンポンパンなど子供番組がヒット、母と子のフジテレビというイメージで、両局とも快調に業績を伸ばしていった。昭和40年、白黒からカラー放送へ転換していく中、NHKは国営に近い盤石な体制。開局の早かった4チャンネルの日本テレビは巨人戦と力道山のプロレス超二大スポーツ番組の放送権利を保持し横綱級。次に開局したTBSはドラマに挑戦で大関級。次に開局した8チャンネルのフジテレビはやっと幕の内かな?親会社毎日新聞のTBSと産経新聞のフジテレビは今では考えられないことだが手を結び2社で資本折半、TBS51%フジテレビ49%の(株)東通を設立したのである。昭和40年ひかるは第一期生として採用されるのである。(株)東通は当面はTBS、フジテレビに第一、第二事業所を置き、カメラマンや音響、照明VTRスタッフを育てる。将来はカメラ機材やVTRスタジオ、中継車など共有、巨大メディア事業化、日本テレビやNHKの番組まで作る想定だ。しかしお互いがライバル局として見るようになり、第二事業所は、後に100%フジテレビ子会社化していくのである。バブル時、東通の経営陣が、巨額の資金をゴルフ場開発に注ぎ込み、バブル崩壊と同時にあっけなく倒産手続き。新聞紙上を賑わせ、昨日まで崇めていた社長を、今度は社員が放送カメラを持って犯人扱いで追い回すという、考えられない事が起きたのだ。第一事業所配属、同期の連中は、設立当時から心血を注ぎ、大きくした会社が訳の分からない倒産をし、どれ程つらい思いをしたのか、胸が痛む思いである。勿論、会社更生法が適用されているとのことだ。ひかるは、ここでも頭がよくなくて、第二事業所へ回され、幸運だったと胸をなでおろした。カラー放送も軌道に乗り、毎年新入社員が大量に採用され、社内は活況を呈していく。しかしひかるは、冷暖房完備でみんなが好むスタジオの仕事より、外の中継の仕事を自ら好み、王、長嶋選手の活躍していた当時の野球中継、ファイティング原田のボクシング中継、コント55号の萩本欽一とは、関東近辺の公開場をドサ回りをしていた。たっぷり汗をかき、焼き鳥屋で仲間と酒を飲むのが一番の楽しみだ。年々増える社員に、同期の仲間達は、主任、課長、部長へと次々に出世していくが、ひかるには全く蚊帳の外だった。窓際族というよりは、むしろ窓外族だ。課会や部会、全体会議があっても外回りのため全く出席しない、出社しても機材室へ直行、機材をまとめそのまま中継で、帰って来るのが夜遅いから、管理職や上司と顔を合わせる場がないのだ。しかし、上司の批判を焼き鳥屋で聞きながら、自分ならあのような管理職にはなりたくない、管理職はこうあるべし、という脳内トレーニングはしっかりと出来ていたのだ。
2026.05.25
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昭和30年代、NHKに続き、4チャンネルの日本テレビ、6チャンネルのTBS、8チャンネルのフジテレビ、10チャンネルのテレビ朝日、12チャンネルのテレビ東京の順に、民放は開局していった。NHKは、ニュースが主体で、民放は、王、長嶋選手が活躍する野球放送、力道山が活躍するプロレス中継が、横綱的存在の番組であった。世相も、戦後の混乱期を脱しバブルの助走時代、人々は工場で汗、油まみれに働き、野球放送とプロレス放送を見ることによってストレスを晴らしていた。当然まだ白黒放送で、放送時間も、現在みたいに、一日中放送しているわけではない。夜のゴールデンタイムと昼メロが主で、昭和30年代後半になると、朝のモーニングショーがヒットし、その後、午後3時台の番組も放送されるようになったのである。民放では、巨人戦、プロレスの放送権を持つ日本テレビは、後から開局したTBSやフジテレビに比べるとダントツである。TBS、フジテレビは、日本テレビと比べると、横綱と序の口の勝負で、とても歯がたたない。そこで、なんとか日本テレビに対抗出来ないものか、と考えたあげく、手を組み、両社で資本を折半し、カメラマンやオーディオマン、映像マン、照明など、番組制作技術スタッフプロダクションを設立したのである。その会社は東通という会社で、後にカラー放送が始まり、バブルの時代になると破竹の勢いで伸びていく。その後、日通、電通に迫り、日本の3通と呼ばれるまで急成長していくのである。昭和40年、ひかるは、その東通の第1期生として華々しく入社したのである。ひかるが夜学卒業時、求人板には、今の名だたる家電メーカー、東芝や日電(NEC)やソニー、松下など、設計関係や、それがらみの求人が所狭しと並んでいた。テレビ関係の求人はほとんどなく、隅っこに一枚あっただけで誰も振り向かなかった。ひかるは、難なくテレビ界に就職出来たのである。(TV界が、これ程急発進、急展開する事は、誰も予測出来なかったのである)求人広告で目を引いたのは、赤井電気という、中堅企業であった。待遇が、他の会社に比べ、格段に良かったのである。クラスの秀才達は、その赤井電気に殺到した。15年前後、新聞の見出しに、赤井電気倒産の記事を見た時、胸をなでおろした。会社更生法で、存続はしたようであるが、就職した、ずば抜けて頭の良かった友人達の顔が、頭をよぎったのである。ひかるは、さほど頭がよくなくて良かった。幸運であった、としみじみ感じたのである。また、頭がよくなくて良かったと思われるような幸運が、これから先、何度もひかるに訪れるのである。
2026.05.25
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避難場までは、1キロくらいあり、風速70メートルの逆巻く突風は、前後左右から揺さぶって吹き、決して同一方向から、均一的に吹いて来ません。会話は嵐の中へ千切れ飛び、痛い程叩き付ける雨に、目も開けられず、風圧で、息をする事すら苦しく、顔をあげておられません。大人ですら、進むのが困難な状況でした。闇夜の畦道、吹き飛ばされ、足に纏わり付き、やっとの思いで、避難場へ到着。不安な一夜を過ごしました。抗し難い、大自然の力とは言え、コツコツと築き上げた我が家が吹き飛ぶ。翌日からの生活を思い巡らし、家を後にする時、父親の気持ちはどのようなものだったのだろうか。南国の真夏、ほとんど着ることのないオーバーコートを着、荒れ狂う嵐に悠然と立ち向かい、家族を守る。父の背中はあまりにも大きく、凛々しい姿として瞼に焼き付けられ、ひかるが生きていく中、人生の厳しさに背を向ける事なく、前向きに立ち向かい家族を守る。一家の主の姿として生き続けたのだった。また地震や緊急の災害時、持ち出す物は色々有るかと思いますが、オーバーコートが一番役に立つのである。コートを羽織る事により、風雨が凌げ、見通しの良い場所でも、下着などの着替えが簡単に出来、家の役目さえするのです。咄嗟の災害時、真夏でもオーバーコートを持ち出す心の準備が大事かと思います。昨今は、粗大ゴミと陰口される父親像ですが、世の中平和過ぎ、父親の出る幕が少ないからとて、粗末にされたのではたまりません。何か一大事が起きた時、それなりに、毅然として立ち向かい、頼られるのが主の役目。父が教えてくれたのは、単なる防寒具としてのコートではなく、家族を守る覚悟だった。今一度、それぞれの父親像を考えてみる必要が、あるのではないだろうか。
2026.05.25
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台風
2026.05.25
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ひかるが小学校へ入る前の出来事で、瞬間最大風速70メートルくらいはあったでしょうか。大型の台風が、島を直撃。平坦な島は、風圧をまともに受け、遮る物は何もありません。電気は無く、真っ暗闇の真夜中、轟音渦巻く風の音、激しく叩き付ける雨の音、そして、家がギシギシとマッチ箱を揺するが如く、激しく揺れ動いているのに目が覚めました。暗闇に目を凝らすと、父と母が、いつもと違う、重苦しい不安げな顔で天井を見つめ、会話を交わしております。父は「台風は我が家を直撃する。この分だと屋根が吹き飛び、危険なので避難をする」と、ため息を残し、立ち上がりました。母は、「この嵐の中、どうやって避難所まで、行き着くのか」と怯え声で言いました。(台風は目に向かって、左回りに風が吹き、一点にいて、刻々変わる、風向きと風力で、台風の目がこちらへ向かって来るのか、逸れて行くのか判断出来ます)具体的に北東の風が東になり、時間経過で強まり北東の風に戻ってきた場合、間違いなくこちらをめがけ直撃体勢に入っている事になります。父が、オーバーコートを出すよう、指示。風があるとは言え、南国の汗ばむ真夏。なぜ、オーバーコートが必要なのか?雨具代わりに使うのだろうか?答えはすぐ、出ました。母が大事にしまってある、一着しか無いオーバーコートを出すと、無造作の中にも襟元をきつく絞り、ベルトをしっかり締め、子供達は両方の裾に掴まるように言われました。初めて見る、父のオーバーコート姿でした。
2026.05.25
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私ひかるが南の島へ帰郷した際、ある85歳のおじいちゃんと、ゆっくり話をする機会がありました。おじいちゃんは、10人もの子だくさんで、孫やひ孫を数えると、40人は、いるとのこと。子供たちは、高校がないので、一度島を離れますが、もう二度と島には帰って来ません。おばあちゃんと二人きりは、淋しそうに見えるのですが、私は一番幸せ者だと自慢。事実、温和な丸みのある、幸せが滲み出ているのが感じられます。何でそれ程までに、幸せを周りに放射出来るのだろうか?体力的には庭の散歩がやっとで、寝ている時間が大半のおじいちゃん。不思議な力を感じ、その場を離れるのがもったいなく、ついつい色々な話をし時を過ごしてしまいました。「今にも天国から、迎えが来るかも知れない」と平気でしゃべっている姿からは、死に対する不安が微塵も感じられません。どうしてなのだろうか?話を聞くと、おじいちゃんの人生は、子だくさんのため苦労は多かったが楽しみも多かったとのこと。子供たちの結婚や出産、名前を覚えること。進学や就職などの便りや写真が、脳内いっぱいに詰め込まれていたのです。そして、脳内に詰め込まれた、写真やストーリーを寝ながらでも、瞬時に引き出し、何回でも再現。毎日が映画を見ているように、楽しく過ごしていたのです。そうです、脳内に焼き付けられた人生のアルバムは、お金もかからず体力も使いません。いつでも、瞬時に引き出し、何回でも楽しむ事が出来るのでした。若い時代、多くの素敵な出会いや恋をし、色々な所へ行き、苦労もいとわず冒険もし、多くのシーンを脳内に焼き付けておく事が、老後をより楽しく、幸せに過ごす秘訣ではないだろうか。若い時代、人生のアルバムを、脳内いっぱいに貯金し、周りの人々へ、幸せ貯金を放射出来る年寄りになりたいものです。そのおじいちゃんも、人生を全うした、との便りを受け、ひかるは幸せエネルギーの放射を、体一杯受けられ、最高の出会いだったと感謝しています。
2026.05.24
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上京直後、組み立て配線工として働いていた時、またまた大失敗です。昼食には、出前をとっていました。食べ物の名前は初めて聞くものばかりです。周りの注文を見聞きしながら覚えていこうと考え、真似をする事に決めこみました。初日は、天丼、ラーメン、チャーハン、焼飯と、みんなが注文するのを聞き、唯一知っているメニューで、焼飯を注文。その日は、無事に何事も起こりませんでした。翌日、例によって皆が注文をした後、中身は知らないけど、しゃれた名前なのでチャーハンを注文。皆が取った後に残った物が、チャーハンだろうとの考え。待っていると、残っているのは前日と同じ焼飯。「誰か注文を間違えた人はいませんか!?」と大声で聞きました。誰も間違えていないとの事。「君、何を注文したのだ?」と聞かれたので、「誰か注文を、間違えているはずです。私は間違いなく、チャーハンを注文したのですが、焼飯しか残っていないんです!」皆が、食べ物を一斉に吹き出してしまいました。「この男、笑わせてくれるではないか!」と今なら言えますが、当人は何で笑われたのか、皆目見当がつきません。訳を聞くと怒られ「お前、それでも日本人か?」と言われた時には頭に来て、むかつきました。当時はパスポートを携えての身分で、沖縄人が一番聞きたくない言葉で切れる瞬間。しかし、そこは忍々の人生修行の場。焼飯とチャーハンは、同じだったのでした。カラスの、白け鳥!失敗談には事欠かず、西武新宿線の「田無」に用事が有り、切符売り場で「デンブ」ください、と言うと怪訝な顔をされ、ニタッとした後、そんなものは無いと、そっけない返事。からかわれているような気がし、田舎っぺ根性ふつふつ、むらむら。二言、三言やりあいましたが、読み方が「たなし」だと言われ、開いた口が、塞がりません。日本国教育を受けた人がいきなりこの二文字を見せられ、たなし、と読む人はいるのかな?以後、地名や人名には注意をするようになりました。恥は、かけばかくほど、度胸が付きます。大いに、恥はかきましょう。罪のない恥を・・・・
2026.05.24
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焼き飯
2026.05.24
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前席の女子高生だと思われる女の子が、あれ~と甲高い声を出し椅子を軋ませ逃げ出す。周りの客は、針でつっつかれたかの如く、一斉に注目。見るとテーブル上は運悪く、ツユが前の方へ流れています。娘が飛んで来て、ツユを拭き、お客に謝り、調理場からもう1本ツユを持って来ました。こぼしたものと勘違いをしたのです。さて、2本目です。どうするか??あまりの出来事に、多くの客も、野次馬気分で立ち上がっての見物。前の女子高生はすでに避難し、どうしてよいのか分からず、恥ずかしさと冷や汗。当人は完全に、舞い上がっています。店全体の視線を一身に受け、仕方なく、そばを一本ずつ、ツユに浸しながら食べていると、隣の客が親切に教えてくれましたが、時すでに遅し。周りの雰囲気からして、何が何だか食べた気がしません。さて、次は下のご飯だぞ!はやる気持ち、ぎこちない手つきで、すのこを取りました。何だ、これは!カラッポではないか!大盛りに盛られた、どんぶり飯を期待していただけに、裏切られた時の腹の立つ事、立たない事!娘を呼びつけ、「これは、おおもりではない!」と一喝。田舎ものだと馬鹿にされないぞ、だまされないぞ、という剣幕で劣等感が爆発したのです。親切に、ツユのお代わりまでしてくれた娘は、あっけにとられ、精神異常者ではないか、という恐怖の眼差しで、奥の方へ逃げていきました。周りの雰囲気は、皆さんの想像にお任せしましょう・・主人が出て来たので、一言、二言文句を言いました。日曜日の昼の混雑時、主人はケンカも出来ず、呆れ果てるばかり。ひかるは、上げ底メニューで客をだます、悪徳食堂の悪徳主人に客を代表して文句を言ってやった、思い知らせてやったと、正義感に燃え、肩で風を切り、堂々と店を出て行きました。「神様! この男に罪はない、単なる無知だ! 救いの手を・・・・・・・」お店の皆さん、ごめんなさい!
2026.05.24
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おおもり
2026.05.24
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だけどいいや・・・おそらく、そばの下に、ご飯がたっぷりあるだろうと、一人合点し、空腹から湧き出る食欲と、生唾を飲み込む。さあ、食べようか!初めての食べ物、食べ方が分かりません。おおもりの下に、お盆があるのですが、隣の客には敷いてありません。注文を運ぶお盆を忘れ、そのうち取りに来るだろうと気を使い、お盆を横に置き、器を直接テーブルに置きました。更に、ツユ壺の上にツユ入れが被せてあるのに、それが分からず悲劇の始まりだった。徳利(とっくり)のようなツユ入れが、猪口(ちょこ)の上に逆さまに重なっているが、フタだと思い、伏せたままお盆の上へ置きました。さて、その後どうやって食べるのか?ハシでツユを確認。そばを1本1本、ツユ壺に入れて食べるのか?試しに1本やってみましたが、どうも具合が悪い。腕組みをし、しばらく考えました。どうしても、周りの視線が気になります。過疎の村で外食とは関係なく育ったひかる、食事作法を知らずオロオロ上目遣いに周りを伺う様子。自信のない人は、特に目立ち過ぎます。思案の末、見事な閃き。ツユを上からかければ、その下にあるはずのご飯にも味が沁み込み旨いだろう。そうやって食べるんだと考え、思いっ切り、バサーとかけてしまったのです。
2026.05.24
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毎日が、ひもじい思いをし、夢にまで食べ物が出てくる上京当時の出来事。一度でいいから、腹一杯ご飯を食べてみたい、という願望を叶えるべく、アルバイトのお金が初めて入った時、思いっ切り食べようと心に決め、外食をすることにしました。子供の頃から、外食の経験がなく、今日は腹一杯食べられる。自分の稼いだお金で、思いっ切り食べよう、という期待に胸をはずませ店に入りました。日曜日の昼時で、ほぼ満席の状況。何を食べようか?壁に貼ってあるメニューを、ひと通り往復して見ました。だいたいのお客は、椅子について注文を考えます。壁の前をウロウロし、しかも顔色が浅黒く、栄養失調ぎみの飢えた目。変な男が入って来た、と他の客が注目しているのは視線で感じられます。女子高生と思われる、女の子二人との相席でした。店は、母親と娘なのでしょうか、中学生くらいの女の子が手伝っておりました。メニューで一番、腹いっぱいになりそうなのは、読み方からして「おおもり」でした。注文をし、どうも周りの視線が興味深げに、じろじろと、ひかるを見ているのに嫌な予感。程なく「おおもり」が来ました。ひかるの考えでは、「おおもり」といえば、どんぶりに、大盛りに盛られた、どんぶり飯を想像していましたが、目の前に出てきた物は、意に反する物。
2026.05.24
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早速、翌日から職探し。皿洗いや組み立て配線工、自転車での配達等経験しましたが、日給が500円程度と安く、生計を維持するには無理がありました。そこで日給800円で、なんとか生活可能なトラックの助手の仕事を見つけ、会社の寮へ入れてもらいました。毎日、鈴や亜鉛のインゴットを満載し配達回りの力仕事でしたが、運転手は荷物には何一つ手をつけず、栄養不足と睡眠不足の体には過酷な仕事でした。過労の為なのだろうか。腰がふらつき、時々めまいが襲います。作業中、荷物に指をはさみ、潰してしまいましたが病院へ行く金もなく、休めば食べていけません。潰れた指を手袋で隠し、なにげない様子で翌日も働き続け、あまりの痛さに指が腐るのではないかと、心配でしたがいつの間にか治りました。人は過酷などん底生活の中、己の体につけた傷跡や心に染み込んだ教訓は、生涯忘れられません。今でも辛い時は、傷跡を見、あの時の痛かった事、情熱をぶつけて頑張っていた時の事を思い出しながら過ごしており、以後、どのような試練が襲いかかろうとも耐えていける、という自信がついたのは、大きな財産になりました。都内は交通渋滞で、定刻に会社へ戻れません。神田の会社から蒲田のテレビ専門学校迄、駅の改札やホームを一目散に走りまくります。一分一分が大事で、泥棒が逃げ、走りまくっているように見えた事でしょう。夕食の時間がなく、15分間の休憩時間に食堂へ走ります。食堂のおばさんが、私の駆け込みを知っていて、食事を用意してあり、それを胃袋に流し込み、寮へ帰ると12時、このリズムが続きました。休みの日は、街頭テレビを見るのが唯一の楽しみ。どんなに辛くても、魔法の箱の中身は必ず解明しようと自分に言い聞かせ、無事卒業。何としても、テレビの仕事に就きたい。一途な夢は、番組制作技術プロダクション(株)東通、後に八峯テレビ、現フジメディアテクノロジーに入社し実現しました。面接試験時、身元保証人が本土にいない事を指摘され、保証人ではなく本人を信用して欲しいと要請。採用は無理かと思いながらも寒い中、郵便受けの前で待ち続け採用通知を受けた時の喜びは、天にも昇る思いでした。そして辛かった過去を振り返り、何時もはパンの耳をふやかして食べる食器代わりのコップ酒、一人でしみじみ飲み干しました。別れの杯を交わした、父の顔がはっきり浮かんできます。後戻りは出来ない!前へ進むしかない!
2026.05.23
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現在の飽食の時代、パンの耳で過ごす事等、考えられないかも知れませんが、日記に昭和40年当時の状況を見る事が出来ます。・・3月29日、月曜日今日は朝から会社は休み、給料日は目の前だけどどうしても金が不足。しかたないので、電子工学、図解パルス工学、電気回路論の3冊、2000円相当を古本屋に売りに行った。売りたくない気持ちは山々、そうかと言って飯を食べずに過ごす訳にもいかない。ある一軒の古本屋に入り、買ってくれと頼むと、今はその本ありますから、との事でこの本屋を出る。この場に成って自分ではよく分からない程の本に対する未練が出てきて、そのまま帰る事にした。やっぱりどんな事があっても、参考書だけは、今後売るような事はしないようにしよう。仕方ないので、今日は朝から食パン1個で1日中過ごす。腹の虫がグーグー鳴っている。ペンさえも、いつもと違いふらふら千鳥足。残る2日間の我慢だ。明日の仕事は元気でいこう。12時記す・・私にとって、パンの耳は本当の命の源で、どれ程有難いと思った事か。1日をパン1個で過ごした日が、どれほどあったのだろうか。絶えるかもしれない、命の恐怖に何かを残したい、毎日の行動を記録し、自分を励まし耐えたのです。そして、生命力の強さ、偉大さをつくづく痛感させられました。上京時、父はやっとの思いで1万7千円のお金を用意してくれました。当時は、高校卒業の初任給が1万7千円くらいでしたので、1カ月以内に底をつくのは目に見えており、急いで働かなければ、夜学は続行出来ません。
2026.05.23
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今考えると栄養状態は極度に悪く、凍死寸前の状態だったのです。食べ物が欲しい・・。着るものが欲しい・・。誰か話し相手が欲しい・・。頼る人が一人でもいてくれれば・・・お金はみるみる底をついて行き、孤独、辛さに、このまま生き続けられるのだろうか?不安のどん底に陥りました。父が、やっとの思いで作ってくれたお金、周りの反対を黙って押し切ってくれた事、あの拗ね顔を思い出すと、おめおめと島へ戻る訳にもいかず、自分自身が情けなく、疲れ果てたある日、一人で天井を見つめ、孤独を噛みしめながら、何気なく手を胸に当ててみました。「なんだ、これは!」思わず、声が出ました。これだけ辛い思いをし、苦しく悲しんでいるはずなのに、鼓動は平常通り、何事もなく、すがすがしい響きで脈を打っていたのです。身も心も一心同体、体全体で苦しんでいるはずが、孤独、寂しさ、辛さは、精神だけの問題にすぎず、鼓動は平常通り淡々と打ち続ける。私にとっては、生まれて初めての悟りで、自分の精神がいかにひ弱なのか、情けなくなりました。強い心が欲しい・・よーし、生き延びて見せる!自分にとって、後戻りは出来ない。辛くても前へ進むしかない。こう心に固く誓いました。以後、生涯、精神と鼓動の葛藤が続くようになったのです。後の鼓動哲学、原点は二十歳の悟りでした。
2026.05.23
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昭和38年、私、ひかる19歳。パスポート持参で貧しい中での上京。昭和20年から47年、第二次世界大戦の後沖縄は米国統治下にあった。頼る人もなく、バイトに夜学。バイトの金が入るとラーメンを箱ごと買い込み、コッペパンとの連続。食べ物さえ確保するのが大変な時期でした。いつものパン屋へ行った、ある日の出来事。鏡に映った自分の顔色は浅黒く頬は痩せこけ、お店のおばちゃんの目には、明らかに上京したての半端でない田舎顔に見えたでしょう。手はズボンのポケットへ入れ、十円玉を数え、買えるかどうか思案中。目は卑しくも買えるはずのない、美味しそうなケーキの方へ行ってしまいます。一度でいいから、ケーキなる物を食べてみたい・・しかし金がない。空腹、みじめ・・飢えた目で周りのパンをキョロキョロ見ている姿、気の毒に思えたのでしょう。おばちゃんが、他の客がいないのを見計らい、紙袋をそっと渡してくれました。部屋へ帰り開けると、食パンの耳でした。他人様から初めて貰った食べ物、心から有難いと感謝したのは言うまでもありません。早速、コップに水を入れパンの耳を浸して食べる。これで一食分助かった。翌日もパンの耳が貰え、コッペパンを買わずに済んだ分、今度は牛乳を買いました。牛乳にパンの耳を浸して食べるのです。水とは違いとろりとした味わい、思わず美味い!更に初めての冬は心身共に堪えました。常夏育ち、冬用の下着や衣類はなく、敷布や毛布もありません。畳の上に、掛け布団一枚で寝る始末。安アパートの為、隙間風は自由に往来。明け方はとても寒くて眠れません。空腹だけでなく、寒さもまた敵でした。少しでも体温を逃さないよう膝を抱え込み、体の表面積を最小限にし、ガタガタ震えているだけ。猫の気持ちがよく分かりました。
2026.05.23
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大勢の人が行き来し、ビルへ吸い込まれていく様子を見た時、これはアリンコの世界だと直感。家の庭に数えられないくらいのアリ達が、それぞれの巣を作り、せっせと働き、食べ物を蓄えていた姿にそっくり。東京の人々が一段と小さく見え、何で人間がアリンコになってしまうのだろうか、と考えさせられました。そして翌日、魔法の箱としか思えないテレビを一刻も早く見たいと、早速新橋駅前の街頭テレビを見に行きました。黒山の人だかりで、全ての人がテレビの力道山プロレス中継一点に集中。確かに、プロレスは別の場所で行われ、テレビにはそれが映っているのです。夢にまで見続けたテレビ、魔法の箱ではなかった。そして力道山の空手チョップに群衆が熱中、地響きを起こし興奮している姿を見た時、テレビに挑戦しても間違いではないと確信。夢は大きく膨らんでいったのです。見果てぬ夢がある限り、命を張って生きてみよう。いつの日か、我が家で映画が観られる時が来る・・と。(若い人には、街頭テレビが理解出来ないかと思いますが、60年前、テレビは超高価で各家庭にはまだ普及しておりませんでした。大きな駅前に競馬場の場外モニターの如く設置され、庶民はそれでテレビを楽しんでいたのです。当時はブラウン管で画像が薄く昼は周りが明るく見えません、暗い夜街頭テレビは見えます)
2026.05.23
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急に走り出す事を全く想定していなかったので、心の準備が出来ておりません。いきなりバランスを崩し「どうなっているんだ! あー あ~!」と見事に転倒。瞬間、恐怖と驚きで頭の中は大パニック、「止めろ! 止めろー!」と絶叫してしまったのだ。周りは何事が起きたのか、と一斉に注目、総立ちになりました。昔の電車、急発進、オーバーランは日常茶飯事。電車は何事もなく走り出しているのです。四つん這いになり、起き上がる時、総立ちで見ている人々の視線の冷たさ。田舎者! バカ! トンマ! いい加減にしろ! と言いたげな視線は、今でも忘れられません。車内の今にも吹き出したい気持ち、我慢しながら見ている視線を一身に受け続ける事は、なんとも気まずいもので、恥ずかしさを通り越し、居たたまれない雰囲気。追われるように次の駅で飛び降り、後続電車に乗り換えました。また、右を向いても目、後ろを向いても目、だらけ。東京の人の多さには、これまたびっくり、超たまげ~島の住人は、二百数十人程度でほとんどの人が顔見知り。例え知らない人でも、道ですれ違う時は挨拶を交わしながら、すれ違います。東京の人、一人一人に挨拶をしていたのでは前へ進めません。挨拶は止めました。
2026.05.23
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発電車(徳島の読者より我が県に電車が無い、沖縄にはモノレールが有るとの指摘。ひかるが上京時、沖縄本島にでもモノレールはなかった)
2026.05.23
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昭和38年4月、一週間も船に揺られやっと東京晴海港着。当時の沖縄は米国統治下、パスポート持参、勿論飛行機は飛んでおりません。上京にはどうあがいても一週間必要でした。沖縄は電車のない県ですが、島には車や耕運機すらなく自転車すら数台しかありませんでした。当然お金持ちしか自転車は持てなかった。電車という乗り物は初めての体験。けたたましく責め立てるベルに、前の人に連れられ急いで乗り込みました。すると、あまりにもタイミング良く待っていたかのように、ゴロゴロとドアが背後で閉まったのです。生まれて初めて見る自動ドア。好奇心旺盛な少年は、ドアに目が付いているはずだ。ドアの目がどこに付いているのか、と探しておりました。次の瞬間、電車は走り出したのです。自然の息吹と共に伸び伸びと育った、少年の初めての電車。
2026.05.23
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